(パパ、ママ……)
帰りたいよ、とシロエの瞳から零れ落ちた涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで向かう机で。
さっきまで、此処に「母」がいた。
正確に言えば母の幻影、そして本物の「母」ではない。
マザー・イライザが現れただけで、母の姿を真似ているだけ。
「見る者が親しみを覚える姿」で現れなければ、「彼女」は役目を果たせないから。
もっとも、機械を「彼女」と呼ぶなど、腹立たしい限りなのだけど。
(…でも、女には違いないんだ…)
正体は巨大なコンピューターでも、マザー・イライザは「女性」ではある。
成人検査で記憶を奪った、忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブも。
(地球にあるって言う、グランド・マザーも…)
その名に「マザー」と入る以上は、「女性」には違いないだろう。
「グランド・マザー」が意味する通りに、「祖母」らしく年老いているかはともかく。
(…テラズ・ナンバー・ファイブは機械だったのに…)
見るからに機械らしい姿で、その顔さえも歪んでいた。
だから余計に憎しみが増すし、きっと一生、忘れはしない。
「アレ」に与えられた屈辱を。
何も知らずにシステムに騙され、まんまと記憶を奪われたことを。
(…マザー・イライザも同じなのに…)
コールされる度、欠けてゆく記憶。
心が軽くなった気はしても、それは「何かを忘れた」から。
何だったのか自覚は無くても、大切なことを。
忘れまいとする故郷のこととか、両親と過ごした頃のこととか。
(……それなのに、ママの姿をしてて……)
まるで「本物」のように語り掛けるから恐ろしい。
初めて見た日は、「母」に出会ったと思ったくらいに似ている姿。
本物の母の面差しは霞んでいるというのに、何処も霞んで欠けはしないで。
その「からくり」に気付いた時から、マザー・イライザを「描く」ようになった。
絵心は持っていないけれども、描かないよりかはマシだろうと。
記憶の中で薄れてしまった母の姿を、見せるのがマザー・イライザだから。
「彼女」の姿を真似て描いたら、「母」を描ける日も来るだろう。
自分で描いた下手な絵ながらも、「これがママだ」と思えるものを。
「ぼくのママだよ」と額縁に入れて、壁に飾りたくなるような絵が。
(……今日だって……)
今すぐ鉛筆を握ったならば、さっき見た「母」が描けるだろう。
机の引き出しから白い紙を出して、それに向き合って挑んだならば。
(……でも……)
今日は「描ける」という気がしない。
涙で視界がぼやけてしまって、ただただ、「母」が恋しくて。
両親に会いたい気持ちが募って、コントロールさえ出来なくて。
こんな状態で紙に向かっても、きっと涙で駄目になるだけ。
後から後から零れる涙が、真っ白な紙に染みを作って。
濡れて湿ってしまった紙には、もう鉛筆では描けなくて。
(…描けないよね…)
今日は駄目だ、とグイと涙を拭う。
起きていたって、もう何一つ出来ないだろう。
母の姿を描き出すことも、机で勉強することも。
趣味にしている機械いじりも、気分が乗ってはくれないから。
(…こんな時には、何をしたって駄目なんだから…)
いっそ寝ようかと思うけれども、シャワーを浴びる気にもなれない。
シャワーを浴びずにパジャマを着るのは、具合の悪い時だけなのに。
今日は訓練もあったことだし、シャワーは浴びておきたいのに。
(……ちょっとだけ……)
もう少し気分が落ち着いてから、とシャワーの時間は先へ延ばした。
けれども机の前にいるのも、今は嬉しいものではない。
「母」は其処から現れたから。
机の側から、「どうしました?」と姿を見せたマザー・イライザ。
「彼女」と部屋を繋ぐ端末、それは机の一部だから。
マザー・イライザの姿を投影するのも、机の機能の内なのだから。
(…見張られてるよね…)
いつも、いつも、どんな時だって。
部屋には監視カメラもあるから、何をしているかは全て筒抜け。
そうだと承知しているけれども、せめて僅かでも逃れたい。
マザー・イライザの視線から。
「彼女」が常に音を集める、「耳」になっている盗聴器から。
(……盗聴器ね……)
自分から見れば「盗聴器」という位置付けだけれど、そう思う者は少ないだろう。
監視カメラの方にしたって、候補生たちは気にも留めない。
個室で「机」に向かっていたなら、心の乱れを読み取られるという「恐ろしさ」さえも。
(…誰も分かっちゃいないんだから…)
