(……今のは……)
ミュウか、とブルーが見開いた瞳。
右の瞳は砕けてしまって、視界は半分だったけれども。
禍々しく青い光が満ちた、メギドの制御室。
母なる地球の青とは違った、人に破滅をもたらす光。
いったい人類は何を思って、こんな兵器を作ったのか。
元は惑星改造用にと作られたものを、破壊兵器に転用してまで。
これを沈めに、此処まで来た。
させまいと現れた「地球の男」を、道連れにする筈だった。
この身に残ったサイオンを全て、かき集めて。
自ら制御を外してしまって、暴走させるサイオン・バーストで。
けれど、叶わなかった「それ」。
地球の男は、目の前で消えた。
「キース!」と、彼の名を叫んだ青年と共に。
どう考えても「ミュウの力」で、瞬間移動で何処かへと飛んで。
(……何故、ミュウが……)
人類の船に乗っているのか、キースを救いに駆け付けたのか。
そういえば、シャングリラで耳にしたろうか。
「思念波を持つ者が、人類の船でナスカに来た」と。
「地球の男を救って逃げた」と、メギドの劫火が襲うよりも前に。
(…ならば、噂は…)
噂ではなくて、「本当にあった」ことなのだろう。
「地球の男」は「ミュウ」を連れていて、ミュウの力で命拾いをしたのだろう。
(……もし、そうならば……)
ずっと遥かな先でいいから、「地球の男」の「考え方」が変わればいい。
「人類とミュウは兄弟なのだ」と、「分かり合える」と。
彼が考えを変えてくれたら、手を取り合える日も来るだろう。
「地球の男」は、「ただのヒト」ではないのだから。
フィシスと同じに無から作られ、人類を導く指導者になる存在だから。
そんな日がいつか、来てくれればいい。
自分は見届けられないけれども、人類とミュウが手を取り合う日が。
もう「シャングリラ」という「箱舟」は要らず、踏みしめられる地面を得られる時が。
(……ジョミー……。みんなを頼む!)
この身が此処で滅ぶ代わりに、メギドの炎は「持って逝く」から。
「ソルジャー・ブルー」はいなくなっても、皆の命を遠い未来へ繋いで欲しい。
ナスカで生まれた子たちはもちろん、前から船にいた者たちの命をも。
青い地球まで無事に辿り着き、白い箱舟から降りられるよう。
赤いナスカは砕けたけれども、地球で命を紡げるよう。
(……この目で、地球を見られなくても……)
充分だった、という気がする。
ミュウの未来を生きる子たちを、七人も見られたのだから。
「地球の男」を救ったミュウには、「未来への希望」を貰ったから。
それ以上のことを望むというのは、きっと贅沢に過ぎるのだろう。
一番最初のミュウとして生まれ、実験動物として扱われた日々。
生き地獄だった檻で生き延び、皆と宇宙へ旅立った。
「ソルジャー・ブルー」と仲間たちから慕われ、三世紀以上もの歳月を生きた。
焦がれ続けた青い地球には、行けなくても。
肉眼で夢の星を見るのは、叶わなくても。
(……充分だ……)
この人生に悔いなどは無い。
ミュウの未来が、先へと続いてくれるなら。
いつの日か、白い「ミュウの箱舟」が、役目を終えてくれるのならば。
未来への夢と希望とを抱いて、終わった命。
メギドが滅びる青い閃光、それと一緒に「消え去った」全て。
気付けば、秋が訪れていた。
「秋だ」と感じて、目覚めた意識。
色づいた木々と、とても穏やかな公園と。
頭上には青い空が広がり、木々の向こうには街並みも見える。
(……地球……?)
此処は地球だ、と直ぐに分かった。
どれほどの時が流れたのかは、まるで全く分からないけれど。
それに「自分」が、「何故、目覚めたか」も。
どうやら「自分」は「ヒト」の身ではなく、地面に根付いた「木」のようだから。
他にも並んだ木々と同じに、色づいた葉たち。
公園を彩る木たちに交じって、「今の自分」も植わっていた。
(…地球に来たのか…)
ヒトでなくても「来られた」のか、と幸せな思いが満ちてゆく。
青い地球まで来られたのなら、もう本当に満足だから。
たとえ名も無い木であろうとも、自分は「地球にいる」のだから。
そうして眺めた下の地面に、置かれたベンチ。
其処に座った少年の顔に、ただ驚いた。
「地球の男」が少年だったら、こういう顔になるのだろう。
その少年は、静かに本を読んでいるけれど。
「何処、蹴ってんだよ!」
そう声がして、飛んで来たボール。
サッカーボールは少年の手から、読んでいた本を叩き落とした。
「ごめん! …本当にごめん…」
駆けて来て本を拾った少年、彼の顔立ちは、あの「ジョミー」にしか見えなくて…。
(……ジョミー……?)
それにキースが此処にいるのか、と見詰める間に、二人の瞳から溢れた涙。
二人とも、思い出したのだろうか。
かつて「ジョミー」と「キース」だった二人が生まれ変わって、この公園で出会ったろうか。
「…不思議だね。ぼくたち、遠い昔に友達だったのかもしれないな」
「敵同士だったのかも?」
「…でも、こうやって会うことが出来た」
キースに似た少年が差し伸べた手を、ジョミーのような子は取らなかったのだけれど。
サッカー仲間の子から呼ばれて、そちらへと走り出したのだけど。
「おーい! 君も一緒にやろうぜ!」
ジョミーに似た子が、誘った「キースのような」少年。
「あ、ああ…!」
誘われた少年は、本をベンチに置くなり、ただ真っ直ぐに駆け出した。
たった今、出来たばかりの「友達」、その子とボールを蹴りにゆくために。
本を読むより、その方がいい、と。
(……あの二人は、地球で……)
もう一度、巡り会えたのだろう。
人類とミュウとが和解した先の遠い未来か、ほんの一世紀ほど先の未来かで。
(…それならばいい…)
ぼくが望んだ「未来」は訪れたのだから、と「キース」が置いた本を見下ろす。
(……ピーターパン……?)
