「取材なら、軍の広報を通してくれ」
無関心にそう言い捨てたキース。
久しぶりに見たスウェナだけれども、特に関心は無かったから。
「この花、覚えてる?」と訊かれた花にも。
「E-1077の中庭にも咲いていたわ」と言われた所で、もう昔のこと。
サムでさえも何処かに行ってしまった。
姿は昔と同じにサムでも、「キース」を覚えていたサムは。友達だったサムは。
だからスウェナと話すことは無い。
まして彼女が知りたい内容、ジルベスター星系の事故調査となれば任務だから。
Mと関係があるかもしれない、国家機密を明かせはしない。
無駄な話をするつもりも無い、つまらない思い出話など。
けれど…。
「ピーターパン」
スウェナがいきなり口にした言葉、それがキースの足を縫い止めた。
遠い昔にシロエが語った、その本の中身そのままに。
シロエが乗った練習艇を追っていた時、通信回線を通して聞こえて来た声。
ピーターパンの本に書かれていること、それをシロエは語り続けていた。
「影がくっつかないよ」と泣いたピーター、「私が影を縫ってあげる」という言葉。
まるで時の彼方から戻ったかのように、影の代わりに足を縫われた。
「ピーターパン」と聞いた途端に。
縫い止められて立ったままの背中、振り返れないでいたらスウェナは続けた。
「あなた宛のメッセージが発見されたわ」
…そう、セキ・レイ・シロエのものよ。サムの事故には、私の追っている…。
白い宇宙鯨が関わっている、とスウェナが前へと回り込んだけれど、どうでも良かった。
そんな話は。
問題はシロエ、彼の名前とメッセージ。
スウェナは「今度会えたら、そのメッセージを渡せるんだけど」と見詰めて来たから。
「戻ったら連絡しよう」
迷うことなく、そう応えた。
シロエが残したメッセージならば、どうしても見ておきたいから。
そう思ったから、「その時は二人だけの同窓会でもしましょ」と言ったスウェナを見送った。
(…変わったのは君の方だ。…スウェナ)
渡された花を手に持ったままで、心の中で呟いたけれど。
強くなったと思ったけれども、それもどうでもかまわないこと。
手の中の花も、今では何の意味も持たない。
同じ花でも、この白い花は病院の花。
違う所で咲いた花。
花を頼りにE-1077に戻れはしないし、サムの心も昔に戻りはしないだろうから。
見上げれば、病室から手を振るサム。
「キース」だとは分かってくれないのに。
サムは笑顔を向けるけれども、それは「関心を持ってくれた人間」だから。
(…何もかもが…)
変わってしまったんだ、と地面に投げ捨てた花。
持っていたって、何の役にも立たないから。
車の運転の邪魔になるだけ、それだけの存在に過ぎないから。
そうして走り出して間もなく、気付いたこと。
(…シロエ…!)
その瞬間に踏んだブレーキ、後ろの車が憤るように鳴らしたクラクション。
メンバーズ・エリートらしくもないミス、慌てて路肩に車を寄せた。
こんな所で事故を起こすなど、軍に迷惑をかけるだけ。
けれども今は運転出来ない、そう思ったから停めようと決めた。
激しく脈を打つ心臓。
E-1077に、それからシロエ。
(…誰も覚えていない筈なんだ…)
あのステーションに、セキ・レイ・シロエがいたことを。
ステーションの運営に関わる者ならともかく、生徒だった者は。
シロエと同じ時期に其処に居た者、彼らの記憶は消されたから。
(…マザー・イライザ…)
記憶を消させたマザー・イライザ、皆がシロエを忘れてしまった。
サムも、シロエの同級生たちも。
誰もが忘れてしまったシロエ。
彼の船を撃った自分以外は、一人残らず。
マザー・イライザの計算の下に奪われた記憶、それは戻りはしないだろう。
サムのようにでもならない限り。
今は子供に戻ったサム。
あんな具合に、シロエのいた時代に心だけが戻れば、有り得るけれど。
(だが、それは…)
精神状態が普通ではないということ。
年相応の話はまるで出来ない、ただの子供になるということ。
候補生時代を「子供」と呼ぶかどうかは、ともかくとして。
(……スウェナ……)
けれど、スウェナは覚えていた。
E-1077の中庭に咲いていた花を。
ステーションにいたセキ・レイ・シロエを、あの頃のままに。
そしてそのまま成長を遂げて、自分の前に戻って来た。
「ピーターパン」と。
シロエが残したメッセージを持って、普通に会話が出来る者として。
(……システムの誤算……)
それに違いない、マザー・イライザの手から離れたスウェナ。
ステーションから出て行った時は、結婚という道を選んでいたから、記憶はそのまま。
何も処理されずに旅立って行った、セキ・レイ・シロエを覚えたままで。
(本当だったら…)
スウェナは子供の母親になって、それきり消えていただろう。
シロエの記憶を持っていたって、単なる知り合い程度のこと。
「昔、そういう人間がいた」と思い出しても、その時限りで消えてゆくもの。
その後のシロエを追いはしなくて、無関心に記憶の淵に沈むもの。
(しかし、スウェナは…)
ジャーナリストの道を選んで、離婚してまで今の世界を追っている。
宇宙鯨を、モビー・ディックを。
Mの母船がそれの正体だと、スウェナが知っているわけがない。
ミュウの存在も、Mとは何を指すのかも。
なのに、核心に迫りつつある、ジャーナリストの勘だけで。
其処に何かが隠されていると、モビー・ディックが鍵なのだと。
スウェナが此処まで辿り着いたなら、そしてシロエを覚えているなら。
