ブラウニーの記憶
「シナモンミルク、マヌカ多めでね」
いつものように注文したのは、シロエのお気に入りのドリンク。
Eー1077に連れて来られる前から、その飲み物が好きだった。
マヌカハニーとシナモン入りのミルクを飲むと、今も心が落ち着く気がする。
ハードな訓練をこなした後には、食堂まで来て、人が少ない静かな席を選んで味わう。
(騒がしいのは嫌いだよ)
マザー牧場の羊の群れの中なんかは御免だね、と目だけで空いている席を探した。
何処がいいかと、ザッと食堂を見渡して。
(あの辺りかな?)
あそこにしよう、と見当をつけて、カウンターの方に視線を戻す。
注文の品は出来て来たかと、何の気なしに眺めた先に、メニューがあった。
普段は気にも留めない「それ」。
この時間帯にだけ提供されるスイーツ、甘い菓子類に特に興味は無い。
シナモンミルクがあれば充分、余計なカロリーは摂らない主義を貫いている。
カロリーなんかは、必要な量があればいい。
余分に摂取したのだったら、その分、何かして消費しないと太るだけ。
体調管理もエリートの条件の一つなだけに、マイナスになる要素は少ない方がいい。
間食を取る習慣などは、無駄なものだとシロエは考えていた。
シナモンミルクに入っているマヌカ、その独特な甘味があれば、それでいい。
だから菓子類などはどうでもよくて、スイーツのメニューも見ないのだけれど…。
(ブラウニー…!)
メニューに、母が得意だった菓子の名前があった。
幼い頃から何度も食べた、母がキッチンで作ってくれたブラウニー。
「これは食べねば」と、心が跳ねた。
カロリーだの菓子だの、そういったことは抜きでいい。
故郷の母が作っていた菓子、その味を、この舌で確かめてみたい。
もう早速に、カウンターの向こうへ身を乗り出した。
「あっ、これ! ブラウニーもお願い!」
一つね、と頼んで頬を緩める。
「ママのお菓子が食べられるよ」と、「太ったって、構わないんだから」と。
注文の品が増えたお蔭で、少し余分に待つことになった。
それも全く気にならないけれど、其処へ後からやって来た客が、こう注文した。
「アップルパイ、一つ。テイクアウトでお願いね」
客はエリート候補生の制服の少女で、店員が「はい」と返して箱を取り出す。
アップルパイを入れる箱だ、と直ぐに分かった。
(スイーツなんか、ぼくは頼まないから…)
他のメニューと同じように「食堂で」食べるものだと、シロエは思い込んでいた。
食べ終わったら食器を返して、自分の部屋へ帰るのが食堂のルール。
朝、昼、夜の三度の食事も、体調を崩していない限りは、食堂で食べるという決まり。
「持ち帰り」があるとは、考えさえもしなかった。
(…だけど、よくよく考えてみたら…)
テイクアウトは、あって当然だろう。
夜遅くまで、自分の個室で勉強している候補生は多い。
彼らの勉強の効率を思うと、食堂へ出て来て何か夜食を食べるよりかは…。
(ピザとか、サンドイッチとか…)
自室で手軽に食べられるものを、持って帰った方がいいのに決まっている。
どうして今まで、全く気付きもしなかったのか。
(食べることに執着してないからかな?)
栄養ドリンクや栄養剤などで補えばいい、というのが此処でのシロエのスタイル。
食堂で他人の姿を見るより、自室に籠っていたいタイプなゆえの考え方。
(夜食なんかを食べに来るのは、面倒なだけで…)
部屋に帰ったら、次の日まで外に出る気もしないや、と今の今まで思って来た。
その気持ちは変わらないのだけれども、テイクアウトを知ったのは…。
(大収穫だよ!)