この本にも、意味があるのだろうか。
此処でこうして立っていたなら、「ピーターパンの本」を知る子が来るのだろうか。
(……ぼくには、心当たりが無いが……)
キースの側には、そういう「誰か」がいたかもしれない。
もしかしたら、メギドで「キースを救った」ミュウの青年だっただろうか。
それとも他にも誰かいたのか、其処までは分からないけれど…。
(…ぼくは此処から、見守ることしか出来なくても…)
せっかく地球まで来られたのだから、皆が「出会う」のを見られたらいい。
ベンチには座り切れないくらいに、「キース」や「ジョミー」の友が大勢、増えるのを。
その顔の中に、「見知った誰か」が加わるのを。
(今は秋だから、冬になったら…)
公園に集う人間たちの数は減っても、来年の春には「友達」が増えていたらいい。
ピーターパンの本を好む子だとか、「自分」にも分かる顔の子だとか。
「あれは、あの子だ」と気付く誰かが、加わったらいい。
自分は「その輪」に入れなくても、「ジョミーたち」の上に心地よい陰を作ってやろう。
暑い夏でも、強すぎる日差しを避けられるように。
「この木の下が、一番いいね」と、皆の気に入りの場所になるよう。
誰も気付いてくれなくても。
「ブルーだ」と分かって貰えなくても、ちゃんと「自分」は此処で見ている。
ミュウの箱舟が要らない世界で、「憩いの場」を作れる一本の木に姿を変えて。
焦がれ続けた青い星の上で、夢に見ていた「ヒトの未来」が紡がれるのを…。
青い星の上で・了
※あの17話の日から、ついに10周年という。早かったような、長かったような。
転生キースとジョミーを扱ったのは初です、10周年の記念創作なら、コレだろう、と!
(……このピアス……)
やはり気になっていたようだな、とキースが思い浮かべる男。
国家騎士団総司令に会いに、今日の昼間に執務室まで訪ねて来た者。
今、パルテノンで審議されているらしい「キース・アニアン」のこと。
元老になるよう要請するか、国家騎士団に留め置くかを。
(そのための下見というわけか…)
執務室までやって来たのは、元老の一人ではなかったけれど。
元老の中の誰かの部下か、あるいはパルテノン直属の職員なのか。
(いずれにしても、品定めだ)
「キース・アニアン」が「どういう男」か、それを調べにやって来た者。
表立っては言わなかったものの、言葉の端々に滲み出ていた。
政治に対する考え方だの、国家騎士団総司令としての心構えだのを訊かれたから。
「どうお考えになりますか?」などと、インタビューでもするかのように。
彼が「持ち帰った」情報を元に、改めて審議されるのか。
それとも「答え」はとうに出ていて、イエスかノーかが決まるだけなのか。
(私は、どちらでもかまわないがな…)
国家騎士団総司令だろうが、パルテノンに入ることになろうが。
「人類を導く者」としてなら、いずれ間違いなくトップに立つ。
どんな形で就任するかは、グランド・マザー次第だけれど。
(腑抜けたパルテノンの元老どもが、私を認めないのなら…)
クーデターでも起こすことになるのかもしれない。
ある日、突然、グランド・マザー直々の指令を受けて。
「お前がトップに立たねばならぬ」と、紫の瞳がゆっくり瞬きをして。
そうなった時は、即座に行動を起こす。
直属の部下を密かに動かし、元老どもを袋の鼠にするくらいのことは実に容易い。
彼らが翌日の朝日を見られないよう、永遠の眠りに就かせることも。
(…殺すよりかは、心理探査が似合いだろうがな)
精神崩壊を起こすレベルで、容赦なく。
「レベル10だ」と、眉も動かさずに部下に命じて。
いつか就く筈の「国家主席」と呼ばれる地位。
SD体制始まって以来、就任した者は数えるほど。
今も空位で、「キース・アニアン」が着任するまで、誰も就かないことだろう。
「キース」は、そのように作られたから。
人類の指導者となるためだけに、機械が無から作った生命。
(そんなことなど、誰一人、知りはしないのだがな…)
研究者たちは、皆、殺された。
グランド・マザーの命令だったか、マザー・イライザが指示を下したか。
「キース・アニアン」が完成した後、彼らは「生きて」戻れなかった。
E-1077という所から。
強化ガラスの水槽が並ぶ、フロア001が「在った」教育ステーションから。
命じられた「仕事」をやり遂げた「彼ら」を待っていたのは、口封じの「処分」。
「これで帰れる」と思っただろうに、事故に遭遇した宇宙船。
研究者たちは、一人残らず宇宙に散った。
彼らよりも後に「秘密を知った」シロエが、そうなったように。
シロエの場合は、宇宙船の事故ではなかったけれど。
(…研究者どもと、それにシロエと…)
誰もが死んでしまった以上は、もはや知る者さえ無い秘密。
E-1077を処分したからには、フロア001も「無い」から。
(そこまでして、私を作った以上は…)
元老たちを殲滅してでも、「キース」はトップに立たねばならない。
そうでなければ、「キース」が生まれた意味さえも無いし、人類の指導者は生まれないまま。
パルテノンの者たちは、そうと気付いていないけれども。
「出る杭は打たねばならない」とばかりに、暗殺計画を立てもするけれど。
(しかし、そろそろ限界らしいな)
今日の昼間にやって来た男、彼の来訪の目的から見て。