メッセージまで持っていると言うなら…。
(…神がシロエに…)
味方したのか、忘れ去られてしまわぬように。
どんな形かは分からないけれど、彼のメッセージが届くようにと。
本当だったら、それは残りはしないのに。
ステーションの中で処理されているか、何処かに廃棄されて終わりか。
(それが残ったのも…)
残ってスウェナの手に渡ったのも、神の采配なのだろう。
スウェナがモビー・ディックを追っていたから、全ての糸が繋がった。
たった一人だけ、シロエを覚えていた人間。
それがスウェナで、彼女は何故だか、モビー・ディックを追い始めたから。
離婚してまで、ジャーナリストになったから。
(……こんなことが……)
この世にあるのか、と心臓は今も激しく脈打ったまま。
マザー・システムにもミスはあるのかと、その手を逃れる者もいるのかと。
シロエは逃れ損なったのに。
逃げ切れないまま、宇宙に散って行ったのに。
(……シロエ……)
彼は自分に何を残したと言うのだろう。
「ピーターパン」とスウェナが口にした言葉、それで思い出すのは古びた本だけ。
シロエが大切に抱いていた本、子供時代からの持ち物だった本。
(あの時、保安部隊がシロエを…)
ベッドに乗せて運び去った時、ピーターパンの本を持たせてやった。
シロエの大事な本なのだからと、側に置いてやって。
(まさか、あの本が…)
戻って来るとは思えないけれど、他には心当たりが無いから。
(……そうなのか?)
あれが手元に来るのだろうか、次にスウェナに会ったなら。
ジルベスターから戻ったなら。
「ピーターパン」の本、シロエが大切に持っていた本。
練習艇で宇宙へ逃げ出した時も、中身を語り続けていた本。
「影がくっつかないよ」と、「縫うって何さ?」と。
それがあるなら、もう間違いなくマザー・イライザの、マザー・システムのミス。
シロエはシステムに消されたけれども、あの本は消えずに何処かに残った。
きっとそうだという気がするから、まだ暫くは…。
(……動けないな……)
メンバーズ・エリートが、自動車事故など起こせないから。
運転ミスは出来ないから。
揺り起こされてしまった感情、それが落ち着いて凪いでくれるまでは、このまま路肩に。
早くなった鼓動が鎮まるまでは、車を走らせることは出来ない。
E-1077に、シロエがいた日に、引き戻されてしまったから。
シロエの船を撃ち落とした日に、あの瞬間へと、心だけが飛んでしまったから。
(…今、走ったなら…)
前をゆく船が見えるのだろう。
あの日、シロエが乗っていた船が。暗い宇宙を飛んでゆく船が。
それを見たなら、また踏むのだろう急ブレーキ。
今も後悔しているから。
シロエを乗せた船を見たなら、今の自分は追えはしないで、止まる方をきっと選ぶのだから…。
彼方からの記憶・了
※スウェナが「シロエを覚えている唯一の生徒」なんですよねえ、皮肉なことに。
いくらマザー・システムでも、そこまでは計算していなかったと思うんですけど…?
(もしかしたら、パパ…?)
そうだったのかな、とシロエが見詰める手の中。
小さなコンパス、磁石を使った初期型のもの。
このステーションに来てから間もない頃に、自分で作って持っているそれ。
(作り方を教えてくれた人…)
今は全く思い出せない、その人の顔。
男性だったか、女性だったのか、それさえも。
何処で教わったか、それも分からないまま。
学校だったか、家だったのかも分からないから、まるで無い手掛かり。
けれども、これを手に取った時に、スイと頭を掠めた思い。
父だったかも、と。
(…エネルゲイアは…)
技術関係のエキスパートを育てることを目標としていた、育英都市。
記憶はどんどん薄れてゆくけれど、そのくらいの情報は今も得られるから。
(…技術関係のエキスパートなら…)
きっと苦もなく作れるのだろう、コンパスくらい。
これよりももっと凝ったものでも、高度なものでも。
だから父でも不思議ではない、作り方を教えてくれた誰かは。
逆に言うなら、他の誰でも、おかしくないということだけれど。
学校の教師でも、近所に住んでいた誰かでも。
あるいは年上の友達でも。
父だったなら、と思いたい。
ピーターパンの本をくれた両親、今も大好きな父と母。
顔さえ思い出せなくなっても、好きだったことは忘れないから。
今も覚えているのだから。
(きっとパパが教えてくれたんだ…)
そう信じたなら、少し心が軽くなる。
コンパスの中には、父の思い出。
自分が忘れてしまっていたって、この手は父を覚えていたから。
こうして作る、とコンパスのことを覚えたままでいてくれたから。
(……パパ……)
パパだったよね、と尋ねてみたって、返らない答え。
コンパスは何も話しはしないし、エネルゲイアは遠いから。
父のいる家に、声が届きはしないから。
何処に在ったかも分からない家。
高層ビルとしか覚えていなくて、町の景色も思い出せない。
映像を見ても湧かない実感、何もかもが全部、偽物に見える。
機械だったら、映像くらいは簡単に処理してしまえるから。
偽の情報を混ぜていたって、誰も気付きはしないから。
(…機械の言うことは嘘ばかりだ…)
記憶を奪った成人検査も、あんな中身だとは自分は思いもしなかった。
誰もそうだと教えはしないし、一度も習いはしなかったから。
大人になるための節目の一つで、十四歳の誕生日。
目覚めの日と呼ばれる日がそうなのだと、旅立ちの日だと教わっただけ。
