(あいつら…)
何も分かっていないくせに、とシロエがギリッと噛んだ唇。
講義が終わって帰った部屋で。
ピーターパンの本を抱えて、ベッドの上に座り込んで。
(パパとママの本…)
この本をくれた両親のこと。
とても身体の大きかった父と、優しかった母と。
それは間違いないのだけれども、両親は確かにいたのだけれど…。
(…何処に行ったの?)
パパ、ママ、と瞳から零れる涙。
何処にいるのか、まるで分からない父と母。
貰った本は此処にあるのに、この本は持って来られたのに。
(…全部、忘れた…)
住んでいた家も、町も、故郷も。
両親の顔も、何もかも、全部。
気付いた時には失われた後で、もう戻っては来なかった。
どんなに記憶の糸を手繰っても、どれも途中でプツリと切れる。
こうして起きている時も。
ベッドで眠って、遠い記憶を捕まえたように思った時も。
消えてしまった本当の記憶、子供時代に見聞きした全て。
故郷の空気も風も光も、両親と過ごした筈の日さえも。
自分はそれを悔いているのに、失くした過去を今も捜しているのに。
ピーターパンの本に何か欠片が隠れていないか、何度も開いて確かめるのに。
(パパも、それにママも…)
見付からないよ、と零れ落ちる涙。
いくら捜してもいない両親、はっきり「そうだ」と分かる形では。
こういう顔の人たちだったと、懐かしさがこみ上げる姿では。
(…いつも、ぼやけて…)
見えないんだ、と止まらない涙。
記憶の中に残った両親、その顔はいつも掴めない。
涙でぼやけるからではなくて。
向こうを向いているからではなくて。
(ちゃんと、こっちを向いているのに…)
どうしても見えてくれない顔。
薄いベールで覆われるのなら、まだ仕方ないと思えるけれど。
遠い記憶はそんなものだと、紗に包まれると考えないでもないけれど…。
(テラズ・ナンバー・ファイブ…)
あれが消した、と今も悔しくてたまらない。
両親の顔は、焼け焦げて穴が開いたよう。
写真が焦げたら、そうなるだろうといった具合に。
顔の上に幾つも滲む穴たち、それが邪魔して見られない顔。
どんな顔立ちの人だったのか。
父はどういう顔をしていたか、母の面差しはどうだったのか。
機械が焦がして、消してしまったから分からない。
「捨てなさい」と告げて、消し去ったから。
古い写真に火を点けるように、記憶を燃やしてしまったから。
失くしたのだ、と自分には分かる両親の記憶。
それに故郷も、育った家も。
ただでも苛立ち、焦る日々なのに。
少しでも記憶を取り戻したくて、こうして本を抱き締めるのに。
(…あいつら、何も知りもしないで…)
みんな嫌いだ、と頭の中から追い出したくなる同級生たち。
出来ることなら、纏めて宇宙に捨てたいほどに。
今日の彼らの忌々しい会話、それが聞こえて来ない宇宙へ。
(…パパ、ママ…)
ぼくだけが忘れたわけじゃないのに、と唇をきつく噛むけれど。
みんな同じだと思いたいけれど、今日のような日は心に湧き上がる不安。
もしかしたら、と。
彼らが普通で、自分がおかしい。
両親を、故郷を忘れているのは、自分だけではないだろうか、と。
(……分かっているけど……)
それは違うということは。
他の者たちは皆、根無し草で、両親も故郷も自分と同じに忘れた筈。
ただ、そのことにこだわらないだけ。
かつては父と母がいたのだと、故郷があったと思っているだけ。
だから容易く口にする。
「ぼくの父さんは…」とか、「母さん」だとか。
親しみをこめて、それは明るく。
いい人だったと、優しかったと。
顔も覚えていないのに。
一緒に暮らした家も記憶に無いというのに、明るい彼ら。
子供時代は楽しかったと、自分の父は、母はこうだと。
(…父さんだなんて…)
それに母さん、と余計に覚えてしまう苛立ち。
自分にも覚えがあったから。
今も残った記憶の断片、その中にある言葉だから。
(ぼくのパパはパパで、ママはママなのに…)
あれは、いつ頃だっただろうか。
目覚めの日が近くなって来た頃か、それよりも少し前だったろうか。
それまでは「パパ」「ママ」と両親を呼んでいた者たち。
顔も覚えていない者たち、多分、友達かクラスメイトか。
彼らの言い方が変わっていった。
父親を呼ぶ時は「父さん」と。
母を呼ぶなら「母さん」と。
「パパ」と「ママ」は少しずつ減ってゆく呼び方、「父さん」と「母さん」が増えてゆく。
