カテゴリー「地球へ…」の記事一覧
(御用があったら呼んで下さい、か…)
呼ばれなくとも駆け付けるくせに、とキースは扉の方へ目を遣る。
たった今、其処から出て行った者は、もう見えない。
ジルベスター・セブン以来の忠実な側近、キース・アニアンに仕え続けるジョナ・マツカ。
「今夜は、もういい」と言われた通り、自分の部屋へ下がったのだろう。
国家騎士団総司令のために設けられた個室、それがある区画の部下のための部屋へ。
(…皮肉なものだな…)
一番の部下がミュウだとはな、とキースは視線を机に戻した。
マツカが淹れて行ったコーヒー、そのカップが湯気を立てている。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と、マツカは皆に揶揄されていた。
実際、そうとしか見えないのだから、仕方ない。
マツカが「キースの命を受けてしていること」は、ただ、コーヒーを淹れることだけ。
「コーヒーを頼む」と言われた時だけ、「はい」と返事して動くのだから。
(それ以外の用は、他の者たちがしているからな…)
マツカは彼らへの伝達係を務めるだけで、実務は何もこなしていない。
国家騎士団員だとはいえ、そのための教育は何一つ受けていないのだから。
(宇宙海軍の一兵卒では、やれと言われても、出来ない方が当然なのだが…)
他の部下たちは、そうは思っていない。
キース自ら選んだ側近、しかも宇宙海軍からの転属という破格の昇進がマツカの経歴。
「もっと役に立つ筈なのに、何故」と、冷ややかにマツカを眺めている。
「閣下の見込み違いだったか」と、「能無し野郎」の烙印を押して。
(気付けという方が無理な話で…)
マツカの正体を知らないのだし、と分かってはいても、苦笑が漏れる。
「お前たちより、よほど役に立つ部下なのだが」と。
「私の命を何度救ったか、お前たちは何も知らないだけだ」と。
マツカがミュウでなかったならば、不可能だった救出劇は数知れない。
ジルベスター・セブンからの脱出に始まり、今も功績は増え続けている。
「キース・アニアン」の暗殺計画が、次から次へと立てられるせいで。
移動経路に爆弾が仕掛けられたり、いきなり銃撃されたりもした。
それらをマツカは全て防いで、キースの命を守り続ける。
他の部下たちは何も知らずに、「閣下はとても強運だから」と、いつも称賛しているけれど。
加えて自分たちの働き、機敏に動いて「閣下をお守りしているのだ」と誇りに思って。
勘違いされている、ジョナ・マツカ。
コーヒーを淹れることしか出来ない、「能無し野郎」。
(美味いコーヒーを淹れているのも、また事実だが…)
他の奴らではこうはいかん、とキースはコーヒーのカップを傾ける。
「これも才能の一つではある」と、絶妙な苦味を味わいながら。
マツカに命を救われた後に、何度、彼が淹れたコーヒーを飲んだだろうか。
「どうぞ」と差し出される湯気の立つカップ、その度に何処かホッとする自分を知っている。
けして顔には出さないけれども、「また生き延びた」と心に湧き上がるものは…。
(……感謝の気持ちと言うのだろうな)
マツカに伝えたことは無いが、と頬が微かに緩む。
「私にだって、感情はある」と。
「サムにしか向けていないようでも、確かにあるのだ」と。
その有能な「マツカ」のお蔭で、命を拾って、美味いコーヒーも飲める。
マツカがミュウであるからこそで、彼が人類なら、こうはいかない。
「キース・アニアン」は、とうの昔に殺されているか、失脚していたことだろう。
暗殺計画を防ぐことが出来ずに、犠牲になって。
あるいは命は助かったものの、任務を続けることが出来ない身体にされて。
(そうはならずに、この先も生きていけそうだが…)
問題はミュウの侵攻だな、と思考をそちらに向けた瞬間、ハタと気付いた。
人類の宿敵、今も進軍中のミュウ。
彼らと相対している自分は、対ミュウ戦略の筆頭と目されているけれど…。
(そもそも私が、ミュウの巣から生きて逃げ延びられたのは…)
マツカが助けに来たからこそで、そのマツカは、元は暗殺者だった。
暗殺者の顔をしてはいなくて、気の弱い「ただのミュウ」だったけれど。
ソレイド軍事基地に隠れて、ひっそりと生きていたミュウの青年。
(私が、あそこに行かなかったら…)
マツカは自分が「ミュウ」だとも知らず、虐げられて今もソレイドにいただろう。
何の役にも立たない上に、気が弱く、身体も弱い「軍人」などに価値は無い。
きっと役職なども貰えず、下手をしたなら…。
(掃除係にされていたかもしれないな…)
実にありそうな結末だ、と司令官だったグレイブの姿を思い浮かべる。
「奴なら、そうする」と、「使えない者など、左遷だろう」と。
あのままソレイドに残っていたなら、掃除係になりそうなマツカ。
ところが、彼がソレイドで仕出かしたことは、立派な暗殺計画そのもの。
未遂に終わって、暗殺対象だった「キース」に抜擢されて、今は暗殺を防ぐのが役目。
有能な部下になっているけれど、元々、マツカは「暗殺者」なのだ。
自分の命を守るためにと、「キース・アニアン」を殺そうとした。
それはあまりにも無謀に過ぎて、失敗に終わったマツカの企て。
殺されかけたキースの方でも、「愚かな」と、せせら笑ったくらいに無謀。
優位に立って、「後ろに立つな」と銃で脅して、いい気になっていたのだけれど…。
(…あの時、マツカが、もっと追い詰められていたなら…)
サイオン・バーストを起こすくらいの状態だったら、結果は違っていただろう。
今の今まで、全く思いもしなかったけれど、マツカの潜在能力は高い。
(……私を、メギドの制御室から助け出した時……)
マツカは確かに、瞬間移動をしてのけた。
そんな力は、タイプ・ブルーにしか無い筈なのに。
更に言うなら、マツカは「必死になっていた」だけで、暴走状態ではなかったのに。
(…サイオン・バーストの寸前だったら、他のミュウでも有り得るのかもしれないが…)
そうでもないのに、マツカは凄まじい能力を見せた。
彼が「暗殺者」の顔だった時に、同じ力を発揮していたら…。
(……私の命は、其処で終わっていたな……)
間違いなく殺されていたことだろう、と背筋がゾクリと冷たくなる。
「私は運が良かっただけか」と、今頃になって思い知らされた。
運良く「たまたま」助かっただけで、「死んでいたかもしれないのだ」と。
もしも、あそこで「キース・アニアン」がマツカに殺されていたら…。
(…その後の歴史は、今とは全く違ったものに…)
なったことだろう、と恐ろしくなる。
ジルベスター・セブンは焼かれることなく、ミュウは生き延びたに違いない。
そしてあそこを拠点に据えて、地球への侵攻を始めただろう。
そうなった時も、キースの暗殺に成功したマツカは、あのソレイドで…。
(いつミュウどもが攻めて来るのか、日々、怯えながら…)
掃除係をやっているのだ、と容易に想像がつく。
自分がミュウだと知らないのだから、「ぼくは生き延びられるだろうか」とビクビクして。
マツカが「キース」を殺したとしても、誰も「マツカ」の仕業などとは思わない。
ジルベスター・セブンの調査にやって来たキースは、突然死として片付けられたことだろう。
心臓発作を起こして死んで、マツカがそれを発見した、と上層部に報告されるだけ。
(…いくらグランド・マザーであっても、こればかりはな…)
どうすることも出来はしなくて、代わりの者を派遣するより他はない。
「キースにしか、ミュウの相手は出来ない」と承知していても、死人に任務の遂行は不可能。
他の誰かを選ぶしかなく、選ばれた者には、キースと同じ働きなど出来ない上に…。
(マツカの助けも、ありはしなくて…)
あえなく戦死を遂げてしまって、ミュウは直ちに反撃に出る。
自分たちの拠点を知られた以上は、先手必勝。
ジルベスター・セブンが焼かれていないのであれば、戦力は充分、持っている筈。
なんと言っても、九人ものタイプ・ブルーがいるのが、ミュウたちの船。
伝説のタイプ・ブルー・オリジンまでが健在、これでは人類に勝ち目など無い。
(…おまけに、拠点が無傷なのだし…)
あの厄介なタイプ・ブルーが、もっと増える可能性もある。
自然出産の効率がいくら悪くても、生まれて来る子がタイプ・ブルーであったなら…。
(効率以前の問題だ…)
生まれた子供は全て戦力、並みのミュウとは比較にならない力の持ち主。
一人増えただけでも、艦隊一つを破壊することが出来るだろう。
艦隊どころか、星さえ落とせるかもしれない。
そんなミュウたちが押し寄せて来ても、「キース」の代わりはいないのだから…。
(…人類は降伏する以外には…)
道が無いな、とキースは溜息をつく。
「あの実験は私で終わりになっていたし」と、「次の者など用意していない」と。
そして人類が負け戦を戦い続ける間に、ソレイドも陥落することだろう。
マツカは「ミュウ」が何者なのかも知らずに、怯えながら基地の掃除を続けて…。
(ミュウどもの船が攻めて来た時、かつて自分を苛めた誰かが…)
砲撃を受けて吹っ飛ぶ所を、命を捨てて守りそうだ、と心から思う。
「だからこそ今、マツカは此処にいるのだ」と、「そういう心の持ち主だから」と。
ソレイドを落としたミュウたちの方は、そんなマツカに気付くだろうか。
人類を庇って死んでいったミュウ、悲しいまでに優しい者に。
自分がミュウだったことも知らずに、人類の中で生きていたミュウが存在したことに。
(…それにマツカは、ジルベスター・セブンを「キース」から救った…)
真の英雄だったのだがな、と思うけれども、歴史はそちらへ進まなかった。
マツカは「キース」を殺し損ねて、「キース」に仕え続けているから。
ミュウの英雄だったと気付かれる日も、讃えられる時も来ないのだから…。
気弱な暗殺者・了
※キースがソレイドにやって来た時、マツカに返り討ちにされていたら、と思ったわけで。
アニテラのマツカなら、能力的にも有り得た筈。歴史は確実に変わってましたね…。
呼ばれなくとも駆け付けるくせに、とキースは扉の方へ目を遣る。
