(…これも、これも…)
これも違う、とシロエが机に叩き付ける拳。
E-1077の個室で、唇を噛んで。
モニター画面をきつく睨んで、その画面をも憎むかのように。
(畜生…!)
どうして見付からないんだろう、と悔しくて、ただ堪らない。
とても簡単そうに思えて、けれど決して出て来ない「それ」。
探し続けて、ひたすらに求め続ける情報。
(……記憶を繋ぎ止める方法……)
それが知りたい。
成人検査で子供時代の記憶を奪われ、このステーションに送り込まれた。
両親の顔さえおぼろにぼやけて、故郷の記憶も曖昧になって。
酷い衝撃を受けたけれども、まだそれだけでは終わらなかった。
(…マザー・イライザ…)
E-1077を統治している巨大コンピューター。
地球にいると聞くグランド・マザーの、多分、直属だろうと思う。
(……ママそっくりな格好をして……)
彼女が「シロエ」を呼び出す度に、記憶から「何か」が欠け落ちてゆく。
「コール」と呼ばれる心理療法、それを施される度に。
深い眠りの淵に落とされ、心を分析された末に。
(…目が覚めた時は、すっきりした気がするけれど…)
そう感じるのは「大切な何か」を失くしたからだ、と気付いたのは、いつだったろう。
自分の中から大事な記憶が、今も消されてゆく真実に。
成人検査だけでは終わらず、折を見ては記憶を消してゆく機械。
その目的は、もう分かっている。
システムに逆らう気を起こさぬよう、従順な「羊」を作り上げること。
マザー牧場で暮らす羊を。
大人しく草を食んで育って、大人の社会に出てゆく者を。
そんな「羊」になりたくはない。
過去を奪われ、歯車にされて、どうして幸せになれるだろうか。
いくら憧れの地球に行けても、「自分自身」を失くしたならば。
記憶を奪われ、根無し草になって、機械が与える暮らしに甘んじる人間。
「そうされたのだ」とは、気が付かないで。
自分でも「幸せなのだ」と信じて、何一つ疑わないままで。
(……それでいい奴らも、いるんだけどね……)
殆どの奴はそうじゃないか、と分かってはいても、馴染めはしない。
彼らの仲間になりたくはないし、「自分自身」を失くしたくない。
心からそう願っているのに、どうして忘れてゆくのだろう。
記憶力には自信があるのに、コールされる度に。
決して頭は悪くないのに、大切なことを忘れていって。
(…忘れない方法さえあれば…)
それがあれば、と向かう端末。
モニター画面を食い入るように見詰めて、検索ワードを打ち込んでゆく。
「忘れない方法」だとか、「しっかり記憶する方法」とか。
けれど、どうしても見付けられない。
求める情報は出てはこなくて、代わりに見付かる「記憶術」。
習った知識を忘れないよう、脳味噌に刻み付ける方法。
どう頑張っても、そればかり。
「これも違う」とキーを叩いて、別の情報を表示させても。
検索ワードの切り口を変えて、新しい角度から調べてみても。
(……此処が教育ステーションだから……)
そういう情報ばかり出るのか、他所でやっても「同じ」なのか。
何度も疑念が生じたけれども、恐らくは「何処でやっても」同じ。
機械は「それ」を望まないから。
システムにとっては不都合な記憶、それを「人間」が持ち続けては困るから。
(くそっ…!)
なんて世の中なんだろう、と反吐が出そうで、憎しみの炎が噴き上げる。
どうして世界は「こう」なのだろう、と。
マザー牧場の羊でなくても、皆、従順に「忘れてゆく」。
機械が記憶を操作する度、何の疑問も抱かずに。
忘れ、失くした過去のことなど、振り返ろうとさえもしないで。
(……一人残らず、そうなんだから……)
此処の奴らを見てれば分かる、と握り締める拳。
たまに聞こえてくる故郷の話や、養父母たちの話。
(…懐かしそうに話してるけど…)
話の最後を締めくくる言葉は、判で押したように「同じ」だった。
「もう、はっきりとは覚えていない」と、穏やかに笑んで。
そう言った者も、聞いていた者も、それを「変だ」とも思わないで。
(……子供時代の記憶は、消されて当たり前……)
機械が「そうだ」と教え込むから、大人しい羊たちは信じる。
それが正しい道だと思って、ただ真っ直ぐに歩んでゆくだけ。
コールされる度、更に記憶を奪われても。
「大切な何か」が消えていっても、それも「当然なのだ」と素直に納得して。
何故なら、過去は不要だから。
もう戻れない「過去」のことなど、覚えていたって意味などは無い。
機械は彼らに、こう教える。
「成長は過去を捨て去ること」だと。
過去の自分を捨ててゆくことで、人は成長してゆくのだと。
(……大嘘つき……!)
そんな筈などあるものか、と信じる気には、とてもなれない。
本当に「それ」が正しいとしたら、SD体制が始まる前の時代には…。
(偉い人間など、いやしないさ)
遠い昔には、成人検査も、コールも無かった。
誰もが記憶を失くすことなく、「過去」を糧にして育った筈。
英雄と呼ばれて今の時代まで名が残る者も、学者も、それに哲学者だって。
「過去」は大事なものだと思う。
それが「個人」を作り上げる核で、けして忘れてはならないもの。
「自分自身」を持っていたいのなら、「羊」になりたくないのなら。
だから懸命に探し続ける。
薄れてゆく記憶を繋ぎ止める術を、なんとかして見付けられないかと。
なのに出るのは記憶術ばかり、「教わった知識」を頭に刻む方法ばかり。
(……こうする間にも、またコールされて……)
きっと何かを失うのだろう、「失った」ことを知ったら愕然とするものを。
失くして直ぐには気が付かなくて、後でショックを受ける「何か」を。
(…ぼくはこんなに、忘れたくないのに…)
マザー牧場の羊たちは皆、幸せそうな顔。
子供時代の記憶が薄れて、故郷や養父母たちのことさえ、霞んでいても。
そうなったことを嘆きもしないで、ただ従順に受け入れている。
成長を遂げて「社会」に出るには、それが正しい道だから。
機械が彼らに教える通りに、丸ごと鵜呑みにしてしまって。
(……忘れたくない……)
忘れたくないよ、と叩いたキー。
「ぼくの記憶を消させないで」と、何かに縋るような気持ちで。
この世に神がいると言うなら、どうか祈りが届くようにと。
そうして表示された結果に、瞳を大きく見開いた。
「信じられないもの」が出たから。
本当だとはとても思えず、食い入るように見入った「それ」。
(……忘却は、神が与えた恩恵……)
モニター画面には、そういう文字列があった。
「忘れたくない」と神に祈ったのに、まるで全く逆の言葉が。
忘却が神の恩恵だなどと、機械に都合の良さそうなことが。
(……これも、機械が……!)
