(……キース・アニアン……)
ああいう仕組みだっただなんて…、とシロエが噛んだ唇。
フロア001で見たモノ、それがあまりにも意外過ぎたから。
(…機械仕掛けの人形なんだ、って…)
思い込んで、そう信じて来た。
感情すらも無い「機械の申し子」、彼も機械に違いないと。
一皮剥いたら、皮膚の下には、精巧な機械があるのだろうと。
けれど、答えは違っていた。
フロア001に居たのは、何人もの「キース・アニアン」たち。
胎児から、今のキースくらいの標本までが、幾つも並べられた部屋。
それとは別に、金髪の女性の標本も並んでいたけれど…。
(……キースは、あそこで……)
マザー・イライザに作り出されて、育て上げられた。
最初はクローンかと思ったけれども、覗き見たデータは、想像以上のもの。
キースも、金髪の女性の方も、「無から生まれた存在」だった。
機械によって合成された、三十億もの塩基対。
それを繋いで紡ぎ出された、DNAという名の鎖。
「キース」は、其処から生まれて来た。
全くの無から作り上げられ、胎児の形に成長して。
(…おまけに、人工子宮から出ずに…)
人工羊水の中に漂い、そのまま育っていったという。
マザー・イライザから、膨大な知識を流し込まれながら。
人類の理想の指導者たるべく、作られた時から、英才教育を施されて。
だからキースは「外」を知らない。
水槽の中だけが世界の全てで、何処にも行きはしなかったから。
そう知った時に、水槽を見詰めて考えた。
「ゆりかご」だよね、と。
赤ん坊を育てる時に使うのが、ゆらゆらと揺れる「ゆりかご」だけれど。
養父母が揺すってあやすのだけれど、キースに、そんな時代は無い。
ずっと機械が育てて来たから、養父母などは存在しない。
水槽の外にも出ないのだったら、まるで必要なかった「ゆりかご」。
(……だけど、あいつは……)
機械に育て上げられたのだし、あの水槽が「ゆりかご」だろう。
ゆらゆらと揺れることは無くても。
マザー・イライザが、「キース」をあやすことも無くても。
その「ゆりかご」を撮影した。
本当だったら、アンドロイドの製造現場を映すつもりで、持っていたカメラで。
並ぶ「キースたち」を端から映して、得意満面で語り掛けた。
「キース先輩、見てますか?」と。
それをキースに突き付けるために、「此処が何処だか、分かります?」とも。
「ゆりかごですよ」と、思ったままを口にもした。
キースが何を思うかはともかく、「それ」が真実なのだから。
「機械の申し子」は此処で生まれて、機械が世話をしたのだから。
充分に大きく成長した後、E-1077で「人間」の中に混ざれるように。
「本物のヒト」と何ら変わらず、エリート候補生として。
そのために「キース」は作られたから。
誰よりも優れた者になるべく、DNAさえも機械が紡いで。
(…其処までは上手く行ったのに…)
いったい何が拙かったろうか、どの段階でヘマをしたのか。
保安部隊の者に捕まり、それは酷い目に遭わされた。
拷問まがいの心理探査に、有無を言わさぬ様々なチェック。
動くことさえ辛いけれども、なんとか其処を逃げ出して来た。
フロア001を映したデータを、取り戻して。
恐らくは命がけの映像、それを失いたくなくて。
(……また、捕まったら……)
今度こそ「シロエ」は消されるのだろう。
知ってはならない秘密を覗いた、反逆者として。
最高機密を知ってしまった、「消さねばならない」存在となって。
けれど、黙って消されはしない。
何としてでも、機械に一矢報いるまでは。
機械が作り上げた「キース」に、真実の欠片を突き付けるまでは。
(…この映像さえ、キースの目に入ったら…)
きっと全ての糸が繋がることだろう。
キースが「ゆりかご」を目にしたならば。
フロア001に足を踏み入れ、何人もの「キース」に出会ったならば。
ただ、それだけを思い続けて、逃れて来た。
通風孔の中を懸命に辿り、自分のための個室まで。
(……データを隠しておくんなら……)
此処だ、と決めていた本の中。
ただ一つだけ、故郷から持って来られたもの。
大好きだった両親がくれた、宝物の『ピーターパン』の本。
(…パパ、ママ…。ピーターパン…)
これを守って、とデータを収めたチップを隠した。
「セキ・レイ・シロエ」と名が書いてある、その下に。
本を広げないと見えない場所に。
(……薄いチップだから……)
この本をパタンと閉じてしまえば、もう分からない。
不自然に表紙が開きはしないし、見た目には隙間も出来てはいない。
名前の上を指でなぞれば、「何かある」と指が感じるだけで。
「セキ・レイ・シロエ」の文字をじっくり追って初めて、僅かな段差が分かる程度で。
(…これで大丈夫…)
それに、何処までも、ぼくと一緒、とピーターパンの本を抱き締めた。
もう、この個室にさえ、追手が迫っていることだろう。
保安部隊が、銃を手にして。
逃げた「シロエ」を射殺する気か、取り押さえる気かは知らないけれど。
(でも、ぼくは…)
此処で捕まるわけにはいかない。
命を終えるつもりもない。
「キース」にデータを突き付けるまでは。
彼を立派に育てた「ゆりかご」、それの秘密を手渡すまでは。
(ぼくの命が終わる時まで…)
この本と一緒にいたいと思う。
キースにデータを手渡した後も、もう秘密の無い本を抱えて。
両親に貰った宝物の本を、何よりも大切に思い続けて。
(……来た……!)