たった今、其処から出て行った者は、もう見えない。
ジルベスター・セブン以来の忠実な側近、キース・アニアンに仕え続けるジョナ・マツカ。
「今夜は、もういい」と言われた通り、自分の部屋へ下がったのだろう。
国家騎士団総司令のために設けられた個室、それがある区画の部下のための部屋へ。
(…皮肉なものだな…)
一番の部下がミュウだとはな、とキースは視線を机に戻した。
マツカが淹れて行ったコーヒー、そのカップが湯気を立てている。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と、マツカは皆に揶揄されていた。
実際、そうとしか見えないのだから、仕方ない。
マツカが「キースの命を受けてしていること」は、ただ、コーヒーを淹れることだけ。
「コーヒーを頼む」と言われた時だけ、「はい」と返事して動くのだから。
(それ以外の用は、他の者たちがしているからな…)
マツカは彼らへの伝達係を務めるだけで、実務は何もこなしていない。
国家騎士団員だとはいえ、そのための教育は何一つ受けていないのだから。
(宇宙海軍の一兵卒では、やれと言われても、出来ない方が当然なのだが…)
他の部下たちは、そうは思っていない。
キース自ら選んだ側近、しかも宇宙海軍からの転属という破格の昇進がマツカの経歴。
「もっと役に立つ筈なのに、何故」と、冷ややかにマツカを眺めている。
「閣下の見込み違いだったか」と、「能無し野郎」の烙印を押して。
(気付けという方が無理な話で…)
マツカの正体を知らないのだし、と分かってはいても、苦笑が漏れる。
「お前たちより、よほど役に立つ部下なのだが」と。
「私の命を何度救ったか、お前たちは何も知らないだけだ」と。
マツカがミュウでなかったならば、不可能だった救出劇は数知れない。
ジルベスター・セブンからの脱出に始まり、今も功績は増え続けている。
「キース・アニアン」の暗殺計画が、次から次へと立てられるせいで。
移動経路に爆弾が仕掛けられたり、いきなり銃撃されたりもした。
それらをマツカは全て防いで、キースの命を守り続ける。
他の部下たちは何も知らずに、「閣下はとても強運だから」と、いつも称賛しているけれど。
加えて自分たちの働き、機敏に動いて「閣下をお守りしているのだ」と誇りに思って。
勘違いされている、ジョナ・マツカ。
コーヒーを淹れることしか出来ない、「能無し野郎」。
(美味いコーヒーを淹れているのも、また事実だが…)
他の奴らではこうはいかん、とキースはコーヒーのカップを傾ける。
「これも才能の一つではある」と、絶妙な苦味を味わいながら。
マツカに命を救われた後に、何度、彼が淹れたコーヒーを飲んだだろうか。
「どうぞ」と差し出される湯気の立つカップ、その度に何処かホッとする自分を知っている。
けして顔には出さないけれども、「また生き延びた」と心に湧き上がるものは…。
(……感謝の気持ちと言うのだろうな)
マツカに伝えたことは無いが、と頬が微かに緩む。
「私にだって、感情はある」と。
「サムにしか向けていないようでも、確かにあるのだ」と。
その有能な「マツカ」のお蔭で、命を拾って、美味いコーヒーも飲める。
マツカがミュウであるからこそで、彼が人類なら、こうはいかない。
「キース・アニアン」は、とうの昔に殺されているか、失脚していたことだろう。
暗殺計画を防ぐことが出来ずに、犠牲になって。
あるいは命は助かったものの、任務を続けることが出来ない身体にされて。
(そうはならずに、この先も生きていけそうだが…)
問題はミュウの侵攻だな、と思考をそちらに向けた瞬間、ハタと気付いた。
人類の宿敵、今も進軍中のミュウ。
彼らと相対している自分は、対ミュウ戦略の筆頭と目されているけれど…。
(そもそも私が、ミュウの巣から生きて逃げ延びられたのは…)
マツカが助けに来たからこそで、そのマツカは、元は暗殺者だった。
暗殺者の顔をしてはいなくて、気の弱い「ただのミュウ」だったけれど。
ソレイド軍事基地に隠れて、ひっそりと生きていたミュウの青年。
(私が、あそこに行かなかったら…)
マツカは自分が「ミュウ」だとも知らず、虐げられて今もソレイドにいただろう。
何の役にも立たない上に、気が弱く、身体も弱い「軍人」などに価値は無い。
きっと役職なども貰えず、下手をしたなら…。
(掃除係にされていたかもしれないな…)
実にありそうな結末だ、と司令官だったグレイブの姿を思い浮かべる。
「奴なら、そうする」と、「使えない者など、左遷だろう」と。
あのままソレイドに残っていたなら、掃除係になりそうなマツカ。
ところが、彼がソレイドで仕出かしたことは、立派な暗殺計画そのもの。
未遂に終わって、暗殺対象だった「キース」に抜擢されて、今は暗殺を防ぐのが役目。
有能な部下になっているけれど、元々、マツカは「暗殺者」なのだ。
自分の命を守るためにと、「キース・アニアン」を殺そうとした。
それはあまりにも無謀に過ぎて、失敗に終わったマツカの企て。
殺されかけたキースの方でも、「愚かな」と、せせら笑ったくらいに無謀。
優位に立って、「後ろに立つな」と銃で脅して、いい気になっていたのだけれど…。
(…あの時、マツカが、もっと追い詰められていたなら…)
サイオン・バーストを起こすくらいの状態だったら、結果は違っていただろう。
今の今まで、全く思いもしなかったけれど、マツカの潜在能力は高い。
(……私を、メギドの制御室から助け出した時……)
マツカは確かに、瞬間移動をしてのけた。
そんな力は、タイプ・ブルーにしか無い筈なのに。
更に言うなら、マツカは「必死になっていた」だけで、暴走状態ではなかったのに。
(…サイオン・バーストの寸前だったら、他のミュウでも有り得るのかもしれないが…)
そうでもないのに、マツカは凄まじい能力を見せた。
彼が「暗殺者」の顔だった時に、同じ力を発揮していたら…。
(……私の命は、其処で終わっていたな……)
間違いなく殺されていたことだろう、と背筋がゾクリと冷たくなる。
「私は運が良かっただけか」と、今頃になって思い知らされた。
運良く「たまたま」助かっただけで、「死んでいたかもしれないのだ」と。
もしも、あそこで「キース・アニアン」がマツカに殺されていたら…。
(…その後の歴史は、今とは全く違ったものに…)
なったことだろう、と恐ろしくなる。
ジルベスター・セブンは焼かれることなく、ミュウは生き延びたに違いない。
そしてあそこを拠点に据えて、地球への侵攻を始めただろう。
そうなった時も、キースの暗殺に成功したマツカは、あのソレイドで…。
(いつミュウどもが攻めて来るのか、日々、怯えながら…)
掃除係をやっているのだ、と容易に想像がつく。
自分がミュウだと知らないのだから、「ぼくは生き延びられるだろうか」とビクビクして。
マツカが「キース」を殺したとしても、誰も「マツカ」の仕業などとは思わない。
ジルベスター・セブンの調査にやって来たキースは、突然死として片付けられたことだろう。
心臓発作を起こして死んで、マツカがそれを発見した、と上層部に報告されるだけ。
(…いくらグランド・マザーであっても、こればかりはな…)
どうすることも出来はしなくて、代わりの者を派遣するより他はない。
「キースにしか、ミュウの相手は出来ない」と承知していても、死人に任務の遂行は不可能。
他の誰かを選ぶしかなく、選ばれた者には、キースと同じ働きなど出来ない上に…。
(マツカの助けも、ありはしなくて…)
あえなく戦死を遂げてしまって、ミュウは直ちに反撃に出る。
自分たちの拠点を知られた以上は、先手必勝。
ジルベスター・セブンが焼かれていないのであれば、戦力は充分、持っている筈。
なんと言っても、九人ものタイプ・ブルーがいるのが、ミュウたちの船。
伝説のタイプ・ブルー・オリジンまでが健在、これでは人類に勝ち目など無い。
(…おまけに、拠点が無傷なのだし…)
あの厄介なタイプ・ブルーが、もっと増える可能性もある。
自然出産の効率がいくら悪くても、生まれて来る子がタイプ・ブルーであったなら…。
(効率以前の問題だ…)
生まれた子供は全て戦力、並みのミュウとは比較にならない力の持ち主。
一人増えただけでも、艦隊一つを破壊することが出来るだろう。
艦隊どころか、星さえ落とせるかもしれない。
そんなミュウたちが押し寄せて来ても、「キース」の代わりはいないのだから…。
(…人類は降伏する以外には…)
道が無いな、とキースは溜息をつく。
「あの実験は私で終わりになっていたし」と、「次の者など用意していない」と。
そして人類が負け戦を戦い続ける間に、ソレイドも陥落することだろう。
マツカは「ミュウ」が何者なのかも知らずに、怯えながら基地の掃除を続けて…。
(ミュウどもの船が攻めて来た時、かつて自分を苛めた誰かが…)
砲撃を受けて吹っ飛ぶ所を、命を捨てて守りそうだ、と心から思う。
「だからこそ今、マツカは此処にいるのだ」と、「そういう心の持ち主だから」と。
ソレイドを落としたミュウたちの方は、そんなマツカに気付くだろうか。
人類を庇って死んでいったミュウ、悲しいまでに優しい者に。
自分がミュウだったことも知らずに、人類の中で生きていたミュウが存在したことに。
(…それにマツカは、ジルベスター・セブンを「キース」から救った…)
真の英雄だったのだがな、と思うけれども、歴史はそちらへ進まなかった。
マツカは「キース」を殺し損ねて、「キース」に仕え続けているから。
ミュウの英雄だったと気付かれる日も、讃えられる時も来ないのだから…。
気弱な暗殺者・了
※キースがソレイドにやって来た時、マツカに返り討ちにされていたら、と思ったわけで。
アニテラのマツカなら、能力的にも有り得た筈。歴史は確実に変わってましたね…。
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十五年。
そう言われても、まるで実感が無い。
そんなに長く眠っていたというのか、ぼくは…?