何か操作をしているんだよ、と眉を吊り上げ、文字を追ってゆく。
きっと見出しは「そう」であっても、中身の方は違うだろうと。
詳しく読んだら答えは逆で、神は「忘却」など、人に与えはしなかったろうと。
何度も何度も、読み返した「それ」。
他に引っ掛かって来た「似たようなもの」も、端から読んだ。
背筋が冷えてゆく中で。
「嘘だ」と何度も心で叫んで、「機械が弄った情報なんだ」と否定しながら。
けれども、残酷すぎた結末。
機械は「操作していなかった」。
何故なら、遥か昔の文献、それを引き出して確認したって「同じ」だったから。
「忘却は神が与えた恩恵」、その考え方に間違いは無い。
人間が地球しか知らなかった頃から、「そのように」考えられて来た。
辛くて苦しいだけの過去やら、心を責める罪の意識やら。
「そういったもの」を抱えたままでは、人の心は壊れてしまう。
だからこそ、神は「忘却」というものを与えた。
抱え込み過ぎて壊れないよう、過去を忘れてゆけるようにと。
どんなに辛いことがあっても、再び「未来」を描けるように、と。
(……成長は過去を捨て去ること……)
機械が言うのと同じじゃないか、と氷の手で心臓を掴まれたよう。
神は「忘れろ」と言うのだろうか、「忘れたくない」大切な過去を。
繋ぎ止めたいと願う記憶を、いつまでも持っていたいものを。
(…確かに、此処で生きてゆくなら…)
過去などは、不要なのだろう。
抵抗しないで忘れた方が、きっと生き易くはあるだろうけれど…。
(……忘れてしまったら、「ぼく」はいなくなる……)
別のシロエになってしまう、と分かっているから、その「恩恵」は欲しくない。
神が与えたものであろうと、逆らう者には神の恵みが無くなろうとも。
(…ぼくにとっては、忘却なんかは…)
神じゃなくて悪魔の贈り物さ、と心で吐き捨て、端末に向かう。
「記憶を繋ぎ止める方法」、それを知ろうと。
そうすることが神に逆らうことでも、悪魔が用意した道であろうと…。
忘却の意味・了
※「忘却は神の恩恵」という考え方は、本当にあるんですけれど…。SD体制でもないのに。
シロエが聞いたら怒るだろうな、と思った所から生まれたお話。シロエが可哀想ですが。
(……そういえば、明日は……)
インタビューがあるのだったな、とキースは心で独りごちる。
元老として与えられた個室で、「厄介なことだ」と溜息をついて。
とうに夜更けで、側近のマツカも下がらせた後。
彼が淹れていったコーヒーだけが、カップで湯気を立てていた。
(明日はマツカにも、余計な仕事が…)
一つ増えるな、と眺めるコーヒーのカップ。
たかが取材に来る記者とはいえ、何も出さずにいられはしない。
そういった輩にコーヒーを出すのも、マツカの役目。
もっとも、有能なセルジュ辺りに言わせれば…。
(コーヒーを淹れるしか能が無いヘタレ野郎だ、と…)
酷評されるのが「マツカ」でもある。
彼の真価は、そんな所には無いというのに。
今までの数々の暗殺計画、それを未然に防げた陰には、彼がいるのに。
(だが、表向きはコーヒー係…)
そうしておくのが無難でもある。
マツカの「機転」や「暗殺を阻止する力」の源、それを知られるわけにはいかない。
人類には決して持ち得ない力、「サイオン」はミュウの特徴だから。
異分子のミュウは抹殺すべきで、現にそうして来たのだから。
(明日のインタビューの内容も、どうせ…)
キース・アニアンの対ミュウ戦略、そういったことについてだろう。
国家騎士団総司令から、元老に抜擢された男。
ミュウと戦う最前線にいた、初の軍人上がりの元老。
どういう信条を持っているのか、この先、どのようにやってゆくのか。
(…インタビューして、記事を書くのが…)
ジャーナリストたちの仕事の一つで、こうして取材を申し込まれる。
もう幾つ目の取材なのかは、忘れたけれど。
「申し込みは広報部を通してくれ」という逃げ口上も、何度言ったか記憶には無い。
そんなものの数を数えるほど、暇ではないから。
やるべき仕事が山と積まれて、「キース」を待っているのだから。
そうは言っても、取材を逃れることは出来ない。
インタビューに来る記者がいるなら、そういうこと。
自分はともかく、地球にいる偉大なグランド・マザー。
彼女が「不要」と判断したなら、取材の許可など決して下りない。
なにしろ「キース」は多忙なのだし、つまらない取材に時間は割けない。
(以前だったら、本当にくだらん取材も多くて…)
実に辟易させられたがな、と苦笑する。
あれはいつ頃だっただろうか、国家騎士団で名を馳せた時代。
(ジルベスター星系の演習の事故で、大勢の部下たちの命を救って…)
二階級特進という、異例の出世を遂げたりもした。
本当の所は、「演習の事故」ではなかったのに。
ジルベスター・セブンに巣食うミュウたち、彼らを星ごと殲滅しようと試みたのに。
(モビー・ディックには逃げられたが…)
あの赤い星をメギドで砕いて、グランド・マザーに称賛された。
それゆえの特進、少佐から上級大佐へと。
(そうなる前から、つまらん取材が…)
多かったな、と思い出す。
どう考えても「軍人向け」でも、「一般人向け」でもない取材。
記者が差し出す名刺を見なくても、申し込みの時点で気が付いていた。
