(…記憶が無い…?)
シロエが耳を疑った言葉。候補生たちがしていた噂話。
成人検査前の記憶を一切、持たないというキース・アニアン。
頭の中に何も無い分、色々なことを詰め込めるのだ、と。
彼が成績優秀な秘密は「それ」だとも。
(…記憶って…)
皮肉なことに、その「記憶」のことで苦しんでいた真っ最中。
どんどん薄れてゆく自分の記憶。
懸命に繋ぎ止めようとしても、実感が伴わなくなってゆく故郷の景色。
いずれ自分も全て忘れて、飼い慣らされてしまうのかと。
マザー・イライザの言いなりになって、「マザー牧場の羊」の群れの一匹に。
だから余計に癇に障った。
「過去の記憶を持たない」キースが。
元から嫌っていたのだけれども、いつも以上に。
苛立ちながら戻った部屋。E-1077での、自分の個室。
此処は自分の部屋だけれども、もっといい部屋を持っていた。
E-1077に連れて来られる前は。
故郷の家で、両親と暮らしていた頃には。
(……ぼくの部屋……)
居心地の良かった子供部屋。
けして豪華ではなかったけれども、物心ついた時には自分の部屋を持っていた。
大抵は「其処にいなかった」けれど。
母が料理をしている所を眺めていたり、母の姿が見える所に座っていたり。
父が仕事から戻った時には、両親の側を離れなかった。
眠る時間が訪れるまで。
「もう寝なさい」と、二人に優しく言われるまで。
(…もっと大きくなってからでも…)
趣味にしていた機械いじりや、勉強の時間。
それを除けば、あまり部屋にはいなかった記憶。
居心地のいい部屋だったけれど、もっと素敵な部屋が家にはあったから。
父や母たちがいた部屋に行く方が、ずっと心地が良かったから。
(…パパ、ママ……)
会いたいよ、と呟いてみても、顔もおぼろになった両親。
二人の顔を見たいのに。
眠って夢の中にいたなら、二人ともちゃんと顔立ちが分かる姿なのに。
機械に消されてしまった記憶。
成人検査で、テラズ・ナンバー・ファイブのせいで。
(…ぼくがこんなに苦しんでるのに…)
苦しみながらも、懸命に続けている勉強。
このステーションでトップに立って、メンバーズ・エリートに選ばれること。
それを目指して、その日だけのために歯を食いしばって。
本当だったら、両親の夢を見られるベッドでずっと眠っていたいのに。
勉強するような時間があったら、夢の中で見られる故郷にいたい。
そうでなければ、大切なピーターパンの本。
宝物の本のページだけを繰って、ネバーランドを夢見ていたい。
勉強などをするよりも。…余計な知識を叩き込まれて、過去を忘れてゆくよりも。
(でも、そうするしか…)
今の所は見えない希望。
メンバーズになって、順調に昇進したならば。
上へ上へと昇り続けて国家主席の座に就いたならば、もはや誰からも受けない指図。
地球のトップに昇り詰めたら、憎い機械を止めてやること。
それが目標、「ぼくの記憶を全て返せ」と命じた後に、マザー・システムを止めること。
失くした記憶を取り戻すために。
子供が子供でいられる世界を、もう一度宇宙に作り出すために。
(…そのために、ぼくは必死になって…)
夢と現実の狭間でもがいて、毎日が戦いの日々なのに。
今も苦しみ続けているのに、キースには「過去が無い」という。
よりにもよって、それが自分のライバルだなんて。
過去にこだわり続ける自分と、「過去を忘れた」薄情な奴との戦いだなんて。
何も覚えていないのだったら、きっとキースは楽なのだろう。
戻りたい場所も、会いたい人も、キースは何一つ持ってはいない。
(その分だけ、知識を詰め込めるって…)
だから成績優秀なのだ、と噂していた候補生たち。
成績のことは、羨ましいとも思わない。
過去と引き換えに賢くなっても、自分は嬉しくないだろうから。
たとえキースを抜き去れるとしても、今のぼやけた過去を手放したくはないから。
(…だけど、最初から欠片さえ…)
残らないほどに過去を失くしていたなら、自分だってきっと楽だった。
キースがそうであるように。
