(…ぼくって、嫌な奴だ…)
本当に嫌な奴だよね、とシロエが抱えた自分の膝。
E-1077の中の個室で、自分の部屋で。
灯りを控えめに落とした部屋。
其処のベッドで、まだ制服は着込んだままで。
着替えようかとも思ったけれども、此処での私服は与えられたもの。
自分の好みで選べるとはいえ、マザー・イライザが職員に託して寄越すもの。
制服とあまり変わりはしない。
どちらも機械が関わって来るし、此処に来る前とは全く違う。
これが故郷なら、母が選んでくれたのに。
「こんなのはどう?」と買って来てくれて、「似合うわね」と言ってくれたのに。
今は顔すら霞んでしまった、はっきりとは思い出せない母。
けれども、母が買ってくれた服、それは確かで間違いないこと。
此処では機械が寄越すのに。
制服も私服も、全て機械が人に命じて、部屋まで届けさせるのに。
だから大して変わらない。
制服だろうが、私服だろうが。
(……機械なんか……)
どれも嫌いだ、と憎くてたまらない機械。
マザー・イライザも嫌いだけれども、記憶を消してしまった機械。
「捨てなさい」と命じたテラズ・ナンバー・ファイブも、絶対に許しなどしない。
成人検査がどんなものかも、まるで知らなかった目覚めの日。
あの日を境に世界は変わって、子供時代も故郷も消えた。
大好きだった両親が暮らす、エネルゲイアに在った家。
其処から引き離されてしまって、何も残りはしなかった。
子供時代の記憶を奪われ、こんな所に放り込まれて。
エリート育成のためのステーション、E-1077に連れて来られて。
SD体制の要になる者、エリートたちを育てる最高学府。
それが此処だと聞かされたけれど、教えられても来たのだけれど。
(……来たくなかった……)
両親や故郷と引き換えにするだけの価値は、自分には見付けられないから。
同級生たちは「来られて良かった」と口にするけれど、故郷の方がいいと思うから。
機械に消されて、ぼんやりとなった記憶の中でも懐かしい故郷。
顔さえ思い出せなくなっても、会いたい気持ちが募る両親。
あのまま故郷で暮らしたかった。
エリートなどにはなれなくても。…地球に行く道が閉ざされても。
(…ネバーランドだけで良かったのに…)
幼い頃から夢に見た国、子供が子供でいられる世界。
辿り着くことは叶わなくても、ずっと夢見ていたかった。
…こんな現実が来るのなら。
機械に記憶を消された上に、監視される世界に来るくらいなら。
(…一生、辿り着けないままでも…)
ピーターパンと一緒に空を飛ぶ夢、それを持ち続けていたかった。
いつかはネバーランドへと。
ピーターパンが迎えに来たなら、高い空へと舞い上がるのだと。
(…二つ目の角を右に曲がって…)
後は朝までずっと真っ直ぐ。
そうすれば行けるのがネバーランドで、行き方だけが残った手元。
ピーターパンの本だけは持って来られたから。
今も膝の上に乗っているから、膝を抱えれば抱き込めるから。
「此処にあるよ」と、大切な本を。
両親に貰った宝物の本を、此処まで一緒に来てくれた本を。
たった一冊の、古ぼけた本。
それしか残ってくれはしなくて、それを頼りに思い出す故郷。
この本を家で読んだ筈だと、両親だっていたのだと。
何もかも全部本当のことで、けして幻ではなかったのだと。
…二度と戻れはしない過去でも。
今の自分には戻れない場所で、手を伸ばすだけ無駄だとしても。
(…それを平気で手放すだなんて…)
どうして故郷を、家を手放せたのだろう。
「此処に来られて良かった」と言う者たちは。
自分と同じに此処へ来た者、エリートを目指す同級生は。
信じられない思いだけれども、上級生たちを見れば分かること。
「そちらの方が普通なのだ」と。
誰も過去にはこだわりが無くて、見ている先は未来だけ。
地球に行こうと、出来るものならメンバーズ・エリートに選ばれたいと。
輝かしい道を掴み取ろうと、きっといつかは手に入れようと。
…過去も故郷も、何もかも捨てて。
自分を育ててくれた養父母、その記憶さえも捨ててしまって。
(みんな機械の言いなりになって…)
監視されていても、命令されても、誰も不思議に思いはしない。
相手はコンピューターなのに。
人間ではなくて、ただの機械の塊なのに。
(…機械は答えを弾き出すだけ…)
プログラム通りに計算するだけ、その通りに思考してゆくだけ。
人間のように生きていないし、感情などもあるわけがない。
なのに、誰もが懐いてゆく。
まるで本物の、生きた母親がいるかのように。
自分を育てた親の代わりに、マザー・イライザが現れたように。
そうなってゆく者を何人も見たし、こうする間にも増えてゆく。
一人、また一人と増えてゆくのが「マザー牧場の羊」たち。
いつから彼らをそう呼んでいたか、呼び始めたかは忘れたけれど。
それは些細なことだけれども、自分は混ざれない羊たちの群れ。
マザー・イライザが、機械が与える牧草などは食べられないから。
とても口には合わないから。
口に合うどころか、自分にとっては毒草と言ってもいいくらい。
一度食べたら、きっと全身が麻痺してしまう。
心も身体も損ねてしまって、きっと自分はいなくなる。
他の者たちと全く同じに、マザー牧場の羊になって。
両親も故郷も捨ててしまって、マザー・イライザの望み通りの羊。
なまじ成績がいいものだから、それは素晴らしいメンバーズ。
そんな存在、自分でも気付かない内に。
ピーターパンの本も、両親のことも、故郷もいつしか忘れ果てて。
(……そんなの、嫌だ……)
絶対になってたまるものか、と噛んだ唇。
同級生たちのようになりはしないと、何としてでも踏み止まろうと。
