(この本の中には、別の世界が……)
あるんだよね、とシロエが零した小さな溜息。
Eー1077の夜の個室で、一人きりでベッドに腰を下ろして。
もっとも、宇宙空間に浮かぶステーションには、本物の夜など無いのだけれど。
(…この表紙みたいな、本物の空も…)
此処には無いよ、と眺めるピーターパンの本。
ただ一つだけ、故郷の星から持って来ることが出来た宝物。
ピーターパンの本の表紙には、夜空を翔けるピーターパンたちが描かれている。
この絵みたいに、自分も行ってみたかった。
子供が子供でいられる世界へ、ネバーランドへ。
(だけど、ピーターパンは迎えに来てくれなくて…)
とうとう、こんな牢獄まで連れて来られてしまった。
大好きだった両親の記憶も、故郷の記憶も、機械に奪い去られてしまって。
(…ピーターパンの本の中なら、そんなシステムなんか無いのに…)
SD体制なんか何処にも無いのに、と本のページを繰ってみる。
文字と挿絵の世界だけれども、その向こうには…。
(ピーターパンたちが住んでる世界が、ちゃんとあるんだよ)
人に話したら、「そんなものは全部、作り話だ」と、一蹴されるのだろうけれど。
作者が作った幻想の国で、何処にも存在するわけがない、と。
(……でも、ぼくは……)
ネバーランドは「在る」のだと思う。
ピーターパンの本の作者は、ネバーランドを「見られた」のだ。と。
きっとピーターパンにも出会って、その経験を書き残した。
作者のように子供の心を失くさなければ、誰でも行けるだろう世界。
こういう世界が「存在する」と、ピーターパンの本の形で。
(きっと、そうだよ)
そうでなければ、こんな世界は書けないだろう。
気が遠くなるような時を経てなお、色褪せることなく残る物語などは。
本の活字と、挿絵の向こう。
其処に在る筈の、ネバーランド。
今も行きたくてたまらない国、幼い頃から憧れた世界。
(…この本の中に、入れたら…)
入ってしまうことが出来たら、どんなに幸せなことだろう。
他の人たちは信じなくても、ネバーランドは、「在る」筈だから。
ピーターパンの本に入ってしまえば、その世界の中の、夜の彼方に。
(…二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ…)
本に書かれた、ネバーランドへ行くための方法。
ピーターパンが来てくれないなら、そうやって歩いてゆけばいい。
ひたすらに、ネバーランドを目指して。
二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ。
(……行きたいな……)
ネバーランド、と思うけれども、本の世界はどうだろう。
きっと何処かに「在る」だろう世界、別の次元とも言える空間。
(…訓練中の事故か何かで…)
亜空間ジャンプに失敗したなら、あるいは行けるかもしれない。
宇宙船から放り出されて、ピーターパンの本の世界へ。
時間も空間も全て飛び越え、ただ一人きりで。
(……えーっと……?)
ずっと昔のイギリスだっけね、とピーターパンの本の活字を追った。
人間が地球しか知らなかった頃の、大英帝国と呼ばれた国。
其処のロンドン、それが物語の始まりの場所。
(…うんと昔の、地球の、ロンドン…)
たった一人で落っこちたならば、どんな具合になるのだろうか。
(……言葉は、きっと問題ないよね)
ピーターパンの本が生み出されてから、訳された言語は星の数ほど。
幼かった頃の自分も読めたし、言葉は必ず通じるだろう。
イギリスの言葉を話せなくても。
其処の人たちが話す言葉が、今の世界とは違っていても。
(……よーし……)
それなら言葉は大丈夫、と「本の中の世界」を考えてゆく。
この世界から、突然、其処に落っこちたなら…。
(…着ている服が変だよね?)
宇宙服などは、まだ無い世界。
それを着たまま歩いていたなら、警察官が来るかもしれない。
「怪しい人間」を、捕まえて牢屋に放り込むために。
(……それはマズイよ……)
何処から来たのか素直に言っても、警察官に通じはしない。
どちらかと言えば、更に怪しまれるだけだろう。
「別の世界から来た」なんて。
それも遥かに遠い未来で、地球が一度は滅びてしまった後の世界など。
(…宇宙服なんか、サッサと捨てて…)
訓練用の服だけになれば、少しは誤魔化せそうだと思う。
ただし、イギリスの季節によっては…。
(寒いかもね?)
なにしろ、シャツとズボンだけ。
シャツも防寒用ではないから、冬だったら凍えてしまいそう。
(……ロンドンの冬って……)
雪も降るよね、と大変なことに気が付いた。
ピーターパンの本の世界に落っこちる時には、季節なんかは選べはしない。
たとえ真冬に落っこちようとも、「春にしてよ」と頼むだけ無駄。
そのまま其処で生きるしかなくて、寒くても自分で解決するしか道は無さそう。
火を焚くにしても、暖かい場所を探して彷徨うにしても。
(…うーん…)
いきなりサバイバルの実習だよ、と思ったけれども、いいかもしれない。
Eー1077で受ける訓練などより、ずっと楽しいことだろう。
寒さで凍えて震えていたって、其処は本物の地球だから。
宇宙ステーションとも、育英惑星とも違う正真正銘の地球。
其処で一人でサバイバルなら、かまわない。
どんなに雪が降りしきろうとも、吹き付ける風で身体の芯まで凍えようとも。
冬の最中に落っこちようとも、ピーターパンの本の世界なら文句は言わない。
ピーターパンが迎えに来るまで、其処で逞しく生き抜いてやる。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」、そういう道を見付けるまで。
Eー1077に入れたくらいのエリート、そんな人生なんかは要らない。
幼い頃から夢に見ていた、本の世界で生きられるなら。
寒さに凍えて、飢えていようとも、其処はロンドンなのだから。
(…ウェンディたちに会えればいいけれど…)
あちらは「シロエ」を知らないのだから、会えても不審がられるだろうか。
「あなたは、だあれ?」と。
おまけに、それに対する答えを、自分は持たない。
「別の世界から来たんです」としか、言えないから。
しかも自分の「元の世界」は、ウェンディたちから見たなら、地獄。
子供が子供でいられないどころか、人工子宮から子供が生まれて来る世界。
(どう考えても、悪魔の国だよ)
言えやしない、と思うものだから、ピーターパンに出会えるまでは…。
(……頼れる人なんか、誰もいないよ)
つまり、一人でサバイバル。
着る物も、食べ物も、寝る場所までも、全て自分で確保するだけ。
(…どうすれば生きていけるんだろう?)