荷物を持っては行けないとだけ。
何もかもが嘘で塗り固められた、機械が支配している世界。
本当のことなど探せはしなくて、きっと一つも見付けられない。
自分の記憶が曖昧なように、世界そのものが曖昧だから。
真実はきっと、機械が隠しているだろうから。
(ぼくの家だって、捜せない…)
住所を覚えていないから。
家へ帰るための道順さえも、思い出すことが出来ないから。
覚えていたなら、このコンパスが役に立つのに。
エネルゲイアの町に立ったら、「こっち」と歩いてゆけるのに。
家が在った場所も分からなければ、両親の顔も思い出せない自分。
まるで迷子のロストボーイで、何もかも全部、機械のせい。
真実は伏せて、嘘ばかりの。
いいように嘘を教える機械の。
(…パパの名前だって…)
此処にデータはあるけれど、と呼び出した画面。
ステーションに着いて以来の自分の記録で、生年月日と両親の名前。
それを眺めてもピンと来ないし、赤の他人を見ているよう。
顔写真すらついていないから、ただの文字でしかないのだから。
(…コンパス、パパならいいんだけど…)
パパに教わったなら嬉しいけれど、と見詰める名前。
父だと言われればそうも思うし、違うと言われても「そうか」と思う。
そのくらい曖昧になっているのが、今の自分の両親の記憶。
誰かの記録と入れ替わっていても、丸ごと信じてしまいそうなほどに。
これが父かと、母の名前かと、しみじみと眺めていそうなほどに。
(……パパ……)
本当に思い出せないよ、と画面を見ていて気付いたこと。
コンパスの記憶は無いのだけれども、父の仕事は…。
(…凄く大事な研究だった…?)
そんな気がしてたまらない。
エネルゲイアでも屈指の技術者、そうでなければ研究者。
父が誇らしかったから。
いつか自分も父のように、と憧れたように思うから。
(だとしたら…)
嘘で固められた世界だけれども、真実を掴めるかもしれない。
父が優秀な技術者だったら、研究者だったというのなら。
(きっと何処かに、パパのデータが…)
あるに違いない、と閃いた。
いくら機械が隠し続けても、嘘をついても、消せない真実。
優秀な人間の名前や功績、それはデータが残るから。
SD体制の時代の分も、その前の分も。
子供相手なら隠せたとしても、大人社会への入口に立ったら、データは開示される筈。
それは役立つ情報だから。
誰がどういう研究をしたか、どういう成果を上げたのか。
(…パパの名前も…)
ある筈なんだ、とデータベースに打ち込んだ名前。
きっと故郷に繋がるから。
パスワードなどをくぐり抜けたら、懐かしい家にも辿り着けるから。
心を躍らせて打ち込んだ名前、此処で機械は嘘をつけない。
父の名前は父の名前で、他の誰かでは有り得ないから。
其処まで細かい細工はしないし、自分の名前は今も昔もセキ・レイ・シロエ。
(パパだって、セキ…)
ミスター・セキ、と呼ばれていた筈。
父の名前はきっとある筈、ミスター・セキでも、フルネームでも。
「エネルゲイア」と区切って入れた。「アタラクシア」も。
データベースに名前があるなら、これだけ絞れば、と。
ドキドキしながら出したコマンド、「この条件で探すように」と。
一瞬、明滅した画面。
そして出て来た、ミスター・セキの名。
父のフルネームも一緒にあるから、間違いなく父。
(パパだ…!)
ぼくのパパだ、と詳しいデータを表示させようとしたのだけれど。
いきなり住所は出ないとしたって、所属の部署や顔写真なら、と指示したけれど。
(…エラー…?)
嘘だ、と受けた衝撃。
ブロックされている父の情報、それは確かにある筈なのに。
データベースに存在するなら、開示されている筈なのに。
(…ぼくには引き出せないデータ…?)
自分がセキ・レイ・シロエだから。
養父の情報を引き出そうとして、アクセスしたと判断されて。
機械だったら、そのくらいのことはやりかねない。
この端末からマザー・イライザが来るのだから。
「どうしたのですか?」と呼ぶのだから。
きっとそうだ、と机に激しく叩き付けた拳。
せっかく此処まで辿り着いたのに、自分は先へと進めないのかと。
パスワードさえもくぐれないのかと、「セキ・レイ・シロエ」だから駄目なのかと。
またも機械にしてやられたから、目の前で父を隠されたから。
他の者なら引き出せるだろう、父の情報は開かないから。
(これも機械のやり方なんだ…)
許すもんか、と零れる涙。
此処まで自分で辿り着いたのに、やっと見付けた手掛かりなのに。
(何もかも、いつか思い出してやる…)
機械が此処までやるのだったら、自分が地球のトップに立って。
国家主席の地位に昇り詰めて、憎い機械を必ず止める。
「ぼくの記憶を全部返せ」と命令して。
記憶を全て取り戻したなら、「止まってしまえ」と機械に命じて。
その日が来たなら、懐かしい父を取り戻す。
優しかった母も、大好きだった家も。
(……パパ……)
ぼくは必ず帰るからね、と「ミスター・セキ」としか表示されない画面を閉じた。
父の名前しか表示されない、自分を拒否する憎い画面を。
そして眠ったシロエは知らない、エラーメッセージの本当の理由。
父の所属は、国家機密のMを扱う研究所。
サイオニック研究所は存在自体が極秘なのだと、国家機密だとシロエは知らない。
国家機密のエラーメッセージ、それをシロエは知らないから。
まだ学んではいなかったから。
知っていたなら、シロエは機械に従ったろうか?
