(……この花って……)
なんて名前だっけ、とシロエが眺めた花。
E-1077の中庭、其処の花壇に咲いているもの。
白い花やら、青い花やら、今が盛りと咲いているけれど…。
(えっと…?)
この白い花が…、と頭に一つ浮かべば、他の花たちの名前も出て来た。
「ぼくは知ってる」と、「エネルゲイアでも、よく見た花だ」と。
そう気付いたら、懐かしい。
側のベンチに腰を下ろして、花たちの姿に暫し見惚れる。
まるで故郷に帰ったよう。
花の姿は、何処で見たって変わらない。
宇宙に浮かんだステーションだろうが、故郷のエネルゲイアだろうが。
(……懐かしいな……)
此処でこうして座っていたなら、心だけが故郷へ飛んでゆくよう。
幼かった頃に見ていた花壇へ、遠く離れた雲海の星、アルテメシアへと。
故郷でもきっと、この花が咲いているだろう。
もしかしたら、母が「この瞬間に」眺めているかもしれない。
家から外へ出掛けたついでに、何処かの花壇の側で足を止めて。
あるいは父も見ているだろうか、父が勤める研究所にも、中庭などがあるのなら。
(…パパやママだって…)
見ているのかも、と思うと余計に懐かしくなる。
「ぼくの故郷にも咲いてた花だ」と、「今だって、きっと咲いてるんだよ」と。
この中庭には、他の候補生たちも来るけれど…。
(花なんて、誰も見ていなくて…)
ベンチに座っての会話に夢中か、賑やかに笑いさざめいているか。
此処から「故郷」に思いを馳せる生徒は、いないのだろう。
誰もが「過去を捨てて来た」から。
成人検査で捨ててしまって、それを後悔することさえも無いのだから。
けれど、自分は「忘れはしない」。
機械がいくら消し去ろうとも、こうして「消えない」記憶だってある。
故郷で目にした花の名前を、自分は忘れていなかった。
「なんて名前だっけ?」と眺めていたら、次々と頭に浮かんだ名前。
白い花の名も、青い花の名も、他の花のも。
「エネルゲイアでも見ていた花だ」と、「忘れ去ってはいなかった」記憶。
両親の顔さえおぼろになっても、花の名前は忘れなかった。
つまりは機械が「消さなかった」もの。
故郷で同じ学校に通った者たち、彼らの顔や名前を「忘れていない」ことと同じに。
(…花の名前なんかを、覚えていたって…)
さほど役には立たないだろうに、記憶は消されていなかった。
E-1077に入ったからには、いずれはメンバーズになるのだろうに。
軍人などには「花の名前」は要らないだろうに。
(学校で一緒だった奴らは…)
いずれ何処かで出会った時に、「友」として再会できるようにと、「残された」記憶。
彼らの顔も、名前も少しも忘れてはいない。
そんなものより、「両親」を覚えていたかったのに。
自分を育ててくれた養父母、彼らを「忘れたくなかった」のに。
(…でも、パパとママは……)
機械からすれば「不要な」記憶で、「大人になるなら」要らないもの。
覚えていたって戻れない故郷、「覚えているだけ無駄」ということ。
だったら、「花」はどうなのだろう?
E-1077で暮らす候補生たちが、ろくに見てさえいない花たち。
彼らにはただの「中庭の彩り」、無ければ「殺風景」だというだけ。
どんな花でも気にはしないし、木だって、きっと同じこと。
「中庭にあればいい」だけのことで、故郷のことなど考えはしない。
それが「正しい生き方」だったら、花の名だって、多分、「要らない」。
何であろうと花は花だし、「花だ」と分かれば充分だろうに。
なのに「忘れていなかった」花。
どの花の名も思い出したから、懐かしく見ていたのだけれど。
故郷に帰ったような気さえもしたのだけれども、何故、「花」なのか。
花の名前を覚えているより、両親を覚えていたかったのに。
「パパの顔だ」と、「ママの顔だ」と、鮮やかに思い出したいのに。
(…どうして、こんな花なんか…)
ぼくは覚えているんだろう、と逆の方へと向く思考。
「これが機械のやり口なんだ」と、負の方向へ。
故郷を懐かしむ気持ちの代わりに、「こんな花たちの名前なんか」と。
だから、乱暴に立ち上がったベンチ。
足早に後にした中庭。
「あんな花なんか、見ていたくない」と、自分の世界に逃れるために。
ただ一人きりでいられる世界へ、誰も入っては来ない個室へ。
逃げ込むように其処に入って、閉ざした扉。
ベッドに腰掛け、広げたピーターパンの本。
これだけが唯一の「故郷との絆」、両親がくれた宝物。
成人検査の日にも家から「持って出掛けて」、このステーションまで共に来られた。
この本に纏わる全ての記憶は、憎い機械にだって「消せない」。
(絶対に、忘れてやるもんか…)
ぼくの本だ、と本のページを覗き込む。
その向こうには、幼い頃から憧れていたネバーランドが広がるから。
ピーターパンと飛んでゆこうと思った、夢の世界が。
(…パパとママを忘れさせられても……)
ぼくは忘れていないんだから、と見詰めるページ。
これを「見ていた」自分の姿も忘れてはいない。
故郷の家で椅子に座って、ある時は床に寝そべって。
ピーターパンの本を何度も読んでは、「いつか行くんだ」と夢見た世界。
夜空を駆けてネバーランドへ、ネバーランドよりも素敵な地球へ。
(…何もかも、忘れていないんだから…)
ぼくは覚えているんだから、と宝物の本を抱き締めてみる。
「此処にあるよね」と、「いつまでも、ぼくと一緒なんだ」と。
くだらない花の名前などより、この本の方がずっと大切。
両親がくれた「大好きな本」で、ステーションにまで持って来たほど。
この本のことを、自分は忘れはしない。