ロンドンでサバイバルなんて、と想像してみて、絶望的な気持ちになった。
なにしろ、ロンドンは当時の大都会。
農村だったら、集落の外に森や林もありそうだけれど…。
(…そういうのは無くて、公園だよね?)
公園では、食べ物は見付かりそうにない。
そういった場所で狩りは出来ないし、木の実も採っては駄目なのだろう。
(川で釣りとか…?)
魚だけは、なんとか手に入るかな、と思うけれども、パンなどは無理。
(…いっそ、その辺の露店から…)
盗んで逃げるか、それが嫌なら物乞いするか。
なんとも厳しい世界だけれども、今の世界より、遥かにいい。
「生きているんだ」という感じがするから、本の世界でも「本物」だから。
(……行ってみたいな……)
物乞いでしか生きていけなくても、と夢を見ないではいられない。
ピーターパンの本の世界に入れるのならば、それでいい、と。
生きてゆくのが大変だろうと、自分が自分でいられる世界。
(…マザー・イライザなんかはいなくて…)
記憶を操作されはしないし、捕まえに来るのは警察官だけ。
「怪しい奴だ」と追って来るのか、「コソ泥めが!」と追い掛けて来るか。
(追い掛けられても…)
捕まらないように逃げて回って、ネバーランドへ行く道を探す。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」、そういう道を。
そうやって懸命に生きていたなら、その内に…。
(きっと、ピーターパンが見付けてくれるよ)
盗みをするような「悪い子」だろうと、それは「盗まないと死んでしまうから」。
ネバーランドに行きたいあまりに、別の世界から来た「子供」。
(…悪い子じゃない、って、ピーターパンには分かる筈…)
そしたら、ネバーランドに行ける、と膨らむ夢。
ただ一人きりのサバイバルでも、冬のロンドンでも、かまわない。
ピーターパンの本の世界に入って、その中で生きてゆけるなら。
宝物の本の挿絵の一つに、「シロエ」が描かれてしまおうとも。
(…端っこの方で、ボロを着ていて…)
裸足で歩いている姿だろうと、其処に入ってしまえるならいい。
Eー1077よりも遥かにいいから、「生きている」と心から思えるから。
(…本当に、この本の中に入れるんなら…)
真冬に物乞いでもかまわないよ、とピーターパンの本を抱き締める。
「行けたらいいな」と。
訓練中の事故で落っこちようとも、後悔なんかは微塵も無い。
今、生きている「この世界」よりも、本の中の方が「いい」世界だから。
子供が子供でいられる所で、機械に支配されてもいない。
だから行きたい、と焦がれる気持ちは、止まらない。
どんなに暮らしが大変だろうと、本の中には、「本物の世界」があるのだから…。
本の中の世界・了
※元ネタは『ふしぎ遊戯』と、アメリカドラマ『ワンスアポンアタイム』のベルファイア。
アニテラの方のシロエだったら、このくらいの夢は見られる筈。冬のロンドンでサバイバル。
(さて…。あの女は来るか、それとも来ないか)
どちらだろうな、とキースは心の中で一人、呟く。
遥か昔に死に絶えたまま、未だ蘇らない地球に照る月を見上げながら。
ユグドラシルと名付けられ、地球の再生を担う筈だった巨大な構築物の一室で。
SD体制が始まってから六百年も経つというのに、廃墟さえも放置されたままの星。
ミュウどもは、さぞや絶望したことだろう、と汚染された大気の向こうを眺める。
血の色を思わせる赤い満月。
なんとも不吉な色だけれども、じきに本物の赤い血が…。
(この部屋を染めることになるやも知れんな)
そうなったとしても、私は知らんが、と唇に浮かべた自嘲の笑み。
もしも「キース」の血が流されたなら、後のことなど、自分は知らない。
死んでしまった国家主席には、どうすることも出来ないから。
部下たちに指示することはもちろん、地球の行く末を考えることも。
(…それを承知で…)
実に愚かなことをしている、と自分でも思う。
警備の兵を全て退け、直属の部下も、皆、下がらせた。
此処に「あの女」がやって来たなら、誰にも止めることは出来ない。
そして、自分にも「止める」気は無い。
止めるどころか、殺してくれと言わんばかりに、見事に丸腰。
自分の銃は、机の上に放り出して。
あの女が「それ」を使うのだったら、それもまた良し、と。
(……マザー・イライザ……)
Eー1077で、「キース」を無から作り上げた機械。
此処に来るかもしれない女は、マザー・イライザに良く似ていた。
それもその筈、「キース」にとっては、誰よりも身近な者だったから。
水槽の中で育つ間に、いつも見ていた彼女のサンプル。
更には、彼女の遺伝子情報、それが「キース」のベースとなった。
機械が作ったDNAの。
三十億もの塩基対を合成してから、鎖に紡いでゆく時に。
「あの女」が此処に来るとしたなら、間違いなく持っている殺意。
ジルベスター・セブンを滅ぼした時に、メギドで対峙した「ソルジャー・ブルー」の…。
