(ぼくの本…)
何処、とシロエが見回した部屋。
彼の心は少し綻び始めていたけれど。
システムに、マザー・イライザに逆らった意志の強さは、別の方へと向いていたけれど。
拘束を解いたミュウの力が目覚めたせいで。
幼かった日に、彼が出会ったピーターパン。
ミュウの長となったジョミー・マーキス・シン、彼の思念に晒されたせいで。
(…ピーターパン…)
確かに聞こえた、ピーターパンの声が。
今ならば行ける、ネバーランドへ。
ピーターパンが呼んでいたから、声が聞こえて来た方へ行けば。
ステーションの外へと出て行ったならば。
けれど、見付からない宝物。
駄目だと言われた荷物まで持って、あの本を此処へ運んで来たのに。
幼い頃から、ずっと一緒に来た宝物。
ネバーランドへの行き方が書かれた、たった一つきりの大切な本。
両親の顔も、育った町すらも忘れたけれども、あの本だけは忘れなかった。
ステーションまで持って来たから、いつでも側に置いていたから。
何処にあるのかと彷徨い出た部屋、幾つものモニターとコントロールパネル。
白衣を纏った研究者の姿の、子供が何人か遊んでいた。
床に座って、目には見えない何かのオモチャで。
(…ピーターパンが来たんだ…)
みんな子供に戻れたんだ、と見渡した先にポツンと置かれた宝物。
今日までずうっと一緒だった本、大切なピーターパンの本。
(あった…!)
これで行ける、と急いで抱えた宝物の本。
ネバーランドへ旅立つのだから、この本も持って行かないと。
やっと出られる、ステーションから。
宝物の本を取り戻したから、これと一緒にネバーランドへ。
ピーターパンが呼んだ方へと、ステーションを出て飛んでゆかねば。
ネバーランドへ、そして地球まで。
それだけが今のシロエの思い。
幼かった日々を忘れまいと懸命にあがき続けた心は、勝利を収めたのかもしれない。
此処まで忘れずに持って来た本、その中に広がる世界へと飛翔していたから。
ネバーランドを目指して飛ぼうと、ただそれだけが彼の心に在ったから。
傍目には少し、常軌を逸した姿だけれど。
ピーターパンの本を抱えて歩いてゆく彼は、彼の口から零れる言葉は。
キースの秘密を探ろうとして禁を犯した、卓越した頭脳の持ち主はもう何処にもいない。
探り出した秘密を隠していた本、それが何かも覚えてはいない。
覚えていたなら、此処に持っては来ていないから。
キースの喉元に本を突き付け、「これを見ろ」と叫んでいただろうから。
候補生のシロエはいなくなったけれど、彼は望んだ姿に戻った。
ネバーランドを夢見た子供に、両親の顔さえ思い出して。
幼かった日に出会ったピーターパンのことも、声も姿も思い出して。
(…ネバーランドに行かなくちゃ…)
ステーションから出て行かなくちゃ、と辿り着いた無人の格納庫。
待っていたように開いた扉と、用意されていた練習艇と。
乗り込めば直ぐに動き出したから。
何もしないのに、小さな船は宇宙へと滑り出したから。
「安心してね。ピーターパンが、ママもパパも一緒だって…」
一緒にネバーランドに、地球に連れて行ってくれるって。
ね、ピーターパン…!
行こう、と見詰める漆黒の宇宙。
この先にあるネバーランドへ、地球へ行こうとシロエの船は飛び続ける。
両親も後ろに乗っている船で、ただひたすらにネバーランドを、地球を目指して。
宝物の本のページを、そのサイオンでめくりながら。
この本だけは、と無意識の内に固くガードし、大切にページを繰ってゆきながら。
何度も何度も読んで覚えた、ピーターパンの本。
それの中身をポツリポツリと口にしながら、ネバーランドへと。
遥か後ろから追って来た船、キースの警告と呼び掛ける声と。
シロエの耳には届きさえもしない、別の世界を飛んでいるから。
彼があんなにも戻りたかった子供時代を、宇宙ではなくて自由な空を飛んでいるから。
そして見付けた、ピーターパンを。
約束通りに迎えに来た彼を、幼い頃に出会った彼を。
「来てくれたんだね」と叫んだシロエは、本当に彼を見たのだろう。
彼の瞳には見えていたろう、ピーターパンが、それにネバーランドへと続く道が。
「みんなで行こう。…地球へ…!」
ぼくは自由だ。自由なんだ。
いつまでも、何処までも、この空を自由に飛び続けるんだ…!
そうしてシロエは飛び去って行った、彼が望んだネバーランドへ。
子供が子供でいられる世界へ、幼い頃から夢に見た国へ。
ネバーランドの向こうに広がる、ネバーランドよりも素敵な地球へと。
あの宝物の本を抱えて、遥か彼方へと。
誰も追っては来られない場所へ、彼が自由になれる国へと。
(…ピーターパン…!)
この本だけは、と抱えていたから。
最後まで大切に持っていたから、彼のサイオンは本を守った。
自分自身を守る代わりに、一冊の本を。
宝物だった、ピーターパンの本を。
宇宙空間に散らばる残骸、其処にシロエはもういないけれど。
彼は彼方へ飛び去ったけれど、宝物の本は其処に残った。
まるでシロエの形見のように。
思いの欠片を置いて行ったように。
…シロエは意図していなかったけれど。
宝物を守っただけだったけれど。
遠い未来に本がキースの許に届くとは、シロエは思いもしなかったろう。
彼は自由の翼を広げて、空の住人になったから。
宝物だった本の中の世界へ、ネバーランドへと、真っ直ぐに飛んで行ったのだから。
ネバーランドへ、その向こうの地球へ。
宝物の本から彼だけに見える扉を開いて、自由へと飛んで行ったのだから…。
宝物の本・了
※シロエの宝物の本。ステーションまで持って行けたことにも驚きましたが、その頑丈さ。
本だけ残るなんてアリですかい! と叫んだ自分が謎を解くオチ、自分の頭も謎かもです。