(…記憶が無い…?)
シロエが耳を疑った言葉。候補生たちがしていた噂話。
成人検査前の記憶を一切、持たないというキース・アニアン。
頭の中に何も無い分、色々なことを詰め込めるのだ、と。
彼が成績優秀な秘密は「それ」だとも。
(…記憶って…)
皮肉なことに、その「記憶」のことで苦しんでいた真っ最中。
どんどん薄れてゆく自分の記憶。
懸命に繋ぎ止めようとしても、実感が伴わなくなってゆく故郷の景色。
いずれ自分も全て忘れて、飼い慣らされてしまうのかと。
マザー・イライザの言いなりになって、「マザー牧場の羊」の群れの一匹に。
だから余計に癇に障った。
「過去の記憶を持たない」キースが。
元から嫌っていたのだけれども、いつも以上に。
苛立ちながら戻った部屋。E-1077での、自分の個室。
此処は自分の部屋だけれども、もっといい部屋を持っていた。
E-1077に連れて来られる前は。
故郷の家で、両親と暮らしていた頃には。
(……ぼくの部屋……)
居心地の良かった子供部屋。
けして豪華ではなかったけれども、物心ついた時には自分の部屋を持っていた。
大抵は「其処にいなかった」けれど。
母が料理をしている所を眺めていたり、母の姿が見える所に座っていたり。
父が仕事から戻った時には、両親の側を離れなかった。
眠る時間が訪れるまで。
「もう寝なさい」と、二人に優しく言われるまで。
(…もっと大きくなってからでも…)
趣味にしていた機械いじりや、勉強の時間。
それを除けば、あまり部屋にはいなかった記憶。
居心地のいい部屋だったけれど、もっと素敵な部屋が家にはあったから。
父や母たちがいた部屋に行く方が、ずっと心地が良かったから。
(…パパ、ママ……)
会いたいよ、と呟いてみても、顔もおぼろになった両親。
二人の顔を見たいのに。
眠って夢の中にいたなら、二人ともちゃんと顔立ちが分かる姿なのに。
機械に消されてしまった記憶。
成人検査で、テラズ・ナンバー・ファイブのせいで。
(…ぼくがこんなに苦しんでるのに…)
苦しみながらも、懸命に続けている勉強。
このステーションでトップに立って、メンバーズ・エリートに選ばれること。
それを目指して、その日だけのために歯を食いしばって。
本当だったら、両親の夢を見られるベッドでずっと眠っていたいのに。
勉強するような時間があったら、夢の中で見られる故郷にいたい。
そうでなければ、大切なピーターパンの本。
宝物の本のページだけを繰って、ネバーランドを夢見ていたい。
勉強などをするよりも。…余計な知識を叩き込まれて、過去を忘れてゆくよりも。
(でも、そうするしか…)
今の所は見えない希望。
メンバーズになって、順調に昇進したならば。
上へ上へと昇り続けて国家主席の座に就いたならば、もはや誰からも受けない指図。
地球のトップに昇り詰めたら、憎い機械を止めてやること。
それが目標、「ぼくの記憶を全て返せ」と命じた後に、マザー・システムを止めること。
失くした記憶を取り戻すために。
子供が子供でいられる世界を、もう一度宇宙に作り出すために。
(…そのために、ぼくは必死になって…)
夢と現実の狭間でもがいて、毎日が戦いの日々なのに。
今も苦しみ続けているのに、キースには「過去が無い」という。
よりにもよって、それが自分のライバルだなんて。
過去にこだわり続ける自分と、「過去を忘れた」薄情な奴との戦いだなんて。
何も覚えていないのだったら、きっとキースは楽なのだろう。
戻りたい場所も、会いたい人も、キースは何一つ持ってはいない。
(その分だけ、知識を詰め込めるって…)
だから成績優秀なのだ、と噂していた候補生たち。
成績のことは、羨ましいとも思わない。
過去と引き換えに賢くなっても、自分は嬉しくないだろうから。
たとえキースを抜き去れるとしても、今のぼやけた過去を手放したくはないから。
(…だけど、最初から欠片さえ…)
残らないほどに過去を失くしていたなら、自分だってきっと楽だった。
キースがそうであるように。
何の疑いもなく機械を信じて、「機械の申し子」と呼ばれるように。
(ぼくだって、全部忘れていたなら…)
今頃は此処でこうしていないで、勉強していることだろう。
「もっと賢く」と、「もっと知識を」と。
過去を持たないなら、今と未来があるだけだから。
機械が指し示す未来への道を、真っ直ぐ進んでゆくだけだから。
(過去があるから…)
こうして捕まる、自分のように。
帰りたい過去を持っているから、生きることさえ辛く感じる時だってある。
機械の言いなりになって生きる人生、そんなものに意味はあるのかと。
こうして苦しみ続けるよりかは、幼い間に死んでいた方が良かったとさえ。
(記憶を消されるより前に…)
成人検査を受けるより前に、子供の間に死んでいたなら、幸福だったと思うから。
…両親は悲しんだとしても。
両親との別れは辛かったとしても、忘れてしまって苦しむよりは。
どうして「キース」だったのか。
過去を忘れて、何も持たない人間になってしまったのは。
元からこだわりそうに見えないキースが、何故、その幸運を手に入れたのか。
(…あいつも、ぼくと全く同じに…)
苦しみもがいて生きているなら、まだ幾らかは気が紛れもする。
どんなに平静を装っていても、部屋に戻れば苦しむキースがいるのなら。
薄れた記憶の中の両親、それに故郷を求めるキースがいるのなら。
けれど、そうではなかったキース。
何もかも全て忘れてしまって、ただ未来へと歩いてゆくだけ。
忘れてしまった過去の分だけ、新たな知識を空白の中に詰め込んで。
機械の手口を疑いもせずに、マザー・イライザが導くままに。
(…どうして、あいつだったんだ…!)