それが大人への一歩に思えて、自分も同じに背伸びした。
いつまでも「パパ」と「ママ」では駄目だと。
家では「パパ」と「ママ」のままでも、皆の前では「父さん」と「母さん」。
初めてそれを口にしたのは、何歳の時だっただろうか。
けれど、不思議に高鳴った胸。
やっと言えたと、これで大人に近付いたと。
ネバーランドより素敵な地球にも、一歩近付いたんだから、と。
(…大人が何か、知らなかったから…)
大人になったら何が起こるか、自分は知りもしなかったから。
目覚めの日が来るのを、胸をときめかせて待っていたのと同じ。
記憶を消されるとも知らないままで。
大人になるのは子供時代を捨てることだと、夢にも思わないままで。
背伸びして言えた「父さん」と「母さん」、あの時には誇らしかったこと。
こうして自分も育ってゆくのだと、きっと地球にも行けるだろうと。
なのに、間違っていた自分。
大人への道は、子供の自分を捨てること。
大好きだった父も、母も、家も、自分自身の記憶でさえも。
(…こうなるんだって分かっていたら…)
夢を描きはしなかった。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
そんな所へ行くくらいならば、あのまま夜空へ飛び立ちたかった。
二つ目の角を右に曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そうやって行けるネバーランドへ、子供が子供でいられる国へ。
今の自分がそうなったように、両親を忘れるくらいなら。
思い出せなくなるくらいならば、故郷の空からネバーランドへ。
「父さん」「母さん」と、背伸びなどせずに。
周りの者たちがそう呼んでいても、一人だけになっても「パパ」と「ママ」のままで。
そうしていたなら、きっと子供でいられたから。
機械が支配するこんな時代でも、本当の子供でいられたから。
(…ピーターパンだって…)
きっと迎えに来てくれたんだ、と悔しくて辛くてたまらない。
どうして周りに染まったのかと。
誇らしさに満ちて「パパ」と「ママ」とを捨てたのかと。
誰も「パパ」とは呼ばなくなっても、自分だけは「パパ」と呼べばよかった。
「ママ」と呼ぶ者たちがいなくなっても、一人でも「ママ」と言えばよかった。
子供の世界にしがみついて。
大人の世界へ踏み出す代わりに、しっかりと足を踏ん張って。
(…本当に、誰も…)
何も分かっていないくせに、と腹立たしくなる同級生たち。
「父さん」「母さん」と賑やかに話す、親を忘れている者たち。
機械が消してしまった記憶は、自分と変わらない筈なのに。
おぼろに霞んで穴だらけなのに、彼らは笑顔で話し続ける。
「ぼくの父さんは…」と、「母さんは」と。
自分が今も悔やみ続ける言葉で、「パパ」や「ママ」とは違う言葉で。
どうして彼らは笑えるのだろう、明るく語り合えるのだろう。
彼らの故郷や両親のことを。
自分と同じに機械に消されて、捨てさせられた筈なのに。
(…そのことに気付いていないから…)
だからあいつらは笑えるんだ、と理屈では分かっているけれど。
それでも、こんな日は辛い。
子供だった自分が背伸びした言葉、何も知らずに切り替えた言い方。
「パパ」と「ママ」をやめて、「父さん」と「母さん」。
一歩大人に近付いたのだと、胸を張りたくなっていた言葉。
それを彼らが口にしたから、それを使って両親のことを語り合ったから。
(…何も覚えてないくせに…)
ぼくと変わりはしないくせに、と零れる涙。
あの日、背伸びをしなかったなら、と。
「パパ」と「ママ」という言葉を抱き締めて一人、子供の世界に残ったなら、と。
そうしたらきっと、今も子供でいられたろうに。
ネバーランドに行けただろうに、と抱き締めるピーターパンの本。
(…パパ、ママ…)
あの時、ぼくは間違えたんだ、と思っても、もう戻れない過去。
涙は溢れて止まらないまま、幾つも零れ落ちるまま。
背伸びした自分は間違えたから。
子供が子供でいられる世界に、自分から背を向けたから。
「父さん」、それに「母さん」と言って。
これで大人に一歩近付いたと、「パパ」と「ママ」に背を向けたのだから…。
背伸びした言葉・了
※ステーション時代のシロエは「父さん」「母さん」と言っていたんですけど…。
いつからそっちになったんだろう、と考えていたら、こんな話に。シロエ、可哀相。