(…仇を討ちに来るのだろうしな)
私が殺したも同然だから、と承知している。
実際、仕留めるつもりだったし、言い訳はしない。
「キース」を殺して気が済むのならば、別にそれでもかまわない。
こんな命に未練など無いし、此処で自分が死んだとしても…。
(…世の中、大して変わりはしないさ)
どうせ歴史はミュウのものだし、そうなる証拠も、自分は掴んだ。
SD体制が始まる前に、仕組まれていたとも言える実験。
(……ミュウ因子を排除してはならない……)
それが地球を統べるグランド・マザーに与えられた、唯一の永久指令。
ヒトの未来を築いてゆく者、それが「どちらになるのか」、誰にも分からなかったから。
人類なのか、それともミュウか。
SD体制を築いた者たち、彼らは結果を「未来」に向けて先延ばしした。
自分たちでは答えを出さずに、ミュウの因子を残したままで。
「生まれて来たミュウ」は処分するけれど、それでもミュウの因子は消さない。
そのストレスに耐えて生き残ったなら、ミュウの時代が来るだろう、と。
(…未来の人間に押し付けるとは…)
厄介なことをしてくれた、と腹を立てても、押し付けた「彼ら」は、もういない。
そのことを知ってしまった「キース」が、此処にいるだけ。
(……今夜、私が生き延びたなら……)
ミュウの女に殺されなければ、明日、人類は、「それ」を知ることになるだろう。
そのために使うメッセージならば、とうに収録してあるから。
圧縮データを、旧知の友に送りさえすれば、真実が全宇宙に放映される。
Eー1077で共に過ごした、スウェナ・ダールトン。
彼女が率いる「自由アルテメシア放送」を通して、あらゆる場所に。
そう、この夜を生き延びたなら。
自分の銃で撃ち殺されずに、圧縮データを送信したら。
(…先に送っても、いいのだがな…)
ほんの数時間の違いだ、と思いはしても、何故だか、それをする気がしない。
ミュウが勝者になるのだったら、いずれ真実を知るだろう。
此処で「キース」が死んでしまって、データがお蔵入りしても。
人類にしても、ミュウが真実を掴んだ時には、嫌でも知らされることになる。
(明日知るか、もっと先に知るかの違いだけだ)
其処まで面倒を見てやる気は無い、と、人類もミュウも、突き放す。
明日の朝まで生きていたなら、ちゃんと面倒を見るけれど。
国家主席の責任を果たし、真実を皆に知らせるために。
(…だが、どうなるかは…)
私自身にも分からないのだ、と見上げる月。
自分は今夜、撃たれて死ぬのか、明日の朝まで生き延びるのか。
(……あの女が、私の死神になるのなら……)
マザー・イライザに殺されるようなものか、と、ふと思った。
「ミュウの女」は、マザー・イライザではないけれど。
本物のマザー・イライザの方も、とうの昔に、この手で処分したのだけれど。
(…しかし、私がずっと見ていたマザー・イライザは…)
確かに彼女に似ていたのだから、皮肉なものだ、という気がする。
今宵、「あの女」に殺されるなら。
かつて目にした多くのサンプル、「キース」になる筈だったモノたち。
彼らは、全て殺された。
フロア001で目にしたサンプル、それらを残して。
マザー・イライザが「作った」モノたち、失敗作は処分したのだとイライザは告げた。
「サンプル以外は、処分しました」と、事も無げに。
「キース」が無事に完成したから、それでいいのだ、と。
つまり、こうして国家主席になった「キース」も、もしも失敗作だったなら…。
(…処分されていたというわけだ)
失敗作になった段階で…、と分かっているから、死神が「あの女」になるのもいいだろう。
マザー・イライザに、似ているから。
機械に魂は無いだろうけれど、黄泉の国から「キース」を処分しに出て来たようで。
(…殺したければ、殺すがいいさ)
この先の歴史は、どうせ変わらん、と「命」なら、とうに捨てている。
明日のミュウとの会談にしても、どう転がるかは分からない。
その上、密かに自分が固めた決意は、恐らく、死へと繋がるだろう。
グランド・マザーに逆らうから。
システムに反旗を翻す以上、多分、生きては戻れない筈。
(…だからこそ、私がそうなる前に…)
スウェナにデータを送るのだけれど、その前に死ぬ可能性。
今夜の間に、撃ち殺されて。
マザー・イライザに似た「ミュウの女」に、撃たれて、その場で絶命して。
(…グランド・マザーに処分されるか、あの女がマザー・イライザのように…)
今頃、「キース」を処分するのか、と思った所で、ハタと気付いた。
「もしも、逆らっていたならば」と。
これから自分がそうするように、遠い昔に。
マザー・イライザが統治していた、Eー1077で。
(…私が、失敗作ならば…)
当然、処分された筈だし、失敗作だと判断される時期が、あの水槽の中とは限らない。
他のサンプルたちの場合は、全て、そうだったとしても。
(……本当に全てだったのか?)
