(パパ、ママ……)
帰りたいよ、とシロエの瞳から零れ落ちた涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで向かう机で。
さっきまで、此処に「母」がいた。
正確に言えば母の幻影、そして本物の「母」ではない。
マザー・イライザが現れただけで、母の姿を真似ているだけ。
「見る者が親しみを覚える姿」で現れなければ、「彼女」は役目を果たせないから。
もっとも、機械を「彼女」と呼ぶなど、腹立たしい限りなのだけど。
(…でも、女には違いないんだ…)
正体は巨大なコンピューターでも、マザー・イライザは「女性」ではある。
成人検査で記憶を奪った、忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブも。
(地球にあるって言う、グランド・マザーも…)
その名に「マザー」と入る以上は、「女性」には違いないだろう。
「グランド・マザー」が意味する通りに、「祖母」らしく年老いているかはともかく。
(…テラズ・ナンバー・ファイブは機械だったのに…)
見るからに機械らしい姿で、その顔さえも歪んでいた。
だから余計に憎しみが増すし、きっと一生、忘れはしない。
「アレ」に与えられた屈辱を。
何も知らずにシステムに騙され、まんまと記憶を奪われたことを。
(…マザー・イライザも同じなのに…)
コールされる度、欠けてゆく記憶。
心が軽くなった気はしても、それは「何かを忘れた」から。
何だったのか自覚は無くても、大切なことを。
忘れまいとする故郷のこととか、両親と過ごした頃のこととか。
(……それなのに、ママの姿をしてて……)
まるで「本物」のように語り掛けるから恐ろしい。
初めて見た日は、「母」に出会ったと思ったくらいに似ている姿。
本物の母の面差しは霞んでいるというのに、何処も霞んで欠けはしないで。
その「からくり」に気付いた時から、マザー・イライザを「描く」ようになった。
絵心は持っていないけれども、描かないよりかはマシだろうと。
記憶の中で薄れてしまった母の姿を、見せるのがマザー・イライザだから。
「彼女」の姿を真似て描いたら、「母」を描ける日も来るだろう。
自分で描いた下手な絵ながらも、「これがママだ」と思えるものを。
「ぼくのママだよ」と額縁に入れて、壁に飾りたくなるような絵が。
(……今日だって……)
今すぐ鉛筆を握ったならば、さっき見た「母」が描けるだろう。
机の引き出しから白い紙を出して、それに向き合って挑んだならば。
(……でも……)
今日は「描ける」という気がしない。
涙で視界がぼやけてしまって、ただただ、「母」が恋しくて。
両親に会いたい気持ちが募って、コントロールさえ出来なくて。
こんな状態で紙に向かっても、きっと涙で駄目になるだけ。
後から後から零れる涙が、真っ白な紙に染みを作って。
濡れて湿ってしまった紙には、もう鉛筆では描けなくて。
(…描けないよね…)
今日は駄目だ、とグイと涙を拭う。
起きていたって、もう何一つ出来ないだろう。
母の姿を描き出すことも、机で勉強することも。
趣味にしている機械いじりも、気分が乗ってはくれないから。
(…こんな時には、何をしたって駄目なんだから…)
いっそ寝ようかと思うけれども、シャワーを浴びる気にもなれない。
シャワーを浴びずにパジャマを着るのは、具合の悪い時だけなのに。
今日は訓練もあったことだし、シャワーは浴びておきたいのに。
(……ちょっとだけ……)
もう少し気分が落ち着いてから、とシャワーの時間は先へ延ばした。
けれども机の前にいるのも、今は嬉しいものではない。
「母」は其処から現れたから。
机の側から、「どうしました?」と姿を見せたマザー・イライザ。
「彼女」と部屋を繋ぐ端末、それは机の一部だから。
マザー・イライザの姿を投影するのも、机の機能の内なのだから。
(…見張られてるよね…)
いつも、いつも、どんな時だって。
部屋には監視カメラもあるから、何をしているかは全て筒抜け。
そうだと承知しているけれども、せめて僅かでも逃れたい。
マザー・イライザの視線から。
「彼女」が常に音を集める、「耳」になっている盗聴器から。
(……盗聴器ね……)
自分から見れば「盗聴器」という位置付けだけれど、そう思う者は少ないだろう。
監視カメラの方にしたって、候補生たちは気にも留めない。
個室で「机」に向かっていたなら、心の乱れを読み取られるという「恐ろしさ」さえも。
(…誰も分かっちゃいないんだから…)
それに「怖い」と思いもしない、と舌打ちをする。
此処では誰もが「羊」なのだ、と。
マザー・イライザに飼い慣らされて、何も変だと思わない羊。
「マザー牧場の羊たち」の群れに、自分は入ってゆけなどはしない。
彼らの群れに入ってゆけたら、生きてゆくのは楽なのだろうに。
羊は群れを作るものだし、羊飼いがいれば「もっといい」。
何処に行けばいいのか導いてくれて、牧羊犬もつけてくれるから。
(……狼が羊を襲いに来たって……)
羊飼いたちが追い払う上に、牧羊犬も激しく吠えるのだろう。
狼の姿が見えなくなるまで、一匹の羊も欠けないように。
そういう「羊」が暮らすステーションで、自分は「羊」になり損なった。
羊だとしても、群れを離れて一匹だけで生きているのだろう。
緑豊かな牧草地には、背中を向けて。
食べる草さえ乏しい荒野で、狼の遠吠えを耳にしながら。
(……パパとママが、いてくれたなら……)
どんなに心強いだろうか、こうして泣かずに済むのだから。
一人きりで涙を零さなくても、話を聞いて貰えもして。
(……独りぼっちになっちゃったよ……)
ホントに一人、とベッドに上がって膝を抱える。
此処なら机の前ではないから、マザー・イライザが遠くなる。
監視カメラと「耳」からは逃れられなくても。
(…会いたいよ、ママ…)
パパ、と涙は止まらない。