「キース・アニアン」を調べに来たなら、「その日」は、さほど遠くはない。
元老として迎え入れられるにしても、拒絶されてクーデターを起こすにしても。
近い間に、「キース・アニアン」は、パルテノンにいることだろう。
ただ一人きりの元老としてか、新参者になるかは分からないけれど。
(…今日と同じに、皆が私を見るのだろうな…)
他の席にも、元老が座っていたならば。
クーデターを起こしての着任ではなく、正式に元老の一人に就任したならば。
きっと彼らは、「キース」を見る。
遠慮会釈がある筈もなくて、「初の軍人出身の元老」となった異色の者を。
「あれがそうか」と、「冷徹無比な破壊兵器と訊いているが」と、浴びるだろう視線。
そして「彼ら」の好奇の瞳は、「キースの耳」へと向けられる。
今日の男がそうだったように。
話の合間に、チラリチラリと「見ていた」ように。
(…ピアスをしている軍人などは…)
いないからな、と百も千も承知。
女性の軍人も多いけれども、彼女たちでさえ「つけてはいない」。
上級士官になった場合は、「女性だから」と許されることもあるものの…。
(装身具の類は、軍紀で禁止になっているのが常識で…)
特別に申請しない限りは、下りない許可。
ピアスだろうが、指輪だろうが、ブレスレットやネックレスだろうが。
認識票さえ、表立っては「つけない」もの。
けれども「キース」が「つけている」ピアス、それは何処でも人目を引く。
軍の中でも、休暇で任務を離れた時も。
(男がピアスをつけているなど…)
普通の職業では、まず有り得ない。
注目を浴びる「スター」だったら、身を飾ることもあるけれど。
ピアスやブレスレットや、ネックレスなどで派手に飾りもするのだけれど。
(一般社会で働く者なら、せいぜい結婚指輪くらいで…)
男のピアスは「珍しい」もの。
まして軍人がつけているなど、誰の目で見ても「奇妙なこと」。
(元老の一人に選ばれたとしても…)
やはり同じで、「あれを見たか?」と皆が囁き交わすのだろう。
何処へ行っても、耳のピアスに視線を向けて。
「どうしてピアスをつけているのか」と、「まるで女のようではないか」と。
国家騎士団の中にいてさえ、目立ったピアス。
身につけて直ぐに昇進したから、さほど話題にならなかっただけ。
(二階級特進で、上級大佐になったのではな…)
それまでの「少佐」とは格が違うし、誰も無遠慮に眺めはしない。
上級大佐よりも上の階級、それに属する者は少ない。
そういった「上の階級の者」も、「キース」の任務と働きぶりは知っている。
グランド・マザーが直接、指名するほどだと。
下手に「キース」に口出ししたなら、自分の首が危ういのだと。
(…露骨に見る者は無かったが…)
きっと今でも、ピアスが気になる「軍人」は多いことだろう。
教官時代に教えたセルジュや、パスカルといった直属の部下も、その内に数えられるだろう。
彼らでさえも、「知らない」から。
「人の心を読む化け物」の、マツカでさえも「気付いてはいない」。
どうしてピアスをつけているのか、「何で出来ている」ピアスなのか。
あれほど何度も、「サム」の見舞いに足を運んでいるというのに。
(…ピアスを作ってくれた医者には、口止めをしてあるからな…)
サムの赤い血で出来ているピアス。
「そういうピアスを作って欲しい」と頼んだ医師には、口止めと、充分すぎる謝礼と。
今ではサムの主治医の「彼」は、生涯、誰にも喋りはしない。
SD体制がミュウに倒され、「キース」が死んだら別だけれども。
その状況で、「彼」が生き残っていたら、だけれど。
(…そうなった時は、ジョミー・マーキス・シンが知るのか…)
ジルベスター・セブンで対峙した時、彼が「見抜けなかった」こと。
どうして「キース」が「あそこに行ったか」、耳のピアスは「何だったのか」。
(ミュウの長でも、私の心は読めないからな…)
ソルジャー・ブルーの方であったら、読まれていたかもしれないけれど。
「友人の仇を取りに来たのか」と、一瞬の内に。
(しかし、あいつも読み取らなくて…)
ピアスの正体は知られないままで、ついに此処まで来てしまった。
誰に話す気も持たないだけに、「ただのピアスだ」と思われたままで。
クーデターを起こしてトップになっても、元老として迎えられても、話しはしない。
耳のピアスは何のためなのか、何で出来ているピアスなのかは。
(…サムとの友情の証だなどと…)
言おうものなら、きっと足元を掬われる。
「キース・アニアン」にも、「人情」があると知られたら。
友の見舞いに通っているのは、パフォーマンスではないと知れたなら。
(…私の口からは、きっと一生…)
話さないから、永遠に誰も「知ることはない」ままだろう。
サムの赤い血で出来たピアスを、「キース」がつけていたことは。
ミュウに敗れて、「ジョミー」が知る日が来ない限りは。
(…それも悪くはないのだがな…)
一人くらい知ってくれていても、という気もするのは、恐らく「ヒト」だからだろう。
無から作られた生命とはいえ、友がいて、「情もある」のだから。
冷徹無比な破壊兵器でも、「キース」も「ヒト」には違いないから…。
話さない秘密・了
※キースがピアスをつけている理由は、誰一人、知ってはいないわけで…。その材料も。
とんでもない噂になった話はネタ系で書いてしまいましたけど、こっちはシリアス。
