(……機械の申し子、ね……)
すました顔のトップ・エリート、とシロエの瞳が見詰める先。
E-1077のカフェテリアの中、先に来ていたキース・アニアン。
(あんな奴なんかと…)
一緒に食事をする気など無い。
飲み物の一つも、同じテーブルで飲む気などしない。
マザー・イライザのお気に入りなどは、見ていても、ただ気に障るだけ。
(……ツイてないよね……)
ちょっと休憩しに来たのに、と零す溜息。
自分の部屋では飲めない飲み物、それを頼みに。
懐かしい故郷を思わせる呪文、魔法の言葉を唱えるために。
(…シナモンミルク、マヌカ多めで…)
故郷の家で、そう頼んだのは誰だったろう。
幼かった日の自分だったか、はたまた父か母の好みか。
(……それさえ、思い出せないけれど……)
遠い日に、確かに耳にしていた。
あるいは口にしたかもしれない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と。
ホットミルクにシナモンを入れて、マヌカハニーを加えた飲み物。
それもマヌカは必ず「多め」。
このステーションにやって来てから、すっかり忘れていたのだけれど…。
(誰かが、それを注文してて…)
言葉の響きに胸が躍った。
「これ、知ってるよ!」と。
確かに何処かで聞いたものだと、まるで幼い子供みたいに。
そうして頼んだシナモンミルク。
マヌカハニーも多めにして、と付け加えて。
ドキドキしながらテーブルに着いて、魔法の飲み物を口に運んだ。
もしかしたら、子供時代の記憶が戻って来るのでは、と。
機械に消されて奪い去られた、故郷での日々が。
(……だけど、なんにも……)
記憶は戻って来なかった。
シナモンミルクを飲んでいたのが、誰だったのかさえも。
けれど、それ以来、忘れはしない。
故郷の記憶を奥底に秘めた、魔法の呪文を唱えることを。
いつか扉が開く時まで、呪文の意味は掴めなくても。
失くした記憶を取り戻す日まで、ただの呪文に過ぎなくても。
(…あれは魔法の言葉なんだよ)
遠く離れた故郷の星と、忘れられない両親と家。
どんなに記憶が薄れようとも、「好きだった」ことを忘れはしない。
だから呪文を唱えたくなる。
呪文を唱えたい気持ちになったら、このカフェテリアにやって来る。
ホットミルクを飲むだけだったら、自分の部屋でも出来るのに。
(シナモンミルクも、マヌカ多めも…)
与えられた自分用の個室で、自分で作って飲むことは出来る。
ミルクを温め、シナモンの風味を付けたなら。
マヌカハニーをスプーンで掬って、それにたっぷり加えたなら。
(…でも、そうしたら…)
魔法の呪文は唱えられない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」という呪文は。
それを注文する相手がいないと、呪文は意味を成さないから。
だから、こうしてカフェテリアに来る。
故郷に思いを馳せたい時は。
一人きりで部屋に籠っているより、魔法を使いたい気分の日は。
(…それなのに、キース・アニアンね…)
とんだ先客、と顔を顰めて、カウンターに向かおうとしたのだけれど。
(……また、コーヒー……)
いつもアレだ、とキースの手元に目がいった。
此処でキースが頼む飲み物、それはいつでもコーヒーばかり。
判で押したように、同じ注文。
此処には色々なものがあるのに。
キースと一緒にサムがいたなら、そちらはコーラを頼んでいたり、と。
(…まさか、あいつも…)
コーヒーに何かがあるのだろうか。
「機械の申し子」と呼ばれる彼でも、魔法の呪文を持っているとか。
今日の自分が、それを唱えに来たように。
普段から「決して忘れないよう」、定番の飲み物にしているように。
(……まさかね……?)
あんな面白味のない奴に限って、と心の中で吐き捨てる。
キースも故郷を懐かしむなら、もっと人間味があることだろう。
奪われた過去にこだわるのならば、感情だって、ずっと豊かで。
ポーカーフェイスを保っていないで、時には笑って、時には泣いて。
(単に、あいつは…)
コーヒーが好きなだけなのだろう。
過去の記憶は忘れ去っても、舌がコーヒーを覚えていて。
「これは美味い」と、他の飲み物よりも好んで。
(……コーヒーなんか……)
いったい何処がいいのだろうか。
上級生には人気だけれども、下級生は、まだ好まない。
キースも途中でコーヒーの味に目覚めたものか、此処に来る前から好きだったのか。
(…最初からなら…)
きっとキースの故郷の家では、コーヒーが普通だったのだろう。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と頼む代わりに、「コーヒーを」と。
キースの父が飲んでいたのか、両親揃って、コーヒー好きか。
(……それで、あいつも……)
横から味見をしている間に、コーヒー党になっただろうか。
ただ苦いだけの飲み物なのに。
E-1077に来て間もない者には、まるで人気が無いというのに。
(…そうだったなら…)
どうしてキースが、と腹立たしい。
過去のことなど、まるで振り返りもしないだろうに。
両親や故郷を思うことより、未来しか見ていないだろうに。
(……機械の申し子なんだから……)
感情などは何処かに置き去り、そんな風にしか見えないキース。
それなのに、彼も「呪文」を持つなら、神とは、なんと不公平なのか。
キースなんかに持たせてやっても、呪文の価値はゼロなのに。
「コーヒーを頼む」と口にしたって、何の感慨も無いのだろうに。
(……なんで、あいつが……)
そんな呪文を持っているのか、コーヒーを好んで飲んでいるのか。
まるで値打ちが無い男が。
せっかくの呪文も猫に小判で、豚に真珠のようなキースが。
(…………)
やめた、とクルリと返した踵。
キースのお蔭で、今日は呪文が穢れそうだから。
大切な呪文を唱えてみたって、ただ腹立たしいだけだろうから。
(…ホットミルクなら…)
部屋で飲むよ、と魔法の場所に背を向ける。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられるのは、此処だけでも。
自分の部屋では意味が無くても、キースを見ながら唱えたくはない。
キースも「呪文」を持っているかもしれないから。
それが「呪文」だと気付きもしないで、「コーヒーを頼む」と、いつも、いつでも。
(……本当に猫に小判だってば……!)