そんな幸せな人生を掴んでいる奴が、と悔しさのままに机にぶつけた拳。
過去など持っていないだなんて。
自分は過去にこだわり続けて、取り戻すために生きているのに。
生きる意味など無さそうな生を、いつか来るだろう「機械を止めてやる」日のために。
歯を食いしばって屈辱に耐えて、マザー・イライザの手の中で生きる。
「今はこれしか道が無いんだ」と、「メンバーズになるには、そうするしかない」と。
なのに、メンバーズへの道を約束されたも同然のキース。
彼は持ってはいない過去。
幸運なことに、全て忘れてしまったから。
成人検査の係が何かミスでもしたのか、キースがあまりに無防備だったか。
(何にしたって…)
あいつはとても幸せなんだ、と怒りの炎が噴き上げるよう。
過去を持たないなら、キースは自分と同じに苦しんだりはしないから。
機械の言いなりに生きる人生、それもキースは疑いさえもしないだろうから。
なんて奴だ、と憎らしいけれど。
八つ裂きにしたいほどだけれども、キースが失くした過去というもの。
それを自分が失くしていたなら、きっと幸福に生きられる。
今の苦しみは消えてしまって、「さあ、勉強だ」と机に向かって。
「パパ、ママ? それって、どういう人たちのこと?」と、首を傾げる程度のことで。
両親も故郷も忘れたのなら、そうなるけれど。
今よりも楽に生きられるけれど、キースを憎いと思うけれども…。
(…ぼくがパパとママを忘れていたら…)
それに故郷も忘れていたなら、「セキ・レイ・シロエ」は何処にもいない。
両親に貰った「セキ」も「シロエ」も、ただの記号になってしまって。
名前はどういう意味を持つのか、それも分からなくなってしまって。
(…そんなシロエになるよりは…)
苦しくても今のままでいい。辛くても、辛い人生でいい。
キースを羨ましいと思いはしたって、「取り替えたい」とは思わないから。
過去を全く持たない人生、それを一瞬、羨みはしても、欲しいと思いはしないから。
(…キース・アニアン…)
幸福な奴、と吐き捨てる。
それに似合いの嫌な奴だと、「過去を持たない人間は違う」と。
とても味気ない人生だよねと、「そんなの、ぼくは御免だから」と…。
過去が無ければ・了
※キースが「過去を持っていない」ことを知った時のシロエは、記憶探しの最中だったわけで。
怪しいと思って調べ始める前には、こういう時間もあったのかな、と。…シロエだけに。
「セキ・レイ・シロエが逃亡しました」
その声で我に返ったキース。
いつの間にやら消え失せていた、マザー・イライザが紡ぐ幻影。それに姿も。
「追いなさい」と命じる冷たい声。
いったいシロエは何処へ逃げたのか、此処から何処へ行けるというのか。
E-1077の周りは宇宙で、行ける場所など無いのだから。
それにシロエはまだ…、と考えたけれど。
「反逆者を逃がすわけにはいきません。…命令です」
マザー・イライザの声で気が付いた。
シロエが逃げ出した先は「宇宙」なのだと。
(……シロエ……)
そんな、とグッと握り締めた拳。
マザー・イライザが言う「反逆者」。
もうそれだけで決まったも同じな、シロエの運命。
反逆者という言葉が指すのは、「SD体制に逆らう者」。
そうなったならば、ただ「処分」されるだけ。
まして逃亡したとなったら、言い逃れる術は無いだろう。
…どんなに庇い立てしても。
メンバーズに決まった自分の将来、それを振りかざして庇おうとも。
(…マザー・イライザ…)
仰いでも、其処にあるのは彫像。さっきまでの幻影とは違う。
消えてしまったマザー・イライザ、「話を聞く気は無い」ということ。
ただ命令に従えとだけ、その彫像が無言で告げる。
それが使命だと、「行きなさい」と。
ならば、行くしかないのだろう。
心は「否」と拒否していても。…この身がそれを拒絶していても。
誰かが代わってくれればいい。誰でもいいから、と乱れる心。
マザー・イライザのいる部屋を出た後、格納庫へと向かう途中で。
(…反逆者を追うだけならば…)
なにも自分でなくともいい筈、もっと相応しい者たちが存在している筈。
シロエを逮捕し、連れ去って行った保安部隊の隊員たち。
彼らだったら迷うことなく、シロエを追ってゆけるだろう。
飛び去った船を見付け出したら、容赦なく処分出来るのだろう。一瞬の内に。
(…マザー・イライザは……)
あの場では何も言わなかったけれど、シロエを「処分」するつもり。
シロエが戻らなかったなら。
E-1077に戻ることを拒み、そのまま宇宙を飛び続けたら。
(……戻ってくれれば……)
あるいは道があるのだろうか、望みが残っているのだろうか。
皆の記憶から消されたシロエが、反逆者になったシロエが生き残れる道。
生涯、幽閉されようとも。
厳重に監視された部屋から、一歩も出ることは叶わなくても。
(…メンバーズなら…)
何か手立てがあるのだろうか、候補生の身では無理なことでも。
此処を卒業してメンバーズの道に足を踏み入れたら、打つ手が見付かるのだろうか…?