(……新入生……)
また増えるんだ、とシロエが見下ろす手摺りの向こう。
遥か下にある、E-1077のポートに着いた人々が出てくるフロア。
新入生を乗せた船が着くと耳にしたから、こうして眺めにやって来た。
此処に来た時の「自分の気持ち」を思い出すために。
(…今はキョロキョロしてるけど…)
勝手が分からず、おどおどしている新入生たち。
けれども、じきに彼らは「慣れる」。
E-1077という場所にも、子供時代の記憶を失くしてしまったことにも。
(覚えていたって、戻れない過去は要らないってね)
育ててくれた養父母のことも、馴染んだ故郷の風も光も、彼らは捨てる。
マザー・イライザの導きのままに、ホームシックになることもなく。
「家に帰りたい」とは考えもせずに、新しい生活に夢中になって。
(……ぼくは、そうなれなかったんだ……)
別に悔しいとは思わないけど、と返した踵。
機械に与えられた屈辱、それさえ忘れなければいい。
自分が何を失くしたのかを、機械に何を奪われたかを。
(…テラズ・ナンバー・ファイブ…)
アルテメシアで成人検査を行った機械。
左右非対称の顔をしていた、忌まわしく呪わしい存在。
あの機械の顔は忘れないのに、父と母の顔は薄れてしまって思い出せない。
どんなに記憶を手繰り寄せようとして頑張ってみても、欠けた記憶を補おうとしても。
「母に似た姿」でマザー・イライザが現れた時に、懸命に紙に描き付けても。
(…失くした記憶は、取り戻せなくて…)
きっと努力を怠ったならば、見る間に消えてゆくのだろう。
遠ざかる過去を繋ぎ止めようと、必死にしがみつかなかったら。
「記憶を消されてしまった」事実を、忘れまいとして足掻かなかったら。
今日も此処まで「見に来た」ように。
此処へ来た日の自分の心境、それを決して手放すまいと。
忘れるもんか、と戻った部屋。
今日の講義は全て終わって、夕食もカフェテリアで済ませて来た。
もうこの部屋から出ることは無いし、後の時間は「自分のもの」。
さっき「見て来た」新入生たち、彼らと自分を重ねてみる。
「此処に来た日」の自分はどうかと、彼らより少しはマシだったかと。
(…ピーターパンの本を持っていたから…)
失くしてはいなかった「拠り所」。
両親も故郷も忘れさせられても、ピーターパンの本は残ってくれた。
幼い頃から宝物にして、成人検査の日にさえも「持って出掛けた」本。
成人検査を受ける時には、荷物は持って行かないというのが決まりだったのに。
(そんな決まりを守る方が、どうかしてるってね)
さっきの新入生たちにしたって、何も持ってはいなかった。
自分と同じ宇宙船に乗って来た候補生たちも、「思い出の品」は持たないまま。
その分だけでも「シロエ」には運があったのだろう。
思い出のよすがを持って来られて、両親を、家を、故郷を懐かしめるのだから。
(…だけど、そんなの…)
懐かしむ奴らもいやしないから、と分かってはいる。
此処で暮らす生徒たちが考える「故郷」というのは、自分とは違うモノらしい、と。
彼らは「幼馴染」や「故郷という場所」を懐かしく思い出しているだけ。
どういう友達と共に育ったか、同郷の者が誰かいはしないかと。
「今の自分」に繋がる現実、それしか彼らは求めてはいない。
E-1077で生きてゆくのに、「とても役立つ」記憶だけしか。
友を作るなら誰と気が合うとか、故郷での思い出話とか。
(…そういうのはスラスラ話すくせにね…)
養父母のことや、故郷の風や光なんかは、彼らにとっては「どうでもいいこと」。
機械が全てを消し去っていても、まるで疑問に思いはしない。
(……ぼくだって……)
その「からくり」には、もう気付いている。
「シロエ」の中にも、消えずに残った記憶が幾つもあるものだから。
友の顔だの、エネルゲイアの学校だのは、今も忘れていないのだから。
記憶を「選んで」消していった機械。
憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
消された記憶を「取り戻す」には、気の遠くなるような時がかかるのだろう。
いつの日か、地球のトップに立てる時まで。
国家主席の座に昇り詰めて、機械にそれを命じる日まで。
「奪った、ぼくの記憶を返せ」と、国家主席の命令として。
その日まで、記憶は戻りはしない。
何度、ポートに通い詰めても、新入生たちの姿を目で追ってみても。
「ぼくも最初は、あんな風だった」と、「此処での記憶」が蘇るだけで。
(…それよりも前に消された記憶は…)
戻りやしない、と唇を噛む。
機械が無理やり奪った記憶を戻す術など、何処にもありはしないのだから。
「それを戻せ」と命じない限り、機械は「返してくれない」から。
(……自分の力で取り戻すなんて……)
出来やしない、と悲しくて辛い。
それが出来るだけの力を得るまで、いったい何年かかるだろうかと。
(…今すぐにでも返して欲しいのに…)
取り戻せるなら、何としてでも取り戻したいと思うのに。
そのためだったら、惜しいものなど何一つありはしないのに…。
(…機械が奪ってしまった記憶は…)
けして返って来てはくれない。
どんなに捜し求めようとも、何処かに消えてしまったままで。
脳の奥深く沈められたか、跡形もなく処理されて無いというのか。
(……どっちなんだろう?)