それに「怖い」と思いもしない、と舌打ちをする。
此処では誰もが「羊」なのだ、と。
マザー・イライザに飼い慣らされて、何も変だと思わない羊。
「マザー牧場の羊たち」の群れに、自分は入ってゆけなどはしない。
彼らの群れに入ってゆけたら、生きてゆくのは楽なのだろうに。
羊は群れを作るものだし、羊飼いがいれば「もっといい」。
何処に行けばいいのか導いてくれて、牧羊犬もつけてくれるから。
(……狼が羊を襲いに来たって……)
羊飼いたちが追い払う上に、牧羊犬も激しく吠えるのだろう。
狼の姿が見えなくなるまで、一匹の羊も欠けないように。
そういう「羊」が暮らすステーションで、自分は「羊」になり損なった。
羊だとしても、群れを離れて一匹だけで生きているのだろう。
緑豊かな牧草地には、背中を向けて。
食べる草さえ乏しい荒野で、狼の遠吠えを耳にしながら。
(……パパとママが、いてくれたなら……)
どんなに心強いだろうか、こうして泣かずに済むのだから。
一人きりで涙を零さなくても、話を聞いて貰えもして。
(……独りぼっちになっちゃったよ……)
ホントに一人、とベッドに上がって膝を抱える。
此処なら机の前ではないから、マザー・イライザが遠くなる。
監視カメラと「耳」からは逃れられなくても。
(…会いたいよ、ママ…)
パパ、と涙は止まらない。
幾つも幾つも雫が溢れて、頬を伝って転がり落ちて。
いったい何度、こうやって泣いたことだろう。
マザー・イライザに捕まらないよう、ベッドの上で。
「どうしました?」と機械が姿を現さないよう、机から遠く離れた場所で。
この部屋の中で、ただ一つだけの「安全な」場所。
流石にベッドで寝ている時には、マザー・イライザは現れない。
(……本当は、きっとベッドにも……)
何か仕掛けがあるだろう、とは思うけれども。
夢の中まで監視するくらい、マザー・イライザには容易いこと。
下手をしたなら、寝ている間に「記憶を処理する」ことさえも。
(……それをされたら、もう本当に……)
お手上げだよね、と思うけれども、防ぐ手立てなど持ってはいない。
いくら機械の知識があっても、機密事項は「まだ習わない」。
自分で学習する手段さえも、封印されているのだから。
ベッドの周りを何度探っても、どれが「それ」かは分かりはしない。
怪しい機械が幾つあっても、本当に危険なのかどうかは。
(……だけど、此処しか……)
一人で泣ける場所は無いから、と膝を抱えて蹲る。
頬を伝う涙が止まらないままに、もう帰れない家を思って。
顔さえおぼろな故郷の両親、二人に会いたくてたまらなくて。
(…家にいた頃なら、ぼくが一人で泣いてたら…)
間違いなく母がやって来た。
「どうしたの?」と、マザー・イライザとは全く違った優しい声で。
機械の幻影などとは違って、肩に手だって置いてもくれて。
(……何があったの、って……)
いつだって訊いてくれた母。
喧嘩して泣いて帰った時にも、何か失敗した時にも。
(…それに、おやつも…)
急いで作ってくれた気がする。
何だったのかは、今では思い出せないけれど。
(食べたら涙が止まるわよ、って…)
テーブルの皿に載っていたのは、何だったろう。
側に置かれたカップの中身は、マヌカ多めのシナモンミルクだったのだろうか。
今となっては、もう分からない。
記憶はすっかりぼやけてしまって、どう足掻いても思い出せないから。
皿とカップの記憶はあっても、肝心の中身が見えないから。
(…でも、ぼくは…)
あの頃は一人じゃなかったんだよ、と溢れる涙。
部屋で一人で泣いていたって、あの頃は母がいてくれたから。
頼もしい父も、「どうしたんだ?」と涙を拭ってくれもしたから。
(……それなのに……)
ぼくは今では独りぼっちだ、と「失ったもの」の大きさに泣く。
今の自分は、たった一人で泣いているしか術が無いから。
家にいた頃なら、一人きりで泣ける場所など、何処にも「要らなかった」のに。
両親が側に来てくれるだけで、涙を拭って笑えたのに。
(……そんな場所さえ、ぼくは失くした……)
全部機械に奪われたんだ、と、ただ悔しい。
「一人きりで泣ける場所」を見付けて、泣いている自分が悲しくて。
泣くための場所を持ってしまった今の自分が、ただ可哀相で。
本当に自分は独りぼっちで、そうなったのは機械のせい。
どんなに一人で泣いていたって、もう両親は来ないのだから…。
泣くための場所・了
※いや、シロエって故郷でも泣いていたんだろうか、とチラと思ったわけで…。
気が強そうでも、泣いた日だってあった筈。そんな考えから生まれたお話です。