幾つも幾つも雫が溢れて、頬を伝って転がり落ちて。
いったい何度、こうやって泣いたことだろう。
マザー・イライザに捕まらないよう、ベッドの上で。
「どうしました?」と機械が姿を現さないよう、机から遠く離れた場所で。
この部屋の中で、ただ一つだけの「安全な」場所。
流石にベッドで寝ている時には、マザー・イライザは現れない。
(……本当は、きっとベッドにも……)
何か仕掛けがあるだろう、とは思うけれども。
夢の中まで監視するくらい、マザー・イライザには容易いこと。
下手をしたなら、寝ている間に「記憶を処理する」ことさえも。
(……それをされたら、もう本当に……)
お手上げだよね、と思うけれども、防ぐ手立てなど持ってはいない。
いくら機械の知識があっても、機密事項は「まだ習わない」。
自分で学習する手段さえも、封印されているのだから。
ベッドの周りを何度探っても、どれが「それ」かは分かりはしない。
怪しい機械が幾つあっても、本当に危険なのかどうかは。
(……だけど、此処しか……)
一人で泣ける場所は無いから、と膝を抱えて蹲る。
頬を伝う涙が止まらないままに、もう帰れない家を思って。
顔さえおぼろな故郷の両親、二人に会いたくてたまらなくて。
(…家にいた頃なら、ぼくが一人で泣いてたら…)
間違いなく母がやって来た。
「どうしたの?」と、マザー・イライザとは全く違った優しい声で。
機械の幻影などとは違って、肩に手だって置いてもくれて。
(……何があったの、って……)
いつだって訊いてくれた母。
喧嘩して泣いて帰った時にも、何か失敗した時にも。
(…それに、おやつも…)
急いで作ってくれた気がする。
何だったのかは、今では思い出せないけれど。
(食べたら涙が止まるわよ、って…)
テーブルの皿に載っていたのは、何だったろう。
側に置かれたカップの中身は、マヌカ多めのシナモンミルクだったのだろうか。
今となっては、もう分からない。
記憶はすっかりぼやけてしまって、どう足掻いても思い出せないから。
皿とカップの記憶はあっても、肝心の中身が見えないから。
(…でも、ぼくは…)
あの頃は一人じゃなかったんだよ、と溢れる涙。
部屋で一人で泣いていたって、あの頃は母がいてくれたから。
頼もしい父も、「どうしたんだ?」と涙を拭ってくれもしたから。
(……それなのに……)
ぼくは今では独りぼっちだ、と「失ったもの」の大きさに泣く。
今の自分は、たった一人で泣いているしか術が無いから。
家にいた頃なら、一人きりで泣ける場所など、何処にも「要らなかった」のに。
両親が側に来てくれるだけで、涙を拭って笑えたのに。
(……そんな場所さえ、ぼくは失くした……)
全部機械に奪われたんだ、と、ただ悔しい。
「一人きりで泣ける場所」を見付けて、泣いている自分が悲しくて。
泣くための場所を持ってしまった今の自分が、ただ可哀相で。
本当に自分は独りぼっちで、そうなったのは機械のせい。
どんなに一人で泣いていたって、もう両親は来ないのだから…。
泣くための場所・了
※いや、シロエって故郷でも泣いていたんだろうか、とチラと思ったわけで…。
気が強そうでも、泣いた日だってあった筈。そんな考えから生まれたお話です。
「マツカ。…コーヒーを頼む」
一日の終わりに、いつもの通りにキースが出した注文。
国家騎士団総司令のための、執務室とは違った場所で。
首都惑星ノア、其処でキースに与えられた「家」。
どう使うのも自分の自由で、使用人を大勢置いたっていい。
もっとも、そんな面倒な者は置かないけれど。
身辺警護の者も断り、側にいるのはマツカだけ。
誰も「ミュウ」とは知らない側近、とても有能で使える部下。
忠実な上に気配りも出来て、何よりも…。
(…マツカが淹れるコーヒーは美味い)
上等な店で出て来るようなコーヒーよりも、と思っている。
それはマツカが上手く淹れるからか、口にする時の気分のせいか。
自分でも答えは分からないけれど、とにかく「マツカのコーヒー」は美味。
だから、こうして注文をする。
一日分の仕事を終えた後には、「コーヒーを頼む」と。
「…お待たせしました。熱いですから、気を付けて」
「ああ。…もう下がっていい」
今日の仕事は全て終わった、と促してやれば、マツカは「失礼します」と静かに去った。
こういう所もマツカらしくて、他の部下ではこうはいかない。
「他に御用は?」と尋ねてくるとか、「扉の前で警護を致します」とか。
(……要らぬ世話など、してくれずとも……)
放っておいてくれればいい、と苦々しい気持ちになるのが常のこと。
皆とワイワイ騒ぎ立てるより、一人きりでいる方がいい。
部下といえども、あまり側にはいて欲しくない。
(……これがサムなら、一晩でも語り明かせるのだがな……)
生憎とそういう友もいない、とコーヒーのカップを傾ける。
いくらマツカが気が利く部下でも、所詮は「ミュウ」。
人類とは違う種族なのだし、きっと「友」にはなれないから。
もしもマツカが強かったならば、違っていたかもしれないけれど。
「Mのキャリアだった」と後に聞かされたシロエ、あのくらいに気が強かったなら。
「冷徹無比な破壊兵器」と呼ばれる「キース」に、歯向かう気概があったなら。
(…出会った時こそ、牙を剥いたが…)
今では、それもしないだろう。
ソレイドで初めて出会った時には、マツカも「必死だった」だけ。
「キース」がどんな人間だろうが、殺さなければ「殺される」から。
そう思い込んで、「窮鼠猫を噛む」という言葉通りに、襲い掛かって来ただけのこと。
マツカの力で、メンバーズに勝てるわけもないのに。
こちらが気まぐれを起こさなかったら、とうに殺されていたのだろうに。
(……まだコーヒーを飲む前だったが……)
生かしておいて正解だった、と口に含んだコーヒーは美味い。
マツカに「ミュウの力」が無くても、この味だけでも充分な拾い物だと思う。
