近い間にコールだよね、とシロエが睨み付ける机の上。
Eー1077で与えられた個室、其処に、さっきまで憎い機械が居た。
故郷の母の姿に似せて、猫撫で声で「どうしました?」と現れたマザー・イライザ。
正確に言えば、本体ではなくて、その幻影。
(…畜生!)
あいつのせいだ、と頭に浮かぶ「キース・アニアン」。
マザー・イライザの申し子と呼ばれるくらいの、トップエリート。
彼を追い掛け、追い越すための成績争い、日夜、努力をしているのに…。
(追い越したと思ったら、抜き返されて…)
また努力して、の繰り返し。
なのに肝心のキースはと言えば、苦労しているようにも見えない。
(流石、機械の申し子だよ…)
勉強しか頭に無いんだろうさ、と腹立たしい限り。
自分の方は、いつか懐かしい故郷に戻って、会いたい人たちがいるから頑張るのに。
成人検査で奪い去られた、過去の記憶を取り戻したい一心で。
(だけど、キースは…)
そんなことなど、考えたことも無いのだろう。
何の疑いも無くシステムを信じ、マザー・イライザに従って。
機械に言われるままに素直に、勉強と訓練を続けるだけで。
(…腹が立つったら!)
どうして、そんな「キース」なんかと争うことになったのか。
いや、争うのはいいのだけれども、彼を蹴落としてしまえないのか。
(……ぼくの努力が足りないみたいで……)
日毎に募って増してゆくのが、どうしようもない厄介な感情。
苛立ちと焦燥、それが消せないから、マザー・イライザが現れる。
「どうしました?」と、母親気取りで。
「迷いがあるなら、導きましょう」と、それは優し気な笑みを湛えて。
マザー・イライザの幻影だけなら、さほど脅威ではないけれど。
消え去った後も、何が起こるわけでもないけれど…。
(…あれが来た後にも、ぼくの心が落ち着かないと…)
次に来るのは、コールサイン。
マザー・イライザ直々の呼び出し、「彼女」が鎮座する部屋に呼ばれる。
机の上でも足りるサイズの幻影ではなく、等身大の姿を取って現れる部屋へ。
(…コールされたら、眠らされて…)
深い眠りに落ちている間に、頭の中から消される記憶。
機械にとっては都合が悪いと思われるものを、「彼女」が探して、抜き取っていって。
(…そうやって、いろんなことを忘れてしまって、思い出せなくなることが増えて…)
懐かしい養父母の顔や、故郷や、子供時代の記憶が薄れてゆく。
コールされる度、確実に。
成人検査の後も残っていた、大事な「何か」を奪い去られて。
(……また、そうなるんだ……)
幻影が現れたことは、一種の警告。
「自分自身で解決しなさい」と、エリートらしく振る舞うように、と。
けれども、それは出来ない相談。
出来るのだったら、とうの昔にやっている。
同期のエリート候補生たちや、先輩たちがそうするように。
大人しく「マザー牧場の羊」になって、マザー・イライザが指示する通りに生きて。
(…出来るんだったら、キースなんかと争わないよ)
それに腹だって立てやしない、と握り締める拳。
「ぼくには、ぼくの生き方がある」と、「それは絶対、曲げないんだから」と。
何度、機械に呼ばれようとも、逆らい続けて生きてやる。
コールされても、残った記憶にしがみ付いて。
両親を、故郷を慕い続けて、エリートの道を進んでやる。
マザー・イライザの手を離れた後には、グランド・マザーが待っていたって。
地球に居るという「グランド・マザー」は、もっと手強い機械だとしても。
(…ぼくは絶対に忘れない…)
子供時代の記憶が大切なことも、機械が「それ」を消し去ったことも。
マザー・イライザにコールされても、グランド・マザーにコールされても。
機械が記憶をほじくり返して、不都合なことを消し続けても。
(絶対に、忘れないんだから…!)
ぼくは負けない、と机を叩いた所で、ふと気付いたこと。
「他の奴らは、どうなんだろう?」と。
マザー牧場の羊といえども、それなりに個性は持っているもの。
誰もが揃ってエリートではないし、年数を経れば優劣もハッキリして来る。
(……いつもキースとウロウロしている……)
気の好さそうな、サムという名の候補生。
彼はどう見てもエリートではなく、とうに其処から落ちこぼれている。
成人検査を受けた直後は、「資質あり」と判断されたのだろうに。
そうでなければ、Eー1077には来られない。
エリート候補生が集う最高学府は、そんなに甘く出来てはいない。
(…それに、スウェナも…)
結婚という道を選んで、コースを脱落していった。
一般人になるための教育を受けに、Eー1077を去り、別のステーションに移籍して。
(……ああいう、エリートになれない連中……)
彼らの場合も、マザー・イライザは、懸命に手を尽くしたろうか。
「どうしました?」と個室に現れ、それで解決しない場合は、コールして。
彼らの心の奥を探って、問題があるなら、その芽を消して。
(……もしも、そうなら……)
サムもスウェナも、落ちこぼれてはいないような気がする。
たとえ成績が劣っていようが、下級生の「シロエ」に鼻で嗤われたりはしないで。
「やっぱり、エリートの先輩は違う」と、尊敬せざるを得ない面を持って。
(…適材適所って言うんだものね…?)
サムにはサムにしか出来ない「何か」があって、それだけは抜きん出ているとか。
スウェナの場合も、一般人のコースに移籍しないよう、説得されていただろう。
機械には、それが出来るから。
都合の悪い記憶を消したり、問題のある部分を削ってしまえるのだから。
その筈なのに、サムもスウェナも、何事もなく「落ちこぼれた」。
マザー・イライザは二人を見放したのか、彼らに「かまう」ことを放棄したのか。
(……その可能性が……)
高いんだよね、と顎に当てる手。
「恐らく、途中で見捨てたんだ」と。
サムもスウェナも、機械に期待されるほどの資質が無かったから。
コールし、あれこれ手を尽くしたって、どうなるものでもなかったから。
(……だとしたら……)
自分の場合も、あるいは、その道があっただろうか。
「資質無し」と判断されたなら。
入学早々、落ちこぼれるのは、少々、情けないけれど…。
(…やっても出来ない生徒だったら、そうなっていた…?)
