「キース先輩、遅刻でしょうか?」
来てませんよね、とシロエが見回す教室の中。もうすぐ朝のホームルームが始まる時間で、席にいなければ地味にヤバイという頃合いで。
「…俺はなんにも聞いてねえけど?」
連絡もねえし、とサムはのんびり、ジョミーだって。
「ほら、アレ…。いつもの月参りってヤツじゃないかな」
「月参りで遅刻は多いですしね」
それですよ、きっと、とマツカも至ってのんびりコース。
シャングリラ学園1年A組。そこに揃ったブラックリストな面々、それが特別生というもの。
一般人には秘密のサイオンを持った超能力者、と言えば非常にカッコいいものの、大した能力は持っていないらしい残念な面子。
思念波で連絡を取るのがせいぜい、後は外見が年を取らない程度というオチ。
ところが、此処に天才が一人。彼の名前はキース・アニアン。
サイオンを持った生徒が特別生になるには、一度卒業するというのがお約束。再入学して、学校生活再びの所を、天才は華麗に勘違いした。
他の面子は何も考えていなかった卒業後の進路、それをガッツリ見据えて行動。
「進路を決めるのは普通だろう」などと言ってはいけない、シャングリラ学園は普通ではない。
サイオンを持っていると分かれば、一年限りで卒業な運び。三年ある筈の高校生活、なのに一年限りでサヨナラと来た。
そのためだけに卒業旅行もしてくれるという強烈な学校、しかも一年生は全員、対象。おまけに特別生などという美味しい制度の説明も無くて、「アンタは卒業」と告げられるだけ。
これで進路を決められる方がどうかしている、履歴書になんと書けばいいのか分からない世界。
「中卒」はガチでいけるけれども、「高卒」と言っていいのかどうか。
さりとて「高校中退」でもないし、なのに高校の授業は一年分しか受けていないから、学歴では中退になったようなもの。
まあ、普通はオタオタするしかないから、他の面子は投げた人生。
「きっとなんとかなるであろう」と、「卒業式の後に進路相談会があるようだから」と。
卒業してから、進路相談もクソも無いのだけれど。
各種企業の採用期間はとっくに終了、バイト人生まっしぐらっぽい感じだけれど。
それでも人生をブン投げた面々、けれど天才はそうではなかった。
幸いなことに頭も良ければ、家業も立派にあったから。
生まれ育った家がお寺で、「坊主になる」と言いさえしたなら、そのまま家業を継げる人生。
よって、その道を選んだ天才、キース・アニアン。
彼は真面目に、宗門校と言われる大学の面接を受けた。宗門、すなわち寺が属する宗派の本山が経営している大学、寺の跡継ぎは大歓迎。
自分の名前を書けさえしたなら、入試もチョロイと噂が立つほど優遇される寺の跡継ぎ。
そんなわけだから、シャングリラ学園で一年しか学んでいないキースも特別枠で面接となった。
「試験なんかは受けなくていいです」、そんなアバウトな入学制度。
面接に出掛けて師僧の名前と継ぐべき寺を言えば合格、後は大学に入るだけ。
キースは堂々と「師僧は父のアドスです」と告げ、「家は元老寺と言います」とやって、見事に合格、翌年からは二足の草鞋な学生生活。
シャングリラ学園と大学を掛け持ち、そうして立派な坊主になった。
特別生には出席義務など無かったお蔭で、大学優先。ちゃんと四年をキッチリ務めて。
姑息な手段で、髪の毛はバッチリ死守したけれど。自慢のヘアスタイルをキープだけれど。
そんな天才、キースは只今、副住職。
アドス和尚に便利に使われる日々で、押し付けられるのが月参り。
檀家さんの家を回って読経で、それが済んだら着替えて登校。