失くした記憶は「何処にも無い」のか、あるいは「押し込められた」のか。
思い出せないだけで「持っている」ものか、「持ってはいない」ものなのか。
(…成人検査の時のショックで…)
記憶が消えてしまう例が、たまにあるのだと聞いた。
機械は其処まで求めていないのに、一部が欠落してしまうことが。
(……意図してないのに、消えるんだとしたら……)
機械は「脳」を弄ってはいない。
外部から与えたショックか暗示か、そういった形で消したのだろう。
成人検査の時に受けた思念波、あれを使って。
脳に大きな負荷をかけたか、何らかの方法で「押し込めた」記憶。
(押し込める時に失敗したなら…)
予期しないことまで「消える」というなら、その逆もまた可能だろうか。
「消えた筈」の記憶を「元に戻す」こと、それが出来ると言うのだろうか。
(…記憶喪失っていうのがあるよね?)
大きなショックを受けた時などに、記憶がストンと抜け落ちること。
抜け落ちた記憶は、何かのはずみに「自然に」戻ることがある、とも。
消えた記憶の鍵になるもの、それを目にした時に戻って来るだとか。
(頭を打ったら、よく起こるって…)
その手の記憶障害などは。
抜け落ちた記憶が戻る時にも、再び頭を打ったりする。
正真正銘、外部からの衝撃が左右する記憶。
(…そういうことが、あるんだったら…)
自分の記憶も同じだろうか。
E-1077で「暮らす」だけでは戻らなくても、突然の事故に遭ったりすれば。
(無重力訓練の時なんかだと…)
命の危険が伴うのだから、高いかもしれない可能性。
重力がある場所に戻った途端に、姿勢を、バランスを崩したならば。
(床や壁に頭をぶつけてしまって…)
その時のショックで、失くした記憶が戻るだろうか。
故郷で暮らしていた頃の「シロエ」、子供時代の「自分」に戻れるだろうか。
(戻れるんなら…)
それもいい。
「子供に戻ってしまったシロエ」は、候補生としては失格でも。
地球のトップを目指す道など、閉ざされて病院暮らしでも。
それもいいかも、と思わないでもない「戻る道」。
自分が自分に戻れるのならば、メンバーズなどになれなくてもいい。
両親を、故郷を、全て「思い出して」、幸せに生きてゆけるなら。
たとえ病院の中であろうと、「全てを」もう一度、手に出来るなら。
(…それで記憶が戻るんならね…)
エリートの「シロエ」は、いなくなってもかまわない。
子供時代に戻れるのならば、自分から進んで事故に遭ってもいいとさえ思う。
新入生の姿を見に行ったポート、あそこの手摺りを乗り越えても。
夢中になって覗き込むふりをしながら、手摺りを放して身を投げても。
(あそこから真っ直ぐ落ちて行ったら…)
習った受け身も取らなかったら、自分は子供に戻れるだろうか。
本物の両親は「其処に」いなくても、いてくれるようなつもりになって。
ピーターパンの本を手にして、「パパ、ママ!」と開いて見せたりもして。
(いい子の所には、ピーターパンが迎えに来るんだよ、って…)
いつも笑顔で、無邪気な「シロエ」。
そういうシロエに戻れるのなら、その確証があるのなら…。
(…あの手摺りを越えて、飛ぶんだけどね…)
飛びたいとさえ思うけれども、百パーセントではない「結果」。
単に命を落とすだけとか、身体の自由を失くしてしまっておしまいだとか。
その可能性も充分あるから、「宙に飛び出す」ことは出来ない。
それが一番の早道でも。
地球のトップに昇り詰めるより、早く記憶が戻りそうでも。
(…やっぱり、まだまだ何十年も…)
記憶は戻ってくれないんだ、と零れる涙。
本当に記憶が戻るのだったら、手摺りを越えて宙に舞うのに。
百パーセントの結果が出るなら、病院暮らしの「子供のシロエ」でかまわないのに…。
記憶が戻るなら・了
※サムが「子供に戻っていた」なら、機械が消した記憶は「戻せる可能性がある」わけで…。
シロエだったら憧れるかも、という話。百パーセントの結果でなければ駄目ですけどね。
(ミュウは排除すべき生き物なのだ…)
この宇宙からな、とキースが改めて思うこと。
ミュウの版図は拡大の一途を辿るけれども、それを防ぐのが「キース」の務め。
数々の暗殺計画にさえも屈することなく、此処まで歩み続けて来た。
何もかも、全ては「人類」のために。そして「地球」のために。
(…ミュウの侵入を許したら…)
宇宙の秩序は全て崩れる、と一人、傾けるコーヒーのカップ。
少し冷めた「それ」を淹れて来たのは、ミュウなのだけれど。
(……マツカは、役に立つからな……)
今の所は「人類のために」役立っている、と夜の自室で言い訳をする。
とうの昔に「入り込んでいる」ミュウ、それが「マツカ」。
人類どころか、国家騎士団の内部にまでも。
国家騎士団総司令の側近、そういう立場に「いる」者がミュウ。
けれど、あくまでマツカは「例外」。
役に立つから側近なのだし、その辺にいるミュウとは違う。
今日も実験する所を見て来た、開発中のAPD。アンチ・サイオン・デバイススーツ。
それを着ければ、対サイオンの訓練を受けていない者でも…。
(ミュウを相手に戦えるわけで…)
もうそれだけで、即戦力が増すことだろう。
対サイオンの訓練で鍛え上げられるのは、素質を持ったエリートのみ。
彼らの数は限られるだけに、とてもミュウには対抗できない。
それを補うのがAPDスーツで、全軍きってのゴロツキだろうが、立派な兵士に変身する。
今は開発中だけれども、見事、完成した暁には。
(あれの開発に欠かせないのがミュウどもだが…)
捕獲され、処分される運命のミュウ。