(…今のぼくには…)
まだ分からない、メンバーズのこと。
どれほどの権限が与えられるのか、マザー・イライザにも命令できるのか。
そうだと言うなら、全ての希望が潰えてはいない。
もしもシロエを連れ戻せたら。
…自分がメンバーズの道を歩み始めるまで、シロエが生きていてくれたら。
夢物語だ、と自分でも分かる。
マザー・イライザは、其処まで甘くはないだろうと。
たとえシロエが戻ってくれても、即座に奪われるだろう命。
保安部隊に引き渡したなら、その日の内に。
候補生たちの目には入らない何処か、其処で撃ち殺されてしまって。
(…今のぼくには、まだ止められない…)
いくら将来が決まっていたって、今の身分は候補生。
保安部隊の者たちの方が、遥かに力を持っているから。…このE-1077では。
(どうして、彼らが行ってくれない…!)
自分よりも力を持つというなら、彼らがシロエを追えばいい。
そして仕事をすればいいのに、どうして自分が選ばれるのか。
他に適任者が大勢いるのに、一介の候補生などが。
(…マザー・イライザ…!)
何故、と苛立ち、歩く間に、通路に倒れた者を見付けた。
明らかに保安部隊の所属だと分かる、その制服。
(さっきの精神攻撃で……)
そういえば皆、倒れたのだった。…自分以外は一人残らず。
過去の幻影に囚われたように、誰もが子供に返ってしまって。
目には見えないオモチャで遊んで、無邪気な笑顔で床へと座り込んだりして。
精神攻撃が遮断されたら、糸が切れたように倒れた彼ら。
今のE-1077には、自分の他には誰一人いない。
シロエを追ってゆける者は。
逃亡者を乗せて宇宙をゆく船、それを追い掛けて飛び立てる者は。
(…そういうことか…)
誰もいないのか、と噛んだ唇。
一人でも残っていたのだったら、捕まえて押し付けるのに。
「反逆者を追う」という自分の役目。
お前がすべき仕事だろうと、「直ぐに飛び立て」と、張り飛ばしてでも。
(…後で、コールで叱られても…)
その方が遥かにマシに思える、自らシロエの船を追うよりは。
シロエを連れて戻ってみたって、彼の命を救えはしない。
微かな望みに賭けるしかなくて、自分が正式にメンバーズになるまで彼が生きていたなら…。
(救い出せる道があるかもしれない、というだけで…)
その道も本当にあるかどうかは、メンバーズになってみないと何も分からない。
マザー・イライザのそれを越える権限、逆に命令できる力を得られるか否か。
(…連れて戻って、それでどうする…?)
処分されると承知の上で、保安部隊にシロエを引き渡すのか。
それとも彼らとやり合った末に、自分の部屋へと匿うのか。
(…二人くらいなら…)
多分、一人で倒せるだろう。
けれど束になって来られたならば、武器を持たない自分は勝てない。
候補生の身では持てない武器。
使い方は何度も教わったけれど、腕は彼らより上なのだけれど。
(……くそっ……!)
駄目だ、と通路の壁へと叩き付けた拳。
どう考えても、シロエを生かす術など持っていないから。
連れて戻れても、シロエ自身の運に賭けるしかなさそうだから。
それでも幾らかは残った望み。
シロエが此処に戻ってくれたら、微かな希望があるかもしれない。
即座に殺されなかったら。…幽閉される道であろうと、生きてくれたら。
(…だが、シロエが…)
素直に戻ってくれるとは、とても思えない。
「機械の言いなりになって生きる人生」、そんなものに意味は無いとシロエは言ったから。
命など惜しくないとばかりに、言い捨てたのがシロエだから。
(……戻らないなら……)
どうなると言うのか、自分がシロエを追って行ったら。
保安部隊の者たちの代わりに、武装した船で飛び立ったなら。
(……ぼくが、シロエを……)
殺すしかないと言うのだろうか、シロエの船を撃ち落として…?
訓練では何度も使ったレーザー砲でロックオンして、発射ボタンを押し込んで。
(…それだけは…)
嫌だ、と叫び出したくなる。
そのくらいなら連れて戻ると、なんとしてでもシロエの船を、と。
シロエは船には慣れていない筈で、拙いだろう操船技術。
まだ訓練飛行が出来る年ではないから、どうやって宇宙へ飛び立てたのかも不思議なほど。
ただ、「やりかねない」と思うだけ。
E-1077を、マザー・イライザを嫌い続けた彼ならば、と。
自分の年では乗れない船でも、夢見て一人で重ねた訓練。
公式なシミュレーターさえも使わず、恐らくは個人練習用の…。
(シミュレーションゲーム…)
それで習得したのだろう。
航路設定も、発進準備も、何もかもを。
今日が初めての宇宙なのだろう、自分の力で飛んでゆくのは。
(…停船してくれ…!)
そう呼び掛けたら、シロエは応じてくれるだろうか。
闇雲に先へと飛んでゆかずに、船は停まってくれるだろうか…?
(…撃ち落とすよりは…)
船を連行して戻れたら、と願いながら着けてゆく宇宙服。
シロエもこれを着けただろうか、操縦するなら必須とされている宇宙服を。
それとも着けずに飛び出したろうか、此処から逃げることに夢中で。
(…とにかく、シロエを連れ戻せたら…)
答えは出る、と無理やり思考を前へと向ける。
でないと、とても追えないから。
最悪のケースばかりが浮かんで、発進準備も出来ないから。
(…頼む、停まってくれ…!)