シャングリラ学園がいくら型破りでも、制服は決まっているものだから。
登校するなら制服は必須、坊主の世界の制服な衣と袈裟ではコスプレにしかならないから。
「…キース先輩、今日は何軒回るんでしょうねえ…?」
午前中だけで済むんでしょうか、とシロエも首を捻る有様、ハードな世界が月参り。
「運が良ければ三軒ほどだろ。でもよ…。お婆ちゃんとかに捕まっちまうと…」
一軒で時間を食っちまうしな、とサムが言うのも、また正しい。
月参りに来る若い副住職、それを労おうと、お茶やお菓子を用意しがちな御老人。
実年齢の方はともかく、見た目は高校一年生なキース、ご老人からすれば孫のようなもの。
「今日は小僧さんが来てくれるから」といった感覚、ケーキなんかも出るらしい。
「どうなるのかしら? お茶とお菓子で、ゆっくりお喋りコースかしらねえ…」
私たちは今日も授業だけれど、とスウェナが言った所でチャイム。
廊下の方からコツコツと聞こえた高い靴音、それもお馴染みの1年A組名物の音で。
ガラリと開いた教師の扉、軍人さながらに入って来たのは眼鏡の男。
「諸君、静粛に!」
いつもうるさくて嘆かわしい、と眼鏡をツイと押し上げた、担任のグレイブ・マードック。
出席を取る、と順に読み上げる名前、それが止まって…。
「キース・アニアン。…欠席だな」
「「「えっ!?」」」
思わず叫んだ特別生の面々、月参りだと思っていたから。
月参りコースで遅刻な場合は、そこは「月参りか。…午後からだな」といった具合になるから。
あの天才が欠席だとは、と教室もザワザワ、いったい何が起こったのかと。
日頃、柔道部で鍛えているキース、そう簡単には風邪も引かない筈なのだが、と。
「やかましい! キースは法事だ!」
「「「法事!?」」」
そっちはアドス和尚の管轄では、と驚く特別生の御一同様、若すぎるキースが法事に出たなら、貫禄不足。檀家さんにもご迷惑だと、出るならせいぜい手伝いくらい。
そういう時には「明日は親父の手伝いで法事だ」と、予告があるのが常というヤツで…。
本当に何が起こったのかと、その日は派手に飛び交った推測。
元老寺もついに世代交代の時が来たかと、アドス和尚は引退なのかと。
「…楽隠居して、ゴルフ三昧とかもありそうですしね…」
ゴルフの会もありましたよね、とシロエまでが知る、アドス和尚の私生活。ゴルフの会で旅行に行ったら、キースが代理でババを引かされ、学校で文句を垂れているから。
「ゴルフでなくても、なんか色々やってるよなあ…。キースの親父さん」
キースも、とうとう住職かよ、とサムも頭を振る始末。
「そうなると、自由が無くなるわよねえ…」
「住職だと仕方ないですけどね」
スウェナとマツカも気の毒に思うキースの身の上、ジョミーもそれは心配そうに。
「…住職をするってことになったら、学校、来られないのかなあ…?」
「ウチの学校、出席しなくても、誰からも文句は出ませんけどね…」
でも、ストレスは溜まるでしょうね、とシロエが同情、他の面子も。
来る日も来る日も読経三昧、それがキースのデフォになるのかと。法衣に輪袈裟がデフォ装備になり、それが普段着の毎日なのかと。
そうやって皆が心配しまくり、同情しきりだったというのに…。
「「「ギックリ腰!?」」」
次の日、キースは朝からきちんと登校して来た。これが今生の別れになるかと眺めた面々、朝の挨拶を交わそうとしたら…。
「そうだ、親父が朝のお勤めの前にやらかしたんだ!」
迷惑すぎる、とキースが語った、アドス和尚のギックリ腰。