あんな奴が呪文を持っていたって、と足音も荒く通路をゆく。
すれ違う者がチラリと見ようが、あからさまに陰口を叩こうが。
「またシロエかよ」と言っていようが、そんなことなど、どうでもいい。
今日は呪文を唱え損ねた、その腹立ちに比べたら。
とても大切な呪文の言葉を、キースも持っているかもしれない。
猫に小判で、豚に真珠のような男が。
「コーヒーを頼む」と口にしてはいても、呪文だとさえ気付かないままで。
(…あんな奴が…!)
ぼくと同じに呪文だなんて、と個室の扉も乱暴に閉めた。
今日は、なんともツイていなくて、呪文も唱え損ねたから。
おまけにキースと出会ってしまって、「猫に小判だ」と思ったから。
(……シナモンミルク……)
マヌカ多めで、と心の中で唱えてみる。
唱えられずに終わってしまった、懐かしい故郷に飛べる呪文を。
それを好んだのは父か、母なのか、自分なのかさえ分からなくても。
(ぼくは、あいつとは違うんだから…)
いつか呪文の謎を解くんだ、とホットミルクの用意をする。
此処では呪文は無理だけれども、その味だけは楽しめるから。
ミルクを温め、シナモンを入れて、マヌカハニーを多めにしたら。
(……誰が、好きだったんだろう?)
コーヒーのように、大人向けではない飲み物。
自分だったと思いたいけれど、それなら忘れたことが悲しい。
キースも呪文を持っているなら、「コーヒーの味」を舌が覚えているのなら。
(……本当に、猫に小判だよね……)
神様の気まぐれにしても酷い、と思うけれども、仕方ない。
呪文を思い出せただけでも、きっと自分は幸せだから。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられれば、充分だから…。
ぼくだけの呪文・了
※シロエはシナモンミルクですけど、キースはコーヒーなんだよね、と思っただけ。
ずっと昔に書いた作品、『マヌカの呪文』とセットものかもしれません(笑)
(……神の領域か……)
私はそれを侵したのだ、とキースは思う。
首都惑星ノアの、国家騎士団総司令として与えられた部屋で。
日付はとうに変わった時刻で、側近のマツカも下がらせた後。
カップに残った冷めたコーヒー、それを一口、喉の奥へと落とし込んで。
(…正確に言えば、私が侵したわけではないが…)
マザー・システムの仕業だがな、と分かってはいる。
理想の指導者を作り出すべく、グランド・マザーが下した命令。
全くの無から作った生命、それに人類と地球の未来を託せるように。
最初はE-1077ではなく、別の場所で行われていた研究。
けれども、其処で邪魔が入った。
(……ソルジャー・ブルー……)
伝説のタイプ・ブルー・オリジン、ジルベスター・セブンで出会ったミュウ。
彼はメギドと共に滅びて行ったのだけれど、彼が攫った女がいた。
モビー・ディックから逃れた時に、人質に取ったミュウの女が。
(…あの女は、私と同じ生まれで…)
それゆえに彼女は、マザー・イライザと似た面差しだった。
ソルジャー・ブルーが攫う前には、何体も作られた「同じ顔の女性」。
最後の一人は失敗作で、その上、ミュウに攫われる始末。
(……それで実験の場を、宇宙に移して……)
研究者たちも、共にE-1077へ移動した。
プロジェクトを引き継いだマザー・イライザ、その指示で研究を続けるために。
(…全くの無から、生命を作り出すなどは…)
神の領域を侵す禁忌で、そうして作り出された「自分」。
見た目はヒトと変わらなくても、神が作ったものではない。
ならば、自分は何処へ行くのか。
ヒトの命が終わった後には、神の許へと旅立つという。
全ての創造主である神、ヒトを創った神の御許へ。
今は機械が統治する時代。
「普通のヒト」にも親はいなくて、人工子宮から生まれてくる。
機械が選んだ無限大の交配、其処にヒトの手は介在しない。
(……しかし、それでも……)
提供された卵子と精子は、間違いなく「ヒト」のものではある。
どのような形で作られようとも、生まれようとも、「ヒト」は「ヒト」。
SD体制が始まる前の時代だったら、「実の親」と呼ばれた者がいるもの。
卵子を提供した者が母で、精子を提供した者が父で。
(…きちんとデータを調べさえすれば、本当の親が分かるのだ…)
今の時代を生きる者には、データへのアクセス権限が無くても。
マザー・システムがそれを禁止していても、探す術はある「親」というもの。
けれど、自分に「親」などはいない。
モビー・ディックの中で出会った、ミュウの女にも。
E-1077の水槽で長く育つ間に、サンプルの姿を目に焼き付けた女性体にも。
(私を作った遺伝子データは、あの女のを元にしていたらしいが…)
ただそれだけのことに過ぎない。
彼女の卵子を使っていたなら、辛うじて「母」がいたのだろうけれど…。
(…データを元にしただけではな…)
DNAの上では「母」と言えても、本当の母とはとても呼べない。
「キース」も無から作られたから。
機械によって合成された、三十億もの塩基対。
マザー・イライザが「それ」を繋いだ。
ミュウの女のデータを元に、DNAという鎖を紡ぎ上げて。
神の領域に足を踏み入れ、「ヒトに似たモノ」を作り出そうと。
姿は人と変わらなくても、人を超える者。
人類の理想の統治者として、ヒトと地球とを導く者を。
そうして作り出された自分。
国家騎士団総司令、「キース」。
いつか命が終わった時には、この魂は何処へ行くのだろうか。
この身を離れて飛んで行っても、開かないかもしれない扉。
「ヒト」であったら、神の国へと行けるのに。
神の国に行く資格が無ければ、地獄の扉が開くだろうに。
(……ヒトでなければ、どうなるのだ……?)