たとえ誰もに背を向けられても、孤立してゆくだけであっても。
…とうに、そうなり始めているから。
彼らと同じに歩けはしなくて、行く先々で衝突だから。
(…みんなと同じに考えるなんて…)
出来はしないし、やりたくもない。
皆が等しく仲間だろうが、そうだと教えられようが。
手を取り合えと、全ての者たちが「地球の子」なのだと、背を押されようが。
(…ぼくには、とても出来っこない…)
皆と同じに生き始めたなら、破滅するしかないのだから。
機械が与える毒の牧草、それを食べたら、自分は消えてしまうのだから。
嫌だ、と抱え込んだ膝。…丸めた背中。
「ぼくは同じになれやしない」と。
どんなに孤独で独りぼっちでも、自分を失くしたくはない。
マザー牧場の羊は御免で、選ぶのは皆と逆の生き方。
機械が「右へ」と命じるのならば、左へと。
「手を取り合いなさい」と促すのならば、手を振り払う方向へ。
そうしていないと、流されるから。
自分でも全く気付かない間に、毒の牧草を食べてしまうから。
(…それが機械のやり口なんだ…)
成人検査で思い知らされた、機械の手口。
何も知らなかった自分を捕えて、消してしまった記憶と故郷。…かけがえのない両親さえも。
たった一冊の本を残して、消えてしまった本当のこと。
エネルゲイアで生きていた子供、あそこで育ったセキ・レイ・シロエ。
だから機械は、これからもやる。
自分が隙を見せたなら。
マザー牧場の羊たちと一緒に、餌場に姿を現したなら。
言葉巧みに誘い出すのか、無理やりに口を開けさせるのか。
どちらにしたって、毒の牧草を食べさせられることだろう。
…全てを忘れ去らせるために。
とびきり上等のマザー牧場の羊、メンバーズ・エリートになれる羊を作り出すために。
(…一緒に行ったら、おしまいなんだ…)
羊になってしまった者と。
いつか羊になるだろう者や、半分羊になっている者。
そんな者たちと一緒にいたなら、きっと自分も羊にされる。
「丁度いい」と機械に捕まえられて。
機械の手下の羊飼いたち、彼らに餌を食べさせられて。
(絶対に嫌だ…)
ぼくは羊になんかならない、と抱える膝。
両親のことを忘れはしないし、育った家も、懐かしい故郷も忘れない。
ピーターパンの本を抱えて、このまま取り残されたって。
上等な羊になり損なって、マザー・イライザに嫌われたって。
(…羊になりたくなかったら…)
けして餌場に近付かないこと。
「一緒に行こう」と誘う者たち、餌場に行く仲間を作らないこと。
油断したなら終わりだから。
誘った仲間に悪気が無くても、結果が全てなのだから。
「いいよ」と一緒に出掛けたが最後、「シロエ」はいなくなるかもしれない。
両親が、故郷が、ピーターパンの本が大切だった、今のシロエは。
何もかも全部捨ててしまった、別のシロエになるかもしれない。
毒の牧草を食べたなら。
知らずにウッカリ食べてしまうとか、餌場で無理やり喉の奥へと突っ込まれて。
(そんなの、嫌だよ…)
自分がいなくなるなんて。
…別の自分になってしまって、両親も故郷も忘れるなんて。
その方が正しい道だとしたって、楽に歩いてゆくことの出来る道だって…。
(…ぼくは行かない…)
羊たちと一緒に行きたくないから、振り払うしかない仲間。
「みんな嫌いだ」という顔をして。
友達なんか要りはしないと、欲しいと思っていやしない、と。
羊と一緒にいたら終わりで、いつか餌場に行くだろうから。
自分でもそれと気付かないままで、毒の牧草を食べる日が来てしまうから。
分かっているから、振り払う。
同級生たちは悪くなくても。
マザー・イライザに、機械に騙されただけの、ただの善良な羊でも。
(…ぼくを餌場に誘うから…)
誘いそうだから、嫌いなふりをするしかない。
「いい奴なんだ」と分かっていても。
懐かしい故郷にいた頃だったら、友達になれたような者でも。
羊と一緒に過ごしていたなら、きっと訪れる破滅の時。
それを避けるには嫌うしかなくて、端から払いのけるしかない。
「嫌な奴だ」と思われても。
…「なんて奴だ」と嫌われても。
自分でも「嫌な奴だ」と思うけれども、そうしないと身を守れない。
毒の牧草から逃げられない。
(……パパ、ママ……)
ぼくはみんなに嫌われてるよ、と零れる涙。
きっとパパたちもビックリだよねと、「シロエはこんな子じゃない」と。
けれど他には道が無いから、今は鎧を身に纏うだけ。
羊たちに近付かないように。
一緒に餌場に出掛けないように、独りぼっちで立ち続けて…。
身を守る鎧・了
※子供時代は可愛かったシロエが、生意気なシロエになってしまった理由。
今でも中身は同じなのにね、というのを真面目に書いたら、こういう話になっちゃいました。
「そうだわ、これ…。約束の」
スウェナに手渡された大きな封筒。「じゃあね、サム」と立ち去る前に。
(…これが…)
シロエからのメッセージなのか、と見詰めたキース。
スウェナが前に言った通りなら、自分宛だというメッセージ。
(…この重さなら…)
それに大きさ、中身は多分、予想通りのものだろう。
シロエが大切に持っていた本。子供時代からのシロエの友。
(ピーターパン…)
これが、と腰を下ろしたベンチ。
さっきまでスウェナも座っていたベンチ、今はサムとの二人きり。
(…あの本だ…)
中身はそうだ、と開いて出そうとしたけれど。
其処で止まってしまった手。
「ピーターパン」と書かれたタイトル、それが現れた所あたりで。
…何故なら、本は焦げていたから。右上の方が、黒く無残に。
それに端の方が破れてもいた、シロエが大切に持っていたのに。
シロエだったら、こんな風に本を損ねるようには、扱ったりはしないのに。
(……シロエ……!)