かなり大きなサンプルも見た、とフロア001の記憶を手繰る。
胎児から幼児、少年と並んでいたサンプル。
それらの中には、成人検査の年齢よりも育ったモノも存在したように思う。
マザー・イライザが「それ」を処分したのは、いつだったのか。
Eー1077の候補生として、水槽から出した後だった可能性もある。
(…マザー・イライザの意に反したなら…)
直ちに処分で、あれは「そういうモノ」だったろうか。
そうだとしたなら、今、此処にいる「自分」にしても…。
(…一つ間違えたら、死んでいたのか)
いとも呆気なく、処分されて。
マザー・イライザに逆らったならば、それは「失敗作」なのだから。
考えてみれば、失敗作になり得た機会なら、あった。
セキ・レイ・シロエが逃亡した時、彼を見逃していたならば…。
(…深層心理検査を食らって、奥の奥まで探られた末に…)
後に「失敗作」へと成長してゆく、微かな兆しを読まれただろうか。
あの頃の自分自身はと言えば、そうまで思っていなかったけれど。
だからこそ、シロエを殺した後には、順風満帆だった人生。
ジルベスター・セブンをメギドで焼き払う時も、微塵も迷いはしなかった。
「あの女」に恨まれる原因となった、「ソルジャー・ブルーを撃った」時にも。
(…しかし、自分では、そのつもりでも…)
既にシステムに逆らい始めて、今の自分に繋がる種なら、もう蒔いていた。
ペセトラ基地で、マツカを拾った時に。
マツカがミュウだと知りつつ殺さず、側近に仕立て上げた時点で。
(…利用価値があるから、生かしておくのだ、と…)
頭から思い込んでいたのだけれども、それは自分の考え違い。
まるでシロエの身代わりのように、大切に生かし続けた「マツカ」。
そのマツカも死んでしまった今では、はっきりと分かる。
「私も、失敗作なのだ」と。
マザー・イライザが監視していたら、自分も「処分」される筈だ、と。
けれど、マザー・イライザは破壊したから、代わりにグランド・マザーが出て来る。
「キース」を処分するために。
明日、会談の後に行ったら、そうなるだろう自分の運命。
とはいえ、夜はまだ明けないから、あるいは、「キース」を処分するのは…。
(……あの女なのかも知れないな……)
それも良かろう、と、時が来るのを、ただ一人、待つ。
誰が自分を消すだろうか、と。
失敗作と化してしまったからには、そうなる他に道は無いから。
生きて天寿を全うするなど、「失敗作」に似合いはしないし、その気も無い。
あまりにも、罪を重ねたから。
失敗作だと気付いた時には、シロエもマツカも、失くしてしまった後だったから…。
死神を待つ夜・了
※グランド・マザーに逆らったキースは、マザー・イライザの失敗作になったわけですが。
もっと昔に逆らっていたら、その時点で処分だった筈。そんな考えから生まれたお話。
(ネバーランドに行きたいな…)
本当は地球に行くより、ずっと、とシロエの唇から零れた溜息。
E-1077の夜の個室で、ベッドの端に腰を下ろして。
膝の上にピーターパンの本を広げて、挿絵のページを眺めながら。
其処に描かれたネバーランド。
幼い頃から行ってみたくて、迎えが来るのを待っていた場所。
ピーターパンとティンカーベルが、夜空を翔けて来てくれるのを。
自分も一緒に空高く舞って、夢の世界へ飛んで行ける日を。
(…それなのに、ぼくは…)
ネバーランドに行くことは出来ず、こんな所に来てしまった。
宇宙空間に浮かぶ牢獄、ステーションE-1077。
マザー・イライザが支配する世界、SD体制のシステムを凝縮したような…。
(息が詰まりそうになる、小宇宙…)
エネルゲイアの頃とは違う、と肌で感じる異質な世界。
常に機械が監視していて、規則を破れば、瞬時にマザー・イライザに知れる。
それが続けばコールサインで、マザー・イライザの前に呼び出される。
心に抱いた思想の隅まで、悉く調べ尽くすかのように。
深い眠りの奥深く沈め、あらゆる記憶をかき回して…。
(…機械に都合の悪い記憶は…)
消してゆくのだ、とハッキリ分かる。
何故なら、コールで呼び出された後は、更に記憶が薄れているから。
それは故郷の景色だったり、懐かしい両親の面影だったり。
(成人検査で奪ったくせに…)
まだ奪うのか、と悔しいけれども、今の社会は、そういうシステム。
けして機械に逆らわないよう、危険な思想は端から摘み取る。
ステーションから大人の社会に出たなら、今よりも酷くなるのだろう。
そうなった時に、誰も不満を抱かないように…。
(…慣れさせておくのが、ステーション時代…)
大人の社会のミニチュア版だ、と唇を噛む。
「こんな所に、ぼくは来たくはなかったのに」と。
違う世界に行くのだったら、ネバーランドの方が良かった。
幼い頃から夢に見た国、今も憧れ続ける場所。
息の詰まる教育ステーションより、ピーターパンたちがいる国がいい。
其処に行ったら、きっと子供に戻れるのだろう。
機械が奪ってしまった記憶も、自然に戻って来るかもしれない。
「シロエ」が子供に戻ったら。
子供の心を取り戻したなら、子供時代の記憶の全ても、そっくりそのまま蘇って。
(…そうかもしれない…)
だったら余計に行きたいよ、と考えたけれど、同時にゾクリと凍えた背筋。
(……子供の心を取り戻したら……)
たった今、自分は、そう考えた。
子供の心を取り戻すのなら、今の自分は「子供の心」を失くしたろうか。
ちゃんと持っているつもりでも。
ネバーランドを夢見る心は、幼かった日と変わらなくても。
(…そんなことって…)
あるのだろうか、と恐ろしくなる。
今でも自分は、ネバーランドを忘れていない。
両親に貰った大切な本も、こうして此処まで持って来られた。
だから自分は、選ばれた子で…。
(…うんと勉強して、メンバーズ・エリートに選ばれて…)
出世して、いつか地球に行くんだ、と確固たる決意は揺らがない。
いつか世界の頂点に立って、国家主席として機械に命じる。
「奪った記憶を、ぼくに返せ」と。
そして世界を「人の手に戻せ」と、機械は永遠に止まってしまえ、と。
(そのために、ぼくは…)
