「ピーターパン…!」
待って、と声を張り上げたシロエ。「行かないで」と。
夜空を駆けてゆく少年。
急いで彼を追い掛けなければ、一緒に飛んでゆかなければ。
ネバーランドへ、夢の国へと。
「子供が子供でいられる世界」へ、ピーターパンの背中を追って。
でないと此処に残されたままで、また牢獄に繋がれる。
二度と空には舞い上がれないで、ネバーランドにも行けないままで。
「待って…!」
ぼくも一緒に連れて行って、と叫んだ声で目が覚めた。
閉じ込められた牢獄の中で、ステーションE-1077の自分の部屋で。
(……まただ……)
行き損ねたよ、と零れた溜息。
夢の中なら、何処までも飛んでゆけるのに。
ピーターパンと一緒にネバーランドへ、時には故郷のエネルゲイアへ。
けれど今夜は行き損ねる夢で、最近、そちらが増えて来た。
(…子供の心を失くしたから…)
ぼくは「大人」になりかけてるから、と涙が溢れそうになる。
テラズ・ナンバー・ファイブに奪われた記憶と、夢の世界へ飛び立つ翼。
成人検査を受ける前なら、何処からだって「飛べた」のに。
ピーターパンの本を開けば、ページの向こうにネバーランドが見えていたのに。
今では「見えなくなった」それ。
大人の社会への入口に立って、「子供の心」を失ったから。
自分では「子供のつもりで」いたって、「違う」と思い知らされる。
ピーターパンの本の向こうに、ネバーランドは「もう見えない」。
どんなに瞳を凝らしてみたって、夢の国の扉は開かないから。
(……夢の中でも……)
行けない日が増えてくるなんて、と悲しくて辛くて、胸が張り裂けてしまいそう。
今夜の夢でも、ピーターパンは行ってしまった。
自分を残して、夜空を駆けて。
印象的な赤いマントの残像、それだけを瞳の中に残して。
(…いつか、ホントに来てくれなくなる…)
ピーターパンは、と痛いくらいに分かっている。
今でさえも「置いてゆかれる」のならば、もっと「大人」になったなら。
もっと背が伸びて、声も男らしい声に変わって、少年らしくなくなったなら。
(…大人は、ネバーランドには…)
行けはしない、と突き付けられる苦い現実。
ピーターパンに置いてゆかれる夢を見る度に、赤いマントを見失う度に。
(きっといつかは、あのマントだって…)
見えなくなって、ピーターパンが夜空を駆ける姿も、見られなくなることだろう。
今は辛うじて残っているらしい、「子供の心」が曇ったら。
すっかりと錆びて大人になって、目に見えるものだけが「世界の全て」になったなら。
(…そんなの、嫌だ…)
それくらいなら、「置いてゆかれる」方がいい。
ピーターパンと一緒に飛んでゆけなくても、ネバーランドに着けなくても。
夜空を駆ける永遠の少年、ピーターパンの赤いマントを見送ることが出来るなら。
その方がいいに決まってる、とベッドから下りた。
まだ夜中だから、充分にある「自由な時間」。
こんな時には本を読もうと、ピーターパンの本がいい、と。
(…ぼくの宝物…)
パパとママが買ってくれた本、とギュッと両腕で胸に抱き締め、戻ったベッド。
その端に腰掛け、膝の上で広げようとした本。
ふと目に入った本の表紙に、アッと息を飲んだ。
其処に描かれた、夜空を駆けるピーターパン。
ティンカーベルもいるし、ウェンディたちも一緒に飛んでいるけれど…。
(……ピーターパンの服……)
マントなんかは何処にも無い、と今頃になって気付いたこと。
そういえば、さっき見ていた夢。
あの夢の中のピーターパンは、この表紙の絵とそっくりだったけれど…。
(服もこの絵とそっくりで…)
何処も変わりはしなかったけれど、夜空の果てに見えなくなる時。
消えてゆく時に残った残像、それは真紅のマントの欠片。
(…マントを着けたピーターパンって…?)
ぼくは知らない、と本のページを繰ってゆく。
挿絵が入ったページに出会えば、手を止めてそれを覗き込んで。
「これも違う」と、「これでもない」と。
どの絵に描かれたピーターパンも、彼らしい服を着ているだけで…。
(……マントなんて……)
挿絵の何処にも描かれてはいない。
しかも「真紅のマント」だなんて、自分は何処で見たのだろうか?
ピーターパンの映画なんかを観てはいないし、知っているのはこの本だけ。
本の端から端まで見たって、「赤いマント」は出て来ないのに。
そらで言えるほど何度も読んだ文の中にも、そんな描写は無い筈なのに。
(…赤いマントのピーターパン…)
この本に、そんなピーターパンがいないと言うなら、夢の中の「彼」は何なのだろう?