本当に私宛なのか、と見開いた瞳。
きっと何かの間違いだろうと、この本は自分宛ではないと。
本全体を取り出してみたら、確信に変わっていた思い。
(…シロエ……)
そんなにも大切だったのか、と。
この本を持っていたかったのかと、失いたくない本だったかと。
あちこちが焦げて、破れたりして、無残な姿になっている本。
遠い日のシロエの宝物。
(…この本だとは思っていたが…)
シロエが何かを残したのなら、キーワードが「ピーターパン」ならば。
けれども、焦げて破れている本。
かつて見た本は、ただ古びていただけだったのに。
シロエと共に在った年数、それを示していただけなのに。
(…あれより、幾らか…)
過ぎた歳月、十二年分だけを経た本が来ると信じていた。
目にするものは、それだと思った。
廃校になったE-1077、その中の何処かに眠っていたのが見付かったのだと。
今は政府の関係者すらも、簡単に入れはしない場所でも。
(…だが、これは…)
この本は其処に在ったのではない。
E-1077で見付かったのなら、何処も焦げてはいないだろうから。
十二年分の歳月だけを映した本の筈だから。
なのに、本には焼け焦げた跡。
シロエが見たなら、きっと悲しむことだろう。
「ぼくの本…」と。
どうして焦げてしまったのかと、破れているのは誰のせいかと。
きっと瞳から涙を零して、ギュッと両腕で抱き締めて。
…遠い昔に、そうしたように。
追われるシロエを匿った時に、目覚めて直ぐにしていたように。
「ぼくの本…!」と胸に抱き締めたシロエ。
自分の視線に気付くまでの間、それは幼い子供の顔で。
シロエがやった、と直ぐに分かった。
この本が何処からやって来たかも、どうして焦げてしまったのかも。
(……ピーターパン……)
逃げるシロエの船を追う時、通信回線の向こうで聞こえた声。
ポツリポツリとシロエが語り続けた、ピーターパンの本に書いてあること。
(…あれはシロエの記憶ではなくて…)
記憶していた本の文章、それを語っているのだと思った。
あの船を追っていた時は。
後には考え直したりもした、「あれは音読だっただろうか?」と。
ピーターパンの本と一緒に、シロエは宇宙(そら)へ逃げたのかと。
本を絶え間なく読み続けながら、宇宙を飛んで行っただろうかと。
(…私宛のメッセージだと聞いて…)
あの本だろう、と考えた時に、あっさりと捨ててしまった仮説。
「シロエは本と一緒だった」という仮説。
ピーターパンの本があるなら、シロエが読んでいた筈がないから。
シロエと一緒に在った本なら、残っている筈が無いのだから。
(……撃ったんだ……)
この手で、シロエが乗っていた船を。
左手で合わせたレーザー砲の照準、発射ボタンを親指で押した。
そしてシロエは宇宙から消えた、レーザーの光に焼き尽くされて。
もう本当に一瞬の内に、溶けて蒸発しただろうシロエ。
「何か光った」と思う間もなく、跡形もなく。
髪の一筋も、血の一滴も、何一つ残さないままで。
(…シロエの姿が残らないのに…)
もっと弱くて燃えやすい本、紙の本が残るわけがない。
本があるなら、シロエはそれを持って逃げたりはしなかった。
E-1077に置いて去ったと考えたのに…。
(……シロエ、お前は……)
こんなにも大切だったのか、と見詰めたピーターパンの本。
自分の身よりも本を守ったかと、命よりも大切な本だったのか、と。
レーザー砲に焼かれながらも、この程度で済んだ本の損傷。
それがシロエの意志だったから。
「ぼくの本…!」と、あの日、抱き締めたように、きっとシロエが抱き締めたから。
この本だけは、と。
大切な本で、守りたい宝物だから、と。
(…どうして自分を守らなかった…!)