彼らを待つのは元から「死」だから、ただ死に場所が変わるだけ。
処分用の施設で殺されてゆくか、開発中のAPDを着けた兵士に撃ち殺されるか。
そういった「ミュウ」なら、いくら死んでも惜しくはない。
彼らは排除すべき存在、端から殺していった所で、痛くも痒くもないのだから。
宇宙の秩序を乱すのが「ミュウ」。
SD体制の中から生まれる異分子、「人類」とは違う異質なモノ。
彼らは悉く処分すべきで、排除すべきだと信じている。
人の心を盗み見るような輩は生かしておけないから。
(…その点、マツカは何も問題ないからな…)
きちんと躾けてあるのだから、と唇に浮かべた薄い笑み。
マツカに心を読まれたことは、ただ一度だけ。
ジルベスターへと向かう途中で、ソレイドの基地で出会った時。
(あれは私が、わざと読ませて…)
ミュウかどうかを確かめたのだし、「読まれた」内には数えられない。
承知していて「読ませる」ことと、意識しないで「読まれる」こととは、明らかに別。
マツカを生かしておいた理由は、幾つもあると思うけれども…。
(要は、役に立つミュウだからで…)
その辺のミュウとは全く違う、と自信を持って言うことが出来る。
「自分」は、けして「裏切ってはいない」と。
ミュウの排除を唱えながらも、ミュウを側近にしていることで。
(役に立つ者は、使わねばな…)
使いこなせれば、それでいいのだ、と自分自身にも、ある自信。
ミュウの「マツカ」を使いこなして「役に立てられる」のは、自分だから。
もしも、あのままソレイド軍事基地にいたなら…。
(…グレイブにとっては、何の役にも立たない部下で…)
きっと基地では、使い走りでしかなかっただろう。
「ミュウの存在」さえ知らなかったマツカは、ただの劣等生の軍人。
ろくに「使えはしない」部下だし、グレイブがノアへ転属になった段階で…。
(置いてゆかれて、それきりだな)
次にソレイドに赴任した者の部下になるだけ。
グレイブからの申し送りには、とても低い評価がつけられていて。
引き継いだ者が「マツカ」を見たって、真価は見抜けなかったろう。
「使えない奴だ」と思うばかりで、つまらない仕事しか与えはせずに。
要は資質の問題なのだ、と可笑しくなる。
「ミュウのマツカ」を上手く使うのも、価値に気付かず、「役立たない」と思うのも。
巧みに使いこなせさえすれば、マツカは役立つ部下なのに。
並みの軍人よりも優れた面さえ、幾つも持っているというのに。
(…暗殺者の弾を、素手で受け止めるなどは…)
セルジュでさえも無理だからな、と宙港での出来事を考えてみる。
あれはゴフェルの暴動鎮圧、その任務から戻った時だったか。
船を降りるなり、整列していた兵士の中から、飛び出して来た暗殺者。
まさか軍の中から、出てくるとは思わないものだから…。
(当然、武装していたわけで…)
銃には実弾がこめられていた。
本当だったら、あそこで「キース」の命は終わっていたのだろう。
防弾服など着けていないし、避ける暇さえ無かっただけに。
けれど、「マツカ」が役立った。
他の者には、その動きさえも見切ることは出来ない「ミュウの能力」。
誰にも知られず飛び出して行って、実弾を全て、手で受け止めた。
「そうした」ことを、知る者さえも無いままで。
同じように側にいたセルジュからは、「役立たずだ」と思われたままで。
(…あの能力は、人類には持ち得ないものだ…)
ついでに「その辺のミュウ」も同じだ、とフンと鼻を鳴らす。
SD体制の異分子だというだけの「ミュウ」など、たかが知れている。
彼らは「人の心を読む」だけ、「サイオンを持っている」だけの者。
その能力を「どう使うか」など、彼らの頭に入ってはいない。
追い詰められれば、サイオンを爆発させるけれども…。
(意識して使いこなすことなど、出来ない奴らだ)
それが出来るなら、とうに逃亡しているだろう。
APDスーツの実験台として、あの場に引き出される前に。
押し込められた「檻」から出された途端に、警備の兵を全て倒して。
並みのミュウでも、それだけの力は、充分に持っているのだから。
「使える」ミュウと、「使えない」ミュウ。
その差は何処から生まれるものか、それを考えるつもりは無い。
じきに滅ぼす種族のことなど、深く突き詰めても無意味なこと。
「キース」は、「人類」を守りさえすればいいのだから。
(…私だから、マツカも使いこなせる…)
本来は「処分される」筈のミュウ、その能力さえ「役立てている」。
ミュウを滅ぼすことが使命の、「キース・アニアン」の側近として。
マツカは大いに役に立つから、これから先も使ってゆかねば。
宇宙から「ミュウ」がいなくなるまで、ミュウの艦隊を沈め、殲滅する日まで。
(…ミュウを宇宙に広げないためには…)
いずれミュウ因子のチェックも必要になるだろう。
ミュウが制圧した惑星から、このノアにも移民船が来ている。
彼らと共存したくない者、そういう人類が逃げ出して来て。
(……だが、その中にミュウがいないとは……)
言い切れないのが「現実」なのだし、いつか提案せねばならない。
それを言える立場に立った時には、「すぐに実行するように」と。
ミュウが宇宙にはびこらないよう、彼らを水際で食い止めるために。
(…入国審査を厳重にして…)
宙港でサイオンの有無をチェックさせること。
ミュウ因子が陽性反応の者は、その場で捕らえてしまえばいい。
彼らがサイオンを爆発させても、対抗できる「警備兵」が完成したならば。
(育成するのは、とても無理だが…)
APDスーツさえ出来上がったら、ただの警備兵でも可能になる。