けれど確かに、そうなのだろう。
星の瞬きのように一瞬だった、ぼくにとっての十五年。
目を閉じて眠って、そして目覚めたら、世界はまるで違っていた。
そもそも、ぼくを「起こした」人間、その存在が既に、このシャングリラの中では異物。
(皮肉なものだな…)
ぼくを眠りから引き戻した者、「此処」では「異物」だった人間。
その人間は、ミュウを「異分子」と呼んだ。
彼にとっては、ミュウこそが異物なのだから。
(どちらが異物か、それは歴史が決めるのだろうが…)
結果が出るのを、ぼくは見届けることは出来ない。
ぼくの目覚めには必然があって、役目を果たさなくてはならない。
残り僅かな命を使って、シャングリラを、仲間を守らなくては。
出来るものなら、この肉眼で地球を見たかった。
眠りに落ちるよりも前から、ずっとそういう夢を見ていた。
けして叶わないと分かってはいても、望まずにいられなかったけれども…。
(今のぼくには、地球よりも、ずっと…)
この目で見てみたい「未来」が出来た。
「地球の男」、キース・アニアンが人質に取っていた、小さなトォニィ。
自然出産で生まれたと聞いた、ミュウの未来を継ぐだろう子供。
あのトォニィが育ってゆくのを、彼と同じに生まれた子たちが育つ姿を見たい。
長い年月、夢に見て来た、青く輝く地球よりも、ミュウの未来を側で見たいと願ってしまう。
そんなこと、出来はしないのに。
本当に残り少ない命を「捨てて」彼らを守らない限り、トォニィたちも消えてしまうのに。
まさか、人生の終わり近くに、夢が出来るとは思わなかった。
焦がれ続けた青い地球より、この目で見たい「もの」が生まれるとは。
そう、文字通りに、彼らは「生まれた」。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産児として。
人工子宮ではなく、母の胎内で育ち、赤い星、ナスカで生を享けて。
青い地球より、眩しく輝く「新しい命」。
ミュウの未来を紡いでくれる、思いもしなかった子供たち。
彼らを、ずっと見ていたいけれど、その夢は、けして叶いはしない。
この夢を「命」ごと捨ててゆくこと、それが目覚めた「ぼく」の務めだから。
(…十五年か…)
眠ってしまっていたのが、とても惜しいけれども、夢が出来たからいいだろう。
叶わない夢でも、新しい夢を心に持つことが出来たから。
(ありがとう、ジョミー…)
あの子供たちを、この世に生み出してくれて。
思いがけないミュウの未来を、新しい夢を、このぼくにくれて。
「ありがとう」と、君に言える時間が、それがあればいいと思うけれども…。
(…そればかりは、地球の男次第か…)
彼がナスカに戻って来るまでに、ぼくの命が燃え尽きる前に、ほんの少しの時間が欲しい。
新しい夢が叶わないのは、充分に承知しているから。
地球よりも、ずっと見たい「未来」は、この目で見届けられないから。
(せめて、ジョミーに…)
「ありがとう」と言える時間があったらいい、と、願うことくらい許されるだろう。
その願いが叶わずに終わったとしても、悔いなどは無い。
あの子供たちを守れるのならば、それだけでいいと思ってしまう。
ぼくには、新しい夢が出来たから。
青い地球よりも「見たくなったもの」を、命と引き換えに守れるから。
だから…。
ジョミー、君たちは、未来を生きていって欲しい。
それにトォニィ、他の子たちも、どうか元気で。
君たちが生きて未来を紡いでゆくのを、ぼくは心から祈り続ける。
ぼく自身の夢は叶わなくても、それでいいから。
君たちが地球へ、未来へと歩んでゆくのが、ぼくの「新しい夢」なのだから…。
青い地球よりも・了
※ブルー追悼作品、「来年は書かずに済むことを希望」と昨年、言ったわけですが。
コロナ禍も、第7波とか言われる割には、さほど騒がれなくなったのですが…。
アニテラでブルーが眠り続けたのと同じ年数、15年が経ったのが今年なのです。
「節目の年だし、書いておくかな」というわけで、2022年7月28日記念作品。
作中のブルーの夢は叶いませんでしたけど、最後の願いが叶ったのは、皆様ご存じの通り。
(成人検査では、機械が記憶を消すけれど…)
今だって、消され続けているけれど、とシロエが睨み付けた先。
Eー1077で与えられた個室は、マザー・イライザに監視されている。
部屋にいる時は、恐らく、常に。
普段は何も起こらなくても、心を乱せば、彼女の幻影が現れるから。
「どうしました?」と、猫なで声で。
さっきも、そんな風に出て来て、優し気な笑みを湛えていた。
「迷いがあるなら、導きましょう」と、「いつでも、待っていますからね」と。
慈母の言葉のようだけれども、それは警告。
心が乱れたままでいたなら、たちまちコールされるだろう。
(…コールされたら、ぼくの中から、また何か…)
大切な記憶が消えていくんだ、と唇を強く噛み締める。
「ぼくは嫌だ」と、「忘れたくない」と。
(あれが、機械のやり口で…)
このステーションで暮らす候補生たちは、おとなしい羊にされてゆく。
成人検査でも消えずに残った、「機械に都合の悪い記憶」を消去されて。
反抗心を消され、牙を抜かれて、無害な子羊になってゆくけれど…。
(…あんな機械が出来る前から…)
人間の記憶は、消えてしまうことがあったんだよね、と思考を別の方へと向ける。
そうすれば、心が落ち着くから。
憎い機械を忘れてしまえば、心を乱さないで済むから。
(コールなんか、されてたまるもんか)
今回は無事に逃げてみせるさ、とマザー・イライザの幻影も心から切り捨てた。
そうしておいたら、思い出さずにいられて、心が波立つこともなくなる。
一種の現実逃避とはいえ、有効な手段であることは、既に経験済み。
(……心の中では、何を考えるのも自由だしね?)
それにコールもされやしないし、とクスリと笑う。
「ぼくは自由だ」と、「機械なんかに、簡単に支配されやしないよ」と。
そうは思っても、逆らえずに消されてしまった記憶。
成人検査でゴッソリ失くして、その後も、かなり消えたと思う。
なんとも憎い機械だけれども、機械が関与しなくても…。
(……記憶喪失……)
遠い昔から、そういう病があるらしい。
文字通り、記憶を失う病気。
病気と呼んでいいのかどうかは、医者ではないから、分からないけれど。
(大きなショックが引き金になって…)
頭の中から、記憶がストンと抜け落ちるのが、記憶喪失。
何もかも消えてしまうケースも、一部だけというケースもある。
(自分の名前も忘れてしまって、別人になって…)
知り合いにも見付けて貰えないまま、家から遠く離れた所で、長く暮らした例なども。
つまり、機械が関わらなくても…。
(…人間の脳は、何かのショックで…)
記憶を手放してしまう構造になっている。
そして、失くしてしまった記憶は…。
(…消えてしまったままで、戻らないこともあるけれど…)
記憶を失くした時と同じに、突然、戻ったりもする。
もちろん機械は何もしないし、治療の成果というわけでもない。
記憶が戻って来る仕組み自体も、今の時代でも、ハッキリ解明されてはいない。
(…精神的にショックを受けたり、同じような事故に遭ったりして…)
その衝撃で戻ることが多い、と言われてはいても、同じことをしても駄目な場合もある。
人間の脳はデリケートだから、計算通りにはいかないらしい。
機械が記憶を消したり植えたり、そういうことは容易く出来る世の中でも。
成人検査で記憶を消すのが、当たり前になっている時代でも。
(…機械は、まだまだ、人間に敵いやしないってね)
記憶喪失の患者も治せないようじゃ、とクッと喉を鳴らした。
「人間様の方が、ずっと上だよ」と、「機械も、人間が作ったんだから」と。
今も機械が「どうにも出来ない」、記憶喪失。
人間の脳は複雑すぎて、機械といえども、隅々までは把握出来ないから。
(…でもって、記憶を失くした人が…)
記憶を取り戻すことがあるなら、自分にも起こり得るかもしれない。
機械が消してしまった記憶が、記憶喪失の人と同じに…。
(何かのショックで、ある日、いきなり…)
全て戻って来る可能性だって、けしてゼロではないだろう。
機械によって「意図的に」引き起こされたものであっても、今の自分は…。
(昔だったら、記憶喪失みたいなもので…)
子供時代の記憶が欠落していて、両親の顔なども朧げなもの。
その状態で「大きなショック」を受けたら、その衝撃で…。
(思い出すかもしれないよね?)
故郷のこととか、パパとママの顔を、と顎に当てる手。
「出来るのかも」と、「有り得ないことでは、ないと思う」と。
もしも記憶が戻って来たなら、どんなに嬉しいことだろう。
どう頑張っても思い出せない大切な過去が、この手に戻って来たならば。
記憶喪失の人が「再び思い出す」ように、自分も思い出せたなら。
(…訓練の途中で、大事故に遭って…)
目の前が真っ暗になってしまって、ふと目覚めたら、頭の中に戻っている記憶。
Eー1077の医療センターの、ベッドの上で目を覚ましたら…。
「パパとママは、何処?」と、此処にはいない両親の姿を、探し求めるのに違いない。
記憶が戻って来ているのだから、一番に探すのは、誰よりも頼りになる両親。
(…でも、パパもママも、いなくって…)
ベッドも家のベッドではなくて、まるで全く違う場所。
それに気付いたら、とても悲しくなるだろうけれど…。
(…思い出せたんだ、って嬉しい気持ちも…)
きっと心で弾けると思う。
「ぼくの記憶が戻って来たよ」と、「パパとママの顔も思い出せたよ」と。
懐かしい故郷の風景だって、鮮やかに蘇っていることだろう。
今は全く思い出せない、家に帰ってゆくための道も。
(…ぼくの記憶が戻ったことを…)
マザー・イライザに気付かれたならば、全て、振り出しに戻ってしまう。
此処には、憎い成人検査用の機械、テラズ・ナンバー・ファイブは「いない」けれども…。
(……マザー・イライザだったら、アレと同じに……)
もう一度「成人検査」を施し、「シロエの記憶」を消すことだろう。
「偶然、取り戻してしまった記憶」は、機械にとっては「不要なもの」。
SD体制のシステムに向かない、不都合な「それ」。
だから「消す」のが「彼女」の役目で、元の通りに消されてしまう。
此処へ連れて来られた時と同じに、機械が残した記憶しか無い「シロエ」にされて。
(…そんなの、ぼくは御免だから…!)
機械にバレたら終わりだなんて、と肩をブルッと震わせた。
せっかく記憶が戻って来たのに、再び消されてしまうなんて、と。
(ぼくは、絶対に消させない…!)
