(ぼくの本…)
ちゃんと此処まで持って来られた、とシロエがギュッと抱き締めた本。
ステーション、E-1077。
選ばれた一部のエリートだけが来られる場所だと説明された。
此処へ来る途中の船の中で。
ステーションに着いたら、エリート候補生に相応しく行動するように、と。
(…そんなの、ぼくには関係ない…)
エリートだろうが、一般人向けのステーションだろうが。
一緒の船で着いた者たち、彼らは喜んでいたけれど。
素晴らしい場所に来ることが出来たと、憧れの地球が近くなったと。
宇宙港で船を降りた彼らは、何も持ってはいなかった。
成人検査の規則通りに、荷物は一つも持たずに家を出たのだろう。
(…何もかも置いて来たヤツばかり…)
荷物も、それに大切な物も。
かけがえのない記憶、養父母と過ごした日々の思い出。
それを素直に手放してしまい、機械の言うなりになった者たち。
…自分も偉そうなことは言えないけれど。
かなりの記憶を消されてしまって、曖昧になってしまったけれど。
(でも、ぼくの本は…)
こうして今も手の中にある。
幼い時から何度も何度も、繰り返し読んだピーターパンの本。
これだけは置いて来られなかった。
規則なのだと言われても。
両親に困った顔をされても。
成人検査があんなものだとは知らなかったけれど、自分は賢明だったと思う。
宝物の本を鞄に詰め込み、大切に持って家を出たこと。
お蔭で記憶を失くさずに済んだ、ピーターパンの本に詰まった記憶は。
顔がぼやけてしまった両親、けれど今でも覚えている。
この本をソファで読んでいた時、「もっといい所へ行けるよ」と教えてくれた父。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
父は自分を抱き上げてくれた、両腕で高く差し上げてくれた。
ピーターパンの本を持った幼い自分を、「ただいま、シロエ」と、高く、高く。
キッチンにいた母とも何度も話した、この大切な本を読みながら。
幾つも、幾つも、思い出の欠片。
幼かった自分が幸せな日々を、温かな日々を過ごしていた。
ピーターパンの本と一緒に、大好きだった父と母も一緒に、遠くなってしまった懐かしい家で。
失くさなかった、と両腕で強く胸に抱き締める、宝物の本を。
自分の記憶を繋ぎ止めてくれた、あの家の思い出が詰まった本を。
もう離さないと、離れないと。
二度とこの本を離しはすまいと、何処までも、いつまでも一緒だからと。
(…誰にも渡さないんだから…)
触らせだってしないんだから、とキッと睨んだ側に来た大人。
部屋はこちらだと案内しに来た、教育ステーションの職員の一人。
絶対に渡してたまるものかと。
もう絶対に騙されはしないと、成人検査の二の舞になってはならないと。
そうして案内された部屋。
一人に一つずつ、あてがわれた個室。
まるで馴染みの無い部屋だけれど、今日からは此処で暮らすしかない。
この部屋で生きてゆくしかない。
(…だけど、この本は持って来たから…)
大切な宝物の本。
思い出が幾つも詰まっている本。
この本を部屋に置いておいたら、もう一度築き直せるだろう。
何度も何度も読んでいたなら、記憶の欠片もいつか組み立て直せるだろう。
ネバーランドへ行こうと夢見た自分を、今も忘れていないから。
本をしっかりと抱え直したら、あの思い出が蘇るから。
何処かぼやけてしまっていても。
頼りなく、儚く消えそうなほどに、細く危うく揺らめいていても。
(此処がぼくの部屋…)
全く馴染みが無い部屋だけれど、また最初から作り直そう。
ピーターパンの本を繰り返し読んで、記憶の欠片を組み立ててゆこう。
気の遠くなるような作業だけれども、自分は皆と違うのだから。
機械が書き換えてしまった偽の記憶を、素直に信じはしないのだから。
(…負けてたまるもんか…)
二度と負けない、機械などには。
此処まで自分を乗せて着た船、あれで一緒に来た者のように機械の言いなりなどにはならない。
いつか必ず、何もかもきっと取り戻す。
父の記憶も母の記憶も、自分が育った家の記憶も。
