(化け物の力も使いようだ)
マツカは役に立つだろうな、とキースの唇に浮かんだ笑み。
丁度いいモノが手に入ったと。
ミュウの調査に出掛けるためには、お誂え向きと言ってもいい。
(可哀相だ、と助けてしまったが…)
サムが、シロエが重なったから。
怯え、震えるマツカの上に。
「そうなれなかった」と叫んだ顔に、その声に。
単なる気まぐれ、一匹くらいは生かしておいてもいいだろうと。
ミュウを相手に戦うのならば、きっとマツカは役立つから。
その辺の兵士などよりも。
対サイオンの訓練を知らない者よりは、よほど。
だからマツカを連れてゆこうという心づもり。
グレイブが何を言って来ようが、あれを連れて、と。
あと一時間もすれば出発、ジルベスター行きの船にマツカも乗せる。
誰にも文句を言わせはしないし、マツカの力を役立てるために。
そういうつもりでいるのだけれども…。
(……違うな……)
本当の理由は別にあるのだ、と自分でも分かる。
マザー・システムの目から逃れて、生きていたミュウ。
劣等生だったと泣いていたマツカ。
彼の向こうに、どうしても見えるミュウの少年。
何処もマツカに似ていないのに。
むしろ逆だと言っていいほど、気性が激しかったのに。
(…シロエ…)
自分が処分した少年。
E-1077の卒業間際に、マザー・イライザの命令で。
「撃ちなさい」という冷たい声で。
シロエが乗った船を撃ち落とした、自分の手で。
追われていたのを匿ったほどに、話したいとも思ったシロエを。
あの時は何も知らなかったけれど、メンバーズになってから聞かされたこと。
シロエはMのキャリアだったと、ミュウだったのだと。
(偶然、成人検査をパスしただけ…)
マツカと同じ。
そうそういない筈の人間、シロエは例外の筈だった。
二人目、三人目のシロエに出会うことなど、けして無いだろうと思っていた。
けれど、出会ってしまったマツカ。
シロエと同じに、成人検査をパスしたミュウ。
見た目も中身も違うけれども、其処だけは同じ。
それからマザー・システムが施す教育、それに順応出来ない所も。
(…二人目のシロエ…)
まるで違うのに、似ているマツカ。
何処が似ているかと問われたならば、境遇だけしか似ていないのに。
シロエが辺りを焼く劫火ならば、マツカは消えそうな風の前の灯。
劇薬のような毒を振りまく者がシロエなら、マツカは湖に落ちた一滴の薬。
それほどに違う、二つの存在。
なのに重なる、不思議なほどに。
マツカの怯えた表情の上に、シロエの皮肉な表情が。
ただ泣いていたマツカの涙に、勝ち誇ったシロエの笑い声が。
だから助けた、と本当は分かっている真実。
マツカを殺さず、生かした理由。
それはシロエの身代わりなのだと。
遠い日に自分が殺したシロエ。
マザー・イライザに逆らえないまま、命を奪ってしまったシロエ。
あの時、自分が強かったならば、シロエの船を見逃がせた筈。
何処へなりと行けと、機首を返して。
船のエネルギーが尽きる所まで、思いのままに飛んでゆくがいいと。
(…放っておいても、シロエの船は…)
何処へも行けはしなかった。
練習艇に積まれた燃料、それだけで地球は目指せないから。
何処の星へも、辿り着くことは不可能だから。
エネルギーが尽きた時点で、断たれてしまう酸素の供給。
シロエの命は其処で潰えて、けして何処にも辿り着けない。
永遠に宇宙を漂い続ける船と一緒に、シロエもまた。
(…なのに、私は…)
その選択肢を選べなかった。
あまりにも真面目すぎたから。
マザー・イライザに、システムに疑問を抱いていたのに、漠然としたものだったから。
今ならば分かる、今ならば出来る。
シロエの船を見送ることも。
何処までも飛べと、撃墜しないで機首を返すことも。
かつて自分が出来なかったこと。
思い付きさえしなかったことが、今なら出来る。
シロエと同じに成人検査をパスして来たミュウ、それを生かしておくことが。
マザー・システムの監視を振り切り、手元に隠しておくことが。
(私の側が何処よりも安全なんだ…)
まさかミュウなど、生かすようには見えないから。
冷徹無比な破壊兵器と、皆が言うような存在だから。
(…私にも情があるなどと…)
誰も思うまいな、と苦い笑みが浮かぶ。
「らしくないな」と、「キース、お前は何をしたい?」と。
答えなら、とうに持っている。
とうに出ている、「マツカを生かし続ける」こと。
それが自分のやりたいこと。
シロエのようにはさせないことが。
上手く生かして、自分の役に立てて、マツカの評価も上げてゆくこと。
マザー・システムが、けしてマツカを疑わぬよう。
誰一人として、彼がミュウだと気付かないよう。
(……私なら出来る)
マザー・システムを、軍を欺くことも。
一生、マツカを匿い続けて、人類の世界に置いてやることも。
もう決まっている自分の道。
今日から自分はマザーを裏切る、ミュウを側に置いて。
処分させずに、素知らぬふりで。
(…ミュウの調査に行くのだがな…)
それとこれとは別の話だ、と自分の中に引いた一本の線。
自分の側に入ったミュウは殺さない。
誰にも殺させたりはしないし、命ある限り匿い続ける。