シロエ、と船に乗り込んでゆく。
武装している物騒な船に。
その気になったらシロエの船を、一瞬で落とすことが可能な保安部隊の船に。
微かな望みに賭けるしかない、今の自分。
シロエの船を連れて戻れて、シロエが直ぐに処分されずに生き延びること。
それにメンバーズが得られる権限、自分の力がマザー・イライザを超えること。
全ては夢物語だけれども、そうでもしないとシロエを追えない。
(…いくら未来のメンバーズでも…)
こんなケースは習っていない、と整えてゆく発進準備。
シロエが停まってくれたらいい。…最悪のケースを免れたなら、と。
戻る時には、船が二隻に増えていたならいい。
微かな望みをそれに繋ぐから、シロエの船を連れて此処へと戻りたいから…。
追いたくない船・了
※シロエの船を追う前のキース。「追いなさい」の時点で既に拳が震えていたわけで…。
追ったらどうなるか分かっていた筈、と思ったら書きたくなったお話。若き日のキース。
(…何もかも、此処に書いてあるのに…)
だけど見えない、とシロエが見詰める本。
E-1077の個室で、与えられた机の前に座って。
成人検査で奪われた過去と、優しかった両親と、懐かしい故郷。
子供時代は消えてしまって、一冊の本が残っただけ。
この本は宝物だから、と鞄に詰めて家を出た本。両親に貰った大切な本。
(……ピーターパン……)
幼かった頃から夢見た少年、永遠に年を取らない子供。
ネバーランドから夜の空を駆けて、子供たちを迎えに来る少年。
いつか会えると信じていた。
「いい子の所には、ピーターパンが迎えに来るんだよ」と。
その日に備えて準備したこと、それは覚えているけれど。
ピーターパンと一緒に夜空を駆けてゆこうと夢を描いたのも、確かに自分なのだけど。
(……ピーターパンも、ネバーランドも……)
見えてこない、と穴が開くほどに見詰め、ページをめくってゆく。
ピーターパンの本に書いてあること、それが鮮やかに見えてくれない。
空を駆けてゆくピーターパンの姿を、自分はいつでも夢に見られた筈なのに。
背に翅を持ったティンカーベルも、悪い海賊のフック船長だって。
(この本を開きさえしたら…)
其処にあった、と思う夢の国がネバーランド。
今も昔と同じに夢見て、出来ることなら行きたい場所。
牢獄のようなE-1077から夜空を駆けて、ピーターパンと一緒に飛んで。
…残念なことに、此処に夜空は無いけれど。
漆黒の闇が広がる真空の宇宙、そんな場所では誰も飛べないのかもしれないけれど。
ピーターパンも、背に翅を持つ小さな妖精のティンカーベルも。
そういうことなら、それも仕方ないと諦めるけれど。
此処からネバーランドに繋がる道は無いのだ、と諦めるしか無さそうだけども。
なにしろ、此処には無い太陽。
中庭に人工の夜はあっても、人工の朝が訪れはしても、無いのが「夜明け」。
太陽は何処からも昇って来なくて、ただ照明が灯るだけ。
夜の間は暗かった中庭、其処を明るく照らし出すように。
まるで本物の朝が来たように、徐々に明るさを増してゆく光。
けれども何処にも太陽は無くて、訪れはしない「夜明け」というもの。
つまり「本物の朝」が無いわけで、本物の朝が来ないなら…。
(…二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ…)
そうやって進んでゆけはしないのだし、開かないネバーランドへの道。
ネバーランドへの行き方はこう、とピーターパンの本に書いてあるから。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ」と。
(…朝が無いから、いくら歩いても…)
けして着けない「朝」という場所。
「朝まで真っ直ぐ」進んで行ったら、ネバーランドに行けるのに。
二つ目の角を右へ曲がって、朝まで真っ直ぐ行くだけなのに。
(…それが出来ない場所だから…)
ピーターパンもティンカーベルも飛んで来ない、と思うことは出来る。
朝が無い上に、夜空でもない真空の闇に包まれていては。
そんな所に囚われていては、ピーターパンも来られないのだと。
出来ることなら、そう思いたい。
ネバーランドへの道も閉ざされた、呪われた場所に囚われの自分。
朝が来ないから自分で歩いてゆけはしないし、空が無いからピーターパンも来られない。
どう頑張っても辿り着けない夢の国だから、ネバーランドも見えないのだと。
…こうやって本を開いてみても。
穴が開くほどピーターパンの本を見詰めても、夢の国は其処に無いのだと。
(…ティンカーベルも、フック船長も…)
何も見えない、と胸が塞がれるよう。
故郷では、この本を広げただけで飛べたのに。
身体は故郷の家にあったソファ、その上にコロンと転がっていても。
床の絨毯に座っていたって、心は自由に羽ばたいてゆけた。
本の向こうのネバーランドへ、ピーターパンが飛んでゆく国へ。
(…本当に全部、其処にあるんだ、って…)
信じられたし、信じてもいた。
だから夢見て憧れ続けて、いつか行こうと準備していた。
ピーターパンが迎えに来たなら、一緒にふわりと舞い上がる夜空。
そのまま朝までずっと真っ直ぐ、ピーターパンと飛んでゆこうと。
本物のネバーランドにきっと行けると、本で見るよりも素敵な場所に、と。
(…ちゃんと見えたよ、ネバーランド…)
ぼくは見ていた、と覚えているのに、今では何も見えては来ない。
こうして本を開いてみたって、懸命に文字を追ったって。
挿絵のページに見入ってみたって、開いてくれない世界の扉。
