(……ピーターパン……)
いつか迎えに来てくれるの、とシロエが見詰める大切な本。
E-1077の夜の個室で、机の上にそれを広げて。
大好きだった両親と、生まれ育った懐かしい故郷。
どちらも失くしてしまったけれども、ピーターパンの本は残った。
子供時代の記憶を奪った、成人検査をくぐり抜けて。
宇宙しか見えないステーションまで、一緒について来てくれて。
これは「運命」なのだと思う。
ピーターパンに、ネバーランドに「選ばれた子」だから、此処にある本。
薄れてしまった記憶の代わりに、遠い未来への希望として。
ネバーランドへの行き方を記した、とても大切な地図なのだから。
(二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずーっと真っ直ぐ…)
そうして何処までも歩いて行ったら、ネバーランドに着けるという。
子供が子供でいられる世界に、「永遠の少年」、ピーターパンが住んでいる地に。
(ぼくは忘れていないんだから…)
忘れないままで生きていったら、いつか未来を掴めるだろう。
子供の心を失くさずにいたら、ピーターパンが迎えに来てくれて。
一緒に夜空を真っ直ぐに飛んで、憧れのネバーランドに下りて。
(……そうだよね?)
きっと迎えに来てくれるよね、と本の挿絵に問い掛ける。
「ぼくが大人になってしまっても、心は子供なんだから」と。
そのための約束が「ピーターパンの本」なのだろう、と自分自身に言い聞かせて。
きっと自分は、選ばれた子供なのだから。
今の歪んだSD体制、それを破壊する使命を持って生まれて来た子。
いつの日か、世界の頂点に立って、機械に「止まれ」と命じるために。
国家主席の座に就いたならば、「子供が子供でいられる世界」を創り出せるように。
ただ辛いだけの「此処」での暮らし。
E-1077での日々は、楽しいことなど無いも同然。
趣味にしている機械弄りも、故郷を懐かしんでのこと。
どれほど打ち込み、熱中しても、ふと「そのこと」に気付かされる。
「此処は牢獄なんだっけ」と。
作った機械を褒めてくれる父も、優しかった母もいはしない。
「シロエは凄いな」と笑顔だった父も、「おやつにしましょう」と誘った母も。
そんな場所でも耐えてゆけるのは、目標とする「未来」があるから。
優秀な成績を収め続けて、メンバーズになって、国家主席に昇り詰めること。
そのための努力は、ネバーランドに結び付くから。
自分のような「不幸な子供」が、これ以上、現れないようにすれば。
(……きっと、ピーターパンだって……)
ご褒美に迎えに来てくれるだろう。
「本物のネバーランドに行こう」と、遠い夜空を駆けて来てくれて。
ネバーランドより素敵な地球など、遥か下へと振り捨てて行って。
子供にとっては、ネバーランドが最高だから。
地球に行くより、ピーターパンと夜空を飛んでゆくのが夢なのだから。
(…ぼくは、絶対に忘れないから…)
いつか迎えに来てくれる筈、と本の挿絵に呼び掛ける。
「ぼくは此処だよ」と、心の中で。
「忘れないで」と、「大人になっても、ぼくは忘れはしないから」と。
(…こうやって、忘れずにいれば…)
ネバーランドに行ける日が来るだろう。
これほど夢見て、焦がれ続けて、今でも忘れられないのだから。
メンバーズになっても、国家主席に就任しても、思い描く場所はただ一つだけ。
(二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ…)
進んで行ったら、着ける夢の地。
永遠の少年、ピーターパンが駆け回る場所。
其処に着くまで、頑張らなければ。
SD体制の世界を支配している、忌まわしいマザー・システムを止めて。
「奪った、ぼくの記憶を返せ」と、機械に向かって命令して。
(…そうすれば、きっと…)
舞い上がれるのに違いない。
背中に翼は生えていなくても、高い夜空へ。
ピーターパンに「行こう」と誘われるままに、ネバーランドへ飛んでゆくために。
そう、忘れさえしなければ。
この牢獄での暮らしに耐えて、未来に向かって歩いてゆけば。
「ピーターパンの本」を大事に抱えて、何処までも真っ直ぐ進んだならば。
自分は「選ばれた子供」だから。
いつか世界を変える子供で、いわば勇者のようなもの。
たとえ大人になったとしても。
身体はすっかり育ってしまって、もう子供とは呼べなくても。
(そうだよね…?)
