(ブラウニー…!)
今日はツイてる、とシロエの顔に浮かんだ笑み。
ステーションの食堂、ティータイムの趣味は無いのだけれど。
暇がある日は欠かさないチェック、どういう菓子が出されているか。
メニューにブラウニーがあればラッキー、これだけは食べていかなければ。
「ブラウニーと…。シナモンミルクも、マヌカ多めにね」
注文したら、渡されたトレイ。
それを手にして向かったテーブル、邪魔をされない隅っこがいい。
丁度いい具合に壁際に空席、今日は本当にツイている。
ストンと座って、早速頬張るブラウニー。
チョコレート味の小ぶりなケーキを、手づかみで。
これはそういう菓子だから。そうやって食べるケーキだから。
(ママのブラウニー…)
とっても美味しかったんだよ、と顔が綻ぶ。
此処のブラウニーはママのと同じ味だと、ママのケーキ、と。
成人検査で消されてしまった沢山の記憶。
ぼやけて霞んでしまった両親、けれどブラウニーの記憶は残った。
母が得意なケーキだったと、いつも出来るのが楽しみだったと。
そのブラウニーがメニューにあるのを発見した時、どれほど嬉しかっただろう。
どんなに心が弾んだだろうか、初めて注文してみた時は。
(ママの方がきっと上手なんだよ、って…)
そう思いつつも、心の何処かで願っていたのが母の味。
ブラウニーが得意だった母は自慢だけれども、あれと同じ味のが食べられたら、と。
料理上手な人がいたなら、同じ味かもしれないと。
(あんまり期待はしてなかったけど…)
マザー・イライザが支配しているステーション。
そんな所に母のような人がいるわけがないし、どうせ美味しくないのだろう。
やたらパサパサしているだとか、チョコレートの味が濃すぎるだとか。
そうだとばかり思っていたのに、食べてみたら同じだった味。
奇跡のように此処で出会えてしまった、懐かしい母のブラウニー。
あれ以来、ずっとチェックを欠かさない。
ブラウニーをメニューに見付けた時には、それを頼んで至福の時。
誰にも邪魔をされない席で。
手づかみで食べる小ぶりなケーキを、頬を緩めて。
今日も美味しい、と大満足だったブラウニー。
顔さえおぼろになった両親、けれども舌は忘れなかった。
母のブラウニーはこの味だったと、ステーションでも出会えた、と。
少し汚れてしまった手を拭き、空になったトレイを返しに行ったのだけれど。
途中で擦れ違った生徒のトレイに、ブラウニー。
さっきまで自分が食べていたケーキ。
そのせいだろうか、耳が捉えたその生徒の声。
並んで歩く友人に向けて言った言葉で、なんということもない言葉。
「美味いんだよな、ここのブラウニー。母さんのと同じ味なんだ」
えっ、と見開いてしまった瞳。
呆然と見送った、トレイを持った生徒。
彼の母もブラウニーが得意だったというのは、まだ分かるけれど。
(……同じ味……)
まさか、と信じられない気持ち。
どうして母のと同じ味のを、彼の母親が作るのだろう?
そんなにありふれたケーキだったろうか、母の得意のブラウニーは?
(誰でも作れて…)
同じ味になるとでも言うのだろうか、あの思い出のブラウニーは?
(ぼくだけの思い出の味なんだ、って…)
思っていたのに、違うかもしれないブラウニー。
それならばそれで、いいのだけれど。
ブラウニーが得意だった母親の子供は、誰でも「この味!」と思うのならば。
大切にしていたブラウニーの記憶。
自分だけだと思った偶然、ステーションで出会った母の味。
けれど、さっきの生徒もそうだと言ったから。
他にもきっといるに違いない、あのブラウニーが大好きな生徒。
(ぼく一人だけじゃなかったんだ…)
まるで特別な儀式のように味わっていたブラウニー。
もう一つの思い出、マヌカ多めのシナモンミルクとセットにして。
その思い出が揺らいだ気がして、ラッキーな気分も減ってしまった感じ。
他にも同じ儀式をしている生徒が何人もいるだなんて、と。
ガッカリしながら戻った部屋。
机の前に座って溜息を一つ、台無しになったラッキーデー。
せっかく母の思い出の味を食べたのに。
ブラウニーに出会えた日だったのに。
(本当に美味しかったんだけどな…)
ママのと同じ味のブラウニー、と頬杖をついて考えていたら、閃いたこと。
料理にも、お菓子作りにも…。
(レシピ…!)