父のデータを見られる日までは、逆らいながらもエリートの道を進んだろうか?
それは今でも分からないまま。
シロエは空へと飛び立ったから。
いつまでも、何処までも、自由に飛び続けられる広い空へと…。
隠された父・了
※シロエのお父さんのデータは捜せるんじゃないの、と一瞬、思った管理人ですけど。
所属している部署が悪かったっけ、と気付いたことから出来たお話。Mじゃ国家機密…。
シロエが持っているコンパスは捏造、「後は真っ直ぐ」に出て来ます。
(あ…)
今日も、とマツカが零した溜息。
また今日もだ、と。
キースが去って行った後。
下げに出掛けたコーヒーのカップ、底に少しだけ残ったコーヒー。
本当にほんの少しだけ。
多分、一口で飲める程度の。
(…今度は何が…)
あったんだろう、と心の中だけで一人呟く。
キースの心を占めるのは何か、何が心を覆うのかと。
こういう風に残ったコーヒー、たまにキースが飲み残す時。
きっとキースは、何かに捕まってしまっている筈。
それの中身は分からないけれど。
苛立ちなのか、頭を悩ませるような何かか。
それとも悲しみ、あるいは後悔。
(…ぼくには何も分からないけれど…)
キースの心は読めないけれども、カップの底に残ったコーヒー。
今夜のように残っている日は、そうだから。
此処にキースの心は無いから、何処かへと飛んでいる筈だから。
初めてそれを目にした時には、自分が失敗したと思った。
キースの口には合わないコーヒー、不味いコーヒーを淹れたのだと。
(てっきりそうだと…)
考えたから、自分を叱った。
「次は、気を付けて淹れなければ」と。
そうして心を砕いているのに、キースのカップに残るコーヒー。
ほんの一口か二口分だけ、すっかり冷めてしまったものが。
これでは駄目だ、と懸命に覚えたコーヒーの淹れ方。
「美味いコーヒーを飲ませる店だ」と耳にしたなら、休暇の時に出掛けて行った。
国家騎士団にいるコーヒー好きにも、それとなく淹れ方を聞いたりした。
(キースが美味しそうに飲んだ時だって…)
どう淹れたのかを書き留めておいた。
キースは顔に出さないけれども、美味しそうに飲めば分かるから。
後姿を見ているだけでも、なんとなく分かるものだから。
それが自分がミュウだからなのか、そうでないかは分からない。
けれど、理由はどうでもいいこと。
キースが「美味い」と思うコーヒー、それを淹れられたら嬉しいから。
「役に立てた」と、心がほどけてゆくのだから。
そうやって覚えていったコーヒー。
キースの好む豆や淹れ方、そういったものを一つずつ。
なのに、キースはコーヒーを残す。
いつも通りに淹れた筈なのに、けして不味くはない筈なのに。
だから「変だ」と思った自分。
キースがコーヒーを残す理由は、味のせいではないかもしれない、と。
ならば、理由は何なのだろう?