歯を磨こうとしていた朝の洗面所、何が悪かったか痛めた腰。その日に限って法事がビッチリ、午前も法事で午後からも法事。
和尚不在では出来ないのが法事、キースが出るしか無かったという法事が二つも。
「…なんだ、そういうことでしたか…。ぼくはてっきり、世代交代かと」
思い込んでしまって心配しちゃいましたよ、とシロエが切った口火、他の面子も口々に。
「いやあ、良かったぜ! 俺もホントに心配でよ…」
「ぼくも心配しちゃったってば、今日はお別れの挨拶かも、って…」
「縁起でもないことを言ってくれるな!」
俺はまだまだ住職なんぞは絶対やらん、と怒鳴る天才、キース・アニアン。
副住職くらいは務めてやるが、親父に逃げられてたまるものかと。
そんなこんなで無事に戻った副住職のキース、シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。
もうすぐカツカツと足音が廊下に響きそうだけれど、ホームルームの時間だけれど。
「諸君、静粛に!」と出席が取られ、賑やかな一日が始まるけれど…。
副住職の事情・了
※2008年の春から書いているらしい、イロモノなシャングリラ学園シリーズ。
オリキャラ排除で、一人称な日記風も排除、ちょこっと落書きしてみましたですv
「セキ・レイ・シロエ。…どうしましたか?」
また脳波が乱れているようですね、と浮かんだマザー・イライザの影。
シロエが座っている机の向こう、見慣れてしまったその姿。
明かりを落として、考え事をしていた最中。
ピーターパンの本を開いて、失くした記憶が戻って来ないか、そういう戦い。
これは違うと、これも違うと、偽の記憶を選り分けながら。
成人検査で機械が無理やり押し込んだそれを、一つ、二つと。
なのに、無常に響いた音。
マザー・イライザからのコンタクト。
嫌でもログインするしかなかった、此処ではそういう決まりだから。
一言も言葉を交わしはしないで、放っておくことは不可能だから。
(…マザー・イライザ…)
呼んだつもりは無かったのに。
出て来て欲しくなど無かったのに。
(ぼくは、お前を呼んでなんか…!)
けして呼んではいないというのに、なんという機械なのだろう。
何処までしつこく付き纏うのか、このステーションのコンピューターは。
「…シロエ?」
どうしたのですか、と優しい声音のマザー・イライザ。
猫撫で声にしか聞こえないけれど。
聞くだけで苛立つ声だけれども。
その上、見たくない姿。
どうしてこういうシステムなのか、マザー・イライザというものは。
この忌々しい、呪わしい機械は。
やっとのことで切った通信、「レポートの続きがありますから」と。
まるで嘘ではなかったレポート、ただし勉強とは無関係。
一心不乱に取り組む相手は、マザー・イライザに乱された心。
乱されたけども、好機とも言えた今の通信。
レポートの下書きをするための用紙、それを机の上に広げた。
罫線は無視して、鉛筆で線を描いてゆく。
文字を綴ってゆくのではなくて、設計図というわけでもなくて。
(…こんな感じで…)
美術の授業などは無いのだけれども、シロエが始めたことはデッサン。
機械いじりを得意とするから、この手の作業も苦手ではない。
大まかな線をグイグイと描いて、「こんなものかな」と大きく頷く。
(…忘れない内に…)
今日は確かにこう見えたから、と次は細部を埋めてゆく作業。
それがレポート、既に脳波は乱れてもいないことだろう。
なにしろ、集中しているのだから。
チャンスは自分で掴むというのが、エリート候補生の鉄則なのだから。
懸命に描いて、描き続けて。
(出来た…!)
