「みんなで行こう…。地球へ」
ぼくは自由だ。自由なんだ。いつまでも、何処までも、この空を自由に飛び続けるんだ…!
ピーターパンだ、とシロエが思った光。
それに包まれてネバーランドへ飛び立ったのだ、と信じた身体が軽くなった瞬間。
(えーっと…?)
何処だろうか、とシロエは辺りを見回した。
ピーターパンもティンカーベルも誰もいなくて、さっきの光も消え失せていて。
「仕事納め…?」
墨でドドーン! と書かれた四文字、もちろんシロエに読めるわけがない日本語なるもの。
けれども、何故だかストンと分かった。「仕事納め」と書いてあるのだ、と。ただ、仕事納めとは何のことかが分からない。首を捻って考え込んでいたら。
「あーーーっ!!?」
嘘だ、と思わず叫んでしまった。「仕事納め」の四文字が黒々と書かれた、いわゆる掛軸。それが画面のように変わって、流れ始めたエンドロール。
(ぼくの本…)
宇宙空間に散らばる残骸、其処に紛れたピーターパンの本。自分の持ち物だった本。
それから走馬灯のように映し出される自分の人生、これがエンドロールだということは…。
(…死んだわけ!?)
そんな、と愕然としたのだけれども、終わったらしい自分の人生。仕事納めとはこういう意味か、と遅まきながら理解した。人生という仕事が終わってしまったようだ、と。
(うーん…)
ピーターパンはいなかったのか、とガックリさせられた人生の終わり。どうやら此処はネバーランドでも地球でもなくて…。
(なんだか謎だ…)
強いて言うならキッチンだろうか、と眺め回しているシロエは知らない。そのキッチンを遠い昔の日本人が見たら、「ああ、料亭とか割烹の…」と即座に理解するだろうことを。彼らにとっては馴染んだ代物、料理ドラマでもありがちな厨房。
ただし、それしか無いけれど。キッチンと、壁の「仕事納め」の掛軸だけで全部だけれど。
ネバーランドも地球も無かった、と残念だった上、キッチンに来てしまったシロエ。
(ママのブラウニー…)
それも此処では作れそうにないな、と何度も見回し、チェックしてみた。何の材料も無いキッチンだけでは、ブラウニーなど作れはしない。他の料理も絶対に無理で、けれど飢え死にするわけでもなくて。
(まあ、死んでるし…)
仕事納めになっちゃったから、とキッチンの光景に馴染んで来た頃、いきなり人が降って来た。そう文字通りに、何処からか。やたらと偉そうな紫のマント、おまけにアルビノだったから。
「誰ですか!?」
驚いて叫んだら、向こうもポカンと目を丸くして。
「…君は?」
「…えっと…」
果たして名乗っていいのだろうか、と悩んでいる内に、例の掛軸にエンドロールが流れ始めた。自分が此処に来た時のように、アルビノの人の人生色々かと思ったけれど。
(…なんかスペシャル…)
雨で始まり、天蓋付きの立派なベッドに、アルビノの人のアップが次々、雨を纏って。締めには青い地球まで出て来た、この人は大物かもしれない。そう思ったから、素直に名乗った。
「シロエ。…セキ・レイ・シロエと言います」
「ああ、君が…! ジョミーに聞いたよ、君の名前は」
ジョミーは君のピーターパンでね、とアルビノの人は説明してくれた。自分の名前はブルーだとも教えてくれたけれども、その直ぐ後に気の毒そうに。
「…それでは、君は死んでしまったのだね。ジョミーが助け損なったから…」
「いえ、いいんです。…ぼくが大人しく一緒に行ってたら…」
仕事納めにはならなかったんですから、と壁の掛軸を指差した。「仕事納め」の文字に戻っているヤツを。
「そうなのかい? なら、いいけどね…」
ぼくは充分、長生きしたから、仕事納めでもいいんだけれど、と苦笑するブルーはミュウの長だったらしい。しかも三百年以上も生きた大物、スペシャルなエンドロールで当然。
そんな大物と知り合ったけれど、やはり周りはキッチンのままで、例の掛軸があるばかり。
「これって、どういうことなんでしょう?」
「さあねえ…。ぼくにもサッパリ分からないよ」
ぼくだって地球に行きたかった、と残念そうなミュウの大物。お互い、地球には行き損なった者同士だから、意気投合して気付けば友達。
材料も無ければ鍋も釜も無い、無い無い尽くしのキッチンで過ごしている内に…。
「「「うわっ!?」」」
またしても人が降って来たわけで、しかもとんでもない面子。やたらと老けた先輩のキース、それから育ったピーターパン。
あちらも仰天しているけれども、こちらもビックリ仰天なわけで。
「キース先輩!?」
「ジョミー!?」
「シロエか!?」
「ブルー!?」
声が飛び交う中、またまた掛軸がエンドロールを映し出した。それは様々な人間模様で、一人用でも二人用でもなさそうで。
「…ジョミー、何があった?」
「キース先輩、どうしたんです?」
ミュウの大物と二人して尋ねたら、ドえらいことになったらしい地球。あまつさえ、キースもピーターパンことジョミー・マーキス・シンも仲良く…。
「「仕事納め…」」
まあ、終わったのは確かだが、とキースが呟き、ジョミーの方も頷いている。けれども、やっぱり分からないのが、何故キッチンかということで…。
「謎だな、シロエが一番の古株のようだが」