それが同じなら、同じ味にもなるだろう。
さっきの生徒の母のレシピと、自分の母のが偶然にも同じだっただけ。
ついでに、ステーションのレシピも。
きっとそうだ、と救われた気分。
幸運にも同じレシピで作ったブラウニーに出会えた生徒が二人。
自分と、さっき見掛けた生徒。
(ステーションのは…)
レシピを調べられる筈、とアクセスしてみたデータベース。
其処で見付けた、ブラウニーのレシピ。
(ママもこうやって…)
作ったんだ、と懸命に記憶を掻き回すけれど。
後姿しか思い出せなくて、その手元までは分からない。
材料をどう混ぜていたのか、どうやって型に入れていたのか。
でも、これなんだ、と眺めたレシピ。
母の手元を思い浮かべながら、こんな感じ、と粉をふるって。
卵を溶いて、チョコレートを湯煎にして溶かして。
(ママが作っていたブラウニー…)
これを忘れずに覚えておきたい。
いっそ書き抜いて持っておこうか、ピーターパンの本に挟んで。
そしたら何処へ行くにも一緒で、いつか地球まで行った時にも同じ味のを食べられるだろう。
自分で作る機会はなくても、誰かに頼んで。
「この通りに作って」とレシピを渡して、母のと同じブラウニーを。
(それがいいよね…)
書いておくのが一番だから、とメモする紙を取り出したけれど。
はずみに指が滑ってしまって、どうスクロールしたのだか。
(……嘘……)
ズラリと並んだブラウニーのレシピ、それこそ画面を埋め尽くすほどに。
幾つも幾つも、得意とする人の数だけありそうなほどに。
ついでに其処に書かれていたこと。
ブラウニーの由来はハッキリしないと、アメリカ生まれだとも、イギリスだとも。
だからレシピも、「これだ」と決まったものなどは無いと。
(それじゃ、ステーションのブラウニーのレシピは…)
母のと偶然同じだったのか、それとも違うものなのか。
ゾクリと背筋に走った悪寒。
もしかしたら、違うのは自分の方かもしれない。
(マザー・イライザ…)
それに、記憶を消してしまった成人検査。
母の味だと思っていたのは、偽りの記憶だっただろうか。
ステーションに馴染みやすいようにと、機械がわざと作った仕掛け。
ブラウニーが得意な母の子供には、このステーションの味がそれだと思わせる。
さっきの生徒も、それに自分も、まんまと罠にかかっただけ。
本当は違う味のを食べていたのに、これがそうだと思い込まされて。
母の味だと勘違いをして、それは幸せな気分になって。
(……まさか、ママの味……)
違うのだろうか、あのブラウニーは母の味ではないのだろうか。
またしても自分は騙されたろうか、成人検査に引き摺り込まれた時と同じに…?
そんな、と涙が零れたけれど。
本物の母のブラウニーを食べられたら分かることなのだけれど、それは叶わないことだから。
いつか偉くなって、エネルゲイアに戻る日までは、どうすることも出来ないから。
(きっと、違うんだ…)
あれは本当にママのなんだ、と唇を噛んで言い聞かせる。
疑問を覚えた自分の心に、辛くても今は騙されておけ、と。
母の味だと考えておけと、ブラウニーが得意だった母がいたのだから、と。
もしも注文しなくなったら、それまで忘れそうだから。
母の美味しいブラウニーまで、それを作ってくれた母まで。
そうなれば機械の思う壺だから、今は我慢して騙されたふりを。
可能性はとても低いけれども、本当なのかもしれないから。
このステーションで食べるあのブラウニーは、母の味かもしれないから…。
ブラウニーの味・了
※シロエが夢に現れたジョミーに、「美味しいんだよ」と自慢したママのブラウニー。
幸せそうな顔で作る姿を見ていたっけね、と考えていたら…。ごめんね、シロエ。
「キース・アニアン。今回の件はよくやりました」
お蔭で被害は最小限に止まりました。これからの、あなたの活躍に期待します。
(マザー・イライザ…)
まさか褒められるとは、と嬉しいけれど。
少し複雑な気持ちもするな…、と思ったキース。自分の部屋で。
新入生を乗せていた船の衝突事故。
危うく区画ごとパージされる所だったのを、サムと二人で助けに行った。
そうして見事にやり遂げたけれど、それを褒められたのだけれども。
(…サムは呼ばれなかったんだ…)
サムには無かった、マザー・イライザのコール。
二人で救助活動をしたのに、サムがいたから自分は帰って来られたのに。
(マザー・イライザは…)
救助に向かった決断のみを買っているのだろうか。
それならば分かる、サムがコールをされなかったこと。称賛を受けなかったこと。
サムは自分を手伝ってくれただけだから。
「船外活動は得意なんだ」と、「しっかり食って、しっかり動く」と。
そう、サムは救助に向かおうと決めてはいない。決めた自分について来ただけ。
同行するなら誰にでも出来る、それがたまたまサムだっただけ。
だから評価はされることなく、サムは呼ばれなかったのだろう。
誰にでも出来ることだから。
「救助に向かう」と決断すること、行動を起こすことが重要。
自分はそれをやったけれども…。
サムには無かった称賛の言葉。マザー・イライザからの労い。
けれど、そのサムがいなかったならば、自分は生きて戻ってはいない。
パージの衝撃でぶつけたバーニア、壊れてしまった宇宙空間を移動するための装置。
あの時、サムが助けに来てくれなかったら、間違いなく死んでいただろう。
ステーションには戻れないまま、酸素切れになって。