それがマザー・イライザへの自分の復讐、マザー・システムに対する反抗。
このくらいしか出来ないから。
今の自分に出来そうなことは、まだそれだけしか無いのだから。
(…しかし、この線の向こうのミュウは…)
敵だ、と断じる心もある。
人類とミュウは相容れないから、ミュウは危険な生き物だから。
追い詰めて狩り出し、処分すべきモノ。
それもまた、自分の行くべき道。
…今の所は。
天が、歴史がミュウを選ぶまでは、ミュウに与する日が来るまでは。
ミュウの前に自分が膝を折る日が、首を垂れて跪く時が訪れるまでは。
けれど、自分はもう決めた。
マザー・システムへの裏切りを。
遠い日に「撃ちなさい」と命じたマザー・イライザ、あの機械への復讐を。
弱いマツカを生かしておくこと、それが自分の一生の使命。
システムにマツカを殺されたならば、また同じことの繰り返しだから。
二人目のシロエを失くしてしまって、深い後悔に苛まれるだけ。
だから負けない、この戦いには負けられない。
(…マツカが最後のミュウになろうが…)
生かすのだから、と誓う相手は自分の心。
マザー・システムに忠誠を誓った、同じ心に違う誓いを。
(私が生きている限り…)
マツカは誰にも殺させない、と固めた決意。
二人目のシロエは、もう沢山だと。
それをこの目で見るくらいならば、ミュウをいくらでも殺してみせる。
心の中に引いた一本の線の、向こう側にいるミュウならば。
端から殺して焼き払ってみせる、それも自分の行く道だから。
たとえ、矛盾していようとも。
マツカを生かし続ける隣で、何万のミュウが死のうとも。
線の向こうと、こちらの側と。
恨み言なら、線を越えてから言うがいい。
こちら側へと渡り、踏み越えて。
それから責める言葉を浴びせて怒り狂うがいい、そう出来るミュウがいるのなら。
この線を越えるミュウがいるなら。
こちら側へと踏み越えたならば、そう、そのミュウは殺さない。
自分自身に誓ったから。
二人目のシロエは見たくないから。
(…本当に越えて来たならな…)
そのミュウもまた、生かしておく。
マザー・システムを裏切り、騙し、欺いて。
「実に役立つ、いい部下です」と涼しい顔をし、軍の者もまた欺いてやる。
そうすると、もう決めたから。
遠い昔に出来なかったこと、それが出来るだけの強さを自分は持っているから…。
生かしたいミュウ・了
※キースがマツカを見逃がした理由。どうしてマツカを生かしておくのか、ちょっと捏造。
本当はもっと単純でしょうけど、せっかくシロエがミュウなんだから、と。…ダメ?
(嫌…。嫌だ…!)
来るな、と叫んでも消えてくれない忌まわしい機械。
子供時代の記憶を消してしまった、テラズ・ナンバー・ファイブの姿。
苦しみ続けるシロエは知らない、自分が何処にいるのかを。
これは夢ではないことを。
フロア001、進入禁止セクションに足を踏み入れた報い。
囚われた末にサイオン・チェックの最中だとは。
本当に記憶の中を探られ、掻き回されているのだとは。
(…助けて!)
何度目に叫んだ時だったろうか、不意に姿を見せた少年。
金色の髪に赤いマントの、幼かった頃に出会った少年。
(ピーターパン!!)
きっと彼なら助けてくれる、と思った途端に軽くなった身体。
まるで翼が生えたかのように。
ピーターパンと一緒に空へ舞い上がって、何処までも飛んでゆけるかのように。
(…今の…)
飛べた、と見回した瞳に映った、自分のカメラ。
それを手にして何処へ行ったのか、少しも思い出せないけれど。
(ぼくのカメラ…!)
取り戻さなきゃ、と思ったら宙を飛んで来たカメラ。
腕の中にストンと収まるように。
それを抱き締め、ホッとついた息。
(良かった…)
カメラにはケーブルが繋がれたままで、誰かが見ようとしている中身。
大切なものが入っているのに。
けして中身を見せるわけにはいかないのに。
(このケーブル…)
ケーブルを抜いて捨てるのがいいか、中身を抜いてカメラを捨てるか。
一瞬迷って、選んだ中身。
それさえあったら、もうカメラには用は無いから。
中のチップが大切だから。
そして抜き出したカメラのチップ。
もう要らない、と放り出したカメラ、それは床へと落ちたから。
(落ちちゃ駄目だ…!)
せっかく空を飛べたのに、とトンと蹴った宙。
飛ぼうと、ぼくの部屋まで、と。
此処にいたなら、また捕まってしまうから。
ピーターパンが飛ばせてくれた空から、床に引き戻されるから。
引き戻されたら、待っているのは恐ろしい機械。
テラズ・ナンバー・ファイブの手先で、頭を、記憶を掻き回す悪魔。
だから逃れた、空へ、部屋へと。
きっと飛べると、ピーターパンが来てくれたから、と。
(ぼくの部屋まで…!)
飛べる筈だよ、と宙を蹴って飛んで、ストンと床に着いた足。
其処は自分の部屋だった。
明かりは灯っていなかったけれど。
薄暗い闇に覆われたままで、空気も冷えていたけれど。
(…ピーターパン…?)
来てくれたよね、と思うのに、誰もいない部屋。
自分一人が立っているだけ、制服さえも失くしてしまって。
手の中にはチップ、カメラに仕込んでいた筈のもの。
(…どうして此処に?)