神は「キース」を作ってはいない。
造物主たる神が「知らない」存在、知らないどころか禁忌を侵して生まれたモノ。
ならば、門前払いだろうか。
天国へ行こうと、地獄へ行こうと、どちらの扉も開くことなく。
…ヒトであったら、どちらかの道がある筈なのに。
たとえ地獄の責め苦があろうと、行き着く先があるというのに。
(…これでは、まるで…)
ジャック・オー・ランタンのようではないか、と思い描いた昔の祭り。
今の時代はもう無いけれども、十月の一番最後の日。
ハロウィンと呼ばれた祭りの時には、カボチャでランタンを作ったという。
それの由来がジャック・オー・ランタン、伝説の男が持っている灯り。
天国へも地獄へも行くことが出来ず、永遠に彷徨い続ける男。
カボチャに入れて貰った明かりだけを手に、いつか扉が開く時まで。
天国ではなくて地獄だろうと、ヒトが行く場所に落ち着けるまで。
(……神が私を、「作っていない」と突き放すなら……)
きっと、自分もそうなるのだろう。
カボチャのランタンをくれる者さえ、現れずに。
ジャック・オー・ランタンは「ヒト」だっただけに、ランタンを貰えたのだけれども。
(……灯りの一つも、貰えないままで……)
いったい何処を彷徨うのだろう、「キース・アニアン」だった男は。
人類の指導者だった時代は、誰もが敬意を払った者は。
ミュウたちから恐れられた男は、いずれ惨めに落ちぶれてゆく。
ジルベスター・セブンごと焼いたミュウでも、ヒトの一種には違いない。
彼らでさえ行ける天国や地獄、其処に「キース」の居場所は無い。
ただ一人きりで彷徨うだけで。
天国の扉も、地獄の扉も、「キース」のためには開かなくて。
(…ソルジャー・ブルー…)
彼が「キース」の姿を見たなら、嗤うだろうか。
それとも憐み、カボチャのランタンに火を入れて持たせてくれるだろうか。
いつか扉が開く時まで、「持っているといい」と。
暗闇の中を歩き続けてゆくなら、こうした灯りも要るだろうから、と笑んで。
(……あの男ならば……)
そうかもしれん、という気がする。
敵同士として戦ったけれど、彼に出会って変わった「何か」。
彼のようにありたい、と思わないでもない自分。
指導者が自ら戦う姿は、愚かしいように思えても。
「導く者を失ったならば、もはや戦えないではないか」と思いはしても。
赤い瞳に宿った信念、それを自分は見せられたから。
右の瞳を砕かれてもなお、挫けぬ闘志に飲まれさえして。
だから彼なら、あるいはと思う。
すっかり落ちぶれ、死後の世界を彷徨う者にも、灯りを一つ、くれるのではと。
わざわざカボチャを採って来てまで、「これを持ってゆけ」と。
神が「キース」を許す時まで、一人、彷徨うだろう道。
天国にも地獄にも入れないまま、貰ったカボチャの灯りだけを頼りに。
カボチャの灯りが届く範囲は、きっと足元くらいだろうに。
(……ぞっとしないな……)
そういう未来が待っているなら、なんと虚しい人生だろう。
機械に無から作り出されて、懸命に生きた先がそれでは。
システムに疑問を抱きながらも、「守らなければ」と努力した果てが。
(…シロエは何処へ行ったのだろう…?)
