(あと三年と…)
何ヶ月なんだ、とシロエが部屋で折ってみた指。
このステーション、E-1077を卒業できる日までの日数は、と。
(…まだ、かなり先…)
それでも昨日よりかは一日減った、という気分。
たまに、こうして夜に数える。思い立った日に、残りの日々を。
毎日などは、とても数えていられない。そんなことをしたら、持たない神経。
「気が強いシロエ」を演じてはいても、本当の中身は「子供時代のまま」だから。
両親の姿を夢に見た日は、「パパ、ママ…」と涙を零すような子供。
その大切な両親の記憶を機械に消されて、もうどのくらい経つだろう。
目覚めの日から今日までの日数、それを四年から引いた残りが「卒業できる日」までの日数。
悲しい数字を伴う計算、毎日のようにやりたくはない。
そうでなくても、今は地獄の日々だから。生き地獄を生きているのだから。
(…マザー・イライザ…)
今も何処かで監視している、あの憎い機械。
母の姿を真似て現れる、恩着せがましいコンピューター。
今の自分は「あれ」の言いなり、従わされて生きてゆくしかない。
どんなに抗い、逆らってみても、「従っている」自分の姿が見えてくる。
少しばかり距離を置いたなら。…今の「自分」を見詰めたら。
優秀な成績を収めたならば、マザー・イライザの思惑通り。憎い機械の意のままの自分。
E-1077というステーションは、エリートのための最高学府。
より優秀な者が出るほど、マザー・イライザの評価が上がる。
機械に鼻は無いのだけれども、鼻高々になるマザー・イライザ。
優秀な生徒が現れる度に、素晴らしい候補生たちを育てて、此処から送り出す度に。
そう、自分だって、マザー・イライザの手駒の一つ。
マザー・システムを痛烈に批判してみても、成績優秀な生徒だったら…。
(…ぼくをコールして、叱ったことさえ…)
地球の上層部に隠しておいたら、マザー・イライザは無失点。
むしろ褒められもするだろう。
地球を治めるグランド・マザーに、「よくやりました」と。
「そのままシロエを育てなさい」と、「今後に期待しています」とも。
じきに卒業するキース・アニアン、「機械の申し子」と呼ばれるほどの未来のメンバーズ。
彼の成績を幾つも抜いた自分は、どう考えても「優秀」だから。
キースよりも四年遅れて此処を出てゆくエリート、そうなるだろう理想の候補生。
いい成績を取れば取るほど、マザー・イライザを喜ばせる。
(ぼくの態度を隠しさえすれば…)
二人目のキースとも呼べるエリート、それを「育成中」だから。
反抗的な今の態度も、「いずれ収まる」と思っていそう。
何度もコールを繰り返していれば、思いのままに導いたなら。
逆らおうと足掻き続ける激しい感情、それに終止符を打てたなら。
(そう簡単に…)
言いなりになんかなりやしない、と唇をきつく噛むけれど。
機械に操られてたまるものかと思うけれども、きっと今日だって「喜ばせた」。
キース・アニアンが残した記録を、また一つ自分が塗り替えたから。
E-1077始まって以来の点数を取って、教官に褒められたのだから。
(ぼくは、マザー・イライザを喜ばせるために…)
勉強しているわけじゃない、と叫んでみたって、結果が全て。
「セキ・レイ・シロエ」という優秀な候補生、それを擁するステーション、E-1077。
グランド・マザーへの報告の度に、マザー・イライザは得意満面だろう。
「キースの次にはシロエがいます」と。
「四年後にはシロエを送り出します」と、「優秀なメンバーズになってくれるでしょう」と。
自分の成績が上がってゆくほど、マザー・イライザの評価も上がる。
つまりはマザー・イライザの手駒、キースと何処も変わりはしない。
(従順な生徒か、そうでないかというだけで…)
このステーションから送り出せたら、マザー・イライザには「同じこと」。
とても優秀なメンバーズを育て、無事に卒業させたのだから。
将来の地球を導く人材、それを「二人も」送り出したことになるのだから。
(…ぼくが勉強すればするほど…)
マザー・イライザを喜ばせる。…マザー・イライザの評価が上がる。
なんとも皮肉な話だけれども、それが真実。
「いつか機械に復讐する」ために積んでいる努力、懸命に目指すメンバーズ。
その先に続くだろう道だって、順調に歩むつもりだけれど。
キースを追い越し、蹴落としてやって、国家主席に昇り詰めるのが目標だけれど。
(…国家主席になって、機械を止める時まで…)
機械に奪われた記憶を取り戻す日まで、きっと傍目には「機械の言いなり」。
上手く躱して生きていたって、機械の目から見たならば…。
(…成績優秀な候補生の後は、とても優秀なメンバーズ…)
そういう存在でしかない自分。
ドロップアウトでもしない限りは、マザー・イライザの「自慢の生徒」。
何処まで行っても「マザー・イライザが育てた生徒」で、その烙印は消えてくれない。
いつか機械に牙を剥くまで、機械に「止まれ」と命じる日まで。
まだ三年と何ヶ月もある、此処での日々。
マザー・イライザに力ずくで抑え込まれる屈辱、それに歯を食いしばって耐える年月。
ようやっと自由になれる日が来ても、今度はグランド・マザーが来る。
(メンバーズは、グランド・マザーの直属…)
どんな形で抑えに来るのか、果たして自分は逆らえるのか。
今でさえもマザー・イライザの手駒、抗い、もがき続けていても。
力の限りに逆らっていても、結果だけを見れば「マザー・イライザの勝利」でしかない。
マザー・イライザの評価が上がって、喜ばせているだけだから。
いい成績を取れば取るほど、そうなるから。
(…それと同じ日々が、これから先も…)
無限に続いてゆくのだろうか、このステーションを卒業したら…?
