「あと、シナモンミルクも。マヌカ多めにね」
教育ステーションの朝の食堂、そう注文をしたシロエ。
トレイの上に置いてゆかれるトーストやサラダ。それに…。
最後にコトリとカップが一つ。シナモンの入ったホットミルク。
(…今日も言えた…)
覚えていた、と手に持ったトレイ。
空いた席はと、人の少ないスペースに向かう。
誰にも邪魔をされたくないから、朝食はいつも一人きりで。
声を掛けられても、無視するだけ。
(キースなら話は別だけれどね)
他の連中はお断りだ、と座った席。望み通りに一人のテーブル。
朝食のメニューは色々だけれど、その日の気分で変えるのだけれど。
まるで何かの呪文のように口にするのが、シナモンミルク。
「マヌカ多めに」と付け加えるのも忘れずに。
初めてこれを頼んだ時には、心が震えた。
「覚えていた」と。
やっと一つだけ取り戻せたと、二度と忘れてはならないと。
多分、自分が好きだったものの一つだから。
そうでなければ母のお勧め、もしくは父のお気に入り。
いずれにしたって、あの家にあった飲み物の一つ。
目覚めの日までの十四年間を過ごした、両親の家に。
雲海の星、アルテメシアの、エネルゲイアで暮らした家に。
今ではまるでピンと来ない星、ぼやけてしまったアルテメシアにエネルゲイア。
それと同じにぼやけた両親、どうしても思い出せない顔。
あの日を境に過去を失くした、宝物だったピーターパンの本を除いて。
持っては行けない筈の荷物を用意してまで、本だけは持って来られたけれど。
ステーションまで持ち込めたけれど、他の記憶は霞んでしまった。
(全部、消された…)
機械に都合のいいように。「忘れなさい」という冷たい声で。
落として失くしてしまった過去。
両親の顔や、暮らした家や。
取り戻したくて、何度も本のページをめくった、ピーターパンの。
何処かに欠片が落ちていないかと、手掛かりになりはしないかと。
そうやって懸命にもがいていた中、ある朝、空から降って来た欠片。
ステーションに空は無いけれど。
見上げても、宇宙があるだけだけれど。
けれども、それは本当に空から降って来たとしか思えなかった。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」。
朝の食堂、自分の前でそう注文をした候補生。
雷に打たれたような気がした、その瞬間に。
何かが身体を貫いていった、「自分はこれを何処かで聞いた」と。
シナモンミルクの方はともかく、「マヌカ多めに」とは何だろう?
分からないままに注文してみた、自分の番が来た時に。
さっきの候補生と同じ口調で、さも慣れた風に。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
口に出した途端、震えた身体。
全身の細胞が「これだ」と叫んだ、「自分はこれを知っていた」と。
シナモンミルクにはマヌカ多めに、これはそういうものだったのだ、と。
マヌカが何かは謎だけれども、自分は確かに知っていた筈。
逸る心を懸命に抑え、見ていた先。
係の女性が手に取った瓶で、蜂蜜だったと思い出した。マヌカは蜂蜜の名前だった、と。
もう間違いなく記憶の欠片で、かつて自分が持っていたもの。
嬉しさのあまり叫び出したくなるのを堪えて、やっと席まで運んだトレイ。
蜂蜜入りのホットミルクを、胸を高鳴らせて飲んでみた。
もっと記憶が戻らないかと、何か覚えていはしないかと。
(結局、あれっきりだけど…)
マヌカ多めのシナモンミルクは、少し癖のある優しい味で。
懐かしい味に思えたけれども、舌に記憶は戻らなかった。
機械に消されてしまった記憶は、そう簡単にはきっと戻って来ないのだろう。
幼い自分が飲んでいたのか、それとも父の気に入りだったか。
母がマヌカを「多めがいいのよ」と入れてくれたか、それすらも今は思い出せない。
ただ、あの家にあったというだけ、誰かがそれを好んでいただけ。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
その通りの言葉で言っていたのか、何処か違ったかは分からないけれど。
確かにあった、と思い出したから、忘れないように呪文を唱える。
朝の食事を頼む時には、「好物なんです」という顔をして。
「シナモンミルクも。マヌカ多めにね」と、きちんと自分らしい言い回しで。
今日も忘れてはいなかった。
魔法の呪文を、あの日、空から降って来てくれた、大切な記憶の欠片のことを。
ちゃんと頼めた、いつものように。
シナモンミルクを、マヌカ多めのホットミルクを。
(…キース、あなたには分かるわけがない)
この注文の意味も、どうして自分がこだわるのかも。
呪文を唱えるように頼む意味さえ、きっとキースには分からない。
だから、機会があったなら。
(キースだったら、一緒に食べてもいいんだけどね?)
過去の記憶を持っていないらしい機械の申し子、キースとならば。
彼が持たない過去というものを、自分は一つ取り戻したから。
そう、彼にならば自慢してみたい。
けして口には出さないけれども、優越感に浸ってみたい。
自分は思い出したから。機械に消された記憶の欠片を、今もこうして持っているから。
(シナモンミルク、マヌカ多めに…)
それを好んだのが誰だったのかは、未だに思い出せないけれど。
自分だったか、母なのか、父か、それすらも今は謎なのだけれど…。
マヌカの呪文・了
※「シナモンミルク、マヌカ多め」を耳にしてから8年経ったら、こうなったオチ。
あの時は「通だな」と思っていたのに、どう間違えたら「魔法の呪文」に…?