何度もコールされる代わりに、見放されて。
どんなに成績が落ちてゆこうが、導かれる代わりに放置されて。
(……そうなっていたら……)
マザー・イライザのコールは、殆ど無かっただろう。
此処へ着いた直後は、「なんとかしよう」とコールした筈だけれども、それ以降。
二回、三回と呼び続けても、一向に改善しない成績。
「セキ・レイ・シロエ」はエリートとして芽を出す代わりに、成績が落ちてゆく一方。
訓練の方もサッパリ駄目で、何をやっても冴えない存在。
(…「やりたい」と「やれる」は違うんだから…)
人間には適不適があるから、SD体制は其処を大切にする。
その人間に相応しい場所は何処になるのか、判断するのは機械の役目。
エリート候補生として連れて来たって、芽が出ないままで落ちこぼれれば…。
(…スウェナみたいに移籍するとか、サムみたいに冴えないままだとか…)
そういうコースを歩むしかなくて、そんな劣った人材は、機械も見捨ててしまう。
「この人間は、此処までだから」と。
伸ばしてやろうと努力するだけ時間の無駄で、エネルギーを浪費するだけのこと。
それくらいならば、他の人材に手間暇かけた方がマシ。
せっせとコールし、励ましもして。
もっと優れた者になるよう、充分に目を掛けてやって。
(……そうだとすると、ぼくが劣等生ならば……)
Eー1077に入学してから間も無い間に、落ちこぼれてしまっていたのなら。
エリート候補生に選ばれたのが、テラズ・ナンバー・ファイブの眼鏡違いというヤツならば…。
(…コールされたのは最初の頃だけで、それっきり…)
マザー・イライザに呼ばれることなど、とうに無かったかもしれない。
幻影が部屋に現れることも、「どうしました?」と訊かれることさえ無いままで。
(…見放されてたら、そうなるんだから…)
度重なるコールで消されてしまった、様々な記憶。
それらは今でも在っただろうか、消される機会が無いのだから。
マザー・イライザは「シロエ」を見捨てて、他の候補生たちに夢中だから。
(……そうだったのかも……?)
ううん、きっとそう、と確信に満ちた思いがある。
「落ちこぼれていたら、今も覚えてたんだ」と。
故郷に帰れないことは同じでも、今よりは多く持っていた記憶。
それが何かは、今となっては分からなくても。
どういう記憶を失ったのかは、全く思い出せなくても。
(…ぼくの人生、失敗だった…?)
劣等生の方が良かったのかも、と悔いても、どうにもならない今。
キースと争い、蹴落とす他に進むべき道は無さそうだから。
エリートコースに乗ったからには、今更、後へは戻れないから。
(……だけど……)
何もかも放り出せたなら、と零れる涙。
きっと、この先も失うから。
機械に見捨てられない限りは、「シロエ」の記憶は消されてゆく。
コールされ、深く眠らされる度に。
マザー・イライザの手を離れたって、グランド・マザーがいるのだから…。
見放されていたら・了
※マザー・イライザが干渉するのは、何処までだろう、と考えたわけで。劣等生は放置かも、と。
そうだとしたら、シロエが劣等生だった時は、記憶は多めに残っていた筈。有り得ないけど。
果たして気付いているのだろうか、とキースの頭を過ったこと。
初の軍人出身の元老として、パルテノンに入って移り住んだ部屋で。
馴染んだ国家騎士団総司令の部屋とは違うけれども、そう悪くはない。
セルジュやパスカルといった部下たち、彼らも共に移って来た。
実に役立つ者たちだけれど、その中に、たった一人だけ…。
(…人類の敵がいるのだがな?)
それも私の側近として、と机に置かれたカップに目を遣る。
とうに夜は更け、マツカも自室に下がった後。
「何かあったら呼んで下さい」と、去る前に熱いコーヒーを淹れて。
(…もしも、マツカがいなかったなら…)
私は此処まで来られていない、と自分でも良く分かっている。
マツカのお蔭で拾った命は、両手だけでは数えられない。
(その上、暗殺計画を立てられるような地位を得るよりも前に…)
ジルベスター・セブンで死んでいただろうさ、と自嘲の笑みが昇って来る。
あの時、マツカがいなかったならば、「キース・アニアン」は生きてはいない、と。
ソレイド軍事基地で、「キース」の命を狙った青年。
何の気まぐれか、見逃してやった、ひ弱なミュウ。
それだけの出会いだった「マツカ」が、ただ一人きりで救いに来た。
誰も救助に来なかった中を、単独で、ミュウの巣窟まで。
(…あれが最初で、それからずっと…)
マツカは「キース」を陰で守って、命を救い続けている。
誰にも知られず、役に立たない部下だと思い込まれたままで。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と、周囲に嘲り笑われながら。
(…セルジュたちが気付かないのは、当然なのだが…)
グランド・マザーはどうなのだろうか、と顎に当てた手。
「マツカがミュウだと、本当に気付いていないのか?」と。
その可能性もあるのだけれども、逆の可能性だって大いにある。
自分が「役に立つから」マツカを生かしているのと同じで、グランド、マザーも同意見。
「キース・アニアンの役に立つなら」と、見逃している可能性もゼロではない、と。
どちらなのかは、「キース・アニアン」にも分かりはしない。
グランド・マザーに問い掛けてみても、答えは返って来ないだろう。
(それに万一、本当に気付いていないのならば…)
迂闊な質問を投げ掛けたばかりに、貴重な部下を失いかねない。
「ミュウのマツカ」は、直ちに処分されてしまって、代わりの人材がいなくなって。
どれほどマツカの功を叫んでも、グランド・マザーは聞き入れなくて。
(そうなったならば、私の命も…)
長くは続かないだろうしな、と唇を歪める。
今も絶えない暗殺計画、それに命を奪われるだろう、と。
(それを防ぐために、あえてマツカを…)
ミュウと知りつつ見逃しているか、あるいは気付いていないのか。
グランド・マザーの真意は謎で、この先も、きっと掴めはしない。
(…ミュウどもとの戦いに、決着がつけば…)
その時は答えが出そうだけれども、「キース」の命があるのかどうか。
「実はミュウだった」マツカの場合は、裏切り者だと言われようとも…。
(…生き延びるために、やむを得ない選択をしていただけで…)
人類軍の真っ只中では仕方なかろう、と思うミュウの方が多いだろう。