メンバーズになって、グランド・マザーの直属の部下になったなら…?
(……嫌だ……)
今の地獄がまだ続くなんて、とギュッと拳を握ったけれども、それ以外には見えない道。
もしもドロップアウトしたなら、地球への道は開けない。
国家主席になれはしなくて、失くした記憶は取り戻せない。
機械に「止まれ」と命じる力も、その権限も、持てずに何処かで力尽きるだけ。
ただのつまらない軍人になるか、教官にでもなって終わりの人生。
(…それだと、本当に機械の言いなり…)
生きた証もありやしない、と思ってはみても、それが嫌なら地獄への道。
いつ果てるとも知れない道を、ひたすら歩んでゆくしかない。
E-1077で三年と何ヶ月かを過ごして、卒業したらメンバーズ。
マザー・イライザの手から自由になったら、今度はグランド・マザーの手の中。
そうしてもがいて、もがき続けて、いつになれば自由になれるのだろう?
いったい何年、茨の道を歩き続ければいいのだろう…?
(…考えただけでも、気が滅入りそうだよ…)
此処での三年と何ヶ月かの残り日数、それさえも「永遠」に続くかのように見えるのに。
まるで果てのない道に見えるのに、まだその先へと続く地獄の日々。
いくら歩いても終わりが見えない、「機械の手駒」として生きてゆく道。
それに自分は耐えられるのか、上手く歩んでゆけるのか。
(……歩くしかないなら、歩くけれども……)
誰か終わりを教えて欲しい、と折ってみる指。
何年耐えれば、国家主席になれるのか。
子供時代の記憶を全て取り戻して、憎い機械を止められるのか。
(…それさえ分かれば…)
まだ耐えようもあるというのに、と考えてみても、見えない「終わり」。
自分の未来は果てのない地獄、E-1077を卒業しても。
メンバーズの道に足を踏み入れ、エリートとして歩み始めても。
(……全部、傍目には機械の言いなり……)
そして機械が得をするだけ、と分かっていたって、歩くしかない。
この屈辱にまみれた道を。
機械に頭を押さえつけられ、這いつくばって進む、泥の中に伸びてゆく道を。
いつか見えるだろう「終点」までは、此処から逃れられないから。
国家主席になりたかったら、機械の手駒として生きる他には、道は何処にも無いのだから…。
機械の手駒・了
※本当は別の意味で「マザー・イライザの手駒」だったシロエ。連れて来られた時から。
けれどシロエは知らないわけで、いい成績を取れば取るほど地獄。機械の手駒。
(ミュウの女か…)
そして私だ、とキースが脳裏に浮かべた光景。
今はもう無い、E-1077で見たモノ。遠い昔にシロエがその目で確かめたもの。
フロア001に並んだ標本、どれも同じ顔をした男と、それに女が何体も。
マザー・イライザが「サンプル」と呼んだだけあって、胎児から成人までが揃った標本たち。
一つ間違えたら自分もあそこに並んだだろう、と今日までに何度思ったことか。
けれど自分は生きているのだし、「生かされた」とも言える人生。
(ならば歩むしか無いのだろうな)
自分の道を、と分かってはいる。
任務に忙殺される昼間は、いつも忘れている光景。自分の生まれも、あの「ゆりかご」も。
シロエはあそこを「ゆりかご」と言った。自分はあそこで「育った」モノ。
成人検査を受けることなく、E-1077に候補生として入れる年まで。
それをこうして思い出す夜も、けして珍しくはないのだけれど。
側近のマツカを下がらせた後は、たまに考えもするけれど。
(…待てよ?)
その夜は、心に引っ掛かった。あの「ゆりかご」の光景が。
ズラリと並んでいた標本。自分と同じ顔の男と、ミュウの母船で出会った女。
(マザー・イライザ…)
自分が処分した、あの機械。マザー・イライザに似ていた女。
彼女はミュウの母船にいた。捕虜とは違って、並みのミュウより上の扱い。
(…どうしてミュウの母船などに?)