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブも、この記憶を消せはしなかった。
「ぼくの勝ちだ」と、嬉しくなる。
消し去る記憶と、残す記憶と、それを機械が振り分けた時も…。
(…ぼくが、この本を持っていたから…)
記憶を消さずに、残すしか無かったのだろう。
厄介なことにならないように。
「この本は、何?」と、「セキ・レイ・シロエ」が「悩まない」ように。
お蔭で「消されずに」残った記憶。
花たちの名前も、きっと「その手の」記憶。
軍人は花に縁が無くても、いつか悩むかもしれないから。
「この花の名前は何だった?」と、花壇の側に立ち尽くして。
(…忘れてしまった、と其処で気付かれたなら…)
機械には都合が悪いだろう。
「いいように記憶を書き換える」のだと、皆に知られてしまったら。
それで「残った」のが「花の名前」で、「シロエの場合」は「本の記憶」も残った。
とても大切な本だったのだと、今も忘れはしないままで。
こうして本を抱き締める日やら、ページをめくってみる日やら。
(…ぼくは、機械に…)
勝てたのだろう、と誇らしい。
ピーターパンの本に纏わる記憶を、機械は「消せなかった」から。
それを「持っていた」セキ・レイ・シロエに、「勝ちを譲る」しか無かったから。
機械が勝手に奪い去る記憶、その中に「本」を入れられないで。
花の名前を「忘れていない」のと全く同じに、「忘れないままで」いられた本。
幼かった日に両親がくれた、大切な宝物の本。
これからも、けして忘れはしない。
何処までもピーターパンの本と一緒で、「両親の記憶」とも一緒。
この本を「ぼくに」くれた記憶は、絶対に消えはしないんだから、と思ったけれど。
「忘れないんだ」と考えたけれど、ピーターパンの本を貰った、その日。
(…いつだったっけ?)
確か誕生日のプレゼント、と思い出そうとして、其処で途切れていた記憶。
本当に「誕生日」だったのか。
誕生日だったら何歳だったか、それが自然に浮かんでは来ない。
バースデーケーキも、その上にきっと灯っていただろう蝋燭の数も。
(……それは、要らない記憶だから……)
消されたんだ、と溢れた涙。
「機械は、それも消してしまった」と、「ぼくは覚えていやしない」と。
大切な本を「いつ貰った」のか、「いつから持っていた」ものなのか。
花の名前は思い出せたけれど、ピーターパンの本に纏わる記憶は「思い出せない」。
それを貰った、とても大切な日の欠片でさえも。
(…ぼくは、やっぱり……)
機械に負けてしまったんだ、と唇を噛んで復讐を誓う。
花の名前を思い出すより、他のことを思い出したいのに。
「思い出したいこと」が沢山あるのに、機械が「消してしまった」から。
(……いつか、機械を止めてやる……)
マザー・システムなんか壊してやる、と抱き締めるピーターパンの本。
この本を持って、ただ一人きりで機械と戦い、いつの日か、勝ちを収めるのみ。
でないと、記憶は戻らないから。
機械の時代が終わらない限り、「大切な記憶」を取り戻すことは出来ないのだから…。
失われた記憶・了
※シロエが持ってる、ピーターパンの本。あれって、いつから持ってるんだ、と思っただけ。
両親の顔も覚えていないんだったら、貰った日のことも忘れていそうなんですけど…。
(……サム……)
相変わらず、今も「子供」なのだな、とキースが零す溜息。
マツカを下がらせ、夜更けの部屋に一人きりで。
昼間はサムの見舞いに出掛けた。
マツカとスタージョン中尉だけを連れて、久しぶりに。
(…国家騎士団総司令様か…)
この厄介な肩書きさえ無かったら、と思わないでもない。
昔馴染みの友の見舞いに行くだけのことに、どれほど制約が増えたろう。
任務やデスクワークはともかく、「キース・アニアン」の身を守るための「それ」。
「見舞いに行こう」と思い立っても、その日の内には、けして行けない。
サムが入院している病院、其処までに通ってゆく道順。
(…それをパスカルたちが調べて…)
狙撃手や爆弾、そういったものが入れないよう、念には念を入れてのチェック。
更には当日、「いきなりルートを変更する」。
もちろん「用心」のためのルートで、そちらも「とうに調査済み」。
万一、狙撃手や爆弾などが「本来のルート」に潜んでいても…。
(まさか道順を変えるとは、思わないからな…)
一向に来ない「キース・アニアン」、それを狙って待ち伏せるだけ無駄。
其処までしないと、「見舞いにさえも行けない」のが「自分」。
国家騎士団総司令の命を狙う輩は、何処にでもいるものだから。
ノアばかりでなく、他の惑星や基地に出向いても。
(…ただの上級大佐なら…)
もう少し楽に動けたものを、と思ってはみても、詮無いこと。
この先はもっと、「動きにくく」なってゆくのだろう。
ミュウとの戦いが続いているのに、「愚かしい人類」が後を絶たないから。
「キース・アニアン」を失ったならば何が起こるか、気付いてもいない者たちが。
彼らの力で、「侵略者」を防げはしないのに。
ミュウの版図は今も拡大し続けるだけで、「防ぐ手立て」は見付からないのに。
もちろん、「手をこまねいて」見ているだけではない。
打てる手は打つし、サイオンに対抗して動ける兵士も「開発中」。
(APDスーツか…)
アンチ・サイオン・デバイススーツ。
それを着たなら、「ただの兵士」でも、「対サイオンの訓練を受けた」者と同じに動ける。
全軍きってのゴロツキだろうが、「ろくに使えない」兵士だろうが。
頼みの綱は、もはや「その程度」。
