(…私は何をしているのだろうな)
いったい何を望んでいる、とキースは自分自身に問う。
生き物は棲めない、死の星と化した地球の上で。
「地球再生機構」とは名ばかり、巨大なだけのユグドラシルの一室で。
ミュウたちがついに地球へと降りた。
会談は明日の午前十時から。
「それまでは部屋でお休み下さい」と、スタージョン大尉がミュウたちに告げた。
つまり、それまでは「お互いに顔を合わせはしない」。
人類からも、客分であるミュウからも。
それを口実に、警備兵たちを下がらせた。「奴らは来ない」と。
ミュウがどれほどの脅威であろうと、彼らの目的は「地球での会談」。
人類との交渉のテーブルに着くこと、それがミュウたちの目当てで「要求」。
その機会を自ら壊しはしない。
「壊すわけがない」と、下がらせたのが「無用な部下たち」。
警備兵はもちろん、本来だったら隣室などに控えているべき直属の部下も。
(……マツカだったら……)
この状況でも残しただろうか、今の自分の身辺に。
国家主席として明日の会談に臨む、キース・アニアンの腹心として。
それともマツカを喪ったから、こうして立っているのだろうか。
赤い満月が見える窓辺に。
ただ一人きりで、警備の兵さえ置きもしないで。
更には、「持っていない」銃。
とうに背後の机に置いた。
武器と言ったら、銃の他には無いというのに。
いくら国家主席のための部屋でも、暗殺を防ぐ仕掛けなどは無い。
今、背後から撃たれたならば、確実に「終わり」。
キース・アニアンの命は潰えて、物言わぬ死体が横たわるだけ。
振り向きざまに応戦するには、「銃」という武器が必須だから。
銃も持たずに刺客と対峙するなど、「人類」には無理なことなのだから。
(…ミュウならば、可能なのだろうがな…)
彼らのサイオン、それは人間の心臓さえも握り潰せる。
指の一本も動かすことなく、一瞬の内に。
(…あのミュウは…)
オレンジ色の髪と瞳を持った、旗艦ゼウスに侵入したミュウ。
マツカを殺してしまったミュウ。
彼は「嬲り殺し」にしようとしたから、サイオンで首を絞めただけ。
殺すだけなら、直ぐに終わっていたのだろう。
マツカが気付いて駆け付ける前に、「キース・アニアン」は死体となって。
それほどの力を持つというのに、使わなかったミュウがいた。
銃弾の雨にその身を晒して、刺し違えることを狙った男。
(……ソルジャー・ブルー……)
今でも、彼を忘れられない。
彼には生涯、勝てはすまいと。
「伝説」と呼ばれるほどの長きにわたって、ミュウの長だったタイプ・ブルー。
なのに自ら「死ぬためだけに」、メギドまで来たソルジャー・ブルー。
彼の真似など、どう転がっても出来はしない。
人類を、組織を守るためには、指揮官たる者、「生き延びなければ」ならないのだから。
(…奴の真似でもしたくなったか…?)
今の自分は最高指揮官、ジルベスターの頃とは比較にならない立ち位置にいる。
明日の朝、国家主席の自分が「死んでいた」なら、会談は「お流れ」では済まない。
戦況はあくまで「ミュウに有利」で、衛星軌道上にある六基のメギドを使おうとしても…。
(グランド・マザーが地球に在る限り、地球に向かってメギドは撃てない…)
主だったミュウが、地球に集っていようとも。
彼らを倒せば、ミュウたちの統率が取れなくなると分かっていても。
それは即ち、「地球がミュウどもに掌握される」のを看過するしか無いということ。
グレイブが指揮する旗艦ゼウスが、まだ地球の衛星軌道上にあろうとも。
艦隊が未だ維持されていても、人類は「地球を失う」だろう。
冷たい瞳の「ソルジャー・シン」は、グランド・マザーを破壊するだろうから。
オレンジ色の髪と瞳のミュウにも、「やれ」と冷ややかに命令して。
(…そうなると分かっているのにな…)
何故、このようなことをしている、と先刻の問いを繰り返す。
自分は何をしているのかと、自分の望みは何なのかと。
まず間違いなく、「刺客」が此処へ来るのだろうに。
ソルジャー・ブルーの仇だと狙う、あの盲目のミュウの女が。
皮肉なものだ、と暗殺者の顔を思い浮かべる。
自分に「死」を運ぶかもしれない女は、あろうことか自分と同じ生まれの「人間」。
あちらがそれを知るかはともかく、自分は既に知ってしまった。
彼女の生まれを、自分と「彼女」の繋がりを。
あの盲目の女を「作った」時の遺伝子データが、自分に継がれていることを。
(…私の「母親」が、私を殺すか…)
息子を殺した母親ならば、神話の時代から幾らでもいるが、とクッと喉を鳴らす。
ギリシャ悲劇の王女メディアも、そうだった。
それが此処でも起こるだけのことで、人類は「指導者」を喪う。
更には地球をも失うのだ、と分かっているのに、何故、暗殺者を待っているのか。
「刺客が来る」ことを察知しながら、警備の者を退けたのか。
(……やはり、あいつの……)
真似だろうか、とソルジャー・ブルーの死に様を思う。
指導者自ら前線に立って、死をも恐れず戦った男。
「奴と同じに死にたいのか?」と、「あの時の銃とは、違うのだがな」と。
刺客が来たなら「銃は其処だ」と言うつもりのそれは、メギドの時とは違うもの。
あれから長い時が経ったし、自分の肩書きも何度も変わった。
銃も同じに変わってしまって、「使いやすい」銃でも、あの時とは別。
けれども、それで「撃たれて死ぬ」のも一興だろう、と思う自分がいる。
そうなったならば、人類は皆、困るのに。
指導者を、国家主席を失い、地球さえもミュウに奪われるのに。
(…私が此処で斃れなくても…)
いずれ、その日がやって来る。
遠からず、宇宙は「ミュウのもの」になる。
グランド・マザーは、自分にそれを明かしたから。
「ミュウは進化の必然なのだ」と、「ミュウ因子を排除するプログラムは無い」と。
あれを聞いた時、崩れた足元。
自分が信じて歩いて来た道、「SD体制の異分子として」ミュウの殲滅を目指した道。
それは「誤り」だったのだと。
時代はミュウに味方していて、自分はそれに抗っただけ。
そうと知らずに、自分が正義のつもりになって。