(サムが助けてくれたから…)
こうして生きていられる自分。
しかも、自分を助けに来たサム。彼もまた命懸けだった筈。
(あの宇宙服のバーニアは…)
本来は一人用のもの。二人分の姿勢を制御できるとは限らない。移動の方も。
なのに、迷わず飛んで来たサム。
失敗したなら、サムも宇宙の藻屑になりかねなかったのに。
危うい回転をし続けていた自分の巻き添えになってしまって、回り続けて、酸素切れで。
一度勢いがついてしまったら、宇宙空間では止まれないから。
サムだけ慌てて逃げ出そうにも、手遅れということもあるのだから。
(…基礎の基礎なんだ、そういう知識は…)
無重力訓練の講義の最初に叩き込まれる。
サムが知らない筈は無いのに、迷うことさえしなかった。
死んでしまうかもしれないのに。…巻き添えになって、後悔しても遅いのに。
まさに命の恩人だったサム。命懸けで助けてくれたサム。
運よく二人で助かっただけで、下手をしたなら、彼もまた死んでいたろうに。
(ぼくだったら…)
出来たろうか、と自分に問い掛けてみる。
あの場面で立場が逆だったなら、と。
(…多分、直ぐには飛び出していない…)
戻り損ねたら無い命。
何処かに命綱を取り付け、それから宇宙へ飛び出したろう。
ただし、それでは間に合わないかもしれないけれど。
姿勢を制御できなくなったら、何のはずみで高速移動を始めてしまうか分からないから。
パージされた区画に引き摺られてゆくゴミの一つに、ぶつかったならば終わりだから。
弾き飛ばされてしまうだろう身体、アッと言う間に彼方へと消える。
恐らくサムもそれに気付いた。
だから即座に飛んで来た。…命綱など、つけることなく。
(何故、そこまで…)
出来たのだろう、と思った時に不意に頭に浮かんだ言葉。
(……友達……)
サムが教えてくれたと言っていい言葉、そして自分はサムの「友達」。
それで来たのか、と思い至った。
サムは自分の友達だから。
きっと「友達」というものは、そう。
命を預けたり、命懸けで一緒に行動したりと、強い絆を持つのだろう。
自分が礼を言った時にも、サムは笑っていただけだから。
「いやあ、しっかり食って、しっかり動く。それだけさ」と。
本当に命を懸けてくれたのに、恩着せがましいことも言わずに。
それが「友達」なのだろう。
互いに信頼し合っているから、迷わずに懸けられる命。
同じに預けられる命で、「友達」だからこそ出来る行動。
なるほど、と納得出来たこと。
サムだからだ、と。
(命綱を確保、と思うようなぼくは…)
まだまだ友達と呼べないのだろう、真の意味では。
サムは友達だと言ってくれても、あそこで迷わず行動出来はしなかったから。
(しかし、今なら…)
迷わずに出来る、サムを助けに飛び出して行ける。
やっと「友達」になれたのだろう、命懸けで来てくれたサムのお蔭で。
そうするべきだ、とサムに教えて貰ったから。
(友達か…)
なんという奥の深い言葉か、と改めて思い知らされた。
命も惜しまず、共に行動出来る相手が友達。
迷わず命を懸けることが出来て、命を預けられるのが真の友達。
(命綱を確保しているようでは…)
駄目なのだな、と自分自身を叱咤した。
そんな腰抜けでは、「友達」が逃げてゆくだろうから。
サムのお蔭でやっと分かった、と深く頷いた「友達」という言葉だけれど。
自分もサムの真の友達になれそうだ、と嬉しくなったのだけれど。
「はあ…? 命懸けって、お前…」
ポカンと口を開いたサム。
二人で食事をしていた席で。
「いや、だから…。あの時、サムが来てくれたのは、友達だからだろう?」
命綱無しで、あんな頼りないバーニアだけで、と続けたら。
「そりゃまあ…。そうかもしれねえけどよ。俺って、考えなしだから…」
先に身体が動いちまった、命綱なんか忘れちまっていたよ。
こりゃあ成績下がりそうだな、と笑ったサム。
基礎の基礎だってえのによ、と困ったように頭を掻いて。
どおりでマザー・イライザに褒めて貰えなかったわけだと、こんなウッカリ者では、と。
失敗したぜ、と笑い続けて、それからサムは笑顔で言った。
「あのさ…。そんな大袈裟なモンじゃねえんだよ、友達ってのは」
命懸けだとか、預けるだとか…。
そんなんじゃ命が幾つあっても足りやしねえぜ、とポンと叩かれた肩。
「こうして一緒に飯とか食えれば充分なんだよ」と、「友達ってのは、そういうモンさ」と。
「…そうなのか?」
「そう、そう! だから、お前はしっかり考えてから動いてくれよ?」
間違えたって命綱無しで来ちゃいけねえぜ、とサムは注意をしてくれたけれど。
サムの命が危うい時でも、自分の安全を優先するよう、釘を刺されてしまったけれど。
(…でも、ぼくも行こう)
もしも、そういう時が来たなら、命綱は無しで。
命綱など考える前に、友達の命を最優先で。
それが本当の友達なのだと、サムから教えられたから。
サムは「違う」と言うだろうけれど、それが真実だろうから。
命を預けられる相手が真の友達、命懸けで助けに行くのが真の友達。
そういう友を持って初めて、一人前の人間だろうと思うから。
そうありたいと今は思っているから、その時は自分も、命綱は無しで…。
本当の友・了
※あの事故、サムが一緒に行かなかったら、キースは本当におしまいだった筈なんですが…。
サムが行ったのもマザー・イライザのプログラムだったら、ブチ切れちゃってもいいですか?