鍵をかけておいた扉を、乱暴に開けようとしている音。
保安部隊がやって来たのに違いない。
(…こんな所は、覗かない筈…)
此処に隠れてやり過ごそう、と床の下へと潜り込んだ。
通風孔へは、其処から入ってゆけるけれども…。
(下手に動いたら、感付かれて…)
引っ張り出されるに決まっているから、息を潜めた。
ピーターパンの本を抱き締め、まだ乱れている呼吸を抑えながら。
肩は激しく上下するけれど、口からは音が漏れないように。
「いたか!?」
「いや、こっちにはいない」
「そっちはどうだ!?」
バタバタと歩き回る音。
荒々しい足音が、右へ左へと頭上で動く。
「セキ・レイ・シロエ」を捜し出すために。
その場で殺してしまうためにか、また引き立てて行くためにか。
まだ、捕まる気は無いけれど。
「キース」の秘密が隠された本を、憎いキースの所に持って行くまでは。
(……パパ、ママ……)
ピーターパンも、ぼくを守って、と大切な本を抱き締めていて。
宝物を抱えて息を潜めて、乱暴な足音が去ってくれるよう祈り続けて…。
(…キースって…)
あいつには、何も無いんじゃないか、と気が付いた。
過去の記憶を持たないキースは、「本当に持っていなかった」。
この世に生まれた人間ならば、誰もが持っているものを。
成人検査で奪われた後も、微かに残る筈の記憶を。
(……ずっと、水槽で育ったから……)
キースには育ての親もいなければ、故郷も、幼馴染も無い。
そんなものなど持ったことも無くて、知識を得て成長したというだけ。
(…過去なんか、何も持ってないなら…)
機械が奪う必要は無くて、あった筈もない成人検査。
キースは成人検査の代わりに、初めて「外の世界」を得た。
機械が与え続けた酸素を、卒業して。
自分自身の肺で呼吸して、二本の足で初めて立って。
(……あいつ、そうやって生まれて来たんだ……)
過去を奪い取る、あの残酷な成人検査を受けもしないで。
どんなものかも知りもしないで、訳知り顔で。
(……幸福な奴……)
なんて奴だ、と募る憎しみ。
今、苦しいのは、成人検査で過去を奪われたせいなのに。
保安部隊に追われることより、その方がずっと辛くて悲しいことなのに。
(…幸福なキース…)
そう言ってやる、と噴き上げる怒り。
無事に此処から逃れられたら、あの幸福な生命に。
機械が作り出したキースに、嘲りをこめて。
彼だけが「それ」を知らないから。
成人検査を知らない命は、過去を奪われる悲しみさえも、覚えずに生きているのだから…。
過去が無い幸福・了
※シロエが言っていた「幸福なキース」という言葉。アレをいつ思い付いたんだろう、と。
「ゆりかご」を見付けて捕まった時は、まだだった筈。この頃かな、というお話。
(……友達か……)
もう、そう呼んでくれる者もいないな、とキースが零した溜息。
首都惑星ノアの、国家騎士団総司令に与えられた個室で。
側近のマツカは下がらせた後で、夜更けと言ってもよい時刻。
冷めて温くなったコーヒーのカップを傾けていて、思ったこと。
今の自分に「友達」はいない。
いるのは部下たちと側近のマツカ、それだけが周りを取り巻く者。
ずっと昔には「友」がいたのに。
「友達だろ?」と肩を叩いて、「元気でチューか?」と笑んでいたサム。
けれど、その友を失った。
サムは今でもいるのだけれども、子供に戻ったサムの世界に「キース」はいない。
成人検査よりも前の時代に生きるサムには、ステーション時代などは無いから。
「父さん」「ママ」とサムが呼ぶ養父母、彼らがサムが見ている人々。
其処では、キースは「赤のおじちゃん」。
国家騎士団の赤い制服を纏って、何度も会いに行ったから。
サムがすっかり懐くくらいに、病院へ足を運んだから。
(……私は、赤のおじちゃんで……)
今のサムが言う「友達」ではない。
サムが一緒に遊んでいるのは、時の彼方にいる友達。
雲海の星、アルテメシアの育英都市のアタラクシアで、サムと過ごしていた者たち。
その中には、きっと、ミュウの長までいるのだろう。
サムの幼馴染のジョミー・マーキス・シン、今のミュウたちを率いる長が。
(…ジョミーには、今も…)
友がいるのに違いない。
サムとは離れてしまったけれども、ミュウの母船で出会った者たち。
彼らに囲まれ、孤独などとは、まるで無縁で。
時折、こうして「孤独だ」と思う。
自分は一人きりなのだと。
友の一人もいてくれなくて、ただ一人きりで歩み続ける。
機械が「キース」を作った時から、敷いていただろうレールの上を。
道を外れることも出来ずに、黙々と機械に従い続けて。
(……一つだけ、逆らっているのだがな……)
ミュウのマツカを、「人類」だと偽り、国家騎士団に転属させたこと。
そうして自分の側近に選び、今でも生かし続けていること。
ミュウは端から抹殺するのが、SD体制を維持する道。
グランド・マザーはそう説いているし、マザー・システムがそれを実行する。