そんなに長く居ても分からないのか、と老けたキースが言うから、「ぼくだって散々、考えましたよ!」と怒鳴ってやったら。
「待ちたまえ、シロエ」
何か増えたようだ、とミュウの大物が眺める先にドンと置かれた食材の山に、鍋やら釜やら、その他もろもろ。しかも…。
「「「おせち作り!?」」」
なんだ、と四人で目を剥いたけれど、それが使命というものらしい。本日が仕事納めとやらで、始まったらしいカウントダウン。元旦、すなわちニューイヤーまでに作り上げねばならない料理。
「ぼく、おせちなんて初耳ですよ!」
こんなの無理です、と作るべき大量の料理の品数を見ながら絶叫したら、ミュウの大物も、老けたキースも、育ったピーターパンも同じで。
「どうしろと…。ぼくの三世紀以上の記憶の中にも、おせちなんかは…」
「ブルーが知らないような代物、ぼくも知りませんよ!」
「私も何も知らないのだが…」
マザーからは何も聞いていないし、と国家主席に昇り詰めていたらしいキースもお手上げ。そうは言っても作るのが使命、作らなかったら年が明けない、元旦が来ない。
今更、ニューイヤーなんて、と四人揃って思ったけれど。
とっくの昔に死んでいるのに、元旦も何も、と思うけれども、其処は真面目な面子だから。
「ジョミー、黒豆の方は君に任せた!」
「やってますから、早く作って下さい、田作り!」
「キース先輩、クワイってどうやって煮るんですか!」
「話し掛けるな、昆布巻が煮詰まって焦げるだろうが!」
ああ忙しい、と右へ左へ駆け回る面子、どうにもこうにも手が足りない。
「こんな時にサム先輩がいたら心強いんですけどね…」
「サムか、あいつも死んでたな!」
ついでにマツカも死んでるんだが、と老けたキースが紅白なますと格闘しながら叫んだ途端に、またまた人が降って来た。仕事納めはとうに過ぎたから、例の掛軸は無かったけれど。
「サム先輩! えっと、それから…?」
「マツカだ、ぼくの部下だったんだ!」
ぼくの、と返したキースは何故だか若返っていて、さながらステーション時代のようで。マツカはそんなキースとタメ年くらいの若さで、ついでにサムも若かった。
(…あれ…?)
ピーターパンは、と見ればジョミーも若い。面子は増えたし、若さのパワーも手に入ったしで、後は行け行けゴーゴーなわけで…。
「で、出来ましたよ、キース先輩! ピーターパン!」
「いや、だから…。ぼくはジョミーで…。でも…」
おせちはなんとか出来たけれども、どうすれば、と困った様子のピーターパン。ミュウの大物もギッシリ詰められたおせちを前にして、「それで、これを…?」と悩んでいるけれど。
「おっ、見ろよ、キース! なんか変なのが…」
あれは何だろう、とサムが指差す先に掛軸、今度は真っ赤な朝日の絵。でもって、エンドロールの代わりに映し出されたものは…。
「「「地球…」」」
しかも青い、と誰もが呆然、地球は死の星ではなかったか。おせち作りでリーチな間に、何度もそういう話が出ていた。青い地球など幻だったと、ついでに派手に燃え上がったようだ、と。
その地球が何故、と掛軸を眺めている内に…。
「分かりましたよ、キース先輩。ぼくたちが何をやらされたのか…」
「そうだな、おせち作りだとばかり思っていたが…」
「俺たち、地球を作ってたんだな、新しいヤツをよ…」
「そうみたいですね…」
サムも、マツカも分かった様子で、ミュウの大物とピーターパンも涙していた。この時のために慣れない料理を作りまくったのかと、おせち作りで地球を新しく作り直したのか、と。
「やりましたね、ブルー。あなたが見たかった青い地球ですよ」
「…おせちも作ってみるものだね…」
あのお箸には苦労したけれど、とミュウの大物が言う通り。それが一番の難関だった、と皆で笑い合って、それから食べた豪華なおせち。地球が蘇ったなら頑張った甲斐もあったものだ、とワイワイガヤガヤ、若い面子しかいないわけだし、賑やかにやって…。
「あれ? もしかして、地球に行けるんじゃないですか?」
其処の絵の向こう、地球みたいです、とシロエが突っ込んでみた右手。ヒョイと掛軸に入ってしまって、どうやらそのまま行けそうだから。
「行けるみたいです、それじゃ、お先に!」
地球だ、と飛び込んだ掛軸の向こうは本当に本物の青い地球だった。振り返ってみたら、ピーターパンもキースも、ミュウの大物も、サムも、マツカも続いて来るから。
「みんなで行こう…! 地球へ!」
今度こそ本物の地球なんだ、とシロエは飛び立つ、青い地球へと。
ぼくは自由だ、と下りてゆく地球で、きっと新しく生きてゆけると予感がするから、もう嬉しくてたまらない。
頑張って作りまくったおせち。初めて手にしたお箸とやらで頑張った御褒美、自分たちの手で作り直した青い地球。
ピーターパンもミュウの大物も、キースも、サムも、それにマツカも、きっと地球の上でまた会えるだろう。みんな揃って友達になって、幸せな日々が訪れるのに違いない。
新しい地球が出来たから。夢に見ていた青い地球へと、自由に飛んでゆけるのだから…。
厨房から地球へ ~頑張ったおせち~・了
※なんだってこういう話になるのか、もう自分でも分かりませんです。おせちって…。
漠然と「おせち…」と考えただけだったのに、どう間違えたら地球を作り直すわけ!?