此処まで持って来た大切な本が、きっと助けてくれるから。
宝物の本に詰まった思い出、それが自分の戦う力になるだろうから。
ぼくは負けない、と大切な本を部屋にあった勉強机に置いた。
多分、勉強机なのだと思える机。
記憶の彼方に微かに残った、自分のものとは違ったけれど。
両親と暮らした家で使った机とは違っていたけれど。
(今日からは、此処で暮らすんだから…)
そしていつかは、この本と一緒に全て取り戻して帰ってゆこう。
父と母とが住んでいる家へ、自分が育ったエネルゲイアへ。
その日まで、本を失くさないように。
誰かに盗られてしまわないように。
(…名前、書かなきゃ…)
ぼくの本だ、と初めて本に書き込んだ名前。
セキ・レイ・シロエと、ぼくのものだと、机に置かれていたペンで。
この本と一緒に、いつまでも、何処までも戦ってゆこう。
いつか記憶を取り戻す日まで。
懐かしい家に帰れる日まで。
ちゃんと名前を書いておいたから、もう大丈夫。
誰かに盗られてしまうことはなくて、自分一人だけの宝物。
セキ・レイ・シロエと、ペンできちんと書いたから。
きっといつかは、本を抱えて帰ってゆこう。
山ほどの思い出と記憶を抱えて、全部取り戻して帰ってゆこう。
大好きだった家へ。
父と母とが住んでいる家へ、ネバーランドへ、地球へ行こうと何度も夢を描いた家へ…。
名前を書いた本・了
※ピーターパンの本に書いてあったシロエの名前。文字がやたらと綺麗だったな、と。
子供の字にしては綺麗すぎです、それとも書道をやってましたか?
「あと、シナモンミルクも。マヌカ多めにね」
教育ステーションの朝の食堂、そう注文をしたシロエ。
トレイの上に置いてゆかれるトーストやサラダ。それに…。
最後にコトリとカップが一つ。シナモンの入ったホットミルク。
(…今日も言えた…)
覚えていた、と手に持ったトレイ。
空いた席はと、人の少ないスペースに向かう。
誰にも邪魔をされたくないから、朝食はいつも一人きりで。
声を掛けられても、無視するだけ。
(キースなら話は別だけれどね)
他の連中はお断りだ、と座った席。望み通りに一人のテーブル。
朝食のメニューは色々だけれど、その日の気分で変えるのだけれど。
まるで何かの呪文のように口にするのが、シナモンミルク。
「マヌカ多めに」と付け加えるのも忘れずに。
初めてこれを頼んだ時には、心が震えた。
「覚えていた」と。
やっと一つだけ取り戻せたと、二度と忘れてはならないと。
多分、自分が好きだったものの一つだから。
そうでなければ母のお勧め、もしくは父のお気に入り。
いずれにしたって、あの家にあった飲み物の一つ。
目覚めの日までの十四年間を過ごした、両親の家に。
雲海の星、アルテメシアの、エネルゲイアで暮らした家に。
今ではまるでピンと来ない星、ぼやけてしまったアルテメシアにエネルゲイア。
それと同じにぼやけた両親、どうしても思い出せない顔。
あの日を境に過去を失くした、宝物だったピーターパンの本を除いて。
持っては行けない筈の荷物を用意してまで、本だけは持って来られたけれど。
ステーションまで持ち込めたけれど、他の記憶は霞んでしまった。
(全部、消された…)
機械に都合のいいように。「忘れなさい」という冷たい声で。
落として失くしてしまった過去。
両親の顔や、暮らした家や。
取り戻したくて、何度も本のページをめくった、ピーターパンの。
何処かに欠片が落ちていないかと、手掛かりになりはしないかと。
そうやって懸命にもがいていた中、ある朝、空から降って来た欠片。
ステーションに空は無いけれど。
見上げても、宇宙があるだけだけれど。
けれども、それは本当に空から降って来たとしか思えなかった。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」。
朝の食堂、自分の前でそう注文をした候補生。
雷に打たれたような気がした、その瞬間に。
何かが身体を貫いていった、「自分はこれを何処かで聞いた」と。
シナモンミルクの方はともかく、「マヌカ多めに」とは何だろう?