成人検査でミュウと判明した子は、生きてゆくことを許されない。
その場で処分されてしまうか、実験動物として殺されるか。
(…マツカも、そうなる筈だったのを…)
運が良かったのか、たまたま逃れられた運命。
シロエのように「機械に選ばれた」わけではなくて、「見落とされた」存在。
成績不良の劣等生として生き、ひっそりと死んでゆく筈だった。
辺境の基地から出られないまま、出世の道さえ見付けられないで。
(それが今では、大した出世で…)
部下の中には、マツカをやっかむ者たちもいる。
「コーヒーを淹れるしか能のない、ヘタレ野郎だ」などと罵倒して。
だから、マツカも「孤独」なのだろう。
人類の世界に、一人、紛れてしまったミュウ。
仲間が集まる船には行けずに、人類の世界で暮らし続けて。
今日のように部下たちが飲みに行く時も、一人だけ、声を掛けられないで。
(…だが、マツカには…)
友はいなくても「仲間」がいる。
未だに出会えていないだけのことで、この宇宙にはミュウが大勢。
モビー・ディックに乗っているミュウが全てではない。
今、この瞬間にも、何処かで生まれていることだろう。
ミュウの因子を持った子供が。
成人検査を通過できずに、システムに消されてしまう命が。
(……思った以上に、ミュウは多くて……)
もはや単なる「異分子」だとは思えない。
進化の必然と呼べばいいのか、歴史がミュウに味方していると捉えるか。
(…グランド・マザーは、ミュウを否定するが…)
それ自体が誤りなのかもしれない。
所詮、マザーは機械だから。
自分で思考しているとはいえ、その根源は人間が組んだプログラム。
SD体制に入るよりも前に、グランド・マザーを作った者たち。
彼らが意図して組み上げたモノが、「彼女」の思考を作り出している。
ゆえに彼らが間違えていたら、グランド・マザーも「間違ったこと」しか考えられない。
世界が、どのように動こうとも。
歴史の流れが変わってゆこうと、機械は変わらず叫び続けるだけ。
「ミュウを殺せ」と。
異分子は全て抹殺すべきで、一人たりとも、生かしておくなと。
側近の「マツカ」は、そのミュウの一人。
人類の世界では孤独であっても、ミュウの時代が訪れたならば、友は容易く見付かるだろう。
マツカが心を開きさえすれば。
「ぼくもミュウだ」と、本当のことを打ち明ければ。
(……しかし、私は……)
本当に一人きりなのだ、と足元の床が消えてゆくよう。
サムが「友達」と呼んでくれた頃は、まだ孤独ではなかったのに。
そのサムが壊れてしまった後にも、友の仇を討ってやろうと、旅立ったのに。
(…知らないというのは、幸せなことだ…)
自分が本当は何者なのか。
どうして此処に、国家騎士団総司令として生きているのか。
いずれはパルテノンに入って、国家主席の座に就くのだろう。
機械がそのようにレールを敷くから、その上を黙って歩いて行って。
友の一人も見付からないまま、気が遠くなるほどに孤独に生きて。
(……まさか、ヒトではなかったなどと……)
いったい誰が思うだろうか、こうして生を享けて来たのに。
怪我をしたなら、赤い血だって流れるのに。
(…マザー・イライザが作った人形…)
シロエの口からそう聞いた時は、「ヒトではないのか」と疑った。
機械が作ったアンドロイドで、思考も全てプログラムかと。
けれど、その方がマシだったろう。
「無から作られた」人間よりは。
ヒトと同じに生きているのに、「誰一人、仲間がいない」よりかは。
そうは言っても、人付き合いは得手ではない。
セルジュたちが飲みに行くと言っても、一緒に行こうと思いはしない。
部屋で静かに本を読んだり、こうしてコーヒーを傾けたり、と「一人」を好む。
それでも「一人」と「孤独」とは違う。
ただ一人きりの「機械に作り出された生命」、ソレは「孤独でいる」しかない。
何処を探しても、同じモノなど、いはしないから。
マツカのように「仲間が見付かる」時も、訪れはしないのだから。
(……あの、ミュウの女……)
ジルベスターで人質に取った、長い金髪で盲目の女。
彼女の生まれは「キース」と同じなのだという。
やはり同じに無から作られ、失敗作として処分される所を盗み出された。
伝説と呼ばれたタイプ・ブルー・オリジン、ソルジャー・ブルーに見いだされて。
ミュウの船へと連れてゆかれて、ミュウの仲間になってしまって。
(…私と生まれは同じなのだが…)
あの女は、けして孤独ではない。
ミュウの母船で、仲間に囲まれているのだから。
彼女がどういう立場であろうと、きっと「孤独」を味わいはしない。
船のミュウたちと一緒に暮らして、友達もいることだろう。
此処にいる「キース」とは、まるで違って。
ただの一度も、孤独の淵など、立ち止まって覗き込まないで。
(……私にも、友がいてくれたなら……)
今でもサムが正気だったら、全ては違っていただろう。
サムに「キース」の正体を明かしたとしても、嫌われはせずに。