「正しいことをしているだけだ」と、間違った「逆賊の旗」を掲げて。
(…それでも、私は…)
その道を歩いてゆくしかない。
もうすぐ此処へと来るだろう刺客、彼女と違って「ミュウに攫われはしなかった」から。
人類のエリートの道を歩んで、此処まで昇り詰めたのだから。
自分は責任を果たすべきだし、他に進める道などは無い。
「そのために」作られ、「育てられた」から。
サムを、シロエを、贄にして「今」があるのだから。
それは充分、承知だけれども、こうして自分は「死」を待っている。
自分の命を奪う死神を、あの盲目のミュウの女を。
そのくらいの自由は欲しいものだ、と赤く濁った月を見上げる。
「誤った道」とも知らずに歩いて、これから先も「歩くしかない」。
ならば途中で終わったとしても、道の半ばで命尽きても良かろう、と。
どうせ宇宙はミュウのものになるし、人類は過去のものとなるから。
(…打つべき手は、もう打ったのだからな…)
もしも自分に万一があれば、「これを送れ」と記した圧縮データ。
宛先は「自由アルテメシア放送」、その筆頭のスウェナ・ダールトン。
「キース・アニアン」が会談に臨めず斃れた時には、全宇宙帯域で流れるだろうメッセージ。
ミュウは進化の必然なのだと、「マザー・システムは、時代遅れのシステムだ」と。
あれを見たなら、「心ある者は」立ち上がるだろう。
たとえ人類であろうとも。
「人類はミュウに劣る種族だ」と、突き付けられた側であろうと。
(…さて、どうなる…?)
あのメッセージを、自分は「この手で」スウェナに送信できるのか。
それとも自分の死体を目にした、スタージョン大尉が「送る」ことになるか。
「アニアン閣下の御遺志なのだ」と、その中身さえも確かめないで。
パンドラの箱の蓋を開く結果になるとも、知らないままで。
(…どう転ぼうとも…)
もはや時代は、私の思うようには動かせぬ、と仰ぎ見る月。
此処で死んでも、何も変わらぬなら、「殺される」のも悪くはない。
自分が渡した銃で撃たれるのも、「ソルジャー・ブルーの仇」と命を奪われるのも…。
死神を待つ・了
※フィシスが来るのを承知の上で、キースは待っていたわけで…。どういうつもりだったやら。
サッパリ分からん、と思ったトコから出て来た話。撃たれたら終わってましたよね、アレ?
「ピーターパン…!」
待って、と声を張り上げたシロエ。「行かないで」と。
夜空を駆けてゆく少年。
急いで彼を追い掛けなければ、一緒に飛んでゆかなければ。
ネバーランドへ、夢の国へと。
「子供が子供でいられる世界」へ、ピーターパンの背中を追って。
でないと此処に残されたままで、また牢獄に繋がれる。
二度と空には舞い上がれないで、ネバーランドにも行けないままで。
「待って…!」
ぼくも一緒に連れて行って、と叫んだ声で目が覚めた。
閉じ込められた牢獄の中で、ステーションE-1077の自分の部屋で。
(……まただ……)
行き損ねたよ、と零れた溜息。
夢の中なら、何処までも飛んでゆけるのに。
ピーターパンと一緒にネバーランドへ、時には故郷のエネルゲイアへ。
けれど今夜は行き損ねる夢で、最近、そちらが増えて来た。
(…子供の心を失くしたから…)
ぼくは「大人」になりかけてるから、と涙が溢れそうになる。
テラズ・ナンバー・ファイブに奪われた記憶と、夢の世界へ飛び立つ翼。
成人検査を受ける前なら、何処からだって「飛べた」のに。
ピーターパンの本を開けば、ページの向こうにネバーランドが見えていたのに。
今では「見えなくなった」それ。
大人の社会への入口に立って、「子供の心」を失ったから。
自分では「子供のつもりで」いたって、「違う」と思い知らされる。
ピーターパンの本の向こうに、ネバーランドは「もう見えない」。
どんなに瞳を凝らしてみたって、夢の国の扉は開かないから。
(……夢の中でも……)
行けない日が増えてくるなんて、と悲しくて辛くて、胸が張り裂けてしまいそう。
今夜の夢でも、ピーターパンは行ってしまった。
自分を残して、夜空を駆けて。
印象的な赤いマントの残像、それだけを瞳の中に残して。
(…いつか、ホントに来てくれなくなる…)
ピーターパンは、と痛いくらいに分かっている。
今でさえも「置いてゆかれる」のならば、もっと「大人」になったなら。
もっと背が伸びて、声も男らしい声に変わって、少年らしくなくなったなら。
(…大人は、ネバーランドには…)
行けはしない、と突き付けられる苦い現実。
ピーターパンに置いてゆかれる夢を見る度に、赤いマントを見失う度に。
(きっといつかは、あのマントだって…)
見えなくなって、ピーターパンが夜空を駆ける姿も、見られなくなることだろう。
今は辛うじて残っているらしい、「子供の心」が曇ったら。
すっかりと錆びて大人になって、目に見えるものだけが「世界の全て」になったなら。
(…そんなの、嫌だ…)
それくらいなら、「置いてゆかれる」方がいい。
ピーターパンと一緒に飛んでゆけなくても、ネバーランドに着けなくても。
夜空を駆ける永遠の少年、ピーターパンの赤いマントを見送ることが出来るなら。
その方がいいに決まってる、とベッドから下りた。
まだ夜中だから、充分にある「自由な時間」。
こんな時には本を読もうと、ピーターパンの本がいい、と。
(…ぼくの宝物…)
パパとママが買ってくれた本、とギュッと両腕で胸に抱き締め、戻ったベッド。
その端に腰掛け、膝の上で広げようとした本。
ふと目に入った本の表紙に、アッと息を飲んだ。
其処に描かれた、夜空を駆けるピーターパン。
ティンカーベルもいるし、ウェンディたちも一緒に飛んでいるけれど…。
(……ピーターパンの服……)
マントなんかは何処にも無い、と今頃になって気付いたこと。
そういえば、さっき見ていた夢。
あの夢の中のピーターパンは、この表紙の絵とそっくりだったけれど…。
(服もこの絵とそっくりで…)
何処も変わりはしなかったけれど、夜空の果てに見えなくなる時。
消えてゆく時に残った残像、それは真紅のマントの欠片。
(…マントを着けたピーターパンって…?)