そうなんでしょ、と投げ掛ける問い。
ピーターパンの本の挿絵に。
夜空を駆けるピーターパンに、その横を飛ぶティンカーベルに。
いつか行けるだろう、夢に見た世界。
ネバーランドに辿り着けたら、其処は子供のための天国。
(ピーターパンたちと一緒に遊んで…)
海賊退治にも行けるだろうか。
本に出て来たフック船長は、もういなくても。
別の海賊がいるというなら、ピーターパンを助けて戦って。
(今、やっている訓練も…)
きっと役立つことだろう。
エリート候補生の訓練の中には、格闘技だってあるのだから。
銃もナイフも使えなくても、肉体だけで敵を倒せるように。
(ぼくが海賊を退治したなら…)
ネバーランドでも英雄になれて、皆に憧れられるだろうか。
「シロエは凄い」と、輝く瞳で見詰められて。
「ぼくにも教えて!」と、大勢の子たちに取り囲まれて。
(……それもいいよね……)
素敵だよね、と笑みを浮かべて、ふと気付いたこと。
「ネバーランドにいる子供たち」は、「誰なんだろう?」と。
ずっと昔から其処にいるのか、今も少しずつ増えているのか。
(…ネバーランドに行きたい子供は…)
一人きりとは限らない。
世界は、宇宙は広いのだから。
ピーターパンの本にしたって、持っている子は多いのだから。
(二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずーっと真っ直ぐ…)
その行き方で、辿り着いた子もいるのだろうか。
SD体制が敷かれた世界でも。
大人の社会と子供の社会が、切り離されている今の状態でも。
(…ぼくみたいな子供…)
広い宇宙には、いるかもしれない。
シロエは「選ばれた子供」だけれども、そうではない子。
ただ純粋にネバーランドを夢見て暮らして、ある日、空へと舞い上がる子供。
ピーターパンが迎えに来て。
「一緒に行こう」と手を差し伸べて、窓の向こうの夜空に誘って。
(……ピーターパンは、ちゃんといるんだから……)
ネバーランドに連れてゆく子を、今も探しているかもしれない。
「子供が子供でいられる世界」で、楽しく暮らせる仲間を増やしに。
海賊退治を手伝う子供や、他にも色々。
ウェンディたちが、昔、そうだったように。
ダーリング家の子供たちが皆、ネバーランドに向かったように。
(……ぼくに迎えは来なかったけれど……)
それは「選ばれた子供」だったからで、そうでなければ行けただろうか。
養父母と暮らしている家を捨てて、ネバーランドへ。
SD体制の社会を離れて、子供が子供でいられる場所へ。
(…ネバーランドに、成人検査は無いんだから…)
きっと記憶を失くすことなく、幸せに生きてゆけるのだろう。
たまに両親を思い出しても、遊ぶ間に、また忘れて。
成人検査のことさえ知らずに、いつまでも無邪気な子供のままで。
(……ぼくも、そっちの方が良かった……?)
選ばれた子供になるよりも。
いつかSD体制を壊して、英雄として迎え入れられるよりも。
ピーターパンが連れて来た「大人」を、羨望の眼差しで振り仰ぐ子供。
「SD体制を倒したの?」と、瞳をパチクリ瞬かせて。
「成人検査? それって、なあに?」と、キョトンと首を傾げもして。
(…英雄でも、何でもないけれど…)
幸せに生きてゆけただろうか、と思う人生。
大好きな両親も、懐かしい故郷も、忘れないままの子供だったなら。
「帰りたいな」と思う日はあっても、記憶は確かだったなら。
(……今のぼくより、ずっと幸せ……?)
そうなのかもね、と思うけれども、その生き方は羨まない。
幸せに生きてゆけたとしたって、何一つしてはいないから。
ピーターパンの目から見たなら、「子供の中の一人」に過ぎない存在だから。
(…それよりは…)
今の暮らしに耐え抜いた末に、ネバーランドに行く方がいい。
きっとシロエは、英雄になれるだろうから。
ピーターパンの本の中には、「シロエ」の名は載っていなくても。
誰一人として気付かなくても、ネバーランドでは、ピーターパンと並ぶ英雄だから…。
選ばれた子供・了
※ネバーランドがあるんだったら、SD体制の社会でも「行ける子」はいるのかな、と。
一般市民になるような子供でしょうけど、いないとは限らない世界。そういうお話。
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