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カテゴリー「地球へ…」の記事一覧

(……どんどん記憶が薄れていく……)
 本当に実感が無くなってゆく、とシロエが覗き込む画面。
 E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで。
 画面の向こうには、エネルゲイア。
 育英惑星アルテメシアの、技術関係のエキスパートを育てる都市。
 流れる音声に耳を傾けなくても、そのくらいは分かっているのだけれど…。
(…ぼくが育った場所なのに…)
 まるで無いのが「懐かしい」と感じること。
 故郷は、今でも懐かしいのに。
 帰りたいと常に願っているのに、何故か感じない「懐かしさ」。
 エネルゲイアの映像を見ても、「此処にいたのだ」という気がしない。
 育った家も分からなければ、住所も覚えていないほどだから。
(テラズ・ナンバー・ファイブに消されて…)
 曖昧になってしまった記憶。
 顔さえ思い出せない両親。
 肝心の面差しが、焼け焦げてしまった写真みたいに穴だらけで。
 瞳の色すら分からないから、「どんな顔だったか」掴めはしない。
 どんなに記憶を手繰ってみても。
 思い出そうと足掻いてみても、奪われた記憶は戻っては来ない。
 しかも日に日に薄れてゆくから、一層、不安が増してゆくだけ。
 「ぼくも、いつかは…」と、寒くなる背筋。
 ステーションの候補生たちと同じに、「全部、忘れるかもしれない」と。
 そうして機械に従順になって、「マザー牧場の羊」になる日が訪れるかも、と。


 「羊になる」のは御免だと思う。
 けして全てを忘れはしないし、いつかは記憶を取り戻したい。
 機械が治める歪んだ世界の頂点に立って。
 国家主席の座に昇り詰めて、機械に「止まれ」と命令して。
 そうする前には、「ぼくの記憶を返せ」と命じる。
 機械が奪った記憶だったら、きっと機械は「戻すことも出来る」筈だから。
 「セキ・レイ・シロエ」から消した記憶を、また植え直して。
(…その日が来るまで、忘れるもんか…)
 ぼくは絶対に忘れない、と思うけれども、どうなのだろう。
 本当に敵う相手かどうかも、分からないのに。
 国家主席になるよりも前に、何もかも、忘れさせられたなら…。
(…ぼくだって、羊…)
 羊になったと思いもしないで、それを悔しいと感じもせずに。
 マザー・イライザに素直に従い、いずれは地球にあるグランド・マザーに…。
(何の疑いも持たないままで…)
 言われるままに任務に勤しみ、出世を遂げてゆくかもしれない。
 メンバーズ・エリートの道を歩んで、いずれはパルテノンに入って。
 元老として出世し、名を上げた後は、国家主席に昇進して。
(……結末は、同じなんだけど……)
 まるで違う、と恐ろしくなる。
 このまま進めば、そうなるのかもしれないから。
 コールされる度に薄れる記憶を、繋ぎ止めておく術も無いから。


 画面に映し出される映像。
 ピンとくる場所は一つも無いまま、エネルゲイアの案内が続く。
 高層ビルやら、家族連れが大勢歩く街やら、そういったものを紹介して。
 かつて「シロエがいた」筈の場所を、実感は伴わないままで。
(…こんなモノ…)
 眺めても、何になるのだろう。
 記憶が戻って来る筈もなくて、手掛かりさえも見付からない。
 「ぼくの家だ」と思いもしないし、「此処を歩いた」と心が躍りもしないから。
 画面の向こうを流れてゆくのは、「知っていた筈の場所」というだけ。
 今の自分は「知らない」のに。
 何を見たって、「こうだったっけ?」と疑問が浮かびさえもするのに。
 エネルゲイアを紹介する映像は、あくまで「一般向け」のサービス。
 不都合なものを映しはしないし、加工してある可能性もある。
 エネルゲイアで育った子供が、「ぼくの家だ」と、場所を特定できないように。
 偽の画像を混ぜるくらいは、ごく簡単なことなのだから。
(……そうでなくても……)
 子供たちが学ぶ学校。
 全景も教室も映るけれども、「学校の名前」は出て来ない。
 何処にあるのか、地図さえも出ない。
 「学校」は全て同じなのかも、映像からは分かりはしない。
 エネルゲイアにある学校だったら、どれも似たような建物なのか。
 グラウンドなども「そっくり同じ」で、見分けが付かないくらいなのか。
(…分からないよね…)
 映っているのが、自分の通った学校なのか、そうでないのかは。
 ただでも記憶が薄れているから、「これだ」と思う決め手が無くて。


 けれど、「見なければ」忘れるだろう。
 エネルゲイアという場所を。
 間違いなく自分が育った「故郷」を、いつの間にやら。
 故郷への関心を失くしてしまえば、機械の思う壺なのだから。
(…ぼくには要らない記憶なんだ、と判断されたら…)
 きっと今以上に忘れてしまう。
 懸命にしがみついていないと、コールされた時に…。
(もう要らない、って…)
 あっさり消されて、思い出すことも出来なくなる。
 ただ漠然と「エネルゲイア」の名前を覚えているだけになって。
 誰かに「故郷は?」と尋ねられたら、「エネルゲイア」と答えられたら充分だから。
(……嫌だ、そんなの……!)
 たとえ実感を伴わなくても、覚えていたい。
 高層ビルが幾つも立ち並んでいた、故郷のことを。
 歩いた記憶は全く無くても、家族連れで賑わう町の中心部を。
(…この次は…)
 プレイランドが映るんだっけ、と眺める画面。
 もう何度となく繰り返して見て、映像の流れは馴染んだもの。
 じきに切り替わったカメラの視点は、プレイランドを捉えている。
 幼い子たちに人気の場所。
 コースターやら、観覧車やらと、盛り沢山で。
(……ぼくだって、此処で……)
 パパやママと遊んだんだよね、と顔が綻ぶ。
 両親の顔立ちはおぼろになっても、プレイランドは「まだ覚えている」。
 順番を待って、やっと乗り込めたコースター。
 思った以上に速かったことも、ちょっぴり「怖い」と感じたことも。