逆に同情され、労われることもあるかもしれない。
しかし、「キース」は、そうはいかない。
ジルベスター・セブンを焼き滅ぼした張本人で、明らかにミュウの敵だから。
ソルジャー・ブルーを撃ち殺そうとしていたことも、間違いなく知れてしまうだろう。
(…処刑されるか、最後の戦いで戦死するか…)
どちらにしても命は無いな、という気がするから、グランド・マザーの考え方は分からない。
あえてマツカを生かしていたのか、最後まで気付かなかったのかは。
(…とはいえ、今の時点では…)
知らないふりか、気付いていないか、謎だとはいえ、マツカは「無事」。
パルテノンまで付いて来た上、側近として仕え続けている。
本当は、人類の敵なのに。
処分されるべき異分子のミュウで、生きることを許されていないのに。
(…最初は、気まぐれだったのだがな…)
まさか「マツカ」が役に立つとは、夢にも思っていなかった。
ソレイド軍事基地で出会った時点で、本来なら処分するべき存在。
けれども、脳裏を掠めた面影。
マツカに「シロエ」が重なったから、彼を助けてやろうと思った。
「一人くらい」と。
ひ弱なマツカを生かしておいても、人類の脅威になりはしない、と。
(…そう考えただけなのに…)
マツカは命の恩人となった「キース」を、けして忘れはしなかった。
ただの気まぐれの礼と呼ぶには、あまりにも多すぎるマツカの「恩返し」。
「キース」は何度も命を拾って、とうとう此処まで昇進した。
初の軍人出身の元老、国家主席にも手の届きそうな高い地位まで。
(…そしてマツカも、命を脅かされることなく…)
誰にもミュウだと知られもせずに、人類の社会の中枢に近い所にいる。
気まぐれで命を助けただけの、ひ弱だったミュウが。
(……こういうことになるのなら……)
もしも、と「シロエ」の面差しを思う。
遠い昔に、この手で初めて「殺した」人間。
その正体はミュウだったけれど、シロエは確かに「ヒト」でもあった。
マザー・イライザがミュウと知りながら、「キース」のために送り込んだ少年。
人類のエリート候補生として、Eー1077で「キース」と競わせようと。
その果てに「キース」の秘密に気付いて、それを探りに行くように、と。
(…シロエ自身も、マツカと同じで…)
自分がミュウだなどとは思わず、人類のつもりで暮らしていた。
ミュウだった彼には、Eー1077での日々は、辛かったろうに。
最後は宇宙に脱走するほど、追い詰められた挙句に散って行ったシロエ。
(……私は、シロエを……)
言われるままに処分したのだけれども、逆らっていたら、どうなったろう。
マザー・イライザの指示を無視して、シロエを「わざと」見失ったら。
彼が乗った船を撃墜しないで、手ぶらで戻って行ったならば。
あの時、自分は知らなかったけれど、モビー・ディックが近くに来ていたという。
シロエを「あのまま」行かせていたなら、彼は仲間に拾われただろう。
たとえ意識を失くしていようと、同じミュウなら、「仲間の船だ」と気付く筈。
モビー・ディックがシロエを拾えば、歴史は変わっていたかもしれない。
なにしろシロエは、優秀なエリート候補生。
国家機密には手が届かなくても、かなりの知識を持っていた。
マザー・システムやSD体制、人類軍に国家騎士団、それに数々の軍事基地など。
(…ミュウどもが、シロエと出会っていたら…)
恐らく、全てが変わっていた。
ジルベスター・セブンを拠点に選んでいても、自然出産を始めたとしても…。
(…優秀なブレーンがいるわけなのだし…)
やって来た「キース」をどう扱うかも、まるで違っていただろうと思う。
シロエは、キースをよく知っている。
それに、遠い日、「キース」が「シロエ」を見逃したことも。
(…恐らく、捕虜にした後は…)
交渉しようと乗り出したろうし、条件付きで「キース」を逃がしたかもしれない。
「向こう何年間かは、ジルベスター・セブンに誰も近付けるな」と。
「何も無かったと報告しろ」と、「でないと、ミュウは攻撃を開始する」と。
シロエというブレーンを得ていたならば、ミュウには戦う術があるから。
どういう具合に戦ってゆけば、ミュウ側が勝利するかも分かる。
(…そして私は、そう脅されて…)
言われた通りに報告するしか無かっただろう。
救い来たマツカに「何も無かった」と、大嘘をついて。
「帰るぞ」と、ソレイド軍事基地に戻って、グレイブには「事故に遭っただけだ」と告げて。
(…グランド・マザーが、どう出るかは…)
謎だけれども、どう考えても、今のようにはなってはいない。
ジルベスター・セブンでの「圧倒的な勝利」を、人類は得てはいないから。
ミュウを殲滅させるどころか、きっと、まんまと逃げられたろう。
(…その後に来るのは、総力戦で…)
もっと早くに人類軍は敗北続きで、ミュウの版図は拡大する一方。
止める術など、グランド・マザーにもありはしなくて。
(…どうして、あの時…)
私はシロエを逃がさなかった、と胸の奥に苦い痛みが広がる。
後に「マツカ」を見逃したように、あの日、シロエを逃がしていれば、と。
そうしていたら歴史は変わって、犠牲者も減っていたかもしれない。
人類軍も、それにミュウの方でも。
(…ソルジャー・ブルーも、メギドで死なずに…)
交渉のテーブルに着いただろうか、人類が負けを認めた時に。
それとも、そうなるもっと前から、彼も交渉に出て来たろうか。
(…いずれにしても、全ては大きく変わっていって…)
今よりもずっと、好ましい方へ行っただろうに、と思えてならない。
「あの時、シロエを逃がしていれば」と。
(……あの日、私に、足りなかったのは……)
きっと自信というものなのだ、と噛んだ唇。
グランド・マザーよりも遥かに小者の、マザー・イライザに「従った」など。
ソレイドで「マツカ」を助けた時には、「気まぐれ」で済ませられたのに。
(…あの時の私は、まだ若すぎて……)
自信も勇気も無かったのだ、と、ただ悔しくてたまらない。
「あの時、それがあったら」と。
シロエを「わざと逃がす」勇気と、それから自信。
それを自分が持っていればと、「そうすれば歴史が変わったろうに」と…。
足りなかったもの・了
※マツカの正体に、グランド・マザーが気付いているのか、いないのか。それは謎ですが…。
キースが「気まぐれ」で助けたマツカ。だったら、あの日、シロエを助けていれば…?