お前は馬鹿だ、と涙が溢れそうになるのを堪える。
此処で自分は泣けはしないし、膝の上にはサムが頭を乗せているから。
感情の乱れを外には出せない、もうじき部下もやって来るから。
(…シロエ……)
そう、じきに現れるだろうマツカ。
ペセトラ基地で出会ったマツカも、シロエと同じにMだから分かる。
彼に命じたサイオン・シールド、それで自分は生き延びたから。
ミュウの追手から逃れたから。
(…やったことが無い、と叫んだマツカにも出来たんだ…)
Mが、ミュウが使うサイオン・シールド。
爆発から身を守れるもの。
実験で何度も目にしていたそれを、自分自身が体験した。
「凄いものだ」と、「やはり化け物」と。
シロエも、きっと同じにやった。
レーザー砲を撃った瞬間、本を守ろうと。
大切なピーターパンの本をと、シロエが展開したろうシールド。
…自分を守れば良かったのに。
ピーターパンの本を抱えて、自分ごと守れば助かったろうに。
(…マザー・イライザ…)
今だから分かる、あの日、イライザが命じたこと。
シロエの船を撃ち落とした場所、其処へと船を向けさせたこと。
(…シロエが爆発から逃れていないか……)
それを確かめさせたのだ、と。
イライザは知っていたのだから。
シロエはMだと、ミュウならば生き残ることもある、と。
上手くシールドを展開したなら、船が微塵に砕けた後も。
レーザー砲で焼かれた後にも、シロエは宇宙に浮いているかもしれないと。
(…どうして、本だけを守ったんだ…!)
お前は馬鹿で、大馬鹿者だ、と叫びたいけれど、これが結果で、残ったのは本。
シロエが上手くやっていたなら、きっと生き延びただろうに。
もしも宇宙に浮いていたなら、あの時、発見していたとしても…。
(…マザー・イライザには、何も見なかったと…)
戻って報告していたろう。
どうせシロエは死ぬのだから。
漆黒の宇宙に浮いていたって、何処からも助けは来ないのだから。
けれど、自分は知っている。
今の自分は、その後のことを聞かされたから。
「鯨」が目撃されたこと。
シロエの船を撃った場所から、そう離れてはいない所で。
「鯨」はMの、ミュウたちの母船。
それがいたなら、シロエを救いにやって来た筈。
彼らは気付くだろうから。
Mの仲間が宇宙にいると、生命の危機に瀕していると。
助かり損ねてしまったシロエ。
本を守って、自分は散って。
もう少しばかり、シロエが自分を大事にしたなら、大切に思っていたのなら。
(…本だけではなくて…)
シロエも助かっただろうに。
Mの母船に、鯨に救われ、彼らと共に去っただろうに。
(…命よりも大事だったのか…)
機械の言いなりになって生きる人生、そんな命に何の意味が、と言っていたシロエ。
彼の心の支えだった本、きっと命よりも大切に思っていたのだろう本。
(…それが残ってしまったか…)
シロエの代わりに、此処に、こうして。
レーザー砲の光を浴びても、焦げて破れたりしただけで。
(…これほどに…)
強い力を生むのか、Mの思いは。ミュウの心というものは。
ならば恐らく、人類はいつか敗れるのだろう。
今は狩られるだけのミュウでも、いずれは牙を剥くだろうから。
その兆候は既に、出ているから。
「大佐。…先ほど、ペセトラ基地の部隊が全滅したとの報告がありました」
キルギス軍管区から増援を送るそうです、と現れた部下。
靴音でもう分かっていたけれど、スタージョン中尉。その隣にマツカ。
(……シロエ……)
マツカにシロエを重ねていた。
かつて殺すしか道が無かったシロエの代わりに、Mのマツカを生かそうと。
どうしてシロエも生き残る方へと行かなかったか、本を守って逝ったのか。
「…無駄なことを」
「は?」
何が無駄だと、という風な顔の部下だけれども。
ピーターパンの本を何気ない顔で仕舞って、見上げたサムの病院の上に広がる青空。
「戻るぞ」とベンチから立ち上がりつつも、その空の向こうに見えた気がした。
Mの母船が舞い降りる日が。
シロエを乗せていたかもしれない、鯨が空から降りて来る日が。
いつか人類は、Mに敗れるだろうから。
命よりも大切だった本を守って、Mのシロエは空へと飛んで行ったのだから…。
此処に在る本・了
※ピーターパンの本が焼けずに残った理由は、コレだろうな、と前から思っているわけで…。
同じネタをシロエ側から書いているのが「宝物の本」というヤツ、短いですけどね。
(…まただ…)
多分、とマツカがかざした右手。
さっき運ばれて来た、キースの昼食。「大佐のお食事をお持ちしました」と。
いつも通りに受け取ったけれど、感じた違和感。手にした途端に。
けれど顔には出さずに応えた、「ありがとう」と。
恐らく、彼は何も知らない。食事を運んで来ただけのことで。
(…あんな若い子に…)
秘密を漏らす筈がないから。それに知ったら、動けなくなってしまうだろうから。
「お食事が終わった頃に、また伺います」と敬礼して去って行った青年。
国家騎士団に配属されて間もない新人、そういった感じ。
他の者と食堂で食べたりはしない、キースのような上級士官。
彼らの部屋まで食事を届ける、それを仕事にしている青年。
緊張しながら配って回って、頃合いを見て下げにゆくのが任務の下っ端。
(…でも、彼が…)
この責任を負わされるんだ、とトレイの上から取った一皿。
見た目にはただのシチューだけれども、きっと一口、食べただけでも…。
誰が、と集中してゆくサイオン。
残留思念を追えはしないかと、いったい誰の仕業なのかと。
人類はサイオンを持たないけれども、ミュウと同じに思考する生き物。
だから思念の痕跡は残る。それをサイオンとは呼ばないだけで。
(……薬……)
これは薬だ、と言い聞かせている誰かの心。
薬なのだから、問題無いと。
アニアン大佐の健康のためを思ってしていることなのだから、と。
その裏側に隠れた冷笑。
これで大佐も、さぞお元気に…、と。
日頃の激務をすっかり忘れて、リラックスなさることだろうと。…永遠に。
(……誰?)