分からないままに注文してみた、自分の番が来た時に。
さっきの候補生と同じ口調で、さも慣れた風に。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
口に出した途端、震えた身体。
全身の細胞が「これだ」と叫んだ、「自分はこれを知っていた」と。
シナモンミルクにはマヌカ多めに、これはそういうものだったのだ、と。
マヌカが何かは謎だけれども、自分は確かに知っていた筈。
逸る心を懸命に抑え、見ていた先。
係の女性が手に取った瓶で、蜂蜜だったと思い出した。マヌカは蜂蜜の名前だった、と。
もう間違いなく記憶の欠片で、かつて自分が持っていたもの。
嬉しさのあまり叫び出したくなるのを堪えて、やっと席まで運んだトレイ。
蜂蜜入りのホットミルクを、胸を高鳴らせて飲んでみた。
もっと記憶が戻らないかと、何か覚えていはしないかと。
(結局、あれっきりだけど…)
マヌカ多めのシナモンミルクは、少し癖のある優しい味で。
懐かしい味に思えたけれども、舌に記憶は戻らなかった。
機械に消されてしまった記憶は、そう簡単にはきっと戻って来ないのだろう。
幼い自分が飲んでいたのか、それとも父の気に入りだったか。
母がマヌカを「多めがいいのよ」と入れてくれたか、それすらも今は思い出せない。
ただ、あの家にあったというだけ、誰かがそれを好んでいただけ。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
その通りの言葉で言っていたのか、何処か違ったかは分からないけれど。
確かにあった、と思い出したから、忘れないように呪文を唱える。
朝の食事を頼む時には、「好物なんです」という顔をして。
「シナモンミルクも。マヌカ多めにね」と、きちんと自分らしい言い回しで。
今日も忘れてはいなかった。
魔法の呪文を、あの日、空から降って来てくれた、大切な記憶の欠片のことを。
ちゃんと頼めた、いつものように。
シナモンミルクを、マヌカ多めのホットミルクを。
(…キース、あなたには分かるわけがない)
この注文の意味も、どうして自分がこだわるのかも。
呪文を唱えるように頼む意味さえ、きっとキースには分からない。
だから、機会があったなら。
(キースだったら、一緒に食べてもいいんだけどね?)
過去の記憶を持っていないらしい機械の申し子、キースとならば。
彼が持たない過去というものを、自分は一つ取り戻したから。
そう、彼にならば自慢してみたい。
けして口には出さないけれども、優越感に浸ってみたい。
自分は思い出したから。機械に消された記憶の欠片を、今もこうして持っているから。
(シナモンミルク、マヌカ多めに…)
それを好んだのが誰だったのかは、未だに思い出せないけれど。
自分だったか、母なのか、父か、それすらも今は謎なのだけれど…。
マヌカの呪文・了
※「シナモンミルク、マヌカ多め」を耳にしてから8年経ったら、こうなったオチ。
あの時は「通だな」と思っていたのに、どう間違えたら「魔法の呪文」に…?