他人の空似でないことは分かる。
囚われた時に、ガラス越しに彼女と触れ合わせた手。
其処から流れ込んだ記憶は、寸分違わず自分と同じだったから。
水の中に浮かび、同じ歌を聴いていたのだから。
ミュウの母船に乗っていた女。
自分と同じ生まれの筈で、機械が無から作った生命。
三十億もの塩基対を繋ぎ、DNAという鎖を紡ぐ。マザー・イライザはそう言った。
ならば機械が「ミュウを作った」ことになるのか、彼女がミュウの船にいたなら。
(…ミュウ因子の排除は不可能だと聞くが…)
そう、現代科学をもってしても。
最先端の技術を駆使してみても、ミュウの因子は排除できない。
だからこそミュウは生まれ続けて、それを異分子として処分するのが人類の役目。
機械が作っても「生まれる」のならば、本当に排除できないのだろう。
あの目障りな生き物は。
星の自転も止められるという、忌まわしい力を持つ化け物は。
(…ソルジャー・ブルー…)
ああいうミュウもいるのだがな、と彼の見事な死に様を思う。
自らの命を犠牲にしてまで、メギドを沈めたタイプ・ブルー・オリジン。
けれど彼とて化け物なのだし、自分は「負けた」というだけのこと。
あの生き様が羨ましくても、所詮はミュウ。…所詮、化け物。
其処まで思いを巡らせた時に、ふと思い出した。
ミュウの母船から逃げ出した時に、人質に取ったあの女。
ソルジャー・ブルーは、あの女をとても気にかけていたようだから…。
(…同族と気付いて、攫って逃げたか…)
それも面白い、とクックッと笑う。
ミュウは必ず処分されるし、あの女を攫って逃げたとしたなら、さしずめ「白馬の王子様」。
ソルジャー・ブルーはそれを気取って、何処かに忍び込んだだろうか、と。
(E-1077では有り得ない…)
ならば何処だ、と考えた場所。
ミュウの女は何処で育って、ソルジャー・ブルーが連れ出したかと。
「白馬の王子様」は何処に出たかと、それを知るのも面白かろう、と。
最初はそういう思い付き。
単なる気まぐれ、あの実験はどういう類のものだったか、と。
E-1077を処分した時は、データを取りはしなかった。
コントロールユニットを破壊しただけ、標本どもを維持する装置を壊しただけ。
後はグランド・マザーの命令通りに、E-1077そのものを爆破した。
あそこから近かった惑星の上に、真っ直ぐ落として。
自分を作ったマザー・イライザ、「ゆりかご」の主をマザー・ネットワークから切り離して。
(何も取っては来なかったが…)
グランド・マザーはデータを残しているだろう。
そして望めば、情報は開示される筈。
(E-1077だ…)
手掛かりはそれ、と辿ってゆく。フロア001、其処で行われていた実験、と。
目指すデータは直ぐに出て来た。
「キース・アニアン」を作った実験。
いつからあそこでやっていたのか、関わった者たちは誰なのか。
水槽越しに見た研究者の顔も、その中にあった。
案の定、事故死していたけれど。
自分が水槽から出されて間もなく、E-1077を離れる途中で。
他の研究者たちも一緒に乗っていた船、それが見舞われた衝突事故で。
(……やはりな……)
証拠を残すわけもない、と予想していた通りの結末。
「キース・アニアン」が誰かを知るのは、今ではグランド・マザーだけ。
候補生として生き始めた時点で、マザー・イライザとグランド・マザーの他には…。
(…誰もいなかったというわけか…)
シロエがそれを見出すまで。
彼をフロア001で捕らえた保安部隊の者まで、ご丁寧に事故死している有様。
機械は徹底しているらしい。「キース・アニアン」の秘密を守るためには。
キース・アニアンを其処まで守り抜こうと言うなら、ミュウの女も同じだろう。
ソルジャー・ブルーが攫った後には、消されただろう研究者たち。
(…こちらもそうか…)
実験の場所はアルテメシアか、と納得した答え。
其処で始めた「無から生命を作る」実験。
けれど失敗作が生まれて、ソルジャー・ブルーに攫われる始末。
これでは駄目だ、と実験の場所は宇宙に移った。
マザー・イライザに全てを委ねて、サンプルも全て引き渡して。
(なるほどな…)
あの「ゆりかご」で生まれた時から、目の前にあった「ミュウの女」の標本。
研究者よりも身近なものだし、マザー・イライザが似た姿にもなるだろう。
ミュウの女とマザー・イライザ、まるで正反対なのに。
機械が無から作ったものでも、「ミュウの女」は命あるもの。
マザー・イライザは機械なのだし、命を持っていないもの。
その上、排除されるべきミュウと、排除する側のコンピューター。
なんと皮肉な話だろうか、相反するものが「似ていた」とは。
(…無から作っても、ミュウは生まれる…)
ミュウ因子を排除できないだとは、と歯噛みするしかない現状。
確実に力をつけ始めたミュウ、彼らを宇宙から一掃するには因子の排除が最善なのに。
それさえ出来たら、次の世代のミュウは生まれて来ないのに。
(奴らが始めた、非効率的な自然出産…)
あの程度ではミュウの行く末は見えている。
因子さえ排除してしまえたなら、彼らに同調する者たちは出ないから。
何処の星でもミュウは生まれず、二度と生まれて来はしないから。
(だが、現代の科学では…)
不可能なのだ、と握り締めた拳。
最善の策だと分かってはいても、人は打つ手を持たないのだと。
やむを得ない、と眺めた「ミュウの女」を作ったデータ。
遺伝子データも取ってあったし、それを子細に分析したならミュウ因子も分かりそうなのに。
無から作った生命だけに、交配システムで生まれたものより分かりやすい筈。
それでも駄目か、と「科学の限界」を睨み付けていて気が付いた。
(…この女のデータ…)
遺伝子データは、彼女限りで終わりになったわけではなかった。
次の代へと引き継がれていて、E-1077で作り出された「男」。
「男」のデータは一つしか無くて、どれもが「キース・アニアン」に続く。
幾つものサンプルを生み出した末に、「キース・アニアン」と呼ばれる者へと。
(…それでは、私は…)
あの女の遺伝子データを元に作られたのか、と知ったらゾクリと冷えたのが背筋。
「ミュウの女」の遺伝子データを継いでいるなら、「ミュウ因子」も継いでいそうなもの。
けれども自分はミュウとは違うし、サイオンなども持ってはいない。
第一、「ミュウになりそうな危険」があるというなら、遺伝子データを使いはしない。
それを「取り除けない」というのなら。
ミュウの因子は特定不可能、排除は無理だというのなら。
(…それなのに、何故…)
あの女のデータを使ったのだ、と生まれた不安。
「ミュウの因子は排除できるのではないのか」と。
それを取り除いて作られたのが「キース・アニアン」、此処にいる自分なのではないかと。
(……まさかな……)
まさか、と思うけれども、生まれた不安は拭えない。
「ミュウの女」を確かに見たから、自分は彼女の遺伝子データを受け継いだから。
(…ミュウ因子が特定されているなら…)
グランド・マザーは嘘をついていることになる。出来る筈のことを「出来ない」と言って。
いつか直接確かめねば、と考えはしても、まだ早い。
もっと力をつけないことには、真実はきっと聞けないから。
国家主席に昇り詰めるまで、グランド・マザーは人間如きに何も語りはしないだろうから…。
ゆりかごの因子・了
※排除不可能だというミュウ因子。フィシスがミュウなら、遺伝子データを継いだキースは?