遠い日に自分が殺した少年。
ピーターパンの本だけを持って、暗い宇宙に散っていったシロエ。
彼の行き先はネバーランドか、あるいは天国と呼ばれる場所か。
どちらにしても、きっと再会は叶わない。
「キース」のためには、何処の扉も開かないから。
いつの日か神が許す時まで、一人、彷徨うしかないのだから。
(……埒も無いことを……)
こうして考えてしまう心も、いっそ無ければいいものを。
機械が作った生命ならば、魂さえも…。
(…いっそ無ければ、楽なのだがな…)
死後の世界を彷徨うよりかは、魂などは無くていいな、と溜息をつく。
遠い昔の童話に出て来た、人魚姫。
人魚姫には魂は無くて、命が終われば消えてゆくだけ。
儚い泡になってしまって、海の水に溶けて。
(……人魚姫は、魂を貰ったのだが……)
私は要らん、と傾けた冷めたコーヒーのカップ。
機械が作った生命体にも「魂は無い」と言うのだったら、欲しくはない。
いつか命が尽きた時には、この心ごと消えようとも。
どうせ自分に、天国の扉は開かないから。
神の領域を侵した者には、地獄の劫火が渦巻く世界も、扉を開けてはくれないから…。
いつか行く道・了
※いや、機械が作った生命体だと、魂はどうなるんだろう、と思ったのが切っ掛け。
「人魚姫と同じで、無いかもしれない」と考え始めて、ジャック・オー・ランタン…。
(パパ、ママ……)
帰りたいよ、とシロエの瞳から零れ落ちた涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで向かう机で。
さっきまで、此処に「母」がいた。
正確に言えば母の幻影、そして本物の「母」ではない。
マザー・イライザが現れただけで、母の姿を真似ているだけ。
「見る者が親しみを覚える姿」で現れなければ、「彼女」は役目を果たせないから。
もっとも、機械を「彼女」と呼ぶなど、腹立たしい限りなのだけど。
(…でも、女には違いないんだ…)
正体は巨大なコンピューターでも、マザー・イライザは「女性」ではある。
成人検査で記憶を奪った、忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブも。
(地球にあるって言う、グランド・マザーも…)
その名に「マザー」と入る以上は、「女性」には違いないだろう。
「グランド・マザー」が意味する通りに、「祖母」らしく年老いているかはともかく。
(…テラズ・ナンバー・ファイブは機械だったのに…)
見るからに機械らしい姿で、その顔さえも歪んでいた。
だから余計に憎しみが増すし、きっと一生、忘れはしない。
「アレ」に与えられた屈辱を。
何も知らずにシステムに騙され、まんまと記憶を奪われたことを。
(…マザー・イライザも同じなのに…)
コールされる度、欠けてゆく記憶。
心が軽くなった気はしても、それは「何かを忘れた」から。
何だったのか自覚は無くても、大切なことを。
忘れまいとする故郷のこととか、両親と過ごした頃のこととか。
(……それなのに、ママの姿をしてて……)
まるで「本物」のように語り掛けるから恐ろしい。
初めて見た日は、「母」に出会ったと思ったくらいに似ている姿。
本物の母の面差しは霞んでいるというのに、何処も霞んで欠けはしないで。
その「からくり」に気付いた時から、マザー・イライザを「描く」ようになった。
絵心は持っていないけれども、描かないよりかはマシだろうと。
記憶の中で薄れてしまった母の姿を、見せるのがマザー・イライザだから。
「彼女」の姿を真似て描いたら、「母」を描ける日も来るだろう。
自分で描いた下手な絵ながらも、「これがママだ」と思えるものを。
「ぼくのママだよ」と額縁に入れて、壁に飾りたくなるような絵が。
(……今日だって……)
今すぐ鉛筆を握ったならば、さっき見た「母」が描けるだろう。
机の引き出しから白い紙を出して、それに向き合って挑んだならば。
(……でも……)
今日は「描ける」という気がしない。
涙で視界がぼやけてしまって、ただただ、「母」が恋しくて。
両親に会いたい気持ちが募って、コントロールさえ出来なくて。
こんな状態で紙に向かっても、きっと涙で駄目になるだけ。
後から後から零れる涙が、真っ白な紙に染みを作って。
濡れて湿ってしまった紙には、もう鉛筆では描けなくて。
(…描けないよね…)
今日は駄目だ、とグイと涙を拭う。
起きていたって、もう何一つ出来ないだろう。
母の姿を描き出すことも、机で勉強することも。
趣味にしている機械いじりも、気分が乗ってはくれないから。
(…こんな時には、何をしたって駄目なんだから…)
いっそ寝ようかと思うけれども、シャワーを浴びる気にもなれない。
シャワーを浴びずにパジャマを着るのは、具合の悪い時だけなのに。
今日は訓練もあったことだし、シャワーは浴びておきたいのに。
(……ちょっとだけ……)
もう少し気分が落ち着いてから、とシャワーの時間は先へ延ばした。
けれども机の前にいるのも、今は嬉しいものではない。
「母」は其処から現れたから。
机の側から、「どうしました?」と姿を見せたマザー・イライザ。
「彼女」と部屋を繋ぐ端末、それは机の一部だから。
マザー・イライザの姿を投影するのも、机の機能の内なのだから。
(…見張られてるよね…)
いつも、いつも、どんな時だって。
部屋には監視カメラもあるから、何をしているかは全て筒抜け。
そうだと承知しているけれども、せめて僅かでも逃れたい。
マザー・イライザの視線から。
「彼女」が常に音を集める、「耳」になっている盗聴器から。
(……盗聴器ね……)
自分から見れば「盗聴器」という位置付けだけれど、そう思う者は少ないだろう。
監視カメラの方にしたって、候補生たちは気にも留めない。
個室で「机」に向かっていたなら、心の乱れを読み取られるという「恐ろしさ」さえも。
(…誰も分かっちゃいないんだから…)
それに「怖い」と思いもしない、と舌打ちをする。
此処では誰もが「羊」なのだ、と。
マザー・イライザに飼い慣らされて、何も変だと思わない羊。
「マザー牧場の羊たち」の群れに、自分は入ってゆけなどはしない。
彼らの群れに入ってゆけたら、生きてゆくのは楽なのだろうに。