ただの平凡な一兵卒として、配属されて来ていたならば。
(…たかがコーヒーなのだがな…)
嗜好品に過ぎないものだとはいえ、不味いよりは美味い方がいい。
同じコーヒーを飲むのだったら、「より美味な方」を選びたいもの。
自分の好きに選んでいいなら、「美味いのを頼む」と。
(その点、マツカのコーヒーは…)
及第点だ、と考えている。
言葉にすることが無いだけで。
誰にも「美味いぞ」と言いはしないし、自慢したいとも思わない。
美味なコーヒーを淹れるマツカに、労いの言葉をかけることさえ。
(そういったことこそ、余計なことだ)
使用人だの、身辺警護をする者だのと変わらない次元。
煩わしくなるだけのことだし、ただコーヒーを楽しめればいい。
「コーヒーを頼む」と言いさえすれば、出てくる味を。
わざわざ店まで出向かなくとも、いつでも好きに飲める自由を。
(……ふむ……)
そういえば聞いたことも無いな、と思い至った。
いつもマツカが淹れるコーヒー、それの名前は何と言うのか。
(…モカに、ブルマン…)
他にも名前は幾つもある。
一括りに「コーヒー」と呼ばれてはいても、コーヒー豆の名前によって。
(モカはモカだが、ブルマンはブルー・マウンテンだったか…)
しかし、どちらも今では「無い」な、と頭に思い浮かべる地球。
最高機密の一つだけれども、「青い地球」など何処にも無い。
遠い昔に滅びたままで、今も赤茶けた星のまま。
そんな星では、モカもブルマンも無い。
遥かな昔に「モカ」を積み出した港、其処には毒の海があるだけ。
コーヒー畑が広がっていた、イエメンもエチオピアも無い。
「モカ」と言ったら、イエメンの豆が最高だったと伝わるのに。
ブルマンが採れたブルー・マウンテン、その「青い山」も地球には無い。
緑が豊かだったジャマイカ、其処に緑は「もう無い」から。
何処までも砂漠に覆われた地面、荒廃した大地が広がるだけ。
「青い山」は禿げて、岩山になってしまったろう。
雨が降る度、空から毒素が降り注いで。
地下を流れる水も汚染され、吸い上げた木は残らず枯れて。
(…しかし今でも、名前だけはあるな)
コーヒーを好む者の間で、今も語られ続ける名前。
どの豆が好きか、ブレンドするなら何がいいかと。
(…マツカもブレンドしているのか?)
それとも「これだ」と選んで買っているのだろうか。
まるで気にしたことが無いから、味だけで分かるわけもない。
コーヒーは好きでも、「通」ではないから。
「これでなければ」とこだわる豆も、ブレンドなども無いのだから。
(…訊いてみようとも思わんな…)
これがサムなら、「おい」と気軽に訊いただろうに。
思い立ったが吉日とばかり、今すぐにでも通信を入れて。
「お前が淹れてくれるコーヒー、どういう豆を使ってるんだ?」と。
夜更けであっても、気にもしないで。
通信機の向こうで応えるサムが、「何時だと思っているんだよ?」と欠伸したって。
(……マツカでは、そうはいかんのだ……)
所詮は部下だ、とカップを傾け、「分からない味」に首を傾げる。
「美味いコーヒー」には違いなくても、何という名前の豆だろうか、と。
地球が滅びてしまった後にも、モカもブルマンも残り続けた。
栽培する場所が変わっただけで。
恐らくは地球から持ち出された豆、それを何処かで育て続けて。
(…歴史だけは長いというわけか…)
育つ場所が違うというだけで…、と感心させられるコーヒー豆。
モカもブルマンも、元の産地が滅びた後にも生き続けている。
地球がまだ青い水の星だった頃と、同じ遺伝子を受け継いで。
違う星の土に植えられた後も、最低限の改良だけで。
(たかがコーヒー豆なのだがな…)
大したものだ、と感心したまではいいのだけれど。
脈々と継がれ続ける遺伝子、それに感歎したのだけれど…。
(……この豆でさえも……)
DNAを持っているではないか、とカップを持つ手が微かに震えた。
人類よりも長い歴史を持っているのが「コーヒーの木」。
それが様々に枝分かれをして、モカだのブルマンだのが生まれた。
ほんの僅かなDNAの違いが生み出す、様々なコーヒー豆の味。
人類が地球を離れても。
青い地球など何処にも無くても、コーヒーの木は生き続けて。
DNAという名の鎖を、今も同じに紡ぎ続けて。
けれど、自分はどうなのだろう。
「無から生まれた」キース・アニアン、DNAさえも「作られた」者は。
機械が無から作った生命。
三十億もの塩基対を合成してから、紡ぎ上げられたDNA。
「キース・アニアン」の元になった遺伝子データはあっても、そちらの方も…。
(…私と同じに、無から作られた者なのだ…)
ミュウの母船に捕らわれた時に、偶然、「そちらの方」に出会った。
盲目だったミュウの女は、「キース」を作った遺伝子データの持ち主らしい。
E-1077のフロア001、其処で「同じ顔」を幾つも目にしたから。
マザー・イライザに似ていたサンプル、ミュウの女にそっくりなモノ。
(…あの女も、無から作られたのなら…)
自分が継いだ遺伝子データは、コーヒー豆の「それ」とは違う。
種が芽吹いて木へと育って、花が咲いたら実が出来るもの。
その実を人が集めて煎ったら、コーヒー豆。
煎られてしまわず、芽を出したならば、コーヒーの木が育つのだろう。
けれど、「キース」は「そうではない」。
人工子宮から生まれはしても、「その前」が何も無いのだから。
「キースという人間」を作り出すためのDNAは、何処からも来はしなかった。
機械が合成しただけで。
ミュウの女のデータを元に、「より良いものを」と組み上げただけで。
(……たった一粒のコーヒー豆にも……)
及ばないのか、と思う自分の存在。
SD体制の時代といえども、「普通の人間」はDNAを何処かから貰うものなのに。
異分子として処分されるミュウさえ、「ヒトと同じに」DNAを持っているのに。