後は「戦略次第」というのが、「ミュウとの戦い」。
けれど、「分かっていない」者たち。
「キース・アニアン」が「力をつけてゆく」のを嫌って、暗殺を試みる輩。
そうして「キース」を殺したならば、自分の首を絞めるのに。
ミュウがノアまで攻めて来た時、彼らは「殺される」だろうに。
降伏を伝えた者たちにさえも、容赦しないのが「ジョミー・マーキス・シン」。
武装していない救命艇をも、端から爆破してゆくほどに。
そんな「ジョミー」が現れたならば、「愚かな人類ども」は殺されて終わり。
そうとも思わず、彼らは今も「画策している」ことだろう。
「邪魔なキース」をどうやって消すか、ノアで、あるいは他の惑星や基地などで。
(…厄介なことだ…)
あの連中のせいで、サムの見舞いにも出掛けられない、と腹立たしい。
以前だったら、気軽に出掛けられたのに。
ジルベスターに向かった頃なら、それこそ自分一人ででも。
部下の一人も連れさえしないで、自分で車を運転して。
「元気だったか?」と、サムの所へ。
「赤のおじちゃん!」としか呼んで貰えなくても。
サムの心は子供に戻って、「キース」を覚えていなくても。
それでもサムは「ただ一人の友」。
サムに会うだけで、「昔に戻れた」気がするのに。
そのサムにさえも、今の自分は「思い立っても」会いに行けないのか、と。
サムの病院を見舞う時には、いつも何処かで期待している。
「昔のサム」に会えはしないかと、「キース!」と呼んで貰えないかと。
けれども、今日も自分は「赤のおじちゃん」。
昔馴染みの「サム」は戻って来なかった。
笑顔は昔と変わらなくても、サムは「子供」で、「キース」を知らない。
(…難しいとは、承知なのだが…)
病院の医師も、そう告げたから。
サムの心は壊れてしまって、「元通りに戻す」方法は無い。
恐らく、「サムを壊した」ミュウにも、それは出来ないだろう、とも。
(…サムは、すっかり壊れてしまって…)
どうして、そんなことが出来る、と「ミュウ」という生き物が、ただ憎い。
ミュウの長の「ジョミー・マーキス・シン」も。
サムとは幼馴染だったと聞くのに、彼はそのサムを「壊してしまった」。
降伏して来た救命艇さえ、爆破するのと「まるで同じに」。
(……サム……)
ジルベスターにさえ行かなかったら、と何度、思ったことだろう。
サムと、チーフパイロットとが乗っていた船。
その船が「他所を」飛んでいたなら、サムは壊れなかったのに、と。
ジルベスター・セブンに近付かなければ、サムは「壊されはしなかった」。
ミュウと出会わず、他の所を飛んでいたなら。
「ジョミー・マーキス・シン」が「いない」航路を、選んで飛んでいたならば。
(…どうして、あそこを飛んだのだ…)
よりにもよって、何故、と思って、不意に背筋がゾクリと冷えた。
「サム・ヒューストン」が乗っていた船。
それが向かった、「ジョミー・マーキス・シン」が「いる」ジルベスター・セブン。
ただ「通り過ぎる」だけにしたって、あまりに「出来過ぎて」いないかと。
偶然にしては、揃いすぎている幾つものピース。
サムとジョミーと、それに「キース」と。
(……私は、マザー・イライザが……)
無から作り上げた生命体。
三十億もの塩基対を合成して繋ぎ、DNAという鎖を紡いで。
E-1077でサムやスウェナと過ごした頃には、「知らなかった」真実。
シロエが「それ」を知った後にも、それに「近付けずに」卒業して行ったステーション。
けれども、今は「知っている」。
自分が何かも、何のために「作り出された」生命なのかも。
それを知った日、マザー・イライザは何と言っていたろう…?
(…サムも、シロエも…)
彼らとの出会いも、シロエの船を「撃ち落とした」ことも、全て「計画」。
マザー・イライザの計算通りに、全ては進められたという。
「キース・アニアン」を、「理想の子」として育てるために。
何もかもが全て「決められた」ことで、自分は「プログラム通りに」生きただけ。
自分では、何も知らないままで。
「生まれ」のことさえ、少しも「変だ」と思いはしないで。
(…マザー・イライザが、それをやったなら……)
サムを、シロエを「糧」に「キース」を育てたならば。
E-1077ごと処分されたような、マザー・イライザでも「出来た」のならば…。
(……グランド・マザー……)
人類の聖地、地球の地の底にある巨大コンピューター。
今の宇宙を統べている「それ」、マザー・システムの頂点に立つ機械。
グランド・マザーには、きっと容易いことだろう。
「サムを乗せた船」を、「ジルベスター・セブンに向かわせる」ことは。
其処で「ジョミー・マーキス・シン」に出会わせ、「壊させる」ように仕向けることも。
(…そうしておけば……)
「キース・アニアン」は、「必ず」任務を受けるだろう。
昔馴染みの友の仇を取りに、ジルベスター・セブンに向かう「任務」を。
他の者たちには、けして「譲りもせずに」。
まさか、と凍り付く心。
「私のせいか」と、「そのせいで、サムは壊されたのか」と。
サムを乗せた船が、あの忌まわしい星へ向かったのは、「キース・アニアン」のせいなのかと。
(…グランド・マザーなら、充分、出来る…)
そのように「航路設定しておく」ことも、「航路設定させる」ことも。
サムが乗った船を直接操り、「ジルベスター・セブンに向かう」航路を組み込むことも。
(…ジルベスター・セブンには、ジョミー・マーキス・シンがいて…)
彼とサムとが出会った時には、どうなるのかも「グランド・マザー」だったなら…。
(…何もかも、計算ずくだったのか……?)