それにカメラは、と俄かに覚えた激しい恐怖。
自分の身に何が起こっていたかを、思い出したから。
捕まったのだと、フロア001で、と。
(それじゃ、どうして…?)
自分は此処にいるのだろう?
どうやって逃れて来られたのだろう、あの悪魔たちが潜む部屋から。
頭を、記憶を掻き回す機械、其処に囚われていた筈なのに。
自分の力で出られるわけなど、無い筈なのに。
カメラのチップにしても、そう。
どうやってそれを取り戻せたのか、何故、手の中に持っているのか。
(…覚えていない…?)
何も。
(…誰がぼくを…?)
分かるわけがない。
けれど、確かに逃げ出した自分。此処は自分の部屋なのだから。
考えても思い出せないこと。
何処だったのかも謎の監獄から、気付けば此処に戻っていた。
奪われた筈の、カメラのチップを取り戻して。
悪魔のような機械の牢獄、其処から自由の身になって。
(……ぼくは、どうして……)
何も覚えていないけれども、一つだけ、今も確かなこと。
きっと悪魔は諦めていない、自分を捕えて苦しめることを。
カメラのチップを取り上げることも。
(…隠さなきゃ…)
自分が見付けた、キースの秘密。
それを収めた大切なチップ、これを誰にも捜せない場所へ。
何処へ、と考えなくても分かる。
いつも自分と一緒だった本、ピーターパンの本がいい。
あの本はいつも一緒だから。
どんな時でも、きっとこれからも、けして自分は離さないから。
(ピーターパン…)
もう顔さえも思い出せない、両親がくれた大切な本。
この本を失くす時があるなら、離れる時が来るのなら…。
それは自分が死んだ時だけ、そうだと心に決めている本。
此処に隠せば、離れない。
きっと誰にも見付からないから、この中に隠しておくのがいい。
(…ごめんなさい…)
ぼくを許して、と剥がしたピーターパンの本の見返し。
「セキ・レイ・シロエ」と、自分の名前が書いてある箇所。
其処を剥がして、隠したチップ。
元通りにそっと貼って戻して、見返しの下に。
(これで大丈夫…)
もう見付からない、と安堵したけれど。
チップは本に隠せたけれども、此処にいたなら、来るだろう悪魔。
(隠れなきゃ…)
逃げ切らなくちゃ、と潜り込んだ床下。
前に其処から下へと潜って、ステーションの奥まで入ったから。
通風孔を伝って行ったら、きっと何処かへ出る筈だから。
逃げてみせる、と入って隠れて、やり過ごした保安部隊の捜索。
けれど分からない、自分が此処まで逃げられた理由。
あの悪魔から。
地獄のような牢獄から。
カメラのチップも無事に取り戻して、部屋まで戻って来られた理由。
(…ぼくは、どうやって…?)
分からないけれど、まるで見当もつかないけれど。
きっとこうだ、と立てた推論。
あの部屋で何か騒ぎが起こって、それに乗じて逃げ出せた。
けれども熱にうかされていたか、でなければ混乱していたか。
この部屋に戻るまでの記憶を失くして、今、此処にいるに違いない。
だから追われているのだと。
保安部隊が捜していると、姿を隠した逃亡犯の自分を、と。
(逃げなくちゃ…)
そしてキースにこのチップを、と抱えた本。
大切なピーターパンの本。
あいつにチップを突き付けてやると、これを見ればキースも終わりだと。
澄ましたエリートの顔は崩れて、きっとパニックになるだろうと。
そうするまでは捕まらない、と上げた通風孔の蓋。
此処を抜けてと、なんとしてでもキースに会ってこれを見せねばと。
そのために自分はこんな目に遭って、今も追われているのだから。
地獄の責め苦を受けたのだから。
(キース・アニアン…)
見付けてやる、と進むシロエは、まるで知らない。
自分が何をしたのかを。
どうやって悪魔の手から逃れて、自分の部屋まで飛んだのかを。
カメラのチップを取り戻せたのも、空を飛べたのも、全部自分のサイオンなのに。
夢で出会ったピーターパンから、その切っ掛けを貰ったのに。
ピーターパンはミュウの長だから。
サイオンを使った思念波通信、シロエはそれに晒されたから。
呼応するように目覚めたサイオン、その力で空へ飛び立った。
瞬間移動で機械の壁をすり抜け、カメラからチップを抜き取って。
宙を蹴って飛んで、自分の部屋へ。
そうして移動したというのに、自分では覚えていなかった力。
覚えていたなら、変わったろうに。
サイオンを自由に扱えたのなら、その後の運命も変わったろうに。
けれど、シロエは気付かないまま。
目覚めた力を使いこなせたら、呼べていただろうピーターパン。
直ぐ其処に来ていた白い鯨を、シャングリラという名のミュウの箱舟を。
かつて自分が乗り損ねた船、それに乗ることも出来ただろうに。
(…キース・アニアン…)
あいつ、とシロエは追い続ける。
通風孔の中を這って進んで、キースが来そうな場所へ出ようと。
ピーターパンの本を抱えて、チップを仕込んだ本を手にして。
もしもキースを忘れたならば、彼の代わりに、ピーターパンを思い出したなら…。
(…ぼくは必ず…)
キースの奴を、と憎む代わりに、子供の心を捕まえたなら。
ネバーランドに行きたかった夢を、ピーターパンを追っていたならば。
きっと全ては変わるのに。