バレないように、上手くやってみせる、と自信なら、ある。
意識を取り戻した直後だったら、「パパとママは?」と、キョロキョロしたって…。
(…しっかりと目が覚めたなら…)
自分が置かれた「今の状況」を、冷静に把握出来るだろう。
エリート候補生としての訓練、その数々は伊達ではない。
精神的にも鍛えられるから、意識が明瞭になるまでの時間も短い筈。
(そうしたら、直ぐに…)
朦朧としていた時の「自分の言動」、それらを「無かったことにする」。
医師や看護師が訝しんでいたら、「大丈夫、何でもありません」と。
「おかしなことでも言いましたか?」と、「少し、混乱していたようです」と。
(…今だって、夢を見ている時は…)
ちゃんと両親が出て来るのだから、意識を失くした間に「見ても」おかしくはない。
医師も看護師も、それで納得するだろう。
「両親の夢を見ていたんだな」と、「それで、探してしまったわけか」と。
まさか「記憶を取り戻した」なんて、彼らも、思いはしないだろう。
そんなケースは、きっと多くはないだろうから。
あったとしたって、その後の言動、それでアッサリ、バレるのが普通。
エリート候補生とは違う一般人なら、その場で咄嗟に「取り繕う」ことは出来ないから。
自分なら、上手くやれると思う。
運良く、記憶が戻った時は。
事故のショックで、過去の全てを思い出せたら。
(記憶が戻るくらいの事故なら、ぼくの身体も…)
酷いダメージを受けてしまって、もう「エリート候補生」は務まらないかもしれない。
足が片方、動かないとか、腕が一本、無かったりとか。
(それくらいで済めばいいけれど…)
重度の麻痺が残ってしまって、一生、車椅子かもしれない。
そういう身体になってしまったら、一般市民の道に行っても、制約を受けることだろう。
子供を育てる養父にはなれず、教師くらいしか出来ないだとか。
(でも、そうなっても…)
車椅子でしか動けなくても、腕が一本無くなっていても、きっと自分は後悔はしない。
「事故に遭う前に戻りたいよ」と、嘆く日々など、絶対に来ない。
車椅子の身になってしまっては、会いに行くことさえ叶わなくても…。
(…パパもママも、ちゃんと覚えているから…)
機械に知られてしまわないよう、隠し続けて生きるしかなくても、持っている記憶。
両親の顔も、故郷の家も、朧ではなくて、しっかりと。
子供時代の記憶さえあれば、息を引き取る時が来るまで、心は幸せに羽ばたいてゆける。
「シロエ」は「シロエ」に戻れたから。
二度と会うことは叶わなくても、懐かしい両親を鮮やかに思い出せるから。
(…もしも、そういう事故に遭ったら…)
幸せだよね、と思うけれども、こればかりは運。
けれど、記憶が戻ったならば…。
(ぼくは必ず、上手くやるよ)
また消すなんて、させやしない、と夢に見る未来。
身体の自由を奪われようとも、心が自由な方がいいから。
メンバーズになることは出来なくなっても、記憶が戻ってくれるのならば、と…。
思い出せたら・了
※SD体制の時代でも、サムを治すことは不可能。だったら、記憶喪失も、と思ったわけで…。
シロエの記憶が、勝手に戻ってしまう可能性もあるよね、という所から生まれたお話。
今だって、消され続けているけれど、とシロエが睨み付けた先。
Eー1077で与えられた個室は、マザー・イライザに監視されている。
部屋にいる時は、恐らく、常に。
普段は何も起こらなくても、心を乱せば、彼女の幻影が現れるから。
「どうしました?」と、猫なで声で。
さっきも、そんな風に出て来て、優し気な笑みを湛えていた。
「迷いがあるなら、導きましょう」と、「いつでも、待っていますからね」と。
慈母の言葉のようだけれども、それは警告。
心が乱れたままでいたなら、たちまちコールされるだろう。
(…コールされたら、ぼくの中から、また何か…)
大切な記憶が消えていくんだ、と唇を強く噛み締める。
「ぼくは嫌だ」と、「忘れたくない」と。
(あれが、機械のやり口で…)
このステーションで暮らす候補生たちは、おとなしい羊にされてゆく。
成人検査でも消えずに残った、「機械に都合の悪い記憶」を消去されて。
反抗心を消され、牙を抜かれて、無害な子羊になってゆくけれど…。
(…あんな機械が出来る前から…)
人間の記憶は、消えてしまうことがあったんだよね、と思考を別の方へと向ける。
そうすれば、心が落ち着くから。
憎い機械を忘れてしまえば、心を乱さないで済むから。
(コールなんか、されてたまるもんか)
今回は無事に逃げてみせるさ、とマザー・イライザの幻影も心から切り捨てた。
そうしておいたら、思い出さずにいられて、心が波立つこともなくなる。
一種の現実逃避とはいえ、有効な手段であることは、既に経験済み。
(……心の中では、何を考えるのも自由だしね?)
それにコールもされやしないし、とクスリと笑う。
「ぼくは自由だ」と、「機械なんかに、簡単に支配されやしないよ」と。
そうは思っても、逆らえずに消されてしまった記憶。
成人検査でゴッソリ失くして、その後も、かなり消えたと思う。
なんとも憎い機械だけれども、機械が関与しなくても…。
(……記憶喪失……)
遠い昔から、そういう病があるらしい。
文字通り、記憶を失う病気。
病気と呼んでいいのかどうかは、医者ではないから、分からないけれど。
(大きなショックが引き金になって…)
頭の中から、記憶がストンと抜け落ちるのが、記憶喪失。
何もかも消えてしまうケースも、一部だけというケースもある。
(自分の名前も忘れてしまって、別人になって…)
知り合いにも見付けて貰えないまま、家から遠く離れた所で、長く暮らした例なども。
つまり、機械が関わらなくても…。
(…人間の脳は、何かのショックで…)
記憶を手放してしまう構造になっている。
そして、失くしてしまった記憶は…。
(…消えてしまったままで、戻らないこともあるけれど…)
記憶を失くした時と同じに、突然、戻ったりもする。
もちろん機械は何もしないし、治療の成果というわけでもない。
記憶が戻って来る仕組み自体も、今の時代でも、ハッキリ解明されてはいない。
(…精神的にショックを受けたり、同じような事故に遭ったりして…)
その衝撃で戻ることが多い、と言われてはいても、同じことをしても駄目な場合もある。
人間の脳はデリケートだから、計算通りにはいかないらしい。
機械が記憶を消したり植えたり、そういうことは容易く出来る世の中でも。
成人検査で記憶を消すのが、当たり前になっている時代でも。
(…機械は、まだまだ、人間に敵いやしないってね)
記憶喪失の患者も治せないようじゃ、とクッと喉を鳴らした。
「人間様の方が、ずっと上だよ」と、「機械も、人間が作ったんだから」と。
今も機械が「どうにも出来ない」、記憶喪失。
人間の脳は複雑すぎて、機械といえども、隅々までは把握出来ないから。
(…でもって、記憶を失くした人が…)
記憶を取り戻すことがあるなら、自分にも起こり得るかもしれない。
機械が消してしまった記憶が、記憶喪失の人と同じに…。
(何かのショックで、ある日、いきなり…)
全て戻って来る可能性だって、けしてゼロではないだろう。
機械によって「意図的に」引き起こされたものであっても、今の自分は…。
(昔だったら、記憶喪失みたいなもので…)
子供時代の記憶が欠落していて、両親の顔なども朧げなもの。
その状態で「大きなショック」を受けたら、その衝撃で…。
(思い出すかもしれないよね?)
故郷のこととか、パパとママの顔を、と顎に当てる手。
「出来るのかも」と、「有り得ないことでは、ないと思う」と。
もしも記憶が戻って来たなら、どんなに嬉しいことだろう。
どう頑張っても思い出せない大切な過去が、この手に戻って来たならば。
記憶喪失の人が「再び思い出す」ように、自分も思い出せたなら。
(…訓練の途中で、大事故に遭って…)
目の前が真っ暗になってしまって、ふと目覚めたら、頭の中に戻っている記憶。
Eー1077の医療センターの、ベッドの上で目を覚ましたら…。
「パパとママは、何処?」と、此処にはいない両親の姿を、探し求めるのに違いない。
記憶が戻って来ているのだから、一番に探すのは、誰よりも頼りになる両親。
(…でも、パパもママも、いなくって…)
ベッドも家のベッドではなくて、まるで全く違う場所。
それに気付いたら、とても悲しくなるだろうけれど…。
(…思い出せたんだ、って嬉しい気持ちも…)
きっと心で弾けると思う。
「ぼくの記憶が戻って来たよ」と、「パパとママの顔も思い出せたよ」と。
懐かしい故郷の風景だって、鮮やかに蘇っていることだろう。
今は全く思い出せない、家に帰ってゆくための道も。
(…ぼくの記憶が戻ったことを…)
マザー・イライザに気付かれたならば、全て、振り出しに戻ってしまう。
此処には、憎い成人検査用の機械、テラズ・ナンバー・ファイブは「いない」けれども…。
(……マザー・イライザだったら、アレと同じに……)
もう一度「成人検査」を施し、「シロエの記憶」を消すことだろう。
「偶然、取り戻してしまった記憶」は、機械にとっては「不要なもの」。
SD体制のシステムに向かない、不都合な「それ」。
だから「消す」のが「彼女」の役目で、元の通りに消されてしまう。
此処へ連れて来られた時と同じに、機械が残した記憶しか無い「シロエ」にされて。
(…そんなの、ぼくは御免だから…!)
機械にバレたら終わりだなんて、と肩をブルッと震わせた。
せっかく記憶が戻って来たのに、再び消されてしまうなんて、と。
(ぼくは、絶対に消させない…!)