「マザーには選りすぐりを、と上申したが…」
見た顔も多いな、とキースが見渡した国家騎士団所属の新たな部下たち。
補佐官を拝命したと名乗ったセルジュ・スタージョンはもちろん、他にも大勢。
けれど、中でも…。
「以後、スローターハウス作戦の指揮権は少佐に。ご無沙汰しております、アニアン教官」
セルジュの隣に進み出た男。長身で眼鏡のパスカル・ヴォグ。
(…此処まで来たか)
顔には出さなかったけれども、フッと心の中で笑った。
(面白い顔ぶれになりそうだ…)
マツカもそうだが、無精髭の男。
きっと面白くなることだろう。
…このスローターハウス作戦は、な…。
マツカに着替えを取りに行かせて、引き揚げた部屋。
其処でさっきの男を思った、無精髭を生やしたパスカル・ヴォグ。
階級は少尉、ヴォグ少尉の名前は知っている。
補佐官のセルジュには、「貴様は?」と尋ねた自分だけれど。
他の者たちも顔を覚えているという程度で、名前とは一致しないのだけれど。
(…いくらメンバーズでも、いちいち覚えていられるものか)
面倒な、と自分で淹れたコーヒー。
着替えが未だに見付からないのか、マツカはやって来ないから。
けれど、「面倒な」という言葉はマツカに向けたものではなくて。
向けた相手は自分の頭脳で、「教え子など覚えていられるか」の意味。
星の数ほど教えたのだし、第一、覚える必要も無い。
大抵の者は自分の所へ辿り着くことすら出来ないから。
よほど優秀な者でなければ、自分の部下など務まらないから。
訓練課程を終えた後には、恐らくは二度と出会わないだろう教え子たち。
頭の片隅であっても記憶に留めておくのさえ無駄で、顔だけ覚えておけば充分。
いつか何処かで部下になるような者がいたなら、「あの時の奴か」と分かれば充分。
そうして多くの者たちを忘れ、気にも留めてはいなかったけれど。
(パスカルか…)
やはり来たか、という印象。
ついに私の所まで、と。
(…あいつなら来ると思っていたが…)
思った以上に早く来たな、と唇に微かに浮かべた笑み。
パスカルならば、きっと上手くやってくれることだろう。
スローターハウス作戦には欠かせないメギド、それを任せるには似合いの人材。
セルジュなどより、ずっと面白い男だから。
ミュウの拠点を焼き払うメギド、最終兵器とも呼ばれるメギド。
どうせだったら、ただ優秀なだけの者より、面白い者に任せたい。
自分の心に入り込んだ男、ソルジャー・ブルーとやり合うのだから。
伝説と言われたタイプ・ブルー・オリジン、その喉元に突き付けてやるのがメギドだから。
(…あいつが来ないわけがない)
パスカルもやって来たのだけれども、ソルジャー・ブルー。
あのミュウの長も出て来るだろう。
自分の読みが正しかったら、きっと自ら。
それを屠るには、狩場に向かって追い込んでやるには必要なメギド。
まさかパスカルに任せられるとは思わなかった。
きっと最高の狩りになる。
無精髭のパスカルが操るメギドと、伝説のタイプ・ブルー・オリジンと。
こんな顔合わせがまたとあろうか、自分が唯一、顔と名前を覚え続けていた男。
そのパスカルにメギドを任せる、ソルジャー・ブルーを燻し出すための。
自分の心に入り込んだ男の喉元に突き付けて抉り、屠る刃を。
スローターハウス作戦とはよくも名付けた、我ながら素晴らしい名だったと思う。
その名の通りに屠殺場だから。
スローターハウスは、屠殺場の意味を持つのだから。
無精髭の男、パスカル・ヴォグ。
最初に彼を教えた日のことを忘れてはいない、今も鮮やかに思い出せる顔。
訓練の場へと出て来た者たち、その中に一人、無精髭の男。
軍人ならば、髭は綺麗に剃るものなのに。
そうでなければ手入れするもの、無精髭など許されないのに。
だから自分も注意した。
部屋に戻れと、髭を剃ってから出直して来いと。
その時に、彼が返した言葉。
「外見で人を判断するなと、軍人は誰でも教わりますが」と。
中身まで無精な自分ではない、と不敵な笑みさえ浮かべていた彼。
ふと思い出した、シロエの面影。
マザー・イライザに逆らい続けて、シロエは散っていったけれども。
上手に乗り切る奴もいるのかと、軍の厳しさは教育ステーションの比ではないのだが、と。
規律違反を堂々と犯す態度が面白かったから。
何処かシロエを思い出させる男だったから、無精髭の男を放っておいた。
彼は何処までゆくのだろうかと、言葉通りに優秀なのかと。
それならばいいと、そういう輩が一人くらいいる世界もいいと。
(ヴォグ少尉か…)
パスカルが訓練を終えた後にも、折に触れて探していた名前。
今はどういう階級なのかと、どんな戦果を挙げているかと。
そうして、ついにパスカルは来た。
この晴れ舞台に、スローターハウス作戦の場に。
ソルジャー・ブルーと自分の戦いになるだろう場所に、メギドを操る責任者として。
(…本当に面白くなりそうだ…)
パスカルが来たというだけでもな、とクックッと笑う、この作戦は最高だと。
スローターハウス作戦は面白くなると、とてもいい役者が揃ったものだと。
狩り出す獲物はタイプ・ブルー・オリジン、伝説の獲物。
自分の手駒の一人はミュウだし、それだけでも充分、楽しめるのに。
マツカだけでも面白いのに、パスカルまでがやって来た。
何処かシロエを思わせた男、けれどシロエよりも遥かに上手に世間を渡って来た男。
無精髭のパスカルが操るメギドで、ソルジャー・ブルーを燻し出す。
きっと最高に面白い狩りに、ゲームになるのに違いない。
あのパスカルがやって来たから。
自分が唯一覚えた教え子、無精髭の男が加わったから…。
無精髭の男・了
※セルジュやパスカルが出て来た瞬間、「風と木の詩」の面々が来た、と驚いた自分。
あれから8年経ったんですけど、なんで今頃パスカルを書いてるんですか…?