これを使わない手などは無い、とカウンターの向こうへ声を張り上げた。
丁度、注文の品を載せたトレイを持った店員が、こちらへやって来るところ。
その店員に、「ごめん、ブラウニー、テイクアウトで!」と。
テイクアウトを知ったばかりだとは顔にも出さずに、たった今、思い付いたかのように。
「アップルパイね」と頼んだ少女に釣られて、自分もその気になったんだ、という風情で。
店員は「お待ち下さい」と返すと、嫌な顔一つしないでシロエの注文に応じてくれた。
もう白い皿に載せてあったブラウニー、それを箱へと詰め替えて。
シナモンミルクのカップの隣に、その紙箱を並べて置いて。
こうしてシロエは、ブラウニーを「個室に持って帰る」ことに成功した。
シナモンミルクを飲んでいる間も、何度、紙製の箱を眺めたことか。
「ふふっ」と、「部屋で食べられるんだ」と、心の中では「幼いシロエ」が笑っていた。
ただし、食堂に座っていたシロエは、まるで笑っていなかったけれど。
あくまで冷静、いつもと少しも変わらない顔で、黙ってカップを傾けていただけ。
もしも誰かが見ていたとしても、不審には思わなかったことだろう。
テイクアウト専用の紙箱がトレイに載っているのも、気にしなかったに違いない。
「彼ら」にとっては、テイクアウトは「見慣れた光景」、さして珍しくもない代物。
注意を引くようなものではないから、それをシロエが持っていたって…。
(今夜は徹夜で機械弄りか、って…)
勘違いをする程度だよね、とシロエは夜の個室でクスリと笑う。
「生憎と、そうじゃないんだな」と。
「誰も考えもしないことだよ」と、紙箱の中身を覗き込んで。
(…自分の故郷のことなんか…)
此処では、誰も深く考えてみたりはしない。
成人検査で記憶を手放し、機械に書き換えられた後では、誰もがマザー牧場の羊。
故郷に思いを馳せはしないし、養父母を懐かしんだりもしない。
彼らが食堂で、故郷の母の得意料理に出会ったとしても…。
(こういう料理を食べたっけ、って思うだけのことで…)
母や故郷の家のことなど、しみじみ思って食べたりはしないことだろう。
どんなテーブルで食べていたのか、両親と囲んでいた食卓を思い返すことさえ。
けれど「シロエ」は、彼らとは違う。
今も故郷を、両親のことを、忘れはすまいと努力している。
機械がどんなに消しにかかろうとも、懸命に抵抗を続ける戦士。
(忘れさせるんなら、こっちは忘れないように…)
残った記憶を守って戦い、手放さないように心を強くするだけ。
機械の力に負けてしまえば、端から消されてしまうのだから。
(ぼくは今でも忘れないから…)
忘れてないからブラウニーだって手に入るんだ、と菓子を紙箱から取り出した。
この部屋に皿の類は無いから、手掴みで食べることにする。
行儀なんかは気にしない。
マザー・イライザが叱りに来ることも、この程度ならば無いだろうから。
(…そうだ、こういう味だったっけ…)
懐かしいな、とブラウニーを一口齧って味わう。
チョコレートの味がする、何処かケーキを思わせる菓子。
(でも、ケーキほどしっとりしてはいなくて…)
焼き菓子に近い感じだっけ、と懐かしい。
そう、この菓子が大好きだった。
母が作ってくれる時には、大喜びで焼き上がるのを待っていたもの。
「出来たわよ、シロエ」という声を聞いたら、何処にいたって走って行った。
甘い香りがしているキッチン、焼き立てのブラウニーが待っている場所へ。
熱いオーブンから出て来たばかりで、母が切り分けている所へと。
(大きな天板で、いっぺんに焼いて…)
それを食べやすいサイズに切って、母は「シロエ」の皿に載せてくれた。
「まだ熱いから、火傷しないでね」と微笑みながら。
「冷ましたブラウニーも美味しいけれども、焼き立てもいいでしょ?」と言っていた母。
(…ママの顔は、もう思い出せなくなっちゃったけど…)
あちこち焼け焦げた写真みたいに、欠け落ちてしまった母の顔の記憶。
そうなってしまった今の「シロエ」でも、ブラウニーが詰まった天板のことは忘れていない。
「大きな天板に一杯だったよ」と、「そこから切り分けるんだっけ」と。
(このブラウニーも、そうやって…)
食堂の厨房で焼いたんだよね、と思いを巡らせ、ハタと気付いた。
ブラウニーの記憶は、何処も欠けてはいないのだ、と。
オーブンで焼くことも、天板一杯に焼いて切り分けることも、今も鮮明に覚えている。
材料を混ぜていた母の後ろ姿も、ボウルなどが置かれたキッチンだって。
(…ブラウニーは、ぼくのママとか家のこととは…)
密接に結び付いてはいなくて、母の得意な菓子だというだけ。
更に言うなら「ありふれた菓子」で、知らない方が「おかしい」だろう。
食堂にあったメニューにだって、注意書きの類は見当たらなかった。
「エネルゲイアの名物です」とも、「アルテメシアの郷土料理です」とも。
(…誰でも知ってて当たり前のお菓子で、食べたことだってあるだろうから…)
機械は「ブラウニー」にまつわる記憶を「消さなかった」に違いない。
消す必要も無かっただろうし、消した方が後で困ったことになりそうだから。
(……だったら、これの作り方とかも……)
何処でもきっと共通なんだ、と母の手順を知りたくなって、データベースを検索してみた。
ブラウニーはどうやって作るものかと、詳しく思い出したくなって。
母の顔は欠けてしまっていたって、手元は思い出せそうだから、と記憶の欠片を追い掛けて。
(絶好のチャンス…)
これを手掛かりにしてやるんだ、と意気込んで挑んだシロエだけれども、突き当たった壁。
意気揚々と検索した先に、ズラリと並んだブラウニーのレシピ。
「オススメです」とか「簡単です」とか、ありとあらゆる短い言葉を纏った「それ」。
(…こんなにあるわけ?)