(…うん、大丈夫…)
 全部忘れたわけじゃないよ、とホッとする心。
 観覧車だって、とても楽しかった。
 遥か上から見下ろした町は、もう覚えてはいなくても。
 隣に、向かいに座っていた両親、二人の顔は思い出せなくても。
(…ぼくの隣がママだったよね?)
 向かいの席にパパがいたよね、とプレイランドの映像を見る。
 幼かった自分が乗っていたのは、観覧車のゴンドラの「どれ」だったろう、と。
 今も現役で動いているのか、それとも交換されたのか。
(どうなのかな…?)
 そこまでのことは分からないよね、と考えた所で気が付いた。
 プレイランドは、何処の育英都市にも存在しているもの。
 健全な子供を育てるためには、欠かせない施設。
 映像とセットの音声でも、そう言っている。
 「エネルゲイアでは…」とプレイランドの名前を告げて。
 同じアルテメシアにある『アタラクシア』だと、「ドリームワールドと呼ばれています」と。
(……ドリームワールド……)
 エネルゲイアのは、そうは呼ばれていなかった。
 映像の音声とテロップも、それを裏付けている。
 けれども、プレイランド自体は…。
(…何処の育英都市にもあって、子供は誰でも…)
 養父母に連れて行って貰って、其処で楽しく遊ぶもの。
 コースターやら、観覧車に乗って。
 どんな子供でも「持っている」のが、プレイランドで遊んだ経験。
 それは「必要なこと」だから。
 子供が育ってゆく過程では、プレイランドは「外せない」から。


(……だとしたら……)
 もしかしたら、とゾクリと凍えてしまった背中。
 機械が「それを望む」のだったら、「覚えている」プレイランドの記憶は…。
(…本物じゃなくて、機械が作った…?)
 成人検査で記憶を奪って、書き換えた時に。
 E-1077へ送り込む前に、「機械に都合がいいように」。
 理想とする「プレイランドの記憶」を刷り込んで。
 「セキ・レイ・シロエ」の個性は無視して、「どんな人間にも」合うように。
(…コースターの行列、大人しく待ったと思っているけど…)
 そうではなかったかもしれない。
 「ぼくの順番、ちっとも来ない」と膨れていたとか、怒っただとか。
 それを宥めるのに、両親が、とても苦労したとか。
(…順番が待てない子供なんかは…)
 機械にとっては、理想的とは言えないだろう。
 反抗的な子供よりかは、「大人しく待てる」子供の方が…。
(……ずっといいのに決まっているから……)
 あるいは「書き換えた」だろうか。
 自分では「覚えている」つもりでも。
 「こうだったよね?」と思う他の記憶も、それと同じで…。
(…機械が書き換えてしまったとか…?)
 まさか、と身体が震えるけれども、有り得る話。
 今の世界は、機械が統治しているから。
 世界の全ては、「機械の都合」が優先だから。
(……ぼくの記憶も……)
 事実とは違うのかもしれない、と考えただけで、ただ恐ろしい。
 もしもそうなら、「逆らい続けて」生きてゆけるか、危ういから。
 自分でも全く気付かない内に、いつか自分も「羊になる」かもしれないから…。

 

          羊になる日・了

※プレイランドは何処の育英都市にもある筈だよね、と思った所から出来たお話。
 必要不可欠な施設だったら、其処の記憶も、機械に都合のいいものだけなのかもね、と。









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(ジョミー…。みんなを頼む)
 それがブルーの最後の思念。
 『ヒト』として紡いだ、最後の思い。
 気付けば身体は宇宙に浮いていて、けれども、思念体ではなかった。
 「自分なのだ」とは感じられても、きっと「誰にも」見えないだろう。
 そう、後継者として後を託したジョミーでさえも。
 ナスカの上空で出会った「未来」、タイプ・ブルーの子供たちにも。
(……もしも、見られる者がいるなら……)
 フィシスくらいなものだろうか、とブルーは「自分」の姿を見てみる。
 自分の目にさえも透けて見えるような、頼りなさげな腕や、足やら。
 思念体とは似て非なるもので、恐らく、今は魂だけ。
 依るべき『身体』を失ったせいで、このようになっているのだろう。
 「誰にも捉えられないだろう」と思う姿に。
 それでもブルーが纏っているのは、あまりにも見慣れたソルジャーの衣装。
 キースに撃たれて血まみれになった、その跡は消えているけども。
(…何もかも消えてしまったな…)
 メギドと共に、と見回す宇宙。
 地獄の劫火でナスカを燃やした忌まわしい兵器は、もはや残骸と化していた。
 人類軍の船も同じで、生き残った船が引き揚げてゆく。
 キース・アニアンを乗せた旗艦を、先頭に立てて。
 ぽっかりと大穴が開いてしまった、ジルベスター・エイトを後に残して。