陽性反応を示した者たち、彼らを排除することが。
いきなりサイオンが爆発しようと、それに対抗することが。
(自由に動けさえしたら…)
撃ち殺すことは簡単だからな、とAPDへの期待が高まる。
あれさえ出来たら、「それ」を進言すべき時。
入国審査を厳重にしろと、「ミュウは水際で防ぐべきだ」と。
そうして入国審査で始めて、徐々に範囲を広げてゆく。
「既に入り込んでいる」かもしれない、「人類に混じったミュウ」を排除しに。
彼らを端から処分するために、一人たりとも見落とさないために。
(…ノアの一般人はもちろん、軍の内部にも…)
ミュウは「いる」かもしれないのだから、探し出しては処分してゆく。
たとえ「軍人」であろうとも。
国家騎士団員の中から、直属の部下から「ミュウ」が出ようとも。
(…だが、マツカだけは…)
検査から除外しておかねばな、と「正当な理由」を考えてある。
マツカが検査を受けさせられたら、「ミュウ」だと発覚してしまうから。
そうなった時は、「貴重な部下」を失うから。
(…役に立つミュウは、使いこなせる者が使ってこそだ)
そして用済みになった時には…、と進めた思考を其処で打ち切る。
「まだ、その時は来ていないからな」と、強引に。
その時が来れば「考えればいい」。
とても役立つ、忠実な部下の「マツカ」のことは。
ミュウは処分すべきだと考えていても、マツカは役に立つのだから。
役に立つ者は、有能な者が十二分に使いこなしてこそ。
次の任務ではどう使うべきか、その能力をどう生かすべきかと…。
役に立つ部下・了
※キースがマツカを「生かしている」理由。本当は「役に立つから」だけではない筈で…。
けれど普段に考える時は「こう」だろうな、というお話。あくまで「役に立つ」というだけ。
(雨は降らないんだ…)
それに曇りの日だって無い、と不意にシロエが思ったこと。
ステーション、E-1077。
其処の中庭に一人でいた時、目に入ったのが散水機。
木や花などが植わっているから、決まった時間に撒かれる水。
乾燥しすぎて、木や花が枯れてしまわないように。
ごくごく見慣れた風景だけれど、今日は心に引っ掛かった「それ」。
此処では「雨」は降らないのだ、と。
宇宙に浮かんだステーションでは、雨などが降る筈もない。
中庭はあっても空さえも無くて、上を見上げても空の欠片も見付かりはしない。
(…ただの天井…)
明るさを調節するための照明、そういったものが上にあるだけ。
雨の代わりに光を降らせて、人工の「昼」を作り出す。
太陽が無いステーションには、朝も夜も無いものだから。
放っておいたら漆黒の闇か、いつまでも明るいだけの世界になってしまう中庭。
それでは心が落ち着かないから、作り出される人工の「昼」。
銀河標準時間の朝が来たなら、明るくなってゆく照明。
中庭の木たちを照らし出すために、花壇にも光を与えるために。
(…よく出来てるけど…)
所詮は偽物、此処に「本物の朝」などは無い。
太陽が昇って来ることは無いし、けして夜明けが訪れはしない。
中庭を包むステーションの外は、いつだって「闇」があるばかり。
(朝なんか、来やしないから…)
ネバーランドに繋がる道さえ、此処から開くことは無い。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」。
ピーターパンの本に書かれた行き方、それが通用しない場所。
朝が無いなら、二つ目の角を右に曲がっても無駄だから。
後は朝までずっと真っ直ぐ、そうやって目指す「朝」が無いから。
そんな場所だと、分かってはいた。
「ネバーランドにさえ行けない場所だ」と、「ピーターパンだって、来られやしない」と。
朝も無ければ、ピーターパンやティンカーベルが飛ぶ「空」も無いから。
故郷とはまるで違う場所だと、「本物の光も、風も無いんだ」と思ってはいた。
けれど、改めて気付かされたこと。
このステーションでは、「雨」も降らない。
空から落ちる雫の代わりに、散水機が撒いてゆくだけの水。
雨を降らせる雲が湧かないから、曇りの日だって「此処には無い」。
じきにポツリと落ちる雨粒、それを思わせる湿った風が吹いてゆく日も。
(……雨の前には……)
あった気がする、「降る」という予感。
どうやって「それ」を感じただろうか、流れゆく雲を見たのだろうか。
雨を降らせる雲は「あれだ」と、エネルゲイアの空を仰いで。
見るからに雨を降らせそうな雲を、「雨雲なのだ」と分かる雲たちを。
(…雨雲は、白い雲と違って…)
もっと灰色だったように思う。
その灰色が濃くなるほどに、降って来る雨も強かった。
雨雲が空に湧いた時には、吹く風も確かに違っていた。
(木がある場所なら、ザアッと風の音がして…)
湿り気を帯びた風が吹き抜け、その後に雨が降り出したろうか。
家まで慌てて走る途中に、容赦なく。
傘を持ってはいないというのに、帰り着くまで待ってくれずに。
(…何度も濡れてしまったけれど…)
此処よりはマシだ、と思う「雨」。
急に降られて濡れてしまっても、故郷には「雨」があったから。
木や花たちの命を育てて、乾いた地面を潤す雨。
エネルゲイアには高層ビルが多かったけれど、土に触れられる場所だってあった。
そういった所を濡らした雨。
機械が水を撒くのではなくて、高い空から降り注いで。
空も無ければ、雨も降らないステーション。
故郷とは似ても似つかない場所、暗い宇宙に浮かぶ牢獄。
(…ぼくから、何もかも奪い去って…)
こんな所に閉じ込めたんだ、と憎いだけの機械。