ピーターパンは、白い鯨は、直ぐ近くまで来て飛んでいるのに。
今、呼んだならば、それは必ず、シロエを救いに来てくれるのに。
気付かないから、ただひたすらに進んでゆく。
ピーターパンの本と一緒に、破滅へと。
もう一度空へ飛び立つ代わりに、二度と戻れない道へ向かって…。
目覚めたサイオン・了
※シロエがサイオン・チェックから逃げたルートは謎だよな、と前から思っていたわけで。
どう考えてもサイオンを使った脱出マジック、けれど本人には自覚ゼロ。自覚してればね…。
(伝説のタイプ・ブルー…)
あれがオリジン、とキースの脳裏に浮かんだ顔。
旗艦エンデュミオンの一室、指揮官用にと設えられた部屋で。
モビー・ディックの中で出会ったアルビノの男、ソルジャー・ブルー。
実在するとは思わなかった。
今もなお生きていたなどとは。
かつて確かに存在したモノ、けれど途絶えたその痕跡。
モビー・ディックがアルテメシアを離れた後には、掴めなくなった彼の消息。
(…ジョミー・マーキス・シンの方なら…)
自分も確かにこの目で見たから、ジルベスター星系に来る前に既に知っていた。
ソルジャー・ブルーの次のソルジャー、ミュウの長だと。
彼が自らそう名乗ったから、E-1077を思念波攻撃した時に。
あの頃、自分は知らなかったM。ミュウを示す言葉。
メンバーズとしてミュウを学ぶまでには、暫くかかった。
其処で教えられた、ソルジャー・ブルー。
彼が最初に発見されたと、最強のタイプ・ブルーだったと。
ただし、アルテメシアを出てゆくまでは。
それよりも後の消息は不明、恐らく死亡したのだろうと。
今のミュウの長は、別人だから。
ジョミー・マーキス・シンなのだから。
モビー・ディックに囚われてからも、その名を耳にしなかった。
だから「いない」と信じていた。
もう死んだのだと、過去のものだと。
彼がどれほど強かろうとも、死んだのでは何の意味もない。
敵として出会うことなどは無いし、今のソルジャーでは足りない手応え。
伝説の男は強かったろうかと、それとも彼もこの程度かと嗤ってもいた。
(…いくら私を捕えても…)
心を読むことも出来ない男が、ソルジャー・シン。
ミュウの長でも、その程度。
子供を使って入り込むのが精一杯。
それ以上のことは出来はしないと、自分の敵とも言えはしないと。
何も情報を引き出せないなら、ミュウに勝機は無いのだから。
たとえ自分を殺したとしても、代わりは幾らでもいるのだから。
そう思ったから、嘲笑ったミュウ。
いずれ殲滅されるだろうと、その人柱でもかまわないと。
自分の消息が此処で消えたら、次は艦隊がやって来るから。
有無を言わさず殲滅するから、そうなるのを待っているがいいと。
(…だが、あの男…)
死んだとばかり思った男。
伝説と言われたタイプ・ブルー・オリジン、ソルジャー・ブルー。
彼に出会って、負けを悟った。
勝てはしないと、自分の負けだと。
たまたま運良く生き残れただけ、ミュウの女が何かしただけ。
どういうわけだか自分を庇った、同じ記憶を持つ女。
あれが自分を庇わなければ、きっと殺されていただろう。
防ぐ間も無く、あの一瞬で。
頭の中身を木っ端微塵に打ち砕かれたか、心臓を握り潰されたか。
そんな所だと分かっている。
「アレなら出来る」と、「私の力では防げなかった」と。
彼がそうすると読めなかったから。
殺意の欠片も見せることなく、あの男はそれを放って来たから。
(…本当に、よくも助かったものだ…)
死なずに此処へ来られたとは。
ミュウの殲滅に向かう艦隊、その指揮権を任されるとは。
本当だったら、自分は生きて此処にはいない。
ソルジャー・ブルーが放った一撃、あれに息の根を止められて。
死骸になって宇宙に棄てられ、それをマツカが拾えたかどうかも危ういくらい。
「行方不明」とだけ上がる報告、後はグランド・マザーの判断。
やはりあの星は怪しいと。
ミュウの巣だから滅ぼすべきだと、彼らが宇宙に広がる前に、と。
きっと同じにメギドは用意されただろう。
こうして自分が依頼せずとも、グランド・マザー直々に。
星さえ砕けばミュウは消せるし、モビー・ディックも破壊出来るから。
(…私は運が良かっただけだ…)
人質に取った、あの女。
あれがいなければ死んでいたのだと、負けだったのだと分かっている。
易々と心に入られたから。
心の中身を読み取られたから、ソルジャー・ブルーに。
なんとも無様な負けっぷり。
ミュウの女に庇われたのなら、それで危険に気付くだろうに。
次は何かと構えるだろうに、その前に読まれていた心。
誰も読めない筈なのに。
ジョミー・マーキス・シンには、無理だったのに。
(あのまま、いたなら…)
どうなっていたか、今頃は。
人質を二人取っていたから、辛うじて逃げ延びられただけ。
「人質を一人、解放しよう」と、子供を放り投げたから。
ソルジャー・ブルーの注意を逸らして、その隙に船に逃げ込めたから。
もう一人、人質を引き連れたままで。
ミュウの女を放さないままで。
(…もしも、人質が一人だったら…)
そんな姑息な手は使えなくて、ソルジャー・ブルーに殺されていたか、捕えられたか。