「忘れるな、キース・アニアン!」
今も耳から消えない声。
保安部の兵士に連れてゆかれた、シロエが叫んでいた言葉。
それがキースの耳に残っているのだけれど。
(…フロア001…)
シロエは確かにそう言っていた。
其処へ行けと、自分の目で真実を確かめろと。
フロア001とは、進入禁止区域のこと。
(…シロエは其処で…)
何かを見たのだ、という確信。
成人検査を受けていないらしい自分、マザー・イライザが作った人形。
その意味が其処に行けば分かると、シロエは確かにそう言ったから。
…自分自身の生まれのこと。
成人検査よりも前の記憶を持っていないこと、それと関係がありそうな何か。
フロア001でシロエが見たもの。
それを見ねばと、其処へ行かねばと思うのに…。
「よう、キース!」
コーヒー飲みに行かねえか、と今夜はサムに捕まった。
今日こそ行こうと、部屋から通路へ出た途端に。
まるで待ち構えていたかのように、こちらへ向かって歩いて来たサム。
片手を上げて、人のいい笑顔で。
「一緒にコーヒー、飲みに行こうぜ」と。
断られはしないと信じ切っている、友人からの誘いの言葉。
此処で断ったら、申し訳ない気がするから。
…二人でコーヒーを飲みに出掛けて、終わってしまった夜の自由時間。
消灯の後で出歩く度胸は…。
(…どうせ、進入禁止区域だ…)
規則を破りに出掛けるのだから、消灯後でも良さそうなのに。
却って好都合だという気さえするのに、踏み出せない足。
部屋から出ようと思う心が失せてしまって。
夜は出歩くべきではないと、シャワーを浴びて、そのままベッドへ。
多分、明日には行けるだろうから。
今日はチャンスを逃したけれども、きっと明日には、と。
(…明日こそは…)
行かなければ、と思いながら眠りに落ちてゆく。
フロア001、それがシロエの遺言になってしまったから。
…自分がシロエの乗っていた船を撃ち落としたから。
(…すまない、シロエ…)
今日も行けなかった、と心で詫びて、眠りの淵へ。
きっと明日にはと、明日こそ其処へ行ってくるからと。
フロア001、其処にいったい何があるのか。
マザー・イライザに尋ねたけれども、答えは返って来なかった。
何一つ訊き出すことは出来なくて、命じられてしまったシロエの処分。
「セキ・レイ・シロエが逃亡しました」と、「追いなさい」と。
…そうして、撃ち落とすしかなかった船。
シロエが乗った練習艇。
溢れ出す涙を止められなかった、どうしてこうなってしまったのかと。
けして嫌いではなかったシロエ。
何度も心を乱されたけれど、嫌いだったら匿いはしない。
マザー・イライザに追われているのだと、承知の上で。
匿ったシロエを逮捕しに来た、兵士たちに「やめろ」と叫びはしない。
…それから、ピーターパンの本。
シロエが大切に抱えていた本、それを兵士に手渡しはしない。
「これはシロエの持ち物だから」と、呼び止めてまで。
連れ去られてゆく気を失ったシロエ、彼に渡してやって欲しいと。
きっと自分は、シロエにいつしか惹き付けられていたのだろう。
シロエの剥き出しのライバル意識や、強い感情。
自分と同じにシステムに対して持っている疑問、そういったものに。
サムのような友とは違うけれども、それに似た何か。
一つピースが違っていたなら、分かり合えていたかもしれない、近しい存在。
…けれど、撃ち落とさねばならなかった船。
シロエが乗っている船なのだと、自分は確かに知っていたのに。
撃ちたくなかった船だったのに。
友だったかもしれない者を乗せた船、それを落としたいわけなどがない。
…出来ることなら、あのまま行かせてやりたかったのに。
どうせいつかは燃料不足で、あの船は破滅してゆくのだから。
酸素すらも供給されなくなって、明かりも消えて。
…そうしてシロエは息絶えただろう、宇宙の何処かで。
暗い星の海を思いのままに何処までも飛んで、飛び続けて、全ての枷から自由になって。
それなのに、落とすしかなかった船。
余計にシロエを忘れられない、忘れてしまえる筈などがない。
このステーションの者たちが一人残らず、シロエを忘れてしまっても。
マザー・イライザが、シロエが遺したあのメッセージを無視し続けても。
何度尋ねても、応えはしないマザー・イライザ。
フロア001についても、人形だと言われたことについても。
だから今でも分からないまま。
シロエが自分に遺した言葉が、何を意味していたのかは。
進入禁止区域で何を見たのかも、何を知らせたかったのかも。
(…フロア001…)
行かなければ、と思うのに。
今日こそはと目覚め、行こうとして動き始めるのに。
まるで阻まれているかのように、必ず入る何らかの邪魔。
サムに会ったり、プロフェッサーに呼び止められたり。
あるいは候補生同士の下らぬ諍い、それに出くわしてしまったりして。
卒業の日まで、もうあと幾らも無いというのに。
ステーションから出てしまったら、次のチャンスはいつになるかも分からないのに。
(…今日は絶対に…)
なんとしても、と決意を固めて目覚めるけれども、全く意のままにならないそれ。