コーヒーを運んだ自分の態度が気に入らないとか、気に障ったとか。
その可能性だって考えた。
自分が淹れたコーヒーなのだし、原因はきっと自分だろうと。
(ぼくのせいなら…)
少しもキースの役に立たない。
憩いのひと時の筈のコーヒー、それを「不味い」と思わせたなら。
「今日のコーヒーは美味くなかった」と、キースがカップに残すなら。
もっと、もっと気を配らねば。
コーヒーの味にも、「どうぞ」とキースに差し出す時にも。
指の先まで、神経をピンと張り詰めて。
声を出す時も、柔らかな声になるように。
キースが不快に思わない声、それから態度。
視線はもちろん、コーヒーを置いて去ってゆく時の背中にだって。
どれも気を付けて、キースの機嫌を損ねないように。
コーヒーを飲んで、心からホッと出来る時間を置いてゆけるように。
それなのに、やはり残るコーヒー。
たまにだったり、何日もそれが続いたり。
いったい何がいけなかったかと、何度も悩んだ。
「昨日のぼくは…」と思い返して、今日の自分と重ねてみたりと。
けれど解けない、分からない理由。
キースが飲まずに残すコーヒー、カップの底にほんの少しだけ。
もしかしたら、と気付いた日は…。
(…サムの病院…)
いつものように、キースについて出掛けた病院。
自分は病室に行かないけれども、外で帰りを待っていた時。
出て来たキースの顔に感じた、微かな曇り。
普段だったら、此処へ来た後、キースの心は晴れているのに。
心をわざわざ覗かなくても、凪いでいるのが分かる病院。
サムに会ったら、キースの心は晴れるのだと。
ステーション時代からの友人、サムは今でも、たった一人のキースの大切な友なのだ、と。
(…でも、あの時は…)
晴れる代わりに曇った心。
キースは何一つ、自分に話しはしなかったけれど…。
(きっと、サムの具合が…)
良くなかったに違いない、と直ぐに分かった。
風邪でも引いて熱があったか、薬で眠らされていただとか。
酷く興奮していたのならば、そういう治療もあるだろうから。
(その夜、キースは…)
コーヒーをカップに残していった。
ほんの少しだけ、まるで飲むのを忘れたかのように。
次の日も、同じに残ったコーヒー。
サムの病院から連絡が入って取り次いだ日まで、コーヒーはカップに残り続けた。
連絡があった日、下げに行ったら綺麗に飲んであったコーヒー。
それでようやく「そうか」と気付いた。
心に重い何かがある時、キースはコーヒーを残すのだと。
最後まで飲むことを忘れているのか、残っていることに気付きもしないで立ってゆくのか。
(…どっちなのかは分からないけれど…)
コーヒーを飲んでも、キースが心から安らげない日。
そういう時にはコーヒーが残る。
どんなに美味しく淹れてみたって、心を配って差し出したって。
一度気付けば、ピタリと嵌まり始めたピース。
「まただ」と、「今日も何かあった」と。
そう思ってキースを見ていたならば、纏う空気が違うのが分かる。
心の中身は分からなくても、「今日のキースは、いつもと違う」と。
コーヒーを残すほどだから。
心が何処かに行ってしまって、一口か二口、置いてゆくから。
今日もそうだ、と溜息をついてカップを下げる。
いったい何がキースの心を占めるのだろうと、あの人に何があったろう、と。
(…任務のことは、ぼくには何も…)
分からないから、何も出来ない。
キースの心を軽くするための手伝いは無理で、何の役にも立てない自分。
(…サムの具合が悪い時だって…)
やっぱり自分は役に立てない。
「大丈夫ですよ」と気休めなどは言えないから。
「元気を出して下さい」とも。
自分はキースの友達ではなくて、部下の一人で、部下の中でも…。
(ぼくが一番、役に立たない…)
「コーヒーを淹れることしか能が無い、ヘタレ野郎だ」と言われるほどに。
面と向かって言わない者でも、そう思っていることだろう。
だからキースに何も言えない、掛けられる言葉を自分は持たない。
こうして心配することだけ。
「明日はコーヒーが残らないように」と願うしかない、たったそれだけ。
自分は何も出来ないから。
キースに言葉も掛けられないから。
(ぼくに出来ることは…)
ただコーヒーを淹れることだけ。
「コーヒーを頼む」と言われたら。
キースがそれを望んだならば。
精一杯に、心をこめて。
キースの心が此処に無いなら、せめて舌だけでも安らぎを覚えて欲しいから…。
(…美味しく淹れて、丁度いい熱さで…)
明日もキースにコーヒーを。
そのコーヒーが、カップの底に少しだけ残らないといい。
明日は綺麗に飲んで貰えて、空のカップを下げられたらいい。
キースの心が軽くなったら、コーヒーが残りはしないから。
それを祈るしか出来ないのだから、明日は空になったカップを下げたい。
少しでも早く、キースの心が晴れればいい。
自分は何も手伝えないから。
ほんの小さな気の利いた言葉、それさえも言えはしないから。
だから、心から祈ることだけ。
明日はカップが空になるように、キースの心を覆う何かが消えるようにと…。
底に少しだけ・了
※「コーヒーを淹れることしか能の無い、ヘタレ野郎」と、セルジュが言うほどのマツカ。
それだけではない筈なんですけど…。コーヒーに気を配っているのは確かだよね、と。
「忘れるな、キース・アニアン! フロア001…!」
自分の目で真実を確かめろ、と叫んで終わったシロエの言葉。
キースの止める声も聞かずに、保安部隊の者たちが意識を奪ったから。
「スーパーエリートが逃亡補助か」
そう言った男をギッと睨み付けた。お前たちは何も知らないくせに、と。
けれど、自分も押さえられているから動けない。
この両腕さえ自由に出来たら、保安部隊など敵ではないだろうに。
「連れて行け」とシロエの連行を命じた男。
ヘルメットで顔が半分隠れているから、表情さえも分からない。
「後でマザー・イライザからコールがあるだろう。…キース・アニアン」
そう言い捨てて、男たちは部屋から出て行ったけれど。
意識を失くしたシロエを引き摺って行ったけれども。
(…シロエの本…!)
ハッと気付いた、ベッドの上に残された本。
ピーターパンというタイトルのそれを、シロエが胸に抱くのを見た。
両腕でギュッと、まるで大切な宝物のように。
あの時のシロエの、ホッとした顔。
幼い子供のようだった顔は、一度も見たことがなかったもので。
それが本当のシロエだと知った、あの一瞬に。
この部屋で意識を取り戻した時に、自分の存在にシロエが気付くよりも前に。
自分と視線が合った途端に、本当のシロエは消え去ったけれど。
いつものシロエが戻ったけれども、消えたシロエの方が本物。
本を抱き締めたシロエの方が。
この本を何よりも大切に思い、今も持っているシロエの方が。
(シロエ…!)