「結婚なんて言ったって、所詮、ただの逃げ。挫折でしょ?」
あるのはせいぜい、慰めだけ。
そう言って悪ければ…、心の平穏かな。
キースに投げ付けた自分の言葉。
結婚するために教育ステーションを去った、スウェナの船を見送った後で。
キースとサムが其処にいたから、ぶつけてやった正直な思い。
本当にそう思っていたから、心の底から。
去って行ったスウェナは負け犬なのだと、自分はそうはなりはしないと。
あんな人間と付き合っていたキース、彼の程度も知れたものだと。
「ぼくの敵じゃあ…なかったかな?」と皮肉な笑みを浮かべてやった。
お前なんかに負けはしないと、自分の方が上なのだと。
下級生の今は、まだまだ敵わないけれど。
キースが築いたステーション始まって以来の秀才の地位は、まだ覆せはしないのだけれど。
自分が卒業するまでは。
四年間の教育課程の全てを終えて、キースの記録を塗り替えるまでは。
結婚して去ってゆく者は敗者、せせら笑って部屋に戻ったシロエだけれど。
逃げでしかないと、エリートにもなれない負け犬なのだと、スウェナを思い浮かべたけれど。
(…あの宇宙船…)
遠ざかり、青い光の点になって消えていった船。
スウェナと、彼女の未来の夫を乗せていた船。
あの宇宙船は何処へ行くのだろうか、幾つもあると聞いた一般人向けの教育ステーション。
(まさか…)
宇宙港の技師をしている男だと聞いた、スウェナの相手。
そういう男と結婚するなら、技術系の人間が暮らす育英都市が向いているのだろう。
いつか二人が一般人として養父母になるなら、きっとそういう都市に行く。
(…エネルゲイア…)
自分の故郷もその一つだった、技術系のエキスパートを育てるための育英都市。
ならばスウェナを乗せた宇宙船は…。
(パパとママがいた教育ステーション…)
其処へと向かって行ったのだろうか、何も聞いてはいないけれども。
あの船が直接向かわなくても、二人は乗り換えて行くのだろうか。
今では顔も思い出せない両親、あの優しかった二人が出会った場所へ。
結婚しようと決めた所へ、そういう教育ステーションへと。
(…そんな…)
もしもスウェナが、スウェナの相手が、其処へ向かって行ったなら。
ステーションでの教育課程を終えた後には、エネルゲイアへ行くかもしれない。
自分が育った、懐かしい町へ。
すっかり記憶が薄れてしまった、曖昧になった故郷へと。
(挫折したくせに…)
メンバーズの道を諦めたくせに、途中で投げ出してしまったくせに。
慰めどころか、スウェナは本物のエネルゲイアを手に入れる。
それこそ心の平穏そのもの、自分にとっては何と引き換えにしてでも帰りたい場所。
其処にスウェナは帰ってゆくのか、自分の代わりに。
宇宙港の技師と結婚するから、その結果として。
自分のようにエネルゲイアが出身地の子供、そういう子供を育てるために。
(…たった四年で…)
もしかしたら、もっと短いかもしれない。
スウェナは卒業間近だったし、結婚相手は既に何処かを卒業している男だから。
四年も勉強しないでも済んで、ほんの二年か三年ほどで養父母になるのかもしれない。
(そうでなくても…)
たった四年でエネルゲイアに行けそうなスウェナ。
卒業した後の配属先が、エネルゲイアになったなら。
其処へ行くよう、ステーションのマザーが命じたならば。
負け犬だとばかり思ったスウェナ。
挫折なのだと思った結婚。
けれども、それは間違いだろうか、そんなにも早くエネルゲイアに行けるなら。
行ける可能性が高いのだったら、スウェナがいつか手に入れるものは…。
(…ぼくが帰りたくても帰れない場所…)
育った家が何処にあったかも忘れてしまって、戻れない場所。
記憶を失くしてしまった場所。
其処にいたという実感さえも薄れたけれども、もしもその場所に立てたなら…。
(思い出すかも…)
どう歩いたら、両親の家へ行けるのか。
懐かしい家の扉を叩いて、もう一度両親に会えるのか。
スウェナの代わりに、自分が其処に立ったなら。
故郷の土を踏めたとしたら。
(…たった四年で行けるんだ…)
あるいはもっと短い期間で、エネルゲイアへ。
機械が行き先に選びさえすれば、スウェナは其処へと辿り着く。
どんなに遅くても、自分が此処を卒業する頃、スウェナはエネルゲイアに着く。
自分は行けはしないのに。
行きたいと願い続けたところで、どうにもなりはしないのに。
エリート候補生の道に入った時点で、遠くなった故郷。
恐らく地球のトップに立つまで、チャンスは巡って来ないだろうに。
なんてことだ、と愕然として、それから思い浮かべた両親。
今は顔さえぼやけてしまって、どんな顔だか分からないけれど。
多分、マザー・イライザに似ている母。
そして大きな身体だった父。
(パパもママも…)
スウェナが行くだろう教育ステーションで出会った筈。
父は技術系のエキスパートだったけれども、母と結婚していたのだから。
独身のままでいてもいいのに、養父の道を選んだ父。
(…パパもそうだった…?)