どう頑張っても辿り着けない、シロエに告げられたフロア001。
目の前で隔壁が下りてしまったこともあるほど。
侵入者に対する警告ではなくて、非常事態に備えての訓練という理由までついて。
(…マザー・イライザ…)
どうやら黒幕はそうらしいから。
努力は悉く水泡に帰して、けしてフロアに近付けないから。
(……シロエ……)
すまない、と心で詫び続ける日々。
また行き損ねたと、きっと明日は、と。
卒業の日が近いけれども、シロエが言っていたのだから。
あれが遺言になってしまったから、そうなった理由は自分にあるから。
シロエの船を落としたのだから、なんとしても行かねばならないだろう。
でなければ、シロエは無駄死にだから。
そんな虚しい、哀しい最期は、あのシロエには似合わないから。
(…行かなければ…)
フロア001へ、と今朝もまた決意するのだけれど。
決意も新たに向かうのだけれど、開いてくれない其処への扉。
…シロエは何を見たのだろうか、そのフロアで。
どうして死なねばならなかったのか、この目で全てを確かめたいのに。
…また行き損ねて、終わる一日。
卒業の日が近いのに。
もしも自分が行けなかったら、シロエの死は無駄になるというのに。
だからキースは挑み続ける、マザー・イライザに。
フロア001へ行こうと、シロエが見て来たものを知ろうと。
時が来るまで、扉は決して開かないのに。
そうプログラムがされているのに、それに薄々、気付きながらも。
シロエが自分に遺した言葉を、遺言を叶えてやりたいから。
あの言葉を遺言にさせてしまった、自分自身が許せないから。
シロエの船を撃つしかなかった不甲斐ない自分が、マザー・イライザに抗えなかった自分が。
…そうは言っても、未だイライザの手の内だけれど。
手の平の上で転がされているから、どうしても辿り着けないけれど。
フロア001、進入禁止区域。
其処へ、とキースは歩き続ける。
きっといつかはと、それがシロエの遺言だからと。
行かねばと、シロエを無駄死にさせはしまいと、辿り着けない場所に向かって…。
行けないフロア・了
※シロエが「フロア001」を教えてから、キースが訪れるまでの歳月、長すぎ。
どうしてステーション時代に行かないんだ、と放映当時から不思議でした。妨害工作…?
「前方を飛行中の練習艇! 停船せよ!」
停船せよ、シロエ!
何度も懸命に呼び掛けているのに、止まらない船。
分かっているのに、とキースが噛んだ唇。シロエは決して止まりはしない、と。
(頼む、止まってくれ!)
船の速度を上げてゆくしかない自分が憎い。このままシロエを追い続けたら、次は…。
(マザー・イライザは…)
なんと命令を下すのだろう、と思った所へ届いた声。「撃ちなさい」と。
「撃ちなさい、キース・アニアン」
(シロエ…!)
セットするしかないレーザー。撃つしかないとは分かるのだけれど。
(停船しろ、シロエ…!)
止まったところで、今更シロエが助かる道は…、と思いつつ、そう呟いた時。
「其処のバイク、止まりなさい!」
いきなり男の声が響いた、それも後ろから。
誰だ、と思う間もなくサイドミラーに映った赤色灯。それは激しく回転していて。
「制限速度オーバー、止まりなさい!」
(なんだ!?)
何事なのだ、と驚くしかなかった自分の現状。
乗っていた筈の小型艇は消えて、大きなバイクに跨った自分。それも旧式、今時こういうバイクが何処にあるだろうか、と思うくらいの。
ついでに自分は追われているらしい、赤色灯を点けた車に。白と黒とのツートンカラーで、凄い音量のサイレンを鳴らしているヤツに。しかも闇の中で。
(どうなってるんだ…!)
此処は何処だ、と慌てたけれども、マザー・イライザの命令が優先。とにかくシロエを追わなければ、と加速させたバイク。上手い具合に、仕組みは理解出来たから。
(くそっ…!)
捕まってたまるか、と制限速度の三倍くらいで走り始めたキースは知らない。いつの間にやら、時空を飛び越えていたことを。遥か地球まで飛んだ挙句に、日本とやらのローカル都市の公道、其処を走っていることを。
何が何だか分からないままに、ガンガン飛ばし続けたバイク。赤色灯を点けた車は、なんとか振り切ったと思う。それがパトカーだとは、キースは気付いていないけれども。
「止まりなさい」と怒鳴った男が警官なことも、スピード違反をしていたことも。
(逃げ切れたか…?)
何処をどう走って逃げて来たのか、此処はいったい何処なのか。
マザー・イライザの指示は、シロエは…、と真っ暗な中でバイクを飛ばし続けていたら。
「うわぁ…っ!?」
突然、ヘッドライトの向こうに見えた自転車、それに思い切り突っ込んだ。
ガシャーン! と派手な衝突音。バイクも自分も宙を舞ったし、自転車だって。そのまま地面に叩き付けられる、と慌てて取った受け身は…。
(………!!?)
ズボッと背中から埋まった泥。衝撃は全く無かったけれども、ズッポリと泥の中に沈んだ。辛うじて頭は出ているとはいえ、起き上がろうと動かした手も足も泥に沈んでしまう有様。
(どうなったんだ…?)