ぼくは知らない、と本のページを繰ってゆく。
挿絵が入ったページに出会えば、手を止めてそれを覗き込んで。
「これも違う」と、「これでもない」と。
どの絵に描かれたピーターパンも、彼らしい服を着ているだけで…。
(……マントなんて……)
挿絵の何処にも描かれてはいない。
しかも「真紅のマント」だなんて、自分は何処で見たのだろうか?
ピーターパンの映画なんかを観てはいないし、知っているのはこの本だけ。
本の端から端まで見たって、「赤いマント」は出て来ないのに。
そらで言えるほど何度も読んだ文の中にも、そんな描写は無い筈なのに。
(…赤いマントのピーターパン…)
この本に、そんなピーターパンがいないと言うなら、夢の中の「彼」は何なのだろう?
まだ見えるような赤い残像、マントの欠片を自分は何処で見たのだろう…?
(…でも、ピーターパン…)
あれは確かにそうだった、と夢の光景を覚えている。
ネバーランドには行き損ねたけれど、ピーターパンを「見ていた」自分。
「ピーターパンだ」と、「ぼくも一緒に連れて行って」と、夜空を駆けてゆく少年を。
考えてみれば、いつも、いつだって「見失う」マント。
ピーターパンに置いてゆかれた時には、いつだって。
(……一緒に飛んでゆける夢なら……)
その夢の中のピーターパンは、本の表紙と同じ服。
本の挿絵とそっくり同じで、赤いマントを見ることはない。
置いてゆかれた夢の時だけ、ピーターパンが残す残像。
それが真紅のマントの欠片で、目を覚ます度に悲しくなる。
「ネバーランド行けなかった」と、「ピーターパンに置いてゆかれた」と。
あまりにも辛い夢なのだけれど。
いつかは赤いマントの欠片も、見えなくなる日が来そうだけれど。
(…ぼくは確かに見たんだから…)
今夜も見たし、今までだって。
追えないままに飛び去る少年、ピーターパンが残してゆく残像は、いつも赤いマント。
目にも鮮やかな真紅のマントの欠片を残して、ピーターパンは消えてゆく。
これだけ何度も、同じ夢を見ているのなら…。
(……きっと、本物のピーターパン……)
彼がそうだ、と閃いた思い。
ピーターパンの本が書かれた時代は、今から遥か昔のこと。
人間が地球しか知らなかった頃で、宇宙船は無くて、馬車が走っていた時代。
その時代からずっと、ピーターパンが今も高い夜空を駆けているのなら…。
きっと服だって変わるだろう。
人間が地球を離れた時から、五百年以上も経っている今。
SD体制が始まるずっと前から、ピーターパンは空を飛び続けている。
ネバーランドに行きたい子供を見付け出しては、一緒に空を飛ぶために。
高い空へと舞い上がるために、地球の夜空を、今の時代は宇宙に広がる幾つもの空を。
(違う服だって、着てみたいよね…?)