心を読めるくらいなのだし、ソルジャー・シンよりも遥かに強い。
彼とまともに対峙していたら、きっと命は無かっただろう。
人質無しで出会っていたら。
その人質がいたとしたって、一人しか連れていなかったなら。
尻尾を巻いて逃げるしか無かった、あの格納庫。
余裕の欠片もありはしなくて、それから後も運が良かっただけ。
たまたまマツカが来合わせただとか、人質が価値あるモノだったとか。
ソルジャー・シンが自ら飛んで来たほど、大切らしいあの女。
(…あれが下っ端の女だったら…)
やはり無かったろう命。
躊躇いもなくミサイルが来るとか、遠隔操作で船ごと爆破されるとか。
「シールドすれば助かる筈だ」と、「ミュウの女なら出来るだろう」と。
重要人物だったからこそ、ミュウどもが手出しを躊躇っただけ。
他に手段が何か無いかと、いきなり爆破は無礼すぎると。
(…本当に、運が良かっただけだ…)
自分が生きて此処にいるのは。
メギドを携え、ジルベスター星系へとミュウを滅ぼしに行けるのは。
(そして、あそこには…)
今もソルジャー・ブルーがいる筈。
あれで終わるとは思えない。
きっと彼なら出て来るのだろう、他の者では手に負えないと知ったなら。
メギドの炎で燻し出したら、あの時、自分に向けた闘志を此方へと向けて。
今の長では、まるで話にならないから。
人類に勝てはしないから。
(私一人が逃げ出しただけで…)
大混乱だった船の中。
彼がきちんと指揮していたなら、あんなことにはならないから。
ソルジャー・ブルーが出て来なかったら、自分はまんまと逃げおおせていた筈だから。
敵と呼べるのは、きっとソルジャー・ブルーだけ。
自分と戦い、勝ちを収めることが出来るのも、きっとソルジャー・ブルーしかいない。
そんなつもりは無いけれど。
彼に容易く倒される気は無いけれど。
(…しかし、アレなら…)
自分を殺す力を持っているのだろう。
現に自分は殺されかけたし、生きているのが不思議なほど。
アレにもう一度会いたいと思う、真正面から。
一対一で彼に会ったら、どちらが死ぬのか、どちらが生きるか。
それを無性に知りたいと思う、生き残れるのは何方なのかと。
ソルジャー・ブルーか、自分なのかと。
(…負けたままでは…)
尻尾を巻いて逃げたままでは、きっと一生、彼に勝てない。
メギドの炎が彼を焼いても、星ごと砕いてしまっても。
それは自分の力ではなくて、メギドの破壊力だから。
自分は「発射!」と命令するだけ、他の者でも、それこそ部下でも出来るのだから。
(……ソルジャー・ブルー……)
此処へ出て来い、と握り締めた拳。
メギド如きに滅ぼされるなと、生きて私の前に立てと。
そうすれば、仕切り直せるから。
今度こそ自分が勝ちを収めて、真の勝者となってやるから。
(…私を殺せるような男を…)
敵に出来たら、そして勝てたら、きっと爽快だろうから。
ジルベスターまで来た価値があるから、もう一度チャンスが欲しいと思う。
あの伝説のタイプ・ブルーと、ソルジャー・ブルーと戦える場所。
それが欲しいと、たとえ負けても構わないからと。
彼ともう一度向き合えなければ、戦えなければ、ずっと負け犬のままだから。
尻尾を巻いて逃げて行ったと、運が良かっただけの男だと、きっと嗤われるだけだから。
ソルジャー・ブルーに、あの男に。
自分を窮地に追い込んだ男、殺すことさえ出来る力を秘めた男に。
「地球の男は、あの程度か」と。
メギドに頼らねば勝てないのかと、よくも偉そうな口を叩けたと。
そうならないよう、今はチャンスを願うだけ。
ソルジャー・ブルーが出て来ることを。
メギドの炎に滅ぼされずに、生きて再び自分を殺しにやって来ることを…。
伝説のミュウ・了
※自分が本当にソルジャー・ブルーのファンなのかどうか、疑われそうなブツを書いた気が…。
ブルーのファンには間違いないです、根っからのブルー・ファンです。マジで…。
「ただいま、シロエ」
「パパ!」
開いた扉の向こうに、父。
駆け寄って行けば、父は高々と抱き上げてくれた。
まるで重さなど無いかのように、シロエの身体を高く、高く。
クルクルと回ってくれる父。
もう嬉しくてたまらないから、歓声を上げて回り続けた。
父と一緒に、クルリクルリと何回も。
「さあさあ、パパもシロエも、御飯にしましょ」
母が呼んでくれて、下り立った床。
「わあ!」
美味しそう、と眺めたテーブルの上。
母の得意な料理が並んで、今日は御馳走。
(ふふっ、御褒美…)
きっと、この間のテストの点数。
誰も満点を取れなかったのに、自分は満点だったから。
学校の先生も褒めてくれたし、父も母も喜んでくれたから。
いただきます、とパクリと頬張った。
とても美味しくて、頬っぺたが落っこちてしまいそう。
(すごく幸せ…)
こんな日はきっと、夜になったら…。
(ピーターパンが来てくれるかも!)
いい子でベッドに入ったら。
「おやすみなさい」と、ベッドに入って目を閉じていたら。
そのまま寝ないで待っていたら、きっと…。
だから寝ないで待つんだもん、と頑張ったのに。
知らない間に眠ってしまって、素敵な夜は過ぎてしまって…。
(もう朝なの!?)