「生まれなんて、そんなに大事なモンか?」と、笑い飛ばしていたかもしれない。
そう、あのサムがいてくれたなら。
遠い昔に「友達だろ?」と、明るく笑った彼がいたなら。
(……私には、運が無いのだな……)
だから一人だ、と孤独の闇に包まれる。
照明は消えていないのに。
煌々と明るく照らし出すのに、それさえも消えてしまったように。
(…こうして、ずっと一人きりで生きて…)
きっと最後も、自分は孤独なのだろう。
最期の息を引き取る時にも、友達は側にいてくれなくて。
ただ一人きりで生きて、生き続けて、疲れ果てて死んでゆくのだろうか。
「最後まで、私は一人なのか」と、溜息をついて。
孤独に生きた人生の終わりに、またも孤独を突き付けられて。
(…それが似合いではあるのだがな…)
どうせヒトではないのだからな、と思いはしても、虚しくなる。
友達もいない孤独な生など、本当は望んでいないから。
機械が促し、「行け」と言うままに、歩んでゆくしかないのだから…。
作られた孤独・了
※「最後まで、私は一人か…」と呟いていたのが、アニテラのキース。死の直前に。
その隣にいたジョミーの立場は…、と考えていたら出来たお話。単に口癖みたいなもの。
(……機械の申し子、ね……)
すました顔のトップ・エリート、とシロエの瞳が見詰める先。
E-1077のカフェテリアの中、先に来ていたキース・アニアン。
(あんな奴なんかと…)
一緒に食事をする気など無い。
飲み物の一つも、同じテーブルで飲む気などしない。
マザー・イライザのお気に入りなどは、見ていても、ただ気に障るだけ。
(……ツイてないよね……)
ちょっと休憩しに来たのに、と零す溜息。
自分の部屋では飲めない飲み物、それを頼みに。
懐かしい故郷を思わせる呪文、魔法の言葉を唱えるために。
(…シナモンミルク、マヌカ多めで…)
故郷の家で、そう頼んだのは誰だったろう。
幼かった日の自分だったか、はたまた父か母の好みか。
(……それさえ、思い出せないけれど……)
遠い日に、確かに耳にしていた。
あるいは口にしたかもしれない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と。
ホットミルクにシナモンを入れて、マヌカハニーを加えた飲み物。
それもマヌカは必ず「多め」。
このステーションにやって来てから、すっかり忘れていたのだけれど…。
(誰かが、それを注文してて…)
言葉の響きに胸が躍った。
「これ、知ってるよ!」と。
確かに何処かで聞いたものだと、まるで幼い子供みたいに。
そうして頼んだシナモンミルク。
マヌカハニーも多めにして、と付け加えて。
ドキドキしながらテーブルに着いて、魔法の飲み物を口に運んだ。
もしかしたら、子供時代の記憶が戻って来るのでは、と。
機械に消されて奪い去られた、故郷での日々が。
(……だけど、なんにも……)
記憶は戻って来なかった。
シナモンミルクを飲んでいたのが、誰だったのかさえも。
けれど、それ以来、忘れはしない。
故郷の記憶を奥底に秘めた、魔法の呪文を唱えることを。
いつか扉が開く時まで、呪文の意味は掴めなくても。
失くした記憶を取り戻す日まで、ただの呪文に過ぎなくても。
(…あれは魔法の言葉なんだよ)
遠く離れた故郷の星と、忘れられない両親と家。
どんなに記憶が薄れようとも、「好きだった」ことを忘れはしない。
だから呪文を唱えたくなる。
呪文を唱えたい気持ちになったら、このカフェテリアにやって来る。
ホットミルクを飲むだけだったら、自分の部屋でも出来るのに。
(シナモンミルクも、マヌカ多めも…)
与えられた自分用の個室で、自分で作って飲むことは出来る。
ミルクを温め、シナモンの風味を付けたなら。
マヌカハニーをスプーンで掬って、それにたっぷり加えたなら。
(…でも、そうしたら…)
魔法の呪文は唱えられない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」という呪文は。
それを注文する相手がいないと、呪文は意味を成さないから。
だから、こうしてカフェテリアに来る。
故郷に思いを馳せたい時は。
一人きりで部屋に籠っているより、魔法を使いたい気分の日は。
(…それなのに、キース・アニアンね…)
とんだ先客、と顔を顰めて、カウンターに向かおうとしたのだけれど。
(……また、コーヒー……)
いつもアレだ、とキースの手元に目がいった。
此処でキースが頼む飲み物、それはいつでもコーヒーばかり。
判で押したように、同じ注文。
此処には色々なものがあるのに。
キースと一緒にサムがいたなら、そちらはコーラを頼んでいたり、と。
(…まさか、あいつも…)
コーヒーに何かがあるのだろうか。
「機械の申し子」と呼ばれる彼でも、魔法の呪文を持っているとか。
今日の自分が、それを唱えに来たように。
普段から「決して忘れないよう」、定番の飲み物にしているように。
(……まさかね……?)