 その遥か彼方、砕け散ってゆくナスカが見えた。
 赤い大地を持っていた星、ブルーは一度も降りなかった星。
 ミュウの楽園だったナスカは、宇宙の藻屑と消えてしまった。
 何人のミュウが逃げ延びられたか、シャングリラは無事に飛び立てたのか。
(……もう何も……)
 感じ取れるものが「此処に」無いなら、白い箱舟は「飛んだ」のだろう。
 あの七人の子供たちを乗せ、「ミュウの未来」へ。
 いつか地球へと繋がる道へと、宇宙の彼方にワープして行って。
(……どうか、皆が無事に……)
 一人でも多く、あの船に乗っているように…、とブルーは祈りを捧げる。
 魂だけしか持たない者でも、祈ることなら出来るから。
 祈りが神に届くものなら、「皆を地球へ」と。
(…ぼくは、船には戻れないけれど…)
 屍さえも戻らないけれど、きっと、その方が良いのだと思う。
 いったい誰が想像したろう、「あんな最期」を。
 弄ぶように銃で何発も撃たれた挙句に、右の瞳まで砕かれるなど。
 直接、命を奪い去ったものは、メギドの爆発。
 けれども、それを生き延びていても、あの有様では助かりはしない。
 元々、寿命が尽きていた上、サイオン・バーストまでをも引き起こしたから。
 ミュウの誰かが「ソルジャー・ブルー」を救い出したところで、それは無駄なこと。
 どうせ助かるわけなどはなくて、そのことが皆にもたらすものは…。
(……悲しみと、人類への激しい憎しみ……)
 そうなったろう、と痛いほどに感じる。
 仲間たちが「ソルジャー・ブルーの最期」を知ったら、憎しみだけが残るのだと。
 ミュウは人類と手を取り合えずに、人類を滅ぼす道を歩む、と。


 「ソルジャー・ブルーの亡骸」すらも、戻っては来ないシャングリラ。
 喪失感が船を包むだろうけれど、「知らない方が良い」こともある。
 長い年月、皆を導いた長が、どう散ったのか。
 惨たらしいほどに傷付けられて、赤い瞳さえ撃たれたなどは…。
(……誰も知らない方がいいんだ)
 知らなかったら、全ては時が癒してくれる。
 深い悲しみを抱えたままでも、仲間たちは未来へ進んでゆける。
 「ソルジャー・ブルー」が命を投げ出し、拓いた道を。
 メギドの炎に焼き尽くされずに、残った船で。
(……きっと、ジョミーがそうしてくれる)
 ナスカを失った今だからこそ、毅然と前を見詰めて立って。
 どうするべきかを自らに問うて、仲間たちに道を指し示して。
 「ソルジャー・ブルー」は、もういないのだし、ソルジャーは「ジョミー」ただ一人。
(…ぼくとは全く違った道を…)
 歩んでゆこうと、ジョミーなら行ってくれると思う。
 「自分」は見られなかった星まで。
 見たいと望んで、けれど叶わず、辿り着けなかった青い地球まで。


(……地球……)
 今ならば、其処へ行けるだろうか、とブルーの心に浮かんだこと。
 魂を縛る「身体」が無いなら、飛んでゆけるのかもしれない。
 その座標さえも知らない星でも、「想いさえ」すれば。
 強く強く「地球へ」と願ったならば、かの星を知る「誰か」の思いに魂を乗せて。
(…人類ならば、知っている筈…)
 青い地球は人類の聖地なのだし、知っている者は少ないだろう。
 けれども、聖地に「住む者」もいれば、「これから向かう者」だっている。
 彼らの心に「在る筈」の地球。
 それを標に飛んでゆけたら、一瞬の内に青い星まで…。
(……行けるかもしれない)
 地球へ、と心に強く念じた。
 どうか地球まで飛べるようにと、其処までの道が開くようにと。
(…………!!)
 感じた、空間を飛び越える時と同じ感覚。
 瞬間移動で飛ぶかのように、魂だけが宇宙(そら)を翔けてゆく。
 それこそ、瞬きするほどの間に。
 飛び越えた先に、夢に見た地球が…。
(……地球……?)
 あれが、と思わず疑った瞳。
 もう肉体の瞳は無くても、捉える像は変わらない筈。
 それなのに……。


(……青い……地球は……?)
 青く輝く母なる星は、と魂だけのブルーの身体が震え出す。
 あの星の何処が「地球」だと言うのか、青さの欠片も無い星の。
 生命は悉く死に絶えたと分かる、砂漠に覆われ、青い海も無い赤茶けた星。
(…あれが…地球だと……?)
 信じたくない気持ちだけれども、「それ」が真実の「地球の姿」。
 魂だけで飛んで来たから、間違えはしない。
 「地球へ」と念じて、導かれた先が「この星」だから。
 其処へ飛んでゆく人類の船、それに乗っている者たちも「地球」を目指しているから。
(……この星が、地球……)
 青い星だと信じていたから、仲間たちに「地球へ」と説き続けた。
 ジョミーにも同じことを話して、其処へ行くよう、自分は最後の最後まで…。
(…促したのではなかったのか?)
 だから、ジョミーは「そうする」だろう。
 地球の本当の姿も知らずに、ひたすらに前へ歩み続けて。
 シャングリラに乗った仲間たちも皆、ジョミーを信じて、その後に続く。
 どれほどの犠牲を払うことになろうと、「青い地球」まで。
 地球まで辿り着かない限りは、「何も解決しない」のだから。
 人類と戦い、滅ぼすにしても、手を取り合うにしても、倒さねばならないSD体制。
 それの要が「地球に在る」から、グランド・マザーは「地球に居る」から。


 長く辛く厳しい旅路の果てに、いつか着くだろう「母なる地球」。
 青く輝く銀河のオアシス、宇宙に浮かんだ一粒の真珠。
 そういう「ご褒美」が待っているから、ミュウたちは迷わず進んでゆける。
 「青い地球へ」を合言葉に。
 いつかその目で地球を見ようと、ブルー自身が「そうだった」ように。
 けれど、これでは「どうなる」のだろう。
 青い地球など幻影に過ぎず、本物は「ただの死の星」ならば。
 これからミュウたちが払う犠牲は、どれほどのものかも知れないのに。
(……それでも、地球に辿り着くしか……)
 道は無いのだ、と分かっているから、せめてシャングリラを追ってゆこうか。
 謝る術さえ今は無くても、「見守る」ことは出来るから。
 旅の途中で潰えた命に、詫びるくらいは出来るだろうから。
(……皆と、地球まで……)
 シャングリラと共に旅してゆこう、とブルーは地球に背を向けた。
 青くない地球を見た仲間の衝撃、それを見る時が怖いけれども。
 その時、皆に謝りたくても、その方法は無いのだけれど。