ミュウ化する危険を帯びているわけで、普通はデータを使わない筈。自信が無ければ。
(…記憶が無い…?)
シロエが耳を疑った言葉。候補生たちがしていた噂話。
成人検査前の記憶を一切、持たないというキース・アニアン。
頭の中に何も無い分、色々なことを詰め込めるのだ、と。
彼が成績優秀な秘密は「それ」だとも。
(…記憶って…)
皮肉なことに、その「記憶」のことで苦しんでいた真っ最中。
どんどん薄れてゆく自分の記憶。
懸命に繋ぎ止めようとしても、実感が伴わなくなってゆく故郷の景色。
いずれ自分も全て忘れて、飼い慣らされてしまうのかと。
マザー・イライザの言いなりになって、「マザー牧場の羊」の群れの一匹に。
だから余計に癇に障った。
「過去の記憶を持たない」キースが。
元から嫌っていたのだけれども、いつも以上に。
苛立ちながら戻った部屋。E-1077での、自分の個室。
此処は自分の部屋だけれども、もっといい部屋を持っていた。
E-1077に連れて来られる前は。
故郷の家で、両親と暮らしていた頃には。
(……ぼくの部屋……)
居心地の良かった子供部屋。
けして豪華ではなかったけれども、物心ついた時には自分の部屋を持っていた。
大抵は「其処にいなかった」けれど。
母が料理をしている所を眺めていたり、母の姿が見える所に座っていたり。
父が仕事から戻った時には、両親の側を離れなかった。
眠る時間が訪れるまで。
「もう寝なさい」と、二人に優しく言われるまで。
(…もっと大きくなってからでも…)
趣味にしていた機械いじりや、勉強の時間。
それを除けば、あまり部屋にはいなかった記憶。
居心地のいい部屋だったけれど、もっと素敵な部屋が家にはあったから。
父や母たちがいた部屋に行く方が、ずっと心地が良かったから。
(…パパ、ママ……)
会いたいよ、と呟いてみても、顔もおぼろになった両親。
二人の顔を見たいのに。
眠って夢の中にいたなら、二人ともちゃんと顔立ちが分かる姿なのに。
機械に消されてしまった記憶。
成人検査で、テラズ・ナンバー・ファイブのせいで。
(…ぼくがこんなに苦しんでるのに…)
苦しみながらも、懸命に続けている勉強。
このステーションでトップに立って、メンバーズ・エリートに選ばれること。
それを目指して、その日だけのために歯を食いしばって。
本当だったら、両親の夢を見られるベッドでずっと眠っていたいのに。
勉強するような時間があったら、夢の中で見られる故郷にいたい。
そうでなければ、大切なピーターパンの本。
宝物の本のページだけを繰って、ネバーランドを夢見ていたい。
勉強などをするよりも。…余計な知識を叩き込まれて、過去を忘れてゆくよりも。
(でも、そうするしか…)
今の所は見えない希望。
メンバーズになって、順調に昇進したならば。
上へ上へと昇り続けて国家主席の座に就いたならば、もはや誰からも受けない指図。
地球のトップに昇り詰めたら、憎い機械を止めてやること。
それが目標、「ぼくの記憶を全て返せ」と命じた後に、マザー・システムを止めること。
失くした記憶を取り戻すために。
子供が子供でいられる世界を、もう一度宇宙に作り出すために。
(…そのために、ぼくは必死になって…)
夢と現実の狭間でもがいて、毎日が戦いの日々なのに。
今も苦しみ続けているのに、キースには「過去が無い」という。
よりにもよって、それが自分のライバルだなんて。
過去にこだわり続ける自分と、「過去を忘れた」薄情な奴との戦いだなんて。
何も覚えていないのだったら、きっとキースは楽なのだろう。
戻りたい場所も、会いたい人も、キースは何一つ持ってはいない。
(その分だけ、知識を詰め込めるって…)
だから成績優秀なのだ、と噂していた候補生たち。
成績のことは、羨ましいとも思わない。
過去と引き換えに賢くなっても、自分は嬉しくないだろうから。
たとえキースを抜き去れるとしても、今のぼやけた過去を手放したくはないから。
(…だけど、最初から欠片さえ…)
残らないほどに過去を失くしていたなら、自分だってきっと楽だった。
キースがそうであるように。
何の疑いもなく機械を信じて、「機械の申し子」と呼ばれるように。
(ぼくだって、全部忘れていたなら…)
今頃は此処でこうしていないで、勉強していることだろう。
「もっと賢く」と、「もっと知識を」と。
過去を持たないなら、今と未来があるだけだから。
機械が指し示す未来への道を、真っ直ぐ進んでゆくだけだから。
(過去があるから…)
こうして捕まる、自分のように。
帰りたい過去を持っているから、生きることさえ辛く感じる時だってある。
機械の言いなりになって生きる人生、そんなものに意味はあるのかと。
こうして苦しみ続けるよりかは、幼い間に死んでいた方が良かったとさえ。
(記憶を消されるより前に…)
成人検査を受けるより前に、子供の間に死んでいたなら、幸福だったと思うから。
…両親は悲しんだとしても。
両親との別れは辛かったとしても、忘れてしまって苦しむよりは。
どうして「キース」だったのか。
過去を忘れて、何も持たない人間になってしまったのは。
元からこだわりそうに見えないキースが、何故、その幸運を手に入れたのか。
(…あいつも、ぼくと全く同じに…)
苦しみもがいて生きているなら、まだ幾らかは気が紛れもする。
どんなに平静を装っていても、部屋に戻れば苦しむキースがいるのなら。
薄れた記憶の中の両親、それに故郷を求めるキースがいるのなら。
けれど、そうではなかったキース。
何もかも全て忘れてしまって、ただ未来へと歩いてゆくだけ。
忘れてしまった過去の分だけ、新たな知識を空白の中に詰め込んで。
機械の手口を疑いもせずに、マザー・イライザが導くままに。
(…どうして、あいつだったんだ…!)