凍えそうなくらいに冷たい泥と、吹き付けてくる寒風と。見上げれば怖いくらいに澄んだ星空、其処にパチパチと舞っている火の粉。誰かが焚火をしているらしい。こんな泥の上で。
全く掴めもしない状況、シロエは、マザー・イライザは、と冷静に考えようとするよりも前に。
「困るな、兄ちゃん」
なんてことをしてくれるんだ、とノッソリと男が現れた。胴まであるような長靴を履いて、防寒着に身を包んだ男が何人も。
「…ぼくは…?」
此処は、と尋ねたら、呆れた顔付きの男たち。
自分がやらかしたことも分からないのかと、これだから最近の若い者は、と。
「初日の出暴走には早いぜ、兄ちゃん。…ま、警察には電話しといたけどな」
田舎だから来るまでに少し時間はかかりそうだが、と泥の中から引き上げられた。焚火の側へと引き摺って行かれて、「座れ」とポンと叩かれた椅子。それはいわゆるドラム缶だけれど、キースに分かるわけもない。「妙な椅子だ」と思っただけで。
男たちは毛布を被せてくれて、「この時期になると多いんだよな」と溜息をついた。
「何がですか…?」
「調子狂うな、派手にやらかしてくれた割によ。…あんた、何処かの坊ちゃんか?」
それなら分かる、と頷き合っている男たち。
親の金で買って貰ったバイクで好き放題に走りまくって、カーブを曲がり損なったか、と。この辺りは街灯の数が少ないから、池に突っ込むのもよくあるパターン、と。
「池…?」
その割には水が無いようだが、と泥まみれになった手足や服を眺めたら、「冬だからな」と問うまでもなく届いた答え。
「冬の間は池を干すんだよ、ため池だから。ついでに池の魚を売る、と」
「そうそう、丸々と太った鯉をな。夜の間に盗まれないよう、こうして番をしているんだが…」
何年かに一度は車かバイクが落ちてくるよな、と男たち。
「しかしなあ…。勝手に落ちるのはまだいいんだが…」
「人身事故は困るんだよなあ、朝までに片付けばいいけどよ…」
明日は商売が出来るだろうか、と男たちが見上げる堤の上。其処に出来ている人だかり。大勢がガヤガヤ騒ぐ声もする、「地元校の制服じゃないようだ」などと。
(制服…?)
もしや、とガバッと立ち上がった途端に、泥に足を取られて見事に転んだ。けれども、男たちは意図を理解したようで、両脇を抱えて堤へと上がる石段の方へと連れて行ってくれて。
「ちゃんと見とけよ、あんたのバイクが巻き込んだんだし」
救急車が来る前に謝るんだな、と背中を押された。ショックで混乱しているようだし、通じないとは思うんだが、と。
泥まみれの身体で上がった石段。たちまち非難の声が起こった、「なんて酷いことを」と。
「自転車の子をはね飛ばすなんて! こんな時間だ、塾帰りの子だよ」
それも遠くから帰って来た子だ、と見慣れないエプロンを着けたオバチャンに怒鳴られた。キースは知らない割烹着。それがオバチャンのエプロンなるもの。
「この辺の学校の制服じゃないし、街の学校へ行ってる子だね」
「高校受験で頑張ってるんだよ、遅い時間まで塾通いでさ」
あんたのような道楽息子とは違うんだ、と怒りMAXの男女の人垣、その真ん中に…。
(シロエ…!)
懸命に介抱している人が何人か、それでは自分がはね飛ばした自転車に乗っていたのは…。
(…シロエだったのか…)
けれども、言ったら終わりな気がした。知り合いを事故に遭わせたと知れたら、此処ではマズイという雰囲気。マザー・イライザの命令で、などと言っても通りそうにない。
これはヤバイ、と素直に謝ることにした。シロエは毛布にくるまれたままで、うわ言を言っているけれど。「ピーターパン…」とか、「ネバーランド」だとか、「パパ、ママ」だとか。
「…すまない、ぼくが悪かった」
「…ピーターパン…?」
来てくれたんだね、とシロエの瞳が開いたけれども、ほんの一瞬。瞼は直ぐに閉じてしまって、遥か遠くでサイレンの音。自分が追われていた時のヤツと、それとは違うサイレンと。
「あっ、救急車よ!」
「大丈夫かね、この子…。頭、打ってなきゃいいんだけどねえ…」
「酷いもんだよ、この子が池に落ちてた方がマシだったのにさ」
はね飛ばした方がピンピンしてるだなんて、と非難轟々、身の置き所も無い悲劇。あのサイレンの車が到着したなら、自分は逮捕されるのだろう。此処が何処かも分からないままで、マザー・イライザに連絡すらも取れないで。
そしてやって来た、いわゆるパトカー。救急車も同時に到着したから、シロエは担架で運ばれて行った。救急車の扉がバタンと閉まって、猛スピードで走り去ってゆく。赤色灯を回転させて、サイレンの音を高く響かせて。
(シロエ…)
彼は助かったのだろうか、と見送っていたら、ガチャリと両手にかけられた手錠。「とにかく署まで来て貰おうか」と、「君の親御さんの名前と連絡先は?」と。
(…親…)
父はフルで母はヘルマとだけしか知らない、連絡先など知るわけがない。どうやら此処ではシロエに分がある、自分の立場は限りなくマズイ。
(マザー・イライザ…!)
ぼくはどうしたら、と心で叫びを上げた瞬間、闇の彼方で弾けた閃光。
(……シロエ……?)