嘘、と目覚めたベッドの上。
目覚まし時計を止めようとしたら、伸ばした自分の手に驚いた。
(えっ…?)
ぼくの手、と凍ってしまった瞳。
夢の中の自分の手とは違って、もっと大きくなっているから。
子供と言うより、大人に近い手。
どうしてなの、と見詰めたけれども、鳴り続けている目覚ましの音。
冷たい音で、規則正しく。
急き立てるように、けたたましく。
(…マザー・イライザ…)
途端に引き戻された現実、此処は自分の家ではなかった。
E-1077、エネルゲイアから遠く離れた教育ステーション。
其処で目覚めた、十四歳の自分。
幼かった日は消えてしまって、今の自分は…。
(パパ、ママ…)
何処、と見回しても、いる筈がない父と母。
自分の家ではないのだから。
故郷からは遠く離れてしまって、帰る道も、もう…。
(覚えていないよ…)
帰れないよ、と零れた涙。
目覚ましだけは止めたけれども、もう戻れない夢の中。
せっかく父に会えたのに。
懐かしい母が作る御馳走、それを美味しく食べられたのに。
(ぼくって馬鹿だ…)
どうして眠ってしまったのだろう、あの夢の中で。
もしも眠らずに起きていたなら、飛べていたかもしれないのに。
夜の間に、ピーターパンが来てくれて。
一緒に空へと舞い上がれていて、今頃はきっと、ネバーランドへ。
あのまま空を飛んで行ったら、きっと此処にはいないのだろう。
子供が子供でいられる世界へ、ネバーランドへ、高く高く空を飛んで出掛けて。
(…こんな所から…)
逃れて、焦がれ続けた空へ。
ネバーランドへ旅立って行って、二度と戻らずに済んだのだろうに。
(…パパとママだって…)
離れずに済んでいたのだろう。
ネバーランドに飛んで行っても、会いたくなったら、きっと帰れる。
心でそれを願ったならば。
「パパとママに会いに帰りたいよ」と、ピーターパンに言ったなら。
子供の味方は、子供を泣かせはしないから。
ピーターパンなら、夢を叶えてくれるから。
(…パパ、ママ…)
ぼくはどうして寝てしまったの、と叫びたい気分。
どうして起こしてくれなかったのと、ピーターパンを待っていたのにと。
(…寝る前に、ちゃんと頼んでおいたら…)
父が揺すってくれただろう。
「今夜は起きて待つんだろう?」と。
母だって、きっと起こしてくれた。
「眠っちゃ駄目よ」と、「起きたまま待っているんでしょう?」と。
パパとママに頼み損なっちゃった、と呪った夢。
きちんと頼んで眠っていたなら、今頃はきっと別の世界にいただろうから。
E-1077は丸ごと消えてしまって、ネバーランドを飛び回って。
(…ネバーランドに行きたいよ、ママ…)
パパ、と呟いて、気付いたこと。
夢の世界で確かに会った。
顔もぼやけてしまった両親、夢ではハッキリ見えていた顔。
何処も霞んでいなかった。
家も、テーブルも、母が作った御馳走も。
料理を口にした時の美味しさだって、何もかも全部、みんな本物。
夢の世界で見ていた全ては、きっと本当にあったもの。
(…ぼくが忘れてしまっただけで…)
成人検査で奪われただけで、あれは全部、自分が見ていたもの。
両親の顔も、父が入って来た扉だって。
(…どんな扉だっけ…?)
パパはどうやって入って来たっけ、と考えても思い出せない扉。
父の顔だって覚えていなくて、母の顔だって記憶に無くて。
(……ママの御馳走……)
並んでいた料理も思い出せない、大好物だった筈なのに。
とても美味しくて、顔が綻んだ筈なのに。
(…夢の中でしか、見られないの…?)