そんな幸せな人生を掴んでいる奴が、と悔しさのままに机にぶつけた拳。
過去など持っていないだなんて。
自分は過去にこだわり続けて、取り戻すために生きているのに。
生きる意味など無さそうな生を、いつか来るだろう「機械を止めてやる」日のために。
歯を食いしばって屈辱に耐えて、マザー・イライザの手の中で生きる。
「今はこれしか道が無いんだ」と、「メンバーズになるには、そうするしかない」と。
なのに、メンバーズへの道を約束されたも同然のキース。
彼は持ってはいない過去。
幸運なことに、全て忘れてしまったから。
成人検査の係が何かミスでもしたのか、キースがあまりに無防備だったか。
(何にしたって…)
あいつはとても幸せなんだ、と怒りの炎が噴き上げるよう。
過去を持たないなら、キースは自分と同じに苦しんだりはしないから。
機械の言いなりに生きる人生、それもキースは疑いさえもしないだろうから。
なんて奴だ、と憎らしいけれど。
八つ裂きにしたいほどだけれども、キースが失くした過去というもの。
それを自分が失くしていたなら、きっと幸福に生きられる。
今の苦しみは消えてしまって、「さあ、勉強だ」と机に向かって。
「パパ、ママ? それって、どういう人たちのこと?」と、首を傾げる程度のことで。
両親も故郷も忘れたのなら、そうなるけれど。
今よりも楽に生きられるけれど、キースを憎いと思うけれども…。
(…ぼくがパパとママを忘れていたら…)
それに故郷も忘れていたなら、「セキ・レイ・シロエ」は何処にもいない。
両親に貰った「セキ」も「シロエ」も、ただの記号になってしまって。
名前はどういう意味を持つのか、それも分からなくなってしまって。
(…そんなシロエになるよりは…)
苦しくても今のままでいい。辛くても、辛い人生でいい。
キースを羨ましいと思いはしたって、「取り替えたい」とは思わないから。
過去を全く持たない人生、それを一瞬、羨みはしても、欲しいと思いはしないから。
(…キース・アニアン…)
幸福な奴、と吐き捨てる。
それに似合いの嫌な奴だと、「過去を持たない人間は違う」と。
とても味気ない人生だよねと、「そんなの、ぼくは御免だから」と…。
過去が無ければ・了
※キースが「過去を持っていない」ことを知った時のシロエは、記憶探しの最中だったわけで。
怪しいと思って調べ始める前には、こういう時間もあったのかな、と。…シロエだけに。
「セキ・レイ・シロエが逃亡しました」
その声で我に返ったキース。
いつの間にやら消え失せていた、マザー・イライザが紡ぐ幻影。それに姿も。
「追いなさい」と命じる冷たい声。
いったいシロエは何処へ逃げたのか、此処から何処へ行けるというのか。
E-1077の周りは宇宙で、行ける場所など無いのだから。
それにシロエはまだ…、と考えたけれど。
「反逆者を逃がすわけにはいきません。…命令です」
マザー・イライザの声で気が付いた。
シロエが逃げ出した先は「宇宙」なのだと。
(……シロエ……)
そんな、とグッと握り締めた拳。
マザー・イライザが言う「反逆者」。
もうそれだけで決まったも同じな、シロエの運命。
反逆者という言葉が指すのは、「SD体制に逆らう者」。
そうなったならば、ただ「処分」されるだけ。
まして逃亡したとなったら、言い逃れる術は無いだろう。
…どんなに庇い立てしても。
メンバーズに決まった自分の将来、それを振りかざして庇おうとも。
(…マザー・イライザ…)
仰いでも、其処にあるのは彫像。さっきまでの幻影とは違う。
消えてしまったマザー・イライザ、「話を聞く気は無い」ということ。
ただ命令に従えとだけ、その彫像が無言で告げる。
それが使命だと、「行きなさい」と。
ならば、行くしかないのだろう。
心は「否」と拒否していても。…この身がそれを拒絶していても。
誰かが代わってくれればいい。誰でもいいから、と乱れる心。
マザー・イライザのいる部屋を出た後、格納庫へと向かう途中で。
(…反逆者を追うだけならば…)
なにも自分でなくともいい筈、もっと相応しい者たちが存在している筈。
シロエを逮捕し、連れ去って行った保安部隊の隊員たち。
彼らだったら迷うことなく、シロエを追ってゆけるだろう。
飛び去った船を見付け出したら、容赦なく処分出来るのだろう。一瞬の内に。
(…マザー・イライザは……)
あの場では何も言わなかったけれど、シロエを「処分」するつもり。
シロエが戻らなかったなら。
E-1077に戻ることを拒み、そのまま宇宙を飛び続けたら。
(……戻ってくれれば……)
あるいは道があるのだろうか、望みが残っているのだろうか。
皆の記憶から消されたシロエが、反逆者になったシロエが生き残れる道。
生涯、幽閉されようとも。
厳重に監視された部屋から、一歩も出ることは叶わなくても。
(…メンバーズなら…)
何か手立てがあるのだろうか、候補生の身では無理なことでも。
此処を卒業してメンバーズの道に足を踏み入れたら、打つ手が見付かるのだろうか…?