これじゃ分からない、と頭を抱えて、次に思い付いたものは「材料」。
その部分はどれも共通だろう、と考えてレシピを眺めていったのだけれど…。
(…バターを入れるか、マーガリンにするか…)
材料からして違ってるんだ、と絶望的な気持ちになった。
母のレシピがどれだったのかは、これではとても分かりはしない。
天板一杯に焼いていたことも、捏ねていたことも、今も忘れていないのに。
ボウルがあったキッチンだって、記憶に残っているというのに。
(……ママの手伝いをしていたら……)
一緒にブラウニーを焼いていたなら、ぼくは覚えていたのかも、と悲しくなる。
「シロエ、次はマーガリンを量ってくれる?」と言われて、量っていたら。
あるいはバターだったのだろうか、それを量って、他の材料も加えていたら。
(ママと一緒に、捏ねて、天板に入れて、オーブンに…)
入れて温度も調節していたら、鮮やかに思い出せたのだろうか。
そして今でも此処で作れただろうか、小さなオーブンを自作して。
機械弄りの合間の時間に、材料も食堂で調達して。
(…手伝って作っていればよかった…)
どうして手伝わなかったんだろう、と悔しくて涙が頬を伝って落ちる。
ブラウニーの記憶は、残ったろうに。
母と作った懐かしい味を、自分で再現出来ただろうに、と…。
ブラウニーの記憶・了
※機械が消す記憶と残しておく記憶、境目は紙一重かもね、と思った所から生まれたお話。
以前、『ブラウニーの味』というのを書いていますが、それとは違うシロエになりました。
いつものように注文したのは、シロエのお気に入りのドリンク。
Eー1077に連れて来られる前から、その飲み物が好きだった。
マヌカハニーとシナモン入りのミルクを飲むと、今も心が落ち着く気がする。
ハードな訓練をこなした後には、食堂まで来て、人が少ない静かな席を選んで味わう。
(騒がしいのは嫌いだよ)
マザー牧場の羊の群れの中なんかは御免だね、と目だけで空いている席を探した。
何処がいいかと、ザッと食堂を見渡して。
(あの辺りかな?)
あそこにしよう、と見当をつけて、カウンターの方に視線を戻す。
注文の品は出来て来たかと、何の気なしに眺めた先に、メニューがあった。
普段は気にも留めない「それ」。
この時間帯にだけ提供されるスイーツ、甘い菓子類に特に興味は無い。
シナモンミルクがあれば充分、余計なカロリーは摂らない主義を貫いている。
カロリーなんかは、必要な量があればいい。
余分に摂取したのだったら、その分、何かして消費しないと太るだけ。
体調管理もエリートの条件の一つなだけに、マイナスになる要素は少ない方がいい。
間食を取る習慣などは、無駄なものだとシロエは考えていた。
シナモンミルクに入っているマヌカ、その独特な甘味があれば、それでいい。
だから菓子類などはどうでもよくて、スイーツのメニューも見ないのだけれど…。
(ブラウニー…!)