気付けば船の中にいた。泥にまみれてなどはいなくて、バイクに乗ってもいなかった。自分はシロエが乗った船を撃って、今の光は…。
(だが、さっきのは…)
夢とは思えなかった光景。シロエを乗せて走り去って行った救急車。
(Mの思念波攻撃のせいで…)
自分も今頃、夢を見たのかもしれないけれど。
あれが本当だったらいい、とステーションに向かって舵を切る。もしも自分を悪と断じる世界が何処かにあるのなら。シロエが其処で生き延びたなら…、と。
一方、シロエがキースのバイクにはねられた世界。日本の何処かのローカル都市。
あれから賑やかなクリスマスが終わって、除夜の鐘が鳴って、新しい年がやって来て。
「シロエ、初詣、気を付けるのよ?」
お友達と一緒に行くのはいいけど、退院したばかりなんだから、と玄関先で見送る女性。
「うん、大丈夫! クリスマスの分、取り戻さなきゃ!」
家でケーキも食べ損なったし、とマフラーを巻いて颯爽と駆けてゆくシロエ。
今の御時世、キラキラネームが流行るほどだし、シロエという名は目立ちもしない。ついでに奇跡か神の悪戯か、シロエは最初から此処に居たことになっていた。
玄関先で見送る母と、「大丈夫さ」と笑っている父、彼らの姿までシロエが好きだった両親たちと何処も変わりはしなかった。
チラホラと白い雪が舞う中、シロエは地球を駆けてゆく。彼が夢見たネバーランドを、行こうと夢に見ていた世界を。
自分は此処で生まれ育ったと、まるで疑わないままで。
マザー・イライザも、キースもいない世界で、日本の何処かのローカル都市で…。
師走の奇跡・了
※こういうネタがスッコーン! と落ちてくるのが管理人の頭。どうなってるのか自分でも謎。
シロエが暮らす、日本の何処かのローカル都市。初詣でタコ焼き食べるのかも?
※半年も経ってから、後日談が出来ました。「奇跡のその後」、よろしくです。
…それがいつだったか、自分でも思い出せないけれど。
いつ気付いたのか、それも覚えていないけれども。
(…テラズ・ナンバー・ファイブ…)
あいつのせいだ、とシロエが強く噛んだ唇。
大人の社会へ旅立つための第一歩だとか、新しい人生への扉だとか。
学校では色々と甘い言葉を教わったけれど、あの忌まわしい成人検査。
「忘れなさい」と、「お捨てなさい」と、記憶を消してしまった機械。
それがテラズ・ナンバー・ファイブ。
今でも夢に出て来る悪魔。
(ぼくの家は何処にあったんだろう…?)
何度この問いを繰り返したろう、自分に向かって。
自分自身の記憶が収まっている筈の場所に、何度問い掛けたことだろう。
けれども、思い出せない答え。
かつて自分が住んでいた場所。
今では顔もおぼろな両親、それに自分の三人家族だった家。
…何処かには在った筈なのに。
今も何処かにある筈なのに。
雲海の星アルテメシアへ、エネルゲイアへ帰ったならば。
「ただいま」と家の扉を開けたら、其処に両親がいる筈なのに。
家を移るとは思えないから。
多分、今でも同じ所で両親は暮らしているだろうから。
なのに、その場所が分からない。
何度、自分に尋ねてみても。
成人検査で奪われ、曖昧になった記憶を掻き回してみても、出て来ない答え。
自分は何処に住んでいたのか、あの家は何処にあったのか。
(…アルテメシアの、エネルゲイア…)
それは間違いないけれど。
教育ステーションのデータベースに登録された、情報そのままなのだけれども。
(…その先が分からないよ、ママ…)
パパ、と机にポタリと零れ落ちた雫。一粒の涙。
どうしても思い出せない場所。
ぼんやりと記憶に残っているのは、高層ビルだったことくらい。
その形すらも定かではなくて、何度調べても分からない。
エネルゲイアの町の映像、それを端からチェックしてみても。
もっとも、自分が育った家。
高層ビルの中だった家の在り処は、映像でさえも嘘をつかれていそうだけれど。
成人検査がどういうものかを、甘い言葉で偽ったように。
それと同じに、エネルゲイアの映像も処理してあるかもしれない。
(…ぼくみたいな奴が…)
自分の育った家を探しても、決して見付けられないように。
本当は無かったビルを加えるとか、逆に消去しておくだとか。
町の道路さえも、今の自分が映像で知るものと、かつて見たものとは別かもしれない。
(…記憶を消されたからだけじゃなくて…)
偽の情報が仕込んであるなら、いくら映像を眺めた所で、何の実感も湧かないだろう。
知っていた町とは違うのだから。
そんな偽物の映像の町で、自分は育たなかったのだから。
そういった嘘を、平然とつきかねない機械。
偽ったとさえ思いはしなくて、「これが正しいやり方だから」と。
「二度と戻れない過去は要らない」と、「探す必要など何処にも無い」と。
…だから、未だに見付からない家。
見付け出すことが叶わない家。
其処に両親が住んでいるのに。
自分はずっと其処で育って、離れたくなどなかったのに。
(…成人検査で離れたって…)
いつか帰れると信じていた。
テラズ・ナンバー・ファイブに捕まるまでは。
記憶を消されて、このステーションに向かう宇宙船に乗せられるまでは。
成人検査は通過儀礼で、誰でも通る道だから。
いつか立派な大人になったら、「ただいま」と家に帰れるのだと。
けれど、帰れなくなった家。
…今の自分には帰る術も無い、何処にあるのかも分からない家。
アルテメシアという星の上に、それは在ったということしか。
町の名前はエネルゲイアと、たったそれだけになってしまった。
誰でも見られる、教育ステーションのデータベースの情報が全て。
(エネルゲイアの、何処だったの、ママ…?)