バレないように、上手くやってみせる、と自信なら、ある。
意識を取り戻した直後だったら、「パパとママは?」と、キョロキョロしたって…。
(…しっかりと目が覚めたなら…)
自分が置かれた「今の状況」を、冷静に把握出来るだろう。
エリート候補生としての訓練、その数々は伊達ではない。
精神的にも鍛えられるから、意識が明瞭になるまでの時間も短い筈。
(そうしたら、直ぐに…)
朦朧としていた時の「自分の言動」、それらを「無かったことにする」。
医師や看護師が訝しんでいたら、「大丈夫、何でもありません」と。
「おかしなことでも言いましたか?」と、「少し、混乱していたようです」と。
(…今だって、夢を見ている時は…)
ちゃんと両親が出て来るのだから、意識を失くした間に「見ても」おかしくはない。
医師も看護師も、それで納得するだろう。
「両親の夢を見ていたんだな」と、「それで、探してしまったわけか」と。
まさか「記憶を取り戻した」なんて、彼らも、思いはしないだろう。
そんなケースは、きっと多くはないだろうから。
あったとしたって、その後の言動、それでアッサリ、バレるのが普通。
エリート候補生とは違う一般人なら、その場で咄嗟に「取り繕う」ことは出来ないから。
自分なら、上手くやれると思う。
運良く、記憶が戻った時は。
事故のショックで、過去の全てを思い出せたら。
(記憶が戻るくらいの事故なら、ぼくの身体も…)
酷いダメージを受けてしまって、もう「エリート候補生」は務まらないかもしれない。
足が片方、動かないとか、腕が一本、無かったりとか。
(それくらいで済めばいいけれど…)
重度の麻痺が残ってしまって、一生、車椅子かもしれない。
そういう身体になってしまったら、一般市民の道に行っても、制約を受けることだろう。
子供を育てる養父にはなれず、教師くらいしか出来ないだとか。
(でも、そうなっても…)
車椅子でしか動けなくても、腕が一本無くなっていても、きっと自分は後悔はしない。
「事故に遭う前に戻りたいよ」と、嘆く日々など、絶対に来ない。
車椅子の身になってしまっては、会いに行くことさえ叶わなくても…。
(…パパもママも、ちゃんと覚えているから…)
機械に知られてしまわないよう、隠し続けて生きるしかなくても、持っている記憶。
両親の顔も、故郷の家も、朧ではなくて、しっかりと。
子供時代の記憶さえあれば、息を引き取る時が来るまで、心は幸せに羽ばたいてゆける。
「シロエ」は「シロエ」に戻れたから。
二度と会うことは叶わなくても、懐かしい両親を鮮やかに思い出せるから。
(…もしも、そういう事故に遭ったら…)
幸せだよね、と思うけれども、こればかりは運。
けれど、記憶が戻ったならば…。
(ぼくは必ず、上手くやるよ)
また消すなんて、させやしない、と夢に見る未来。
身体の自由を奪われようとも、心が自由な方がいいから。
メンバーズになることは出来なくなっても、記憶が戻ってくれるのならば、と…。
思い出せたら・了
※SD体制の時代でも、サムを治すことは不可能。だったら、記憶喪失も、と思ったわけで…。
シロエの記憶が、勝手に戻ってしまう可能性もあるよね、という所から生まれたお話。
(……キース・アニアン……)
この名、とキースが心で呟いた名前。
国家騎士団総司令の部屋で、夜が更けた後に。
マツカが淹れて行ったコーヒー、それがまだ湯気を立てている。
コーヒーのカップを机に置いてから、マツカは控えめな声で尋ねた。
「他に用事はありませんか?」と。
ごくごく自然に、いつも通りに「キース」と呼んで。
(…確かに私は、キースなのだが…)
部下のセルジュたちも「アニアン閣下」と呼ぶのだけれども、その名前。
「キース・アニアン」と呼ばれる自分。
間違いなく自分の名前とはいえ、そう言ってもいいものかどうか、と時々、思う。
この名は、皆とは「違う」ものだから。
普通の人間が持っている名前、それとは全く違うのだから。
(…今の時代に、実子は存在しないのだがな…)
ミュウどもの世界は別として、とモビー・ディックで出会ったオレンジ色の瞳の子供を挙げた。
トォニィという名を持つ子供は、自然出産で生まれたと聞く。
(他にも複数、ああいうタイプ・ブルーの子供が…)
存在するから、彼らも自然出産児だろう。
その子供たちを別にしたなら、今の世界には「実子」はいない。
子供は全て、人工子宮から生まれて来るもの。
けれど、彼らが「名前」を持つのは…。
(養父母に引き渡された後…)
育ての親が、赤ん坊を見て「名前」をつける。
実子ではない子供であっても、其処に何らかの「思い」をこめて。
(こういう人間になって欲しい、と…)
祈りをこめてつける名もあれば、親の好みを反映したものもあるだろう。
その時々の流行りや、有名人の名前を映した名前。
(…しかし、どういう名付け方でも…)
必ず、ヒトの思いが働く。
どういう子供になって欲しいか、どんな子供を望んでいるか、と。
けれども、「キース」の名には無い「それ」。
周りの者たちは疑いもせずに、「キース・アニアン」と呼んでいるけれど…。
(そもそも、いつから、この名前なのか…)
それさえ分からないのだからな、と唇を歪める。
「人間」だったら、親が名前をつけた時点で、そういう名前の者になるのに。
モビー・ディックで目にした子供も、そうなのだろう。
もっとも、ミュウの世界の事情は、知りようもないことだから…。
(…今では歴史の中にしか無い、名付け親というのが…)
あるいは存在するかもしれない。
彼らが「ソルジャー」と崇める人物、ソルジャー・ブルーやソルジャー・シンなら…。
(名付け親としては、充分だからな)
そのどちらかが名付けただろうか、あの「トォニィ」という名前は。
それとも実の親がつけたか、謎だけれども…。
(…どちらにしても、生まれて間もなく…)
名前を貰って、その瞬間から「トォニィ」になったのが、あの子供。
親も周りの人間たちも、揃って彼を「トォニィ」と呼んで、その中で育って…。
(あの子供自身も、トォニィになってゆくわけだ)
それが自分の名前だからな、とコーヒーのカップに視線を落とす。
「人類の場合も、それは同じだ」と。
養父母が名付けて、周りの者たちが、そう呼び始める。
乳児の間は、ごく限られた狭い範囲の人間だけが「呼ぶ」名前。
引き渡されて名前を貰った直後は、多分、養父母だけだろう。
家の外に出られるようになったら、隣近所の人間たちが…。
(こういう名前の子だ、と養父母に聞いて、その名前で…)
同じように呼んで、次の段階では「友達」と「教師」。
幼い子供が通う学校、其処でも「名前」を使うから。
点呼もそうだし、子供同士で呼び合う時にも、「名前」だから。
そんな具合に、名前と一緒に育ってゆく子。
人間だったら誰でもそうだし、ミュウの世界でも同じこと。
(…サムが記憶を失っても…)
彼が今でも「サム」であることは変わらない。
成人検査を受ける前の世界に戻ってしまって、思い出の中で生きていようと、サムはサム。
彼が待ち続ける養父母たちは、サムのことを「サム」と呼んだから。
どうして「サム」と名付けたのかは、サム自身も知らないことであっても。
(…サムはサムとして育ったわけで…)
幼馴染のミュウの長の名も、彼は未だに忘れていない。
「ジョミー」と懐かしそうに呼ぶ名は、「ジョミー」が持っている名前。
人類の世界から外れてミュウの長になっても、「ジョミー」は「ジョミー」。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
彼は最初から「ジョミー」だったし、ミュウになっても、名まで変わりはしない。
彼が命を失う時まで、彼は「ジョミー」と呼ばれるだろうし、彼自身も、そう自覚している。
自分の名前は「ジョミー」なのだ、と。
人類だろうが、ミュウの長だろうが、「ぼくは、ジョミーだ」と。
(…だが、私には…)
それが無いのだ、と忌まわしい記憶が蘇って来る。
廃校となったEー1077で、初めて目にした自分の過去。
遥か昔にシロエが見付けて、言い残した場所で。
(フロア001…)
其処にズラリと並んでいたのは、大勢の「キース」たちだった。
それと、モビー・ディックで出会った「ミュウの女」と。
彼らはガラスのケースに入って、既に命を失っていた。
ただのサンプル、人間の形をした「標本」。
マザー・イライザが、事も無げに言い放った言葉は、「サンプル以外は、処分しました」。
つまり「他にもいた」ということ。
どの段階まで育ったのかは知らないけれども、「キース」たちが。
フロア001で生まれて、水槽の中で育った者が。
グランド・マザーの命令通りに破壊して来た、過去が眠る墓場。
もうサンプルは存在しなくて、「キース」は一人になったけれども…。
(…私は、いつからキースなのだ?)