最初から仕組まれたことだったろうか、サムが「壊れてしまった」ことは。
「キース・アニアン」をミュウの拠点に向かわせ、彼らを「殲滅させる」ために。
ジョミー・マーキス・シンを、ミュウどもを「根こそぎ滅ぼす」ために。
(…そして、私は……)
グランド・マザーの計算通りに、メギドを持ち出しただろうか?
ジルベスター・セブンごと「ミュウを」滅ぼし、焼き尽くすために。
(……まさか、其処まで……)
計算されたことだったのか、と恐ろしいけれど、きっと「答え」は聞けないだろう。
この戦いが済むまでは。
宇宙からミュウを滅ぼし尽くして、グランド・マザーの称賛を得られるまでは。
(…もっとも、それで…)
褒められ、真実を告げられるよりは、「知らない」方がマシだけれども。
もしも「自分が」、サムを巻き込んだ「事故」の引き金になっていたのなら。
ただ一人きりの「友」が壊れた、原因が「自分」だったなら…。
出来過ぎた偶然・了
※原作だと「偶然」だったサムの事故。アニテラだと、絡んでいるのがグランド・マザー。
それならキースも気付いたかも、と思ったんですけど…。キースには酷な真実だよね、と。
(ぼくの本…)
これだけしか残っていないけれど、とシロエが抱き締める大切な本。
E-1077の中の個室で、一人きりの夜に。
たった一冊、故郷から持って来られた宝物。
両親に貰った、ピーターパンの本。
成人検査を受けた後にも、この本だけは残ってくれた。
子供時代の記憶を奪われ、両親の顔すら、おぼろにぼやけてしまっても。
懐かしい故郷のエネルゲイアの、風も光も、空気も霞んでしまっても。
(この本だけは、此処にあるから…)
きっといつかは帰ってみせる、と誓う故郷の両親の家。
今は住所さえ忘れてしまって、もう書くことも出来ないけれど。
エネルゲイアの映像も、地図も、少しもピンと来ないのだけれど。
(…いつか必ず、思い出してやる…)
機械が記憶を奪ったのなら、その機械から取り戻して。
「ぼくの記憶を返せ」と、機械に命令して。
(…パパとママの家に帰れる日まで…)
この本は、けして手放さない。
何があっても守り続けて、何処へ行こうと、この本と一緒。
メンバーズとして船に乗り込む時が来たって、戦地へ赴く日が来たって。
(何処へでも、持って行くんだから…)
絶対に離してたまるもんか、と本を膝の上に置いて広げる。
其処に書いてある、自分の名前。
「セキ・レイ・シロエ」と、自分の字で。
これが「自分の持ち物」の証。
この本は誰にも渡しはしないし、いつまでも「セキ・レイ・シロエ」の本。
誰にも書き換えさせない、その名。
本の持ち主は自分一人だけで、何処までゆこうと「セキ・レイ・シロエ」。
いつか命尽きる時が来たなら、その時は「失くす」かもしれないけれど。
ぼくの本だ、と見詰める「セキ・レイ・シロエ」の文字。
命ある限り、この本は自分だけのもの。
こうして名前も書いてあるから、誰も「寄越せ」と奪えはしない。
それをしたなら、責められるだけ。
此処でなら、マザー・イライザに。
E-1077を離れた後なら、グランド・マザーや、マザー・システムに。
(人の物を盗ったら泥棒だしね?)
そういう時にはマザー・システムも役に立つよ、とクックッと笑う。
「泥棒」は明らかに「規則違反」で、罰せられるもの。
だから、この本を奪う者はいない。
奪った途端に「泥棒」になって、評価が下がるだけなのだから。
(…渡すもんか…)
この本は「ぼくの本」なんだから、と指で持ち主の名前をなぞる。
「セキ・レイ・シロエ」と、一文字、一文字、自分の筆跡を追うように。
それを辿って、指で書こうとするかのように。
(…セキ・レイ……)
シロエ、と続けようとして、ふと止まった指。
「シロエ」は自分の名前だけれども、今、書いた「レイ」。
これも同じに「シロエ」の名前。
「セキ」の後には「レイ」と続いて、最後に「シロエ」。
(……セキ・レイ・シロエ……)
何度も自分でそう名乗った。
そして誇らしげに、こう続けもした。
「シロエと呼んで下さい」などと。
お蔭で誰もが「シロエ」と呼ぶ。
教官たちなら、「セキ・レイ・シロエ」と名簿を読みもするのだけれど。
(…ぼくはシロエで…)
セキ・レイ・シロエ、と心の中で繰り返す。
本に書いた文字を目で追ってみても、やはり「セキ・レイ・シロエ」とある。
けれども、止まってしまった指。
「セキ・レイ」までをなぞって、其処の所で。
続けて「シロエ」と辿る代わりに、まるで縫い留められたかのように。
(……ぼくの名前は……)
「セキ」なら両親の名前と同じ。
父は「ミスター・セキ」でもあったし、「セキ」がファミリーネームになる。
養父母とはいえ、子供時代の自分は「セキ」という家の子。
今でも「セキ・レイ・シロエ」を名乗って、「セキ」の名を継いでいるけれど…。
(…シロエは、シロエで…)
ファーストネームで、何も思わず口にしていた。
名を問われたなら「セキ・レイ・シロエ」と、「シロエと呼んで下さい」と。
だから自分でも「シロエ」のつもり。
自分の名前は「シロエ」なのだと、ずっと信じていたのだけれど。
(……セキ・レイ……)
「レイ」も「ぼく」だ、と今頃になって気が付いた。
それはいわゆるミドルネームで、「セキ・レイ・シロエ」の名前の一部。
「セキ・シロエ」ではなくて、「セキ・レイ・シロエ」。
自分の名前はそれで全部で、「レイ」が無ければ、まるで別人。
「セキ・シロエ」なんかは知らないから。
自分はあくまで「セキ・レイ・シロエ」で、「他の名前」ではないのだから。
どうして今日まで、不思議に思わなかったのだろう。
「レイ」も自分の名前なのだと、考えさえもしなかったろう…?