長い長い時を駆けているなら、時には違う服だって。
時代が変わってゆくのと同じに、流行りの服も変わってゆく。
ピーターパンの本が書かれた時代と、今の時代の服とでは…。
(まるで違うし、どっちの時代の人が見たって…)
別の時代の服を「変だ」と思うだろう。
本の中で見るなら「普通に」見えても、それを実際、目にしたならば。
(…ピーターパンは、子供の味方なんだから…)
子供が親しみやすい服装、それに着替えてゆくのだろう。
時代が移れば、その時代の子が「素敵だ」と思う類の服に。
そしてSD体制が敷かれた今の時代に、ピーターパンが着ている服は…。
(赤いマントがついているんだよ)
マントを目にする機会は全く無いのだけれども、なんと言ってもネバーランド。
「永遠の少年」のピーターパンは、今の時代は…。
(ちょっと王子様みたいな感じで…)
颯爽と赤いマントを纏って、剣だって下げているかもしれない。
出会った子供が「かっこいい!」と目を瞠るように。
「ぼくも一緒に、海賊たちと戦うんだ!」と、張り切るように。
(…きっとそうだよ…)
ぼくは本物に会ったんだ、と嬉しくなる。
ピーターパンが残した残像、赤いマントの欠片を見たのが「本物」の証。
置いてゆかれてばかりだけれども、ピーターパンには「会えて」いる。
一緒に駆けてはゆけないだけで、「ぼくはまだ、会えているんだよ」と。
ピーターパンにまだ「会える」のならば、「子供の心」を失くしてはいない。
かなり失くしてしまったけれども、消えてなくなってはいない。
(……ピーターパン……)
忘れないようにするから、ぼくも一緒に連れて行って、と願うシロエは気付かない。
遠い昔に、彼が出会った「ピーターパン」。
赤いマントを纏ったミュウの少年、ジョミー・マーキス・シンが「そうだ」と信じたことを。
彼が自分の「ピーターパン」だということを。
ピーターパンが残した欠片は、今もシロエの心の中。
赤いマントの残像になって、いつも、いつだって少年のままで…。
ピーターパンの欠片・了
※シロエが「ぼくは此処だよ!」と呼んでいた「ピーターパン」。ジョミーの思念波通信で。
だったら覚えていたんだろうか、と考えたわけで…。其処から捏造、赤いマントの残像。
(…デカイ顔をしていられるのも、今だけだよ)
キース・アニアン、とシロエが浮かべた皮肉な笑み。
視界の端に、キースの姿を捉えたから。
講義を終えて自分の部屋へと戻る途中で、すました顔で立つ彼の姿を。
「機械の申し子」と異名を取るのが、キース・アニアン。
E-1077始まって以来の秀才、教官たちも挙って彼を誉めるけれども。
(いずれ、このぼくが…)
あいつの成績を全て抜き去ってやる、と心に決めている。
だから今だけ、「キースがトップに立っていられる」のは。
未来のエリート気取りのキースは、いつか「セキ・レイ・シロエ」に敗れる。
(ぼくがE-1077を卒業したら…)
もうその時は、ぼくの方が上だ、と自信を持っている成績。
キースなどには負けないから。
キースでなくても、他の誰にも自分は負けない。
(…誰よりも上に立たない限りは…)
立つことが出来ない、この世界のトップ。
今は空席の国家主席の地位に就くには、キースよりも、誰よりも上に立つこと。
それが絶対、そうでなければ「機械の手駒」にされるだけ。
メンバーズの肩書きを持っていようと、機械に使い捨てられるだけ。
(ぼくが機械に命令するには…)
とにかく、最高の地位が必要。
地球にあると聞くグランド・マザーと対等の立場、それに意見を述べられる地位。
「お前は要らない」と命令したなら、グランド・マザーをも止められる力。
それが欲しいから、ひたすらに上を目指すだけ。
最初に蹴落とし、抜き去る目標、それに決めたのが「キース・アニアン」。
いずれ自分は彼を抜くのだと、此処を卒業したならば、と。
そうして戻った自分の部屋。
ベッドに座って、広げたピーターパンの本。
今の自分の、ただ一つきりの宝物。
成人検査が奪い損ねた、故郷の思い出を形にしたもの。
(…ぼくが忘れてしまっても…)
両親の顔も、故郷の風や光もおぼろになっても、この本は消えずに此処にある。
幼い日に両親に貰った時から、ずっと自分のお気に入りのままで。
(子供が子供でいられる世界を、もう一度…)
歪んでしまった今の世界に取り戻したければ、自分がトップに立たねばならない。
ピーターパンの本を愛する自分が、ネバーランドを夢見た自分が。
(他の奴らや、キースが国家主席になっても…)
何も変わりはしないだろう。
世界は変わらず機械が治めて、子供たちは過去を奪われ続ける。
十四歳になったなら。
「目覚めの日」などと、立派な名前がついている日を迎えたら。
(…何処が目覚めの日なんだか…)
いったい何に目覚めるんだ、と毒づきたい気分。
目覚めるどころか、永遠の眠りに突き落とされてしまったかのよう。
あの日を境に、自分は全てを失ったから。
両親も故郷も、何もかもを。
宝物だったピーターパンの本の他には、何も残らなかったから。
(ぼくみたいな子供が、これ以上、生まれないように…)
いつか自分が機械を止める。
子供たちから両親を、故郷を奪う機械を。
成人検査のための機械も、それを束ねるグランド・マザーも。
ぱらり、と本のページをめくる。
永遠の少年、夜空を駆けるピーターパン。
行けると信じたネバーランドは、今の自分の目には見えない。
子供時代の記憶を失ったせいか、夢見る力を奪われたせいか。
(…でも、それも…)
いつの日か、きっと取り戻す。