牢獄に耐えているのだけれども、もしかしたら、それは間違いだろうか。
子供の心を持っていたなら、そうは考えないかもしれない。
ただ単純に、ネバーランドを夢見るだけで。
「行けたらいいな」と憧れるだけで、世界はどうでもいいかもしれない。
ネバーランドは、機械に統治されないから。
ピーターパンたちが暮らす世界は、システムの外にあるのだから。
(…ピーターパンの本が書かれた時代は…)
人間の世界は地球が全てで、誰もが地球で暮らしていた。
地球が滅びる時が来るなど、いったい誰が考えたろう。
もしも、そういう時が来るなら、地球を滅ぼすのは、人間ではなく…。
(……最後の審判……)
世界の終わりに神が行う、全世界規模の破壊が、その時。
それ以外には、地球の滅びは有り得なかった。
だから「機械が統治する」など、誰も想像しなかっただろう。
世界が滅びてしまった時には、支配するのは神なのだから。
(…昔の人たちが思った以上に…)
今の世界は、無残に歪んでしまったらしい。
地球の滅びを招いたのは人間、SD体制を作ったのも人間。
「シロエ」もシステムの中から生まれて、其処で育って来た子供。
ネバーランドを夢見てはいても、やはり何処かが致命的に…。
(…違っている、っていうことも…)
無いとは言えない、と肩をブルッと震わせた。
だとしたら、何処で間違えたろう、と。
自分の何処がいけないのかと、間違えたのなら、どの辺りかと。
(……地球に行こう、って……)
幼かった日に描いた夢。
抱いた希望。
「ネバーランドより素敵な場所さ」と、父が教えてくれたから。
「シロエなら、行けるかもしれないな」とも。
選ばれた優秀な人間だけしか、行けない地球。
青く輝く母なる星。
(ネバーランドよりも、素敵な場所なら…)
行ってみたい、と夢を抱いて、そのために懸命に重ねた努力。
成人検査を優秀な成績でパス出来なければ、地球への道は開けないから。
地球に行くために「勉強しなくちゃ」と。
自分の努力は報われたけれど、今の有様はどうだろう。
故郷や両親の記憶を奪われ、こんな牢獄で暮らしている。
いつの日か、地球に行くために。
メンバーズ・エリートに選出されて、国家主席への道を駆け上がるために。
(…此処を出たって、ずっと牢獄…)
機械の監視は厳しくなってゆくだけだろう、と容易に想像がつく。
養父母や一般市民になるならともかく、エリートの道を進むのならば。
地球にあると聞くグランド・マザーが、マザー・イライザより甘いわけがない。
そういう機械が監視する社会、グランド・マザーが統治する世界。
きっと、グランド・マザーが座している地球も…。
(……牢獄なんだ……)
選ばれた人間には夢の国でも、と今頃、気付いた。
このシステムに馴染んで育った、善良な一般市民やエリート。
彼らにとっては「素晴らしい場所」でも、「シロエ」にとっては、どうなるのか。
(…国家主席になったとしても…)
機械に「止まれ」と命令するなら、それを宣言する場所は地球。
地球が本当に素敵な場所なら、そんな必要は無いだろう。
もしも降り立てる時が来たなら、その幸運を素直に喜べばいい。
「やっと来られた」と、「此処が地球という星なんだ」と。
地球での暮らしが許されたならば、もうそれだけで最高だろう。
ネバーランドよりも素晴らしい場所で、生きてゆくことが出来るのだから。
機械に「止まれ」と命じなくても、幸運に酔って暮らしてゆける。
グランド・マザーが用意してくれた、素敵な場所で。
「なんて幸せな世界だろうか」と、地球という星を満喫して。
(…だけど、ぼくには…)
SD体制を嫌う自分にとっては、地球は牢獄になるのだろう。
このシステムに馴染んだ人間、彼らにとっては天国でも。
ネバーランドよりも素敵な場所でも、「シロエ」には、そうは感じられない。
グランド・マザーが座している星、其処はシステムの要だから。
何処の星よりも監視が厳しく、異分子は全て、徹底的に排除する世界だから。
(…地球に行こう、って思った時に…)
自分は道を間違えたろうか、自分では、そうと気付かずに。
「ネバーランドよりも素敵な場所」だと、聞いて憧れただけなのに。
(……そうだったのかも……)
あの時、夢を抱かなかったら、この牢獄にはいないかもしれない。
地球へ行こうと夢見ることなく、ネバーランドだけを求めていたら。
ピーターパンが迎えに来るのを、ただ待ち焦がれる子供だったら。
(…そうしていたら…)
夜空を翔けて、ピーターパンが来たのだろうか。
歪んでしまった今の世界に、ネバーランドを目指す子供が、どれほどいるか。
ピーターパンの本はあっても、其処に書かれた世界に憧れ続ける子供。
(…滅多にいないような気がする…)
大抵の子供が憧れる先は、大人の社会。
いつか大人になってゆくこと、成人検査をパスした先。
現に自分も…。
(……ネバーランドよりも素敵な場所だ、って……)
父に教わった地球を目指して、懸命に努力を重ねていた。
成績優秀な子供でなければ、地球への道は開けないから。
成人検査をパスした先に、地球という場所を夢見て、努力し続けて…。
(…今いる場所は、こんな牢獄…)
あんな夢さえ抱かなければ、と後悔したって、もう遅い。
道を外れてしまったから。
ネバーランドだけを夢見る代わりに、別の世界を夢に見たから。
(…二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ…)
ずっと、その道を探していたなら、ネバーランドにいたのだろうか。
ピーターパンが迎えに来て。
あるいは自分で道を見付けて、朝まで真っ直ぐ歩いて行って。
(…そうだったなら…)
あまりに自分が可哀想だから、選ばれた子だと思いたい。
機械に「止まれ」と命令できる子、歪んだ世界を元に戻せる子供。
子供が子供でいられる世界を取り戻す子が、「シロエ」という名の勇者なのだ、と…。
憧れた場所・了
※憧れる場所を間違えたのかも、と気付いたシロエ。地球という場所を知ったせいで、と。
ネバーランドだけを夢見ていたなら、と恐ろしくなるのも、無理はないかも…。
(…どうして私は、人類なのだろうな?)