(……そんな私が、コーヒー豆の名など聞いても……)
やはり意味など何処にも無いな、と唇に浮かんだ皮肉な笑み。
モカであろうが、ブルマンだろうが、「キース」よりも優れた存在だけに。
遥かな昔の青い地球から、DNAを今も受け継ぎ続けるだけに。
(…要は、コーヒーが美味ければ…)
それでいいのだ、と冷めたコーヒーを喉に流し込む。
こうして冷めてしまった後にも、「不味い」とは思わないコーヒー。
それで充分満足なのだし、「もうこれ以上は、考えまい」と…。
コーヒーの名前・了
※いや、キースはコーヒー党なんですけど、そのコーヒーにも種類が色々あるわけで…。
原作で「モカ」と言ってるんですよね、ステーション時代に。
「モカって…。地球じゃないのに?」と遥か昔に入れたツッコミ、それを活かしましたv
(……パパ、ママ……)
会いたいよ、とシロエは一人、膝を抱えて蹲る。
E-1077の夜の個室で、ベッドの上で。
本当だったら、今の時間は勉強に充てるべきだろう。
普段の日ならそうしているし、今日もやるべき課題はある。
けれど「明日でもいい」と思った。
提出期限はまだ先なだけに、急いで片付けなくても、と。
(…パパとママのことを思い出すには…)
こうして集中するしかない。
「この場所」のことも、「勉強」のことも放り出して。
幼かった子供時代みたいに、ベッドに座って膝を抱えて。
(……家でも、こうして座ってたから……)
ただし、楽しい夢を見ながら。
夜にベッドで待っていたなら、「ピーターパンが来てくれるかも」と。
窓の向こうを眺めて待っていた日もあれば、顔を伏せていた日もあった。
今と同じに膝に顔を埋めて、まるで「かくれんぼ」をするかのように。
(…ピーターパンが来たら、ビックリだものね?)
いきなり声を掛けられたら。
「迎えに来たよ」と、突然に肩を叩かれたなら。
(……だけど、ピーターパンは来なくて……)
自分は「地獄」に連れて来られた。
ネバーランドよりも素敵な地球へと、行けると思い込んでいた日に。
優秀な成績で通過したなら、そうなるのだと信じた「目覚めの日」に。
子供時代の記憶を奪われ、この牢獄に放り込まれた。
同じ境遇の候補生たちは、そうだと思いもしないけれども。
誰もがE-1077に馴染んで、和やかに暮らしているのだけれど。
そうはなれずに、取り残された。
「マザー牧場の羊」の群れには、どうしても入ってゆけないままで。
入りたいとも思わなくても、「独りぼっちだ」ということは分かる。
このステーションに「友」はいなくて、大好きだった両親の家にも帰れはしない。
両親が何処に住んでいたのか、住所さえも思い出せないから。
おまけに両親の顔さえぼやけて、もう定かではない二人の面差し。
だから、こうして蹲る。
「一つでも、何か思い出せたらいいのに」と。
ベッドに座って膝を抱えて、子供時代の真似をすることで。
(…パパとママは、今はどうしているんだろう…?)
起きているのか眠っているのか、それさえも此処では分からない。
故郷があった星の時間は、此処でも把握できるのだけれど。
銀河標準時間の代わりに、アルテメシアの「それ」を探せば。
エネルゲイアで使われていた「標準時間」を掴んだら。
(……でも、調べたって……)
とても悲しくなるだけだから、と前に調べた「標準時間」は意識していない。
時差は分かっているのだけれども、計算しても無駄なのだから。
(…その時間には、どんな景色だったかも覚えていないよ…)
機械が奪ってしまった記憶は、故郷の景色も曖昧にした。
風も光も、「こうだった」とピンと来はしない。
確かにあった筈の四季さえ、この身体はもう「覚えていない」。
ただ漠然と「夏は暑くて」「冬は寒い」と、知識という形だけでしか。
夏の日射しがどんなだったか、冬に木枯らしはあったのかさえも「忘れさせられた」。
エネルゲイアのデータを見たなら、其処に「それら」は書かれていても。
(……誰が見たって、「そうなのか」って思う程度にしか……)
今の自分は覚えていないし、故郷だという実感が無い。
エネルゲイアの出身なのに。
E-1077で閲覧可能な個人データにも、きちんと書かれているというのに。
そんな具合だから、両親の「今」を考えることは諦めている。
二人が起きて何かしていても、肝心の「故郷」が分からないから。
眠っている時間になっていたって、家の中でも色々と違う。
いくら空調が効いていたって、夏と冬では大違い。
「外は寒いぞ」と父が帰るなり口にした日は、食卓には「冬の料理」が並んだ。
夏なら冷たい飲み物が出たし、空調も冬のそれとは逆様。
そういった故郷の季節感さえ、今の自分は「想像する」しか方法が無い。
「冬の朝なら、こうだったよ」とか、「夏の夜にはこうなんだよ」と。
(……パパとママの今を想像したって、それと同じで……)
きっと何処かが欠けているから、考えない。
ピースがきちんと嵌まらなかったら、今よりもずっと悲しくなる。
そうなるよりかは、ただ顔だけを思い浮かべている方がいい。
あちこちが欠けてぼやけた面差し、それがどれほど悔しくても。
両親の瞳の色でさえもが、今の記憶では分からなくても。
(……パパ、ママ……)
ぼくを覚えてくれているの、と心の中で問い掛けてみる。
大人に「成人検査」は無いから、両親の記憶は、きっと消えてはいないだろう。
「目覚めの日」に送り出した息子を、忘れてしまいはしないと思う。
きっと自分は、両親の「最後の子供」だから。
養父母としては年配だった、けして若くはなかった両親。
(次の子供を育てようとしたら、また十四年もかかるんだから…)
新しい子供が十四歳まで育つ頃には、二人とも、かなりの年齢になる。
大抵の「親」は、そうなる前に引退するから、両親も引退したことだろう。
「最後の子供を育て終えた」と、満足して。
後は二人で過ごしてゆこうと、のんびり夫婦で暮らし始めて。
(そうだよね…?)