インタビューを読むのは、「女性たち」だと。
軍事にも政治にも興味など無い、ごくごく平凡な一般女性。
それも若くて未婚の者たち。
普段はスターを追い掛けるような、「頭の軽い」女性が相手の記事。
(インタビューよりも、私の写真を撮る方が…)
大事だったらしい、その手の記者たち。
プロのカメラマンを連れて来て。
「こちらを向いて頂けますか?」などと、ポーズを取らせて切ったシャッター。
「もう一枚」だとか「次は、あちらで」だとか、何枚も。
そうした写真を幾つも鏤め、くだらない記事が書き上げられた。
届いた記事など読む気もしなくて、右から左へ捨てさせていただけだけれども。
(ああいう時代に比べたら…)
ずいぶんと楽になったものだ、と分かっているから、文句は言わない。
つまらない質問をされるようでも、その取材には意味がある。
グランド・マザーが許可するだけの、充分な価値が。
ミュウの侵攻に恐れ慄く者たち、彼らを落ち着かせるための「何か」。
(……キース・アニアンさえいれば……)
SD体制も人類も安泰なのだ、と思わせる記事を、記者たちは書いてくれるのだろう。
多忙な自分は、それを読む暇など無いだろうけれど。
見本誌が部屋に届けられても、「処分しておけ」とマツカに言うだろうけれど。
(まあ、くだらない取材よりはな…)
遥かにマシだ、と今の状態には満足している。
いつから「彼ら」は来なくなったろうか、「キース」をスター扱いした記者たち。
写真を何枚も撮られた上に、質問の内容も呆れるようなものばかり。
「お好きな食べ物は何ですか?」だとか、「休日は何をして過ごしますか?」だとか。
そんなことを知っても、いいことなど何も無さそうなのに。
(……若い女性は、大いに興味があるのだろうが……)
生憎と私はどうでもいいのだ、と何度欠伸を噛み殺したろう。
記者の頭まで「軽そう」ではあっても、彼らも大切なピースの一つ。
「社会」を上手く組み立てたいなら、そういった者たちも取り込まなければ。
広い視野など持っていなくて、「軍人」と「スター」を同列に扱う者であろうと。
まるでスターを追い掛けるように、「キース・アニアン」に夢中だろうと。
(…あの頃よりかは、厳選されたな…)
くだらん取材に来る連中も、とグランド・マザーに感謝する。
「元老」という肩書きにも。
パルテノン入りした元老ともなれば、スターのように追い掛けるには…。
(かなり敷居が高くなるだろうさ)
国家騎士団時代のようにはいかん、と可笑しくなる。
いくら記者たちが申し込もうと、端から拒絶されるだろうから。
どう頑張っても許可は下りずに、全て門前払いだろうから。
若い女性が喜ぶことなど、自分は言えない。
根っからの軍人、それに加えて「特別な」生まれ。
(養父母などいないし、生物としての両親もいないのだからな…)
機械が無から作った生命、それゆえに「完璧な」存在となった。
誰もが羨望の眼差しを注ぐ、エリートの中のエリートとして。
E-1077で育った頃から、異例の出世を続けて来て。
(……だからこそ、スターと混同されるのだがな……)
あちらも似たようなものだからな、と思い浮かべるスターたち。
彼らは「人目を集めるように」育て上げられた、プロフェッショナル。
俳優も歌手も、選りすぐりの美形や、素晴らしい才を持った者たち。
ただ「居る」だけで華があるから、人の目を惹く。
(…スター扱いされるというのは、光栄の至りなのかもしれんが…)
私は好かん、と窓の外へと目を遣った。
宵闇に覆われた高層ビル街、其処に「キース」の姿も映る。
窓は光を反射するから、ガラスが鏡のようになって。
(……キース・アニアン……)
もう「スター扱い」の取材は来ない、とホッと吐息をついたけれども。
窓に映る自分の姿を眺めて、元老の制服に目を細めたけども…。
(………今の私は………)
あの頃の私の姿ではない、と愕然とした。
多忙な日々に追われ続けて、鏡など見てはいなかった。
もちろん「鏡」には向かうのだけれど、ただ身だしなみを整えるだけ。
「自分の顔」をじっくり見詰めはしないし、観察もしない。
女性と違って化粧は必要ないのだから。
(…ジルベスター・セブンから、何年経った……?)
あれから過ぎた歳月の分だけ、重ねた齢。
「それ」が自分の顔に出ていた。
隠しようもない、年相応の面差しとなって。
あの時代には無かった皺が、何本か、肌に刻まれていて。
(……これでは、たとえ断らなくても……)
若い女性が相手の記事など、誰も書かないことだろう。
書いても、「誰も読まない」から。
もしも読む者がいたとしたって、ほんの僅かな女性たちだけ。
遠い昔を思い返して「懐かしいわね」と、「老けたキース」を見る者たち。
つまりは、長い年月が過ぎた。
今ではすっかり、人類の敗色が濃くなるほどに。
ジルベスター・セブンで収めた勝利が、まるで幻だったかのように。
(……そして、ミュウどもは……)
全く年を取らないのだ、と冷えてゆく背筋。
普段から「マツカ」に接しているのに、ついつい忘れ果てていたこと。
ミュウの長、「ジョミー・マーキス・シン」は、今なお若い。
彼の肉体は衰えを知らず、その寿命もまた…。
(人類の三倍以上もあるのだ…!)