何処かで母とバッタリ出会って、恋をして、勉強し直して。
ひょっとしたら母もそうかもしれない、コースを途中で変更して。
スウェナがその道を選んだように、卒業間近で別の道へと。
(…そういうことも…)
無いとは言えない、養父母としては年配だった両親。
自分は何人目かの子供だろうけれど、スタート自体が遅いかもしれない。
最初から一般人向けのコースに入った者よりも。
途中で進路変更したなら、スウェナのような道を歩んだのなら。
(挫折で、逃げで…)
自分はキースにそう言ったけれど、本当に結婚は挫折だろうか。
本当にただの逃げなのだろうか、スウェナが選んだあの道は。
ステーションから遠くへ去って行った船、あの船がスウェナを連れてゆく道は。
(…ママみたいに優しいお母さんになって…)
子供を愛して育てるのならば、それは挫折と言うのだろうか?
逃げたと言ってもいいのだろうか、両親が辿って来たかもしれない道を。
何処かで出会って、恋をして、進路を二人して変えて。
その先で自分を育てたのなら、それでも挫折で逃げなのだろうか…?
(ママは挫折なんか…)
していないと思う、優しかった父も。
二人とも自分の自慢の両親、今では顔も忘れていても。
育てられたことは忘れていないし、温かい手だって覚えている。
どんなに機械が消していっても、おぼろげなものになってしまっても。
いつか二人に会いに行きたいし、あの家に帰り着くのが夢。
その両親が負け犬だなんて、もしも誰かが口にしたなら…。
(ぼくはきっと…)
酷く怒って罵るのだろう、それを言った者を。
言葉だけではとても済まなくて、拳を振り上げるかもしれない。
殴り飛ばして、掴み掛かって、声の限りに怒鳴るのだろう。
「お前なんかに何が分かる」と、「ぼくのパパとママを馬鹿にするな」と。
最高の両親だったから。
今も誰よりも愛しているから、きっと自分は許さない。
両親を馬鹿にした者を。…負け犬なのだと言い捨てた者を。
(結婚なんて…)
ただの逃げだ、と思うけれども、それも機械の仕業だろうか。
本当はメンバーズよりも素晴らしい道で、両親はそれを歩いただろうか。
(…パパ、ママ…)
どうだったの、と訊きたいけれども、今は会うことも出来ない両親。
スウェナの方が先に会うのだろう、街の何処かですれ違って。
同じ建物に住むかもしれない、隣の住人になることだって。
(…逃げじゃなかった…?)
挫折したわけではなかっただろうか、このステーションを去ったスウェナは。
両親と同じ場所に行くなら、同じ道を選んで行ったのならば。
(分からないよ、ママ…)
パパ、と心で呼び掛けるけれど、返らない答え。
それに自分はきっと行けない、スウェナが歩いて行った道へは。
エネルゲイアへの近道なのだと分かっていても。
それを選べば、と気付いていても。
(…待ってて、パパ、ママ…)
いつか必ず会いに行くから、と零れた涙。
その時はぼくに教えて、と。
何処で出会って、どうして養父母になったのか。
その道は幸せな道だったのかを、自分を育てて幸せだったかを。
(…きっと幸せに決まってる…)
そういう答えが返るだろうから、自分の心が憎らしい。
結婚なんてただの逃げだと、挫折だと思う、この考えが。
その道を行けないらしい自分が、きっと行けないだろう自分が。
パパもママも最高だったのに、と溢れ出す涙が止まらない。
ぼくは何処かで間違えたろうかと、どうしてこうなってしまったのかと…。
選べない道・了
※「結婚なんて…」と馬鹿にしたシロエ。原作シロエも同じでしたけど、甘めなアニテラ。
あのシロエなら、後でドツボにはまりそうだな、と…。こういうのを自業自得と言うかも?