羊は群れを作るものだし、羊飼いがいれば「もっといい」。
何処に行けばいいのか導いてくれて、牧羊犬もつけてくれるから。
(……狼が羊を襲いに来たって……)
羊飼いたちが追い払う上に、牧羊犬も激しく吠えるのだろう。
狼の姿が見えなくなるまで、一匹の羊も欠けないように。
そういう「羊」が暮らすステーションで、自分は「羊」になり損なった。
羊だとしても、群れを離れて一匹だけで生きているのだろう。
緑豊かな牧草地には、背中を向けて。
食べる草さえ乏しい荒野で、狼の遠吠えを耳にしながら。
(……パパとママが、いてくれたなら……)
どんなに心強いだろうか、こうして泣かずに済むのだから。
一人きりで涙を零さなくても、話を聞いて貰えもして。
(……独りぼっちになっちゃったよ……)
ホントに一人、とベッドに上がって膝を抱える。
此処なら机の前ではないから、マザー・イライザが遠くなる。
監視カメラと「耳」からは逃れられなくても。
(…会いたいよ、ママ…)
パパ、と涙は止まらない。
幾つも幾つも雫が溢れて、頬を伝って転がり落ちて。
いったい何度、こうやって泣いたことだろう。
マザー・イライザに捕まらないよう、ベッドの上で。
「どうしました?」と機械が姿を現さないよう、机から遠く離れた場所で。
この部屋の中で、ただ一つだけの「安全な」場所。
流石にベッドで寝ている時には、マザー・イライザは現れない。
(……本当は、きっとベッドにも……)
何か仕掛けがあるだろう、とは思うけれども。
夢の中まで監視するくらい、マザー・イライザには容易いこと。
下手をしたなら、寝ている間に「記憶を処理する」ことさえも。
(……それをされたら、もう本当に……)
お手上げだよね、と思うけれども、防ぐ手立てなど持ってはいない。
いくら機械の知識があっても、機密事項は「まだ習わない」。
自分で学習する手段さえも、封印されているのだから。
ベッドの周りを何度探っても、どれが「それ」かは分かりはしない。
怪しい機械が幾つあっても、本当に危険なのかどうかは。
(……だけど、此処しか……)
一人で泣ける場所は無いから、と膝を抱えて蹲る。
頬を伝う涙が止まらないままに、もう帰れない家を思って。
顔さえおぼろな故郷の両親、二人に会いたくてたまらなくて。
(…家にいた頃なら、ぼくが一人で泣いてたら…)
間違いなく母がやって来た。
「どうしたの?」と、マザー・イライザとは全く違った優しい声で。
機械の幻影などとは違って、肩に手だって置いてもくれて。
(……何があったの、って……)
いつだって訊いてくれた母。
喧嘩して泣いて帰った時にも、何か失敗した時にも。
(…それに、おやつも…)
急いで作ってくれた気がする。
何だったのかは、今では思い出せないけれど。
(食べたら涙が止まるわよ、って…)
テーブルの皿に載っていたのは、何だったろう。
側に置かれたカップの中身は、マヌカ多めのシナモンミルクだったのだろうか。
今となっては、もう分からない。
記憶はすっかりぼやけてしまって、どう足掻いても思い出せないから。
皿とカップの記憶はあっても、肝心の中身が見えないから。
(…でも、ぼくは…)
あの頃は一人じゃなかったんだよ、と溢れる涙。
部屋で一人で泣いていたって、あの頃は母がいてくれたから。
頼もしい父も、「どうしたんだ?」と涙を拭ってくれもしたから。
(……それなのに……)
ぼくは今では独りぼっちだ、と「失ったもの」の大きさに泣く。
今の自分は、たった一人で泣いているしか術が無いから。
家にいた頃なら、一人きりで泣ける場所など、何処にも「要らなかった」のに。
両親が側に来てくれるだけで、涙を拭って笑えたのに。
(……そんな場所さえ、ぼくは失くした……)
全部機械に奪われたんだ、と、ただ悔しい。
「一人きりで泣ける場所」を見付けて、泣いている自分が悲しくて。
泣くための場所を持ってしまった今の自分が、ただ可哀相で。
本当に自分は独りぼっちで、そうなったのは機械のせい。
どんなに一人で泣いていたって、もう両親は来ないのだから…。
泣くための場所・了
※いや、シロエって故郷でも泣いていたんだろうか、とチラと思ったわけで…。
気が強そうでも、泣いた日だってあった筈。そんな考えから生まれたお話です。
「マツカ。…コーヒーを頼む」
一日の終わりに、いつもの通りにキースが出した注文。
国家騎士団総司令のための、執務室とは違った場所で。
首都惑星ノア、其処でキースに与えられた「家」。
どう使うのも自分の自由で、使用人を大勢置いたっていい。
もっとも、そんな面倒な者は置かないけれど。
身辺警護の者も断り、側にいるのはマツカだけ。
誰も「ミュウ」とは知らない側近、とても有能で使える部下。
忠実な上に気配りも出来て、何よりも…。
(…マツカが淹れるコーヒーは美味い)
上等な店で出て来るようなコーヒーよりも、と思っている。
それはマツカが上手く淹れるからか、口にする時の気分のせいか。
自分でも答えは分からないけれど、とにかく「マツカのコーヒー」は美味。
だから、こうして注文をする。
一日分の仕事を終えた後には、「コーヒーを頼む」と。
「…お待たせしました。熱いですから、気を付けて」
「ああ。…もう下がっていい」
今日の仕事は全て終わった、と促してやれば、マツカは「失礼します」と静かに去った。
こういう所もマツカらしくて、他の部下ではこうはいかない。
「他に御用は?」と尋ねてくるとか、「扉の前で警護を致します」とか。
(……要らぬ世話など、してくれずとも……)
放っておいてくれればいい、と苦々しい気持ちになるのが常のこと。
皆とワイワイ騒ぎ立てるより、一人きりでいる方がいい。
部下といえども、あまり側にはいて欲しくない。
(……これがサムなら、一晩でも語り明かせるのだがな……)
生憎とそういう友もいない、とコーヒーのカップを傾ける。
いくらマツカが気が利く部下でも、所詮は「ミュウ」。
人類とは違う種族なのだし、きっと「友」にはなれないから。
もしもマツカが強かったならば、違っていたかもしれないけれど。
「Mのキャリアだった」と後に聞かされたシロエ、あのくらいに気が強かったなら。
「冷徹無比な破壊兵器」と呼ばれる「キース」に、歯向かう気概があったなら。