ぼくが最後の子供だよね、と問い掛けたくても、届かない声。
両親に手紙を書けはしないし、通信だって送れはしない。
けれど自分が「最後の子供」なのだろう。
両親にとっては思い出深い、養父母として過ごした時間の締めくくりの。
(…ぼくが最後で…)
パパとママの思い出に残る子供、と心がじんわり温かくなる。
「最後の子供」でなかったとしたら、両親の記憶は薄れるから。
新しい子供を育て始めたら、たちまち起こる日々のドタバタ。
まるで泣き止まない赤ん坊とか、よちよち歩きで一時も目を離せないとか。
(…そんな子が来たら、前の息子のことなんか…)
ゆっくり思い返している暇は無くて、新しい子供にかかりきり。
毎日の食事も、すっかり変わることだろう。
新しく家族に加わった子が、食卓の「王子様」だの「王女様」だのになって。
その子が好きなメニューが出る日が、目に見えてぐんぐん増えていって。
(…栄養バランスなんかはあるけど、でも、好きな物…)
それを食べさせてやりたくなるのが親心。
きっと自分も、そうだったろう。
今では思い出せなくても。
「マヌカ多めのシナモンミルク」が、自分の好みか、両親の好物だったかも謎のままでも。
(…パパもママも、ぼくを優先してくれて…)
好物を並べてくれただろうから、今もそうしているのだろうか。
「シロエはこれが好きだったよなあ?」と、父が笑顔で言ったりもして。
母が「今日はシロエの好物なのよ」と、懐かしそうな顔で料理を出す日もあって。
(…二人とも、きっと覚えていてくれるよね?)
養父母として最後に育てた「シロエ」のことを。
自分たちの大事な息子なのだと、可愛がってくれた間の出来事を、全部。
これが「最初の息子」だったら、今頃は忘れられただろうに。
たまにチラリと思い出しても、「新しい子供」と重ねるだけで。
「二人目の子供」だったりしたなら、もっと印象は薄いと思う。
「最初の子供」と、「最後の子供」の間になって。
記憶の端を掠める時にも、「あの子は、どんな子だったかな?」と思う程度で。
(……ぼくが最後の子供で良かった……)
いつまでも覚えていて貰えるよ、と考えたけれど。
「ぼくが忘れても、パパとママは、ぼくを忘れないよ」と思ったけれど。
(…成人検査で記憶を消されちゃっても…)
広い宇宙の何処かの星には、きっと「兄弟」がいるのだろう。
血が繋がってはいないけれども、自分と同じに「セキ」という姓を持つ誰か。
両親が育て上げた子供で、「エネルゲイアの、セキ夫妻の子」。
どう考えても、そういう子供が一人はいる。
両親の年の頃からして。
子育てを早く始めていたなら、二人いたっておかしくはない。
(……ぼくの兄弟……)
兄か姉かは、分からないけれど。
どういう仕事をやっているのか、何処にいるかも不明だけれど。
(だけど、手がかり…)
それならば、「セキ」の姓がある。
出身地がエネルゲイアで「セキ」なら、両親の子だという確率は…。
(…相当高いし、もしも会えたら…)
今の自分が持ってはいない、「両親の記憶」があるかもしれない。
機械が記憶を奪う時には、将来を考慮するようだから。
生きてゆくのに「何が役立つか」を、選んで消してゆくのだから。
(…養父母コースに行っていたなら、ぼくよりも…)
両親の記憶が鮮やかな可能性もある。
子育てをする人間だったら、「自分が育てられた記憶」は大切だろう。
そういう記憶がまるで無いより、「応用できる」方がいいから。
養父母の顔は曖昧だろうと、エリートコースに来た「自分」よりかは…。
(…パパとママのこと、覚えていそう…)
いつか会えたら、と「セキ」の名を持つ「両親の子供」に思いを馳せる。
ベッドで膝を抱えたままで。
機械が奪ってしまった記憶を、「セキ」という名の兄か姉から教われたなら、と…。
両親の子供・了
※SD体制の時代でも、「同じ養父母が育てた」場合は「兄弟」なのかな、と思ったわけで…。
アニテラだと「兄弟で育てていた」みたいですけどね、ゼルとハンスみたいに。
(……国家主席とは、便利なものだな)
実に便利だ、とキースが遮断してゆく回線。
グランド・マザーに直結した「それ」、監視カメラやマイクに繋がったモノ。
普通の者には、触れられはしない。
国家騎士団総司令の頃でも、その権限は持っていなかった。
「グランド・マザー」の「瞳」や「耳」を塞ぐなど。
どう足掻いても「機械の身では覗けないよう」、部屋を完全に孤立させるなど。
けれど、今では可能なこと。
グランド・マザーが座している地球、人類の聖地の中心でも。
唯一、人間が生きてゆける場所、ユグドラシルの中であっても。
(……どうせ、マザーは気付くまい……)
「キース」が何を意図しているのか、何故、回線を遮断したのか。
今日まで「真面目に」生きて来たから、機械は微塵も疑いはしない。
「キース・アニアン」が裏切るなどは。
彼らが無から作った生命、「理想の子」が反旗を翻すとは。
(…ミュウどもが、地球に降りたのだからな…)
それに備えての考え事でもするのだろう、とマザーは思っていることだろう。
その目や耳を塞がれても。
「キース・アニアン」に指図するための、口さえ塞いでしまわれても。
(…これでいい…)
完璧だな、と部屋を確認してゆく。
残った監視カメラは無いかと、他の設備も停止させたかと。
この瞬間から明日の朝まで、「此処」は無人でなくてはいけない。
警備兵さえ下がらせてあるし、セルジュにも「来るな」と命じておいた。
グランド・マザーを「黙らせた」のも、その一環。
これからしようとしていることを、知られるわけにはいかないから。
全て終わるまで、隠し通さねばならないから。
フウと息をつき、執務机の前に座って考える。
部屋の白い壁の一点を見詰め、「どう始めるのがいいのか」と。