(…それも忘れた…?)
まさか、と背中がゾクリと冷える。
あの忌まわしい成人検査で、「忘れなさい」と命じた機械。
記憶の全てを捨てるようにと強いた、憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
あれが自分から「奪った」だろうか、「レイ」の名前を…?
どうして「セキ・レイ・シロエ」なのかを、「レイ」の名は何処から来たのかを。
それならば、分からないでもない。
むしろピタリと合う符号。
機械が「忘れさせた」なら。…記憶を「奪い去った」のならば。
(…パパの名前にも、ママの名前にも……)
「レイ」という名は入ってはいない。
そのことは今もハッキリしている。
顔さえおぼろになった今でも、「セキ・レイ・シロエ」のパーソナルデータは健在。
E-1077のデータベースにアクセスしたなら、即座に弾き出されるそれ。
其処には、養父母の名前も書かれているのだから。
(…パパもママも、「レイ」じゃないのなら…)
きっと「レイ」には意味がある筈。
ミドルネームを持っている者は、そう沢山はいない時代。
(パパか、それともママだったのか…)
あるいは二人で、そう決めたのか。
とにかく「子供にミドルネームをつけよう」と、父と母とは考えた。
そうして生まれた「セキ・レイ・シロエ」という名前。
「セキ・シロエ」にはならないで。
「レイ」を加えて、「セキ・レイ・シロエ」と。
(…「レイ」の名前に、意味があったんだ…)
きっとそうだ、と今なら分かる。
自分は「何も覚えていなくて」、両親の名前に「レイ」の名は無い。
父か母かが選んだ名前で、何らかの意味がこもっていた筈。
「セキ・シロエ」よりも響きがいいから、と「レイ」を加えてくれたのか。
それとも「レイ」という名の知り合いでもいて、その人の名に因んだものか。
(…知り合いじゃなくて、パパの尊敬する人だとか…?)
遠く遥かな昔の学者か、あるいは偉人や、英雄などや。
そうした名前を貰っただろうか、「セキ」の名を持つ息子のために…?
(ママが選んだ名前ってことも…)
有り得るのだから、「レイ」というのは、母が好んだ画家や作家の名前とか。
母の友人に「レイ」の名を持つ、親しい誰かがいただとか。
(……パパかママかは、分からないけど……)
二人で決めたかもしれないけれども、「レイ」は「選んで貰った」名前。
「この名がいい」と、わざわざミドルネームにして。
本当だったら「セキ・シロエ」だけで充分なのに、「レイ」を加えて。
(…だから、忘れた……)
ぼくは覚えていないんだ、と「レイ」の名前の部分をなぞる。
この名に何の意味があったかと、それを名付けたのは父か母か、と。
(…何回も聞いて、「また聞かせて」って…)
幼い自分は両親にせがんだのだろうか。
「どうして、ぼくはシロエの他にも名前があるの?」と、「レイって誰?」と。
その度に答えを聞かされたろうか、「それはね…」と母に、懐かしい父に。
何度も何度も繰り返し聞いて、きっと心に刻んだ名前。
「ぼくの名前はセキ・レイ・シロエ」と、「レイの名前は、パパたちが…」と大切に。
宝物のように思っただろうに、「それ」を忘れた。
「レイ」の名前は何処から来たのか、誰が名付けてくれたのかを。
酷い、と涙が零れ落ちる。
「名前を忘れてしまうだなんて」と、「パパたちがくれた名前なのに」と。
名前は残っているのだけれども、意味を忘れたら、記号にすぎない。
「セキ・レイ・シロエ」と名乗ってみたって、「レイ」の名前は謎のまま。
「セキ」ならば、ファミリーネームなのに。
「シロエ」の方ならファーストネームで、誰にでもあるものなのに。
(……ミドルネームは、持っている人が少なくて……)
大抵は、それに意味があるもの。
母の姓だったり、両親の名前の一部をそのまま使っていたりと。
(…だけど、ぼくのは……)
両親の名前と繋がらないから、ただ、悲しい。
それを贈ってくれた両親、その「思い」ごと忘れたから。
「レイ」の名に何の意味があったか、どうしても思い出せないから。
(……セキ・レイ・シロエ……)
レイって誰なの、と顔もおぼろな両親に問う。
「どうして、ぼくの名前はレイなの」と。
涙が頬を伝うけれども、それに答えは返らない。
「セキ・レイ・シロエ」の「レイ」が何かは、何処から名付けられたのかは…。
奪われた名前・了
※セキ・レイ・シロエの名前って、ある意味、色々、反則。「セキ」が姓だったり、と。
ミドルネームも、ジョミーしか持っていないんですよねえ…。なので捏造。
(……理想の子、キース……)
厄介なものを作ってくれた、とキースは深い溜息をつく。
国家騎士団、総司令。その肩書きに相応しい部屋。
其処でただ一人、夜が更けてから。
側近のマツカはとうに下がらせ、「明日の朝まで用などは無い」と告げてある。
だから朝まで誰も来ないし、通信も入らないだろう。
その部屋の中で、思い返してみる自分の生まれ。それから、マザー・イライザの言葉。
E-1077を処分してから、ずいぶんと経った。
「キース・アニアン」の正体は、誰も知らない。
これから先も知られはしないし、いつの日か、SD体制が崩壊する日が来ない限りは…。
(…誰も気付きはしないのだ…)
マザー・イライザが「無から作った」生命、言わば「人形」なのだとは。
三十億もの塩基対を繋ぎ、DNAという鎖を紡いで生み出されたもの。