描き上がったものを誰に見せても、「これ、誰だよ?」と訊かれるだろう。
そうでなければ、「シロエのママなの?」と。
(…マザー・イライザ…)
あの憎らしいコンピューターの、たった一つの利点はこれ。
身近な女性の姿を映して現れること、それだけは評価してもいい。
(物凄く腹は立つんだけれどね…)
エネルゲイアに今もいるだろう、優しかった母。
その母の姿を真似ないで欲しい、機械のくせに。
一滴の血さえも流れてはいない、ただの巨大なコンピューターのくせに。
けれど、マザー・イライザはそういう機械。
そういうシステム、誰もがそれを喜ぶらしい。
親しみを覚える姿だから。
母や、想いを寄せる女性の姿で前に現れてくれるから。
大切な母を真似る機械は、壊してやりたいくらいだけれど。
それを逆手に取ることも覚えた、こういう風に。
マザー・イライザの姿を見た日は、母を真似ていた機械を描く。
机にレポート用紙を広げて、今日の姿はこうだった、と。
(…ママの姿は、もう少し…)
どうだったろうか、直したいのに思い出せない母の顔。
マザー・イライザを描き留めた絵から、母の肖像画を描きたいのに。
これが母だと、ぼくのママだと、心が叫び出すような絵を。
会心の作の母の絵を描き、大切に飾っておきたいのに。
(…何処が似ていないのか、分からないよ…)
ママ、とポタリと零れた涙。
皆の前では「母さん」と呼ぶのが、いつしか普通になっていた母。
けれども、心で呼ぶ時は「ママ」。
本当に会いたい母は今でも、ママと呼ぶのが相応しいから。
どんな時でも、温かくて優しかった母。
柔らかい手をしていた母。
いつか必ず描き上げてみせる、母の姿を写した絵を。
これが母だと、ぼくのママだと、誰もに見せたくなるような絵を。
きっといつかはそれを描きたい、懐かしい母がどんなだったか、いつまでも覚えていたいから。
きっと描くんだ、と心に誓う。
忌まわしいマザー・イライザを元に、今も会いたくてたまらない母を…。
母の似姿・了
※マザー・イライザは、シロエにはこう見えるんだよな、と考えたまではいいんですけど。
思い切りマザコンになっていたオチ、どちら様にもゴメンナサイです…。
「バースデープレゼントだ。やるよ」
お前、凄く欲しがってただろ。俺の名前、入ってるけど…。
そう言ってサムが渡してくれたプレゼント。
ドリームワールドの百周年記念パス。
「俺たち、ずっと友達だぜ」と、「大人になって、また会えるといいな」と。
(ずっと友達…)
それが本当ならいいんだけど、とジョミーがついた大きな溜息。
帰り着いた家で、自分の部屋で。
明日の今頃には、もういない部屋。二度と戻って来られない部屋。
「成人検査でいい結果が出ることを祈っているわ」と、スウェナが贈ってくれたキス。
「グッドラック」と。
そしてサムからは、ずっと欲しかったドリームワールドの百周年記念パス。
(…二人とも、きっと正しい筈で…)
何も間違ってはいないと思う。
明日は目覚めの日で、十四歳の誕生日。
その日になったら、大人の世界へ向けて旅立つと教えられた日。
いつも通った学校の教室、一人、二人と減っていった生徒。
持ち主が消えてしまった机。
誰もおかしいと思いはしなくて、それが普通だと思っていて。
(…自分の番が来るのを、待ってる奴だって…)
珍しくないし、サムもスウェナも、多分、待ち侘びているのだろう。
彼らの机が空になる日を、目覚めの日が彼らに訪れるのを。
(グッドラックって言われても…)
どう幸運を祈ると言うのか、明日になったら戻れないのに。
今日まで両親と暮らして来た家、自分のものだと信じていた部屋。
どちらにも、もう戻れはしない。
考えるほどに寂しいばかりで、不幸だとしか思えない明日と、明日行われる成人検査と。
(…今朝はこんなじゃなかったのに…)
ここまで酷くはなかったと思う、父の言葉が嬉しかったから。
早めに帰るよ、と笑顔で仕事に出掛けた父。
「目覚めの日の前祝いだ」と、「みんなでパーティーでもしよう」と。
あの時は本当に嬉しかったから、「やった!」と叫んでしまったけれど。
心が躍っていたのだけれども、そのパーティー。
(…お別れパーティー…)
そうなるのだった、考えてみれば。
両親と一緒の最後のパーティー、次にパーティーがあるとしたなら…。
(…何処になるわけ?)