(……シャングリラへ)
 皆の許へ、と念じて一瞬で翔けた、其処までの宇宙(そら)。
 白い船は悲しみの色を纏って、その灯りさえも悲しげだけれど…。
(……ジョミー……)
 ぼくも行こう、とジョミーの心にそっと寄り添う。
 決意を固めつつある者に。
 悲しみを越えて、前へ進もうとしている「ソルジャー・シン」に。
 この船がどういう道をゆこうと、旅の終わりは、死の星の地球。
 そういう星へと導いたことを、いつの日か、ジョミーに謝れたらいい。
 船の皆にも、出来ることなら、心からの詫びを。
 白いシャングリラが向かう先には、青い地球など無いのだから。
 夢と憧れが崩れ去る日が、ミュウたちの旅の終わりだから…。

 

          青くない星へ・了

※「ブルー追悼は、もう書かない」と言った筈ですが…。転生ネタやってるんですが…。
 アニテラ放映から12周年、干支が一回りした上、元号まで変わってしまった今年。
 「今年くらいは書いておくか」というわけで、2019年7月28日記念作品。
 おりしも原作者様の画業50周年展、只今、京都漫画ミュージアムで開催中。
 9月8日までに行ったら、カフェでブルーのラテアートが飲めます、本当です。











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(……また暴動の鎮圧か……)
 これで何度目になるというのだ、とキースがついた深い溜息。
 首都惑星ノアの、国家騎士団総司令に与えられた個室で。
 とうに夜更けで、もう側近のマツカもいない。
 淹れていったコーヒーが残っているだけ。
 此処でこうして、手に馴染んだカップを傾けるのも…。
(明日から暫く、お預けだな)
 辺境星域で起こった暴動。
 軍まで巻き込み、政府に対する不満を爆発させたもの。
 それを鎮めて、火種が一つも残らないよう、完膚なきまでに殲滅するまでは…。
(…ノアには戻って来られないのだ)
 グランド・マザー、直々の指名。
 「冷徹無比な破壊兵器」と称されるのを、高く買ってのこと。
 マザーの期待は裏切れない。
 そうでなくても、SD体制を維持してゆくには、欠かせない任務。
 何処で暴動が起ころうと。
 幾つの星が叛旗を翻そうとも、悉く鎮圧せねばならない。
 SD体制に「例外」は有り得ないから。
 皆が粛々と機械に従い、統治を受け入れてこそなのだから。
(……それが歪んでいるというのは……)
 嫌というほど分かっている。
 暴動を起こした惑星発の、声明などを読まなくても。
 彼らが主張している「正義」を、わざわざ子細に調べなくても。


 機械が治めている世界。
 人間は全て機械の言いなり、逆らう者には居場所など無い。
 宇宙の何処まで逃れようとも、追手がかかって消されるだけ。
 遠い昔に、「セキ・レイ・シロエ」が、そうなったように。
 まだ候補生で、社会に出てさえいなかったのに。
(…シロエはミュウのキャリアだったが…)
 そんなことなど、些細なこと。
 シロエ自身に「ミュウの自覚」は全く無かった。
 ミュウの特徴とされるサイオン、それを使うのも目にしてはいない。
 たとえ事実がどうであろうと、「キース・アニアン」が知っていたシロエは…。
(……SD体制を受け入れられない、要注意人物……)
 そうでしかなくて、シロエも「そのつもり」だったろう。
 自分がミュウだとは思いもしなくて、「嫌いな機械」に逆らっただけ。
 大切な子供時代の記憶を、成人検査で奪われたから。
 養父母も故郷も、永遠に失くしてしまったから。
(…私は、どちらも持ってはいない…)
 故郷も、育ててくれた養父母たちも。
 もしも故郷があるのだとしたら、ステーションE-1077。
 自分は確かに其処で生まれて、機械に育てられたから。
 マザー・イライザが無から作った生命、養父母さえも持たないモノ。
 成人検査を迎える年まで、ずっと水槽の中だけにいて。
 シロエが「ゆりかご」と呼んでいた場所で、マザー・イライザに養育されて。


 「ヒト」とは言えない生まれの「自分」。
 けれども、作り出された理由は、「ヒトを、より良く導くため」。
 SD体制に異を唱えないよう、皆を機械に従わせて。
 機械に叛旗を翻す者は、シロエのように、端から殺して。
(…今度の暴動鎮圧でも…)
 何百どころか、何千という数の「命」を奪うことだろう。
 反乱軍の船はもちろん、敗色が濃いことを悟って、逃げてゆく民間人たちの船をも…。
(落とせ、と冷たく命じることしか…)
 出来ない立場に「自分」はいる。
 かつて、シロエの練習艇を追い掛け、飛んだ時のように。
 「撃ちなさい」と命じたマザー・イライザ、彼女に逆らえなかったように。
(…いったい、何人の命を奪えば…)
 自分の役目は終わるのだろう。
 「殺せ」と部下に指示する立場を、逃れることが出来るのだろう。
 今の立場に立つよりも前は、自分が「この手で」殺していた。
 シロエと同じに「逆らった者」を。
 SD体制を良しとしないで、機械の統治を拒否した者を。
(……流石に、子供は殺していないが……)
 それだけは、きっと出来ないと思う。
 ジルベスター・セブンで出会った、ミュウの子供も…。
(…私に殺意を抱かなかったら…)
 殺そうとしたりはしなかった。
 あの船に「子供がいる」と知った時は、思い悩んだほどだから。
 逃亡するために船を壊せば、あの「ミュウの子」も命を落としかねない。
(迂闊に爆破したりは出来ん、と…)
 心の底から思ったもの。
 モビー・ディックに乗っているだけの「子供」に罪は無いのだから。
 かつて教材で目にした映像、其処で殺されたミュウの子供も、そうだったから。