国家騎士団総司令として、元老として、何度もこなして来た「演説」。
人の心を掴む術なら、幾度となく披露し続けて来た。
(…それも機械が教えたことか…)
私自身が知らない間に…、と歪める唇。
E-1077の水槽の中に浮かんでいた頃、流し込まれた膨大な知識。
「人類の指導者」になるために。
こうして国家主席となって、人類を導き続けるために。
(だが、生憎と…)
もう導いてはゆけないのだ、と限界を思い知らされた。
いくら「キース」が努力しようと、「歴史の流れ」に逆らえはしない。
時代遅れのグランド・マザーは、「出来る」と考え続けていても。
「それが正しい」と機械が思っていようと、叶わないことは存在する。
「終わりの時」は、もう見えているから。
グランド・マザーが気付かなくても、それは機械のプログラムのせい。
「そう思考する」ことが無いよう、グランド・マザーは作られたから。
どれほど矛盾を抱えていようと、「彼女」は疑問に思いもしない。
「ミュウは宇宙から排除すべし」と唱えながらも、「ミュウ因子を排除できない」こと。
本当に排除したいのだったら、ミュウ因子を排除すればいいのに。
そうすればミュウは「生まれて来ない」し、いずれ自然に消え失せるのに。
(……ミュウ因子の排除は、不可能なのだと……)
長い間、ずっと信じて来た。
因子が特定できていないか、あるいは排除が困難なのか。
DNAの「造り」によっては、そういったことも起こり得る。
特定の因子を排除した場合、高いリスクを伴うだとか。
「ミュウは生まれて来なくなっても」、「人類」という種族の衰退を招きかねない危険。
そう、「ミュウ因子の在り処」によっては、そういうこともあるだろう。
「生命」と密接に絡んでいるなら、リスクがあっても「残しておかざるを得ない」ケースが。
事情はどうあれ、「グランド・マザーにも不可能なこと」がミュウ因子の排除。
そうだとばかり思って来たのに、先日、伝えられた真実。
「ミュウ因子の排除」は、「してはならないこと」だった。
グランド・マザーが作られた時に、そうプログラムが施されて。
「生まれて来るミュウ」は排除できても、「ミュウの因子」は排除できない。
何故なら、彼らは「進化の必然」、その可能性があったから。
「人類」の次の時代を担う種族が「ミュウ」だとしたなら、因子は排除してはならない。
ヒトという種族を残してゆくには、「彼ら」が必要なのだから。
宇宙から「ミュウ」を抹殺したなら、「ヒト」の未来は無くなるから。
(……SD体制に入る前から、ミュウは存在していたのだ……)
それも実験室の中でも、何体ものミュウが生まれるほどに。
ミュウの因子を残すか否かで、研究者や政治を担う者たちが、会議を重ねて悩んだほどに。
(…そうして彼らが悩んだ結果が、グランド・マザーだ…)
彼らは「答え」を先延ばしにした。
自分たちの手で答えを出さずに、遠い未来にツケを残した。
「ミュウは排除すべし」というプログラムと、「ミュウ因子の排除は不可」なプログラム。
相反する「二つの指令」を詰め込み、グランド・マザーを起動して去った。
遥かに遠い未来のことなど、彼らは「生きて」見はしないから。
そうでなくても「SD体制に入った世界」に、彼らの居場所は何処にも無い。
生まれて間もない赤子までもが、「それまでの世界」と共に滅びていったのだから。
彼らが去って行った先では、「滅びる」以外に道は無かった。
「人工子宮から生まれた人間」だけが、宇宙で生きてゆくのだから。
それ以外の者は受け入れられない、それがSD体制だから。
(…自分たちには関係ない、と先送りにして逃げたのだろうが…)
そうやって「逃げた」結果が「これ」だ、と「自分の運命」を呪いたくなる。
増え続けるミュウに業を煮やして、機械が作った「キース・アニアン」。
「無から作った理想の子」ならば、人類を上手く導くだろうと。
どんなに困難な時代だろうと、懸命に舵を取り続けて。
(……精一杯、舵を取ったのだがな……)
それでも歴史に勝てはしない、と「ヒト」だからこそ分かること。
機械には、「それ」が分からなくても。
矛盾しているプログラムにさえ、自ら気付くことは無くても。
(…ミュウは結局、進化の必然だったのだ…)
SD体制に入って以来の、六百年近い時間をかけて行われた「賭け」と「実験」。
ミュウは進化の必然なのか、それとも、ただの異分子なのかと。
「答え」なら、とうに出ていると思う。
グランド・マザーが何と言おうと、「人類」がどう考えようと。
現に「彼ら」は「地球まで来た」。
たった一隻の母船で始めた、戦いの末に。
「モビー・ディック」の異名そのまま、「負けを知らない」白鯨に乗って。
こうなった以上、「幕を下ろす」しかないのだろう。
「人類」の時代は終わりにして。
グランド・マザーを頂点とするマザー・システム、そちらの方を「排除して」。
「ミュウの因子」を排除できない「機械」では、もう導けはしない。
これから先の「ヒトの時代」も、未だ蘇らないままの聖地も。
(…私が幕を下ろすというのが、なんとも皮肉な話だが…)
そうは思っても、これも「キース」の役割だろう。
国家主席にまで昇り詰めたから、知り得た「真実」。
歴史は「ミュウの時代」に向かって、流れを変えてゆきつつあること。
今ならば、まだ「間に合う」から。
「人類」が「ミュウ」に滅ぼされる前に、共存の道を選択できる。
上手く舵さえ取ってやったら。
頑なに考えを変えない人類、「ミュウを敵視する」者たちを変えてやったなら。
手遅れになってしまわない内に、「キース」はそれをせねばならない。
「人類は、ミュウと手を取り合え」と、皆に話して。
グランド・マザーは時代遅れの機械なのだと、筋道立てて説明して。
(…どう始める?)