「え…? コーヒーがお好きなんですか?」
その時、自覚は無かったけれども、きっと輝いていたのだろう。
キースと共に向かった宙港、其処で出会った老人に向けたマツカの瞳は。
「少し外す」と出て行ったキースは、まだ戻らない。
何か急用でも出来たというのか、あるいは誰かに呼び出されたか。
一人ポツンと待っていた自分は、所在なげに見えていたのだろうか。
それとも心細そうだったか、声を掛けて来てくれた老人が一人。
国家騎士団の退役軍人、今は悠々自適の日々を送っているという。
あちこちの星へ、ふらりと旅して。
「君もコーヒーが好きなのかね?」
そう問われたから、頷いた。
この老人は、どうやら無類のコーヒー好きのようだから。
誰かにそれを話したいような、そんな気配がしてくるから。
彼の心を読まずとも。
「コーヒー」と口にする時の瞳、それに表情。
きっとコーヒーをこよなく愛して、あれこれと飲んで来ただろうから。
コーヒーと言えば、直ぐに頭に浮かぶのがキース。
何度聞いただろう、「コーヒーを頼む」という彼の言葉を。
その度に用意するのだけれども、感想を聞いたことなどは無い。
「美味い」とも、「これは不味い」とも。
淹れ直して来いとも、「これでいい」とも。
けれども、分かるものだから。
コーヒーを好んで飲んでいることも、それを傾ける時が好きだとも分かるから。
いつしか心を砕くようになった、「もっと美味しいコーヒーを」と。
それを飲む時のキースの表情、ほんの少しだけ和らぐ空気。
心を澄ましていたならば分かる、どの一杯が美味しかったのか。
キースが好む味はどれかと、好む熱さはどのくらいかと。
気付けば、すっかりコーヒーの虜。
自分はさほど好きでもないのに、より美味しくと重ねた努力。
キースが美味しく飲めるようにと、この一杯が役に立つのなら、と。
彼がその背に負っているもの、その荷を下ろすほんの一瞬。
直ぐにキースは背負い直すけれど、憩いのための僅かな時間。
それを作るのがコーヒーならばと、これで休んで貰えるなら、と。
だから、老人の話に輝いた瞳。
耳寄りな話が聞けるのではと、この老人はコーヒーが自慢のようだから。
「コーヒーはね…。美味しく淹れるにはネルドリップが一番だね、うん」
知っているかい、と訊かれて「はい」と答えたら。
「どのくらいの量を淹れるのかね」という問いが返った。
何人分を用意するのかと、一度に淹れるのはどのくらいかと。
「えっと…。ぼくが淹れるのは一人分ですから…」
そんなに沢山は淹れませんけど、とキースが出掛けた方へと自然に向いた目。
冷めたコーヒーなどは美味しくないから、いつもキースが飲む分だけ。
「なるほどねえ…。それも悪くはないのだけどね」
美味しく淹れるには、十人分は淹れないとね、と笑った老人。
贅沢だけれど、それに限ると。
「十人分…ですか?」
「そうだよ。さっきの彼が君の上官だね」
キース・アニアン上級大佐。知っているよ。
もちろん、彼を知らないようでは、今どき話にならないんだが…。
一人分を淹れていると言うなら、彼のために淹れているんだろう?
覚えておくといいよ、十人分だ。
余ったコーヒーは、他の部下にでもくれてやるといい。
大佐からだ、と勿体をつけて淹れてやったら、冷めたヤツでも喜ぶだろうさ。
そして老人は教えてくれた。
十人分を淹れるだけでは、まだ足りないと。
秘訣は、ネルドリップに使う生地。
十人分だから生地もたっぷり必要だけれど、一度目に淹れたコーヒーは捨てる。
生地の匂いがしみているから、勿体ないなどと思わずに。
勿体ないと思うのだったら、それこそ部下に飲ませるといい、と。
「それからね…。その生地を直ぐに使っては駄目だ」
お湯で煮るんだよ、二十分ほど。
ぐらぐらと煮立てて、お湯がすっかりコーヒーの色になるくらいまで。
生地にしみていた分のコーヒーだからね、それほど濃くはならないんだが…。
コーヒーの色だな、と思う筈だよ。やってみたなら。
その生地をしっかり絞って、乾かす。
これで出来上がりだ、ネルドリップのための用意はね。
そういう生地を準備したなら、今度こそ本当に十人分のコーヒーだ。
惜しみなく淹れて、最高の一杯を彼に運んで行くといい。
きっと美味しい筈だから。
…とはいえ、相手が彼ではねえ…。
多分、感想は聞けないだろうと思うがね。
試してみたまえ、と教えて貰ったコーヒー。
老人の名前を尋ねたけれども、「名乗るほどでもないよ」と微笑んだ彼。
「キース・アニアンに、私のコーヒーを飲んで貰えるだけでも嬉しいね」と。
光栄だよと、コーヒー党の軍人冥利に尽きるねと。
そうして、彼は「それじゃ」と悠然と歩き去って行った。
自分の乗る便が出るようだから、と。
入れ替わるように戻って来たキース。
「待たせた」とも何も言わないけれども、もう慣れている。
こういう時には、どうすればいいか。
「まだ、少し時間があるようです。…コーヒーを取って来ましょうか」
「そうだな、頼む」
ただ、それだけしか言われないけれど。
こんな宙港で出て来るコーヒー、そんなものでも、キースは何も言わないけれど。
(…美味しいコーヒーの方がいいですよね?)