優秀な成績で通過したから、どうだって言うのさ、とシロエは心の中で吐き捨てる。
Eー1077で与えられた個室で、ベッドの上で膝を抱えて。
とうに夜は更け、「優秀な」同期生たちは、ぐっすり眠っていることだろう。
明日の講義と訓練に備えて、マザー・イライザや教授の指示通りに。
(…エリート候補生は、規則正しい生活をして…)
心も身体も健康に保って、日々の講義に、訓練についてゆかなくてはならない。
精神状態が不安定だと、宇宙に出ての訓練などは許可が下りない。
ほんの僅かな心の乱れが、取り返しのつかないミスを招いて、命を奪いかねないから。
身体にしても、講義の内容をきちんと覚えて、自分のものにしてゆくためには…。
(体調不良で熱があったり、眩暈がしたりしていたら…)
教授の言葉が頭に入らず、取り残されてしまうことになる。
それでは話にならないのだから、教授たちも、マザー・イライザも…。
(夜はしっかり休んで、頭も身体も疲れを癒して…)
翌日に備えておくように、と口を酸っぱくして説教をする。
「エリートたるもの、そうでなければ」と、将来に向けての心構えを説いて。
(……でも、ぼくは……)
その意味では、とうに落ちこぼれだよ、と唇に浮かべた自嘲の笑み。
今日もこうして夜が更けるまで、ベッドの上に座ったまま。
その上、心で繰り返す呪詛。
「成人検査なんて」と、「エリート候補生なんて」と。
今の自分が、どれほど恵まれた立場にいるのか、それは充分、承知している。
ステーション・Eー1077と言えば、エリートを育てる最高学府。
行きたいと願う者は多くて、かつては自分も、その一人だった。
「エリートになって、地球へ行くんだ」と。
そうして夢見て、努力を重ねて、優秀な子供になろうとした。
その夢はこうして叶ったけれども、あまりにも大きすぎた代償。
Eー1077に来られた代わりに、故郷を、過去の記憶を失くした。
あの忌々しい成人検査で、憎い機械に奪い去られて。
残されたものは、たった一冊、ピーターパンの本だけになって。
どうして自分は、こういうことになったのか。
Eー1077などに連れて来られて、引き換えに過去を失ったのか。
(…何もかも全部、成人検査のせいなんだ…)
あれが悪い、と呪詛の言葉を繰り返す。
「成人検査なんか無ければ」と、「エリート候補生なんて」と。
いくらエリート候補生になれても、両親の許へは帰れない。
故郷からも遠く引き離されて、どんどん薄れてゆく記憶。
マザー・イライザにコールされる度、欠け落ちて、何処かへ行ってしまって。
この呪わしい日々へ、牢獄へと、送り込んだのが成人検査。
(…成人検査を受ける前には、未来は、うんと輝いていて…)
無限の可能性があった筈だったのに、それもすっかり色褪せた今。
地球へ行く夢は変わらなくても、その意味は変わり果ててしまった。
「ネバーランドよりも素敵な場所」から、「グランド・マザーのいる場所」になって。
いつの日かトップの座に昇り詰めて、グランド・マザーを停止させるために、地球に行く。
「奪った、ぼくの記憶を返せ」と、機械に命令するために。
過去の記憶を取り戻したなら、「止まれ」と機械に命じて止める。
機械が人間を支配する世界、歪んだ世界を終わらせるために。
成人検査などは無い世界を作って、「子供が子供でいられる世界」を取り戻さねば。
(…そのために、地球へ行かなくちゃ…)
それに、トップにならなくっちゃ、と思いはしても、逆らうことしか思い付かない。
「夜はしっかり眠るように」と言われていたって、夜更かしをして。
機械へ、成人検査への呪詛を、毎夜のように繰り返して。
(……成人検査さえ、無かったら……)
こんなことにはなっていないし、今も幸せだっただろう。
両親の許を離れていたって、それは単なる、次へのステップ。
エリート候補生に選ばれ、地球に行くための教育を受けて成長する。
そのためだったら、同じように故郷を離れていても…。
(エリートになったら、パパとママに…)
成長した自分を見せに帰れるから、とても励みになったろう。
四年間、家に帰れなくても、両親と連絡を取る事さえも出来なくても。
けれど、そうではなかった現実。
成人検査は過去を奪って、戻る事さえも許しはしない。
両親の家が何処にあったか、それも今では覚えていなくて、両親の顔も…。
(…まるで焼け焦げた写真みたいに…)
ぼやけて滲んで、どんな顔だか、どう頑張っても思い出せない。
これでは、此処を脱走したって…。
(……どうやったら、家に帰れるのかさえ、分からないよ……)
宇宙船を奪って逃げても、アルテメシアまで飛んでゆくのが精一杯。
エネルゲイアの宙港に着陸したって、其処から先が分からない。
どちらへ進めば、両親の家が在るのかが。
たとえ追手が来なかったとしても、「シロエ」は家に帰れはしない。
(…成人検査が悪いんだ…)
あれが何もかも奪ったんだ、と悔しくて憎くて、繰り返す呪詛。
「成人検査なんて」と、心の中で。
時には激しい怒りをぶつけて、声にして、何処かを殴り付けて。
(…こんな結末になるのなら…)
あんなの、通過しなくても良かったんだ、と心で吐き捨て、ハタと気付いた。
「通過しなければ、どうなったろう?」と。
エリートコースにも、他のコースにも行かなかったら、どうなるのだろう、と。
(…誰でも、十四歳になったら…)
誕生日が来たら、「目覚めの日」。
其処で成人検査を受けて、将来の道を機械が決める。
優秀な子供は、エリート候補生が集うEー1077へと送り出す。
そうでない子は、機械が適性を見定めて…。
(一般市民になるコースだとか、技師だとか…)
様々な進路が用意されていて、其処へ行くのだと聞かされた。
エネルゲイアの学校に通っていた頃、教師から何度も説明された。
「ですから、皆さんは、よく勉強しないといけませんよ」と、しつこいくらいに。
輝かしい未来を手に入れたければ、優秀な子にならないと、と。
機械に選んで貰えるように。