慌てて掴んだ、シロエの本。
此処に置いてはおけないから。
シロエが何処かで目を覚ました時、この本はきっと必要だから。
今の自分は、もう知っている。
どうしてシロエが本を抱き締めたか、幼い子供のように見えたか。
本をシロエに返さなければ。
彼に返してやらなければ。
男たちを追い掛け、飛び出した部屋。
何事なのかと、振り返った彼らに表情は無い。
今もヘルメットを脱いでいないから、顔が半分見えないから。
「これを…!」
本を差し出したら、「なんだ」と返った不快そうな声。
用は済んだと言わんばかりに、立ち去ろうとしている男たち。
けれども負けてはいられないから、「シロエのです」と本を突き出した。
「一緒に運んでやって下さい」と、「そのくらいはしてもいいでしょう」と。
移動用のベッドに寝かされたシロエ。
最初から意識を奪うつもりで、ベッドまで用意していた彼ら。
(逮捕するだけでは足りないと…?)
自分の足で歩くことさえ許さないのか、と覚えた怒り。
ギリッと奥歯を噛み締めたけれど、直ぐに考えを改めた。
これは恐らく、偽装工作。
シロエを連行してゆく途中で、出会うかもしれない候補生たち。
逮捕劇を彼らに悟られないよう、病人の搬送を装ってゆく。
そんな所だ、と理解したから、もう一度、本を突き付けた。
「これも一緒に」と、「シロエの本です」と。
それでも彼らは動かないから、シロエに被せられた上掛け。
その上にそっと本を乗せてやった。
これで駄目なら…。
男たちと喧嘩するまでだ、と固めた覚悟。
どうしてもシロエに、本を持たせてやりたいから。
何処で目覚めるかは知らないけれども、本が無ければシロエが悲しむ。
彼の大切な本だから。
シロエが本を抱き締める前から、自分はそれに気付いていたから。
(子供の時から持っていたんだ…!)
本来、許される筈のないもの。
成人検査を受ける時には、持って行けないと聞いている私物。
それをシロエは持っていた。
故郷で宝物にしていたろう本、一目でそうだと分かる本を。
此処へ来てから、手に入れたわけではない本を。
ライブラリーの蔵書かどうかを確認したから、もう間違いない。
シロエが故郷から持って来た本。
「もう大好きだったことしか覚えていない」と叫んだ故郷と、両親の思い出。
それが詰まった、宝物の本。
もしもこのまま本を失くしたら、シロエの心はきっと壊れる。
本はシロエの心の砦。
それと同時に、魂の器。
逮捕された者が行かされる場所は謎だけれども、彼の心まで壊したくない。
たった一つの心の砦を、魂の器を、奪われて失くして壊れるなどは。
此処まで大切に持って来た本、それを失くして悲しみの内に壊れるなどは。
それはあまりに酷だから。
心だけでも、シロエに残してやりたいから。
どう出るのか、と身構えたけれど、何も言わなかった男たち。
「それは駄目だ」とも、「余計なことをするな」とも。
呆気ないくらいに、本はシロエの胸の傍らへと戻って行った。
そしてシロエは運ばれて行った、本と一緒に。
彼の大切な思い出と共に。
男たちが彼を連れてゆく先は、想像さえも出来ないけれど。
(…あの本だけでも…)
返してやれて良かった、と戻った一人になった部屋。
マザー・イライザからのコールはまだ無い。
部屋に現れる映像すらも、未だ姿を見せようとしない。
(全て承知ということなのか…)
自分がシロエを匿ったことも、彼と話していたことも。
シロエが最後に叫んだフロア001、其処に行ったら何があるのかも。
(…フロア001…)
人形なのだ、と言われた自分。
成人検査を受けていないとも、マザー・イライザが作ったとも。
きっとシロエは何かを見た。
何かを知って、それで追われた。
そんな最中にも、手放さないで持っていた本。
これを離したら終わりだとでも言うように。
本の正体に気付いた今では、本当に終わりだったのだと分かる。
シロエにとっては、あの本だけが砦だから。
心の鎧で、魂の隠れ場所だから。
(ピーターパン…)
シロエが意識を取り戻す前に、何の本かを調べてみた。
ライブラリーの蔵書ではないと分かった時に。
幼い時から持っていたのだと、故郷の思い出が詰まった本だと気付いた時に。
(永遠の少年…)
大人にならない、永遠の子供。
SD体制の時代においては、有り得ない世界がネバーランド。
シロエは其処に焦がれ続けて、あの本を持って来たのだろう。
いつか行こうと、行ける日が来ると。
(なのに、記憶を…)
奪われたのだと叫んだシロエ。
機械がそれを奪い去ったと。
両親も故郷も、大切だったものの全てを。
(…覚えていない、ぼくとは違う…)
シロエも言った、「あなたは違う」と。
成人検査を知らないからだと、「幸福なキース」と。
それが本当かどうかはともかく、シロエが大切に持って来た本。
ピーターパンの本の中身を、シロエと語ってみたかった。
彼があれほど成人検査を憎んでいるなら、なおのこと。
(過去や、思い出…)
自分には無い、そういったもの。
それがあったら、この世界はどう見えるのか。
不条理だとも思えるシステム、それがシロエにはどう見えるのかを。
今となっては遅いだろうか、と溜息が一つ零れたけれど。