伝説と謳われたタイプ・ブルー・オリジン、彼が身をもって示したように。
死の影が差すほどに年を重ねた後にも、身一つでメギドを破壊したのがソルジャー・ブルー。
(…私が老いて、指揮が覚束なくなった時でも…)
若きミュウの長は健在だろう。
その上、更に若い世代のタイプ・ブルーたちが何人もいる。
(……人類とミュウの戦いの……)
行く末は見えているではないか、と、ただ恐ろしい。
明らかにミュウの方が有利で、人類は不利な立場だから。
それでも「キース」は戦うしかなく、「勝ちに行く」以外に道は無いから。
(……これが私の運命なのか……)
肉体的にも「敵うわけがない」敵と戦い、敗れるのが。
あるいは敗北するよりも先に、老いさらばえて死んでゆくのが。
「キース」は、そのように「作られた」から。
機械はミュウを認めないから、ミュウはあくまで「異分子」だから…。
敵わない敵・了
※このお話、絶対、途中で「敵」は「老化」だと勘違いした人がいるな、という気がします。
ミュウの寿命は人類の三倍、それだけで勝ち目が無さそうだよね、と思うんですけど…。
「いたか、そっちは!?」
「捜せ、探せ!」
緊迫した男たちの声が聞こえる。
それに複数の荒々しい足音、あちこちの扉を開け放つ音。
バスルームやら、クローゼットやら。
(……どうして……)
どうしてこんなことになったのだろう、とシロエは息を潜める。
個室の床下にもぐり込んで。
たった一人で暗闇の中で、男たちが床下に気付かないよう、祈りながら。
(…ピーターパン……)
ぼくを助けて、と心で叫ぶけれども、ピーターパンに届くだろうか。
漆黒の宇宙にポツンと浮かんだ、ステーションなどで祈っても。
遠い故郷の星ならともかく、E-1077では。
(……此処で見付かったら……)
おしまいなのだ、と自分でも充分、承知している。
頭上で歩き回る足音の主は、全員がマザー・イライザの手下。
E-1077の保安部隊員で、武装していることは確実。
(このまま此処で撃ち殺されるか…)
連行されて処刑されるか、道は二つに一つしかない。
最高に運が良かったとしても、「シロエ」はいなくなるだろう。
記憶を全て消されてしまって、全く別の人間にされて。
「セキ・レイ・シロエ」の姿形は変わらなくても、中身はまるっきりの別人。
他の候補生たちが「シロエ!」と呼んだら、振り向いても。
笑顔で手を振り、応えたとしても。
(…そんなのはもう、ぼくじゃない…)
ただの「シロエ」という名のエリート候補生、そう、あのキースと競い合ったほどの。
E-1077始まって以来の秀才、彼とさえ肩を並べられるほどの。
そんな形で生き延びたとして、いったい何になるだろう。
自分が自分でなくなるのならば、それは「死んだ」も同然なのに。
(……キース・アニアン……)
そう、発端は、その「キース」だった。
過去の記憶を持たないエリート。
「マザー・イライザ」の申し子と呼ばれる、まるで感情を見せない男。
だから「アンドロイドなのだ」と思った。
マザー・イライザが作った機械仕掛けの人形、「人間のように思考する」だけの。
(あの皮膚の下は、冷たい機械で…)
赤い血などは流れていない、と確信したから、彼の秘密を暴きたくなった。
目の前に真相を突き付けられたら、彼は壊れると考えたから。
機械は所詮は機械なのだし、予測していない事象には弱い。
「真実を知れば」、暴走するだろう「キースの思考プログラム」。
狂ったように喚き散らして自滅するのか、瞬時に沈黙して「壊れる」か。
どちらにしても見物なのだし、それを「この目で」見届けたくなった。
憎い「機械」への仕返しとして。
成人検査で記憶を奪った、マザー・システムへの意趣返しに。
記憶を奪ったテラズ・ナンバー・ファイブと、マザー・イライザとは別物でも。
全く違う機械であっても、コンピューターには違いない。
(…どっちも、マザー・システムの手下…)
地球にあると聞くグランド・マザーが、統括しているコンピューターたち。
機械が統治するSD体制、そのシステムに異を唱えたいなら…。
(…イライザの申し子を、壊してやろうと…)
決心したのに、何処で計算が狂ったろうか。
こんな床下で息を潜めて、見付からないように祈るしかないなんて。
保安部隊に発見されたら、殺されるしかないなんて。
(……そんなのは、嫌だ……)
ピーターパンに会えもしないで、死んでゆくなど。
あの憎らしいマザー・イライザが命じるままに、処刑されるなど。
出来ることなら、ステーションから逃げ出したい。
E-1077を遠く離れて、故郷の星へと飛んでゆきたい。
此処で殺されてしまうよりかは、少しでも望みのある方へ。
(……地球の座標は分からないから……)
夢の星へは行けないけれども、アルテメシアになら行けるだろう。
ステーションでは、宇宙船の操縦も教わったから。
まだ実地では飛んでいないだけで、シミュレーションなら何度もやった。
宇宙船さえ手に入ったなら、アルテメシアへ飛ぶことは…。
(…絶対に、出来る筈なんだ…)
座標を打ち込んでやりさえすれば、オートパイロットで飛ぶことも出来る。
そこそこ優秀な宇宙船なら、ワープも自分一人で可能。
E-1077の宙港に行けば、飛んでゆける船は、きっとある筈。
民間船は立ち入れなくても、それに準ずる船は来るから。
(……新入生を乗せて来る船……)
それを奪えば、宇宙に出られる。
上手く立ち回れば、新入生たちが下船する前に…。
(船を制圧して、乗員を全員、人質に取って…)
新入生たちの命を盾に、アルテメシアへと漕ぎ出せるだろう。
マザー・イライザが如何に冷徹でも、候補生たちの命は失えない。
将来を嘱望されるエリートの卵、彼らの命を失ったなら…。
(グランド・マザーが、何と言うかな…?)