地球のトップに立ちさえしたなら、国家主席になったなら…。
(機械がぼくから奪った記憶を、戻させることも…)
出来る筈だし、それだけが励み。
たとえ茨の道であろうと、歩んで地球のトップに立つこと。
まずはキースの成績を抜いて、最高の成績でE-1077を後にすること。
そうしてメンバーズの道に入れば、上には上がいるだろうけれど…。
(キースが今しか、デカイ顔をしていられないのと同じことで…)
誰であろうと、抜き去るだけ。
自分よりも上の地位に立っている者、そういった者を一人残らず。
出来るだけ早く、出来る限りの力を尽くしてトップに立つ。
(ぼくには目標があるんだから…)
そのためだったら、何だって出来る、と繰ってゆくページ。
こうして「宝物の本」を此処まで持って来られたように、努力したなら道は開ける。
そのことを、この本が示しているから。
本当だったら、この本は「此処に無い」筈だから。
(…成人検査の日は、何も持っては行けない、って…)
そう教わるから、誰もが信じる。
何も持たずに家を出たせいで、何も持っては来られない。…故郷からは。
けれど、自分はピーターパンの本と一緒に此処まで来た。
「持って行こう」と手にして出たから、きちんと努力したものだから。
それと同じで、どんな道でも開ける筈。
国家主席に昇り詰めるまでは、けして自分は諦めない。
投げ出しもしない、「努力する」ことを。
どんなに機械が「忘れなさい」と囁こうとも、記憶を消そうと試みようとも。
(…ぼくは忘れない…)
機械に与えられた屈辱、奪われた子供時代の記憶。
両親も故郷も奪った機械を、憎い機械を忘れはしない。
いつか復讐するために。…機械が治める時代を終わらせ、奪われた記憶を取り戻すために。
(…E-1077を卒業したら…)
其処からが本当の戦いになる、と卒業の日を頭に描く。
メンバーズとして此処を出てゆく時を。
候補生の制服に別れを告げて、国家騎士団に入るだろう日を。
(その時までには…)
いろんな意味で抜き去ってやる、と思う「キース・アニアン」。
最上級生のキースは、年相応に背だって高い。
側に来たなら、嫌でも自分は「見下ろされる」形になるけれど…。
(あいつの背だって…)
出来ることなら抜いてやりたい、自分が上から「見下ろせる」ように。
口では「キース先輩」と呼ぼうが、メンバーズとしての役職名で呼び、敬礼しようが。
(ぼくの方が、背が高かったなら…)
もう、それだけで最高の気分になれるだろう。
「この背と同じに、お前だって、じきに抜いてやる」と。
メンバーズの世界では上官だろうと、出世したなら自分が上になる世界。
その日を頭に思い描いて、上からキースを「見下ろして」みたい。
E-1077で暮らす間は、そうすることは無理だけれども。
(あいつの方が、先に卒業して行くから…)
自分の背丈が伸びた時には、もういない「キース」。
今のキースが着ている制服、ああいう上着を自分が纏える頃には、もう。
E-1077に「キース」はいなくて、残念なことに「見下ろせはしない」。
メンバーズとして顔を合わせるまで、自分が此処を卒業するまで。
(……残念だね……)
あいつを見下ろしてやりたいのに、と考えた時に、ふと掠めた思い。
キースが着ているような制服、それを纏った「セキ・レイ・シロエ」は、どんなだろう、と。
背が伸びた自分はどんな姿か、どんな顔立ちの人間なのか。
(今のぼくより…)
大人びていることは確かだけれども、そういう自分を思い描けない。
此処を卒業してゆくくらいの、「大人」の自分。
今よりも大人になった「シロエ」を、「少年ではない」自分の姿を。
(……国家主席になるほどだったら……)
今のキースどころではない、その年齢。
いったいどういう顔なのだろうか、そうなった時の自分の顔は?
「セキ・レイ・シロエ」は、自分は、どういう姿形になってゆくのか。
(…今のぼくなら…)
両親と別れた時の姿と、それほど変わっていないと思う。
此処では「下級生」の立場で、キースたちのような制服もまだ似合わないから。
けれども、あれが似合う年頃に成長したなら、自分の姿はどうなるのだろう?
今の「シロエ」は消えるのだろうか、子供時代の記憶が消えてしまったように…?
(……ぼくの姿も……)
消えてしまったらどうしよう、と捕まった思い。
ピーターパンの本が似合わないような、「大人」の姿になるだろう自分。
此処を卒業してゆく頃には、もうそうなっているかもしれない。
少年の姿を失くしてしまって、「大人」になって。
今のキースを見下ろせるほどの、背丈の高い男になって。
(…そんなのは、今のぼくじゃない…)
今のシロエのままでいたい、と覚えた恐怖。
子供の心を失くした上に、姿まで自分は失くすのかと。
今なら姿は、「子供」時代の面影があるし、まだ失くしてはいないのに。
(でも、いつか…)
それも失くす、と気が付いたから恐ろしい。
自分は未来を目指すけれども、それと引き換えに失くすもの。
いつかキースを蹴落とす時には、もはや持ってはいないだろう「もの」。
(……子供が子供でいられる世界……)
このまま子供でいられたならば、とピーターパンの本の世界に逃げ込みたい。
それでは未来は掴めなくても、「失う」よりは幸せだから。
子供の姿を失くすよりかは、今の姿でネバーランドに行く方が幸せに思えるから…。
いつか失くすもの・了
※「大人になったシロエって、思い浮かばないな…」と、考えた所から出来たお話。
原作ワールドには該当者なしで、どんな顔だか、マジで想像つかないんですけど…!