優秀な成績で成人検査を通過し、エリートコースに入れるように。
(…そうやって、振り分けられるけど…)
通過出来ない子もいる筈なんだ、と今の自分は知っている。
Eー1077で学ぶ過程で、その断片を聞かされた。
「成人検査に脱落する者がいる」ということ。
とはいえ、分かっているのは其処まで。
脱落した場合、再検査があり、それが何度か繰り返される。
それでも通過出来ない者たちがいると、その割合は僅かだけども、と教わっただけ。
(脱落した子が、どうなるのかは…)
まだ学ぶべき時ではないから、教えられないままで終わった。
「いずれ、エリートとして学ぶ時が来る」と、将来に期待を抱かせた教授。
「頑張って、其処まで到達しなさい」と、発破をかけて。
「もしも学べずに終わったならば、エリートにはなれないのだから」と。
(…エリートの条件の方はともかく…)
脱落した子はどうなるのだろう、と湧き上がる疑問。
機械が用意していたコースに進むことなく、脱落していった子供たち。
(……脱落するなら、成人検査を通過しないんだから……)
彼らの記憶は「そのまま」だろうか、消えずに残っているのだろうか。
(…再検査が何度かあるってことは…)
その間は、養父母の許にいるわけなのだし、記憶が消えていたなら困る。
記憶が無ければ、自分の家にも帰れなければ、両親も分からないのだから。
(…つまりは、通過しなければ…)
記憶は消えずに残ったままで、落ちこぼれる可能性がある。
彼らの記憶を消したところで、進むべき道など無いのだから。
そんな子供に、余計な手間はかけないだろう。
過去の記憶を消してしまうのは、従順な人間を作り上げるため。
素直に機械に従う人間、システムに都合のいい人間を作り出すのに必要な作業。
それなら、社会に出ては行けない「脱落者」には…。
(記憶を処理する必要なんかは…)
無いってことになるんだろうか、と「その可能性」に思い至った。
成人検査に脱落したなら、記憶は消えないかもしれない。
過去の記憶を失わないまま、「彼ら」は脱落してゆくのかも、と。
(…もしも、そうなら…)
いっそ、それでも良かったかも、という気がする。
「本当の自分」を、失わないでいられるのなら。
生まれ故郷も両親のことも、覚えたままでいられるのなら。
(……だけど、脱落した子供たちが、どうなるか……)
まだ「学ぶべき時ではない」なら、恐らく、それは国家機密に近いものなのだろう。
単に「脱落した」だけではなく、その先に「何か」待っている。
収容所へと送られるだとか、あるいは強制労働だとか。
(…普通の人間には、とても危険で任せられないような作業を…)
彼らが請け負い、劣悪な条件の辺境星区で働くというのは、如何にもありそう。
エリート以外の誰にも知られず、事故死したって、気に留められもしない人生。
「代わり」は直ぐにやって来るから、「脱落者」は次々、補充されるから。
(…そうだとしても…)
過酷な人生が待っていたって、そちらの方が良かったろうか。
懐かしい故郷を、両親の顔を思い出しながら、耐える労働。
「二度と帰れない」のは今と同じでも、「忘れないままでいられる」ならば。
いつか命が尽きる時まで、懐かしむことが出来るのならば。
(…本当に、そうなる運命だったとしても…)
そんな人生でも良かったかもね、と膝を抱えて、ただ丸くなる。
大好きだった両親の顔を、故郷を覚えていられるのならば、それでいい、と。
記憶を奪われたエリートよりかは、「覚えたまま」生きる底辺で、と。
何故なら、今も「帰りたい」から。
機械が奪ってしまった過去へと、帰りたくてたまらないのだから…。
脱落したなら・了
※成人検査に脱落した子供は、処分されるという現実。けれど、一般市民は知らない模様。
だったらシロエも知らないかもね、と考えた所から出来たお話。脱落を希望しそうなシロエ。
どうして私を庇った、とキースが脳裏に描く面影。
人類軍の旗艦ゼウスの司令官室、ただし、新たに設けられた「其処」で。
元からあった司令官室、国家主席の執務室も兼ねていた部屋は、既に無い。
ゼウスに潜入して来たミュウの青年、オレンジ色の瞳の男が壊したから。
(…本当だったら、あの時、私も…)
死んでいたのだ、とハッキリと分かる。
いや、それどころか、実際、キース・アニアンは「死んだ」。
一度は鼓動を止めた心臓。
自分では知らなかったのだけれど、後にセルジュから聞かされた。
「閣下は、強運でいらっしゃいますから」と、蘇生したことを褒め称えられて。
(……だが、あれは……)
私自身の力では無い、と確信に満ちた思いがある。
あの時、二度も「救われた」のだ、と。
もうゼウスにはいない側近、広い宇宙の何処を探しても、出会えはしない青年に。
(…あれは、幻などではなかった…)
ミュウの青年に襲われ、意識を失った後に見ていたもの。
深い水底に沈んでゆく自分に、シロエが、サムが、手を差し伸べて来た。
溺れたくなくて、必死に藻掻いた自分の身体は、どうにも出来ずに沈んでゆくだけ。
(…其処に、マツカが…)
現れ、微笑んで腕を掴むのを、確かに見た。
そうして、引き上げてくれる強い力を「感じた」。
(だから、私は…)
死の淵から戻れたのだと思う。
息を吹き返し、再び瞳を開けた時には、マツカが「いなくなっていた」けれど。
「キース」を庇って、身体の半分を吹き飛ばされて、失せていた命。
それでも、マツカは救ってくれた。
最後の最後に、残ったサイオンを振り絞って。
死にゆく「キース」の魂を追い掛け、黄泉の国から連れ戻して。
マツカが身をもって救った「キースの肉体」、引き戻してくれた「キースの魂」。
二度も自分は救われたけれど、それに報いてやるどころか…。
(……後始末を、と……)
言い捨てて部屋を後にしたから、自分はマツカの死に顔にさえも、向き合っていない。
「後始末を」と命じられた部下たち、彼らは、忠実に仕事を済ませたから。