まだ見えるような赤い残像、マントの欠片を自分は何処で見たのだろう…?
(…でも、ピーターパン…)
あれは確かにそうだった、と夢の光景を覚えている。
ネバーランドには行き損ねたけれど、ピーターパンを「見ていた」自分。
「ピーターパンだ」と、「ぼくも一緒に連れて行って」と、夜空を駆けてゆく少年を。
考えてみれば、いつも、いつだって「見失う」マント。
ピーターパンに置いてゆかれた時には、いつだって。
(……一緒に飛んでゆける夢なら……)
その夢の中のピーターパンは、本の表紙と同じ服。
本の挿絵とそっくり同じで、赤いマントを見ることはない。
置いてゆかれた夢の時だけ、ピーターパンが残す残像。
それが真紅のマントの欠片で、目を覚ます度に悲しくなる。
「ネバーランド行けなかった」と、「ピーターパンに置いてゆかれた」と。
あまりにも辛い夢なのだけれど。
いつかは赤いマントの欠片も、見えなくなる日が来そうだけれど。
(…ぼくは確かに見たんだから…)
今夜も見たし、今までだって。
追えないままに飛び去る少年、ピーターパンが残してゆく残像は、いつも赤いマント。
目にも鮮やかな真紅のマントの欠片を残して、ピーターパンは消えてゆく。
これだけ何度も、同じ夢を見ているのなら…。
(……きっと、本物のピーターパン……)
彼がそうだ、と閃いた思い。
ピーターパンの本が書かれた時代は、今から遥か昔のこと。
人間が地球しか知らなかった頃で、宇宙船は無くて、馬車が走っていた時代。
その時代からずっと、ピーターパンが今も高い夜空を駆けているのなら…。
きっと服だって変わるだろう。
人間が地球を離れた時から、五百年以上も経っている今。
SD体制が始まるずっと前から、ピーターパンは空を飛び続けている。
ネバーランドに行きたい子供を見付け出しては、一緒に空を飛ぶために。
高い空へと舞い上がるために、地球の夜空を、今の時代は宇宙に広がる幾つもの空を。
(違う服だって、着てみたいよね…?)
長い長い時を駆けているなら、時には違う服だって。
時代が変わってゆくのと同じに、流行りの服も変わってゆく。
ピーターパンの本が書かれた時代と、今の時代の服とでは…。
(まるで違うし、どっちの時代の人が見たって…)
別の時代の服を「変だ」と思うだろう。
本の中で見るなら「普通に」見えても、それを実際、目にしたならば。
(…ピーターパンは、子供の味方なんだから…)
子供が親しみやすい服装、それに着替えてゆくのだろう。
時代が移れば、その時代の子が「素敵だ」と思う類の服に。
そしてSD体制が敷かれた今の時代に、ピーターパンが着ている服は…。
(赤いマントがついているんだよ)
マントを目にする機会は全く無いのだけれども、なんと言ってもネバーランド。
「永遠の少年」のピーターパンは、今の時代は…。
(ちょっと王子様みたいな感じで…)
颯爽と赤いマントを纏って、剣だって下げているかもしれない。
出会った子供が「かっこいい!」と目を瞠るように。
「ぼくも一緒に、海賊たちと戦うんだ!」と、張り切るように。
(…きっとそうだよ…)
ぼくは本物に会ったんだ、と嬉しくなる。
ピーターパンが残した残像、赤いマントの欠片を見たのが「本物」の証。
置いてゆかれてばかりだけれども、ピーターパンには「会えて」いる。
一緒に駆けてはゆけないだけで、「ぼくはまだ、会えているんだよ」と。
ピーターパンにまだ「会える」のならば、「子供の心」を失くしてはいない。
かなり失くしてしまったけれども、消えてなくなってはいない。
(……ピーターパン……)
忘れないようにするから、ぼくも一緒に連れて行って、と願うシロエは気付かない。
遠い昔に、彼が出会った「ピーターパン」。
赤いマントを纏ったミュウの少年、ジョミー・マーキス・シンが「そうだ」と信じたことを。
彼が自分の「ピーターパン」だということを。
ピーターパンが残した欠片は、今もシロエの心の中。
赤いマントの残像になって、いつも、いつだって少年のままで…。
ピーターパンの欠片・了
※シロエが「ぼくは此処だよ!」と呼んでいた「ピーターパン」。ジョミーの思念波通信で。
だったら覚えていたんだろうか、と考えたわけで…。其処から捏造、赤いマントの残像。