誰の思いだ、と読み取ろうと捉えかけたのに。
被さって来たのが別の心で、そちらは明らかに好意。
「お出しする前に、冷めないように」と気遣う心。
もう一度、温めておくのがいいと。
鍋に戻せはしないけれども、このままで少し温めようと。
消えてしまった不穏な思念。
キースを「永遠に」眠らせる薬、それを入れたのは誰なのか。
厨房の者か、あるいは「水をくれないか?」と入って行った誰かか。
階級がかなり上の者でも、その口実なら入れるから。
まるで気まぐれ、たった今、思い付いたかのように。
何処かへ移動してゆく途中で、突然に喉が渇いたから、と。
(…厨房だったら、水をくれって言って入っても…)
言葉そのままに、水を渡しはしないから。
「本当に水でよろしいのですか?」と確認の言葉、「コーヒーでもお淹れしましょうか?」と。
それを承知で入ってゆくのが、自分の都合で動く者たち。
「ああ、頼む」と鷹揚に構えて、コーヒーが入るまでの間は…。
(…誰に遠慮もしないから…)
興味があるなら、鍋だって開ける。「これは何だ?」と。
並んだトレイを眺めだってする、「今日の食事はこれなのか」と。
トレイには名札が添えてあるから、簡単に分かることだろう。
どれがキースの食事なのかも、毒を入れるのに適した品も。
(…そういうことも…)
きっとあるんだ、と見詰めるシチュー。
自分がミュウでなかったならば、ただの人類だったなら…。
(…何も知らずに、キースに渡して…)
キースの方も、「ご苦労」とさえも言わずに受け取る。
彼はそういう人だから。
心では「ご苦労」と思っていたって、けして言葉にしない人。
もちろん顔にも出しはしないし、部下を労うことなどはしない。
けれど、充分、伝わる思い。
キースの心は読めないけれども、「ご苦労」と彼が思ったことは。
(そうやって、ぼくから受け取った後は…)
仕事でもしながら、黙々と食べてゆくのだろう。
毒が入っているかどうかも、きっと考えさえせずに。…調べさえせずに。
(…何度も、何度も…)
暗殺計画が立案されては、キースを襲って来たというのに。
この瞬間にも誰かが何処かで、次の計画を練っているかもしれないのに。
(不死身のキース…)
いつの間にやら、キースについていた渾名。
戦場でついた渾名だけれども、今では更に高まったその名。
襲撃も爆破も、命を奪えはしなかったから。
彼を狙って発砲したって、一発も当たりはしなかったから。
(…それでも、懲りずに…)
こうして毒を入れる者たち。
それが一番手っ取り早くて、リスクも低いものだから。
毒入りシチューでキースが死んだら、真っ先に疑われる者は…。
(さっきの青年…)
最後にトレイに触れた者だし、彼が届けに来たのだから。「お食事をお持ちしました」と。
キースの部屋まで、「アニアン大佐に」と、毒入りシチューを載せたトレイを。
(…本当は、最後に触れたのは…)
受け取ってキースに手渡した者は、自分だけれど。
ジョナ・マツカという名の側近だけれど、側近を疑う者などはいない。
長い年月、キースに黙々と仕え続けて此処にいるから。
ジルベスター星系以来の部下だし、キースが自分で選んだ側近なのだから。
その側近が一番危険なのだと、いったい誰が気付くだろう?