(…出会った時こそ、牙を剥いたが…)
今では、それもしないだろう。
ソレイドで初めて出会った時には、マツカも「必死だった」だけ。
「キース」がどんな人間だろうが、殺さなければ「殺される」から。
そう思い込んで、「窮鼠猫を噛む」という言葉通りに、襲い掛かって来ただけのこと。
マツカの力で、メンバーズに勝てるわけもないのに。
こちらが気まぐれを起こさなかったら、とうに殺されていたのだろうに。
(……まだコーヒーを飲む前だったが……)
生かしておいて正解だった、と口に含んだコーヒーは美味い。
マツカに「ミュウの力」が無くても、この味だけでも充分な拾い物だと思う。
ただの平凡な一兵卒として、配属されて来ていたならば。
(…たかがコーヒーなのだがな…)
嗜好品に過ぎないものだとはいえ、不味いよりは美味い方がいい。
同じコーヒーを飲むのだったら、「より美味な方」を選びたいもの。
自分の好きに選んでいいなら、「美味いのを頼む」と。
(その点、マツカのコーヒーは…)
及第点だ、と考えている。
言葉にすることが無いだけで。
誰にも「美味いぞ」と言いはしないし、自慢したいとも思わない。
美味なコーヒーを淹れるマツカに、労いの言葉をかけることさえ。
(そういったことこそ、余計なことだ)
使用人だの、身辺警護をする者だのと変わらない次元。
煩わしくなるだけのことだし、ただコーヒーを楽しめればいい。
「コーヒーを頼む」と言いさえすれば、出てくる味を。
わざわざ店まで出向かなくとも、いつでも好きに飲める自由を。
(……ふむ……)
そういえば聞いたことも無いな、と思い至った。
いつもマツカが淹れるコーヒー、それの名前は何と言うのか。
(…モカに、ブルマン…)
他にも名前は幾つもある。
一括りに「コーヒー」と呼ばれてはいても、コーヒー豆の名前によって。
(モカはモカだが、ブルマンはブルー・マウンテンだったか…)
しかし、どちらも今では「無い」な、と頭に思い浮かべる地球。
最高機密の一つだけれども、「青い地球」など何処にも無い。
遠い昔に滅びたままで、今も赤茶けた星のまま。
そんな星では、モカもブルマンも無い。
遥かな昔に「モカ」を積み出した港、其処には毒の海があるだけ。
コーヒー畑が広がっていた、イエメンもエチオピアも無い。
「モカ」と言ったら、イエメンの豆が最高だったと伝わるのに。
ブルマンが採れたブルー・マウンテン、その「青い山」も地球には無い。
緑が豊かだったジャマイカ、其処に緑は「もう無い」から。
何処までも砂漠に覆われた地面、荒廃した大地が広がるだけ。
「青い山」は禿げて、岩山になってしまったろう。
雨が降る度、空から毒素が降り注いで。
地下を流れる水も汚染され、吸い上げた木は残らず枯れて。
(…しかし今でも、名前だけはあるな)
コーヒーを好む者の間で、今も語られ続ける名前。
どの豆が好きか、ブレンドするなら何がいいかと。
(…マツカもブレンドしているのか?)
それとも「これだ」と選んで買っているのだろうか。
まるで気にしたことが無いから、味だけで分かるわけもない。
コーヒーは好きでも、「通」ではないから。
「これでなければ」とこだわる豆も、ブレンドなども無いのだから。
(…訊いてみようとも思わんな…)
これがサムなら、「おい」と気軽に訊いただろうに。
思い立ったが吉日とばかり、今すぐにでも通信を入れて。
「お前が淹れてくれるコーヒー、どういう豆を使ってるんだ?」と。
夜更けであっても、気にもしないで。
通信機の向こうで応えるサムが、「何時だと思っているんだよ?」と欠伸したって。
(……マツカでは、そうはいかんのだ……)
所詮は部下だ、とカップを傾け、「分からない味」に首を傾げる。
「美味いコーヒー」には違いなくても、何という名前の豆だろうか、と。
地球が滅びてしまった後にも、モカもブルマンも残り続けた。
栽培する場所が変わっただけで。
恐らくは地球から持ち出された豆、それを何処かで育て続けて。
(…歴史だけは長いというわけか…)
育つ場所が違うというだけで…、と感心させられるコーヒー豆。
モカもブルマンも、元の産地が滅びた後にも生き続けている。
地球がまだ青い水の星だった頃と、同じ遺伝子を受け継いで。
違う星の土に植えられた後も、最低限の改良だけで。
(たかがコーヒー豆なのだがな…)
大したものだ、と感心したまではいいのだけれど。
脈々と継がれ続ける遺伝子、それに感歎したのだけれど…。
(……この豆でさえも……)
DNAを持っているではないか、とカップを持つ手が微かに震えた。
人類よりも長い歴史を持っているのが「コーヒーの木」。
それが様々に枝分かれをして、モカだのブルマンだのが生まれた。
ほんの僅かなDNAの違いが生み出す、様々なコーヒー豆の味。
人類が地球を離れても。
青い地球など何処にも無くても、コーヒーの木は生き続けて。
DNAという名の鎖を、今も同じに紡ぎ続けて。
けれど、自分はどうなのだろう。
「無から生まれた」キース・アニアン、DNAさえも「作られた」者は。
機械が無から作った生命。
三十億もの塩基対を合成してから、紡ぎ上げられたDNA。
「キース・アニアン」の元になった遺伝子データはあっても、そちらの方も…。
(…私と同じに、無から作られた者なのだ…)
ミュウの母船に捕らわれた時に、偶然、「そちらの方」に出会った。
盲目だったミュウの女は、「キース」を作った遺伝子データの持ち主らしい。
E-1077のフロア001、其処で「同じ顔」を幾つも目にしたから。
マザー・イライザに似ていたサンプル、ミュウの女にそっくりなモノ。
(…あの女も、無から作られたのなら…)
自分が継いだ遺伝子データは、コーヒー豆の「それ」とは違う。
種が芽吹いて木へと育って、花が咲いたら実が出来るもの。
その実を人が集めて煎ったら、コーヒー豆。
煎られてしまわず、芽を出したならば、コーヒーの木が育つのだろう。
けれど、「キース」は「そうではない」。
人工子宮から生まれはしても、「その前」が何も無いのだから。
「キースという人間」を作り出すためのDNAは、何処からも来はしなかった。
機械が合成しただけで。