実に不合理な話なのだが、とキースが漏らした自嘲の溜息。
首都惑星ノアの、国家騎士団総司令に与えられた個室で、たった一人で。
とうに夜更けで、側近のマツカも下がらせた後。
彼が淹れていったコーヒーだけが、まだカップの中で湯気を立てている。
「コーヒーを淹れるだけしか、能のない野郎だ」と、他の部下から揶揄されるマツカ。
その部下たちは、自分が教官をしていた頃から、目をかけていた優秀な者たちだけれど…。
(誰一人として、マツカの真価を知る者はいない)
今や右腕となったスタージョン中尉も、頭の切れるパスカルでさえも。
彼ら以外の者が見たって、マツカは「ただの側近」なだけ。
ひ弱で、武器もろくに扱えず、「キースの身の回りの世話」をしているだけの。
(…だが、実際は…)
今日もマツカに救われた命。
国家騎士団総司令を狙った暗殺計画、それをマツカは未然に防いだ。
「そちらのルートは、通らない方が」と、遠回しな言い方で告げて来て。
ミュウならではの能力でもって、暗殺者の所在か、殺意に気付いて。
(…私は、マツカの進言を受けて…)
何食わぬ顔で、スタージョン中尉に命令した。
「ルートを変える」と、「それから、元のルートの方を調べろ」と。
急いで駆け出して行った部下たち。
彼らはルートの近辺を調べ、暗殺者どもを逮捕したけれど…。
(…全ては、私の危機管理能力が優れているからだ、と…)
思い込んでいて、疑いもしない。
まさか、その裏にマツカがいるとは。
「コーヒーを淹れるしか、能のない野郎」が、卓越した能力を持っているとは。
(……そして、マツカは……)
忌むべきミュウというヤツなのだ、と再び零れ落ちる溜息。
「どうして私は人類なのだ」と、「ミュウにすることも、出来ただろうに」と。
マツカの能力を見せられる度、そういう思いが掠めてゆく。
「この能力が、私にあれば」と、「私ならば、もっと使いこなせる」と。
実際、マツカのミュウとしての力は、優れたものだと言えるだろう。
ジルベスター・セブンの頃から、何度も命を助けられたし、力も目にした。
(…瞬間移動まで、出来るのだからな)
実験体として飼われるミュウたち、彼らの場合は、そこまで出来ない。
いわゆる、タイプ・グリーンでは。
伝説と言われたタイプ・ブルー・オリジン、ソルジャー・ブルーの場合でさえも…。
(……アルタミラでは、確認されていない力だ)
つまりはタイプ・ブルーであっても、急には使えないのだろう。
サイオン能力を磨かない限り、発動出来ないものだと言える。
それをマツカは、いとも容易く…。
(…メギドで、やってのけたのだからな)
しかも、自分一人を移動させるのではなく、「キース」までをも伴って。
後にマツカに確かめたけれど、やはり、あの時が初めてだという。
「出来るとは思っていませんでした」と、「どうやったのかも、分かりません」と。
(…タイプ・グリーンには、出来ないとされているのだが…)
ソルジャー・ブルーも、研究施設では、一度も使っていないのだが、と思う能力。
けれどマツカは、確かに「使った」。
その能力を、もしも「自分」が持っていたなら…。
(…「どうやったのかも、分かりません」などとは、言っていないで…)
死に物狂いで、再現に努めることだろう。
「あの時、私は、どうやったのか」と。
再現するのに必要であれば、この命さえも、危険に晒してかまわない。
絶体絶命な危機的状況、それで力が発動するというのなら。
その可能性があるのだったら、迷いなく、そうすることだろう。
部下たちと宇宙に出掛けて行って、「私を生身で、宇宙空間に放り出せ」と命じるとか。
あるいは、ノアの海の底深く、其処で「私を海に投棄しろ」とか。
そうなったならば、瞬間移動をしない限りは、死ぬのだから。
もっとも、一瞬の内にシールド、それで生き延びる可能性もあるのだけれど。
(…シールドを張ってしまったら…)
やり直しだな、と苦笑する。
それでは話にならないのだから、もっと過酷な条件を自分に課さなければ。
瞬間移動という特殊な能力、それを自在に操るために。
伝説のタイプ・ブルー・オリジン、彼とも互角に戦えるほどに。
(……そう、私なら、それが出来るのだ)
もしも私がミュウだったなら、とマツカが淹れたコーヒーのカップを見詰める。
「キース・アニアン」がミュウであったら、何故、まずいのか。
要はバレなければいいだけなのだ、と思えてならない。
現にマツカがミュウな事実は、グランド・マザーも「把握していない」。
それとも、黙認しているのだろうか、「マツカ」は役に立つミュウだから。
彼を抹殺してしまうよりは、「キース」を補佐させた方が得だ、と計算したか。
そうだとしたなら、「キース・アニアン」がミュウであっても、問題は無いと思えてくる。
ミュウだと、誰にもバレなければ。
処分されるべき異分子なのだと、誰も気付きはしなかったならば。
(…そうなっていたら…)
ミュウどもは、とうに殲滅された後だな、と浮かべた酷薄な笑み。
グランド・マザーの命令とあらば、同族だろうと容赦はしない。
一瞬さえも迷いはしないし、彼らを全て滅ぼすだろう。
全ては偉大なるグランド・マザーの命令のままに。
(……ジルベスター・セブンに降下するのも、私がミュウなら……)
造作ないことで、ミュウどもの妨害に阻まれはしない。
船を落とされることさえもなくて、易々と着陸していただろう。
「人類の犬」を始末しに来た、ジョミー・マーキス・シンの力を、物ともせずに。
その場で彼と対峙したって、同じミュウなら敗れはしない。
たとえジョミーが、タイプ・ブルーであろうとも。
自分はタイプ・ブルーではなくて、タイプ・グリーンであったとしても。
(…マツカでさえも、あれだけやれるのだしな)
私だったら、負けはしない、と自信はある。
恐らく互角に戦える筈で、銃やナイフを扱える分だけ、有利だろう、と。
「キース・アニアン」がミュウだったならば、今の状況は変わっていた筈。
人類はミュウを全て消し去り、脅威でさえもなくなったろう。
どうすればミュウを処分できるか、そのための指示を、ミュウの「キース」が下すのだから。
ミュウのことなら、同じミュウには、手に取るように分かると思う。
成人検査を、どのように改革するべきか。
社会に紛れ込んでいるミュウ、彼らを端から炙り出すには、どういう策が効果的かも。
(…そもそも、モビー・ディックが無ければ…)
大したことは出来はしない、と経験からして分かっている。
タイプ・ブルーが何人いようと、機会を捉えて個々に抹殺すれば済むこと。
メギドで、自分がそうしたように。