今の自分には、ネバーランドがもう見えない。
…どんなに探し求めても。
この本のページから行ける筈だと、行けた筈だと頑張っても。
そうなったのは、自分が捕まったから。
E-1077という名の牢獄、其処に閉じ込められたせいだと思いたいけれど…。
違う、と分かっている悲しい答え。
懐かしい故郷や優しい両親、子供時代の幸せな記憶。
それと一緒に、自分は失くしてしまったのだと。
ネバーランドを見付ける力を、本の向こうに夢の世界を読み取る力を。
(……テラズ・ナンバー・ファイブ……)
あいつが奪った、と噛んだ唇。
「ぼくの翼まで奪って行った」と、「今のぼくは夢も見られやしない」と。
もちろん夢は見るけれど。
悪夢も幸せな夢も見るけれど、それとは違った「夢見る力」。
目を覚ましていても見える夢の世界を、今の自分は捉えられない。
…もう子供ではなくなったから。
自分では子供のつもりでいたって、機械が「大人」にしてしまったから。
ネバーランドは子供の世界で、其処に行った子は「いつまでも」子供。
ピーターパンの本を書いた作者は、そんな子の一人だったのだろう。
だからこそ書けた夢の国。
きっと本当に何処かにある国、ピーターパンたちが暮らすネバーランド。
あの時、機械が自分の力を奪わなければ、今もこの本を開いたら…。
(…ピーターパンも、ティンカーベルも…)
フック船長も、昔と同じに鮮やかに目の前に見えた筈。
エネルゲイアの家でそうしていたように。
成人検査の前の日の夜も、この本を開いて夢見たように。
いい成績で成人検査を通過したなら、ネバーランドよりも素敵な地球に行ける筈。
その道を進んで行けたらいいと、いつか地球にも行ってみたいと。
ネバーランドは、こんなに素敵な国なのだから。
もっと素敵な地球となったら、どれほど素晴らしい場所なのかと。
(……あれが最後で……)
それきり、見てはいない国。
ピーターパンの本を開いても、今の自分には…。
(…ネバーランドへの行き方だけしか…)
分からないんだ、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ」、その意味ならば分かるから。
一つ、二つと数えた二つ目、そういう角を「右」へと曲がる。
「右か、左か」と尋ねられる右で、自分の右手がある方へ。
そう曲がったなら、後は「朝」まで「ずっと真っ直ぐ」。
E-1077には無い夜明けまで。
太陽が昇る朝に着くまで、ただ「真っ直ぐ」に歩くだけ。
そうやって行けばネバーランドに着くのだけれども、ただそれだけしか分からない。
「二つ目の角」を「右へ」曲がって、後は「朝」まで「ずっと真っ直ぐ」。
それは単語の連なりだけで、魔法の道はもう見えない。
子供の頃は見えたのに。
「こうやって行けば、ちゃんと着くんだ」と、本当に分かっていた筈なのに。
本を開けば、ピーターパンが見えていたように。
ティンカーベルが、フック船長が、ネバーランドが鮮やかに見えていたように。
(…ぼくが失くしたのは…)
夢の世界を捉える力か、それとも「信じる心」なのか。
ピーターパンの本に描き出された本当の夢を「信じる」心。
それを失くして、今は見えなくなっただろうか。
ピーターパンもネバーランドも、背に翅を持つティンカーベルも。
夢の世界を捉える力も、本物の夢を「信じる心」も、多分、此処では要らないもの。
E-1077では不要だろうし、この先の道でもきっと要らない。
メンバーズになるのに野心は要っても、夢など要りはしないから。
「メンバーズになりたい」と夢見るようでは、道は開けはしないから。
他人を蹴落とすほどの勢い、そんな野心を抱えてひたすら駆けてゆくのが似合いの道。
だから機械は消したのだろう。
夢の世界を捉える力か、あるいは夢を「信じる心」。
それを失くしてしまった自分に、ネバーランドはもう見えない。
いつの日か、それを取り戻すまで。
メンバーズへの道を駆けて駆け抜けて、国家主席に昇り詰めるまで。
(…そして機械に、ぼくの記憶を…)
返せ、と命じて子供時代を取り戻すまでは、見えないのだろうネバーランド。
分かってはいても、やはり悔しくて零れる涙。
「此処は牢獄だから、見えないだけなら良かったのに」と。
空がある場所へ、朝が来る場所へ移り住んだら、また見えるだろうネバーランド。
その方がずっと良かったのにと、「今は見えない」だけなら泣かずにいられたのに、と…。
見られない夢・了
※シロエの宝物の本。「両親に貰った」ことも大きいだろうけど、他にもありそう。
子供の目には「ちゃんと見える」筈のネバーランド。成人検査の後は見えないのかも…。
(国家騎士団総司令か…)
肩書きだけは御立派だがな、とキースが歪めた唇。
異例の出世で国家騎士団のトップに昇り詰めたけれども、その自分は…、と。
与えられた「御立派すぎる」部屋。
側近のマツカが控える部屋まで備えられた其処に、今はマツカの影は無い。
「下がれ」と言っておいたから。
とうに夜更けで、不審にも思わず下がったマツカ。
(いくらマツカがミュウでも、だ…)
私の心までは読めまい、と持っている自信。
けれど、誰にも読めない心。読ませない心の中にあるもの、それが時折、疎ましくなる。
どうして自分だったのか、と。
「他のモノ」では駄目だったのかと、どうして自分を選んだのかと。
(…キース・アニアン…)
そういう名前なのだがな、と眺める自分のパーソナルデータ。
軍の上層部にいる者だったら、大抵は見ることが出来るだろう。
ID:076223。