水を撒いてゆく散水機を憎みはしないけれども、憎い機械は此処にだってある。
(マザー・イライザ…)
E-1077を支配しているコンピューター。
地球にあると聞く、グランド・マザーの手先の機械。
エネルゲイアで「記憶を奪った」、テラズ・ナンバー・ファイブの仲間。
成人検査を「やった」機械と、その後の「自分」を支配する機械。
どちらの立場が上になるのか、まだ教わってはいないけれども…。
(…マザー・イライザより、テラズ・ナンバー・ファイブの方が…)
きっと上位に位置するのだろう。
小さなステーションとは違って、「惑星」を支配していただけに。
故郷の星のアルテメシアを、あそこにあった二つの育英都市を。
(大勢の子供の記憶を奪って、教育ステーションに振り分けて…)
いったい何人の子供を泣かせただろうか、あの忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブは。
今も故郷にある筈の機械、「シロエの過去」を奪ったモノは。
(…他の候補生たちは、少しも気にしていないけど…)
故郷や両親の記憶のことなど、何とも思っていないけれども。
それがどうやら「普通」らしいけれど、きっと中には…。
(ぼくみたいな子も、何人かいて…)
薄れた記憶に苦しみながら、今ももがいているかもしれない。
E-1077とは違う何処かで、他の教育ステーションで。
(…あの機械さえ無かったら…)
成人検査さえ無かったのなら、今だって何も忘れてはいない。
両親の顔も、懐かしい故郷の風も光も、此処にいてさえ鮮やかに思い出せたろう。
空さえも無くて、雨が降ることも無い所でも。
いつでも「それ」を思い出せたら、ただ懐かしさだけがあっただろうに。
けれども、思い出せない過去。
何の手掛かりも得られないまま、この牢獄で苦しむだけ。
消された過去には「鍵」も無いから、その「鍵」で過去への扉は開いてくれないから。
(…ママの顔だって、マザー・イライザに似てる筈なのに…)
マザー・イライザを目にした時には、ただ噴き上がるだけの憎しみ。
懐かしい母を真似る機械を、許す気などにはなれなくて。
激しい憎しみが先に立つから、まるで手掛かりにはならない「姿」。
(…もっと違う形で、ママやパパの…)
記憶を引き出す「鍵」があったら、と何度思ったことだろう。
ピーターパンの本が鍵ではないかと、ページをめくり続ける日々。
ページの何処かに「鍵」が隠れていはしないかと、文字も挿絵も、隅から隅まで眺め続けて。
(でも、鍵なんか…)
ありやしない、と溜息をついて、中庭を後にしようとして。
「雨さえ降らない場所」にクルリと背を向けかけて…。
(……雨……?)
さっき考えていた、雨の兆候。
降り出す前には雲が湧くとか、湿った風が吹いてゆくとか。
それは間違いなく「過去」の記憶で、子供時代に「故郷で」得たもの。
此処には「雨」は無いのだから。
雨雲が湧き出す空さえも無くて、本物の風さえ吹き抜けはしない。
(…あれは本物の雨の記憶で…)
エネルゲイアで「セキ・レイ・シロエ」が「見ていた」もの。
その耳で聞いた風の音やら、肌で感じた湿り気やら。
(降り始める前に、帰らなくちゃ、って…)
慌てた記憶も、きっと機械が与えた「偽物の記憶」などではない。
これから先に生きてゆく場所で、「雨」の記憶は「要る」だろうから。
E-1077に雨は降らなくても、惑星にゆけば雨は降るもの。
地球であろうと、首都惑星のノアであろうと。
(だとしたら…)
鍵になるのは「雨」だろうか、と急いで走って帰った個室。
故郷で雨に打たれた記憶を辿って行ったら、思い出せるかもしれない「何か」。
(パパやママと一緒に出掛けた場所で…)
急に降られて、雨宿りのために走っただとか。
あるいは学校からの帰りに、ずぶ濡れになって家に辿り着いたら…。
(…ママがタオルを出してくれたとか、ホットミルクを作ってくれたとか…)
もしかしたら、と高鳴る鼓動。
いつも食堂で頼むことにしている、マヌカ多めのシナモンミルク。
あれを「故郷で」飲んだ時の記憶、それが戻るかもしれないと。
「まあ、大変!」と、タオルを手にして駆けて来る母の、心配そうな顔だって。
(…雨の記憶を引き出すんなら…)
きっと、シャワーを浴びればいい。
冷水のままでコックを捻って、服も着たままで。
ただザアザアと打たれていたなら、「何か」を思い出すかもしれない。
「こんな日だった」と、雨が降る日を。
エネルゲイアに雨が降っていた日を、それに纏わる「消された」記憶を。
(……こうすれば……)
きっと、とバスルームで捻ったシャワーのコック。
制服のままで冷たい水に打たれて、故郷に思いを馳せるけれども…。
(…こんな所まで…)
機械は徹底して消したのか、と水と一緒に流れ落ちる涙。
雨の記憶で戻って来るのは、どれも「知識」か、「友達のこと」ばかりだったから。
これから先も生きてゆくためには、「必要」なモノ。
他の記憶は「どれも」ぼやけて、何も残っていなかった。
懐かしい両親も、帰りたい家も、「雨」と繋がってはいなかった。
きっと雨の日も、両親は其処にいたろうに。懐かしい家も、あっただろうに。
思い出せないから、冷たい水を浴び続けながら泣くしかない。
「ぼくは全てを失くしたんだ」と、「雨さえも、今じゃ知識でしかない」と…。
雨が無い場所・了
※故郷の風も光も「忘れた」とシロエは言ってましたけど、それだと後々、困るのでは、と。
基本になる記憶は「消去しない」筈で、それなら雨の記憶もありそう、というお話。