 SD体制に逆らう異分子、ミュウの子でさえ「殺せない」自分。
 そんなことなど「してはならない」と、今も何処かで思っている。
 ミュウの子供も殺せないのに、今日までに何人、殺して来たか。
 自分が直接、手を下したのか、部下に「殺させた」のかは、ともかく。
(……百や千では、とても足りんな…)
 万に届いているかもしれない。
 あるいは、億の単位にさえもなっているのだろうか。
 「国家騎士団総司令」にまで出世するには、相応の武勲が必要なもの。
 ジルベスター・セブンのようなケースは、そうそう幾つも転がってはいない。
(…つまり、私の出世の陰には…)
 暴動鎮圧や反乱軍の殲滅、機械に逆らった者たちの粛清。
 文字通りに「血で血を洗う」作戦、それが無数に積み上がっている。
 敵兵はもちろん、命を落とした味方兵士たちの屍が。
 一瞬の爆発で失せた命も、苦悶の果てに消えていった命も。
(……明日からの任務で、また増えるのだ……)
 そうやって儚く消える命と、流される血が。
 「キース・アニアン」が、それを命じて。
(…そして私は、また出世する…)
 もう階級は上がらないけれど、グランド・マザーに称賛されて。
 将来、パルテノンへと送り込みたい、「彼女」の期待を裏切ることなく。
 軍人出身の元老はいない、パルテノン。
 其処へ入って、更に上へと昇るためには…。
(…今よりも、もっと沢山の数の…)
 「命」を奪わねばならないのだろう。
 機械が理想としている世界に、逆らう者を端から消して。
 異分子とされるミュウとなったら、子供でさえも容赦はせずに。


(いくら殺せば、私の役目は終わるのだ…?)
 分からないから、恐ろしくなる。
 いつの日か国家主席に昇り詰めても、まだ屍の数は増えるのだろうか。
 人類が皆、粛々と機械に従わないなら。
 相も変わらず、懲りもしないで、反乱や暴動を繰り返すなら。
(……私の命が終わる時まで……)
 道の先には「殺す」ことしか無いかもしれない。
 グランド・マザーの導きのままに、「殺せ」と部下に命じ続けて。
 明らかに歪んだ「機械の時代」が、滅びることなく、受け継がれるよう。
 そのために「キース」は「作られた」から。
 機械が望んで、機械の手で。
 ヒトは傍から見守っただけで、研究者たちも「見ていた」だけ。
 マザー・イライザが、三十億もの塩基対を合成してゆくのを。
 それを繋いで、DNAという鎖を紡ぐのを。
 「機械の意向」に異を唱えたなら、研究者たちも「消される」から。
 壮大な実験に手を貸し続けて、神の領域を侵す結果になろうとも。
(…誰一人として、逆らえないままで…)
 作り出された「キース・アニアン」。
 その手が罪を重ねてゆく。
 幾つもの命をその手で奪って、部下たちにも殺すように命じて。
 そう、「殺す」ことは「罪」でしかない。
 人類が地球で暮らした頃から。
 一番最初の「ヒト」だったという、アダムとイヴがエデンの園を追われてから。


 カインとアベル。
 人類が最初に犯した殺人、それの加害者と被害者の兄弟。
 兄のカインがアベルを殺して、カインの末裔が「ヒト」だという。
 ヒトは誰でも、カインの血を引いているけれど…。
(…その血さえも、私は持たないのだ…)
 機械が無から作った命は、カインの血など引いてはいない。
 他の者なら、ミュウでさえもが、「カインの血」を継いでいるというのに。
 殺人者の血を引いていながら、「殺すことは罪だ」と、きちんと認識しているのに。
(…彼らが、人を殺すのと…)
 自分が人を殺すのとでは、違うのだろう「罪深さ」。
 ヒト同士ならば、神も許してくれそうだけれど…。
(……ヒトでさえもない、私の場合は……)
 神がいるなら、目を背けるか、憤怒の視線が注がれるものか。
 機械が統治する世界自体が、神には「許し難い」だろうから。
(…考えても、逃れられないのだがな…)
 殺さなければ、殺されるのだ、と自分自身を叱咤する。
 「キース・アニアン」が殺されたならば、今の世界はじきに壊れる。
 機械が作った「理想の指導者」を喪って。
 歪んだ世界が軋み、綻び、きっと異分子のミュウに敗れて。
(…そうならないよう、また殺すしか…)
 ないのだがな、と思う明日からの任務。
 血で染まってゆく、この先の道。
 それでも「歩いてゆく」しかない。
 そのために「キース」は作られたから。
 カインの血を引いていない者でも、その肩に「世界」が乗っているから…。

 