出身地、トロイナス。
父の名はフル、母の名はヘルマ。
生年月日、SD567年12月27日。
誰のデータにも並ぶ内容、IDに出身地、両親の名前と生年月日。
そして誰ものデータが「本物」、其処に偽りは入り込めない。
養父母とはいえ、両親の名は本物だから。
誰が養父母になっていたかで、名前も変わってくるものだから。
サム・ヒューストンなら、「サム」と名付けたのはヒューストンの姓を持つ両親。
シロエだったなら、「セキ」の姓を持っていた両親。
サムの養父母のことは知っている。
E-1077にいた頃にではなく、サムが壊れてから知った。
病院にサムを見舞った時には、子供時代のことばかり話すものだから。
「父さんが勉強しろって、うるさいんだ」とか、「ママのオムレツは美味しいよ」とか。
それほどサムが慕うのならば、と知っておきたくなったから。
いったいどんな養父母だったか、今はどうしているのかと。
(…あいつに似合いの両親だった…)
データだけしか知らないけれども、そういう印象だった養父母。
病院でサムが話す通りに、子供を大事にしそうな両親。
(…そしてシロエは…)
別の方面から見付けた養父母。
ミュウに関わり、彼らを調べてゆく内に。
アルテメシアからモビー・ディックを追い出した時に、シロエの父の名があった。
サイオニック研究所に所属していた「ミスター・セキ」。
シロエの故郷のエネルゲイアが心に引っ掛かったから、調べた詳細。
(…あれがシロエの父親だった…)
自分の息子がMとも知らずに、開発したサイオン・トレーサー。
モビー・ディックはそれに追われて、アルテメシアを離れて行った。
彼が機械を作らなかったら、あるいはシロエは…。
(…あの船に乗っていたかもしれんな)
ソルジャー・ブルーか、ジョミー・マーキス・シンか、どちらかに救われ、命を拾って。
成人検査を受けることなく、それよりも前に。
(…サムもシロエも、データは本物…)
人類だろうが、シロエのようにミュウと判断されようが。
どちらも同じに養父母を持って、彼らに繋がる名前がついた。
サムならば「サム・ヒューストン」。
シロエだったら「セキ・レイ・シロエ」と。
自分の場合も、傍から見たならそう見えるだろう。
「子供時代は覚えていない」というだけのことで、存在している筈の両親。
トロイナスに出掛けて探してみたなら、きっと彼らは…。
(何処かで事故死か、移住したことにでもなっているのか…)
調べたことは無いのだけれども、ごくごく自然に姿を消していることだろう。
父のフルも、母のヘルマの方も。
彼らが暮らしていた筈の家も、きっと存在しているのだろう。
ただし、「データの上で」だけ。
本物の「フル」と「ヘルマ」はいないから。
「キース・アニアン」を育て上げた筈の、「アニアン」夫妻はいないのだから。
(…アニアンも、それにキースの方も…)
知っている者は誰もいない、と握り締めた拳。
今でこそ誰もが知っている名前、国家騎士団総司令。
エリート中のエリート軍人、キース・アニアンをの名を知らない者などいはしない。
軍はもちろん、一般人でも。
何かといえばニュースに出るし、誰もが耳にする名前だから。
けれども、誰が知るだろう?
「キース・アニアン」を「知る人間」など、何処にも存在しないこと。
養父母だった筈の二人は何処にもいなくて、在籍していた学校にさえも…。
(担任の教師の名前はあっても…)
彼らはきっと覚えていない。
「キース・アニアン」の名を持つ少年、それを担当したことを。
今の自分の経歴を誰かが見せたとしたって、その出世ぶりに…。
(素晴らしい子を担当させて貰ったようです、と言いはしてもだ…)
生憎と記憶に残っていない、と答えるのだろう。
「当時は忙しかったので」だとか、誰も疑いはしない理由を述べて。
そんな具合に「消えている」キース。
故郷だった筈のトロイナスから、両親が何処かに行ってしまって。
担任の教師も幼馴染も、誰もが「忘れ去って」しまって。
(…サムがジョミーを忘れたように…)
E-1077の誰もがシロエを忘れたように、それが「機械の仕業」ならいい。
機械が記憶を処理した結果で、皆が忘れてしまったのなら。
それならばそれで、「存在した証」が無いというだけ。
何処かを探せば、欠片くらいは出てくるもの。
サムがジョミーを忘れていたって、「ジョミー・マーキス・シン」は存在しているから。
皆が忘れてしまったシロエも、スウェナが覚えていたのだから。
(完璧に消せはしないのだ…)
その人間が「本当に」生きていたのだったら、この世界からは。
死んだ後までデータは残るし、人の記憶に残りもする。
自分がシロエの父の名前を見たように。…其処からシロエに辿り着けたように。
E-1077を早くに離れたスウェナが、記憶を消されていなかったように。
(しかし、私は…)
私の場合はそうではない、と嫌と言うほど知っている。
かつては自分も信じ込んでいた、「父はフルで、母はヘルマ」ということ。
アニアン夫妻が育てた子供で、彼らが「キース」と名付けた息子。
人工子宮から取り出された日は、SD567年の12月27日だと。
誰のデータもそうだから。
E-1077からは消されたシロエも、養父母を辿れば其処に残っていた記録。
生年月日も「セキ・レイ・シロエ」の名も、彼が暮らしていた家も。
なのに、自分には「無い」それら。
「消された」わけでも、「忘れ去られた」わけでもないのに、存在しない。
何処を調べても、その名残さえ。
意味ありげに残る、わざと仕込まれたデータだけしか。