お咎め無しでは済まないだろうし、歯噛みしながら見送ることしか出来ないだろう。
ステーションから離れてゆく船、それに「シロエ」が乗っていたって。
そうして、アルテメシアの方でも、着陸を拒否することは出来ない。
海賊船にも等しい船でも、人質を大勢乗せているから。
もしも自爆でもされようものなら、グランド・マザーに叱責される。
誰も責任を取りたくないなら、着陸許可は下りるだろう。
下船した「シロエ」は殺すにしたって、乗員は生かさねばならないから。
(……そうすれば、帰れる……)
アルテメシアに、故郷のエネルゲイアに。
もう顔さえも思い出せない両親、けれど片時も忘れてはいない。
こんな時でも「帰りたい」のが故郷の星で、「会いたい」人が両親だから。
人質を取って帰った「シロエ」は、両親に再会出来るだろうか。
下船したなら、即座に殺されそうだけれども…。
(…まだ人質を取っていたなら…)
アルテメシアの上層部だって、考えざるを得ないだろう。
「セキ・レイ・シロエ」の要求通りに、かつての養父母を連れて来ることを。
彼らを船に乗船させるか、ただ宙港へ呼んで「顔を見せる」だけかは謎だけれども。
(……運が良ければ、パパとママを……)
人質と交換に出来るだろうか。
全員を解放してしまわずに、一部の者だけ船から出せば…。
(代わりに、ぼくのパパとママを乗せて…)
残りの人質は確保したまま、更に要求を突き付けられる。
船にエネルギーを補給しろとか、「地球の座標を教えろ」だとか。
候補生たちの命が惜しい上層部は、その要求を飲むしかない。
「シロエが逃げる」と分かっていても。
まんまと再会を遂げた両親、彼らを連れて地球に向かうと、承知していても。
(…撃墜しようにも、人質がいるしね…)
手も足も出ない筈なんだ、と考えるけれど。
ステーションの宙港に行きさえすれば、その選択肢があるのだけれど…。
(……キース・アニアン……)
その前に、あいつの歪んだ顔を、と思ってしまう。
いつも取り澄ましたトップエリート、彼が醜く取り乱すのを。
ピーターパンの本に隠した真実、それを目の前に突き付けてやって。
フロア001で撮影して来た、キースの「ゆりかご」。
胎児や「キース」の標本を見せて、あのエリートを追い詰めたい、と。
それは破滅だと分かっている。
その道を行けば、もう故郷には戻れはしない。
キースに会う方を選んだならば、確実に保安部隊に捕まる。
なにしろ個室は監視されていて、この床下のようにはいかない。
どの個室にもある「マザー・イライザ」の端末、それが「いつでも見ている」から。
個室でキースを捕まえなくても、それ以外の場所も、条件は同じ。
「キース・アニアン」がいるような場所は、何処だって「見られている」だろう。
完璧な「機械の申し子」の彼は、日の当たらない場所に行くことはない。
こんな床下に入りはしないし、通気口を伝ってゆくこともない。
だから「キースに会ったら」終わり。
其処でマザー・イライザの瞳に捕まり、保安部隊が追って来る。
「セキ・レイ・シロエ」を処分するために。
キースの前では撃たないにしても、引き摺ってゆかれて殺されるだけ。
それが嫌なら、故郷に帰りたいのなら…。
(…通気口を伝って、宙港に行って…)
新入生を乗せた船が無くても、めぼしい船を奪えばいい。
そのための手段は、いくらでもある。
武器が無くても、頭を使いさえすれば。
(……でも、ぼくは……)
キースを追い詰めてやりたいんだ、と握り締める拳。
それで命を失おうとも、それもまた自分の選んだ道には違いないから。
「機械の申し子」を嘲笑うことで、機械に復讐してやりたいから。
(……キース・アニアン……)
今に見てろ、と息を潜めて、笑みを浮かべるシロエは知らない。
そう「考える」思考そのものが、マザー・イライザの狙いなことを。
そのためにシロエが「選ばれた」ことも、破滅までがイライザの目的なことも。
自由なのだと信じているから。
彼が「自由」を忘れないことも、全ては機械の手の中なのに…。
仕組まれた自由・了
※キースの正体を知ったシロエは、捕まってサイオンチェックされたわけですが…。
脱出した後、どうしてステーションから逃げなかったか、それが気になって書いたお話。
(……増える一方というヤツか……)
厄介なことだ、とキースが漏らした溜息。
首都惑星ノアに与えられた個室で、書類をバサリと机の上に投げ出して。
もう夜は更けて、側近のマツカも下がらせた後。
マツカが淹れていったコーヒー、そのカップが湯気を立てているだけ。
コーヒーの湯気は香り高いけれど、それを嗅いでも心から悩みは消えない。
ミュウは増えてゆく一方だから。
今日も落とされた惑星が一つ、そして逃げ出す難民も増える。
人類とミュウは相容れないから。
一つの星に同じ種族が住めはしないし、ミュウが来たなら人類は逃げる。
(……移民船は、地獄だと聞くのだがな……)
密かに広がっている風聞。
ノアまでは聞こえて来ないけれども、上層部の者なら知っていること。
ただし、関心があったなら。
ミュウを恐れて逃げ出す人々、彼らを心に留めていたなら。
(移民船に乗るには、とてつもない金が必要で…)
全財産を処分した金で、乗り込む者さえあるという。
そうして移民船に乗れても、船の環境は劣悪らしい。
本来だったら個室だったろう部屋、それを改造してあるなどは当たり前。
狭い部屋に多くの者を詰め込み、食事も調理などしてはいなくて…。
(レトルトパックの非常食ばかり…)
配って済ませて、苦情には耳を傾けもしない。
(聞く耳などは持たないどころか、うるさい奴は…)
真空の宇宙に捨ててゆくのだという、酷い噂が流れている。
冷凍睡眠用のカプセル、その中に無理に押し込んで。
宇宙葬よろしく、生きたまま宇宙に放り出して。
(そういう噂が絶えないのだが……)
それでも人は逃げ出すらしい。
ミュウが陥落させた星から、首都惑星ノアへ移民しようと。
厄介な、と投げ出した書類は、ミュウに関するものではない。
ミュウも関係しているけれども、人類の方に関わること。
(移民船の数が増えてゆくほど、ミュウのキャリアも…)