何の疑いもなく機械を信じて、「機械の申し子」と呼ばれるように。
(ぼくだって、全部忘れていたなら…)
今頃は此処でこうしていないで、勉強していることだろう。
「もっと賢く」と、「もっと知識を」と。
過去を持たないなら、今と未来があるだけだから。
機械が指し示す未来への道を、真っ直ぐ進んでゆくだけだから。
(過去があるから…)
こうして捕まる、自分のように。
帰りたい過去を持っているから、生きることさえ辛く感じる時だってある。
機械の言いなりになって生きる人生、そんなものに意味はあるのかと。
こうして苦しみ続けるよりかは、幼い間に死んでいた方が良かったとさえ。
(記憶を消されるより前に…)
成人検査を受けるより前に、子供の間に死んでいたなら、幸福だったと思うから。
…両親は悲しんだとしても。
両親との別れは辛かったとしても、忘れてしまって苦しむよりは。
どうして「キース」だったのか。
過去を忘れて、何も持たない人間になってしまったのは。
元からこだわりそうに見えないキースが、何故、その幸運を手に入れたのか。
(…あいつも、ぼくと全く同じに…)
苦しみもがいて生きているなら、まだ幾らかは気が紛れもする。
どんなに平静を装っていても、部屋に戻れば苦しむキースがいるのなら。
薄れた記憶の中の両親、それに故郷を求めるキースがいるのなら。
けれど、そうではなかったキース。
何もかも全て忘れてしまって、ただ未来へと歩いてゆくだけ。
忘れてしまった過去の分だけ、新たな知識を空白の中に詰め込んで。
機械の手口を疑いもせずに、マザー・イライザが導くままに。
(…どうして、あいつだったんだ…!)
そんな幸せな人生を掴んでいる奴が、と悔しさのままに机にぶつけた拳。
過去など持っていないだなんて。
自分は過去にこだわり続けて、取り戻すために生きているのに。
生きる意味など無さそうな生を、いつか来るだろう「機械を止めてやる」日のために。
歯を食いしばって屈辱に耐えて、マザー・イライザの手の中で生きる。
「今はこれしか道が無いんだ」と、「メンバーズになるには、そうするしかない」と。
なのに、メンバーズへの道を約束されたも同然のキース。
彼は持ってはいない過去。
幸運なことに、全て忘れてしまったから。
成人検査の係が何かミスでもしたのか、キースがあまりに無防備だったか。
(何にしたって…)
あいつはとても幸せなんだ、と怒りの炎が噴き上げるよう。
過去を持たないなら、キースは自分と同じに苦しんだりはしないから。
機械の言いなりに生きる人生、それもキースは疑いさえもしないだろうから。
なんて奴だ、と憎らしいけれど。
八つ裂きにしたいほどだけれども、キースが失くした過去というもの。
それを自分が失くしていたなら、きっと幸福に生きられる。
今の苦しみは消えてしまって、「さあ、勉強だ」と机に向かって。
「パパ、ママ? それって、どういう人たちのこと?」と、首を傾げる程度のことで。
両親も故郷も忘れたのなら、そうなるけれど。
今よりも楽に生きられるけれど、キースを憎いと思うけれども…。
(…ぼくがパパとママを忘れていたら…)
それに故郷も忘れていたなら、「セキ・レイ・シロエ」は何処にもいない。
両親に貰った「セキ」も「シロエ」も、ただの記号になってしまって。
名前はどういう意味を持つのか、それも分からなくなってしまって。
(…そんなシロエになるよりは…)
苦しくても今のままでいい。辛くても、辛い人生でいい。
キースを羨ましいと思いはしたって、「取り替えたい」とは思わないから。
過去を全く持たない人生、それを一瞬、羨みはしても、欲しいと思いはしないから。
(…キース・アニアン…)
幸福な奴、と吐き捨てる。
それに似合いの嫌な奴だと、「過去を持たない人間は違う」と。
とても味気ない人生だよねと、「そんなの、ぼくは御免だから」と…。
過去が無ければ・了
※キースが「過去を持っていない」ことを知った時のシロエは、記憶探しの最中だったわけで。
怪しいと思って調べ始める前には、こういう時間もあったのかな、と。…シロエだけに。