ミュウの女のデータを元に、「より良いものを」と組み上げただけで。
(……たった一粒のコーヒー豆にも……)
及ばないのか、と思う自分の存在。
SD体制の時代といえども、「普通の人間」はDNAを何処かから貰うものなのに。
異分子として処分されるミュウさえ、「ヒトと同じに」DNAを持っているのに。
(……そんな私が、コーヒー豆の名など聞いても……)
やはり意味など何処にも無いな、と唇に浮かんだ皮肉な笑み。
モカであろうが、ブルマンだろうが、「キース」よりも優れた存在だけに。
遥かな昔の青い地球から、DNAを今も受け継ぎ続けるだけに。
(…要は、コーヒーが美味ければ…)
それでいいのだ、と冷めたコーヒーを喉に流し込む。
こうして冷めてしまった後にも、「不味い」とは思わないコーヒー。
それで充分満足なのだし、「もうこれ以上は、考えまい」と…。
コーヒーの名前・了
※いや、キースはコーヒー党なんですけど、そのコーヒーにも種類が色々あるわけで…。
原作で「モカ」と言ってるんですよね、ステーション時代に。
「モカって…。地球じゃないのに?」と遥か昔に入れたツッコミ、それを活かしましたv
(……パパ、ママ……)
会いたいよ、とシロエは一人、膝を抱えて蹲る。
E-1077の夜の個室で、ベッドの上で。
本当だったら、今の時間は勉強に充てるべきだろう。
普段の日ならそうしているし、今日もやるべき課題はある。
けれど「明日でもいい」と思った。
提出期限はまだ先なだけに、急いで片付けなくても、と。
(…パパとママのことを思い出すには…)
こうして集中するしかない。
「この場所」のことも、「勉強」のことも放り出して。
幼かった子供時代みたいに、ベッドに座って膝を抱えて。
(……家でも、こうして座ってたから……)
ただし、楽しい夢を見ながら。
夜にベッドで待っていたなら、「ピーターパンが来てくれるかも」と。
窓の向こうを眺めて待っていた日もあれば、顔を伏せていた日もあった。
今と同じに膝に顔を埋めて、まるで「かくれんぼ」をするかのように。
(…ピーターパンが来たら、ビックリだものね?)
いきなり声を掛けられたら。
「迎えに来たよ」と、突然に肩を叩かれたなら。
(……だけど、ピーターパンは来なくて……)
自分は「地獄」に連れて来られた。
ネバーランドよりも素敵な地球へと、行けると思い込んでいた日に。
優秀な成績で通過したなら、そうなるのだと信じた「目覚めの日」に。
子供時代の記憶を奪われ、この牢獄に放り込まれた。
同じ境遇の候補生たちは、そうだと思いもしないけれども。
誰もがE-1077に馴染んで、和やかに暮らしているのだけれど。
そうはなれずに、取り残された。
「マザー牧場の羊」の群れには、どうしても入ってゆけないままで。
入りたいとも思わなくても、「独りぼっちだ」ということは分かる。
このステーションに「友」はいなくて、大好きだった両親の家にも帰れはしない。
両親が何処に住んでいたのか、住所さえも思い出せないから。
おまけに両親の顔さえぼやけて、もう定かではない二人の面差し。
だから、こうして蹲る。
「一つでも、何か思い出せたらいいのに」と。
ベッドに座って膝を抱えて、子供時代の真似をすることで。
(…パパとママは、今はどうしているんだろう…?)
起きているのか眠っているのか、それさえも此処では分からない。
故郷があった星の時間は、此処でも把握できるのだけれど。
銀河標準時間の代わりに、アルテメシアの「それ」を探せば。
エネルゲイアで使われていた「標準時間」を掴んだら。
(……でも、調べたって……)
とても悲しくなるだけだから、と前に調べた「標準時間」は意識していない。
時差は分かっているのだけれども、計算しても無駄なのだから。
(…その時間には、どんな景色だったかも覚えていないよ…)
機械が奪ってしまった記憶は、故郷の景色も曖昧にした。
風も光も、「こうだった」とピンと来はしない。
確かにあった筈の四季さえ、この身体はもう「覚えていない」。
ただ漠然と「夏は暑くて」「冬は寒い」と、知識という形だけでしか。
夏の日射しがどんなだったか、冬に木枯らしはあったのかさえも「忘れさせられた」。
エネルゲイアのデータを見たなら、其処に「それら」は書かれていても。
(……誰が見たって、「そうなのか」って思う程度にしか……)
今の自分は覚えていないし、故郷だという実感が無い。
エネルゲイアの出身なのに。
E-1077で閲覧可能な個人データにも、きちんと書かれているというのに。
そんな具合だから、両親の「今」を考えることは諦めている。
二人が起きて何かしていても、肝心の「故郷」が分からないから。
眠っている時間になっていたって、家の中でも色々と違う。
いくら空調が効いていたって、夏と冬では大違い。
「外は寒いぞ」と父が帰るなり口にした日は、食卓には「冬の料理」が並んだ。
夏なら冷たい飲み物が出たし、空調も冬のそれとは逆様。
そういった故郷の季節感さえ、今の自分は「想像する」しか方法が無い。
「冬の朝なら、こうだったよ」とか、「夏の夜にはこうなんだよ」と。
(……パパとママの今を想像したって、それと同じで……)
きっと何処かが欠けているから、考えない。
ピースがきちんと嵌まらなかったら、今よりもずっと悲しくなる。
そうなるよりかは、ただ顔だけを思い浮かべている方がいい。
あちこちが欠けてぼやけた面差し、それがどれほど悔しくても。
両親の瞳の色でさえもが、今の記憶では分からなくても。
(……パパ、ママ……)
ぼくを覚えてくれているの、と心の中で問い掛けてみる。
大人に「成人検査」は無いから、両親の記憶は、きっと消えてはいないだろう。
「目覚めの日」に送り出した息子を、忘れてしまいはしないと思う。
きっと自分は、両親の「最後の子供」だから。
養父母としては年配だった、けして若くはなかった両親。
(次の子供を育てようとしたら、また十四年もかかるんだから…)
新しい子供が十四歳まで育つ頃には、二人とも、かなりの年齢になる。
大抵の「親」は、そうなる前に引退するから、両親も引退したことだろう。
「最後の子供を育て終えた」と、満足して。
後は二人で過ごしてゆこうと、のんびり夫婦で暮らし始めて。
(そうだよね…?)