最初にキースの命を狙った、多分、そういう人間が自分。
ミュウを人間と呼ぶかはともかく、人類と一緒に扱っていいかは別にしたなら。
(…あの頃のキースは、メンバーズだったというだけで…)
今ほどに敵は作っていないし、きっと暗殺計画も無い。
冷徹無比な破壊兵器の異名を取っていたって、キース個人を恨むような者は…。
(戦場で根こそぎ消されてしまって、キースの側へは…)
きっと来られなかった筈。命を失くせば、キースを殺せはしないから。
そんな頃にキースと出会った自分。
身を守ろうとして、キースの命を奪おうとして…。
(…失敗して、殺される筈だったのに…)
キースに命を救われたから、今日まで彼について来た。
こうしてミュウの力を使って、何度もキースを守りながら。
ミュウの母船から逃げ出したキース、彼をサイオン・シールドで包んで救ったのが最初。
(…ミュウたちから見れば、裏切り者で…)
それ以外の者ではないだろうけれど、それが罪でも、守りたいキース。
彼の命を救ったせいで、ミュウの血がまた流されても。
此処でキースが死んでいたなら、何人ものミュウが助かるとしても。
(…あの人は、死に場所を探してるんだ…)
どういうわけだか、そんな気がする。
誰よりも強い心を持つ筈のキース、彼は死に場所を求めていると。
その時がいつ訪れようとも、きっと悔やみはしないのだろう。
だから、キースは気にも留めない。
渡された食事のトレイに誰かが毒を盛ろうが、毒入りシチューを届けられようが。
何も心に留めはしないで、毒入りシチューを食べるだけ。
スプーンで掬って、口に運んで、それで命を失おうとも…。
(…キースは、きっと困りもしない…)
その時が今やって来たか、と血を吐いて倒れ伏すだけで。
助けを呼ぼうとしさえしないで、一人きりで死んでゆくのだろう。
「これで終わりだ」と、遠い日にメギドでミュウの長に告げていた言葉。
赤い瞳を打ち砕いた弾、それを撃った時のキースの言葉。
それをそのまま、自分自身に向けるのだろう。
「これで終わりだ」と、「全て終わった」と。
きっと言葉に出しはしないで、毒で薄れゆく意識の底で、彼の心の中だけで。
「ご苦労」と口にしないのと同じに、自分だけで一人、納得して。
(…そんな、あなただから…)
ぼくはあなたを殺せないんだ、と見詰めるシチュー。
これをキースに運んで行ったら、何人ものミュウを救えるだろうに。
キースを殺した犯人だって、トレイを運んで来た青年。
きっとそういうことになるから、自分の身には及ばない危険。
「今度のことでは大変だったな」と、セルジュたちだって言うのだろう。
これから先はどうするつもりかと、新しい部署を用意しようかと。
(…そうなった時は、何処か、適当に希望を出して…)
其処に配属されるまでの間に、何日か貰えるだろう休暇。
それを使ってノアを離れれば、ミュウの母船へ行くことが出来る。
国家騎士団の中に隠れていたから、山のような機密を手土産に持って。
キースの側近だったからこそ得られた情報、国家騎士団や人類軍に纏わるデータ。
土産を山と持って行ったら、きっと不問に付されるのだろう。
ジルベスターからキースを救って逃げ出したことも、ミュウの長を見殺しにしたことさえも。
(…そのまま、モビー・ディックに隠れて…)
彼らと地球を目指せるのだろう、請われるままにアドバイスをして。
人類軍と国家騎士団、その艦隊とどう戦うべきかを。
けれど、選べはしない道。…選びたいとも思わない道。
キースを守って此処にいようと、とうに心に決めているから。
「役に立つ化け物」と呼ばれていようが、自分はそれでかまわないから。
(…裏切り者でも、化け物でも…)
ぼくがあなたを死なせない、と手にした毒入りシチューの皿。
これはキースに渡せないから、後で自分が処理するだけ。
この執務室に付属のキッチン、いつものように其処へ流して。
何事も無かったように皿を洗って、トレイに戻しておくだけのこと。
(不死身のキース…)
また伝説が一つ増えるけれども、それもキースの実力の内。
ミュウの自分を飼っていることも、裏切られないで心を掴んでいることも。
食事が一品、欠けてしまった食事のトレイ。
それをキースの執務室へと運んでゆく。
扉を軽くノックして。
「遅くなりました」と、「よろけて、シチューを駄目にしました。すみません」と。
「かまわん」と背を向けたままでいるキース。
本当にきっと、彼はどうでもいいのだろう。
シチューが消えた理由など。
毒入りだろうが、間抜けな部下がヘマをして駄目にしてしまおうが。
(あなたが、そういう人だから…)
此処にいなければ駄目だと思う。
裏切り者でも、化け物でも。
「ご苦労」とさえ言って貰えなくても、これが自分の生き方だから…。
守りたい人・了
※「ぼくが毒を盛っているかもしれませんよ?」というのがマツカの台詞なわけで。
誰かが毒を盛ったからこそ、こういう台詞になるんだよな、と。きっと日常茶飯事な世界。
(あいつら…)
何も分かっていないくせに、とシロエがギリッと噛んだ唇。
講義が終わって帰った部屋で。
ピーターパンの本を抱えて、ベッドの上に座り込んで。
(パパとママの本…)
この本をくれた両親のこと。
とても身体の大きかった父と、優しかった母と。
それは間違いないのだけれども、両親は確かにいたのだけれど…。
(…何処に行ったの?)