それすらも分からないのが今。
きっと誰にも答えられない、次のパーティーの場所などは。
サムには「性格に問題ありすぎ」と笑われてしまった、メンバーズ。
それを目指してエリートコースに進んで行くなら、次のパーティーはそういう所。
両親のような一般人になるのだったら、そうしたコースの何処かでパーティー。
他にもコースはあると聞いたし、もう本当に分からない。
明日の今頃、自分が何処にいるのかは。
次のパーティーに出るとしたなら、その場所が何処になるのかは。
(…こんなので、ずっと友達だなんて…)
サムの顔には「約束だぜ」と書いてあったのだけれど。
本当にそうだと信じているから、プレゼントを渡してくれたのだけれど。
(…これだって…)
あの時は嬉しかったけれども、今、眺めたら不安でしかない。
ブレスレットの形をしている、ずっと欲しかった記念パス。
サムの名前が入ったそれ。
(…これだと、腕に嵌められるから…)
成人検査の時も着けて行けるし、そのまま持って旅立って行ける。大人の世界へ。
もう間違いなく、そこまできちんと考えてくれてのプレゼント。
目覚めの日には、荷物を持っては出られないから。
そういう決まりになっているから。
(…他のものは全部…)
駄目なんだった、と見回した部屋に、幾つも思い出。
家族写真のフォトフレームやら、本やら、壁に飾ったポスター。
アルバムだって持って行けない、この部屋に置いて出掛けるしかない。
(また見たいって気分になっても…)
家に戻って見られはしないし、全てに別れを告げるしかなくて。
そんな状況に追い込まれる日に、どうして「グッドラック」なのか。
前祝いに「お別れパーティー」なのか。
(大人になっても、ずっと友達…)
サムの言葉が本当だったら、両親もずっと両親だろうと思うのに。
どうやらそれは違うらしくて、明日でお別れらしいから。
なんとも不安で、寂しくて。
考えるほどに怖くなるから、明日など要らない気持ちさえする。
朝は「やった!」と叫んでしまった、パーティーさえも。
お別れパーティーになるくらいならば、パーティーなどは無くていいから。
普段通りの食事でいいから…。
(時間、止まってくれないかな…)
明日の誕生日は来ないままで。
いつまでも今日を繰り返せたらいい、平凡な日でかまわないから。
パーティーも、あんなに欲しいと思った百周年記念パスも要らないから。
(明日の誕生日…)
消えてなくなれ、と呪文を唱えたい気分。
それで誕生日が消えるなら。明日という日が来なくなるなら。
明日なんか、消えてしまえばいい。
誕生日なんか、来なくてもいい。
(大人になっても、ずっとパパとママの子供でいられないなら…)
そんな日なんか、消えてなくなってしまえばいい。
ずっと今日だけを繰り返せばいい、時間が止まってしまえばいい。
パーティーなんか、要らないから。
御馳走も、ドリームワールドの百周年記念パスも、何も欲しいと思わないから…。
要らない誕生日・了
※「成人検査の日に荷物は駄目」が基本設定になっちまった、と自分に溜息。
ジョミーとシロエは対らしいんですよね、アニテラが作られるよりもずっと前から…!
「スウェナが決めたことだ。仕方ない」
その言葉の何処が悪かったのか。
「あなたには分かってなんか貰えないわよね」
スウェナは言うなり去ってしまって、サムも肩まで震わせて怒った。
「他に言い方あるだろう」と。
「仕方がないって…。仕方がないって、何なんだよ!」と。
(スウェナの気持ち…?)
お前には分かんねえのかよ、と言い捨てて走り去ったサム。
まるで分からない、自分の何処が悪かったのか。
何処がいけなかったというのか、自分の、キース・アニアンの…?
どうして、と一人ポツンと残されたテーブル。
いつも三人でやってきた、というサムの言葉は分かるけれども。
こうして一人で残されてみたら、三人と一人が違うことくらいは分かるけれども。
(…何を分かれと…?)
