(ぼくの本…)
ちゃんと此処まで持って来られた、とシロエがギュッと抱き締めた本。
ステーション、E-1077。
選ばれた一部のエリートだけが来られる場所だと説明された。
此処へ来る途中の船の中で。
ステーションに着いたら、エリート候補生に相応しく行動するように、と。
(…そんなの、ぼくには関係ない…)
エリートだろうが、一般人向けのステーションだろうが。
一緒の船で着いた者たち、彼らは喜んでいたけれど。
素晴らしい場所に来ることが出来たと、憧れの地球が近くなったと。
宇宙港で船を降りた彼らは、何も持ってはいなかった。
成人検査の規則通りに、荷物は一つも持たずに家を出たのだろう。
(…何もかも置いて来たヤツばかり…)
荷物も、それに大切な物も。
かけがえのない記憶、養父母と過ごした日々の思い出。
それを素直に手放してしまい、機械の言うなりになった者たち。
…自分も偉そうなことは言えないけれど。
かなりの記憶を消されてしまって、曖昧になってしまったけれど。
(でも、ぼくの本は…)
こうして今も手の中にある。
幼い時から何度も何度も、繰り返し読んだピーターパンの本。
これだけは置いて来られなかった。
規則なのだと言われても。
両親に困った顔をされても。
成人検査があんなものだとは知らなかったけれど、自分は賢明だったと思う。
宝物の本を鞄に詰め込み、大切に持って家を出たこと。
お蔭で記憶を失くさずに済んだ、ピーターパンの本に詰まった記憶は。
顔がぼやけてしまった両親、けれど今でも覚えている。
この本をソファで読んでいた時、「もっといい所へ行けるよ」と教えてくれた父。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
父は自分を抱き上げてくれた、両腕で高く差し上げてくれた。
ピーターパンの本を持った幼い自分を、「ただいま、シロエ」と、高く、高く。
キッチンにいた母とも何度も話した、この大切な本を読みながら。
幾つも、幾つも、思い出の欠片。
幼かった自分が幸せな日々を、温かな日々を過ごしていた。
ピーターパンの本と一緒に、大好きだった父と母も一緒に、遠くなってしまった懐かしい家で。
失くさなかった、と両腕で強く胸に抱き締める、宝物の本を。
自分の記憶を繋ぎ止めてくれた、あの家の思い出が詰まった本を。
もう離さないと、離れないと。
二度とこの本を離しはすまいと、何処までも、いつまでも一緒だからと。
(…誰にも渡さないんだから…)
触らせだってしないんだから、とキッと睨んだ側に来た大人。
部屋はこちらだと案内しに来た、教育ステーションの職員の一人。
絶対に渡してたまるものかと。
もう絶対に騙されはしないと、成人検査の二の舞になってはならないと。
そうして案内された部屋。
一人に一つずつ、あてがわれた個室。
まるで馴染みの無い部屋だけれど、今日からは此処で暮らすしかない。
この部屋で生きてゆくしかない。
(…だけど、この本は持って来たから…)
大切な宝物の本。
思い出が幾つも詰まっている本。
この本を部屋に置いておいたら、もう一度築き直せるだろう。
何度も何度も読んでいたなら、記憶の欠片もいつか組み立て直せるだろう。
ネバーランドへ行こうと夢見た自分を、今も忘れていないから。
本をしっかりと抱え直したら、あの思い出が蘇るから。
何処かぼやけてしまっていても。
頼りなく、儚く消えそうなほどに、細く危うく揺らめいていても。
(此処がぼくの部屋…)
全く馴染みが無い部屋だけれど、また最初から作り直そう。
ピーターパンの本を繰り返し読んで、記憶の欠片を組み立ててゆこう。
気の遠くなるような作業だけれども、自分は皆と違うのだから。
機械が書き換えてしまった偽の記憶を、素直に信じはしないのだから。
(…負けてたまるもんか…)
二度と負けない、機械などには。
此処まで自分を乗せて着た船、あれで一緒に来た者のように機械の言いなりなどにはならない。
いつか必ず、何もかもきっと取り戻す。
父の記憶も母の記憶も、自分が育った家の記憶も。
此処まで持って来た大切な本が、きっと助けてくれるから。
宝物の本に詰まった思い出、それが自分の戦う力になるだろうから。
ぼくは負けない、と大切な本を部屋にあった勉強机に置いた。
多分、勉強机なのだと思える机。
記憶の彼方に微かに残った、自分のものとは違ったけれど。
両親と暮らした家で使った机とは違っていたけれど。
(今日からは、此処で暮らすんだから…)
そしていつかは、この本と一緒に全て取り戻して帰ってゆこう。
父と母とが住んでいる家へ、自分が育ったエネルゲイアへ。
その日まで、本を失くさないように。
誰かに盗られてしまわないように。
(…名前、書かなきゃ…)
ぼくの本だ、と初めて本に書き込んだ名前。
セキ・レイ・シロエと、ぼくのものだと、机に置かれていたペンで。
この本と一緒に、いつまでも、何処までも戦ってゆこう。
いつか記憶を取り戻す日まで。
懐かしい家に帰れる日まで。
ちゃんと名前を書いておいたから、もう大丈夫。
誰かに盗られてしまうことはなくて、自分一人だけの宝物。
セキ・レイ・シロエと、ペンできちんと書いたから。
きっといつかは、本を抱えて帰ってゆこう。
山ほどの思い出と記憶を抱えて、全部取り戻して帰ってゆこう。
大好きだった家へ。
父と母とが住んでいる家へ、ネバーランドへ、地球へ行こうと何度も夢を描いた家へ…。
名前を書いた本・了
※ピーターパンの本に書いてあったシロエの名前。文字がやたらと綺麗だったな、と。
子供の字にしては綺麗すぎです、それとも書道をやってましたか?