上官を煩わせることが無いよう、迅速に「マツカ」の後始末をして、新しい部屋を整えて。
(…終わりました、と…)
今の部屋に案内された時には、とうに全ては終わっていた。
マツカが何処に葬られたのかも、報告さえも受けてはいない。
なんと言っても「後始末」だから、廃棄したゴミの処分先など、上官に知らせる必要は無い。
(……本当に捨ててはいないだろうが……)
きっと内輪で、ささやかな弔いもしたのだろうけど、其処にも自分は呼ばれていない。
「後始末を」などと言われたマツカは、二度も救ってくれたのに。
マツカが救ってくれなかったら、こうして生きてはいなかったのに。
(…私を襲ったミュウと一緒に…)
逃れることも出来ただろうに、と零れる溜息。
「どうして私を庇ったのだ」と、「何故、あの男と逃げなかった」と。
マツカがそうするわけもないのに、埒も無いことを考えてしまう。
其処で逃亡するくらいならば、とうの昔に、マツカは逃げていたのだろうに。
(……思えば私は、最初から……)
マツカに救われてばかりだったな、と浮かんだ苦笑。
「逆だったのは一度だけだ」と、「マツカに出会った時だけだった」と。
ソレイドで初めて遭遇した時、マツカは牙を剥いて来た。
生き延びるために「キース」を消そうと、そのサイオンをぶつけて来て。
(窮鼠猫を噛む、というヤツだったが…)
それでメンバーズを倒せはしないし、本当だったら、マツカは「始末されていた」。
文字通りキースに返り討ちにされ、処分されて。
(…しかし、マツカに…)
シロエの面影が重なったから、殺さず、生かしておくことにした。
罪滅ぼしのつもりだったか、単なる気まぐれだったのか。
「一匹くらい生かしておいても、特に問題無いだろうさ」と。
その「一匹」が役に立つなど、夢にも思いはしなかった。
けれど、結果は…。
(…本当に、その直後から…)
マツカは「キース」を救い続けた。
一番最初は、ジルベスター・セブンに向かった時。
単独で降下を試みた着陸船を、ミュウに墜落させられた。
待機していた母船の者たち、彼らは全員、「キースは死んだ」と見なして逃げた。
考えてみれば「それ」が普通で、誰も救助に来なくても…。
(おかしくはないし、咎める者もいないのだがな…)
ただ一人だけ、「キース」の生存を信じていたのが、あの時のマツカ。
そう信じたから、嘲笑われつつ、たった一人で「救いに来た」。
ちっぽけな船しか借りられなくても、誰も同行してくれなくても。
(もしも、マツカが来なかったなら…)
ミュウの母船からは脱出できても、命運は其処で尽きていたろう。
いくら人質を取っていようと、ミュウの能力に敵いはしない。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
彼が本気で追って来たなら、船ごと破壊されただろう。
そうしたとしても、彼が人質を救い出せたのは、皮肉な形で証明された。
(…私が、あの船を爆破したのに…)
人質だった「ミュウの女」は、ジョミーに救い出されたから。
「キース」がマツカに救われたように、サイオンに守られ、爆発には巻き込まれずに。
(……あれが、一度目……)
あの時も、二度、救われたのだな、と改めて思う。
マツカが救いに駆け付けたからこそ、逃げ遂せた上に、その後も…。
(…人類軍の船に拾われるまで…)
真空の宇宙を飛んでゆけたし、お蔭で命を拾えたのだ、と数えた回数。
「二度、救われた」と。
メギドでミュウの殲滅を目指した時にも、同じようにマツカに救われた命。
ソルジャー・ブルーに道連れにされる寸前、飛び込んで来たマツカに救い出された。
彼が現れなかったならば、間違いなく死んでいただろう。
追い詰めた筈の手負いの獣に、喉笛を食い破られて。
(…こうして、ザッと数えただけでも…)
マツカ無しでは「命が無かった」局面が幾つもある人生。
他にも幾つもの暗殺計画、それをマツカが未然に防いでくれていた。
(……マツカのお蔭で拾った命は……)
数え切れんな、と思うけれども、礼を言おうにも、マツカは「いない」。
最後まで「キース」を救い続けて、身代わりのように死んでしまった。
これからは、もう…。
(…私の命を救える者は…)
誰一人としていないのだ、と覚悟は、とうに出来ている。
オレンジ色の瞳の青年、彼が再びやって来たなら、今度こそ命は無いことだろう。
それはそれで、世界の未来のためには…。
(いいのかもしれん、と思うがな…)
どうせ、世界はミュウのものだ、と恐ろしい答えを、自分は知った。
ミュウは進化の必然だったと。
だから「キース」が死んでしまっても、ミュウが世界を手に入れる日が早まるだけ。
人類には気の毒な結末だけども、それが歴史の流れなのだし、仕方ないこと。
(……そんな未来しか無いというのに……)
どうして私を生かしたのだ、と神がいるなら問いたくなる。
「どうして、マツカを寄越したのだ」と、「彼は、人類ではなかったのに」と。
殲滅すべきだと思っていたミュウ、いつかマツカが「最後の一匹」になると信じていた。
ミュウは端から滅ぼすけれども、マツカくらいは生かしておいてもいいだろう、と。
(そんな私の命を、何故…)
よりにもよってミュウのマツカに、神は救わせ続けたのか。
マツカの命と引き換えてまで、神は「キース」を生かしたのか。
(……まさしく、それだな……)
生かされているのだとしか思えん、という気がする命。
「キース」の肉体、神の領域を機械が侵して、創り上げた「モノ」。
神には最初から見放されている筈だというのに、「生かされている」ように思えてくる。
そのために神が「マツカ」を寄越して、今日まで生かして来たのだと。
命を失いそうになる度、マツカに「それ」を救い出させて。
そうだとしたなら、「マツカ」の役目は終わったろうか。
「キース」を救う使命が終わって、神の許へと召されたのか。
この先はもう、「キース」が命を失っても…。
(世界は順調に動いてゆくから、それでいい、と…?)