人の姿で、「人のように」考え、こうやって生きているのだけれど。
「真実を知った」日よりも出世し、いずれ「人類の指導者」として立つだろうけれど…。
(……所詮は、人形ではないか……)
遠い日に、シロエが言った通りに。
「お人形さんだ」と、「マザー・イライザの可愛い人形」だと嘲り笑ったように。
自分では「人」のつもりではいても、「人形」でしか有り得ないモノ。
機械が作った、「理想の指導者」たる人間。
それが「人形」でなければ何だと言うのか、「自分の意志では歩めない」のに。
今更、違った道を行こうにも、その道がありはしないのに。
(……国家騎士団総司令の次は……)
パルテノン入りだ、と分かっている。
初の軍人出身の元老、そう呼ばれる日が来るのだろう。
そうして歩んで、いつかは「国家主席」になる。
それが自分の歩むべき道で、其処から「外れる」ことは出来ない。
もう、そのように「歩いた」から。この先も「歩いて」ゆくだけだから。
ふとした時に、そう気付かされる。
自分は「歩まされている」のだと。
機械が自分を「作った」時から、定められていたレールの上を。
自分にはまるで自覚が無くても、最初からそうなっていた。
(…水槽から出されて、その日の内に…)
サムと出会って、後には親友。ただ一人きりの「友」だと今も思っているサム。
その「サム」さえも、マザー・イライザが「用意した」。
人類の敵であるミュウの長、ジョミー・マーキス・シン。
彼と同郷で、幼馴染なのが「サム」だったから。
「キース・アニアン」が、いつか「人類の指導者」として立つのなら…。
(…ジョミー・マーキス・シンとの出会いは、避けられはしない…)
真っ向から戦いを挑むのにせよ、「ミュウの殲滅」を命じるにせよ。
ならば、布石は打っておくべき。
早い間に、「ジョミー・マーキス・シン」を知る者たちと接触させて。
折があったら、彼の名前を耳にするように。
(…実際、サムは何も知らずに…)
ジョミーのことを聞かせてくれた。
E-1077で、誰かを探しているようだったサム。
「誰か探しているのか?」と訊いたら、「友達がいないかと思って…」と答えが返った。
アタラクシアで友達だった、ジョミー・マーキス・シン。
それが「ジョミー」の名を聞いた最初。
(…マザー・イライザは、何処まで計算していたのか…)
あの話だけで終わる筈だったか、その先まで読んでいたと言うのか。
サムは「ジョミーに会う」ことになった。
訓練飛行の時に受けた思念波攻撃、それは「ジョミー」が放ったもの。
サムは悲しみ、混乱した。「どうして、ジョミーがミュウの長に」と、悲嘆にくれて。
なのに、「忘れてしまった」サム。
次にジョミーのことを訊いても、「よく覚えていない」と怪訝そうな顔をしたほどに。
マザー・イライザが、サムに施した記憶処理。
「ジョミーを忘れさせる」こと。
それは「必要なこと」だったのか、あれも「計算の内」だったのか。
(…あのタイミングで、ミュウが思念波攻撃をしてくるなどは…)
マザー・イライザはもちろん、グランド・マザーにも「予測不可能」だったと思う。
ミュウは「SD体制の枠から外れた」異分子なのだし、どう動くのかは読めない筈。
そうは思っても、マザー・イライザのことだから…。
(ありとあらゆる可能性を考え、それの答えを…)
あらかじめ準備していなかったとは、とても言えない。
現にシロエも、「あの時」に「消された」のだから。
二度目の思念波攻撃を受けて、混乱していたE-1077。
保安部隊の者たちさえもが、一人も動けはしなかった。心だけが子供に戻ってしまって。
そうした中で、練習艇で逃亡したシロエ。
それを追い掛け、撃ち落とした。
シロエは呼び掛けに応えることなく、真っ直ぐに飛び続けたから。
連れ戻すことは不可能だったし、命ぜられるままに「撃った」のが自分。
けれど、シロエが、「あの時に」逃げなかったなら…。
(…追跡するのも、撃ち落とすのも…)
保安部隊の仕事になっていただろう。
いくら自分が「メンバーズ」に決まって、卒業の日が迫っていても。
じきに「本物の軍人」になる身で、配属先までが決められていても、所詮は「生徒」。
武装した船で飛び出して行って、「逃亡者」を処分する権限などを持ってはいない。
「非常事態だからこそ」許されたことで、通常だったら「有り得ない」こと。
けれども、マザー・イライザは言った。
「全ては計算通り」だったと。
「キース・アニアン」の指導者としての資質を、開花させるための。
サムに、スウェナに出会ったことも、ミュウ因子を持つシロエに出会ったことも。
…そのシロエを「この手で」処分させたことも。
何処までが「計算」だったのか。
いくら優れたコンピューターでも、「未来を予知する」ことは出来ない。
ありとあらゆる「可能性」なら予測できても、それに対する「答え」を導き出せたとしても。
機械は、けして「神」などではない。
神でないなら、未来を「読める」筈などがない。
それでも「計算通り」だったと、マザー・イライザは言ったのだから…。
(……私の人生も、既に計算済みなのだろうな……)
とうの昔に、先の先まで。
シロエが遺した「ピーターパンの本」さえ、機械は「計算済み」だったろうか。
「E-1077を処分せよ」と、グランド・マザーが告げて来たのと、本が姿を現したのは…。