あの時、メギドは失ったけども、ミュウの方ではソルジャー・ブルーを失った。
それを思えば、やってやれないことではない。
まして「キース」がミュウだったならば、ジョミー・マーキス・シンにしたって…。
(…ジルベスター・セブンで、最初に出会った時に…)
ナイフで始末をつけたろうから、流れは其処から変わり始める。
モビー・ディックで「キース」を殺そうと試みた子供、彼にしてみても…。
(攻撃される前に、返り討ちだな)
最初から捕えられもしないが、と顎に当てる手。
ジョミー・マーキス・シンを倒していたなら、次の目標はモビー・ディック。
自ら乗り込み、内部から破壊することは容易い。
同じミュウなら、「キース」の方が遥かに強いだろうから。
警備の兵が何人いようが、捕まらなければ、船の中を自由に走り回れる。
メイン・エンジンを暴走させれば、ひとたまりもないことだろう。
モビー・ディックは微塵に砕けて、ソルジャー・ブルーも、あの子供も…。
(巻き添えになって死んでいたかもしれないな)
でなくても、瀕死の重傷だろう、と想像はつく。
息の根を止めることは簡単、それで「キース」の任務は終わる。
残るは、新しく生まれて来るミュウと…。
(人類に紛れ込んでいるミュウの処分だけ…)
それだけなのに、と解せない「今」。
どうして「キース」は、人類なのか、と。
(……同じように、無から作り出すなら……)
ミュウにも作れた筈なのだがな、と生じる疑問。
「バレなかったら、ミュウにしておいてもいい筈だが」と。
その方が、きっと役に立つのに。
同族殺しを躊躇うようなら、そんな人間は「キース」ではない。
無から作った「キース」がミュウなら、この宇宙から…。
(…ミュウは残らず消えた筈だが、何故、私を…)
人類として作ったのだ、と疑問は消えない。
「何か理由があるのだろうか」と。
「人類でなければ、存在してはならないのか」とも。
いつか直接、聞いてみようか、と思いさえする。
「どうして私は、ミュウであってはならないのですか」と。
「ミュウだった方が、ミュウを滅ぼすには、遥かに有利な筈なのですが」と…。
不合理な生まれ・了
※キースがミュウとして作られていたら、ミュウは殲滅されていた筈。マツカ以上の脅威。
けれど、SD体制そのものが、ミュウの存在を認めない世界。そういうシステム。
(……地球……)
この星に運命を変えられたよね、とシロエが零した小さな溜息。
E-1077の夜の個室で、一人きりで机に向かっていて。
明日の講義で使う資料を読んでいる時に。
其処に書かれた「地球」という文字。
人類の聖地とされている星、SD体制を統べるグランド・マザーがいるという星。
(…ずっと昔に、人間が無茶なことをしたから…)
青く輝く母なる星には、人が住めなくなってしまった。
大気は汚染され、海からは魚影が消えていって。
地下には分解不可能な毒素、人類が窒息させてしまった地球。
(その地球を、青く蘇らせるために…)
今も努力が続けられていて、進められている清浄化。
六百年も経っているから、かなり進んでいることだろう。
きっと宇宙から眺めた時には、元通りに青く見えるくらいに。
一度滅びてしまった星とは、誰にも信じられないほどに。
(……うん、きっと、そう……)
ネバーランドよりも素敵な場所が地球なんだから、と一人、頷く。
幼かった日に、大好きな父が教えてくれた。
「ネバーランドよりも、素敵な場所さ」と。
そうして、父は笑顔で言った。
「シロエなら、行けるかもしれないな」とも。
(…そう聞いたから…)
地球に行こうと、懸命に努力を重ねた日々。
成績優秀な子供でなければ、地球に行く道は開けないから。
大人社会への入口になる、十四歳の誕生日。
その日に受ける成人検査で、選ばれなければ、チャンスは来ない。
地球に行くべき子供だけしか、そのための教育を受けられないから。
他のコースに振り分けられたら、チャンスは二度と来ないのだから。
ネバーランドよりも、素敵な地球。
いったい、どんな所だろうかと、幼い頃から夢を見て来た。
遠い昔にネバーランドを記した作家を、その懐に育んだ地球。
人類が最初に生まれた星で、地球と並ぶほどの環境を持つ惑星は…。
(未だに一つも見付かってなくて…)
首都惑星のノアでさえもが、地球には及ばないという。
SD体制が始まる前から、テラフォーミングをされて来たのに。
「最も地球に近い星だ」と、首都惑星に定められたのに。
(…ノアは、充分、青いんだけど…)
綺麗な星に見えるんだけどな、と画面にノアの画像を呼び出す。
この目で見たことは無いのだけれども、子供の頃から、何度も見て来たノアという星。
教科書や、ニュースや、新聞などといった媒体。
其処に出て来るノアの姿は、一見、地球かと見まがうほど。
ノアの周りをぐるりと取り巻く、白く輝く輪さえ無ければ。
それだけが地球との違いなのでは、と思うくらいに。
(…だけど、この星も、地球に比べたら…)
敵わないって言うんだから、と地球の画像と並べてみた。
「あんまり変わらないけどね?」と。
「どっちも青いし、白い輪があるか、無いかの違いに見えるけど…」と。
そうは思っても、今の自分が見られるデータは、限られたもの。
学生用にフィルタリングされ、制限されたものしか無い。
だから「本物の地球」の姿は…。
(……見られるわけがないんだよね……)
今のぼくでは、と零れる溜息。
メンバーズ・エリートに選ばれたって、それだけでは、まだ無理だろう。
もっと努力を重ね続けて、相応しく昇進してゆかないと。
「地球に降り立つ資格がある」と、グランド・マザーが認めない限り。
その日が来るまで、得られるデータは「本当の地球」を捉えてはいない。
人類が還るべき心の故郷、聖地とまでされる真の姿は。
誰もが焦がれ、還りたい故郷、青く輝く水の星は。
(…絶対、こんな画像なんかより…)
本物の地球は、遥かに美しいのだろう。
この目で見たなら、たちまち魅了されるくらいに。
一度、その星に降り立ったならば、二度と離れたくないほどに。
(……だからこそ、フィルタリングされてて……)
きっと大人の社会に行っても、一般人には「本物の地球」は見られないのに違いない。
宇宙から眺めることはもちろん、画像でさえも。
何故なら、それを目にしてしまえば、誰でも「行きたくなる」だろうから。
たとえ、どんなに望んだとしても、一般人には、そのための許可は下りないのに。
宇宙を旅するパイロットでさえ、地球があるというソル太陽系には…。
(…立ち寄ることさえ出来ないんだよね?)