本当にまるで分からない、と一人考え込むしかなかった。
スウェナの気持ちとは、何のことだろう?
他の言い方とは何のことだろう、自分は何を間違えたのか。
いったい何が悪かったのか…。
「ふられましたね、キース先輩。…聞こえてましたよ」
そこ、空いてますか、と現れたシロエ。
どういう風の吹き回しなのか、手にしたトレイに二つのカップ。
「キース先輩はコーヒーですよね?」と目の前に一つ、コトリと置かれた。
さっきまでスウェナが座っていた場所、其処には別のカップが一つ。
そしてストンと腰掛けたシロエ、「これ、ぼくのお気に入りなんです」と。
(…シナモンミルク…?)
そういう好みだったのか、とシロエのカップを眺めていたら。
「あなたには分からないんでしょうね、この意味だって」
謎かけのようにシロエが口にした言葉。
またも耳にした「分からない」という響きの声。
自分は何を分かっていないと、サムは、スウェナは言ったのだろうか。
シロエも同じに言うのだろうか、「分からないんでしょうね」と。
今日の自分はどうかしている、思考が上手くいかないらしい。
昨夜、眠りが浅かったろうか?
そのくらいのことしか思い付かない、頭が働かない理由としては。
「ふうん…? あなたらしくもないですね」
だんまりなんて、と唇を笑みの形に歪めたシロエ。
「やっぱり、あなたは分かっていない」と。
「…何が分かっていないと言うんだ?」
何故だか、自然と口にしていた。
下級生のシロエに分かるわけがない、とは何故か少しも思わなかった。
「そうですね…。例えば、ぼくのカップの中身」
「シナモンミルクがどうかしたのか?」
「ほらね、分かっていないんですよ。…お気に入りだと言いましたよね、ぼくは?」
お気に入りの意味も分かっていない、とシロエは笑った。
さも可笑しそうに。
(お気に入りだと…?)
そのくらいは分かる、「お気に入り」の意味は。
気に入っていると、好物なのだと分からないほどに、馬鹿でも無知でもないのだから。
「いや、分かるが…。好きなのだろう、それが?」
その飲み物が、と至極真面目に答えたのだけれど。
シロエはますます笑うだけだった、面白い見世物を見たかのように。
「機械の申し子でも分からないことがあるんですね」と、前に聞いた言葉を繰り返して。
「いえ、機械の申し子だからこそ、分からないのかな…。これも前にも言いましたっけ」
他に適切な言い回しが無いものですから、と皮肉に満ちたシロエの声音。
「これでも頭はいいんですけど、言葉の数にも限りがあって」と。
「…キース先輩、あなたは分かっていないんですよ。簡単なことが」
お気に入りだとか、好きだとか。
そういう言葉に詰まった感情、あなたはそれを読み取れない。
読み解く力を持っていないと言えばいいかな、ぼくには出来るんですけどね…?
分かりませんか、とシナモンミルクを口に運ぶシロエ。
「これね、ただのシナモンミルクじゃないんです。…マヌカが多めなんですよ」
「…マヌカ・ハニーが好きなのか」
なるほど、と理解したのだけれども、シロエはクッと喉を鳴らした。
「流石ですね、知識はありますか…。でも、そこまでしか分からないでしょう?」
あなたに出来るのは其処までですよ、とシロエが傾けているカップ。
(…何が分からないと…?)
自分は正しく理解し、答えたと思う。
シロエが蜂蜜を好むらしいことを、それもマヌカの蜂蜜らしい、と。
なのにシロエは、「あなたには分からない」と挑戦的な瞳を向けてくる。
シナモンミルクが入ったカップを傾けながら。
本当に何が分かっていないのだろうか、考えるほどに解けないパズル。
踏み込んでしまった思考の迷宮、「分からない」という言葉が分からない。
いったい自分はどうしたのだろう、何にでも答えはあるものなのに。
どんな時でも正しく思考し、正しい答えを弾き出すのに。
それじゃ、とシロエが立ち上がる時に、ニッと笑って投げ掛けた言葉。
「キース先輩、あなたには欠けているんですよ」
誰にでもある筈の感情が…、ね。
やっぱり機械の申し子だからかな、あなたの心は機械仕掛けになってるのかな…?