(ぼくの本…)
何処、とシロエが見回した部屋。
彼の心は少し綻び始めていたけれど。
システムに、マザー・イライザに逆らった意志の強さは、別の方へと向いていたけれど。
拘束を解いたミュウの力が目覚めたせいで。
幼かった日に、彼が出会ったピーターパン。
ミュウの長となったジョミー・マーキス・シン、彼の思念に晒されたせいで。
(…ピーターパン…)
確かに聞こえた、ピーターパンの声が。
今ならば行ける、ネバーランドへ。
ピーターパンが呼んでいたから、声が聞こえて来た方へ行けば。
ステーションの外へと出て行ったならば。
けれど、見付からない宝物。
駄目だと言われた荷物まで持って、あの本を此処へ運んで来たのに。
幼い頃から、ずっと一緒に来た宝物。
ネバーランドへの行き方が書かれた、たった一つきりの大切な本。
両親の顔も、育った町すらも忘れたけれども、あの本だけは忘れなかった。
ステーションまで持って来たから、いつでも側に置いていたから。
何処にあるのかと彷徨い出た部屋、幾つものモニターとコントロールパネル。
白衣を纏った研究者の姿の、子供が何人か遊んでいた。
床に座って、目には見えない何かのオモチャで。
(…ピーターパンが来たんだ…)
みんな子供に戻れたんだ、と見渡した先にポツンと置かれた宝物。
今日までずうっと一緒だった本、大切なピーターパンの本。
(あった…!)
これで行ける、と急いで抱えた宝物の本。
ネバーランドへ旅立つのだから、この本も持って行かないと。
やっと出られる、ステーションから。
宝物の本を取り戻したから、これと一緒にネバーランドへ。
ピーターパンが呼んだ方へと、ステーションを出て飛んでゆかねば。
ネバーランドへ、そして地球まで。
それだけが今のシロエの思い。
幼かった日々を忘れまいと懸命にあがき続けた心は、勝利を収めたのかもしれない。
此処まで忘れずに持って来た本、その中に広がる世界へと飛翔していたから。
ネバーランドを目指して飛ぼうと、ただそれだけが彼の心に在ったから。
傍目には少し、常軌を逸した姿だけれど。
ピーターパンの本を抱えて歩いてゆく彼は、彼の口から零れる言葉は。
キースの秘密を探ろうとして禁を犯した、卓越した頭脳の持ち主はもう何処にもいない。
探り出した秘密を隠していた本、それが何かも覚えてはいない。
覚えていたなら、此処に持っては来ていないから。
キースの喉元に本を突き付け、「これを見ろ」と叫んでいただろうから。
候補生のシロエはいなくなったけれど、彼は望んだ姿に戻った。
ネバーランドを夢見た子供に、両親の顔さえ思い出して。
幼かった日に出会ったピーターパンのことも、声も姿も思い出して。
(…ネバーランドに行かなくちゃ…)
ステーションから出て行かなくちゃ、と辿り着いた無人の格納庫。
待っていたように開いた扉と、用意されていた練習艇と。
乗り込めば直ぐに動き出したから。
何もしないのに、小さな船は宇宙へと滑り出したから。
「安心してね。ピーターパンが、ママもパパも一緒だって…」
一緒にネバーランドに、地球に連れて行ってくれるって。
ね、ピーターパン…!