誰が「キース」と名付けたのだ、と問い掛けてみても、答えが返るわけもない。
マザー・イライザは、Eー1077ごと、惑星の大気圏に落とされ、燃え尽きて消えた。
イライザに「キース」と「ミュウの女」を造らせた者は、沈黙を守ることだろう。
「どうして私は、キース・アニアンなのですか?」と尋ねてみても。
グランド・マザーが返す答えは、「そんなことなど、どうでもよろしい」。
(……尋ねたことは無いのだが……)
そうしなくても想像はつく、と零れる溜息。
機械が「キース」と名付けたのなら、其処に「思い」は何も無いから。
人間の養父母たちと違って、こめたい思いなどは無いから。
(…恐らく、記憶バンクの中から、適当に…)
選び出された名前が「キース」で、「アニアン」の姓も似たようなもの。
「キース」の生まれを捏造するにあたって、機械が「良し」と判断した姓。
何処の生まれか、何処から来たのか、誰も疑問を持たないように。
「キース」と同じ姓を持つ者、それを探りはしないように。
(どちらも、SD体制が始まるよりも、遥か昔から…)
人間が地球しか知らなかった頃から、存在していた平凡な名前。
(地域や人種で、つける名前は違ったようだが…)
そういう垣根もいつしか崩れて、「つけたい名前」を名付ける時代が来たという。
以前だったら、その子とは違う人種や国籍、それを持つ者しか使わなかった名前でも…。
(自分の子供に名付けることが、ごくごく普通になっていって…)
名前だけでは、生まれも育ちも区別がつかない世界になった。
それでも、姓を耳にしたなら、ある程度のことは分かったらしい。
先祖が何処の人間だったか、何を職業としていたのか、など。
(…名前というのは、本来、そういったもので…)
一人ずつ違った個性を持つこと、それを端的に表すもの。
記号や数字には置き換えられない、とても大切な「ヒト」である証。
なのに「キース」は、それを持たない。
名前を持ってはいるのだけれども、数字や記号と変わらないから。
自分は、いつから「キース」なのか。
フロア001にあった水槽、其処から出された時だと言うなら…。
(…まだしも、救いがあるのだがな…)
生きて出て来たのは「私」だけだ、と、冷めてしまったコーヒーを眺める。
自分以外の「サンプル」や処分された者たち、彼らは「外の世界」を知らない。
だから「水槽の外へ出て来てから」、この名を与えられたのだったら、「キース」は一人。
他に何人の「キース」がいようが、彼らは名前を持たないから。
(…だが、水槽から出されて、直ぐに…)
「お前の名前は、キース・アニアン」と言われて、理解出来るだろうか。
名前の概念は知っていたって、しっくり馴染むものなのかどうか。
(水槽の中で、知識を与え続けていたのなら…)
それも成人検査の年に至るまで、充分な量の、いや、膨大な知識を与えるならば…。
(…私という存在に、全く呼び掛けないままで…)
教育することは可能なのか、と考えるほどに「分からない」。
「ヒト」の頭脳で考える限り、「ただの一度も呼び掛けないまま」での教育は不可能。
教官をやっていた経験からしても、無理なことだと思うけれども、機械だったら出来るのか。
(可能だとしたら、水槽の中では、私も他のサンプルたちと同じで…)
名前は持たずに育ち続けて、世話をしていた研究者たちは、番号で呼んでいたのだろう。
「キース」に直接、呼び掛けはせずに、研究者同士で使った、便宜上の「名前」。
それまでに育てた大勢の「キース」、彼らと区別するために。
(…そうだとしたなら、実は、それこそが…)
私の本当の名ではないのか、と考えて背中がゾクリと冷えた。
「やはり私には、本当の名前などは無いのだ」と。
研究者たちが使った番号、数字と記号を組み合わせたろう、「キース」を指すモノ。
そういう名前で育て上げられて、後に「キース・アニアン」の名を与えられた。
「キース・アニアン」は一人だとしても、名前を持たずに十四年間も育ったならば…。
(……人間ではない、ということか……)
人間なら「名前」を持つのだからな、と虚しくなる。
「私の場合は、番号なのだ」と。
「キース・アニアンという名前の方にも、ヒトの思いは無いのだからな」と…。
持っていない名前・了
※「キース・アニアン」の名は、誰がつけたんだろう、と考えた所から生まれたお話。
いつから「キース」と呼んでいたのか、それさえも謎。キース本人だって怖いだろうな、と。
この名、とキースが心で呟いた名前。
国家騎士団総司令の部屋で、夜が更けた後に。
マツカが淹れて行ったコーヒー、それがまだ湯気を立てている。
コーヒーのカップを机に置いてから、マツカは控えめな声で尋ねた。
「他に用事はありませんか?」と。
ごくごく自然に、いつも通りに「キース」と呼んで。
(…確かに私は、キースなのだが…)
部下のセルジュたちも「アニアン閣下」と呼ぶのだけれども、その名前。
「キース・アニアン」と呼ばれる自分。
間違いなく自分の名前とはいえ、そう言ってもいいものかどうか、と時々、思う。
この名は、皆とは「違う」ものだから。
普通の人間が持っている名前、それとは全く違うのだから。
(…今の時代に、実子は存在しないのだがな…)
ミュウどもの世界は別として、とモビー・ディックで出会ったオレンジ色の瞳の子供を挙げた。
トォニィという名を持つ子供は、自然出産で生まれたと聞く。
(他にも複数、ああいうタイプ・ブルーの子供が…)
存在するから、彼らも自然出産児だろう。
その子供たちを別にしたなら、今の世界には「実子」はいない。
子供は全て、人工子宮から生まれて来るもの。
けれど、彼らが「名前」を持つのは…。
(養父母に引き渡された後…)
育ての親が、赤ん坊を見て「名前」をつける。
実子ではない子供であっても、其処に何らかの「思い」をこめて。
(こういう人間になって欲しい、と…)
祈りをこめてつける名もあれば、親の好みを反映したものもあるだろう。
その時々の流行りや、有名人の名前を映した名前。
(…しかし、どういう名付け方でも…)
必ず、ヒトの思いが働く。
どういう子供になって欲しいか、どんな子供を望んでいるか、と。
けれども、「キース」の名には無い「それ」。
周りの者たちは疑いもせずに、「キース・アニアン」と呼んでいるけれど…。
(そもそも、いつから、この名前なのか…)
それさえ分からないのだからな、と唇を歪める。
「人間」だったら、親が名前をつけた時点で、そういう名前の者になるのに。
モビー・ディックで目にした子供も、そうなのだろう。
もっとも、ミュウの世界の事情は、知りようもないことだから…。
(…今では歴史の中にしか無い、名付け親というのが…)
あるいは存在するかもしれない。
彼らが「ソルジャー」と崇める人物、ソルジャー・ブルーやソルジャー・シンなら…。
(名付け親としては、充分だからな)
そのどちらかが名付けただろうか、あの「トォニィ」という名前は。
それとも実の親がつけたか、謎だけれども…。
(…どちらにしても、生まれて間もなく…)
名前を貰って、その瞬間から「トォニィ」になったのが、あの子供。
親も周りの人間たちも、揃って彼を「トォニィ」と呼んで、その中で育って…。
(あの子供自身も、トォニィになってゆくわけだ)
それが自分の名前だからな、とコーヒーのカップに視線を落とす。
「人類の場合も、それは同じだ」と。
養父母が名付けて、周りの者たちが、そう呼び始める。
乳児の間は、ごく限られた狭い範囲の人間だけが「呼ぶ」名前。
引き渡されて名前を貰った直後は、多分、養父母だけだろう。
家の外に出られるようになったら、隣近所の人間たちが…。
(こういう名前の子だ、と養父母に聞いて、その名前で…)
同じように呼んで、次の段階では「友達」と「教師」。
幼い子供が通う学校、其処でも「名前」を使うから。
点呼もそうだし、子供同士で呼び合う時にも、「名前」だから。
そんな具合に、名前と一緒に育ってゆく子。
人間だったら誰でもそうだし、ミュウの世界でも同じこと。
(…サムが記憶を失っても…)
彼が今でも「サム」であることは変わらない。
成人検査を受ける前の世界に戻ってしまって、思い出の中で生きていようと、サムはサム。
彼が待ち続ける養父母たちは、サムのことを「サム」と呼んだから。
どうして「サム」と名付けたのかは、サム自身も知らないことであっても。
(…サムはサムとして育ったわけで…)
幼馴染のミュウの長の名も、彼は未だに忘れていない。
「ジョミー」と懐かしそうに呼ぶ名は、「ジョミー」が持っている名前。
人類の世界から外れてミュウの長になっても、「ジョミー」は「ジョミー」。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
彼は最初から「ジョミー」だったし、ミュウになっても、名まで変わりはしない。
彼が命を失う時まで、彼は「ジョミー」と呼ばれるだろうし、彼自身も、そう自覚している。
自分の名前は「ジョミー」なのだ、と。
人類だろうが、ミュウの長だろうが、「ぼくは、ジョミーだ」と。
(…だが、私には…)
それが無いのだ、と忌まわしい記憶が蘇って来る。
廃校となったEー1077で、初めて目にした自分の過去。
遥か昔にシロエが見付けて、言い残した場所で。
(フロア001…)
其処にズラリと並んでいたのは、大勢の「キース」たちだった。
それと、モビー・ディックで出会った「ミュウの女」と。
彼らはガラスのケースに入って、既に命を失っていた。
ただのサンプル、人間の形をした「標本」。
マザー・イライザが、事も無げに言い放った言葉は、「サンプル以外は、処分しました」。
つまり「他にもいた」ということ。
どの段階まで育ったのかは知らないけれども、「キース」たちが。
フロア001で生まれて、水槽の中で育った者が。
グランド・マザーの命令通りに破壊して来た、過去が眠る墓場。
もうサンプルは存在しなくて、「キース」は一人になったけれども…。
(…私は、いつからキースなのだ?)