なんという皮肉なのだろう、と自分を嘲り笑いたくなる。
誰もが知っている「キース・アニアン」、その名を真に知る者などは一人もいない。
何処を探しても、誰に訊いても、「キース・アニアン」を見た者はいない。
(…正確に言えば、あの連中なら…)
多分、知っている筈なのだがな、と思う記憶の隅に「居る」者。
E-1077にあった水槽、それの向こうに自分が見ていた研究者たち。
けれど、彼らも「消された」だろう。
「キース・アニアン」が完成したなら、彼らは用済みなのだから。
マザー・イライザが記憶を消したか、あるいはシロエを処分したように…。
(宇宙船の事故にでも見せかけて…)
存在自体を消しただろうか、念には念を入れねば、と。
けして秘密が漏れぬようにと、口封じに皆、殺してしまって。
(…そんな所だ…)
確かめる気にもなれないが、と忌まわしく思う自分の「生まれ」。
どうして自分を選んだのかと、他のモノでは駄目なのかと。
フロア001に幾つも並んでいたサンプル。
かつてシロエが命懸けで見た、「キース・アニアン」と「同じモノ」たち。
あの中のどれでも良かったろうにと、そして自分はサンプルの方で良かったのに、と。
今頃になって、真実を知るくらいなら。
いずれはミュウに敗れるだろうと思う人類、彼らを導く指導者として無から創られたなど。
(もっと意味のある人生だったら、まだマシなものを…)
時代の流れに抗ってみても、きっと負けるのだろう人類。
その中で自分に何が出来るか、考えるほどに虚しいから。
皆が自分を称える度に、虚しさだけが降り積もるから。
(何が国家騎士団総司令様だ…)
誰も「キース」を知らないくせに、と眺める「キース・アニアン」の名前。
この名を知るのは機械だけだと、「故郷で私と出会った者など一人もいない」と。
記号と何も変わりはしないと、育てた時の数字で呼んでも充分なほどの存在なのに、と…。
偽りの生まれ・了
※いや、キースの両親がいないんだったら、誰が「キース・アニアン」と名付けたんだ、と。
機械が名前を付けたんだよな、と思ったら、こういう展開に。キースには気の毒すぎるけど。
「…これは……」
なんなんだ、此処は、とシロエが見回した周囲。
E-1077のシークレットゾーン、フロア001と呼ばれる区画。
てっきり改造室かと思った。此処へと足を踏み入れる前は。
すまし顔をしたキース・アニアン、彼を「機械の申し子」と罵倒していた頃は。
(……胎児……)
それにキースにそっくりなモノ、と信じられない思いで見詰める。
尻尾が生えているような胎児、其処から少しずつ育った姿。
赤ん坊の次は幼児といった具合に、並ぶ幾つもの「キース」たち。
それから「キース」と対を成すように、同じように並ぶ金髪の女性。これも幾つも。
(…あいつ、機械じゃなかったんだ…)
そうだとばかり思ったのに。
彼の冷たい皮膚の下には、精巧な機械が隠されていると踏んだのに。
だから此処までやって来た。
キースの正体を暴いてやろうと、「自分が何かを知って壊れてしまうがいい」と。
なのに、いたのは「人間」の群れ。
かつては「人間」だったモノたち、今はもう息をしていないモノ。
多分、機械が残したサンプル。
これを胎児から作り上げた機械、あの憎いマザー・イライザが。
きっと何かの参考のために、育てる途中で標本にして。…途中で命を奪い取って。
(そうなってくると…)
キースは「生き延びた」モノなのだろう。
マザー・イライザに気に入られたか、とびきりの出来の人間なのか。
(まあ、とびきりではあるけどね…)
優秀には違いないだろうさ、と眺める内に気付いたこと。
胎児から此処に揃っているなら、キースは此処で「育った」モノ。
E-1077から出てはいないし、何処からも此処に「来なかった」のだ、と。
何処からも「来はしなかった」キース。
そのことは、とうに知っていた。
彼と同郷の誰に訊いても、皆、「知らない」と答えたから。
同じ宇宙船で着いた筈の者も、キースを覚えていなかったから。
(…此処にいたんだとは知っていたけど…)
まさか「育って」いただなんて、と胸にこみ上げる不快感。
機械仕掛けの人形だったら、「やっぱりね」と、ストンと納得できたのに。
キースが機械で出来ているなら、高笑いをして済ませたろうに。
「ほらね」と、「あいつは機械だった」と。
感情などは無くて当然、あったとしても機械の計算。
マザー・イライザだって怒るし、そうプログラムしてあるだけ。
「こういう時には怒るものだ」と、機械の頭脳が弾き出したら怒るだけ。
そうだとばかり思っていたのに、「人間」だなんて。
人工子宮から「生まれる」代わりに、その中で「育ち続けた」なんて。
(…ぼくは途中で取り出されたのに…)
もう充分に生きてゆける、と判断された段階で。
遠い昔なら母の胎内、其処で育って「月が満ちた」ら、「出産」だっただろう時点で。
自分は其処で取り出されたから、エネルゲイアに運ばれた。
養父母の許で育つようにと、「セキ・レイ・シロエ」の名を与えられて。
もう顔さえも思い出せない両親だけれど、幸せだった子供時代。
あれは自分の宝物なのに、何もかも機械に奪い取られた。
懐かしい家も、両親も、全部。
此処に、E-1077にやって来るには、それは「不要」とされたから。
成人検査で消されてしまった自分の過去。
今もその過去を掴み取ろうと、取り戻したいと、日々、苦しんでいるというのに…。
それとは逆だ、と睨み付ける胎児。それに幼児も、少年だって。