行こう、と見詰める漆黒の宇宙。
この先にあるネバーランドへ、地球へ行こうとシロエの船は飛び続ける。
両親も後ろに乗っている船で、ただひたすらにネバーランドを、地球を目指して。
宝物の本のページを、そのサイオンでめくりながら。
この本だけは、と無意識の内に固くガードし、大切にページを繰ってゆきながら。
何度も何度も読んで覚えた、ピーターパンの本。
それの中身をポツリポツリと口にしながら、ネバーランドへと。
遥か後ろから追って来た船、キースの警告と呼び掛ける声と。
シロエの耳には届きさえもしない、別の世界を飛んでいるから。
彼があんなにも戻りたかった子供時代を、宇宙ではなくて自由な空を飛んでいるから。
そして見付けた、ピーターパンを。
約束通りに迎えに来た彼を、幼い頃に出会った彼を。
「来てくれたんだね」と叫んだシロエは、本当に彼を見たのだろう。
彼の瞳には見えていたろう、ピーターパンが、それにネバーランドへと続く道が。
「みんなで行こう。…地球へ…!」
ぼくは自由だ。自由なんだ。
いつまでも、何処までも、この空を自由に飛び続けるんだ…!
そうしてシロエは飛び去って行った、彼が望んだネバーランドへ。
子供が子供でいられる世界へ、幼い頃から夢に見た国へ。
ネバーランドの向こうに広がる、ネバーランドよりも素敵な地球へと。
あの宝物の本を抱えて、遥か彼方へと。
誰も追っては来られない場所へ、彼が自由になれる国へと。
(…ピーターパン…!)
この本だけは、と抱えていたから。
最後まで大切に持っていたから、彼のサイオンは本を守った。
自分自身を守る代わりに、一冊の本を。
宝物だった、ピーターパンの本を。
宇宙空間に散らばる残骸、其処にシロエはもういないけれど。
彼は彼方へ飛び去ったけれど、宝物の本は其処に残った。
まるでシロエの形見のように。
思いの欠片を置いて行ったように。
…シロエは意図していなかったけれど。
宝物を守っただけだったけれど。
遠い未来に本がキースの許に届くとは、シロエは思いもしなかったろう。
彼は自由の翼を広げて、空の住人になったから。
宝物だった本の中の世界へ、ネバーランドへと、真っ直ぐに飛んで行ったのだから。
ネバーランドへ、その向こうの地球へ。
宝物の本から彼だけに見える扉を開いて、自由へと飛んで行ったのだから…。
宝物の本・了
※シロエの宝物の本。ステーションまで持って行けたことにも驚きましたが、その頑丈さ。
本だけ残るなんてアリですかい! と叫んだ自分が謎を解くオチ、自分の頭も謎かもです。
(…あなたのピアス。サムの血だったんですね…)
知らなかった、とマツカは窓の向こうを眺める。
ただ暗いだけの宇宙空間。サムが死んだ星は、遥かに遠い。
けれども、サムは確かに捉えた。
連れて行ってしまった、キースの心を。
ほんのひと時、逝ってしまった自分の側へと。
(…ぼくが心に触れられたほどに…)
それほどの隙を、キースが心に作ったほどに。
いつも、いつでも、城塞のように堅固な心だったのに。
微かな思いの欠片でさえも、其処から漏れては来なかったのに。
サムの死と、形見のサムが好んだパズルと。
それがキースの心を攫った。
キースの心を覆った悲しみ、心の中に流れた涙。
瞳から涙が零れる代わりに、サムの許へと飛んでいた心。
サムがキースを連れて行ったから、弱い自分でも読み取れた。
今日まで少しも読み取れなかった、キースの心。
こうなのだろう、と推測するしかなかった心に流れる深い悲しみ。
(…サムの血のピアスだっただなんて…)
友の血を常に身につけるほどに、キースの悲しみは深かったのか。
忘れまいと、共に在ろうとしたのか、子供の心に戻った友と。
初めてキースに会った時から、その耳に光っていたピアス。