          終わらない罪・了

※キースが殺した人間の数は、きっと多いと思うのですが…。キースの生まれが問題。
 ヒト同士ならば、神も許してくれそうですけど、キースは許して貰えないかも…。










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(……パパ……)
 ママ、とシロエが心に描く両親。
 E-1077の夜の個室で、ベッドの上で膝を抱えて。
 今では顔もぼやけてしまって、定かには思い出せない人たち。
 どんなに記憶の糸を手繰っても、顔の辺りは、まるで焼け焦げた写真のよう。
 瞳の色さえ、その有様では分からない。
 辛うじて記憶に残っているのは、体格だとか、髪の色だとか。
(…会いたいよ……)
 パパたちに会いに帰りたいよ、と思うけれども、家の住所も覚えてはいない。
 「アルテメシアの、エネルゲイア」ということだけしか。
 文字を覚えて直ぐの頃には、得意になって書いたのに。
 何度も何度も、自分の名前と、エネルゲイアの家の住所を。
(……いくら調べても、分からなくて……)
 未だに手掛かりさえも無い。
 エネルゲイアに幾つも並んだ、高層ビルの「どれ」だったのか。
 いったい何階に住んでいたのか、そんな基本の基本でさえも。
(…それに、パパの名前…)
 もしかしたら、と検索した時、見付けた名前が「ミスター・セキ」。
 エネルゲイアで「ミスター・セキ」なら、間違いなく父のことだと思う。
 けれど、そこまで。
 「ミスター・セキ」が何処にいるのか、住所も所属も分からなかった。
 きっとプロテクトされた情報。
 「セキ・レイ・シロエ」が、両親を見付け出せないように。
 連絡を取ろうと試みるとか、密航してでも、故郷まで会いに行けないように。
 今の世の中は「そういった風に」出来ているから。
 十四歳を迎えた子供は、過去の記憶を消されてしまう。
 二度と両親の許へは戻らず、大人の社会で生きてゆくよう。
 機械が治める歪んだ世界で、そうとも知らずに大人しく暮らしてゆけるようにと。


 どうすれば、両親に会えるのだろう。
 懐かしい故郷に戻ったとしても、家の場所さえ分からないのに。
 両親の面差しも覚えていなくて、「パパだ!」と気付けはしないだろうに。
(……ミスター・セキ……)
 データベースにあった情報は、たったそれだけ。
 顔写真などはついていなくて、手掛かりとさえも呼べない状態。
 それ以上のことを知ろうとしたって、出るのはエラーメッセージばかり。
(…パパは、とっても偉かったのに…)
 職業さえ思い出せないけれども、「偉い人物」だったのは確か。
 子供心に「パパは凄い」と、誇らしかった記憶があるから。
 そのことは今も忘れていなくて、「パパは偉い人」だと思っているから。
(……パパが、とっても偉い人なら……)
 もしかしたら、と思い付いたこと。
 いつか自分が偉くなったら、父に会うことが出来るだろうか。
 父の職業が何にしたって、理由をつけて。
(…メンバーズ・エリートに選ばれたなら…)
 軍人の道を歩むけれども、手に入るだろう様々な権限。
 それを使えば、「あるいは」と思う。
 「エネルゲイアのミスター・セキ」を、呼び出して、話すことだって。
 もしも運良く、父の専門が軍事関連のことだったなら…。
(たった一回、会うだけじゃなくて、何回も…)
 会議を重ねて、顔を合わせることだって出来る。
 「ミスター・セキ?」と意見を求めて。
 父の方でも、データと「シロエ」を見比べながら話すのだろう。
 「その件については、私の意見は、こうなりますが」と。
 会議が長引いてくれた時には、その後に、きっと、会食だって。


(……パパに会えたら……)
 今では思い出せない姿も、また鮮やかに蘇る筈。
 相応の年を重ねていたって、「父」には違いないのだから。
 「そうだ、こういう顔だったんだ」と、幼かった頃の記憶と共に。
(…いくら機械が統治してても…)
 メンバーズとして「会う」のだったら、止める権限は持たないだろう。
 「それ」が必要なことならば。
 「メンバーズのシロエ」が、「ミスター・セキ」の助けを要しているのなら。
(……パパの研究……)
 本当に軍事関連だったら、事は簡単に運んでくれる。
 メンバーズとして出世した後、「ミスター・セキ」を呼ばねばならなくなったなら。
(そうやって、パパを呼び出して…)
 最初に会うのは執務室なのか、それとも会議室になるのか。
 父は「シロエ」を分かってくれるか、懐かしそうに笑んでくれるのか。
(…パパたちの記憶は、消さないよね…?)
 子供の方の記憶は消しても、養父母の記憶は消さないと思う。
 それをしたなら、社会が歪んでしまうから。
 育英都市とは、大勢の人が、家族が暮らしている場所。
 其処で「養父母」の記憶を消したら、厄介なことになるだろう。
 隣人などから「お子さんは?」と尋ねられても、答えることが出来ないから。
 「子供なんかが、いましたっけ?」と言おうものなら、誰もが怪しむ。
 「この社会は、何処かおかしくないか」と。
 昨日まで「いた」筈の子供が消えても、「両親が」覚えていないだなんて。
(…そんなの、絶対、有り得ないから…)
 父の方では「シロエ」を覚えていることだろう。
 「あのシロエなのか?」と訝しみながら、呼び出しに応じて来てくれる筈。
 そうして「シロエ」が待っていたなら、その瞬間に…。
(…ぼくだ、って分かってくれるよね…?)
 ずっと昔に家を離れた「息子」だと。
 「シロエ」がこんなに大きくなったと、「今はメンバーズ・エリートなのか」と。


 父が「シロエ」を覚えていたなら、話は早い。
 「もしかして、パパ?」と尋ねた時には、「ああ」と答えてくれるだろう。
 今では思い出せない顔立ち、それを笑顔で一杯にして。
 「ずいぶん立派になったなあ、シロエ」と、懐かしい声で。
(…ちゃんと地球にも行けたのか、って…)
 父は問い掛けてくれるだろうか。
 幼かった日に「ネバーランドよりも素敵な場所さ」と、父が話してくれた「地球」。
 選ばれた人しか行けない地球まで、「シロエ」は行って来たのか、と。
(ぼくが地球まで行っていたなら…)
 たちまち弾むだろう会話。
 「地球はホントに素敵だったよ」と、地球で見て来たことを語って。
 それから父に「ママは元気?」と、母の様子を質問して。
(元気だぞ、って…)
 写真を見せてくれるだろうか、父が持ち歩いていたならば。
 その日は持っていなかったとしても、会議で何度も会えるなら…。
(次に会う時に、持って来よう、って…)
 父なら約束してくれる。
 おぼろになった記憶の中でも、父は、いつでも優しいから。
 「シロエの頼み」は、いつだって聞いてくれていたから。
(…パパが写真を見せてくれたら…)
 母の記憶も、たちまち戻ってくれるのだろう。
 過ぎた月日が、母の上にも重なっていても。
 子供の頃に見ていた顔より、何年分も老けていたって。
(…ママの顔は、ママの顔なんだから…)
 若かった頃の面差しだって、きっと心に蘇る。
 エプロンを着けて、キッチンに立っていた時の顔。
 「今日はシロエの大好物よ」と、微笑む顔が。