どういう言葉で始めるべきか、カメラの前で考えてみる。
「グランド・マザーからは切り離された」カメラと、録音用のマイク。
今から収録するメッセージは、グランド・マザーに知られはしない。
「キース」が何を話していようと、メッセージを何処へ送ろうとも。
(……一個人、キース・アニアンとして……)
話をしたい、と言えばいいのだろうか、と組み立ててゆく「演説」の中身。
国家主席として話すよりかは、「キース」個人の方がいいか、と。
(…それから…)
これもだ…、と机の端末を操作してゆく。
メッセージの収録が終わったら直ぐに、送信準備に入れるように。
「キース」に何かあった時にも、メッセージが宇宙に流れるように。
(……ミュウの女が、私を殺しに来るだろうしな……)
伝説のタイプ・ブルー・オリジンの仇を、「あの女」が討ちに来ることだろう。
殺されてやってもいいのだけれども、メッセージは送信されねばならない。
それが「キース」の、最後の仕事になるだろうから。
「ヒトの未来」が、それにかかっているのだから。
(……圧縮データを、スウェナ・ダールトンに送信……)
自分の手で送信できない時には、この時間に…、と淡々と機械に出してゆく指示。
グランド・マザーの目も耳も口も、塞がれた場所で。
明日の朝には「キースの死体」が、其処に在るかもしれない部屋で…。
ヒトの未来へ・了
※キースが収録していたメッセージ。あれは「いつ、何処で」撮ったんだ、と疑問なわけで…。
「ユグドラシルだ」と思ってはいても、ハレブルでしか書いていなかったっけ、と。
(……また……)
呼ばれたんだ、とシロエは溜息をついた。
何度も此処で眠ったけれども、未だにまるで慣れないベッド。
「どうしましたか?」
「…なんでもありません」
大丈夫です、とプイと顔を背けて、ベッドから下りた。
こんな所に長居などしたくないのだから。
マザー・イライザの顔も姿も、おぞましいとしか思えない。
いくら故郷の母の姿でも、所詮は機械が作る幻影。
これに親しみを覚える者たち、彼らの心が分からない。
「ママにそっくり!」とか、「恋人の姿に似ているんだ」とか、誰もが喜ぶ。
この部屋にコールされた時には、しょげていたって。
「また失点だ」と嘆いていたって、マザー・イライザに会えば笑顔が戻る。
部屋のベッドに横たわる内に、機械が「治療」を施すから。
心に溜まった悩みや怒りを、解いて「平穏」へと導くから。
(……ぼくだって……)
きっと何かで苛立ち、心が乱れたのだろう。
だから呼ばれて「治療」を受けて、たった今、それが終わった所。
もう心には「悩み」など無いし、激しい怒りも残ってはいない。
けれども、それが問題だった。
(……マザー・イライザ……)
またしても機械に弄ばれた、と憎しみの炎が噴き上げる。
機械に心を弄られるなどは、御免なのに。
何処も触って欲しくないのに、マザー・イライザは「それ」を施す。
こうしてコールで呼び出してみては、「眠りなさい」と深く眠らせて。
機械の力で意識を分離し、勝手にあちこち覗いた末に。
「母の姿」にクルリと背を向け、ただ乱暴に歩き始めた。
大理石の像が立つ部屋を突っ切り、扉へと。
扉の向こうの、広い通路へと。
(…もう、こんな時間…)
夜になってる、と腕の時計を覗き込む。
今日の「治療」は、相当に長い時間がかかっていたのだろう。
コールを受けた原因自体は、全く思い出せないけれど。
(……いつものことさ……)
成績不良で呼ばれるわけじゃないんだから、と唇を噛む。
多くの生徒が呼ばれる理由は、成績不良や「講義についてゆけない」こと。
要は「勉強に身が入らない」のを、マザー・イライザが咎めるだけ。
けれど「成績優秀」なのに「呼ばれる」自分の場合は違う。
コールに繋がるのは「素行不良」で、システムにとっては「望ましくない」何か。
SD体制そのものについての、批判だとか。
成人検査を憎み続けて、今も許していないこととか。
(……今日も、その辺だろうけど……)
直接の原因が何だったのかは、どう頑張っても手がかりすらも掴めない。
これが機械のやり方だから。
コールされる度、「大切な何か」を奪われ、消されてゆくのだから。
今日も同じだ、と足音も荒く戻った部屋。
マザー・イライザが何を奪ったか、どんな記憶を消し去ったのか。
そちらの方も気になるけれども、もっと怖いのが「副作用」。
機械がそれを意図しているのか、「副作用」かは不明だけれど。
(……また何か……)
残っていた記憶を消されただろう、という確信。
故郷から抱えて持って来た記憶、辛うじて残っている断片。
コールの度に、欠片が一つ消えてゆく。
酷い時には、二つも三つも無くなったりする。
機械が与える「心の平穏」、それと引き換えに失う記憶。
その「からくり」に気付いた時から、余計に機械を許せなくなった。
E-1077で生きる間は、「コール」に対する拒否権は無い。
無視して部屋にこもっていたなら、職員が引き摺り出しに来る。
まだ、そこまではやっていないのだけれど。
それほど酷く反抗したなら、きっと「ただでは済まない」から。
「治療」が終わって目覚めた時には、一切が消えているかもしれない。
呼ばれた理由も、故郷の記憶も、何もかもが。
反抗心の欠片も失くして、「従順なシロエ」になるかもしれない。