多く見付かるというわけだ、と視線を遣った窓の外。
漆黒の夜空と、その空の下に広がる街。
其処で暮らしている住民たちは、何も知らない。
移民船が来ていることは知っていても、その船に纏わる噂などは。
ミュウのキャリアが増えていることも、彼らが何処へ消えたのかも。
(……今日だけでも、二件……)
宙港で「ちょっとした騒ぎ」が起こった。
ミュウのスパイが入り込まないよう、実施している入国審査。
セキュリティーゲートに仕込んだセンサー、それがミュウ因子の有無を検査する。
陽性だったら、鳴り響くアラーム。
該当者は直ちに隔離された上、収容所へ送られる決まりだけども…。
(…大人しく連行される者など、何処にもいるわけがない)
幼い子供だったらともかく、成人している大人なら。
ミュウが何かを知っているなら、誰であろうと抗うだろう。
自分の命と、自由を守り抜くために。
収容所に送られることも嫌なら、処分されることも御免だろうから。
(だが、結局は…)
保安部隊に取り押さえられるか、今日も一件、起こったように…。
(サイオンを発動させた挙句に、その場で射殺…)
そういう末路を辿るのが常。
ミュウのキャリアはそれで全てが終わりだけれども、問題は周囲の一般人たち。
ただ「宙港に居合わせただけ」で、惨劇を目撃することになる。
一般市民として生きていたなら、一生、縁が無いものを。
引き摺られてゆくミュウはともかく、包囲され、射殺されるミュウ。
火を噴く銃器に、飛び散る血飛沫。
倒れ、死んでゆく者の身体から溢れ出す血や、断末魔の苦悶の表情やら。
(……そういった記憶を持ったままでは……)
人は精神の均衡を欠く。
運悪く居合わせた子供でなくても、立派に成人した大人でも。
(PTSDというヤツだ……)
精神的外傷、いわゆる心に負った傷。
それが後々まで癒えないままで、様々なトラブルを引き起こす。
何かのはずみにフラッシュバックし、いきなりパニックに陥るだとか、気を失うとか。
(そうでなくても、憶えていられては都合が悪いのだ……)
我々の世界においてはな、と顎に当てた手。
SD体制の社会の中では、一般市民は「何も知らない」者であるべき。
社会を構成してゆくためには、その方が都合が良いのだから。
機械が治める世界が抱える、不条理や矛盾といったもの。
そうしたものには、気が付かないでいて貰わねば。
社会を壊さないためには。
滅びゆこうとしている母なる地球を、もう一度蘇らせるためには。
(…都合の悪い記憶は、処理をさせねば…)
宙港で彼らが目にしてしまった、ミュウのキャリアが「殺される」場面。
そんな凄惨な記憶は要らない。
ミュウといえども「身体の構造」は人類と同じで、その血は赤い。
射殺されたのがミュウであっても、目撃者が受ける衝撃は「人類が射殺された」時と全く同じ。
だから記憶は「消さねばならない」。
居合わせた者たちを一人残らず、チェックしておいて。
彼らの行動を追跡し続け、タイミングを選んで「消去する」記憶。
担当の技師が、手際よく。
記憶を遡り、リサーチしながら「消すべきもの」を選び出して。
該当するものを全て消したら、別の記憶を流し込む。
「宙港では、何も無かった」と。
いつも通りに行き交う人々、そういう類の偽の記憶を与えてやる。
後々、食い違うことが無いよう、記憶処理を受けた者、全員に。
報告書には、そのことも付記されていた。
記憶処理が必要な者が何人いるのか、いつまでに処理を終える予定か。
(……こうやってミュウが増えていったら……)
そのシステムにも、改革が必要になるだろう。
記憶の処理を続ける技師たち、彼らも「人」には違いない。
他の誰かの記憶を消したり、また植え付けたりしてゆく作業は、システムに疑いを抱かせる。
作業をしている自分たちの方も、「同じ目に遭っている」のでは、と。
都合の悪い記憶は消されて、別の記憶と置き換えられて「今」があるのでは、と。
(…そして実際、その通りなのだ…)
成人検査での記憶の消去に始まり、ありとあらゆる場面で操作をされるのが「記憶」。
軍人のような特殊なケースを除けば、殆どの者が経験すること。
それを「経験した」ことさえも、知らないままに。
自分の記憶は「本物」なのだと、信じ込んで生きているのが人類。
実の所は、消されて継ぎはぎだらけなのに。
あちこちに穴が開いているのを、機械が作った偽の記憶が埋めているのに。
(……初めて見たのは、ステーションだった……)
E-1077だった、と今も鮮明に思い出せる。
ミュウのキャリアだった「シロエ」のことを、ステーション中の生徒が「忘れた」。
誰に尋ねても「知りませんけど」だとか、「そんな子、いてましたっけ?」といった具合に。
(…まるで私の方が「おかしい」かのように…)
皆が不審そうに見るものだから、あの時は心底、恐ろしかった。
サムが「ジョミーを忘れた」時には、まだ、それほどでもなかったのに。
「マザー・イライザの仕業なのだ」と憎みはしても、背筋が凍るほどまでは…。
(いかなかったし、そんなものだと…)
システムに理解を示しもした。
「仕方ないのだ」と、SD体制の仕組みを思い返して。
けれども、シロエの時は違った。
「自分一人だけが」彼を忘れていなかったから。
しかも「忘れずに済んだ」シロエを、「処分させられた」のが自分だから。
(……あの時の私と同じように……)
記憶処理を続けている技師たちも、疑念を抱いて、いずれ裏切るかもしれない。
消すべき記憶を消さずにおいて、SD体制の根幹を揺るがせることも…。
(無いとは言えんし、彼らの記憶の処理の回数を…)
今の既定の数より増やして、作業内容を早めに書き換えるべき。
「蟻の穴から堤が崩れる」の言葉通りに、システムが崩れたら大変だから。
これ以上、ミュウが増えるようなら、もう明日にでも…。
(パルテノンに進言するか、グランド・マザーに提案するか…)
どちらが良いか、と考え始めて、ゾクリとした。
記憶の処理が「当たり前」ならば、「自分の記憶」はどうなのだろう。
一度も消されたことが無いから、疑いさえもしなかった。
「私は、特別な存在なのだ」と。