特別な意味があるのだろうと思ったけれども、読めなかった心。
キースの教え子だという腹心の部下たち、彼らも知らないようだった。
セルジュも、それにパスカルたちも。
(一度も話題にならなかったから…)
不思議に思いもしなかった。
彼らがキースに会った時には、もうその耳にあったのだろうと。
何かの功績を記念するものか、あるいはキースの決意なのか。
どちらかと言えば、決意だろうと考えたけれど。
ついに答えは得られないまま、突然に掴んでしまった真実。
友と一緒に在り続けたキース。
その血をピアスに変えて身につけ、今までも、そしてこれから先も。
サムの魂が肉体を離れ、遥か彼方へと飛び去っても。
飛んで行った友の魂を追って、心が一瞬、飛翔したほどに。
固く閉ざされ続けた心の深みに、自分が一瞬、触れられたほどに。
(…あなたはやっぱり、思った通りの人だった…)
誰よりも優しい心の持ち主、けれども、それを見せられぬ人。
そのように訓練されて来たからか、生来、どうしようもなく不器用なのか。
両方だろうという気がする。
訓練の成果も大きいけれども、多分、不器用な人なのだと。
心を許せる友を失い、一人で走り続けたからだと。
サムが壊れてしまわなければ、キースも変わっていたかもしれない。
冷たく非情な顔はあっても、何処かで優しい笑みを見せる人に。
いつでもサムに向けていたような、穏やかな色の瞳の人に。
アイスブルーの瞳の色は同じ色でも、凍てついた色と、雪解けの水を湛えた色と。
それを併せ持つ人だっただろう、サムが壊れずに心の友で在り続けたなら。
キースという人を読み誤らずについて来られた、自分は幸せだったのだろう。
心を読むことは叶わないまでも、ミュウの力が働いたろう。
本当のキースはどんな人かを、どういう心の持ち主なのかを、自分は分かっていたのだから。
(…分かっていたつもりだったけれども、それ以上の人…)
キースの心を捉えた、ただ一人の友。
子供の心に戻った後にも、死んだ後にも、キースを捉えて離さないサム。
あれほどの友情を捧げられたサム、彼が羨ましいけれど。
友だったのだから、敵わないのも仕方ない。
最初から部下の一人に過ぎない自分と違って、サムはキースと並んで生きた。
同じ時間を共に過ごして、きっと多くの思い出だって。
だからサムには敵わないと思う、過去も、この今も、これから先も。
自分はきっと敵わないだろう、キースの友だったサムには、一生。
(キース…。ぼくがいなくなっても、あなたは悲しんでくれますか…?)
サムを思ってキースが心で流した涙。
その内のほんの一粒でもいい、一粒にも満たないような欠片でも、水の分子の一つでもいい。
キースが悲しんでくれたならば、と思うけれども、恐らく叶いはしないだろうから。
とてもサムには敵わないから、せめて、と心を掠めた思い。
(…一度だけでいい…)
一度でいいから、いつか自分がいなくなったら。
自分が死んだことすら意識しないまま、一言、自分にこう言って欲しい。
「コーヒーを頼む、マツカ」。
其処に自分がいるかのように。
そして「いない」と驚いて欲しい、それだけできっと…。
(…ぼくは、嬉しくて…)
きっと涙を流すのだろう。
死んで魂だけになっても、瞳から涙が流れるのなら。
今日のキースの心のように、涙が溢れて伝うのならば。
最後までサムには敵わないけれど、きっと敵いはしないけれども。
「コーヒーを頼む」と言って貰えれば、それだけで満たされるのだろう。
キースの心に、自分も住んでいたのだと。
サムに敵いはしないけれども、片隅には住んでいられたのだと…。
いつか叶うなら・了
※いきなり核心に突っ込んで行ってどうするよ、と自分に突っ込みを入れたかったチョイス。
「書きたいものを書く」のはいいけど、アンタ、マツカは初書きだろうが…!