パパ、と尋ねても返らない答え。
両親は此処にいないから。
遠く離れたアルテメシアの、エネルゲイアの何処かで暮らしているのだから。
「高層ビル」としか無い手掛かり。
どんな外観のビルだったのかも、周りには何があったのかも。
何処にあるのか分からないから、今の自分は住所が書けない。
文字を覚えて直ぐの頃には、得意になって書いていたのに。
同い年の子たちはまだ書けないのに、自分は住所も書けるんだから、と。
(アタラクシアの、エネルゲイア…)
其処までは書ける、今の自分でも。
けれど書けない、それよりも先にあった筈の文字。
両親が暮らしている場所を示す、大切な手掛かりだったのに。
もう欠片さえも覚えていなくて、エネルゲイアに関する情報を片っ端から引き出してみても…。
(…何もかもピンと来ないよ、パパ…)
ママ、と握り締めた手製のコンパス。
磁石を使った方位磁針で、此処に来て直ぐに作ったけれど。
とてもレトロなものだけれども、その針の向きも思い出せない。
これをどう使って幼い自分が歩いていたのか、どちらに家があったのか。
北へ向かうのか、南だったのか、東か、それとも西なのかさえも。
(パパ、ママ…)
教えて、と顔さえハッキリとしない両親を思い浮かべるけれど。
もしかしたら、手が、指が覚えていはしないかと、ペンを握ってみるのだけれど。
(…やっぱり、書けない…)
アタラクシアのエネルゲイア。
分かり切った情報の、その先の文字。
これでは手紙も出せやしない、と零れ落ちる涙。
ピーターパンの本が書かれた時代は、住所を書けば届いた手紙。
自分はそれも書けはしないと、両親に手紙も出せないのだと。
(……ぼくの家……)
何処だったろう、と今日も紙に書いては、止まってしまう手。
「エネルゲイア」までで。
今夜こそは、と挑んでみたって、「今朝は書いてやる」と寝起きの頭で書いてみたって。
アタラクシアのエネルゲイアの、その先の文字が出て来はしない。
それに気付いて涙した日は、いつだったのか。
もうそれさえも思い出せないけれども、ただ悲しくて悔しくなる。
幼かった自分はスラスラと紙に書いていたのに。
両親も「凄い」と褒めてくれたのに、今ではそれが書けない自分。
(…手紙だって…)
書いても届けて貰えないだろう、ティンカーベルがいたとしたって。
ピーターパンの本に出て来る妖精、彼女に「パパたちに手紙を届けて欲しい」と言ったって。
いくら妖精が空を飛べても、住所が分からないのでは。
…両親が今でも住んでいる家、其処の住所を書けないのでは。
(パパやママに手紙…)
書いても届けられない手紙。
帰ろうにも何処か分からない家。
零れ落ちる涙は、もう止まらない。
ぼくは迷子になってしまったと、これではロストボーイのようだ、と。
ピーターパンの本に出て来る迷子がロストボーイで、自分の家には帰れない子供。
ぼくはそれだと、家を忘れてしまったからと。
同じ迷子でもロストボーイは幸せなのにと、あの子供たちはネバーランドにいるのだからと。
(…パパ、ママ…)
ぼくの家は何処にあったんだろう、と何度訊いても返らない答え。
書けなくなってしまった住所は、まるで無いのと同じだから。
自分は帰る家を失くした、孤独なロストボーイだから。
ぱたり、ぱたりと零れ落ちる涙。
家に帰してと、家への道を思い出せてと。
ぼくにもう一度あれを書かせてと、エネルゲイアのその先の字を、と…。
書けない住所・了
※成人検査って、家の住所も消してそうだな、と考えていたらこういう話に…。
シロエが持っているコンパスは、管理人の捏造。『後は真っ直ぐ』に出て来ますv
「ジョミーだった。…あれは……ジョミーだった!」
そう言って嘆き悲しんだサム。幼馴染の変わりようを。
「なんで、あいつが!」と、「教えてくれよ」と。
あの表情が、声が、頭を離れない。
悲しむサムを慰めようと側にいたのに、「いやあ、キース君!」と現れた男。
プロフェッサーと呼ばれる教官。
彼の自慢話に、大袈裟に騒ぐ生徒たち。誰もが自分をヒーロー扱い。
打ち消される優しいサムの感情。
とても冷静ではいられなくて。
堪えようとしても瞳が揺れてしまって、ついには頭を抱えて呻いた。
「やめろ。…やめてくれ、もう沢山だ!」と。
それすらも通じないかと思ったけれども、騒ぎを収めに来た警備兵たち。
彼らが皆を散らしてくれた。その代わりに…。
(サム…)
座り込んでいたサムも連れ去られた、その警備兵に。
マザー・イライザの指示で医務室に連れてゆくと。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
ミュウの長と名乗ったサムの幼馴染、彼の思念に晒されたから、と。
自分以外の者たちは全て、念のためにと医務室へ。
誰もが意識を失ったのだから、当然の処置ではあるけれど。
(…すまない、サム…)
お前の力になれなかった、と引き揚げた部屋。
サムが落ち着くまで、話を聞いてやりたかったのに。
ジョミーという名は何度もサムから聞いていたから、こんな時こそ。
「きっと何かの間違いだろう」と、「他人の空似だ」と、励ましてやって。
サムはジョミーが「あの頃の姿のままで、全然変わっていない」と言ったのだから。
そんなことなど、ある筈がない。
人は必ず年を取るのだし、ジョミーがサムと一緒だった頃の姿だなどと。
そう言ってやれば、サムは落ち着いただろうに。
「そうだよな」と頷いてくれたのだろうに、掛けてやる暇が無かった言葉。
プロフェッサーに、「早くみんなにヒーローの顔を見せてやれ」と促されて。
強引に連れてゆかれてしまって。
サムは心細そうに座り込んだままで、悲しそうに顔を覆っていたのに。
幼馴染と、ジョミーと名乗ったミュウとの間で揺れていたのに。
…見たものが信じられなくて。
モニターに映ったミュウの長のジョミーが、幼馴染だとショックを受けて。
(…本当にそうなのかもしれないが…)
たとえそうでも、「違う」と一言、自分が言ってやれたなら。
「まだジョミーだと決まってはいない」と、肩を叩いてやっていたなら。
サムのことだから、きっと、考え直してくれただろう。
「本当に人違いなのかもしれない」と、「他人の空似だ」と前向きに。
持ち前の元気と、明るさでもって。
…なのに、励ましてやれなかったサム。
医務室へ連れてゆかれたサム。
今頃はきっと、治療を受けているのだろう。
他の者たちよりも酷かった動揺、それを収めるための治療を。
(…薬は確かに効くのだろうが…)
それだけでサムが受けたショックが癒えるだろうか?