「マツカ。…コーヒーを頼む」
そう言ってからハッと気付いたキース。「もういないのだ」と。
いったい何度目になるのだろうか、こうして呼んでしまうのは。
可哀相なくらいに優しかったマツカ、彼の名前を。…もういない部下を。
(あいつは優しすぎたのだ…)
どうして私などを庇った、と握った拳。机の下で。
コーヒーのことは、今はもういい。
他の部下を呼んで命じたならば、直ぐに届くと分かっていても。
今は誰とも会いたくはないし、そういう気分。
「マツカはいない」と気付く前なら、普段通りに執務の時間だったのに。
(……マツカ……)
あれほど邪険に扱ったのに。
彼が最後のミュウになったら、「殺すだろうな」とも脅したのに。
それでもマツカは逃げもしないで、ただ忠実に仕え続けた。
彼の仲間を、ミュウを宇宙から殲滅するべく、策を練り続ける上官に。
血も涙も無いと評判の主に、誰もが恐れる「キース・アニアン」に。
(逃げようと思えば、幾らでも…)
逃げ出すためのチャンスはあった。
彼一人、仮に逃げた所で、戦況が変わるわけでもない。
マツカに心は読ませていないし、得られる筈もない国家機密や軍の情報。
(もしも、マツカが逃げていたなら…)
知らぬふりをしておいただろう。
「私が命じた」と、許可なく発進した船を、誰にも追わせないように。
マツカは極秘の任務を果たしに、単身、ミュウの拠点に向かって行ったのだ、と。
それでマツカが戻らなくても、誰も不審に思いはしない。
てっきり殉職したと考え、グランド・マザーも、また疑わない。
そしてマツカは特進したろう、任務の途中で命を落としたのだから。
実際、今ではそうなったマツカ。
身を呈して国家主席を救った側近、そういう栄えある地位に置かれて。
セルジュやパスカルたちに惜しまれ、「どうして逝った」と悲しまれて。
(…何故、その道を選んだのだ…)
答えは分かっているのだけれども、「何故」と問わずにはいられない。
自分はマツカに、「何もしてやらなかった」から。
ただの一度も、素直な言葉を掛けてやりさえしなかったから。
マツカの瞳の奥にいつもあったもの、頑なに「キース」を信じる心。
どんなに冷たくあしらおうとも、厳しい言葉をぶつけようとも。
いつだったか、口にしたマツカ。
「本当のあなたは、そんな人じゃない」と、彼の心を占める思いを。
珍しく、感情の昂るままに。
それさえも切って捨てたのが自分、マツカは真実を言い当てたのに。
誰にも読ませぬ心の内側、それを見抜いていたというのに。
(…あの時くらいは…)
表情を動かすべきだったろうか、マツカに報いてやりたかったら。
心の奥では「早く逃げろ」と、ミュウの母船へ行くよう促していたのなら。
いずれ敗れるだろう人類、道を共にすることなどは無い。
ミュウの母船に辿り着いたなら、彼らはマツカを船に迎えるだろうから。
(もっとも、私が言った所で…)
マツカは、けして逃げたりはしない。
きっと逆らい、声を荒げてでも国家騎士団に残っただろう。
「これが任務だ」と命じたとしても。
ミュウの母船に行くことが任務、「キース・アニアンからの最後の命令だ」と言い放っても。
逃げ出すチャンスも、逃げる手段も、どれも使わずにマツカは残った。
そればかりか、船に入り込んだミュウと…。
(戦った挙句に、殺されたのだ…)
セルジュたちは、「部屋を破壊したのはミュウだ」と信じているけれど。
そうとしか思えぬ有様だったけれど、自分には分かる。
「マツカもあそこで戦ったのだ」と、「何もしないでいたわけがない」と。
侵入者と戦い、サイオンを使い過ぎていたから、マツカは助からなかったろうか…?
かつてミュウの母船から逃れた自分を、マツカはサイオン・シールドで…。
(やったことがない、と言いながらも…)
包んで見事に救ったのだし、きっと能力は高かった筈。
咄嗟にシールドを張れていたなら、マツカはその身を守れただろう。
床に倒れて心肺停止の「キース・アニアン」をも、シールドの中に取り込んで。
どちらも掠り傷さえ負わずに、侵入したミュウが他の兵士たちに見咎められて逃れるまで。
(そうしていたなら、きっとマツカは…)
今もこの船で生きていたろう、コーヒーを淹れてくれたのだろう。
「コーヒーを頼む」と言ったなら、直ぐに。
あの穏やかな笑みを浮かべて、「熱いですから、気を付けて下さい」と。
けれど、そのマツカはもういない。
自分を庇って逝ってしまった、それは無残な死に様で。
幾多の戦場を渡り歩いた自分ですらも、目を覆いたくなるような屍を晒して。
(…そうなって、なお…)
マツカが「キース」を救ったことを知っている。
死の淵の底へ沈んでゆくのを、マツカの手がグイと引き上げた。
恐らく、あれは夢ではない。
「キース、掴まえましたよ」と腕を掴まれたのは。
「ぼくがあなたを死なせない」と、笑みを湛えていたマツカは。
直後に自分が生き返った時、マツカは涙を流したから。
「悲しんでくれた」と、思念(こえ)が聞こえた気がしたから。
(…どうして、あの時…)
素直になれなかったのか。
開いたままだったマツカの瞳、それをこの手で閉じてやったけれど。
悲しみに顔を伏せたけれども、その後、自分が言った言葉は…。
(後始末をしておけ、と…)
ただ、それだけ。
「弔う」のではなくて「後始末」。
マツカはその身を、命を捨てて、自分を救ってくれたのに。
もっと早くに国家騎士団から逃げ出していれば、あそこで死にはしなかったのに。
(…何故、私は…)
「冷徹な自分」を貫いたのか、あの時でさえも。
ただの一兵卒ならともかく、ジルベスター以来の側近のマツカ。
彼の死を悼み、「丁重に弔ってやるように」と命じた所で、誰も異議など唱えはしない。
むしろ上がっただろう、「キース」への評価。