(…今のぼくには…)
まだ分からない、メンバーズのこと。
どれほどの権限が与えられるのか、マザー・イライザにも命令できるのか。
そうだと言うなら、全ての希望が潰えてはいない。
もしもシロエを連れ戻せたら。
…自分がメンバーズの道を歩み始めるまで、シロエが生きていてくれたら。
夢物語だ、と自分でも分かる。
マザー・イライザは、其処まで甘くはないだろうと。
たとえシロエが戻ってくれても、即座に奪われるだろう命。
保安部隊に引き渡したなら、その日の内に。
候補生たちの目には入らない何処か、其処で撃ち殺されてしまって。
(…今のぼくには、まだ止められない…)
いくら将来が決まっていたって、今の身分は候補生。
保安部隊の者たちの方が、遥かに力を持っているから。…このE-1077では。
(どうして、彼らが行ってくれない…!)
自分よりも力を持つというなら、彼らがシロエを追えばいい。
そして仕事をすればいいのに、どうして自分が選ばれるのか。
他に適任者が大勢いるのに、一介の候補生などが。
(…マザー・イライザ…!)
何故、と苛立ち、歩く間に、通路に倒れた者を見付けた。
明らかに保安部隊の所属だと分かる、その制服。
(さっきの精神攻撃で……)
そういえば皆、倒れたのだった。…自分以外は一人残らず。
過去の幻影に囚われたように、誰もが子供に返ってしまって。
目には見えないオモチャで遊んで、無邪気な笑顔で床へと座り込んだりして。
精神攻撃が遮断されたら、糸が切れたように倒れた彼ら。
今のE-1077には、自分の他には誰一人いない。
シロエを追ってゆける者は。
逃亡者を乗せて宇宙をゆく船、それを追い掛けて飛び立てる者は。
(…そういうことか…)
誰もいないのか、と噛んだ唇。
一人でも残っていたのだったら、捕まえて押し付けるのに。
「反逆者を追う」という自分の役目。
お前がすべき仕事だろうと、「直ぐに飛び立て」と、張り飛ばしてでも。
(…後で、コールで叱られても…)
その方が遥かにマシに思える、自らシロエの船を追うよりは。
シロエを連れて戻ってみたって、彼の命を救えはしない。
微かな望みに賭けるしかなくて、自分が正式にメンバーズになるまで彼が生きていたなら…。
(救い出せる道があるかもしれない、というだけで…)
その道も本当にあるかどうかは、メンバーズになってみないと何も分からない。
マザー・イライザのそれを越える権限、逆に命令できる力を得られるか否か。
(…連れて戻って、それでどうする…?)
処分されると承知の上で、保安部隊にシロエを引き渡すのか。
それとも彼らとやり合った末に、自分の部屋へと匿うのか。
(…二人くらいなら…)
多分、一人で倒せるだろう。
けれど束になって来られたならば、武器を持たない自分は勝てない。
候補生の身では持てない武器。
使い方は何度も教わったけれど、腕は彼らより上なのだけれど。
(……くそっ……!)
駄目だ、と通路の壁へと叩き付けた拳。
どう考えても、シロエを生かす術など持っていないから。
連れて戻れても、シロエ自身の運に賭けるしかなさそうだから。
それでも幾らかは残った望み。
シロエが此処に戻ってくれたら、微かな希望があるかもしれない。
即座に殺されなかったら。…幽閉される道であろうと、生きてくれたら。
(…だが、シロエが…)
素直に戻ってくれるとは、とても思えない。
「機械の言いなりになって生きる人生」、そんなものに意味は無いとシロエは言ったから。
命など惜しくないとばかりに、言い捨てたのがシロエだから。
(……戻らないなら……)
どうなると言うのか、自分がシロエを追って行ったら。
保安部隊の者たちの代わりに、武装した船で飛び立ったなら。
(……ぼくが、シロエを……)
殺すしかないと言うのだろうか、シロエの船を撃ち落として…?
訓練では何度も使ったレーザー砲でロックオンして、発射ボタンを押し込んで。
(…それだけは…)
嫌だ、と叫び出したくなる。
そのくらいなら連れて戻ると、なんとしてでもシロエの船を、と。
シロエは船には慣れていない筈で、拙いだろう操船技術。
まだ訓練飛行が出来る年ではないから、どうやって宇宙へ飛び立てたのかも不思議なほど。
ただ、「やりかねない」と思うだけ。
E-1077を、マザー・イライザを嫌い続けた彼ならば、と。
自分の年では乗れない船でも、夢見て一人で重ねた訓練。
公式なシミュレーターさえも使わず、恐らくは個人練習用の…。
(シミュレーションゲーム…)
それで習得したのだろう。
航路設定も、発進準備も、何もかもを。
今日が初めての宇宙なのだろう、自分の力で飛んでゆくのは。
(…停船してくれ…!)