そういうことなら、納得がゆく。
「マツカ」がいなくなったことにも、「キース」の命を救える者がいないことにも。
(…そうだったのかもしれないな…)
だから、お前は旅立ったのか、とマツカに心で問い掛けてみても、答えは無い。
彼の命があった頃には、「言葉を使え」と何度怒鳴ったか知れない思念を、待ってみても。
(……私が生かされていたのなら……)
そのために、マツカがいたのだったら、自分は何をすべきだろうか。
何もしないまま、ミュウに殺される日を待っていたのでは…。
(…マツカが私を生かし続けてくれていた意味が…)
まるで無くなるではないか、と「生かされている意味」を考える。
神に、マツカに「生かされて」今があるのだったら、そうなった意味を。
「キース」は命を失う前に、この世界で何をすべきなのかを。
(……考えろ、キース……)
確かに意味はある筈なのだ、と深く、深く思考を巡らせてゆく。
「それは何だ?」と。
「何のために私は生きているのだ」と、「今も生かされているのだろうな?」と…。
生かされる命・了
※「マツカがいなかったら、キースはとっくに死んでるよね」と、ハタと思ったわけで。
そんなキースが生きていられるのも不思議な話だ、と考えた所から出来たお話。
(マザー・イライザ…!)
母親面したコンピューターめ、とシロエが机に叩き付けた拳。
マザー・イライザの幻影が消えた辺りを、憎悪に満ちた瞳で睨んで。
たった今まで、其処にいた機械が纏っていた姿。
それに嫌悪を覚えるけれども、同時に覚える微かな思慕。
(…こうして、目の前に現れる時は…)
Eー1077で与えられた、この個室でも、コールされて行く広い部屋でも、起こる現象。
マザー・イライザは、最も身近な女性の姿で現れるもの。
コンタクトを取ろうと思った相手が、親しみやすさを抱くようにと。
(なんて機械だ…!)
それに、なんという酷いシステムだろう、と湧き上がる怒り。
ついさっきまで来ていた「マザー・イライザ」は、故郷の母の姿だったから。
語り掛けて来る言葉と、その内容とが、別物だったというだけで。
(……ママは、あんなこと……)
ぼくには絶対、言いやしない、と思うけれども、止められない、その姿への思い。
心の何処かで「ママだ」と叫んで、「彼女」の言葉に従いたくなる。
逆らい、反抗しなかったならば、「彼女」は、きっと優しいから。
記憶に残った母と同じに、「シロエ」と温かく呼び掛けてくれて。
(…だから嫌いなんだ!)
あんな機械、と乱暴に椅子を蹴り付けて立った。
このまま机の前にいたなら、マザー・イライザに取り込まれそうで。
再び、幻影が現れて。
「どうしました?」と柔らかい声音で、こちらの機嫌を窺いながら。
もしも心が晴れないのならば、悩みを聞いて対処するから、と。
(…それに騙されて、あいつの所に行ったなら…)
深く眠らされて心を探られ、またしても記憶を奪い去られる。
機械に都合の悪い部分を、摘み取るように。
システムに反抗しないようにと、その芽をチョキン、チョキンと切って。
誰がその手に乗るもんか、と机に背を向け、歩き出そうとしたけれど。
ピーターパンの本が置いてあるベッド、其処へ真っ直ぐ向かうつもりが…。
「あっ…!」
足を取られる物など無いのに、突然、掬われた足元。
怒りの余りに足が縺れたか、あるいは注意散漫だったか。
(…痛っ!)