(……出世したなら……)
 会えるかもしれない「ミスター・セキ」。
 父に会えたら、見られるかもしれない、母の写真。
(…ぼくの記憶を取り戻すには…)
 社会の仕組みを変えるしかなくて、それには長い時間がかかる。
 メンバーズとして出世した後、頂点にまで昇り詰めないと…。
(…グランド・マザーを止める力は…)
 手に入らないし、奪われた記憶も戻りはしない。
 けれども、「父に会う」ことだったら、それよりも早く出来そうなこと。
 父の職業が何だったのか、それによるとは思うけれども。
(…軍事じゃなくって、テラフォーミングとかの研究だったら…)
 メンバーズの任務と重なるかどうか、自信が無い。
 そうは思っても、可能性があるなら、それを見逃すつもりも無い。
(……何か、口実……)
 上手く見付けて、「ミスター・セキ」を呼び出せばいい。
 「シロエ」に会いに来るように。
 会って、かつての「息子」と再会を遂げられるよう。
(…それが出来るなら、いいんだけどね…)
 夢物語かな、と振り払う「想い」。
 今の所は、曖昧な「夢」に過ぎないから。
 メンバーズ・エリートとしての権限、それが何処まで及ぶものかも分からないから。
(……だけど、夢でも……)
 この夢が叶ってくれればいい、と今は縋らずにはいられない。
 遠い故郷を想う夜には、涙が溢れて止まらないから。
 両親に会いに行きたい気持ちは、どうしても消えてくれないから。
 いくら記憶を消されていても。
 機械が忘れさせた両親、その顔立ちさえ、今では思い出せなくても…。

 

          父に会えたら・了

※シロエが思い付いたこと。いつか出世して「ミスター・セキ」を呼び出すこと。
 それが出来たら、両親の顔を思い出すことが出来るかも、と。夢物語でも、縋りたい夢。









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(…つっ……!)
 切ったな、とキースが眺めた自分の指先。
 右手の人差し指の先、そこに走った赤く細い線。
 たちまちプクリと血が零れ出して、見る間に盛り上がってゆく雫。
(厄介な…)
 書類に落ちたら大変なんだ、と執務机の引き出しから拭くための紙を取り出す。
 整頓された机の上には、そのような紙は置いていないから。
(……まったく……)
 面倒なことだ、と拭い取った血。
 傷の手当てをするための箱は、これまた机に置いてはいない。
(昼間だったら、マツカがいるのだがな…)
 生憎と今はとうに夜更けで、部屋にマツカの姿は無い。
 去る前に淹れていったコーヒー、それが半分残ったカップがあるだけで。
 つまりは「部屋には、いない」側近。
 「其処の薬箱を取ってくれ」と命じる相手は、何処にもいない。
 側近も下がった後の部屋には、セルジュたちのような部下もいないから。
(雑用が増えた、というヤツだ…)
 あと少しで終わりだったのにな、と仕方なく椅子から立ち上がった。
 書類に血の色の染みなど、残せはしない。
 紙で切った傷というのは意外に深くて、放っておいたら、また血が零れる。
 他の書類に引っ掛かった時や、何気なく紙をめくったはずみに。
(…それに、手当てをしておかないと…)
 指の先の傷は侮れん、と分かってもいる。
 利き手は、「何処でも使う」から。
 それを承知で、「触れそうな場所」に毒でも塗られていようものなら…。
(……国家騎士団総司令様の、暗殺計画成功だからな)
 傷があったら、毒の吸収も早い。
 皮膚が覆ってくれていたなら、まだマシだったろう程度の毒でも、死ぬかもしれない。
 紙で切れた傷があるだけで。
 手当てしないで放置した傷が、文字通りに「キース」の命取りとなって。


 執務の中断を余儀なくされた、紙で切った傷。
 手当てを終えて、傷の箇所もきちんと覆った後には、薬箱を元の位置に戻して…。
(本当に、残り少しの所で…)
 とんだ時間を取られたものだ、とチェックしてゆく書類。
 毎日のように山と届けられるのが「書類」なるもの。
 いくら技術が進歩していても、重要なデータはアナログの形で出力される。
 無駄なようでも、それが一番「失われる」リスクが低いから。
 磁気や些細なミスで消えたりしない「もの」だから。
(……現に、シロエの本も残った……)
 スウェナの手を経て、「キース」の手許にやって来た本。
 かつてシロエが大事にしていた、ピーターパンの物語。
 あれが「紙に刷られた本」でなければ、間違いなく消えていただろう。
(紙の本でも、爆発の中で残ったというのが奇跡だが…)
 爆風を受けた場所によっては、そういう奇跡も考えられる。
 表紙があちこち焦げていた本が、運良く、直撃を免れて。
 中に隠されていた「データを収めたチップ」も、紙の本のお蔭で保護されて。
(だが、紙の本でなかったら…)
 シロエの船が爆発した時、木っ端微塵に消えていた筈。
 船のデータを記録するための、ブラックボックスなどとは違って。
(…紙媒体が一番、強いものだからな…)
 遥かな昔に、人類は「それ」を身をもって知った。
 大切な記録は「紙」を使って残さねば、と。
 それゆえに、今も「書類」がある。
 国家騎士団総司令に宛てて、山と刷られる文書の類が。
(新しい紙しか、やって来ないからな…)
 さっきのように指先が切れることもある。
 新品の紙の端は鋭く、刃物のように皮膚を、肉を切るから。
 凶器でさえもない筈の紙に、指先を深く傷付けられて。