そう呼び掛けたら、シロエは応じてくれるだろうか。
闇雲に先へと飛んでゆかずに、船は停まってくれるだろうか…?
(…撃ち落とすよりは…)
船を連行して戻れたら、と願いながら着けてゆく宇宙服。
シロエもこれを着けただろうか、操縦するなら必須とされている宇宙服を。
それとも着けずに飛び出したろうか、此処から逃げることに夢中で。
(…とにかく、シロエを連れ戻せたら…)
答えは出る、と無理やり思考を前へと向ける。
でないと、とても追えないから。
最悪のケースばかりが浮かんで、発進準備も出来ないから。
(…頼む、停まってくれ…!)
シロエ、と船に乗り込んでゆく。
武装している物騒な船に。
その気になったらシロエの船を、一瞬で落とすことが可能な保安部隊の船に。
微かな望みに賭けるしかない、今の自分。
シロエの船を連れて戻れて、シロエが直ぐに処分されずに生き延びること。
それにメンバーズが得られる権限、自分の力がマザー・イライザを超えること。
全ては夢物語だけれども、そうでもしないとシロエを追えない。
(…いくら未来のメンバーズでも…)
こんなケースは習っていない、と整えてゆく発進準備。
シロエが停まってくれたらいい。…最悪のケースを免れたなら、と。
戻る時には、船が二隻に増えていたならいい。
微かな望みをそれに繋ぐから、シロエの船を連れて此処へと戻りたいから…。
追いたくない船・了
※シロエの船を追う前のキース。「追いなさい」の時点で既に拳が震えていたわけで…。
追ったらどうなるか分かっていた筈、と思ったら書きたくなったお話。若き日のキース。
(…何もかも、此処に書いてあるのに…)
だけど見えない、とシロエが見詰める本。
E-1077の個室で、与えられた机の前に座って。
成人検査で奪われた過去と、優しかった両親と、懐かしい故郷。
子供時代は消えてしまって、一冊の本が残っただけ。
この本は宝物だから、と鞄に詰めて家を出た本。両親に貰った大切な本。
(……ピーターパン……)
幼かった頃から夢見た少年、永遠に年を取らない子供。
ネバーランドから夜の空を駆けて、子供たちを迎えに来る少年。
いつか会えると信じていた。
「いい子の所には、ピーターパンが迎えに来るんだよ」と。
その日に備えて準備したこと、それは覚えているけれど。
ピーターパンと一緒に夜空を駆けてゆこうと夢を描いたのも、確かに自分なのだけど。
(……ピーターパンも、ネバーランドも……)
見えてこない、と穴が開くほどに見詰め、ページをめくってゆく。
ピーターパンの本に書いてあること、それが鮮やかに見えてくれない。
空を駆けてゆくピーターパンの姿を、自分はいつでも夢に見られた筈なのに。
背に翅を持ったティンカーベルも、悪い海賊のフック船長だって。
(この本を開きさえしたら…)
其処にあった、と思う夢の国がネバーランド。
今も昔と同じに夢見て、出来ることなら行きたい場所。
牢獄のようなE-1077から夜空を駆けて、ピーターパンと一緒に飛んで。
…残念なことに、此処に夜空は無いけれど。
漆黒の闇が広がる真空の宇宙、そんな場所では誰も飛べないのかもしれないけれど。
ピーターパンも、背に翅を持つ小さな妖精のティンカーベルも。
そういうことなら、それも仕方ないと諦めるけれど。
此処からネバーランドに繋がる道は無いのだ、と諦めるしか無さそうだけども。
なにしろ、此処には無い太陽。
中庭に人工の夜はあっても、人工の朝が訪れはしても、無いのが「夜明け」。
太陽は何処からも昇って来なくて、ただ照明が灯るだけ。
夜の間は暗かった中庭、其処を明るく照らし出すように。
まるで本物の朝が来たように、徐々に明るさを増してゆく光。
けれども何処にも太陽は無くて、訪れはしない「夜明け」というもの。
つまり「本物の朝」が無いわけで、本物の朝が来ないなら…。
(…二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ…)
そうやって進んでゆけはしないのだし、開かないネバーランドへの道。
ネバーランドへの行き方はこう、とピーターパンの本に書いてあるから。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ」と。
(…朝が無いから、いくら歩いても…)
けして着けない「朝」という場所。
「朝まで真っ直ぐ」進んで行ったら、ネバーランドに行けるのに。
二つ目の角を右へ曲がって、朝まで真っ直ぐ行くだけなのに。
(…それが出来ない場所だから…)
ピーターパンもティンカーベルも飛んで来ない、と思うことは出来る。
朝が無い上に、夜空でもない真空の闇に包まれていては。
そんな所に囚われていては、ピーターパンも来られないのだと。
出来ることなら、そう思いたい。
ネバーランドへの道も閉ざされた、呪われた場所に囚われの自分。
朝が来ないから自分で歩いてゆけはしないし、空が無いからピーターパンも来られない。
どう頑張っても辿り着けない夢の国だから、ネバーランドも見えないのだと。
…こうやって本を開いてみても。
穴が開くほどピーターパンの本を見詰めても、夢の国は其処に無いのだと。
(…ティンカーベルも、フック船長も…)
何も見えない、と胸が塞がれるよう。
故郷では、この本を広げただけで飛べたのに。
身体は故郷の家にあったソファ、その上にコロンと転がっていても。