機械が無から作った生命、ゆえに機械も手出しはしない、と。
(だが、誰が……)
そうだと保証してくれたのだ、と冷えてゆく背中。
「自分は特別な存在なのだ」と考えることも、あるいは機械が…。
(…都合の悪い記憶を消させて、そういう思考を持つように…)
仕向けていないと、いったい誰が言えるだろうか。
そう、「自分さえも」そう言えはしない。
機械が作った生命ならば、思考も、持っている記憶の全ても…。
(……何もかも、機械の思いのままに……)
操作されていても不思議ではないし、むしろ「その方が」自然だろう。
記憶を消されて、植え付けられて、何もかもシステムに都合よく。
いつか人類の指導者となるべく、理想の人間に仕立てられて。
(……まさかな……)
まさか、と今は思うけれども、それさえも「忘れる」かもしれない。
「キース」は「作られた生命」だから。
機械が無から作った命は、機械が好きに弄った所で、神さえも文句は言わないから…。
処理される記憶・了
※SD体制では当たり前なのが「記憶の処理」。原作はもちろん、アニテラの世界でも。
キースは無縁なわけですけれども、その特別っぷりを考えていたら、こんな話に…。
(……どんどん記憶が薄れていく……)
本当に実感が無くなってゆく、とシロエが覗き込む画面。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで。
画面の向こうには、エネルゲイア。
育英惑星アルテメシアの、技術関係のエキスパートを育てる都市。
流れる音声に耳を傾けなくても、そのくらいは分かっているのだけれど…。
(…ぼくが育った場所なのに…)
まるで無いのが「懐かしい」と感じること。
故郷は、今でも懐かしいのに。
帰りたいと常に願っているのに、何故か感じない「懐かしさ」。
エネルゲイアの映像を見ても、「此処にいたのだ」という気がしない。
育った家も分からなければ、住所も覚えていないほどだから。
(テラズ・ナンバー・ファイブに消されて…)
曖昧になってしまった記憶。
顔さえ思い出せない両親。
肝心の面差しが、焼け焦げてしまった写真みたいに穴だらけで。
瞳の色すら分からないから、「どんな顔だったか」掴めはしない。
どんなに記憶を手繰ってみても。
思い出そうと足掻いてみても、奪われた記憶は戻っては来ない。
しかも日に日に薄れてゆくから、一層、不安が増してゆくだけ。
「ぼくも、いつかは…」と、寒くなる背筋。
ステーションの候補生たちと同じに、「全部、忘れるかもしれない」と。
そうして機械に従順になって、「マザー牧場の羊」になる日が訪れるかも、と。
「羊になる」のは御免だと思う。
けして全てを忘れはしないし、いつかは記憶を取り戻したい。
機械が治める歪んだ世界の頂点に立って。
国家主席の座に昇り詰めて、機械に「止まれ」と命令して。
そうする前には、「ぼくの記憶を返せ」と命じる。
機械が奪った記憶だったら、きっと機械は「戻すことも出来る」筈だから。
「セキ・レイ・シロエ」から消した記憶を、また植え直して。
(…その日が来るまで、忘れるもんか…)
ぼくは絶対に忘れない、と思うけれども、どうなのだろう。
本当に敵う相手かどうかも、分からないのに。
国家主席になるよりも前に、何もかも、忘れさせられたなら…。
(…ぼくだって、羊…)
羊になったと思いもしないで、それを悔しいと感じもせずに。
マザー・イライザに素直に従い、いずれは地球にあるグランド・マザーに…。
(何の疑いも持たないままで…)
言われるままに任務に勤しみ、出世を遂げてゆくかもしれない。
メンバーズ・エリートの道を歩んで、いずれはパルテノンに入って。
元老として出世し、名を上げた後は、国家主席に昇進して。
(……結末は、同じなんだけど……)
まるで違う、と恐ろしくなる。
このまま進めば、そうなるのかもしれないから。
コールされる度に薄れる記憶を、繋ぎ止めておく術も無いから。
画面に映し出される映像。
ピンとくる場所は一つも無いまま、エネルゲイアの案内が続く。
高層ビルやら、家族連れが大勢歩く街やら、そういったものを紹介して。
かつて「シロエがいた」筈の場所を、実感は伴わないままで。
(…こんなモノ…)
眺めても、何になるのだろう。
記憶が戻って来る筈もなくて、手掛かりさえも見付からない。
「ぼくの家だ」と思いもしないし、「此処を歩いた」と心が躍りもしないから。
画面の向こうを流れてゆくのは、「知っていた筈の場所」というだけ。
今の自分は「知らない」のに。
何を見たって、「こうだったっけ?」と疑問が浮かびさえもするのに。
エネルゲイアを紹介する映像は、あくまで「一般向け」のサービス。
不都合なものを映しはしないし、加工してある可能性もある。
エネルゲイアで育った子供が、「ぼくの家だ」と、場所を特定できないように。
偽の画像を混ぜるくらいは、ごく簡単なことなのだから。
(……そうでなくても……)
子供たちが学ぶ学校。
全景も教室も映るけれども、「学校の名前」は出て来ない。
何処にあるのか、地図さえも出ない。
「学校」は全て同じなのかも、映像からは分かりはしない。
エネルゲイアにある学校だったら、どれも似たような建物なのか。
グラウンドなども「そっくり同じ」で、見分けが付かないくらいなのか。
(…分からないよね…)
映っているのが、自分の通った学校なのか、そうでないのかは。
ただでも記憶が薄れているから、「これだ」と思う決め手が無くて。
けれど、「見なければ」忘れるだろう。
エネルゲイアという場所を。
間違いなく自分が育った「故郷」を、いつの間にやら。
故郷への関心を失くしてしまえば、機械の思う壺なのだから。
(…ぼくには要らない記憶なんだ、と判断されたら…)
きっと今以上に忘れてしまう。
懸命にしがみついていないと、コールされた時に…。
(もう要らない、って…)
あっさり消されて、思い出すことも出来なくなる。
ただ漠然と「エネルゲイア」の名前を覚えているだけになって。
誰かに「故郷は?」と尋ねられたら、「エネルゲイア」と答えられたら充分だから。
(……嫌だ、そんなの……!)