此処に並んだ「キース」たちの群れは、人工子宮だけしか知らない。
水槽の中から出ずに育って、途中で成長を止めたサンプル。
何らかの事情で機械がそう決め、彼らの命を奪ったから。
(でも、こいつらは死んだことさえ…)
知りやしない、と沸々と湧いてくる憎しみ。
それともこれは嫉妬だろうか、「何も知らずに」育って、死んだモノたちへの。
人工子宮から出ていないのなら、きっと自我さえ持たなかった筈。
彼らの周りには「誰もいない」し、「誰とも触れ合わない」のだから。
育てていたろうマザー・イライザ、其処から知識を得ていただけ。
キースが特別優秀なように、「エリートとして生きてゆくための」知識。
それだけを流し込まれていたなら、彼らは何も「考えはしない」。
与えられる情報を受け止めるだけで、「そういうものか」と理解するだけ。
(…機械が学習するのと同じで…)
ヒトの形を持っていたって、まるで伴わない「感情」。
「此処で終わりだ」と生命を繋ぐ機械と切り離されても、苦痛さえ覚えない生命。
彼らは「理解する」だけだから。
自分の命は此処で終わると、「学ぶ日々はもう終わったのだ」と。
だから彼らに「表情」は無い。
胎児はともかく、幼児にも、それに少年にも。
自分が知っている「キース」にそっくり、それほどに育った標本にも。
水槽の外で生きていたなら、彼らの顔にはきっと恐怖があるのだろうに。
そうでなければ無念の表情、あるいは苦痛に満ちた表情。
どれも彼らは持っていなくて、「感情が無い」ということの証拠。
「キース」は此処から外に出たから、幾らかは感情があるのだろう。
普通の人間と比べてみたなら、まるで全く足りないけれど。
いくら感情を持っていたって、所詮は「機械の申し子」だけれど。
(なんて奴らだ…)
キースも、それに「こいつら」だって、と湧き上がるのは激しい怒り。
人工子宮の中にいたなら、感情さえ生まれないけれど…。
(…失うものだって何も無いんだ…)
現に彼らは、死の瞬間さえ、「何も恐れていなかった」から。
証拠が彼らの顔にあるから、ただ「憎い」としか思わない。
同じ世界に生まれて来たのに、どうしてこうも違うのか。
人工子宮から外に出されて「セキ・レイ・シロエ」になった自分と、「キース」とは。
外の世界を知らないキース。
ずっと水槽の中で育って、養父母さえも持たないキース。
彼には「過去が無い」のも当然、最初から「持っていない」のだから。
誰もキースを「育てなかった」し、機械がせっせと知識を与えただけなのだから。
(……こういう風に生まれて来たなら……)
ぼくも苦しみはしなかったんだ、と握り締める拳。
人工子宮の外の世界を知らなかったら、両親も故郷も無かったならば。
感情さえも持たずに育って、「今日からは外で暮らしなさい」と外へ出されたならば。
そういう生まれの自分だったら、きっと辛くはなかっただろう。
苦しいとさえも思いはしなくて、ただ勉学に励んだだろう。
(何も失くしていないんだから…)
成人検査で過去を消されることも無いから、「生まれた」後には「得るもの」だけ。
人工子宮から外に出たなら、「外の世界を知ってゆく」だけ。
何一つ失くさず、失いもせずに。
「子供時代」という大きすぎた代償、それを一切、払うことなく。
ただ、のうのうと此処に、E-1077に「生まれ落ちる」だけの生命体。
それがキースで、「生まれなかった」モノがこの標本たち。
何故そうなったか、マザー・イライザしか、多分、知らないだろうけど。
命を絶たれた「彼ら」に訊いても、無表情なままで「終わったから」と言えば上等だけれど。
これがキースの正体だなんて、と抑え切れない怒りの感情。
彼の正体が機械だったら、何も思いはしないのに。
「やっぱりそうだ」と勝ち誇るだけで、証拠を撮影して帰るのに。
(…どうして、あいつが…)
人間なんだ、と考えるだけで腹が立つ。
それも過去など持たない人間、「何も失くしはしなかった」モノ。
マザー・イライザが「お行きなさい」と此処から出すまで、人工子宮で育った人間。
故郷も両親も持ちはしないで、持っていないから「失くさない」。
成人検査で奪うものなど何も無いから、きっとキースは成人検査も…。
(通過してなんかいないんだ…)
あの憎むべき成人検査を知らないのならば、どれほど幸福な人生だろう。
何一つ機械に奪われもせずに、この場所に「生まれ落ちた」なら。
過去という対価を支払うことなく、E-1077に来られたのなら。
(……幸福なキース……)
あいつはなんて幸せなんだ、と噴き上げるような憎しみと怒り。
「何も失くしていないなんて」と、「ぼくは全てを失ったのに」と。
水槽を端から叩き割りたい、この幸福な「人形」たちを。
マザー・イライザが育てた人形、人工子宮から出しもしないで、このステーションで。
(…あいつが機械だったなら…)
こんな思いはしなかったのに、と唇を噛んで、気を取り直す。
まだ終わりではないのだから。
キースを育てた「ゆりかご」は此処で目にしたけれども、まだ足りない。
どういう意図で育てて来たのか、それを暴いてやらないと…。
(キースという名のお人形さんを…)
叩き壊せはしないからね、と自分自身を叱咤する。
「こんな所で、打ちのめされている場合か」と。
キースの全てを暴くのだろうと、「そのために此処に来たんだから」と…。
過去を持たぬモノ・了
※シロエが言っていた「幸福なキース」。どの段階でそう考えたのか、と思ったわけで。
正体を知る前だろうな、と書いてみた話。「無から作った」と知ったら別の思考になりそう。