シロエが無事に戻るようなら、もう一度彼と話してみたい。
彼の瞳に、この世界はどう映るのか。
ピーターパンの本に書かれたネバーランドは、魅力溢れる場所なのか。
SD体制の思想とは相容れなくても、それが理想の世界なら。
人が持つべき夢の世界なら、今のシステムは誤りだから。
正してゆくべきものだろうから、それをシロエに訊きたいと思う。
「マザー・システムをどう思う?」と。
だから、彼には戻って欲しい。
逮捕されても、然るべき処分を受けたなら。
多少記憶を処理されていても、「シロエ」のままで戻れるのなら。
(…あの本が役に立つといい…)
シロエが自分を保つために、と心から思う。
どうか壊れてくれるなと。
自分に何を言ってもいいから、あのままのシロエで戻って欲しい。
「お人形さんだ」と嘲笑われても、甘んじてそれを受けるから。
もう一度シロエと語り合えるなら、何と言われてもかまわないから…。
返すべき本・了
※シロエが連行されて行く時に、ベッドの上にあったピーターパンの本。
あれを渡したのはキースなんですよね、いいヤツなんだと思いますです。本当にね。
(何度やっても此処でエラーか…)
どういうことだ、とシロエが見詰めるキースのデータ。
他の者だと表示されるのに、キースだとエラーメッセージ。
何度やっても。…何度試みても。
(キース・アニアン…。何者なんだ)
とても普通だとは思えない。
マザー・イライザの、機械の申し子。
その名の通りに、普通の人間ではなさそうなキース。
過去を覚えていないという上、他の者たちも知らないらしいキースの過去。
同じ宇宙船で此処に着いた筈の者も、キースと同郷だった筈の者も。
(そのデータさえも…)
詳しく見ようとする度にエラー。どうしても見られない映像記録。
普通の者なら引き出せる筈の、ステーション到着直後のデータ。
監視カメラが捉えた映像、それこそ到着した瞬間から。
けれども、それが表示されないキース。
彼のデータは、新入生のためのガイダンスから。
それよりも前を調べようとしたら、必ずエラーメッセージ。
そしてどうしても辿り着けない、此処へ着いた時のキースの表情。
(誰でも、何処か不安そうな顔で…)
自分自身もそうだった。
だから今でも、わざわざそれを見に行くくらい。
どんな心境で此処へ着いたか、機械に騙された時の気分を忘れないために。
最初は、ごくごく単純な興味。
キースの過去を知ってやろうと、トップエリートの鼻を明かしてやろうと。
彼にも過去はある筈だから。
それを忘れたと気付かされたら、心に穴が開くだろうから。
(あいつだって、此処に着いた時には…)
不安そうな顔の筈だったんだ、と確かめたくなったキースの表情。
養父母の記憶も過去も忘れたなら、平然といられるわけがない。
落ち着きを失くしてキョロキョロしていたか、あるいはボーッと立ち尽くしていたか。
今のキースからは想像も出来ないような表情と姿。
それを存分に堪能してから、過去を探っていこうと思った。
キースが忘れただろう養父母や、故郷や、育った家や幼馴染を。
(なのに、エラーばかり…)
人為的なものとしか思えないエラーメッセージ。
意図して隠しているとしか。
(あいつ、本当に機械なのかも…)
そんな思いさえ生まれてくる。
精巧に出来たアンドロイド。機械仕掛けの操り人形。
マザー・イライザが此処で作って、人間の中に混ぜ込んだ。
そうではないかと、それがキースの正体では、と。
疑問は解けずに、募る一方。
苛立ちさえも覚え始めていた時、出くわしたキース。
レクリエーション・ルームで、エレクトリック・アーチェリーに興じている所。
「天才は勉強だけじゃなくって、何でも出来るってわけか」と、評する声が癇に障った。
キースに負けてはいられないから。
彼の成績を全て塗り替え、いつかは地球のトップに立つのが夢だから。
(あんなヤツがトップに立ったって…)
このシステムは変わりはしないし、機械に支配されたまま。
自分がトップに立った時には、このシステムを止めてやるのに。
機械に「ぼくの記憶を返せ」と命じて、それから「止まれ」と言ってやるのに。
(子供が子供でいられる世界…)
成人検査は消えて無くなり、子供は両親といつまでも一緒。
そういう世界を作るのだから、キースに負けるわけにはいかない。
たかがゲームでも、負けられない。
(大したことないのに、目立ち過ぎだ)
ぼくがあいつの点数を抜く、と前に出て行ったら、受けて立ったキース。
何も言葉にしてはいないのに、「リセットしてくれ」と。
(いったい、あなたは何なんだ…)
機械仕掛けの人形なのか、マザー・イライザが作ったアンドロイドか。
それならば、余計に負けられない。
自分は機械に勝つのだから。
いつかは地球のトップに立って、マザー・システムを止めるのだから。
(負けないよ)
キースなんかに負けるものか、と始めた勝負。
次から次へと的を射抜いてゆく間にさえ、覚える苛立ち。
(機械みたいに撃ってんじゃないよ)
正確すぎる、と思ったキースの腕。
もっと遊びのある撃ち方は出来ないのか、と的から逸れてゆく思考。
キースは本当に機械のようだ、と。
思考がズレれば、自然と的も外れてゆくもの。
(外した…!)