誰が「キース」と名付けたのだ、と問い掛けてみても、答えが返るわけもない。
マザー・イライザは、Eー1077ごと、惑星の大気圏に落とされ、燃え尽きて消えた。
イライザに「キース」と「ミュウの女」を造らせた者は、沈黙を守ることだろう。
「どうして私は、キース・アニアンなのですか?」と尋ねてみても。
グランド・マザーが返す答えは、「そんなことなど、どうでもよろしい」。
(……尋ねたことは無いのだが……)
そうしなくても想像はつく、と零れる溜息。
機械が「キース」と名付けたのなら、其処に「思い」は何も無いから。
人間の養父母たちと違って、こめたい思いなどは無いから。
(…恐らく、記憶バンクの中から、適当に…)
選び出された名前が「キース」で、「アニアン」の姓も似たようなもの。
「キース」の生まれを捏造するにあたって、機械が「良し」と判断した姓。
何処の生まれか、何処から来たのか、誰も疑問を持たないように。
「キース」と同じ姓を持つ者、それを探りはしないように。
(どちらも、SD体制が始まるよりも、遥か昔から…)
人間が地球しか知らなかった頃から、存在していた平凡な名前。
(地域や人種で、つける名前は違ったようだが…)
そういう垣根もいつしか崩れて、「つけたい名前」を名付ける時代が来たという。
以前だったら、その子とは違う人種や国籍、それを持つ者しか使わなかった名前でも…。
(自分の子供に名付けることが、ごくごく普通になっていって…)
名前だけでは、生まれも育ちも区別がつかない世界になった。
それでも、姓を耳にしたなら、ある程度のことは分かったらしい。
先祖が何処の人間だったか、何を職業としていたのか、など。
(…名前というのは、本来、そういったもので…)
一人ずつ違った個性を持つこと、それを端的に表すもの。
記号や数字には置き換えられない、とても大切な「ヒト」である証。
なのに「キース」は、それを持たない。
名前を持ってはいるのだけれども、数字や記号と変わらないから。
自分は、いつから「キース」なのか。
フロア001にあった水槽、其処から出された時だと言うなら…。
(…まだしも、救いがあるのだがな…)
生きて出て来たのは「私」だけだ、と、冷めてしまったコーヒーを眺める。
自分以外の「サンプル」や処分された者たち、彼らは「外の世界」を知らない。
だから「水槽の外へ出て来てから」、この名を与えられたのだったら、「キース」は一人。
他に何人の「キース」がいようが、彼らは名前を持たないから。
(…だが、水槽から出されて、直ぐに…)
「お前の名前は、キース・アニアン」と言われて、理解出来るだろうか。
名前の概念は知っていたって、しっくり馴染むものなのかどうか。
(水槽の中で、知識を与え続けていたのなら…)
それも成人検査の年に至るまで、充分な量の、いや、膨大な知識を与えるならば…。
(…私という存在に、全く呼び掛けないままで…)
教育することは可能なのか、と考えるほどに「分からない」。
「ヒト」の頭脳で考える限り、「ただの一度も呼び掛けないまま」での教育は不可能。
教官をやっていた経験からしても、無理なことだと思うけれども、機械だったら出来るのか。
(可能だとしたら、水槽の中では、私も他のサンプルたちと同じで…)
名前は持たずに育ち続けて、世話をしていた研究者たちは、番号で呼んでいたのだろう。
「キース」に直接、呼び掛けはせずに、研究者同士で使った、便宜上の「名前」。
それまでに育てた大勢の「キース」、彼らと区別するために。
(…そうだとしたなら、実は、それこそが…)
私の本当の名ではないのか、と考えて背中がゾクリと冷えた。
「やはり私には、本当の名前などは無いのだ」と。
研究者たちが使った番号、数字と記号を組み合わせたろう、「キース」を指すモノ。
そういう名前で育て上げられて、後に「キース・アニアン」の名を与えられた。
「キース・アニアン」は一人だとしても、名前を持たずに十四年間も育ったならば…。
(……人間ではない、ということか……)
人間なら「名前」を持つのだからな、と虚しくなる。
「私の場合は、番号なのだ」と。
「キース・アニアンという名前の方にも、ヒトの思いは無いのだからな」と…。
持っていない名前・了
※「キース・アニアン」の名は、誰がつけたんだろう、と考えた所から生まれたお話。
いつから「キース」と呼んでいたのか、それさえも謎。キース本人だって怖いだろうな、と。
(……ピーターパン……)
今でも迎えに来てくれるのかな、とシロエが視線を落とす本。
Eー1077の夜の個室で、ベッドの端に腰を下ろして。
遠くなってしまった故郷の星から、一つだけ持って来られた宝物。
幼い頃から大事にして来た、ピーターパンの物語。
(いい子の所には、ピーターパンが迎えに来てくれて…)
ネバーランドに行けるけれども、自分は「大人」になってしまった。
厳密に言えば、まだ大人ではないけれど。
このステーションを卒業するまでは、大人への準備段階だけれど。
(…でも、ぼくの子供時代の記憶は…)
成人検査で機械に奪い去られて、曖昧になってしまっている。
大好きだった両親の顔も、故郷の家も、すっかりおぼろになって、ぼやけて。
(そんな風になってしまっているんじゃあ…)
もう子供とは呼べないだろうし、大人の世界の仲間入りも近い。
ピーターパンは、迎えに来てはくれないだろう。
「助けてよ」という悲鳴が届けば、来てくれるかもしれないけれど。
子供時代を忘れたことが辛くて、帰りたいと願って泣き叫ぶ声が。
(……だけど、本物の子供じゃないから……)
きっと後回しになっちゃうんだ、と零れる溜息。
ネバーランドに相応しい子は、他に大勢いるだろうから。
その子供たちを迎えに行くのが、ピーターパンの役目だから。
(…この本の中に…)
入ってしまえたらいいんだけどな、と本の表紙をじっと見詰めた。
夜空を翔けるピーターパンと、子供たちの姿が描かれた表紙。
(この本の中で、生きていたなら…)
成人検査などというものは無くて、ただ幸せに子供でいられた。
ピーターパンが迎えに来るのを、毎晩、待っていられる子供。
(…ピーターパンが来てくれなくても…)
此処よりは自由な世界なんだよ、と確信はある。
本に描かれた世界の中には、機械の支配は無いのだから。
この本の中の住人だったら、幸せに生きてゆけたと思う。
ピーターパンが来てくれなくても、とても貧しい暮らしぶりでも。
今の世界とは全く違って、不衛生で、貧富の差が激しくても。
(…ずっと昔はそうだった、って…)
歴史の授業で教わるけれども、そうだった時代を不幸だとは、けして思いはしない。
子供が子供でいられる世界で、人間らしく生きられた世界。
其処へ自分も行けるのだったら、迷うことなく飛び込んでゆける。
ピーターパンの本の世界へ。
どうせ今では、両親も家も失くしてしまって、一人だから。
同じ一人で生きてゆくなら、自由な世界の方がいいから。
(…本の中でも、ぼくは少しも…)
かまわないんだ、と考える内に、頭を掠めていったこと。
ごく他愛ないように思えたけれども、たちまち心に広がった「それ」。
(……ぼくの人生……)
それも「物語」だったなら、と。
何処かの誰かが書いている本で、「セキ・レイ・シロエ」の物語。
こうして「考えている」瞬間だって、誰かがペンで綴ってゆくもの。
(…それを大勢の人間が読んで…)
今も眺めているかもしれない。
これからシロエはどうなってゆくか、どんな人生を生きてゆくのかと。
(…次のページをめくったら…)
物語の舞台はガラリと変わって、此処を卒業した後なのだろうか。
メンバーズ・エリートの一人に選ばれ、任務で宇宙を駆け回る「シロエ」。
どんどんページを読み進めたなら、最後は機械が支配する世界を…。
(破壊しちゃって、失くした記憶を取り戻して…)
意気揚々と故郷に帰る「シロエ」が、生き生きと描かれているかもしれない。
家に帰って、「ただいま!」と両親に抱き付く姿が。
子供時代と全く同じに、家族で食卓を囲むのも。
(…めでたし、めでたし、って…)
ハッピーエンドの世界だよね、と大きく頷く。
この人生が「物語」ならば、そんな具合に終わる筈だよ、と。
(…ホントに、ぼくの人生が…)
誰かが綴る物語ならば、早く最後まで書き終えて欲しい。
読んでいる人も、急いで最後のページまで。
そうすれば、ハッピーエンドだから。
苦痛でしかない今の人生、それを少しでも早く駆け抜け、結末を迎えられるよう。
(…そうだよね…)
早く終わってくれればいいな、と心から思う。
「めでたし、めでたし」で終わった後には、ただ幸せが待っているから。
大好きな両親の許に戻って、いつまでも幸せに暮らせるのだから。
(……ホントにそうなら、うんと幸せなんだけど……)
今の暮らしは見世物でもね、と考える。
読者をハラハラさせるためにと、作者が仕掛けた色々な見せ場。
それが成人検査だったり、記憶を消されて苦しむ今の日々だったり、と。
誰もが「シロエ」に同情するよう、次から次へと襲い掛かって来る不幸。
あの「キース」だって、登場人物なのだから…。
(…ぼくを不幸に陥れるために…)
作者が作った、悪役の一人。
そうだと思えば、「仕方ないや」と納得出来る。
「キース」にイライラさせられるのも、機械の申し子のような人間なのも。
主人公の「シロエ」を苦しめるために、作者が作り出したのだから。
(…あいつが嫌な奴だから…)
「シロエ」の不幸が引き立つわけで、「いい奴」では全く話にならない。
物語に出て来る悪役でライバル、だからこそ読者は手に汗を握る。
「シロエ」と「キース」の熾烈な争い、その戦いの行方は、と。
きっと「シロエ」が勝つのだけれども、そう簡単には勝てないだろう、と。
(…成人検査も、マザー・イライザも、SD体制も…)
何もかも作者が作った虚構で、物語の中に描かれた出来事。
それを読んでいる読者の世界は、SD体制などとは全く無縁で。
もしかしたら、地球は滅びていなくて、青く美しいままかもしれない。
遠い未来の世界を描いた、いわゆるSF小説で。
遥か昔から、人間はそういう物語を書き、大勢の人が読んだのだから。
そうかもしれない、と考えたら楽になった気がする。
「これは物語の中なんだ」と。
全ては本の中の世界で、「セキ・レイ・シロエ」は、その主人公。
だから苦しみ、酷い目に遭う。
そうでなければ、リアルに描き出せないから。
機械に支配される苦痛を、読者に訴え掛けるためにと、作者が紡ぎ出す様々なこと。
成人検査も、マザー・イライザも、忌まわしいSD体制だって。
(…何もかも全部、作り話で…)
ドラマティックに展開するよう、競争相手の「キース」も登場させて。
そうだというなら、我慢も出来る。
主人公なら耐えるべきだし、耐えた御褒美は必ず貰える。
ストーリーが完結した暁には、「めでたし、めでたし」な結末になって。
「シロエ」は無事に故郷へ帰れて、過去の記憶も取り戻せて。
(…それでこそだよね…)
こんな人生、作り話だからこそなんだ、と自分で自分を慰めてみる。
誰かが書いたSF小説、その中で今は苦しいだけ。
いつか、ハッピーエンドが来るまで。
今を耐え抜いて、物語の最後まで生き抜くまでは。
(…そういうことなら、仕方ないかな)
「シロエ」が不幸であればあるほど、ハッピーエンドなラストが生きる。
どんな不幸も、今の苦痛も、物語を彩るスパイスの内。
不幸のどん底に突き落とされても、それがスパイスなら構わない。
作者が読者を楽しませようと、せっせと振りかけるスパイスならば。
(……スパイスを効かせ過ぎだ、って……)
時には文句も出そうだけれども、そう言ってくれるような読者も必要。