メニューに、母が得意だった菓子の名前があった。
幼い頃から何度も食べた、母がキッチンで作ってくれたブラウニー。
「これは食べねば」と、心が跳ねた。
カロリーだの菓子だの、そういったことは抜きでいい。
故郷の母が作っていた菓子、その味を、この舌で確かめてみたい。
もう早速に、カウンターの向こうへ身を乗り出した。
「あっ、これ! ブラウニーもお願い!」
一つね、と頼んで頬を緩める。
「ママのお菓子が食べられるよ」と、「太ったって、構わないんだから」と。
注文の品が増えたお蔭で、少し余分に待つことになった。
それも全く気にならないけれど、其処へ後からやって来た客が、こう注文した。
「アップルパイ、一つ。テイクアウトでお願いね」
客はエリート候補生の制服の少女で、店員が「はい」と返して箱を取り出す。
アップルパイを入れる箱だ、と直ぐに分かった。
(スイーツなんか、ぼくは頼まないから…)
他のメニューと同じように「食堂で」食べるものだと、シロエは思い込んでいた。
食べ終わったら食器を返して、自分の部屋へ帰るのが食堂のルール。
朝、昼、夜の三度の食事も、体調を崩していない限りは、食堂で食べるという決まり。
「持ち帰り」があるとは、考えさえもしなかった。
(…だけど、よくよく考えてみたら…)
テイクアウトは、あって当然だろう。
夜遅くまで、自分の個室で勉強している候補生は多い。
彼らの勉強の効率を思うと、食堂へ出て来て何か夜食を食べるよりかは…。
(ピザとか、サンドイッチとか…)
自室で手軽に食べられるものを、持って帰った方がいいのに決まっている。
どうして今まで、全く気付きもしなかったのか。
(食べることに執着してないからかな?)
栄養ドリンクや栄養剤などで補えばいい、というのが此処でのシロエのスタイル。
食堂で他人の姿を見るより、自室に籠っていたいタイプなゆえの考え方。
(夜食なんかを食べに来るのは、面倒なだけで…)
部屋に帰ったら、次の日まで外に出る気もしないや、と今の今まで思って来た。
その気持ちは変わらないのだけれども、テイクアウトを知ったのは…。
(大収穫だよ!)
これを使わない手などは無い、とカウンターの向こうへ声を張り上げた。
丁度、注文の品を載せたトレイを持った店員が、こちらへやって来るところ。
その店員に、「ごめん、ブラウニー、テイクアウトで!」と。
テイクアウトを知ったばかりだとは顔にも出さずに、たった今、思い付いたかのように。
「アップルパイね」と頼んだ少女に釣られて、自分もその気になったんだ、という風情で。
店員は「お待ち下さい」と返すと、嫌な顔一つしないでシロエの注文に応じてくれた。
もう白い皿に載せてあったブラウニー、それを箱へと詰め替えて。
シナモンミルクのカップの隣に、その紙箱を並べて置いて。
こうしてシロエは、ブラウニーを「個室に持って帰る」ことに成功した。
シナモンミルクを飲んでいる間も、何度、紙製の箱を眺めたことか。
「ふふっ」と、「部屋で食べられるんだ」と、心の中では「幼いシロエ」が笑っていた。
ただし、食堂に座っていたシロエは、まるで笑っていなかったけれど。
あくまで冷静、いつもと少しも変わらない顔で、黙ってカップを傾けていただけ。
もしも誰かが見ていたとしても、不審には思わなかったことだろう。
テイクアウト専用の紙箱がトレイに載っているのも、気にしなかったに違いない。
「彼ら」にとっては、テイクアウトは「見慣れた光景」、さして珍しくもない代物。
注意を引くようなものではないから、それをシロエが持っていたって…。
(今夜は徹夜で機械弄りか、って…)
勘違いをする程度だよね、とシロエは夜の個室でクスリと笑う。
「生憎と、そうじゃないんだな」と。
「誰も考えもしないことだよ」と、紙箱の中身を覗き込んで。
(…自分の故郷のことなんか…)
此処では、誰も深く考えてみたりはしない。
成人検査で記憶を手放し、機械に書き換えられた後では、誰もがマザー牧場の羊。
故郷に思いを馳せはしないし、養父母を懐かしんだりもしない。
彼らが食堂で、故郷の母の得意料理に出会ったとしても…。
(こういう料理を食べたっけ、って思うだけのことで…)
母や故郷の家のことなど、しみじみ思って食べたりはしないことだろう。
どんなテーブルで食べていたのか、両親と囲んでいた食卓を思い返すことさえ。
けれど「シロエ」は、彼らとは違う。
今も故郷を、両親のことを、忘れはすまいと努力している。
機械がどんなに消しにかかろうとも、懸命に抵抗を続ける戦士。
(忘れさせるんなら、こっちは忘れないように…)
残った記憶を守って戦い、手放さないように心を強くするだけ。
機械の力に負けてしまえば、端から消されてしまうのだから。
(ぼくは今でも忘れないから…)