目覚めた途端に消えてしまう夢、その中でしか。
夢を見ている間だけしか、きっと見付からない真実。
自分は何処で暮らしていたのか、両親はどんな顔だったのか。
どういう日々を過ごしていたのか、楽しかったことは何だったのか。
(……そんなの、酷い……)
本当のことは、夢の中にしか無いなんて。
目覚めた途端に消える泡沫、パチンと壊れるシャボン玉だなんて。
あんまりだよ、と思うけれども、これが現実。
自分の記憶は機械に消されて、目覚めたら忘れる夢の中のこと。
嫌な夢なら、起きた後にも心の中に残っているのに。
「捨てなさい」と迫る、テラズ・ナンバー・ファイブなら。
「忘れなさい」と記憶を消してしまった、忌まわしい機械の夢の時なら。
そっちの方こそ忘れたいのに、忘れないままで目が覚める。
何度も自分の悲鳴で飛び起き、その度に怖くて泣き続ける夢。
「パパ、ママ…」と肩を震わせて。
失くしてしまった記憶を取り戻したくて、両親のいた家に帰りたくて。
両親だったら、きっと守ってくれるから。
「怖いよ」と自分が怯えていたなら、「大丈夫」と抱き締めてくれる筈だから。
それなのに、思い出せない両親。
家があった場所も、家の扉も、テーブルだって。
何もかも自分は忘れてしまって、夢で出会っても、また忘れた。
目覚ましの音が鳴った途端に、本当のことを。
自分が子供でいられた時代を、子供の視点で見ていたことを。
それこそが、きっと真実なのに。
今も何処かに、本当のことはある筈なのに。
(……パパもママも、家も……)
エネルゲイアに今もそのままで、自分だけが此処に放り出された。
ピーターパンの本だけを持って、独りぼっちになってしまって。
本当のことを全部忘れて、夢に見たって、掴み取れずに。
(……もう一度……)
眠り直したなら、夢の世界に戻れるだろうか。
講義に出ないで眠り続けたら、もう一度あの夢に入れるだろうか。
(もしも、戻れたら…)
今度こそ寝ないで、夢の中で待とう。
両親に頼んで起こして貰って、ピーターパンがやって来るまで。
夜の空を飛んでネバーランドへ、ネバーランドよりも素敵な地球へ。
(…飛んで行かなきゃ…)
もう一度だけ、と切った目覚まし。
チャンスは掴み取りたいから。
テラズ・ナンバー・ファイブの夢が来たって、かまわない。
少しでも希望が残っているなら、それに賭けたいと思うから。
機械の言いなりになって講義に出るより、今日は機械を無視したいから。
(今日の講義くらい、出なくても…)
遅れは直ぐに取り戻せるから、夢の世界へ戻ってゆこう。
夢の世界が本物だから。
子供が子供でいられた時代は、確かにあった筈なのだから。
(パパとママに会って、御馳走を食べて…)
夜は寝ないでネバーランドへ、と目を閉じて戻った上掛けの中。
運が良ければ、きっと真実が見えるから。
怖い夢が来たってかまわないから、夢の世界へ飛び立とう。
父と母がいた時代へと。
本当のことがあった世界へ、機械がすっかり消してしまった子供時代へ。
その世界への扉が開いたら、真っ直ぐに飛んでゆこうと思う。
夜は寝ないでピーターパンを待って、ネバーランドへ、ネバーランドよりも素敵な地球へ。
夢の世界は本物だから。
真実はきっと其処にあるから、夢に隠れている筈だから…。
戻りたい夢・了
※成人検査で消された記憶は、何処かに残っている筈で…。何かのはずみに出て来る筈。
だったら夢でも出て来るかもね、と書いてみたけど、シロエ、可哀相…。夢、見られたかな?
「取材なら、軍の広報を通してくれ」
無関心にそう言い捨てたキース。
久しぶりに見たスウェナだけれども、特に関心は無かったから。
「この花、覚えてる?」と訊かれた花にも。
「E-1077の中庭にも咲いていたわ」と言われた所で、もう昔のこと。
サムでさえも何処かに行ってしまった。
姿は昔と同じにサムでも、「キース」を覚えていたサムは。友達だったサムは。
だからスウェナと話すことは無い。
まして彼女が知りたい内容、ジルベスター星系の事故調査となれば任務だから。
Mと関係があるかもしれない、国家機密を明かせはしない。
無駄な話をするつもりも無い、つまらない思い出話など。
けれど…。
「ピーターパン」
スウェナがいきなり口にした言葉、それがキースの足を縫い止めた。
遠い昔にシロエが語った、その本の中身そのままに。
シロエが乗った練習艇を追っていた時、通信回線を通して聞こえて来た声。
ピーターパンの本に書かれていること、それをシロエは語り続けていた。
「影がくっつかないよ」と泣いたピーター、「私が影を縫ってあげる」という言葉。
まるで時の彼方から戻ったかのように、影の代わりに足を縫われた。
「ピーターパン」と聞いた途端に。
縫い止められて立ったままの背中、振り返れないでいたらスウェナは続けた。
「あなた宛のメッセージが発見されたわ」
…そう、セキ・レイ・シロエのものよ。サムの事故には、私の追っている…。
白い宇宙鯨が関わっている、とスウェナが前へと回り込んだけれど、どうでも良かった。
そんな話は。
問題はシロエ、彼の名前とメッセージ。
スウェナは「今度会えたら、そのメッセージを渡せるんだけど」と見詰めて来たから。
「戻ったら連絡しよう」
迷うことなく、そう応えた。
シロエが残したメッセージならば、どうしても見ておきたいから。
そう思ったから、「その時は二人だけの同窓会でもしましょ」と言ったスウェナを見送った。
(…変わったのは君の方だ。…スウェナ)
渡された花を手に持ったままで、心の中で呟いたけれど。
強くなったと思ったけれども、それもどうでもかまわないこと。
手の中の花も、今では何の意味も持たない。
同じ花でも、この白い花は病院の花。
違う所で咲いた花。
花を頼りにE-1077に戻れはしないし、サムの心も昔に戻りはしないだろうから。
見上げれば、病室から手を振るサム。
「キース」だとは分かってくれないのに。
サムは笑顔を向けるけれども、それは「関心を持ってくれた人間」だから。
(…何もかもが…)
変わってしまったんだ、と地面に投げ捨てた花。
持っていたって、何の役にも立たないから。
車の運転の邪魔になるだけ、それだけの存在に過ぎないから。
そうして走り出して間もなく、気付いたこと。
(…シロエ…!)