「シロエ」に肩入れしているからこそ、そんな言葉が出るのだから。
身近に感じてくれているから、「シロエ」の不幸に我慢出来ない、熱烈な読者。
きっと、そういう人だっている。
これほど追い詰められてしまって、今も苦しくて堪らないから。
「苦しむシロエが可哀想だ」と、同情してくれる読者だって、きっと。
(…ぼくの物語が完結するまで…)
見守っていてくれる人が大勢、そう考えると生きる勇気も湧いて来る。
どれほど辛くて苦しかろうとも、ラストまでの道が長くて険しい人生でも。
「キース」が嫌いで堪らなくても、今の世界が大嫌いでも。
(……頑張らなくちゃね……)
もしかしたら、と希望の光が見えてくるよう。
この人生が本の中なら、作者の考え方次第。
SD体制を破壊するために、生き抜くしかないと「シロエ」は思っているけれど…。
(…ピーターパンの本が大好きで、ネバーランドに行きたいのも、ぼくで…)
作者は充分、承知なのだし、全てが一変するかもしれない。
この牢獄から、一転してネバーランドへと。
作者には、それが出来るから。
幼い頃から「シロエ」が焦がれた、ネバーランドへ旅立たせること。
たった一行、こう書くだけで。
「その時、奇跡が起こりました」と。
苦痛に満ちた今の世界に、一条の光が差し込んで。
ピーターパンが軽やかに空を翔けて来て、「行こう」と「シロエ」に手を差し出して。
(…最後まで必死に頑張り続けて、パパやママとのハッピーエンドもいいけれど…)
ネバーランドに行ってしまうのも、悪くないかも、とピーターパンの本の表紙を撫でる。
「どうせ、一人になっちゃったしね」と。
両親の所へ帰れるとしても、その日は、まだまだ先なのだから。
(ピーターパンが迎えに来るなら、大人の世界に行く前だろうし…)
それなら、それほど待たなくてもいい。
作者がそういう風に書くなら、そんなラストでも構わない。
「シロエ」が幸せになれるなら。
ネバーランドへと旅立てるのなら、それもハッピーエンドだから…。
物語の中なら・了
※アニテラのシロエなら思い付きそうな、「ぼくの人生も、物語かも」という考え方。
原作の方だと、有り得ませんけど。そして迎えた、ハッピーエンドな最期。中二病っぽい…。
今でも迎えに来てくれるのかな、とシロエが視線を落とす本。
Eー1077の夜の個室で、ベッドの端に腰を下ろして。
遠くなってしまった故郷の星から、一つだけ持って来られた宝物。
幼い頃から大事にして来た、ピーターパンの物語。
(いい子の所には、ピーターパンが迎えに来てくれて…)
ネバーランドに行けるけれども、自分は「大人」になってしまった。
厳密に言えば、まだ大人ではないけれど。
このステーションを卒業するまでは、大人への準備段階だけれど。
(…でも、ぼくの子供時代の記憶は…)
成人検査で機械に奪い去られて、曖昧になってしまっている。
大好きだった両親の顔も、故郷の家も、すっかりおぼろになって、ぼやけて。
(そんな風になってしまっているんじゃあ…)
もう子供とは呼べないだろうし、大人の世界の仲間入りも近い。
ピーターパンは、迎えに来てはくれないだろう。
「助けてよ」という悲鳴が届けば、来てくれるかもしれないけれど。
子供時代を忘れたことが辛くて、帰りたいと願って泣き叫ぶ声が。
(……だけど、本物の子供じゃないから……)
きっと後回しになっちゃうんだ、と零れる溜息。
ネバーランドに相応しい子は、他に大勢いるだろうから。
その子供たちを迎えに行くのが、ピーターパンの役目だから。
(…この本の中に…)
入ってしまえたらいいんだけどな、と本の表紙をじっと見詰めた。
夜空を翔けるピーターパンと、子供たちの姿が描かれた表紙。
(この本の中で、生きていたなら…)
成人検査などというものは無くて、ただ幸せに子供でいられた。
ピーターパンが迎えに来るのを、毎晩、待っていられる子供。
(…ピーターパンが来てくれなくても…)
此処よりは自由な世界なんだよ、と確信はある。
本に描かれた世界の中には、機械の支配は無いのだから。
この本の中の住人だったら、幸せに生きてゆけたと思う。
ピーターパンが来てくれなくても、とても貧しい暮らしぶりでも。
今の世界とは全く違って、不衛生で、貧富の差が激しくても。
(…ずっと昔はそうだった、って…)
歴史の授業で教わるけれども、そうだった時代を不幸だとは、けして思いはしない。
子供が子供でいられる世界で、人間らしく生きられた世界。
其処へ自分も行けるのだったら、迷うことなく飛び込んでゆける。
ピーターパンの本の世界へ。
どうせ今では、両親も家も失くしてしまって、一人だから。
同じ一人で生きてゆくなら、自由な世界の方がいいから。
(…本の中でも、ぼくは少しも…)
かまわないんだ、と考える内に、頭を掠めていったこと。
ごく他愛ないように思えたけれども、たちまち心に広がった「それ」。
(……ぼくの人生……)
それも「物語」だったなら、と。
何処かの誰かが書いている本で、「セキ・レイ・シロエ」の物語。
こうして「考えている」瞬間だって、誰かがペンで綴ってゆくもの。
(…それを大勢の人間が読んで…)
今も眺めているかもしれない。
これからシロエはどうなってゆくか、どんな人生を生きてゆくのかと。
(…次のページをめくったら…)
物語の舞台はガラリと変わって、此処を卒業した後なのだろうか。
メンバーズ・エリートの一人に選ばれ、任務で宇宙を駆け回る「シロエ」。
どんどんページを読み進めたなら、最後は機械が支配する世界を…。
(破壊しちゃって、失くした記憶を取り戻して…)
意気揚々と故郷に帰る「シロエ」が、生き生きと描かれているかもしれない。
家に帰って、「ただいま!」と両親に抱き付く姿が。
子供時代と全く同じに、家族で食卓を囲むのも。
(…めでたし、めでたし、って…)
ハッピーエンドの世界だよね、と大きく頷く。
この人生が「物語」ならば、そんな具合に終わる筈だよ、と。
(…ホントに、ぼくの人生が…)
誰かが綴る物語ならば、早く最後まで書き終えて欲しい。
読んでいる人も、急いで最後のページまで。
そうすれば、ハッピーエンドだから。
苦痛でしかない今の人生、それを少しでも早く駆け抜け、結末を迎えられるよう。
(…そうだよね…)
早く終わってくれればいいな、と心から思う。
「めでたし、めでたし」で終わった後には、ただ幸せが待っているから。
大好きな両親の許に戻って、いつまでも幸せに暮らせるのだから。
(……ホントにそうなら、うんと幸せなんだけど……)
今の暮らしは見世物でもね、と考える。
読者をハラハラさせるためにと、作者が仕掛けた色々な見せ場。
それが成人検査だったり、記憶を消されて苦しむ今の日々だったり、と。
誰もが「シロエ」に同情するよう、次から次へと襲い掛かって来る不幸。
あの「キース」だって、登場人物なのだから…。
(…ぼくを不幸に陥れるために…)
作者が作った、悪役の一人。
そうだと思えば、「仕方ないや」と納得出来る。
「キース」にイライラさせられるのも、機械の申し子のような人間なのも。
主人公の「シロエ」を苦しめるために、作者が作り出したのだから。
(…あいつが嫌な奴だから…)
「シロエ」の不幸が引き立つわけで、「いい奴」では全く話にならない。
物語に出て来る悪役でライバル、だからこそ読者は手に汗を握る。
「シロエ」と「キース」の熾烈な争い、その戦いの行方は、と。
きっと「シロエ」が勝つのだけれども、そう簡単には勝てないだろう、と。
(…成人検査も、マザー・イライザも、SD体制も…)
何もかも作者が作った虚構で、物語の中に描かれた出来事。
それを読んでいる読者の世界は、SD体制などとは全く無縁で。
もしかしたら、地球は滅びていなくて、青く美しいままかもしれない。
遠い未来の世界を描いた、いわゆるSF小説で。
遥か昔から、人間はそういう物語を書き、大勢の人が読んだのだから。
そうかもしれない、と考えたら楽になった気がする。
「これは物語の中なんだ」と。
全ては本の中の世界で、「セキ・レイ・シロエ」は、その主人公。
だから苦しみ、酷い目に遭う。
そうでなければ、リアルに描き出せないから。
機械に支配される苦痛を、読者に訴え掛けるためにと、作者が紡ぎ出す様々なこと。
成人検査も、マザー・イライザも、忌まわしいSD体制だって。
(…何もかも全部、作り話で…)
ドラマティックに展開するよう、競争相手の「キース」も登場させて。
そうだというなら、我慢も出来る。
主人公なら耐えるべきだし、耐えた御褒美は必ず貰える。
ストーリーが完結した暁には、「めでたし、めでたし」な結末になって。
「シロエ」は無事に故郷へ帰れて、過去の記憶も取り戻せて。
(…それでこそだよね…)
こんな人生、作り話だからこそなんだ、と自分で自分を慰めてみる。
誰かが書いたSF小説、その中で今は苦しいだけ。
いつか、ハッピーエンドが来るまで。
今を耐え抜いて、物語の最後まで生き抜くまでは。
(…そういうことなら、仕方ないかな)
「シロエ」が不幸であればあるほど、ハッピーエンドなラストが生きる。
どんな不幸も、今の苦痛も、物語を彩るスパイスの内。
不幸のどん底に突き落とされても、それがスパイスなら構わない。
作者が読者を楽しませようと、せっせと振りかけるスパイスならば。
(……スパイスを効かせ過ぎだ、って……)
時には文句も出そうだけれども、そう言ってくれるような読者も必要。
「シロエ」に肩入れしているからこそ、そんな言葉が出るのだから。
身近に感じてくれているから、「シロエ」の不幸に我慢出来ない、熱烈な読者。
きっと、そういう人だっている。
これほど追い詰められてしまって、今も苦しくて堪らないから。
「苦しむシロエが可哀想だ」と、同情してくれる読者だって、きっと。
(…ぼくの物語が完結するまで…)
見守っていてくれる人が大勢、そう考えると生きる勇気も湧いて来る。
どれほど辛くて苦しかろうとも、ラストまでの道が長くて険しい人生でも。
「キース」が嫌いで堪らなくても、今の世界が大嫌いでも。
(……頑張らなくちゃね……)
もしかしたら、と希望の光が見えてくるよう。
この人生が本の中なら、作者の考え方次第。
SD体制を破壊するために、生き抜くしかないと「シロエ」は思っているけれど…。
(…ピーターパンの本が大好きで、ネバーランドに行きたいのも、ぼくで…)
作者は充分、承知なのだし、全てが一変するかもしれない。
この牢獄から、一転してネバーランドへと。
作者には、それが出来るから。
幼い頃から「シロエ」が焦がれた、ネバーランドへ旅立たせること。
たった一行、こう書くだけで。
「その時、奇跡が起こりました」と。
苦痛に満ちた今の世界に、一条の光が差し込んで。
ピーターパンが軽やかに空を翔けて来て、「行こう」と「シロエ」に手を差し出して。
(…最後まで必死に頑張り続けて、パパやママとのハッピーエンドもいいけれど…)
ネバーランドに行ってしまうのも、悪くないかも、とピーターパンの本の表紙を撫でる。
「どうせ、一人になっちゃったしね」と。
両親の所へ帰れるとしても、その日は、まだまだ先なのだから。
(ピーターパンが迎えに来るなら、大人の世界に行く前だろうし…)
それなら、それほど待たなくてもいい。
作者がそういう風に書くなら、そんなラストでも構わない。
「シロエ」が幸せになれるなら。
ネバーランドへと旅立てるのなら、それもハッピーエンドだから…。
物語の中なら・了
※アニテラのシロエなら思い付きそうな、「ぼくの人生も、物語かも」という考え方。
原作の方だと、有り得ませんけど。そして迎えた、ハッピーエンドな最期。中二病っぽい…。