あんな面白味のない奴に限って、と心の中で吐き捨てる。
キースも故郷を懐かしむなら、もっと人間味があることだろう。
奪われた過去にこだわるのならば、感情だって、ずっと豊かで。
ポーカーフェイスを保っていないで、時には笑って、時には泣いて。
(単に、あいつは…)
コーヒーが好きなだけなのだろう。
過去の記憶は忘れ去っても、舌がコーヒーを覚えていて。
「これは美味い」と、他の飲み物よりも好んで。
(……コーヒーなんか……)
いったい何処がいいのだろうか。
上級生には人気だけれども、下級生は、まだ好まない。
キースも途中でコーヒーの味に目覚めたものか、此処に来る前から好きだったのか。
(…最初からなら…)
きっとキースの故郷の家では、コーヒーが普通だったのだろう。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と頼む代わりに、「コーヒーを」と。
キースの父が飲んでいたのか、両親揃って、コーヒー好きか。
(……それで、あいつも……)
横から味見をしている間に、コーヒー党になっただろうか。
ただ苦いだけの飲み物なのに。
E-1077に来て間もない者には、まるで人気が無いというのに。
(…そうだったなら…)
どうしてキースが、と腹立たしい。
過去のことなど、まるで振り返りもしないだろうに。
両親や故郷を思うことより、未来しか見ていないだろうに。
(……機械の申し子なんだから……)
感情などは何処かに置き去り、そんな風にしか見えないキース。
それなのに、彼も「呪文」を持つなら、神とは、なんと不公平なのか。
キースなんかに持たせてやっても、呪文の価値はゼロなのに。
「コーヒーを頼む」と口にしたって、何の感慨も無いのだろうに。
(……なんで、あいつが……)
そんな呪文を持っているのか、コーヒーを好んで飲んでいるのか。
まるで値打ちが無い男が。
せっかくの呪文も猫に小判で、豚に真珠のようなキースが。
(…………)
やめた、とクルリと返した踵。
キースのお蔭で、今日は呪文が穢れそうだから。
大切な呪文を唱えてみたって、ただ腹立たしいだけだろうから。
(…ホットミルクなら…)
部屋で飲むよ、と魔法の場所に背を向ける。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられるのは、此処だけでも。
自分の部屋では意味が無くても、キースを見ながら唱えたくはない。
キースも「呪文」を持っているかもしれないから。
それが「呪文」だと気付きもしないで、「コーヒーを頼む」と、いつも、いつでも。
(……本当に猫に小判だってば……!)
あんな奴が呪文を持っていたって、と足音も荒く通路をゆく。
すれ違う者がチラリと見ようが、あからさまに陰口を叩こうが。
「またシロエかよ」と言っていようが、そんなことなど、どうでもいい。
今日は呪文を唱え損ねた、その腹立ちに比べたら。
とても大切な呪文の言葉を、キースも持っているかもしれない。
猫に小判で、豚に真珠のような男が。
「コーヒーを頼む」と口にしてはいても、呪文だとさえ気付かないままで。
(…あんな奴が…!)
ぼくと同じに呪文だなんて、と個室の扉も乱暴に閉めた。
今日は、なんともツイていなくて、呪文も唱え損ねたから。
おまけにキースと出会ってしまって、「猫に小判だ」と思ったから。
(……シナモンミルク……)
マヌカ多めで、と心の中で唱えてみる。
唱えられずに終わってしまった、懐かしい故郷に飛べる呪文を。
それを好んだのは父か、母なのか、自分なのかさえ分からなくても。
(ぼくは、あいつとは違うんだから…)
いつか呪文の謎を解くんだ、とホットミルクの用意をする。
此処では呪文は無理だけれども、その味だけは楽しめるから。
ミルクを温め、シナモンを入れて、マヌカハニーを多めにしたら。
(……誰が、好きだったんだろう?)
コーヒーのように、大人向けではない飲み物。
自分だったと思いたいけれど、それなら忘れたことが悲しい。
キースも呪文を持っているなら、「コーヒーの味」を舌が覚えているのなら。
(……本当に、猫に小判だよね……)
神様の気まぐれにしても酷い、と思うけれども、仕方ない。
呪文を思い出せただけでも、きっと自分は幸せだから。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられれば、充分だから…。
ぼくだけの呪文・了
※シロエはシナモンミルクですけど、キースはコーヒーなんだよね、と思っただけ。
ずっと昔に書いた作品、『マヌカの呪文』とセットものかもしれません(笑)
(……神の領域か……)
私はそれを侵したのだ、とキースは思う。
首都惑星ノアの、国家騎士団総司令として与えられた部屋で。
日付はとうに変わった時刻で、側近のマツカも下がらせた後。
カップに残った冷めたコーヒー、それを一口、喉の奥へと落とし込んで。
(…正確に言えば、私が侵したわけではないが…)
マザー・システムの仕業だがな、と分かってはいる。
理想の指導者を作り出すべく、グランド・マザーが下した命令。
全くの無から作った生命、それに人類と地球の未来を託せるように。
最初はE-1077ではなく、別の場所で行われていた研究。
けれども、其処で邪魔が入った。
(……ソルジャー・ブルー……)
伝説のタイプ・ブルー・オリジン、ジルベスター・セブンで出会ったミュウ。
彼はメギドと共に滅びて行ったのだけれど、彼が攫った女がいた。
モビー・ディックから逃れた時に、人質に取ったミュウの女が。
(…あの女は、私と同じ生まれで…)
それゆえに彼女は、マザー・イライザと似た面差しだった。
ソルジャー・ブルーが攫う前には、何体も作られた「同じ顔の女性」。