射損ねた的を、またも正確に射抜いたキース。
こんな筈ではなかったのに。…キースに勝たねばならないのに。
生じた焦りがまた的を外す。一度外せば、二度、三度と。
(負けるもんか…!)
あんなヤツに、と焦り、苛立つから、また射損ねる。
その繰り返しで…。
「タイムアップ!」
機械の声が告げた戦績、それはキースに及ばなかった。
自分が勝てると思っていたのに。
(次こそは…)
ぼくのペースに持ち込んでやる、と平静さを装って称賛した敵。
「流石ですね、先輩。どうです、もう一勝負」と。
今度は勝つ、と。
けれど、挑発に乗らなかったキース。「これでおしまいだ」と。
「勝負はついた」と、ゲームばかりか、全て切り捨てて来た。
「これ以上、ぼくに付き纏うのはやめて貰おう」と、勝負の一切を。
途端に頭に昇った血。
「逃げるのか、卑怯者!」とキースの背中に叫んでいた。
けして冷静ではないだろうキース。
人の気持ちが分からないから、そう見えるだけの機械の申し子。
きっと本当に機械仕掛けで、思考さえもプログラミングされたもの。
感情のままにそれをぶつけた、当のキースに。
「やっぱり、あなたはマザー・イライザの申し子だ」
機械仕掛けの冷たい操り人形なんだ、と自分が辿り着いた答えのままに。
そうしたら、殴り飛ばされた。
機械仕掛けの人形に。マザー・イライザが作ったアンドロイドに。
唇が切れて血が出たけれども、面白い。
「機械でも…怒るんだ」
怒るだろうね、と浮かんだ笑み。
マザー・イライザだって、叱るのだから。
コールされた生徒が恐れる怒りは、機械でも怒る証拠だから。
ますますもって面白い、と。
型通りだった、キースの一撃。
今度はこっちがお見舞いしてやる、と挑みかかったのを止められた。
候補生たちに寄ってたかって。
キースの方もサムに手を引かれ、逃げるように去って行ってしまった。
「逃げるのか、キース!」
叫び続ける間に、手首の辺りでツーッと響いた音。
マザー・イライザからのコールサイン。
(…まただ…)
これは嫌いだ、と一気に引き戻された現実。
コールされる度、自分は何かを失うから。
心が晴れたような気持ちになるのは、何かを消されてしまったから。
ただでもおぼろになってしまった、両親のことや故郷の記憶。
そういったものを消されてゆくから、コールされるのは嫌なのに。
(あいつのせいだ…!)
キースのせいでコールされた、と募る憎しみ。
機械仕掛けの人形のくせに、キースがぼくを陥れた、と。
けれども、逆らえないコール。
このステーションで暮らす間は、マザー・イライザを無視できない。
(…ぼくがトップに立つためには…)
マザー・イライザの命令は絶対。
背けば、評価を下げられるから。キースに負けてしまうから。
(…また何かを…)
消されるんだ、と唇を噛んで向かうしかない。
マザー・イライザがいる場所へ。
自分が何かを失う場所へ。
そして現れた、母の姿を真似ている機械。マザー・イライザ。
「セキ・レイ・シロエ。…コールされた理由は分かっていますね?」
あなたの心を導きましょう、と引き込まれてゆく眠りの淵。
眠れば何かを失うのに。また何か失くしてしまうのに。
(マザー・イライザ…)
導くのなら、ぼくに応えろ、と薄れてゆく意識の中で叫んだ。
キースはいったい何者なのか。
何処へ行ったら答えがあるのか、それを知ることが出来るのかと。
それきり眠ったシロエは知らない。
マザー・イライザの顔に浮かんだ冷たい笑みを。
「疑問には答えを」と嗤った声を。
「時は満ちたから、教えましょう」と。
こう行くのです、と刻み込まれた答えのことを。
(待ってろよ、キース・アニアン…)
昨日はキースに殴られたけれど、ゲームでも負けてしまったけれど。
あの後、自分は勝負に勝った。
ついに突破した、キースの過去に関するデータ。
其処に示されたルートを辿れば、きっと答えが見付かる筈。
キースの正体は何なのか。
彼は何処からやって来たのか、何もかもがきっと分かる筈。
E-1077の奥深く潜り込んだなら。
狭い通風孔を通って、奥へ奥へと進んだなら。
キースの秘密は、このステーションの中に隠されていると示したデータ。
(お前の澄ましたその顔を、このぼくが…)
壊してやる、と深く潜ってゆくステーションの奥。
それを教えたのがマザー・イライザだとは、夢にも思わないままで。
破滅への道とも知りもしないで、勝ったとシロエは笑い続ける。
もうすぐ答えが出る筈だから。
機械仕掛けの操り人形、キースの正体が分かるから。
そうすれば、自分はキースに勝てる。
きっとキースは、愕然とするのだろうから。
自分は人ではなかったのかと、崩れ、壊れてゆくだろうから…。
仕組まれた罠・了
※シロエがステーションにいた理由が、マザー・イライザの計算だったということは…。
何もかも最初から罠なんだよな、と思うわけで。シロエ、気の毒すぎ…。