パパ、ママ、と瞳から零れる涙。
何処にいるのか、まるで分からない父と母。
貰った本は此処にあるのに、この本は持って来られたのに。
(…全部、忘れた…)
住んでいた家も、町も、故郷も。
両親の顔も、何もかも、全部。
気付いた時には失われた後で、もう戻っては来なかった。
どんなに記憶の糸を手繰っても、どれも途中でプツリと切れる。
こうして起きている時も。
ベッドで眠って、遠い記憶を捕まえたように思った時も。
消えてしまった本当の記憶、子供時代に見聞きした全て。
故郷の空気も風も光も、両親と過ごした筈の日さえも。
自分はそれを悔いているのに、失くした過去を今も捜しているのに。
ピーターパンの本に何か欠片が隠れていないか、何度も開いて確かめるのに。
(パパも、それにママも…)
見付からないよ、と零れ落ちる涙。
いくら捜してもいない両親、はっきり「そうだ」と分かる形では。
こういう顔の人たちだったと、懐かしさがこみ上げる姿では。
(…いつも、ぼやけて…)
見えないんだ、と止まらない涙。
記憶の中に残った両親、その顔はいつも掴めない。
涙でぼやけるからではなくて。
向こうを向いているからではなくて。
(ちゃんと、こっちを向いているのに…)
どうしても見えてくれない顔。
薄いベールで覆われるのなら、まだ仕方ないと思えるけれど。
遠い記憶はそんなものだと、紗に包まれると考えないでもないけれど…。
(テラズ・ナンバー・ファイブ…)
あれが消した、と今も悔しくてたまらない。
両親の顔は、焼け焦げて穴が開いたよう。
写真が焦げたら、そうなるだろうといった具合に。
顔の上に幾つも滲む穴たち、それが邪魔して見られない顔。
どんな顔立ちの人だったのか。
父はどういう顔をしていたか、母の面差しはどうだったのか。
機械が焦がして、消してしまったから分からない。
「捨てなさい」と告げて、消し去ったから。
古い写真に火を点けるように、記憶を燃やしてしまったから。
失くしたのだ、と自分には分かる両親の記憶。
それに故郷も、育った家も。
ただでも苛立ち、焦る日々なのに。
少しでも記憶を取り戻したくて、こうして本を抱き締めるのに。
(…あいつら、何も知りもしないで…)
みんな嫌いだ、と頭の中から追い出したくなる同級生たち。
出来ることなら、纏めて宇宙に捨てたいほどに。
今日の彼らの忌々しい会話、それが聞こえて来ない宇宙へ。
(…パパ、ママ…)
ぼくだけが忘れたわけじゃないのに、と唇をきつく噛むけれど。
みんな同じだと思いたいけれど、今日のような日は心に湧き上がる不安。
もしかしたら、と。
彼らが普通で、自分がおかしい。
両親を、故郷を忘れているのは、自分だけではないだろうか、と。
(……分かっているけど……)
それは違うということは。
他の者たちは皆、根無し草で、両親も故郷も自分と同じに忘れた筈。
ただ、そのことにこだわらないだけ。
かつては父と母がいたのだと、故郷があったと思っているだけ。
だから容易く口にする。
「ぼくの父さんは…」とか、「母さん」だとか。
親しみをこめて、それは明るく。
いい人だったと、優しかったと。
顔も覚えていないのに。
一緒に暮らした家も記憶に無いというのに、明るい彼ら。
子供時代は楽しかったと、自分の父は、母はこうだと。
(…父さんだなんて…)
それに母さん、と余計に覚えてしまう苛立ち。
自分にも覚えがあったから。
今も残った記憶の断片、その中にある言葉だから。
(ぼくのパパはパパで、ママはママなのに…)
あれは、いつ頃だっただろうか。
目覚めの日が近くなって来た頃か、それよりも少し前だったろうか。
それまでは「パパ」「ママ」と両親を呼んでいた者たち。
顔も覚えていない者たち、多分、友達かクラスメイトか。
彼らの言い方が変わっていった。
父親を呼ぶ時は「父さん」と。
母を呼ぶなら「母さん」と。
「パパ」と「ママ」は少しずつ減ってゆく呼び方、「父さん」と「母さん」が増えてゆく。
それが大人への一歩に思えて、自分も同じに背伸びした。
いつまでも「パパ」と「ママ」では駄目だと。
家では「パパ」と「ママ」のままでも、皆の前では「父さん」と「母さん」。
初めてそれを口にしたのは、何歳の時だっただろうか。
けれど、不思議に高鳴った胸。
やっと言えたと、これで大人に近付いたと。
ネバーランドより素敵な地球にも、一歩近付いたんだから、と。
(…大人が何か、知らなかったから…)
大人になったら何が起こるか、自分は知りもしなかったから。
目覚めの日が来るのを、胸をときめかせて待っていたのと同じ。
記憶を消されるとも知らないままで。
大人になるのは子供時代を捨てることだと、夢にも思わないままで。
背伸びして言えた「父さん」と「母さん」、あの時には誇らしかったこと。
こうして自分も育ってゆくのだと、きっと地球にも行けるだろうと。
なのに、間違っていた自分。
大人への道は、子供の自分を捨てること。
大好きだった父も、母も、家も、自分自身の記憶でさえも。
(…こうなるんだって分かっていたら…)
夢を描きはしなかった。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
そんな所へ行くくらいならば、あのまま夜空へ飛び立ちたかった。
二つ目の角を右に曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そうやって行けるネバーランドへ、子供が子供でいられる国へ。
今の自分がそうなったように、両親を忘れるくらいなら。
思い出せなくなるくらいならば、故郷の空からネバーランドへ。
「父さん」「母さん」と、背伸びなどせずに。
周りの者たちがそう呼んでいても、一人だけになっても「パパ」と「ママ」のままで。
そうしていたなら、きっと子供でいられたから。