最後の一人は失敗作で、その上、ミュウに攫われる始末。
(……それで実験の場を、宇宙に移して……)
研究者たちも、共にE-1077へ移動した。
プロジェクトを引き継いだマザー・イライザ、その指示で研究を続けるために。
(…全くの無から、生命を作り出すなどは…)
神の領域を侵す禁忌で、そうして作り出された「自分」。
見た目はヒトと変わらなくても、神が作ったものではない。
ならば、自分は何処へ行くのか。
ヒトの命が終わった後には、神の許へと旅立つという。
全ての創造主である神、ヒトを創った神の御許へ。
今は機械が統治する時代。
「普通のヒト」にも親はいなくて、人工子宮から生まれてくる。
機械が選んだ無限大の交配、其処にヒトの手は介在しない。
(……しかし、それでも……)
提供された卵子と精子は、間違いなく「ヒト」のものではある。
どのような形で作られようとも、生まれようとも、「ヒト」は「ヒト」。
SD体制が始まる前の時代だったら、「実の親」と呼ばれた者がいるもの。
卵子を提供した者が母で、精子を提供した者が父で。
(…きちんとデータを調べさえすれば、本当の親が分かるのだ…)
今の時代を生きる者には、データへのアクセス権限が無くても。
マザー・システムがそれを禁止していても、探す術はある「親」というもの。
けれど、自分に「親」などはいない。
モビー・ディックの中で出会った、ミュウの女にも。
E-1077の水槽で長く育つ間に、サンプルの姿を目に焼き付けた女性体にも。
(私を作った遺伝子データは、あの女のを元にしていたらしいが…)
ただそれだけのことに過ぎない。
彼女の卵子を使っていたなら、辛うじて「母」がいたのだろうけれど…。
(…データを元にしただけではな…)
DNAの上では「母」と言えても、本当の母とはとても呼べない。
「キース」も無から作られたから。
機械によって合成された、三十億もの塩基対。
マザー・イライザが「それ」を繋いだ。
ミュウの女のデータを元に、DNAという鎖を紡ぎ上げて。
神の領域に足を踏み入れ、「ヒトに似たモノ」を作り出そうと。
姿は人と変わらなくても、人を超える者。
人類の理想の統治者として、ヒトと地球とを導く者を。
そうして作り出された自分。
国家騎士団総司令、「キース」。
いつか命が終わった時には、この魂は何処へ行くのだろうか。
この身を離れて飛んで行っても、開かないかもしれない扉。
「ヒト」であったら、神の国へと行けるのに。
神の国に行く資格が無ければ、地獄の扉が開くだろうに。
(……ヒトでなければ、どうなるのだ……?)
神は「キース」を作ってはいない。
造物主たる神が「知らない」存在、知らないどころか禁忌を侵して生まれたモノ。
ならば、門前払いだろうか。
天国へ行こうと、地獄へ行こうと、どちらの扉も開くことなく。
…ヒトであったら、どちらかの道がある筈なのに。
たとえ地獄の責め苦があろうと、行き着く先があるというのに。
(…これでは、まるで…)
ジャック・オー・ランタンのようではないか、と思い描いた昔の祭り。
今の時代はもう無いけれども、十月の一番最後の日。
ハロウィンと呼ばれた祭りの時には、カボチャでランタンを作ったという。
それの由来がジャック・オー・ランタン、伝説の男が持っている灯り。
天国へも地獄へも行くことが出来ず、永遠に彷徨い続ける男。
カボチャに入れて貰った明かりだけを手に、いつか扉が開く時まで。
天国ではなくて地獄だろうと、ヒトが行く場所に落ち着けるまで。
(……神が私を、「作っていない」と突き放すなら……)
きっと、自分もそうなるのだろう。
カボチャのランタンをくれる者さえ、現れずに。
ジャック・オー・ランタンは「ヒト」だっただけに、ランタンを貰えたのだけれども。
(……灯りの一つも、貰えないままで……)
いったい何処を彷徨うのだろう、「キース・アニアン」だった男は。
人類の指導者だった時代は、誰もが敬意を払った者は。
ミュウたちから恐れられた男は、いずれ惨めに落ちぶれてゆく。
ジルベスター・セブンごと焼いたミュウでも、ヒトの一種には違いない。
彼らでさえ行ける天国や地獄、其処に「キース」の居場所は無い。
ただ一人きりで彷徨うだけで。
天国の扉も、地獄の扉も、「キース」のためには開かなくて。
(…ソルジャー・ブルー…)
彼が「キース」の姿を見たなら、嗤うだろうか。
それとも憐み、カボチャのランタンに火を入れて持たせてくれるだろうか。
いつか扉が開く時まで、「持っているといい」と。
暗闇の中を歩き続けてゆくなら、こうした灯りも要るだろうから、と笑んで。
(……あの男ならば……)
そうかもしれん、という気がする。
敵同士として戦ったけれど、彼に出会って変わった「何か」。
彼のようにありたい、と思わないでもない自分。
指導者が自ら戦う姿は、愚かしいように思えても。
「導く者を失ったならば、もはや戦えないではないか」と思いはしても。
赤い瞳に宿った信念、それを自分は見せられたから。
右の瞳を砕かれてもなお、挫けぬ闘志に飲まれさえして。
だから彼なら、あるいはと思う。
すっかり落ちぶれ、死後の世界を彷徨う者にも、灯りを一つ、くれるのではと。
わざわざカボチャを採って来てまで、「これを持ってゆけ」と。
神が「キース」を許す時まで、一人、彷徨うだろう道。
天国にも地獄にも入れないまま、貰ったカボチャの灯りだけを頼りに。
カボチャの灯りが届く範囲は、きっと足元くらいだろうに。
(……ぞっとしないな……)
そういう未来が待っているなら、なんと虚しい人生だろう。
機械に無から作り出されて、懸命に生きた先がそれでは。
システムに疑問を抱きながらも、「守らなければ」と努力した果てが。
(…シロエは何処へ行ったのだろう…?)