したたかに床に叩き付けられ、走った痛み。
日頃、訓練でやっていることは、何も役立ちはしなかった。
部屋にいたから油断したのか、あるいは、所詮は付け焼刃なのか。
(…やらないと、上に行けないから…)
体術の訓練もしているけれども、ああいったことは好きではない。
空き時間にまで自主トレーニングをしている人種が、異次元の者に思えるほど。
(……本当のぼくは……)
この程度の実力だったりしてね、と顔を歪めて起き上がる。
「なんてザマだ」と、自分自身を嘲りながら。
「誰にも見られなくて良かった」と、「外で転んだら、笑い物だよ」と。
(…でも、痛かったな…)
転んだのなんて、久しぶりだ、と服を軽くはたいて、立ち上がって。
「部屋の中だから、汚れてないけど」と、膝の辺りなどを眺めた途端。
(……ママ……)
それに、パパ、と心の中を掠めた思い。
Eー1077に連れて来られる、遥か前のこと。
故郷のエネルゲイアにいた頃、幼い自分も、こうして転んだ。
「パパ、ママ、早く!」と、両親を呼びながら、元気一杯に駆けていた時に。
一緒に遊びに行った場所やら、街に出掛けた折なんかに。
(…躓いたり、滑ったりなんかして…)
アッという間に転んだ自分。
とても痛くて、おんおん泣いたものだけれども…。
(…大丈夫、って…)
起こしてくれた父の、大きかった手。
それから、怪我を手当てしてくれた、母の優しくて暖かかった手。
(…どっちも、此処には…)
もう無いんだ、と思い知らされ、ふらふらとベッドの端に座った。
「ぼくが転んでも、誰も助けてくれやしない」と。
今は怪我をしていないけれども、転んだことと、痛かったことは幼い子供だった日と同じ。
けれど、誰一人、来なかった。
誰も「大丈夫?」と尋ねてはくれず、具合を確かめてもくれない。
此処に故郷の母がいたなら、「大丈夫?」と訊いてくれるだろうに。
もう充分に大きい少年だけれど、転んだことに変わりはない。
運が悪ければ、打ち付けた場所にアザが出来ることもあるだろう。
もっと酷かったら、転んだはずみに…。
(足を捻って、捻挫するとか…)
そういったことも起こりかねない。
Eー1077で訓練を受けていなかったならば、そういったケースも無いとは言えない。
(…だから、きっと…)
母だったならば、駆け寄って来る。
何処か痛めていないだろうかと、慌てた様子で。
(パパだって…)
苦笑しながら、ゆっくりとやって来るだろう。
「おやおや、そんなに大きいのに」と、あの温かい笑みを浮かべて。
「転ぶだなんて、考え事でもしていたのかい?」と、可笑しそうに。
そうして顔では笑っていたって、父も心配してくれた筈。
転んで怪我をしてはいないか、足を捻ったりしなかったか、と。
(…パパ、ママ…)
此処には誰もいてくれないよ、と悲しくなる。
「ぼくは一人だ」と、「転んでも、誰も来てくれないよ」と。
(…もし、来るとしたら…)
マザー・イライザしかいやしないんだ、と寒くなる背筋。
今の「シロエ」を気に掛ける者は、あの忌々しい機械だけ。
それがイライザの役目とはいえ、なんと虚しい世界だろうか。
気に掛けてくれる者は誰もいなくて、機械が面倒を見てくれるなんて。
(……ゾッとしないよね……)
機械に心配されるだけだなんて、とベッドに腰掛け、身を震わせた。
転んだ痛みも、この恐ろしさの前には薄れて消えてゆくだけ。
(…ぼくを気にしてくれるのは…)
Eー1077の中では、マザー・イライザしかいない。
此処を卒業していった後は、別の機械がイライザに取って代わるのだろう。
なんという名か知らないけれども、行く先々を支配しているコンピューターに。
(出世して、地球に行ったなら…)
グランド・マザーが「シロエ」の心配をする。
国家主席の座に昇り詰めて、「止まれ」と命令するまでは。
機械が治める歪んだ世界を、この手で壊す瞬間までは。
(…転ぶどころか、大怪我をして…)
入院したって、誰も見舞いに来てはくれない。
友達を作らない限り。
マザー牧場で飼い慣らされた、羊を友にしない限りは。
(…そんな友達…)
御免だよね、と思いはしても、機械しか心配してくれないのは、悲しくて怖い。
命が危ういほどの怪我なら、どれほど心細いだろうか。
(ぼくは本当に治るのかな、って…)
包帯だらけで沢山の管に繋がれていても、慰めに来るのは機械だけ。
マザー・イライザがやっているように、恐らくは母の姿を取って。
「大丈夫、きっと治りますよ」と、枕元に幻影が現れて。
「痛みますか?」と触れて来る手には、温もりも質感も、微塵も無くて。
(…でも、そうなるんだ…)
このまま進めば、ぼくはそうなる、と容易に想像がつく自分の未来。
心を許せる相手なんかは一人もいなくて、何処までも孤独。
重傷を負って入院しても、機械が見舞いに来るだけで。
その傷が元で命を落とすことになっても、最期を看取ってくれる者など…。
(……いやしないんだ……)
故郷の両親がいてくれたならば、駆け付けて来てくれるだろうに。
最期まで「シロエ」の手を握り締めて、「死ぬな」と泣いてくれるだろうに。
(……どうすることも……)
出来やしないよね、と分かってはいる。
歪んだ世界を正さない限り、両親に再会出来はしないし、一緒に暮らすことも出来ない。
そして、その道を捨てない限りは、孤独が待っているということも。
(…もしも、其処から逃れたかったら…)
エリートになる道を諦め、一般市民になるしかない。
そちらのコースに進んだならば、「共に歩んでくれる誰か」を見付けることが出来るだろう。
機械が選んで勧めて来るのか、あるいは自分で選び出すのか。
(…どっちにしても…)
そこそこ気の合う、価値観も似た「配偶者」。
早い話が、「シロエの妻」になる女性。
(……ぼくは、女なんか……)
要らないんだから、と頭から決め付けて来たのだけれども、どうなのだろう。
妻がいたなら、さっきのような時だって…。
(いい年をした大人が転ぶなんて、って…)
笑いながらも、妻が側に来てくれる筈。
「何処か、痛む?」と、幻影ではない手で触れて。
転んだ拍子に怪我をしていたら、傷の手当てをして、心から心配してくれて。
(……大怪我をして、入院したって……)
機械の代わりに、毎日、見舞いに来るのだろう。
しかも機械の見舞いと違って、心の底から「シロエ」を気遣い続けてくれる。
今日は少しは顔色がいいか、退院の目途は立つだろうか、と。
「具合が良くなったら、何が食べたい?」と、微笑んで尋ねてもくれて。
(…そういう人が出来るから…)
一般市民も不満を持たないのかな、という気もする。
機械に支配されていたって、自分の幸せはあるものだから。
気遣ってくれる人が側にいて、独りぼっちではない人生。
それを歩んでいけるのならば、きっと満ち足りているだろうから。
(……でも、ぼくは……)
そっちの道には行けやしないんだ、と辛くて、涙が零れ落ちる。
既に選んでしまったから。
子供が子供でいられる世界を、この手で、必ず取り戻すと。
(…パパ、ママ…)
だから、その日まで待っていてね、と抱き締めるピーターパンの本。
懐かしい故郷に帰れた時には、心配してくれる人が出来るから。
もしも転んでしまったとしても、「大丈夫?」尋ねてくれる人たち。
「シロエ」が大人になっていたって、両親はきっと、気に掛けてくれる筈なのだから…。
一人きりの道・了
※シロエと言えば気が強いわけですけれど、本当は寂しがり屋だよね、と思うわけでして。
両親が忘れられないほどなら、孤独な人生も怖い筈。其処から生まれたお話が、コレ。