きっと、と思うものだから。
この旅が済んで戻った時には、あのコーヒーを淹れてみようか。
さっきの老人に教わったコーヒー、ネルドリップで十人分だというものを。
それだけ淹れるのがコツだというのを。
(…セルジュやパスカルが困るでしょうけど…)
大佐からのコーヒーですから、冷めていたっていいですよね、とクスリと笑う。
キースが背負っている重荷。
それは誰にも背負えないから、代われる者などいはしないから。
せめて荷を下ろす間のほんのひと時、それを作れるコーヒーを淹れてみたいと思う。
感想などは聞けなくても。
「美味いな」と言って貰えなくても。
きっとキースが纏う空気で、ほんの微かな息だけで分かるだろうから。
「美味い」と思って貰えたのなら、もうそれだけで充分だから。
ネルドリップで十人分、と頭の中でコツを繰り返す。
秘訣は生地を煮ることだったと、二十分ほど煮て乾かして…、と。
最初のコーヒーは捨てるのだったと、勿体ないなら部下に飲ませろと言っていたな、と。
(…すみません、セルジュ…)
皆さんで手伝って下さいね、と思い浮かべるキースの部下たち。
美味しいコーヒーを淹れるためですからと、それにキースからのコーヒーですよ、と…。
習ったコーヒー・了
※マツカが退役軍人の老人に習ったコーヒー。実は管理人が習ったんです、つい先日。
この話じゃないけど、名前も聞けなかったご老人に。…ネタにしちゃってスミマセン…。
「付き合っている人間を見れば、その人間の程度が分かる」
あんな人と行動を共にしていたようじゃ、あなたも大したことないのかも…。
ぼくの敵じゃあ……なかったかな?
フッ、と皮肉に笑ったシロエ。
その顔が、声が頭から消えてくれない。…何故、と自分に問い掛けても。
(分からない…。スウェナの気持ちも、サムの気持ちも)
ちゃんと分かっているつもりなのに、とキースが噛んだ自分の唇。
いっそシロエの言葉通りに、切り捨てられたら楽なのだろうに。
スウェナは「あんな人」だったから、結婚して去って行ったのだと。
エリートコースを自ら外れるような人間、ただ挫折しただけなのだと。
(だが、スウェナは…)
挫折するような心の弱い人間ではない、それだけは確か。
芯が強くて意志も強くて、勝ち気で、それに男勝りで。
高く評価をしていたからこそ、友だと思っていたスウェナ。
なのに、彼女に投げ付けられた言葉。
「あなたには、分かってなんか貰えないわよね」と。
サムもスウェナと同じに怒った、「スウェナの気持ち、お前には分かんねえのかよ!」と。
肩を震わせて憤っていたサム。
「この間は言い過ぎた」と今日、謝ってくれたけれども。
スウェナを乗せてステーションを離れてゆく船、それを二人で見送った時に。
同郷だったスウェナが、思い出そのものだったかのように語ったサム。
微かに残った故郷の記憶が、スウェナと一緒に消えてゆくような気がすると。
(…記憶は、やはり大切なのか…)
自分は持たない、故郷や幼馴染の記憶。
何かが欠けているような気持ちが、胸をチクリと刺した瞬間。
…飛び込んで来たのがシロエの言葉。
「結婚なんて所詮、ただの逃げ」と、「挫折でしょ」と。
まるでスウェナを侮辱するように。
あからさまな挑発、それに乗りかけたサムを制したら、ぶつけられた嘲笑。
「ぼくの敵じゃあ、なかったかな?」と。
シロエが自分を敵視しようが、それまでは無視していられたけれど。
あまりに悪すぎた、あのタイミング。
自分の心が揺れていた時に、余裕の笑みを浮かべたシロエ。
「あんな人」とスウェナを評価して。
スウェナと直接話したことさえ無いのだろうに、見下し、馬鹿にし切った声で。
(…あいつには分かるとでも言うのか?)
自分には分からない、スウェナの気持ちが。
スウェナが「結婚する」と打ち明けるよりも前に、「あなたの彼女は?」と訊いて来たシロエ。
「機械の申し子だから分からないのかな」とも言われた、同じ時に。
ならばシロエには分かるのだろうか、スウェナの、それにサムの気持ちが。
「あんな人」とスウェナを嘲笑うくせに、心は分かると言うのだろうか。
だとしたら、シロエの方が上。
人の心を知るというのも、エリートには必須の能力だから。
相手の気持ちを推し量ることも出来ないようでは、部下など持てはしないのだから。
(…ただの部下なら持てるだろうが…)
優秀な者はついては来ない、と何の講義で聞いたのだったか。
エリートたる者、部下の心を掴めなければ、けして昇進出来はしないと。
自分を補佐する有能な部下を使いこなすのも、メンバーズの出世の条件なのだと。
ならば自分はエリート失格、スウェナの気持ちも、サムの気持ちも分からないから。
シロエには分かるらしいのに。
…遥かに年下の候補生でも、ちゃんと分かっているらしいのに。
その日から乱れ始めた心。
夜には早速、マザー・イライザが部屋に現れた。
「何か悩み事でもあるのですか?」と。
コールよりかはマシだけれども、その前段階とも言える出現。
自分の脳波はそんなに乱れていたのだろうか、と愕然とさせられたイライザの姿。
(…落ち着かないと…)
でないと本当にエリート失格、自分の心も上手くコントロール出来ないようでは。
シロエが言った通りの結末、「ぼくの敵じゃあ、なかったかな?」と。
本当に全てシロエに抜かれる、ステーションでの成績や評価。