遠い日に自分が殺した少年。
ピーターパンの本だけを持って、暗い宇宙に散っていったシロエ。
彼の行き先はネバーランドか、あるいは天国と呼ばれる場所か。
どちらにしても、きっと再会は叶わない。
「キース」のためには、何処の扉も開かないから。
いつの日か神が許す時まで、一人、彷徨うしかないのだから。
(……埒も無いことを……)
こうして考えてしまう心も、いっそ無ければいいものを。
機械が作った生命ならば、魂さえも…。
(…いっそ無ければ、楽なのだがな…)
死後の世界を彷徨うよりかは、魂などは無くていいな、と溜息をつく。
遠い昔の童話に出て来た、人魚姫。
人魚姫には魂は無くて、命が終われば消えてゆくだけ。
儚い泡になってしまって、海の水に溶けて。
(……人魚姫は、魂を貰ったのだが……)
私は要らん、と傾けた冷めたコーヒーのカップ。
機械が作った生命体にも「魂は無い」と言うのだったら、欲しくはない。
いつか命が尽きた時には、この心ごと消えようとも。
どうせ自分に、天国の扉は開かないから。
神の領域を侵した者には、地獄の劫火が渦巻く世界も、扉を開けてはくれないから…。
いつか行く道・了
※いや、機械が作った生命体だと、魂はどうなるんだろう、と思ったのが切っ掛け。
「人魚姫と同じで、無いかもしれない」と考え始めて、ジャック・オー・ランタン…。
(パパ、ママ……)
帰りたいよ、とシロエの瞳から零れ落ちた涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで向かう机で。
さっきまで、此処に「母」がいた。
正確に言えば母の幻影、そして本物の「母」ではない。
マザー・イライザが現れただけで、母の姿を真似ているだけ。
「見る者が親しみを覚える姿」で現れなければ、「彼女」は役目を果たせないから。
もっとも、機械を「彼女」と呼ぶなど、腹立たしい限りなのだけど。
(…でも、女には違いないんだ…)
正体は巨大なコンピューターでも、マザー・イライザは「女性」ではある。
成人検査で記憶を奪った、忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブも。
(地球にあるって言う、グランド・マザーも…)
その名に「マザー」と入る以上は、「女性」には違いないだろう。
「グランド・マザー」が意味する通りに、「祖母」らしく年老いているかはともかく。
(…テラズ・ナンバー・ファイブは機械だったのに…)
見るからに機械らしい姿で、その顔さえも歪んでいた。
だから余計に憎しみが増すし、きっと一生、忘れはしない。
「アレ」に与えられた屈辱を。
何も知らずにシステムに騙され、まんまと記憶を奪われたことを。
(…マザー・イライザも同じなのに…)
コールされる度、欠けてゆく記憶。
心が軽くなった気はしても、それは「何かを忘れた」から。
何だったのか自覚は無くても、大切なことを。
忘れまいとする故郷のこととか、両親と過ごした頃のこととか。
(……それなのに、ママの姿をしてて……)
まるで「本物」のように語り掛けるから恐ろしい。
初めて見た日は、「母」に出会ったと思ったくらいに似ている姿。
本物の母の面差しは霞んでいるというのに、何処も霞んで欠けはしないで。
その「からくり」に気付いた時から、マザー・イライザを「描く」ようになった。
絵心は持っていないけれども、描かないよりかはマシだろうと。
記憶の中で薄れてしまった母の姿を、見せるのがマザー・イライザだから。
「彼女」の姿を真似て描いたら、「母」を描ける日も来るだろう。
自分で描いた下手な絵ながらも、「これがママだ」と思えるものを。
「ぼくのママだよ」と額縁に入れて、壁に飾りたくなるような絵が。
(……今日だって……)
今すぐ鉛筆を握ったならば、さっき見た「母」が描けるだろう。
机の引き出しから白い紙を出して、それに向き合って挑んだならば。
(……でも……)
今日は「描ける」という気がしない。
涙で視界がぼやけてしまって、ただただ、「母」が恋しくて。
両親に会いたい気持ちが募って、コントロールさえ出来なくて。
こんな状態で紙に向かっても、きっと涙で駄目になるだけ。
後から後から零れる涙が、真っ白な紙に染みを作って。
濡れて湿ってしまった紙には、もう鉛筆では描けなくて。
(…描けないよね…)
今日は駄目だ、とグイと涙を拭う。
起きていたって、もう何一つ出来ないだろう。
母の姿を描き出すことも、机で勉強することも。
趣味にしている機械いじりも、気分が乗ってはくれないから。
(…こんな時には、何をしたって駄目なんだから…)
いっそ寝ようかと思うけれども、シャワーを浴びる気にもなれない。
シャワーを浴びずにパジャマを着るのは、具合の悪い時だけなのに。
今日は訓練もあったことだし、シャワーは浴びておきたいのに。
(……ちょっとだけ……)
もう少し気分が落ち着いてから、とシャワーの時間は先へ延ばした。
けれども机の前にいるのも、今は嬉しいものではない。
「母」は其処から現れたから。
机の側から、「どうしました?」と姿を見せたマザー・イライザ。
「彼女」と部屋を繋ぐ端末、それは机の一部だから。
マザー・イライザの姿を投影するのも、机の機能の内なのだから。