床の絨毯に座っていたって、心は自由に羽ばたいてゆけた。
本の向こうのネバーランドへ、ピーターパンが飛んでゆく国へ。
(…本当に全部、其処にあるんだ、って…)
信じられたし、信じてもいた。
だから夢見て憧れ続けて、いつか行こうと準備していた。
ピーターパンが迎えに来たなら、一緒にふわりと舞い上がる夜空。
そのまま朝までずっと真っ直ぐ、ピーターパンと飛んでゆこうと。
本物のネバーランドにきっと行けると、本で見るよりも素敵な場所に、と。
(…ちゃんと見えたよ、ネバーランド…)
ぼくは見ていた、と覚えているのに、今では何も見えては来ない。
こうして本を開いてみたって、懸命に文字を追ったって。
挿絵のページに見入ってみたって、開いてくれない世界の扉。
今の自分には、ネバーランドがもう見えない。
…どんなに探し求めても。
この本のページから行ける筈だと、行けた筈だと頑張っても。
そうなったのは、自分が捕まったから。
E-1077という名の牢獄、其処に閉じ込められたせいだと思いたいけれど…。
違う、と分かっている悲しい答え。
懐かしい故郷や優しい両親、子供時代の幸せな記憶。
それと一緒に、自分は失くしてしまったのだと。
ネバーランドを見付ける力を、本の向こうに夢の世界を読み取る力を。
(……テラズ・ナンバー・ファイブ……)
あいつが奪った、と噛んだ唇。
「ぼくの翼まで奪って行った」と、「今のぼくは夢も見られやしない」と。
もちろん夢は見るけれど。
悪夢も幸せな夢も見るけれど、それとは違った「夢見る力」。
目を覚ましていても見える夢の世界を、今の自分は捉えられない。
…もう子供ではなくなったから。
自分では子供のつもりでいたって、機械が「大人」にしてしまったから。
ネバーランドは子供の世界で、其処に行った子は「いつまでも」子供。
ピーターパンの本を書いた作者は、そんな子の一人だったのだろう。
だからこそ書けた夢の国。
きっと本当に何処かにある国、ピーターパンたちが暮らすネバーランド。
あの時、機械が自分の力を奪わなければ、今もこの本を開いたら…。
(…ピーターパンも、ティンカーベルも…)
フック船長も、昔と同じに鮮やかに目の前に見えた筈。
エネルゲイアの家でそうしていたように。
成人検査の前の日の夜も、この本を開いて夢見たように。
いい成績で成人検査を通過したなら、ネバーランドよりも素敵な地球に行ける筈。
その道を進んで行けたらいいと、いつか地球にも行ってみたいと。
ネバーランドは、こんなに素敵な国なのだから。
もっと素敵な地球となったら、どれほど素晴らしい場所なのかと。
(……あれが最後で……)
それきり、見てはいない国。
ピーターパンの本を開いても、今の自分には…。
(…ネバーランドへの行き方だけしか…)
分からないんだ、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずっと真っ直ぐ」、その意味ならば分かるから。
一つ、二つと数えた二つ目、そういう角を「右」へと曲がる。
「右か、左か」と尋ねられる右で、自分の右手がある方へ。
そう曲がったなら、後は「朝」まで「ずっと真っ直ぐ」。
E-1077には無い夜明けまで。
太陽が昇る朝に着くまで、ただ「真っ直ぐ」に歩くだけ。
そうやって行けばネバーランドに着くのだけれども、ただそれだけしか分からない。
「二つ目の角」を「右へ」曲がって、後は「朝」まで「ずっと真っ直ぐ」。
それは単語の連なりだけで、魔法の道はもう見えない。
子供の頃は見えたのに。
「こうやって行けば、ちゃんと着くんだ」と、本当に分かっていた筈なのに。
本を開けば、ピーターパンが見えていたように。
ティンカーベルが、フック船長が、ネバーランドが鮮やかに見えていたように。
(…ぼくが失くしたのは…)
夢の世界を捉える力か、それとも「信じる心」なのか。
ピーターパンの本に描き出された本当の夢を「信じる」心。
それを失くして、今は見えなくなっただろうか。
ピーターパンもネバーランドも、背に翅を持つティンカーベルも。
夢の世界を捉える力も、本物の夢を「信じる心」も、多分、此処では要らないもの。
E-1077では不要だろうし、この先の道でもきっと要らない。
メンバーズになるのに野心は要っても、夢など要りはしないから。
「メンバーズになりたい」と夢見るようでは、道は開けはしないから。
他人を蹴落とすほどの勢い、そんな野心を抱えてひたすら駆けてゆくのが似合いの道。
だから機械は消したのだろう。
夢の世界を捉える力か、あるいは夢を「信じる心」。
それを失くしてしまった自分に、ネバーランドはもう見えない。
いつの日か、それを取り戻すまで。
メンバーズへの道を駆けて駆け抜けて、国家主席に昇り詰めるまで。
(…そして機械に、ぼくの記憶を…)
返せ、と命じて子供時代を取り戻すまでは、見えないのだろうネバーランド。
分かってはいても、やはり悔しくて零れる涙。
「此処は牢獄だから、見えないだけなら良かったのに」と。
空がある場所へ、朝が来る場所へ移り住んだら、また見えるだろうネバーランド。
その方がずっと良かったのにと、「今は見えない」だけなら泣かずにいられたのに、と…。
見られない夢・了
※シロエの宝物の本。「両親に貰った」ことも大きいだろうけど、他にもありそう。
子供の目には「ちゃんと見える」筈のネバーランド。成人検査の後は見えないのかも…。