たとえ実感を伴わなくても、覚えていたい。
高層ビルが幾つも立ち並んでいた、故郷のことを。
歩いた記憶は全く無くても、家族連れで賑わう町の中心部を。
(…この次は…)
プレイランドが映るんだっけ、と眺める画面。
もう何度となく繰り返して見て、映像の流れは馴染んだもの。
じきに切り替わったカメラの視点は、プレイランドを捉えている。
幼い子たちに人気の場所。
コースターやら、観覧車やらと、盛り沢山で。
(……ぼくだって、此処で……)
パパやママと遊んだんだよね、と顔が綻ぶ。
両親の顔立ちはおぼろになっても、プレイランドは「まだ覚えている」。
順番を待って、やっと乗り込めたコースター。
思った以上に速かったことも、ちょっぴり「怖い」と感じたことも。
(…うん、大丈夫…)
全部忘れたわけじゃないよ、とホッとする心。
観覧車だって、とても楽しかった。
遥か上から見下ろした町は、もう覚えてはいなくても。
隣に、向かいに座っていた両親、二人の顔は思い出せなくても。
(…ぼくの隣がママだったよね?)
向かいの席にパパがいたよね、とプレイランドの映像を見る。
幼かった自分が乗っていたのは、観覧車のゴンドラの「どれ」だったろう、と。
今も現役で動いているのか、それとも交換されたのか。
(どうなのかな…?)
そこまでのことは分からないよね、と考えた所で気が付いた。
プレイランドは、何処の育英都市にも存在しているもの。
健全な子供を育てるためには、欠かせない施設。
映像とセットの音声でも、そう言っている。
「エネルゲイアでは…」とプレイランドの名前を告げて。
同じアルテメシアにある『アタラクシア』だと、「ドリームワールドと呼ばれています」と。
(……ドリームワールド……)
エネルゲイアのは、そうは呼ばれていなかった。
映像の音声とテロップも、それを裏付けている。
けれども、プレイランド自体は…。
(…何処の育英都市にもあって、子供は誰でも…)
養父母に連れて行って貰って、其処で楽しく遊ぶもの。
コースターやら、観覧車に乗って。
どんな子供でも「持っている」のが、プレイランドで遊んだ経験。
それは「必要なこと」だから。
子供が育ってゆく過程では、プレイランドは「外せない」から。
(……だとしたら……)
もしかしたら、とゾクリと凍えてしまった背中。
機械が「それを望む」のだったら、「覚えている」プレイランドの記憶は…。
(…本物じゃなくて、機械が作った…?)
成人検査で記憶を奪って、書き換えた時に。
E-1077へ送り込む前に、「機械に都合がいいように」。
理想とする「プレイランドの記憶」を刷り込んで。
「セキ・レイ・シロエ」の個性は無視して、「どんな人間にも」合うように。
(…コースターの行列、大人しく待ったと思っているけど…)
そうではなかったかもしれない。
「ぼくの順番、ちっとも来ない」と膨れていたとか、怒っただとか。
それを宥めるのに、両親が、とても苦労したとか。
(…順番が待てない子供なんかは…)
機械にとっては、理想的とは言えないだろう。
反抗的な子供よりかは、「大人しく待てる」子供の方が…。
(……ずっといいのに決まっているから……)
あるいは「書き換えた」だろうか。
自分では「覚えている」つもりでも。
「こうだったよね?」と思う他の記憶も、それと同じで…。
(…機械が書き換えてしまったとか…?)
まさか、と身体が震えるけれども、有り得る話。
今の世界は、機械が統治しているから。
世界の全ては、「機械の都合」が優先だから。
(……ぼくの記憶も……)
事実とは違うのかもしれない、と考えただけで、ただ恐ろしい。
もしもそうなら、「逆らい続けて」生きてゆけるか、危ういから。
自分でも全く気付かない内に、いつか自分も「羊になる」かもしれないから…。
羊になる日・了
※プレイランドは何処の育英都市にもある筈だよね、と思った所から出来たお話。
必要不可欠な施設だったら、其処の記憶も、機械に都合のいいものだけなのかもね、と。