その瞬間に踏んだブレーキ、後ろの車が憤るように鳴らしたクラクション。
メンバーズ・エリートらしくもないミス、慌てて路肩に車を寄せた。
こんな所で事故を起こすなど、軍に迷惑をかけるだけ。
けれども今は運転出来ない、そう思ったから停めようと決めた。
激しく脈を打つ心臓。
E-1077に、それからシロエ。
(…誰も覚えていない筈なんだ…)
あのステーションに、セキ・レイ・シロエがいたことを。
ステーションの運営に関わる者ならともかく、生徒だった者は。
シロエと同じ時期に其処に居た者、彼らの記憶は消されたから。
(…マザー・イライザ…)
記憶を消させたマザー・イライザ、皆がシロエを忘れてしまった。
サムも、シロエの同級生たちも。
誰もが忘れてしまったシロエ。
彼の船を撃った自分以外は、一人残らず。
マザー・イライザの計算の下に奪われた記憶、それは戻りはしないだろう。
サムのようにでもならない限り。
今は子供に戻ったサム。
あんな具合に、シロエのいた時代に心だけが戻れば、有り得るけれど。
(だが、それは…)
精神状態が普通ではないということ。
年相応の話はまるで出来ない、ただの子供になるということ。
候補生時代を「子供」と呼ぶかどうかは、ともかくとして。
(……スウェナ……)
けれど、スウェナは覚えていた。
E-1077の中庭に咲いていた花を。
ステーションにいたセキ・レイ・シロエを、あの頃のままに。
そしてそのまま成長を遂げて、自分の前に戻って来た。
「ピーターパン」と。
シロエが残したメッセージを持って、普通に会話が出来る者として。
(……システムの誤算……)
それに違いない、マザー・イライザの手から離れたスウェナ。
ステーションから出て行った時は、結婚という道を選んでいたから、記憶はそのまま。
何も処理されずに旅立って行った、セキ・レイ・シロエを覚えたままで。
(本当だったら…)
スウェナは子供の母親になって、それきり消えていただろう。
シロエの記憶を持っていたって、単なる知り合い程度のこと。
「昔、そういう人間がいた」と思い出しても、その時限りで消えてゆくもの。
その後のシロエを追いはしなくて、無関心に記憶の淵に沈むもの。
(しかし、スウェナは…)
ジャーナリストの道を選んで、離婚してまで今の世界を追っている。
宇宙鯨を、モビー・ディックを。
Mの母船がそれの正体だと、スウェナが知っているわけがない。
ミュウの存在も、Mとは何を指すのかも。
なのに、核心に迫りつつある、ジャーナリストの勘だけで。
其処に何かが隠されていると、モビー・ディックが鍵なのだと。
スウェナが此処まで辿り着いたなら、そしてシロエを覚えているなら。
メッセージまで持っていると言うなら…。
(…神がシロエに…)
味方したのか、忘れ去られてしまわぬように。
どんな形かは分からないけれど、彼のメッセージが届くようにと。
本当だったら、それは残りはしないのに。
ステーションの中で処理されているか、何処かに廃棄されて終わりか。
(それが残ったのも…)
残ってスウェナの手に渡ったのも、神の采配なのだろう。
スウェナがモビー・ディックを追っていたから、全ての糸が繋がった。
たった一人だけ、シロエを覚えていた人間。
それがスウェナで、彼女は何故だか、モビー・ディックを追い始めたから。
離婚してまで、ジャーナリストになったから。
(……こんなことが……)
この世にあるのか、と心臓は今も激しく脈打ったまま。
マザー・システムにもミスはあるのかと、その手を逃れる者もいるのかと。
シロエは逃れ損なったのに。
逃げ切れないまま、宇宙に散って行ったのに。
(……シロエ……)
彼は自分に何を残したと言うのだろう。
「ピーターパン」とスウェナが口にした言葉、それで思い出すのは古びた本だけ。
シロエが大切に抱いていた本、子供時代からの持ち物だった本。
(あの時、保安部隊がシロエを…)
ベッドに乗せて運び去った時、ピーターパンの本を持たせてやった。
シロエの大事な本なのだからと、側に置いてやって。
(まさか、あの本が…)
戻って来るとは思えないけれど、他には心当たりが無いから。
(……そうなのか?)
あれが手元に来るのだろうか、次にスウェナに会ったなら。
ジルベスターから戻ったなら。
「ピーターパン」の本、シロエが大切に持っていた本。
練習艇で宇宙へ逃げ出した時も、中身を語り続けていた本。
「影がくっつかないよ」と、「縫うって何さ?」と。
それがあるなら、もう間違いなくマザー・イライザの、マザー・システムのミス。
シロエはシステムに消されたけれども、あの本は消えずに何処かに残った。
きっとそうだという気がするから、まだ暫くは…。
(……動けないな……)
メンバーズ・エリートが、自動車事故など起こせないから。
運転ミスは出来ないから。
揺り起こされてしまった感情、それが落ち着いて凪いでくれるまでは、このまま路肩に。
早くなった鼓動が鎮まるまでは、車を走らせることは出来ない。
E-1077に、シロエがいた日に、引き戻されてしまったから。
シロエの船を撃ち落とした日に、あの瞬間へと、心だけが飛んでしまったから。
(…今、走ったなら…)
前をゆく船が見えるのだろう。
あの日、シロエが乗っていた船が。暗い宇宙を飛んでゆく船が。
それを見たなら、また踏むのだろう急ブレーキ。
今も後悔しているから。
シロエを乗せた船を見たなら、今の自分は追えはしないで、止まる方をきっと選ぶのだから…。
彼方からの記憶・了
※スウェナが「シロエを覚えている唯一の生徒」なんですよねえ、皮肉なことに。
いくらマザー・システムでも、そこまでは計算していなかったと思うんですけど…?