(…欠けているだと…?)
何が、と見詰めた自分の両手。
完璧な筈の自分に何が欠けているのか、感情だってあるというのに。
こうして途惑い、シロエが残した言葉に波立つ心は、確かに自分のものなのに。
いったい何が欠けているのか、そう言われても分からない。
(…まただ…)
また「分からない」という言葉に出会った、あの迷宮に閉じ込められた。
謎かけのような言葉のパズルに、自分には解けないパズルの檻に。
(…欠けているから分からない…?)
シロエの言葉がぐるぐると回る、自分の部屋に帰った後も。
ベッドに横になった後にも、絡んだままで縺れたパズル。
「分からない」という言葉の迷宮、どうすればこれが解けるのか。
(…いったい何が…)
欠けているのか、そのせいで分からないのだろうか。
明日になったら解けるのだろうか、一晩眠って、思考がクリアになったなら…。
「…前日の記憶消去、四十パーセントまで完了」
この作業だけは何度やっても嫌なもんだな、と愚痴を零し合う職員たち。
モニターに映し出された人影の中に、眠るキースと、シロエの姿と。
指示を下したマザー・イライザ、機械の思考はいつも正しい。
(…今日のは少し早すぎました。忘れなさい、キース…)
次の機会があるでしょうから、とマザー・イライザは優しく微笑む。
「あなたの心は、私が正しく導きましょう」と。
シロエと話したことは全て忘れておしまいなさいと、シロエの記憶も消しましたから、と…。
早すぎた語らい・了
※やっちまった感が半端ないな、と思ってしまう記憶処理ネタ。本当にあったかもですが。
「マヌカの呪文」を読んで下さった方には、シロエの嫌味が美味しいかも…?
(ぼくの本…)
ちゃんと此処まで持って来られた、とシロエがギュッと抱き締めた本。
ステーション、E-1077。
選ばれた一部のエリートだけが来られる場所だと説明された。
此処へ来る途中の船の中で。
ステーションに着いたら、エリート候補生に相応しく行動するように、と。
(…そんなの、ぼくには関係ない…)
エリートだろうが、一般人向けのステーションだろうが。
一緒の船で着いた者たち、彼らは喜んでいたけれど。
素晴らしい場所に来ることが出来たと、憧れの地球が近くなったと。
宇宙港で船を降りた彼らは、何も持ってはいなかった。
成人検査の規則通りに、荷物は一つも持たずに家を出たのだろう。
(…何もかも置いて来たヤツばかり…)
荷物も、それに大切な物も。
かけがえのない記憶、養父母と過ごした日々の思い出。
それを素直に手放してしまい、機械の言うなりになった者たち。
…自分も偉そうなことは言えないけれど。
かなりの記憶を消されてしまって、曖昧になってしまったけれど。
(でも、ぼくの本は…)
こうして今も手の中にある。
幼い時から何度も何度も、繰り返し読んだピーターパンの本。
これだけは置いて来られなかった。
規則なのだと言われても。
両親に困った顔をされても。
成人検査があんなものだとは知らなかったけれど、自分は賢明だったと思う。
宝物の本を鞄に詰め込み、大切に持って家を出たこと。
お蔭で記憶を失くさずに済んだ、ピーターパンの本に詰まった記憶は。
顔がぼやけてしまった両親、けれど今でも覚えている。
この本をソファで読んでいた時、「もっといい所へ行けるよ」と教えてくれた父。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
父は自分を抱き上げてくれた、両腕で高く差し上げてくれた。
ピーターパンの本を持った幼い自分を、「ただいま、シロエ」と、高く、高く。
キッチンにいた母とも何度も話した、この大切な本を読みながら。