 思わぬ時間を取られたけれども、終わった執務。
 書類の束をトントンと揃え、机の端へ押し遣った。
(すっかり冷めてしまったな…)
 いつものことだが、と傾けたカップ。
 マツカが淹れて去ったコーヒー、これを飲み干したら、後は寝るだけ。
 また明日からの仕事に備えて、今日の疲れを残さないよう。
 どんな事態に陥ろうとも、冷静な判断を下せるように。
(……ミュウどもは、どう動くやら……)
 アルテメシアが落とされて以来、ミュウの版図は拡大の一途。
 たった一隻だった母船も、今は艦隊と称されるほど。
(モビー・ディック以外は、雑魚なのだがな…)
 巨大な白い鯨を除けば、さほど脅威でもないだろう。
 「彼ら」が艦隊に加えた船は、殆どが人類軍の船。
 改造するには時間もかかるし、まだ万全とは言えない筈。
 ただし、それらが「完全に」ミュウの船になる前に…。
(…叩いておかんと、どうにもならん)
 人類軍が不利になるのだからな、と分かっている。
 未だに仕組みが解明できない、モビー・ディックが備えた機能。
(レーダーに全く映らない上、シールドまでも持っているのだ…)
 あれほど巨大な船だというのに、モビー・ディックは「目視で」探すしかない。
 「彼ら」が「その気」にならない限りは、けして解かれはしないシールド。
 ミュウの母船は、ステルスモードで航行するから、何処にいるのか分かりはしない。
 「目の前にいる」と気付いた時には、もはや手遅れ。
 闇雲にレーザー砲を撃っても、それらは全て…。
(シールドに弾かれてしまうのだからな)
 人類軍の船には、そんな装備は無いというのに。
 ミュウ艦隊との混戦になれば、同士討ちさえ起こり得るのに。
 あの技術が「ミュウ艦隊の全て」に施されたなら、濃くなる敗色。
 そうなってからでは遅すぎるのだし、今の間に殲滅せねば。
 書類の山が増える一方だろうと、新しい紙に指先を切られる日が増えようとも。


(たかが紙だが…)
 こうして私の邪魔をするのだ、と見詰めた指先。
 傷は覆ってしまったけれども、その下に確かに刻まれた傷。
 書類に染みが出来ては困る、と手当てする前に拭いた、零れ出した血。
(あんな傷でも、放っておいたら命取りになるというのがな…)
 時と場合によるのだがな、と苦笑する。
 皮膚から吸収されるタイプの猛毒、それが「キース」に使われたことは、一度も無い。
 けれど先例が幾つもある上、実は「キースが知らない」だけで…。
(マツカが見付けて、処分している可能性もあるな)
 いちいち報告するまでもない、とマツカが守りそうな沈黙。
 「キース・アニアンの側近」がミュウとは、誰一人として知らないから。
 ミュウだからこそ知り得た事実は、尋ねない限りは「話さない」から。
(…こうして自分で用心をして、更にマツカの助けを借りて…)
 今日まで生き延びて来たのだけれども、ふと気になった。
 「この命に、価値はあるのか」と。
 さっきのように指を切ったら、赤い血が流れ出るけれど…。
(…赤い血なら、ミュウも持っているのだ)
 何度、その血を目にしただろう。
 自分で殺したミュウも多いし、APDスーツの開発過程でも見た。
 APDスーツ、すなわちアンチ・サイオン・デバイススーツ。
 それを着ければ、どんな兵士もサイオンが特徴のミュウと互角に戦える。
 サイオンが通用しなくなるから、白兵戦に持ち込みさえすれば。
(開発実験で殺した、ミュウどもの血は…)
 人工子宮から生まれたとはいえ、「ヒト」が流した血に違いない。
 けれども、「キース・アニアン」は違う。
 同じに「ヒト」の姿でも。
 人類として生きて暮らしてはいても、まるで全く違った「生まれ」。
 機械が「無」から作った生命。
 三十億もの塩基対を合成した上、繋ぎ合わせてDNAという名の鎖を紡いで。


 そうやって「作り出された命」と、「生まれて来た」異分子、ミュウの命と。
 いったい、どちらが「重い」のだろう。
 同じに赤い血を持っていても、価値があるのは「どちら」なのか。
 「生命」というもので比べたら。
 命の価値を比較したなら、神が手にするだろう秤は…。
(…私の命の方に傾く代わりに、それこそ名前も無いだろうミュウの命を…)
 載せた方へと傾くだろうか、秤にかけた瞬間に。
 機械が無から作った命は、神の領域を侵した存在。
 そんな命に価値などは無くて、たとえ異分子のミュウであろうと…。
(遥かに重いのかもしれん…)
 「命の重さ」というものは。
 赤い血を持つ存在同士で比べたとしても、最初から比べる価値さえも無くて。
(……そうかもしれんが、そうなのだとしても……)
 この命を守ってゆくしかないな、と零れる溜息。
 人類には「キース」が必要だから。
 ミュウの脅威から宇宙を守り抜くには、まだ死ぬわけにはいかないから。
 全身の血を全て流し尽くしても、ミュウの赤い血の一滴にさえも、及ばなくても。
 どれほど「価値の無い命」だとしても、「そのため」に作り出された命。
 機械が、それを望んだから。
 神の目で見れば価値は無くとも、機械にとっては大切な「機械の申し子」だから…。

 

           生命の価値・了

※キースでも紙で指を切るのですが、その傷から零れた赤い血が問題。ミュウにもある血。
 名も無いミュウと、キースの命とでは、いったいどちらが価値を持つのか。









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