「冷徹無比な破壊兵器でも、忠実な部下には厚く報いてやるらしい」と。
今だからこそ、必要なものが求心力。
他の部下たちからの忠誠、「この人にならばついてゆける」と思われること。
「後始末を」などと言わなかったら、その方面での自分の評価は…。
(…間違いなく上がった筈なのだがな…)
今の自分がそう考えるなら、平静であれば、きっと「そのように振舞った」だろう。
マツカを失ってしまった悲しみ、それが心を覆わなければ。
普段と同じに「冷静なキース」、そんな自分であったなら。
(私らしくもなかったのだな…)
如何にも「キースらしく」見えたろう、あの自分は。
長く仕えた側近の死さえ、「後始末を」と言い捨てて去った自分は。
真に計算高かったならば、逆のことを口にした筈だから。
マツカを丁重に弔うようにと、「後始末」などとは言いもしないで。
動揺のあまり、選び損ねた言葉。
傍目には「キースらしく」見えても、そうではなかった冷たい命令。
(…そのせいで、今も…)
実感できない、「マツカがいなくなった」こと。
忠実なセルジュやパスカルたちは、命令のままに動いたから。
「後始末をと仰ったから」と、彼らが内輪で見送ったマツカ。
破壊された部屋は他の者に任せて、マツカの亡骸を運んで行って。
(二階級特進の証なども…)
添えてマツカを送ったのだろう、二度と戻らぬ死への旅路に。
きっと何処かに墓標も作って、「ジョナ・マツカ」の名を刻んでやって。
(……私は、その場所さえ知らぬ……)
「後始末」のことなど、報告されはしないから。
あの部屋がまだ血まみれの内に、「マツカの死体は片付けました」と来たセルジュ。
「これから部屋の修理であります」と、「当分は区画を閉鎖します」と。
(…何故、あの時に…)
ただ頷いただけだったのか、愚かな自分は。
「待て」と一声掛けさえしたなら、出られただろうマツカの葬儀。
そして上がった「キース」の評価。
「やはり閣下は素晴らしい人だ」と、「忠実な部下には報いて下さる」と。
それが「勘違い」であろうとも。
本当の所は「マツカだからこそ」、弔わねばと考えたのが「キース」でも。
(……行こうと思えば、行けたのだがな……)
私は二度も間違えたのか、と今も悔やまれる自分の選択。
「後始末を」と言い捨てたことと、マツカの葬儀の日時を尋ねなかったこと。
間違えたせいで、今になっても…。
(いないことさえ、私には…)
認識できないままなのだ、と悔やんでも悔やみ切れない思い。
マツカがどれほど大切だったか、こうして思い知らされる度に。
「コーヒーを頼む」と口にする度、それに答えが返らないままになる度に。
どうして自分はこうなのだろうか、いつも間違えてしまうのだろうか。
(…シロエの時にも…)
彼を見逃し損ねたのだ、と思いは過去へと戻ってゆく。
「いつも、私は間違える」と。
他に取るべき道を探らず、いつも間違え続けるのだ、と…。
もういない者へ・了
※マツカがいなくなった後にも、「コーヒーを頼む」と言っていたキース。ごく自然に。
なのに「後始末」という酷い言いよう、無理しすぎだよ、と。弱みを見せられないタイプ。
(…しつこいんだから…)
なんて機械だ、とシロエが叩いた机。
E-1077の個室で、マザー・イライザが消え失せた後に。
感情の乱れを感じ取ったら、「どうしましたか?」と現れる幻影。
機械に監視されている証拠で、心まで盗み見ているそれ。
怒りを口にしてはいないし、何かに記したわけでもない。
けれど、何処からか読み取られる。心を乱してしまった時は。
(…機械なんかに…)
何が分かる、と言いたいけれども、同期生たちは挙って褒め称える。
このステーションのメイン・コンピューター、マザー・イライザの素晴らしさを。
「あんなに優れた母親はいない」と、「何でも理解してくれている」と。
成人検査で彼らが別れた、故郷の養母。十四年間、彼らを育てた母親。
その母よりも「ずっと素晴らしい」と、「必要なものは全て与えてくれるから」と。
慰めに励まし、時には叱って、皆を導くマザー・イライザ。
名前の通りに「母」に相応しいと、彼女こそが「母親の鑑」だとも。
所詮、機械だと思うのに。
膨大なデータを持っているなら、何にでも答えを出せて当然だと思うのに。
(計算も出来ないコンピューターなんか…)
出来損ないだよ、と嘲笑いたくもなるけれど。
実際、笑ってやるのだけれども、そのイライザに悩まされる。
何かあったら、母親面して現れるから。
故郷の母に似せた面差し、それを持っている機械の幻影。
(…人が親しみを覚える姿で…)
現れるように出来ているから、マザー・イライザは母に似ている。
もう顔さえもおぼろにぼやけた、懐かしい母に。
夢の中でしか、その顔立ちを見ることが出来ない、優しかった母に。
マザー・イライザが現れた時に、心に幾らか余裕があったら、描き留める姿。
母の姿に似ているのならば、絵を描く間に本当の母を思い出せるかもしれないから。
ある日突然、「これがママだ」と思う姿を、描ける日が来るかもしれないから。
(でも、あれは…)
母の姿を真似てみせるだけの、忌まわしい機械。
幻影が現れるのはまだマシな方で、コールを受けてしまった時には…。
(…呼び出される度に、何か失う…)
そう確信している、イライザのコール。
マザー・イライザが姿を現す、ガランとした部屋。女性の彫像が置かれた場所。
大理石のように見える室内、其処が一面の草原のようになったなら…。
(ベッドが出て来て、其処に寝かされて…)
眠りなさい、と命じる言葉に逆らえない。
どう頑張っても、歯を食いしばって抗ってみても、引き摺り込まれる眠りの淵。
歌うように響く、マザー・イライザの声。
「導きましょう」と。
より良い道へ進めるようにと、「それが私の役目ですから」と。