ぼくが最後の子供だよね、と問い掛けたくても、届かない声。
両親に手紙を書けはしないし、通信だって送れはしない。
けれど自分が「最後の子供」なのだろう。
両親にとっては思い出深い、養父母として過ごした時間の締めくくりの。
(…ぼくが最後で…)
パパとママの思い出に残る子供、と心がじんわり温かくなる。
「最後の子供」でなかったとしたら、両親の記憶は薄れるから。
新しい子供を育て始めたら、たちまち起こる日々のドタバタ。
まるで泣き止まない赤ん坊とか、よちよち歩きで一時も目を離せないとか。
(…そんな子が来たら、前の息子のことなんか…)
ゆっくり思い返している暇は無くて、新しい子供にかかりきり。
毎日の食事も、すっかり変わることだろう。
新しく家族に加わった子が、食卓の「王子様」だの「王女様」だのになって。
その子が好きなメニューが出る日が、目に見えてぐんぐん増えていって。
(…栄養バランスなんかはあるけど、でも、好きな物…)
それを食べさせてやりたくなるのが親心。
きっと自分も、そうだったろう。
今では思い出せなくても。
「マヌカ多めのシナモンミルク」が、自分の好みか、両親の好物だったかも謎のままでも。
(…パパもママも、ぼくを優先してくれて…)
好物を並べてくれただろうから、今もそうしているのだろうか。
「シロエはこれが好きだったよなあ?」と、父が笑顔で言ったりもして。
母が「今日はシロエの好物なのよ」と、懐かしそうな顔で料理を出す日もあって。
(…二人とも、きっと覚えていてくれるよね?)
養父母として最後に育てた「シロエ」のことを。
自分たちの大事な息子なのだと、可愛がってくれた間の出来事を、全部。
これが「最初の息子」だったら、今頃は忘れられただろうに。
たまにチラリと思い出しても、「新しい子供」と重ねるだけで。
「二人目の子供」だったりしたなら、もっと印象は薄いと思う。
「最初の子供」と、「最後の子供」の間になって。
記憶の端を掠める時にも、「あの子は、どんな子だったかな?」と思う程度で。
(……ぼくが最後の子供で良かった……)
いつまでも覚えていて貰えるよ、と考えたけれど。
「ぼくが忘れても、パパとママは、ぼくを忘れないよ」と思ったけれど。
(…成人検査で記憶を消されちゃっても…)
広い宇宙の何処かの星には、きっと「兄弟」がいるのだろう。
血が繋がってはいないけれども、自分と同じに「セキ」という姓を持つ誰か。
両親が育て上げた子供で、「エネルゲイアの、セキ夫妻の子」。
どう考えても、そういう子供が一人はいる。
両親の年の頃からして。
子育てを早く始めていたなら、二人いたっておかしくはない。
(……ぼくの兄弟……)
兄か姉かは、分からないけれど。
どういう仕事をやっているのか、何処にいるかも不明だけれど。
(だけど、手がかり…)
それならば、「セキ」の姓がある。
出身地がエネルゲイアで「セキ」なら、両親の子だという確率は…。
(…相当高いし、もしも会えたら…)
今の自分が持ってはいない、「両親の記憶」があるかもしれない。
機械が記憶を奪う時には、将来を考慮するようだから。
生きてゆくのに「何が役立つか」を、選んで消してゆくのだから。
(…養父母コースに行っていたなら、ぼくよりも…)
両親の記憶が鮮やかな可能性もある。
子育てをする人間だったら、「自分が育てられた記憶」は大切だろう。
そういう記憶がまるで無いより、「応用できる」方がいいから。
養父母の顔は曖昧だろうと、エリートコースに来た「自分」よりかは…。
(…パパとママのこと、覚えていそう…)
いつか会えたら、と「セキ」の名を持つ「両親の子供」に思いを馳せる。
ベッドで膝を抱えたままで。
機械が奪ってしまった記憶を、「セキ」という名の兄か姉から教われたなら、と…。
両親の子供・了
※SD体制の時代でも、「同じ養父母が育てた」場合は「兄弟」なのかな、と思ったわけで…。
アニテラだと「兄弟で育てていた」みたいですけどね、ゼルとハンスみたいに。