機械が支配するこんな時代でも、本当の子供でいられたから。
(…ピーターパンだって…)
きっと迎えに来てくれたんだ、と悔しくて辛くてたまらない。
どうして周りに染まったのかと。
誇らしさに満ちて「パパ」と「ママ」とを捨てたのかと。
誰も「パパ」とは呼ばなくなっても、自分だけは「パパ」と呼べばよかった。
「ママ」と呼ぶ者たちがいなくなっても、一人でも「ママ」と言えばよかった。
子供の世界にしがみついて。
大人の世界へ踏み出す代わりに、しっかりと足を踏ん張って。
(…本当に、誰も…)
何も分かっていないくせに、と腹立たしくなる同級生たち。
「父さん」「母さん」と賑やかに話す、親を忘れている者たち。
機械が消してしまった記憶は、自分と変わらない筈なのに。
おぼろに霞んで穴だらけなのに、彼らは笑顔で話し続ける。
「ぼくの父さんは…」と、「母さんは」と。
自分が今も悔やみ続ける言葉で、「パパ」や「ママ」とは違う言葉で。
どうして彼らは笑えるのだろう、明るく語り合えるのだろう。
彼らの故郷や両親のことを。
自分と同じに機械に消されて、捨てさせられた筈なのに。
(…そのことに気付いていないから…)
だからあいつらは笑えるんだ、と理屈では分かっているけれど。
それでも、こんな日は辛い。
子供だった自分が背伸びした言葉、何も知らずに切り替えた言い方。
「パパ」と「ママ」をやめて、「父さん」と「母さん」。
一歩大人に近付いたのだと、胸を張りたくなっていた言葉。
それを彼らが口にしたから、それを使って両親のことを語り合ったから。
(…何も覚えてないくせに…)
ぼくと変わりはしないくせに、と零れる涙。
あの日、背伸びをしなかったなら、と。
「パパ」と「ママ」という言葉を抱き締めて一人、子供の世界に残ったなら、と。
そうしたらきっと、今も子供でいられたろうに。
ネバーランドに行けただろうに、と抱き締めるピーターパンの本。
(…パパ、ママ…)
あの時、ぼくは間違えたんだ、と思っても、もう戻れない過去。
涙は溢れて止まらないまま、幾つも零れ落ちるまま。
背伸びした自分は間違えたから。
子供が子供でいられる世界に、自分から背を向けたから。
「父さん」、それに「母さん」と言って。
これで大人に一歩近付いたと、「パパ」と「ママ」に背を向けたのだから…。
背伸びした言葉・了
※ステーション時代のシロエは「父さん」「母さん」と言っていたんですけど…。
いつからそっちになったんだろう、と考えていたら、こんな話に。シロエ、可哀相。
「百八十度回頭」
トォニィがそう命じた声に、問い返したツェーレン。「地球を後にするの?」と。
それに応えてトォニィは言った、「そうだ」と。
「もう、ぼくらに出来ることは何もない」と。
フィシスも話した、カナリヤの子たちに。「ここ、何処なの?」と尋ねた子供に。
「あなたたちを連れてゆく箱舟の中」と。
「何処へ?」と問われて、「清らかな大地へ」と。
そしてシャングリラは旅立って行った、地球を離れて遠い宇宙へ。
…人の未来へ。
残されたものは揺れ動く地球で、其処に人影は見えないけれど。
何一つ見えはしないのだけれど、去って行った船が見落としたもの。
トォニィもフィシスも、他の誰もが、気付かないままで行ってしまったもの。
「箱の最後には…」
希望が残っているものなのに、とジョミーが呟くパンドラの箱。
禍をもたらすパンドラの箱は開いたけれども、箱の底には希望があると。
「そうだな…。あんな地球でもな」
しかし、気付けと言う方が無理だ、とキースが零した深い溜息。
人は目に見えるものが全てで、見えないものは信じないから。
壊れ、滅びゆこうとしている地球の姿が全てだから。
地球の地の底、最期まで共に戦ったからこそ分かること。
この星も、人も、これからだと。
どんなに無残に壊れようとも、人も大地も、また立ち上がると。
今直ぐには、とても立てなくても。
立ち上がる術さえ見付からなくても、人は必ず歩き出すから。
二本の足が使えなくとも、先へと進む力があるから。
人だけが持ち得る、パンドラの箱に残った希望。
それは未来を夢見る力。
明けない夜など無いということ、夜の先には光があること。それこそが希望。
今は見えなくても、希望は誰もが持っているもの。
自分自身が気付かなくても、箱の中を覗くことが無くても。
いつか希望は顔を出すもの、人が未来を目指したならば。
災いの箱が開いた後でも、また立たねばと思う時が来たなら。
だからシャングリラも、いつか戻って来るだろう。
母なる地球へ、人を生み出した水の星へと。
清らかな大地が其処に無くとも、その上にそれは戻る筈だと。
人が希望を持っていたなら、母なる地球を忘れなければ、いつか未来は訪れるから。
パンドラの箱は開いたけれども、人の未来はきっと来るから。
今は揺れ動く地球の大地に、裂けてしまった地面の上に。
惨く引き裂かれた星の上にも、希望は残っているのだから。
「キース、どのくらいかかると思う?」
人は強いと思うけれども、というジョミーの問い。
「彼らの心次第だろう。…立ち上がるのも、未来を築き始めるのも」
だが、見えるような気がするな…、と語り合う間にも地球は揺れるのだけれど。
崩れゆこうとするのだけれど。
パンドラの箱の底には必ず、希望があるもの。
人も、大地も、また立ち上がる。
そして其処には、緑の丘が、人々の笑顔が蘇る筈。
人だけが持ち得る、未来への思い。
誰の心にも在る希望の光が、人の未来を掴み取るから。
今は闇しか見えないとしても、明けない夜など、何処にもありはしないのだから…。
地球の緑の丘・了
※4月14日の熊本地震と、4月16日の地震と。
「地球へ…」のラストに重ねて応援、熊本も九州も、一日も早く立ち直りますように。
只今、16日の午後4時です。これ以上酷くならないように、と祈りながらUP。