忘れてないからブラウニーだって手に入るんだ、と菓子を紙箱から取り出した。
この部屋に皿の類は無いから、手掴みで食べることにする。
行儀なんかは気にしない。
マザー・イライザが叱りに来ることも、この程度ならば無いだろうから。
(…そうだ、こういう味だったっけ…)
懐かしいな、とブラウニーを一口齧って味わう。
チョコレートの味がする、何処かケーキを思わせる菓子。
(でも、ケーキほどしっとりしてはいなくて…)
焼き菓子に近い感じだっけ、と懐かしい。
そう、この菓子が大好きだった。
母が作ってくれる時には、大喜びで焼き上がるのを待っていたもの。
「出来たわよ、シロエ」という声を聞いたら、何処にいたって走って行った。
甘い香りがしているキッチン、焼き立てのブラウニーが待っている場所へ。
熱いオーブンから出て来たばかりで、母が切り分けている所へと。
(大きな天板で、いっぺんに焼いて…)
それを食べやすいサイズに切って、母は「シロエ」の皿に載せてくれた。
「まだ熱いから、火傷しないでね」と微笑みながら。
「冷ましたブラウニーも美味しいけれども、焼き立てもいいでしょ?」と言っていた母。
(…ママの顔は、もう思い出せなくなっちゃったけど…)
あちこち焼け焦げた写真みたいに、欠け落ちてしまった母の顔の記憶。
そうなってしまった今の「シロエ」でも、ブラウニーが詰まった天板のことは忘れていない。
「大きな天板に一杯だったよ」と、「そこから切り分けるんだっけ」と。
(このブラウニーも、そうやって…)
食堂の厨房で焼いたんだよね、と思いを巡らせ、ハタと気付いた。
ブラウニーの記憶は、何処も欠けてはいないのだ、と。
オーブンで焼くことも、天板一杯に焼いて切り分けることも、今も鮮明に覚えている。
材料を混ぜていた母の後ろ姿も、ボウルなどが置かれたキッチンだって。
(…ブラウニーは、ぼくのママとか家のこととは…)
密接に結び付いてはいなくて、母の得意な菓子だというだけ。
更に言うなら「ありふれた菓子」で、知らない方が「おかしい」だろう。
食堂にあったメニューにだって、注意書きの類は見当たらなかった。
「エネルゲイアの名物です」とも、「アルテメシアの郷土料理です」とも。
(…誰でも知ってて当たり前のお菓子で、食べたことだってあるだろうから…)
機械は「ブラウニー」にまつわる記憶を「消さなかった」に違いない。
消す必要も無かっただろうし、消した方が後で困ったことになりそうだから。
(……だったら、これの作り方とかも……)
何処でもきっと共通なんだ、と母の手順を知りたくなって、データベースを検索してみた。
ブラウニーはどうやって作るものかと、詳しく思い出したくなって。
母の顔は欠けてしまっていたって、手元は思い出せそうだから、と記憶の欠片を追い掛けて。
(絶好のチャンス…)
これを手掛かりにしてやるんだ、と意気込んで挑んだシロエだけれども、突き当たった壁。
意気揚々と検索した先に、ズラリと並んだブラウニーのレシピ。
「オススメです」とか「簡単です」とか、ありとあらゆる短い言葉を纏った「それ」。
(…こんなにあるわけ?)
これじゃ分からない、と頭を抱えて、次に思い付いたものは「材料」。
その部分はどれも共通だろう、と考えてレシピを眺めていったのだけれど…。
(…バターを入れるか、マーガリンにするか…)
材料からして違ってるんだ、と絶望的な気持ちになった。
母のレシピがどれだったのかは、これではとても分かりはしない。
天板一杯に焼いていたことも、捏ねていたことも、今も忘れていないのに。
ボウルがあったキッチンだって、記憶に残っているというのに。
(……ママの手伝いをしていたら……)
一緒にブラウニーを焼いていたなら、ぼくは覚えていたのかも、と悲しくなる。
「シロエ、次はマーガリンを量ってくれる?」と言われて、量っていたら。
あるいはバターだったのだろうか、それを量って、他の材料も加えていたら。
(ママと一緒に、捏ねて、天板に入れて、オーブンに…)
入れて温度も調節していたら、鮮やかに思い出せたのだろうか。
そして今でも此処で作れただろうか、小さなオーブンを自作して。
機械弄りの合間の時間に、材料も食堂で調達して。
(…手伝って作っていればよかった…)
どうして手伝わなかったんだろう、と悔しくて涙が頬を伝って落ちる。
ブラウニーの記憶は、残ったろうに。
母と作った懐かしい味を、自分で再現出来ただろうに、と…。
ブラウニーの記憶・了
※機械が消す記憶と残しておく記憶、境目は紙一重かもね、と思った所から生まれたお話。
以前、『ブラウニーの味』というのを書いていますが、それとは違うシロエになりました。
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