先に卒業してゆく自分は、その時点でのトップだったということになってしまうだけ。
シロエが卒業するよりも前に、教官たちは挙って彼を称え始めることだろう。
「ステーション始まって以来の秀才」と、「マザー・イライザの申し子のようだ」と。
そしてシロエは勝ち誇るだろう、いくらシステムを嫌っていても。
反抗的だと言われていようが、要注意人物とされていようが、優秀ならば許されるから。
現に自分も、システムの全てを信頼してはいないから。
(…シロエに抜かれる…)
もしも自分が、乱れた心のままならば。
スウェナの、サムの気持ちが分からず、シロエに劣るようならば。
これではシロエの思う壺だ、と自分でも分かっているのだけれど。
どうにも抑えられない苦しさ、解けないままで抱えた難問。
スウェナは、サムは、何を思って、どう考えて自分を詰ったのか。
何をどうやったら、自分はそれを読み解けるのか。
分からないから、駆け巡る疑問。それに引き摺られて乱れる心。
抑え切れない自分の感情、けして表には出さないけれど。
(…どうして、シロエにも分かるような事が…)
自分には全く分からないのか、自分には何が足りないのか。
知識か、それとも自分は持たない過去の記憶が鍵なのか。
記憶だったら手も足も出ない、自分は持っていないのだから。
過去に戻って取り戻そうにも、タイムマシンと呼ばれる機械はまだ無いのだから。
(タイムマシンか…)
何処で知ったか、お伽話のような機械の名前を。
本で読んだか、サムに聞いたか、小耳に挟んだ言葉を自分で調べたか。
それがあったら乗って行きたい、自分が忘れた過去を探しに。
落としてしまった大切な鍵を、解けない疑問を解くための小さな鍵を拾いに。
タイムマシンがあったなら、と思ったはずみに浮かんだ気晴らし。
何か本でも読めばいい。
まだ読んだことのない本を何か、勉強ではなくて娯楽用の本。
そんな本など、自分から読みはしないから。読みたいと思うことも無いから。
(適当に…)
ステーションで人気の作品でも、と部屋からアクセスしたライブラリー。
一番人気の一冊がいいと、それでも読めば気分が変わると。
タイトルさえも確認しないで、表示された文字を追い始めて。
非現実の世界に入り込んでいたら、主人公の少女がこう言った。
「可哀相な人。…自分の尺度でしか物事を測れないのね」と。
その瞬間に引き戻されてしまった現実。
図らずも、現実にはいない少女に言い当てられた、自分の現状。
(…自分の尺度でしか…)
それが真実なのだろう。
自分の尺度で測っているから、スウェナの、サムの心が見えない。
シロエでさえも、自分の尺度と違う尺度で測れるのに。
器用にやってのけているのに、それが出来ない劣った自分。
マザー・イライザは何も言っては来ないけれども、薄々気付いているかもしれない。
自分よりもシロエの方が上だと、言動はともかく能力では、と。
(どうすれば…)
測れるというのか、別の物差しで。自分の尺度以外のもので。
それが分かれば苦労はしない。
非現実の世界の少女さえもが、サラリとそれを言ったのに。
驚いたはずみに消してしまって、本のタイトルも分からないけれど。
疑問は解けずに、抱え込んだまま。
違う物差しは見付からないまま、気晴らしの本もウッカリ読めない。
迂闊に読んだら、別の言葉で心を抉られそうだから。
たまたま選んだ一冊でさえも、主人公の少女に憐れまれたから。
(分からないままでシロエに負けるのか…?)
いつか追い抜かれてしまうのだろうか、ステーションでの成績を。
メンバーズになったシロエが自分を使うのだろうか、より重要なポストに就いて。
(そんな馬鹿な…!)
有り得ない、と思うけれども、日毎に大きくなってゆく焦り。
明らかに落ち着きを失った自分、幸い、誰も気付かないけれど。
今の所はまだ表れていない影響、けれどもいずれ出始めるだろう。
このまま心が乱れ続けたら、落ち着かない日々が続いたら。
(…心理的ストレス…)
それだ、と自分で下した診断。
ならば解消すればいい。
あの日は本を選んだばかりに、失敗して酷くなっただけ。
もっと自信を持てそうなもので、気晴らしが出来ることといったら…。
(何があるんだ…?)
気晴らしなどに馴染みが無いから、調べてみたら「ゲーム」という文字。
(レクリエーション・ルームか…!)
あそこへ行けば、と思い出した場所。
確かエレクトリック・アーチェリーのゲームがあった筈。
明日にでも行こう、ゲームではなくて訓練でやって、好成績を出したことがあるから。
的を射抜いたら、爽快な気分になれるから。
(あのゲームがいい…)
それにしよう、と決めた気晴らし。
きっと心が晴れるだろう。
幾つもの的を射抜いていったら、ゲームに夢中になったなら。
(考えても分からないことも…)
解けるかもしれない、無心に的を射抜いていたなら、思わぬヒントが降って来て。
皆が興じるゲームをしたなら、違う物差しが見えて来て。
そうなればいいと、自信を取り戻して強くあろうと、部屋で構えを取ってみる。
こう引き絞って、こう放って、と。
的に向かって飛んでゆく矢を、わだかまる疑問を打ち砕く一矢を思い描きながら…。
解けない疑問・了
※なんだってキースがゲームなんかをやっていたんだ、と考えていたらこうなったオチ。
ストレス解消、なのにシロエがノコノコと…。そりゃあ勝負を始めるよね、と。