(…同時だと言ってもいいほどで…)
自分が「見た」シロエのメッセージ。
あれさえも機械は「知って」いたのか、全て承知で「計算を続けていた」ものなのか。
だとすれば、自分に「自由」などは無い。
人生の先の先まで決められ、そのように「歩いて行く」というだけ。
「自分の意志」では何も出来ずに、「歩まされて」。
国家騎士団総司令の次は、パルテノン入りして元老になって、更には国家主席の地位へと。
…其処から「外れる」ことは出来ない。
「そうなるように」と作り出された生命体には、「他の選択」など許されはしない。
せいぜい、「ミュウのマツカを生かしておく」だけ、その程度の自由。
何一つとして、「自分の自由」にはならない人生、その道を歩んでゆくしかない。
「そのように」機械が「作った」から。
「理想の子」として、三十億もの塩基対を繋いで。
(…それ以外の道など、私には無い…)
この先も選ぶことなど出来ない、と思う傍ら、ふと寒くなる。
今、「これを」考えている「思考」。
それは自分のものなのか、と。
この思考もまた、「機械がプログラム」してはいないか、と。
E-1077にあった水槽、あそこで見て来た「サンプル」たち。
「キース・アニアン」にそっくりなモノ。
マザー・イライザは「彼ら」を育てて、途中で廃棄し、標本にした。
それを「免れた」のが「キース・アニアン」で、「たまたま選び出された」だけ。
彼らと同じに育ったのなら、機械が「全てを」教えて、育て上げたなら…。
(…この考えまで、私に組み込んでいないだなどと…)
どうして言える、と恐ろしくなる。
マザー・イライザが「先の先までを」読んで、サムを、シロエを用意したなら。
シロエの「最期」まで「読んでいた」なら、「キース・アニアン」の「思考」くらいは…。
(……容易くプログラム出来そうではないか…)
可能性など計算せずとも、「そのように」教え込みさえすれば。
幼い子でさえ、養父母次第で、どうとでも変わるらしいのだから。
(……本当に、実に厄介なものを……)
作ってくれた、と呪いたくなる「自分の生まれ」。
この思考でさえ、「自分のもの」だと自信が持てない時があるから。
何処までが「自分自身の思考」で、何処からが「機械のプログラム」なのか、謎だから。
せめて「思考」は、「自分のもの」だと思いたい。
機械が作った生命でも。
「無から作られた」生命体でも、「思考くらいは自由なのだ」と…。
持たない自由・了
※原作キースだと、最後の最後にグランド・マザーに「操られる」わけで、なんとも気の毒。
アニテラには「無い」設定ですけど、キースが心配になるのも当然だよな、と。
(此処からは、何も…)
見えやしない、とシロエが見渡した部屋。
教育ステーション、E-1077で与えられた個室。
とうに夜更けで、「外」だったならば星が瞬いていることだろう。
宇宙に浮かんだステーションではなくて、何処かの惑星の上だったなら。
けれど、此処では瞬かない星。
真空の宇宙に光る星たちは、それぞれの場所で「輝く」だけ。
大気が無ければ、星はそうなる。
チラチラと瞬くことさえ忘れて、ただ光だけを放ち続けて。
その星たちの中に、クリサリス星系もあるのだろうか。
エネルゲイアがあった育英惑星、アルテメシア。
それを擁するクリサリス星系、その中心で輝く恒星。
「あれが故郷だ」と分かる光は、星たちの中にあるのだろうか…?
(…あったとしたって…)
たとえ此処から見えたとしたって、「この部屋」からは何も見えない。
個室には「窓が無い」ものだから。
そういう構造になっているから、誰の部屋にも窓は無い筈。
覗きたくても覗けない外、窓の向こうにあるだろう宇宙。
漆黒のそれを目にするチャンスは、ステーションの外での無重力訓練などを除けば…。
(…食堂の窓くらいしか…)
候補生が見られる場所も、機会も無いと言っていいだろう。
星が瞬かない宇宙。
何処までも暗い闇の色が続く、果てしなく深い宇宙を見ることが出来る場所は、あそこだけ。
だから、此処から宇宙は見えない。
故郷があるだろう星も見えない、「あれがそうだ」と探したくても。
このステーションに連れて来られた直後。
成人検査で記憶を奪われ、ピーターパンの本だけが支えだった頃。
窓の有無など、どうでも良かった。
どうせ故郷には「帰れない」から、「見えはしない」とも思ったから。
…あまりに悲しすぎたから。
失ったものがとても大きくて、帰れない過去が多すぎて。
まるで心に穴が開いたよう、何もかも失くしてしまったかのよう。
呆然と日々を過ごす傍ら、懸命に勉学に打ち込んだ。
そうすればいつか、道が開けるかもしれないと。
今の世界が「おかしい」のならば、「ぼく自身が、それを変えてやる」と。
いつの日か地球のトップに立つこと、機械に「止まれ」と命じること。
それだけを夢見て、自分を何度も叱咤する中、ある日、気付いた。
「此処は牢獄だったんだ」と。
マザー・イライザが見張る牢獄、けして此処からは逃れられない。
何処へ逃げようとも、マザー・イライザの手のひらの上。
このステーションにいる限り。
E-1077で生きてゆく限りは。
(……牢獄ね……)
それなら窓があるわけもない。
囚人に「外」の世界は要らない、見せない方がマシというもの。
見せれば、出ようとするだろうから。
自由を求めて足掻き始めて、きっとろくでもないことをする。