(…見張られてるよね…)
いつも、いつも、どんな時だって。
部屋には監視カメラもあるから、何をしているかは全て筒抜け。
そうだと承知しているけれども、せめて僅かでも逃れたい。
マザー・イライザの視線から。
「彼女」が常に音を集める、「耳」になっている盗聴器から。
(……盗聴器ね……)
自分から見れば「盗聴器」という位置付けだけれど、そう思う者は少ないだろう。
監視カメラの方にしたって、候補生たちは気にも留めない。
個室で「机」に向かっていたなら、心の乱れを読み取られるという「恐ろしさ」さえも。
(…誰も分かっちゃいないんだから…)
それに「怖い」と思いもしない、と舌打ちをする。
此処では誰もが「羊」なのだ、と。
マザー・イライザに飼い慣らされて、何も変だと思わない羊。
「マザー牧場の羊たち」の群れに、自分は入ってゆけなどはしない。
彼らの群れに入ってゆけたら、生きてゆくのは楽なのだろうに。
羊は群れを作るものだし、羊飼いがいれば「もっといい」。
何処に行けばいいのか導いてくれて、牧羊犬もつけてくれるから。
(……狼が羊を襲いに来たって……)
羊飼いたちが追い払う上に、牧羊犬も激しく吠えるのだろう。
狼の姿が見えなくなるまで、一匹の羊も欠けないように。
そういう「羊」が暮らすステーションで、自分は「羊」になり損なった。
羊だとしても、群れを離れて一匹だけで生きているのだろう。
緑豊かな牧草地には、背中を向けて。
食べる草さえ乏しい荒野で、狼の遠吠えを耳にしながら。
(……パパとママが、いてくれたなら……)
どんなに心強いだろうか、こうして泣かずに済むのだから。
一人きりで涙を零さなくても、話を聞いて貰えもして。
(……独りぼっちになっちゃったよ……)
ホントに一人、とベッドに上がって膝を抱える。
此処なら机の前ではないから、マザー・イライザが遠くなる。
監視カメラと「耳」からは逃れられなくても。
(…会いたいよ、ママ…)
パパ、と涙は止まらない。
幾つも幾つも雫が溢れて、頬を伝って転がり落ちて。
いったい何度、こうやって泣いたことだろう。
マザー・イライザに捕まらないよう、ベッドの上で。
「どうしました?」と機械が姿を現さないよう、机から遠く離れた場所で。
この部屋の中で、ただ一つだけの「安全な」場所。
流石にベッドで寝ている時には、マザー・イライザは現れない。
(……本当は、きっとベッドにも……)
何か仕掛けがあるだろう、とは思うけれども。
夢の中まで監視するくらい、マザー・イライザには容易いこと。
下手をしたなら、寝ている間に「記憶を処理する」ことさえも。
(……それをされたら、もう本当に……)
お手上げだよね、と思うけれども、防ぐ手立てなど持ってはいない。
いくら機械の知識があっても、機密事項は「まだ習わない」。
自分で学習する手段さえも、封印されているのだから。
ベッドの周りを何度探っても、どれが「それ」かは分かりはしない。
怪しい機械が幾つあっても、本当に危険なのかどうかは。
(……だけど、此処しか……)
一人で泣ける場所は無いから、と膝を抱えて蹲る。
頬を伝う涙が止まらないままに、もう帰れない家を思って。
顔さえおぼろな故郷の両親、二人に会いたくてたまらなくて。
(…家にいた頃なら、ぼくが一人で泣いてたら…)
間違いなく母がやって来た。
「どうしたの?」と、マザー・イライザとは全く違った優しい声で。
機械の幻影などとは違って、肩に手だって置いてもくれて。
(……何があったの、って……)
いつだって訊いてくれた母。
喧嘩して泣いて帰った時にも、何か失敗した時にも。
(…それに、おやつも…)
急いで作ってくれた気がする。
何だったのかは、今では思い出せないけれど。
(食べたら涙が止まるわよ、って…)
テーブルの皿に載っていたのは、何だったろう。
側に置かれたカップの中身は、マヌカ多めのシナモンミルクだったのだろうか。
今となっては、もう分からない。
記憶はすっかりぼやけてしまって、どう足掻いても思い出せないから。
皿とカップの記憶はあっても、肝心の中身が見えないから。
(…でも、ぼくは…)
あの頃は一人じゃなかったんだよ、と溢れる涙。
部屋で一人で泣いていたって、あの頃は母がいてくれたから。
頼もしい父も、「どうしたんだ?」と涙を拭ってくれもしたから。
(……それなのに……)
ぼくは今では独りぼっちだ、と「失ったもの」の大きさに泣く。
今の自分は、たった一人で泣いているしか術が無いから。
家にいた頃なら、一人きりで泣ける場所など、何処にも「要らなかった」のに。
両親が側に来てくれるだけで、涙を拭って笑えたのに。
(……そんな場所さえ、ぼくは失くした……)
全部機械に奪われたんだ、と、ただ悔しい。
「一人きりで泣ける場所」を見付けて、泣いている自分が悲しくて。
泣くための場所を持ってしまった今の自分が、ただ可哀相で。
本当に自分は独りぼっちで、そうなったのは機械のせい。
どんなに一人で泣いていたって、もう両親は来ないのだから…。
泣くための場所・了
※いや、シロエって故郷でも泣いていたんだろうか、とチラと思ったわけで…。
気が強そうでも、泣いた日だってあった筈。そんな考えから生まれたお話です。