コールの前まで馬鹿にしていた、「マザー牧場の羊」になって。
他の候補生たちと全く同じに、マザー・システムに従順になって。
(……ぼくが突然、そうなったって……)
誰も疑問を抱くことなど無いのだろう。
記憶処理など当たり前だし、不審に思う者などは無い。
そして「自分」も何の疑問も抱くことなく、周囲に溶け込み、それっきり。
両親も故郷も全て忘れて、いつか行けるだろう地球を夢見て。
メンバーズに選ばれる時を目指して、勉強と訓練に打ち込み続けて。
(…そんな人生、御免だよ)
ぼくは絶対に忘れない、とマザー・イライザへの怒りは消えない。
機械が何を消したにしたって、この屈辱を忘れはしない。
「消されたのだ」と自覚があったら、憎しみも恨みも募るだけ。
たとえ機械が何を消そうと、「機械に対する怒り」が心に残っていたら。
(……でも……)
今日も「大事な何か」を消されて、曖昧になっているだろう記憶。
両親の顔が更におぼろになったか、故郷の家が霞んでいるか。
奪われた記憶は、どう足掻いたって、けして戻っては来ないけれども…。
(…ぼくは何もかも、忘れたりしない…)
欠片しか残っていなくたって、と開けた引き出し。
其処には「故郷」が入っている。
懐かしい両親も、その中にいる。
(……ピーターパン……)
たった一つだけ、故郷から持って来られたもの。
子供のころから大事にしていた、両親に貰ったピーターパンの本。
それを開けば、今でも故郷へと飛べる。
両親の顔がぼやけていたって、家の住所を忘れていたって。
「あの家で、本を読んでいたシロエ」が「育って、此処にいる」のだから。
今も「シロエ」は「シロエ」なのだし、ピーターパンの本も変わらない。
機械が何を消してゆこうと、本がある限り、大丈夫。
手にしてページを繰っていったら、両親の声が蘇るから。
故郷の家で座った床やら、寝転がったソファも思い出すから。
コールされたら、ピーターパンの本を読む。
それが習慣になったけれども、何故だか、今日は見当たらない。
(あれ…?)
引き出しに入れていなかったっけ、と慌てて周囲を見回してみる。
広い机の端から端まで。
部屋の書棚も目で追っていって、それから側に出掛けて捜した。
「ピーターパン」の背表紙を。
幼い頃から馴染んだ本だし、タイトルが無くても「見ただけで」分かる。
それなのに、本が見付からない。
部屋中の、何処を捜しても。
「こんな所には、入れやしない」と思う場所まで探ってみても。
(……何故……?)
どうして見付からないんだろう、と増してゆく焦り。
E-1077に泥棒などはいないし、第一、個室に他の生徒は立ち入れない。
そういう規則で、もしも踏み込む者がいたなら…。
(候補生じゃなくて、職員だとか…)
教官やら、保安部隊の者やら、そういった「大人」だけになる。
彼らが部屋に入ったのなら、そして「ピーターパンの本」が無いなら…。
(……処分された……?)
まさか、と冷えてゆく背中。
マザー・イライザが命じただろうか、「あの本を処分しなさい」と。
「ピーターパンの本」を持ったシロエは、何処までも反抗的だから。
何度コールを受けても懲りずに、システム批判を繰り返すから。
そうして噛み付き続ける「シロエ」が、何を頼りにしているのか。
心の拠り所は何になるのか、マザー・イライザなら「知っている」。
コールの後で部屋に戻れば、広げるピーターパンの本。
「まだ大丈夫」と、「覚えている」と、心だけを遠い故郷へ飛ばせて。
子供時代の消された記憶にしがみついては、「忘れやしない」と誓い続けて。
マザー・イライザは、当然、気付いているから、「ピーターパンの本」を消しただろうか。
二度と「シロエ」が手に取れないよう、盗み出させて、処分させて。
「……嫌だ……!!」
返して、と叫んだ自分の悲鳴で目が覚めた。
じっとりと肌に寝汗が滲んで、薄暗がりの中で瞬きをする。
(……夢……?)
夢だったのか、と周りを探ってみた手に、伝わって来た「本」の感触。
そういえば、寝る前に読んだのだった。
遠い故郷に思いを馳せて、「ピーターパン」を。
夢の中で故郷へ飛んでゆけたら…、と枕元にそっと本を置いて寝た。
(…ぼくの本…!)
まだ此処にある、と大切な本を抱き締める。
この本を失くしてたまるものかと、「マザー・イライザにも奪わせない」と。
(……もし、本当に処分されたら……)
憎い機械を許しはしないし、生涯かけて憎み続ける。
地球の頂点に立つ日を待たずに、クーデターさえ起こすかもしれない。
「今が勝機だ」と思ったら。
勝算があると踏んだ時には、海賊どもを味方に引き入れてでも。
(…ぼくは、絶対に許さない…)
これ以上、ぼくから奪わせはしない、と本を抱き締めて心に誓う。
マザー・イライザが何をしようと、「シロエ」は「けして、従わない」と。
大切な本を奪い去られても、けして機械に屈しはしない。
こんな夢さえ見てしまうほどに、「過去」を大事にしているから。
機械が何を消してゆこうと、「シロエ」そのものは「消せはしない」と思えるから…。
何を消されても・了
※ピーターパンの本をシロエが持っているのも不思議ですけど、持っていられるのも不思議。
何処かで処分されそうなのに、と思った所から出来たお話。シロエが見た悪夢。