(ずっと昔は…)
食事のためにと渡されたスプーン、それで脱獄した者さえもいた。
独房の床を、スプーンで少しずつ掘って。
掘った穴はいつも巧妙に隠し、掘り出した土は…。
(外で作業をする時に…)
衣服の中に隠して運んで、捨てたという。穴の存在が知られないように。
(……此処じゃ、スプーンで掘ったって……)
外の世界に出られはしない。
出られたとしても、その瞬間に潰える命。
真空の「外」で、人間は生きてゆけないから。
一瞬の内に死んでしまって、屍が残るだけなのだから。
(…それでも、此処に窓があったら…)
きっと故郷が見えただろう。
今も両親が暮らしている星、アルテメシアを連れた恒星。
その輝きが窓の向こうにあったのだろう、瞬かない星たちの中に混じって。
(…パパ、ママ……)
家に帰りたいよ、と心の中で呟いてみても、届きはしない。
クリサリス星系が此処から見えても、其処に声など届けられない。
けれど見えたら、どんなにか…。
(……懐かしくて、あそこにパパとママがいる、って……)
毎夜のように、そちらばかりを見るのだろう。
スプーンで掘っても、外に出ることは出来なくても。
遠い故郷へ帰りたくても、其処へ飛んでゆく術が無くても。
きっと焦がれて焦がれ続けて、ある日、割りたくなるかもしれない。
故郷の星が見えている窓を。
真空の宇宙と中を隔てる、強化ガラスで作られた窓を。
(割った途端に…)
中の空気は吸い出されるから、投身自殺をするようなもの。
死ぬと承知で、高層ビルの窓から外へ飛ぶのと同じ。
自由になれたと思う間もなく、命は潰えているのだろう。
ほんの僅かな自由を手に入れ、それと引き換えるようにして。
空を舞ってから地面に落下するように、真空の宇宙に押し潰されて。
それでも、と思わないでもない。
もしもこの部屋に窓があったら、「ぼくは飛ぶかもしれない」と。
懐かしい故郷に近付けるなら、と漆黒の宇宙へ身を投げて。
(…そのために窓が無いのかも…)
ぼくのような生徒が外へ飛ばないように、と考える。
その気になったら、強化ガラスを叩き割ることは出来るから。
現に自分が持っている工具、それの一つで殴り付ければ、ガラスは微塵に砕けるから。
(…自殺防止って…?)
ふざけるなよ、と言いたい気分。
自分は「自殺」などしない。
この牢獄から「逃げたい」だけで、「自由になった」結果が「死」になるだけ。
強化ガラスの窓を割っても、きっと後悔などしないだろう。
「ぼくは自由だ」と夢見るように、瞬かない星を見るだけで。
「あそこにパパとママがいるんだ」と、「ぼくはこれから帰るんだから」と。
帰ってゆくのが魂だけでも、自由があるならそれでい。
この牢獄から逃げ出せるのなら、何処までも飛んでゆけるのならば。
(飛んで行ったら、家に帰れて…)
もっと飛んだら、ネバーランドに着けるだろうか。
ネバーランドよりも素敵な地球へも、此処から飛んでゆけるのだろうか。
この部屋に「窓」がありさえしたら。
窓の向こうに故郷を見付けて、焦がれ続けて、ある日、「飛んだ」ら。
強化ガラスの窓を叩き割り、その向こうへと。
高い窓から身を投げるように、漆黒の宇宙(そら)へ飛び出したなら。
(……きっと、飛べるに違いないんだ……)
そんな気がしてたまらない。
窓の向こうには、「自由」が待っているだろうから。
牢獄の外に、マザー・イライザはいないのだから。
叩き割ったら外に出られるのは、食堂にある窓でも同じ。
とても大きな窓を割ったら、たちまち宇宙に放り出されることだろう。
(…でも、あそこだと…)
死んで終わりで、宇宙を何処までも飛んでゆけはしない。
あの場所だったら、大勢が見ているのだから。
「セキ・レイ・シロエが何かしている」と、「まさか、あの窓を割るのでは」と。
(どうせ、あいつらなんかには…)
逆立ちしたって分かりはしない。
どうして自分が窓を割るのか、窓の向こうに何があるのか。
騒ぐ生徒は野次馬ばかりで、誰も分かってなどくれない。
どんなに自分が「飛んで」ゆきたいか、どうして「窓を割りたい」のか。
(…そんな所で宇宙に放り出されても…)
無駄に屍を晒すだけのことで、きっと「自由」は手に入らない。
本当に自由が欲しいのだったら、「誰もいない」場所で飛び立つこと。
「誰も止めない」、「誰も騒ぎはしない」所で。
ただ一人きりの場所で窓を割ったら、迎えが飛んで来るのだろう。
幼い頃から、待って、待ち焦がれたピーターパンが。
背に翅を持ったティンカーベルが。
(妖精たちは宇宙を飛べなくたって…)
「窓を割った向こう」にある宇宙ならば、彼らもきっと自由に飛べる。
そうして、此処に来るのだろう。
「ネバーランドへ、地球へ行こう」と。
クリサリス星系にも寄ってゆこうと、「お父さんとお母さんにも会って行こう」と。
(……此処に窓さえあったなら……)
ぼくは自由を手に入れるのに、と「ありもしない窓」に恋い焦がれる。
「此処は牢獄なんだから」と、だから窓さえありはしない、と唇を噛んで。
窓の向こうは、きっと自由な世界だから。
其処に向かって身を投げたならば、何処までも飛んでゆけそうだから…。
逃れたい窓・了
※いや、E-1077の個室って「窓」が無いよな、と思ったわけで。多分、構造上の問題。
けれど「無い」なら、見えないのが「外」。こういう話になりました、はい…。