幾つも、幾つも、思い出の欠片。
幼かった自分が幸せな日々を、温かな日々を過ごしていた。
ピーターパンの本と一緒に、大好きだった父と母も一緒に、遠くなってしまった懐かしい家で。
失くさなかった、と両腕で強く胸に抱き締める、宝物の本を。
自分の記憶を繋ぎ止めてくれた、あの家の思い出が詰まった本を。
もう離さないと、離れないと。
二度とこの本を離しはすまいと、何処までも、いつまでも一緒だからと。
(…誰にも渡さないんだから…)
触らせだってしないんだから、とキッと睨んだ側に来た大人。
部屋はこちらだと案内しに来た、教育ステーションの職員の一人。
絶対に渡してたまるものかと。
もう絶対に騙されはしないと、成人検査の二の舞になってはならないと。
そうして案内された部屋。
一人に一つずつ、あてがわれた個室。
まるで馴染みの無い部屋だけれど、今日からは此処で暮らすしかない。
この部屋で生きてゆくしかない。
(…だけど、この本は持って来たから…)
大切な宝物の本。
思い出が幾つも詰まっている本。
この本を部屋に置いておいたら、もう一度築き直せるだろう。
何度も何度も読んでいたなら、記憶の欠片もいつか組み立て直せるだろう。
ネバーランドへ行こうと夢見た自分を、今も忘れていないから。
本をしっかりと抱え直したら、あの思い出が蘇るから。
何処かぼやけてしまっていても。
頼りなく、儚く消えそうなほどに、細く危うく揺らめいていても。
(此処がぼくの部屋…)
全く馴染みが無い部屋だけれど、また最初から作り直そう。
ピーターパンの本を繰り返し読んで、記憶の欠片を組み立ててゆこう。
気の遠くなるような作業だけれども、自分は皆と違うのだから。
機械が書き換えてしまった偽の記憶を、素直に信じはしないのだから。
(…負けてたまるもんか…)
二度と負けない、機械などには。
此処まで自分を乗せて着た船、あれで一緒に来た者のように機械の言いなりなどにはならない。
いつか必ず、何もかもきっと取り戻す。
父の記憶も母の記憶も、自分が育った家の記憶も。
此処まで持って来た大切な本が、きっと助けてくれるから。
宝物の本に詰まった思い出、それが自分の戦う力になるだろうから。
ぼくは負けない、と大切な本を部屋にあった勉強机に置いた。
多分、勉強机なのだと思える机。
記憶の彼方に微かに残った、自分のものとは違ったけれど。
両親と暮らした家で使った机とは違っていたけれど。
(今日からは、此処で暮らすんだから…)
そしていつかは、この本と一緒に全て取り戻して帰ってゆこう。
父と母とが住んでいる家へ、自分が育ったエネルゲイアへ。
その日まで、本を失くさないように。
誰かに盗られてしまわないように。
(…名前、書かなきゃ…)
ぼくの本だ、と初めて本に書き込んだ名前。
セキ・レイ・シロエと、ぼくのものだと、机に置かれていたペンで。
この本と一緒に、いつまでも、何処までも戦ってゆこう。
いつか記憶を取り戻す日まで。
懐かしい家に帰れる日まで。
ちゃんと名前を書いておいたから、もう大丈夫。
誰かに盗られてしまうことはなくて、自分一人だけの宝物。
セキ・レイ・シロエと、ペンできちんと書いたから。
きっといつかは、本を抱えて帰ってゆこう。
山ほどの思い出と記憶を抱えて、全部取り戻して帰ってゆこう。
大好きだった家へ。
父と母とが住んでいる家へ、ネバーランドへ、地球へ行こうと何度も夢を描いた家へ…。
名前を書いた本・了
※ピーターパンの本に書いてあったシロエの名前。文字がやたらと綺麗だったな、と。
子供の字にしては綺麗すぎです、それとも書道をやってましたか?