コールを受けて呼ばれた者たち、彼らは誰でも口を揃えてこう言うもの。
「コールの後では心が晴れる」と、叱られた時でも晴れやかな顔で。
(…そりゃあ、軽くもなるだろうね)
マザー・イライザは、「悩みの種」を心から消してしまうのだから。
時には悩みがあったことさえ、分からなくなるほどだから。
(呼ばれて喜ぶ奴らはいいけど、ぼくの場合は…)
失うものが多すぎるんだ、と噛んだ唇。
コールの度に薄れて消えてゆく記憶、辛うじて心に残っていたもの。
成人検査を受けるよりも前に、自分が心に刻んだもの。
それが少しずつ消えてゆくのは、マザー・イライザが端から消してゆくからなのだ、と。
なんとも忌々しい機械。
心を盗み見、記憶まで奪ってゆくコンピューター。
どうして此処の候補生たちは、あんな機械に従えるのか。
従うどころか、「母親のように」慕えるのか。
けれど、そう思うのは、どうやら自分一人だけ。怒り、苛立つのも自分だけ。
そんな自分を従わせようと、あの手この手のマザー・イライザ。…そう、今日のように。
「どうしましたか?」と親切そうに現れてみては、心に入り込もうとして。
(…ぼくは、機械に隙なんか…)
見せるもんか、と握り締める拳。
心の弱さを見せたら負けると、大切なものを失うだけだと。
成人検査で、テラズ・ナンバー・ファイブに記憶を奪われたように、きっと此処でも。
ある日、気付いたら、両親や故郷を懐かしむ心も、すっかり失くしているだとか。
他の候補生たちがどうであろうと、ぼくは機械に懐きはしない、と誓った心。
友達の一人もいないままでも、かまわないから、と思って生きて。
(…迷える子羊…)
とある講義で、耳慣れない言葉を聞かされた。
エリート候補生を育てるためには必須の科目の、宗教学概論。
機械が治める時代とはいえ、人には「神」が必要なもの。
その「神」について教える講義で、教官が話した聖書の一節。
(百匹の羊を飼っている人がいて、その中の一匹が迷子になって…)
行方不明になってしまったなら、残りの九十九匹を置いて、探しに行くのが神だという。
何処に行ったか分からない羊、それを探しに。
あちこち探して見付け出したら、その一匹のために「とても喜ぶ」ものだとも。
それほどに神は慈悲深いもの、というのが講義のポイント。
人間は誰もが神の羊で、神は「心優しき牧者」だとも。
(……神様ね……)
本当に神がいると言うなら、救って欲しいと心から思う。
機械の言いなりになって生きる人生、こんな地獄から一刻も早く。
自分以外の九十九匹、それが安穏と暮らしているなら、彼らのことは放っておいて。
今も荒野を彷徨い続ける、迷ってしまった「セキ・レイ・シロエ」という羊を。
(だけど、神様は助けになんか…)
来やしない、と部屋に帰っても波立つ心。
神様よりかは、きっと頼りになると思えるのがピーターパン。
夜空を飛んで来てくれる彼は、神よりもずっと頼もしい。
(ピーターパンは子供の味方で、ネバーランドに連れてってくれて…)
羊を飼ってる神様よりも、本当に頼りになるんだから、と思った所で気が付いた。
百匹の羊を飼っている神と、其処から迷い出た一匹の羊。
(…マザー・イライザと、ぼくみたいだ…)
九十九匹の羊は大人しく群れているのに、行方不明の羊が一匹。
好奇心旺盛な羊だったか、はたまた何かに驚いたのか。
いずれにしても群れを離れて、放っておいたら狼の餌食かもしれないけれど…。
(羊には羊の都合ってヤツが…)
存在しないとどうして言える、という気分。
マザー・イライザが羊飼いなら、自分だったら全力で逃げる。
逃げ出した先が荒野であろうと、狼の遠吠えが響こうとも。
(…食べる草なんかは何処にも無くって、飢えて死んでも…)
このまま飼われて、記憶を全て失うよりかは、ずっといい。
狼の餌食になったとしたって、懐かしい故郷を、両親の記憶を失くさないままで死ねるなら。
(飼われたままだと、いつか何もかも…)
失くしそうだ、と恐れる自分。
だから抗い、逆らうけれど。
マザー・イライザを嫌うけれども、追って来るのが憎らしい機械。
何処へ逃げようとも、「どうしましたか?」と。
幻影を見せて追って来る日や、コールサインで呼び出される日や。
本当に恩着せがましい機械。
迷い出た羊は放っておいてくれればいいのに、しつこく探しに来る機械。
(…そんな機械に懐いてる奴は…)
羊なんだ、と掠めた思い。
「此処にいるのは、みんな羊だ」と、「マザー牧場の羊なんだ」と。
神に飼われた羊だったら、まだしもマシな気がするけれど。
人間は誰でも神の羊ならば、それに異論は無いけれど。
(…神様ならいいけど、機械に飼われている羊なんか…)
ただの屑だ、と思えてくる。
機械の言いなりに生きている羊、自分自身の考えさえも無さそうな「群れた羊」たち。
マザー・イライザが導くままに、右へ左へと歩いてゆく。
九十九匹で群れを作って、行方不明の一匹のことは考えもせずに。
(…羊だよね…)
此処にいる候補生たちは、と唇に浮かべた皮肉な笑み。
マザー・イライザが連れ歩く羊、「マザー牧場の羊」たちが暮らすステーション。
連れて来られて間もない間は、群れから離れてゆきそうな羊もいるけれど…。
(じきにイライザに飼い慣らされて…)
マザー牧場の羊になるんだ、とクックッと笑う。
「そんな道は、ぼくは御免だね」と。
神が羊を飼っているなら、その羊でもいいけれど。
機械仕掛けの羊飼いには、けして自分は懐きはしない。
一匹だけ群れをはぐれた挙句に、荒野で飢え死にしようとも。
狼の牙に喉を裂かれて、血染めの最期を遂げようとも…。
イライザの羊・了
※シロエと言えば「マザー牧場の羊」発言ですけど、羊なんか何処で見たんだろう、と。
エネルゲイアに羊の群れはいそうにないし、と思った所から出来たお話。羊ならば聖書。