心の傷になってはいないか、あのミュウの長が。
まだ本当にサムの幼馴染だと、決まったわけでもないというのに。
何の証拠もありはしないのに。
(……ジョミー・マーキス・シン……)
会ったこともないのに、すらすらと空で言えてしまう名前。
サムが何度も繰り返し話した、幼馴染のジョミーの名前。
(シロエにそっくりの目をしていた、と…)
そんな話さえ聞いたほど。
サムの一番の友達だったと、「また会えたら」と思っていると。
友達とは重要なものなのか、と遠い日にサムに尋ねたけれど。
あの時に初めて、ジョミーの名前を耳にした。
それからは何度聞いたのだろう。
ジョミーの名前も、サムの故郷での思い出話も。
だからこそ、サムの悲しみも分かる。
モニターに映ったミュウの長の少年、彼が本当にジョミーだったなら、と。
もしもそうなら、サムの幼馴染はもういない。
少なくとも、同じ世界には。
いつの日かサムが友として再び巡り会えるだろう、この世界には。
ミュウのことは殆ど知らないけれども、敵だから。
少なくとも、自分や訓練中の仲間は命を落としかけたのだから。
サムも含めて、一人残らず。
あのまま意識が戻らなかったら、惑星の地表に叩き付けられて。
幼馴染がどういうものかは、自分には分からないけれど。
成人検査よりも前の記憶を持っていないらしい、自分にはまるで謎なのだけれど。
「古くからの友達」だとは分かっているから、想像はつく。
自分の友達はサムだから。
(…幼馴染が敵だというなら…)
ある日突然、友達のサムが敵へと変わるようなもの。
それも自分を殺そうとする敵、危うく殺されかけたなら。
…サムが自分に刃を向けたら、自分もきっと、ああなるだろう。
嘆き悲しんでいたサムのように。
「なんで、あいつが!」と、「教えてくれよ」と、肩を震わせて。
冷静さの欠片も失くしてしまって、ただ繰り返すだけだろう。
「どうして」と、「サムはどうなったんだ」と。
…考えるほどに、悔やまれること。
サムの話を聞いてやれずに、励ますことさえ出来なかったこと。
(プロフェッサーさえ出て来なければ…)
あの手を振り払うべきだった。
プロフェッサーの機嫌を損ねて、自分の評価が下がろうとも。
(……すまない、サム……)
せめて今からでも見舞いに行かねば、面会許可が下りるようなら。
こういう時に駆け付けなければ、とても友とは言えないから。
(…行ってみようか…)
駄目で元々、と見回した部屋。
見舞いの品を持ってゆこうにも、生憎と何も無いのだが、と。
けれど…。
あった、と思い出した物。
サムに貰ったぬいぐるみ。
宇宙の珍獣シリーズと言ったか、レア物だというナキネズミ。
(…元気でチューか…)
そう言ってサムが励ましてくれた、シロエを殴ってしまった時に。
ぬいぐるみを握って、お辞儀をさせて。
「元気でチューか?」と。
そしてそのまま、貰ってしまったぬいぐるみ。
「やるよ」と、「それはお前のだから」と。
けれど、レア物のぬいぐるみ。お返しの品も持っていないから、と断ったら…。
「それじゃ、貸しってことにしようぜ」と笑ったサム。
「いつか俺がさ、元気を失くすようなことがあったら、返してくれよ」と。
そんな日は来ないだろうけれど、と。
もしも来たなら、その時に「元気でチューか?」と返してくれ、と。
(元気でチューか、か…)
今がきっと、サムが言っていた時。
サムが元気を失くしている時。
今こそ返すべきだろう。貰ったレア物のぬいぐるみを。
ナキネズミを持って、サムの所へ。
「元気でチューか?」とあれを返して、サムを励ます時なのだろう。
ジョミーのことは心配するなと、きっと何かの間違いだからと。
「元気を出せ」と、「あれは幼馴染のジョミーじゃない」と。
(…まさか返せる時が来るとは…)
貰いっ放しだと思っていたが、と取り出したナキネズミのぬいぐるみ。
幼馴染のことで悲しむ今のサムには、きっと効果がある筈だから。
友達の自分が励ましたならば、どんな薬よりも効くだろうから。
「…元気でチューか…」
上手くやれればいいんだが、とキュッと握ったぬいぐるみ。
サムを励ましてやりたいから。…さっき励まし損ねた分まで、駆け損なった声の分まで。
「元気でチューか?」とサムに返そう、このナキネズミのぬいぐるみを。
それだけでサムは、きっと笑顔になるだろうから。
「あの貸し、返されちまったか」と。
「俺としたことが」と、「やられちまった」と、きっと笑ってくれるだろうから…。
励ましたい友・了
※キースがやった「元気でチューか?」。サムには効果抜群でしたよね、「癒される」と。
『友の励まし』と対になっています、とうとう書いてしまったか、自分…。