E-1077で受けた講義で、そう教えられた。
航路設定を間違えた船が、ソル太陽系に接近したなら、警告される。
「直ちに、此処を立ち去るように」と。
「そのまま進めば、撃墜する」と、最大級の脅し文句で。
(…きっと、近くの軍事基地から…)
警備艇が飛び立ち、近付いた船が遠くに去るまで、追跡もすることだろう。
本当に「間違えて接近した」のか、「わざと」なのかを確かめに。
許可無く地球を目指していたなら、それは重罪だとされる。
たとえ「見たい」と望んだだけでも、厳しい裁きを受けるという。
今の地球には、選ばれた者しか行けないから。
母なる地球を再び滅ぼすことが無いよう、そうする恐れが無い者だけが降り立てる星。
(…愚かな人間が、地球に行ったら…)
歴史は、再び繰り返すから。
欲望のままに地球を貪り、生命力を削っていって。
せっかく長い長い時をかけ、青い星を蘇らせたのに。
ヒトの生き方を改革してまで、元に戻した「母なる星」。
それを再び滅ぼすことなど、けして許されはしないから。
重ねた努力を無にすることなど、絶対にしてはならないのだから。
(…そう、生き方を変えてまで…)
地球を蘇らせたんだから、と誇らしい気持ちを抱いたけれど。
「ぼくは、地球まで行くんだから」と、選ばれる筈の未来を思い描いたけれど…。
(……ヒトの生き方を変えた、って……)
SD体制のことなんだよね、とハタと気付いた。
今の自分が、憎むシステム。
機械が統治している歪んだ体制、大人の社会と子供の社会を分けている世界。
そのシステムが作られた理由、それは「母なる地球を蘇らせる」ため。
人類が滅ぼしてしまった地球は、「そのままでは」取り戻すことが出来ないから。
従来通りの生き方をすれば、人間は地球を滅ぼすだけ。
途方もない時間をかけてやっても、美しい地球は「戻って来ない」。
人類が、「地球を滅ぼした」から。
愚かしいヒトは、どんなにしたって、同じ道しか歩まないから。
(…だから、人間を変えるしか…)
方法は無い、と遠い昔に、人間たちは決断した。
「今の生き方を変えよう」と。
自分たちが今、変えなかったら、「地球を元には戻せない」から。
(…それで、SD体制を敷いて…)
グランド・マザーと、マザー・システム、機械に「ヒトの統治」を委ねた。
機械に全てを任せさえすれば、全てが計算通りに運ぶ。
ヒトと違って、機械は「決して間違えはしない」。
組まれたプログラムの通りに動いて、ヒトを管理し、支配してゆける。
「地球を蘇らせる」という目的、それを果たすために。
そうして地球が蘇ったなら、二度と再び、滅びることがないように。
けれども、ヒトにそれをさせたら、美しい地球が蘇っても…。
(…また、同じことをしてしまうだけ…)
蘇った地球を好きに貪り、生命力を失わせて。
大気を汚して、海を汚して。
地下には毒素が溜まっていって、またしても地球は滅びてしまう。
ヒトは過ちを犯すものだし、やり直させても、同じだから。
(……ヒトが作った……)
SD体制も、マザー・システムも、とゾクリと背筋に走った悪寒。
憎くてたまらない機械の世界は、元は人間が作ったモノ。
滅びゆく地球を、青く蘇らせるために。
人類の聖地、母なる星を、二度と失うことが無いよう。
(…そうやって、地球を取り戻しても…)
肝心のヒトは、誰もが行けるわけではない「地球」。
どんなに「見たい」と恋焦がれても、適性と能力が無い人間には、許可は下りない。
地球には降りずに、宇宙船から眺めることさえ、生涯、出来ずに死んでゆくだけ。
画像で見るのを許される地球も、こうして見ている画像のように…。
(…フィルタリングされてて、本物よりも、ずっと…)
質の劣ったものでしかなくて、「ノアと変わらない」星にしか見えない。
本物の地球は、もっと美しい筈なのに。
ネバーランドよりも素敵な場所で、選ばれた者しか行けないのに。
(……そんな星のために……)
このシステムが生まれたのか、と恐ろしくなる。
地球に行きたいとは思うけれども、それも「機械が仕掛けた」ろうか。
誰もが、少しも疑いもせずに、「地球のために」生きてゆくように。
地球を蘇らせるためにだけ生きて、そのために死んでゆくように。
(…もしも、そのまま、滅びさせていたら…)
SD体制は作られないで、ヒトは自由に生きたのだろうか。
地球を忘れて、広い宇宙で。
大人の社会と子供の社会に分かれはしないで、成人検査も行われないで。
(……そうなっていたら……)
ヒトも滅びてしまっていたかもしれないけれども、今よりはいい、という気もする。
SD体制が無かったならば、この苦しみは無かったから。
機械に支配される屈辱、それを味わうことも無かった。
(…それなのに…)
どうして、ぼくは地球が見たいの、と胸が引き裂かれて血を流すよう。
このシステムの元凶が地球であっても、焦がれる気持ちは消せないから。
地球が滅びてしまえばいいとは、絶対に思えないのだから…。
運命の星・了
※シロエが行きたいと願っている地球。けれど、その地球のために作られたのがSD体制。
地球が滅びてしまっていたなら、SD体制も無かったのに、と思った所から生まれたお話。