(…あなたのピアス。サムの血だったんですね…)
知らなかった、とマツカは窓の向こうを眺める。
ただ暗いだけの宇宙空間。サムが死んだ星は、遥かに遠い。
けれども、サムは確かに捉えた。
連れて行ってしまった、キースの心を。
ほんのひと時、逝ってしまった自分の側へと。
(…ぼくが心に触れられたほどに…)
それほどの隙を、キースが心に作ったほどに。
いつも、いつでも、城塞のように堅固な心だったのに。
微かな思いの欠片でさえも、其処から漏れては来なかったのに。
サムの死と、形見のサムが好んだパズルと。
それがキースの心を攫った。
キースの心を覆った悲しみ、心の中に流れた涙。
瞳から涙が零れる代わりに、サムの許へと飛んでいた心。
サムがキースを連れて行ったから、弱い自分でも読み取れた。
今日まで少しも読み取れなかった、キースの心。
こうなのだろう、と推測するしかなかった心に流れる深い悲しみ。
(…サムの血のピアスだっただなんて…)
友の血を常に身につけるほどに、キースの悲しみは深かったのか。
忘れまいと、共に在ろうとしたのか、子供の心に戻った友と。
初めてキースに会った時から、その耳に光っていたピアス。
特別な意味があるのだろうと思ったけれども、読めなかった心。
キースの教え子だという腹心の部下たち、彼らも知らないようだった。
セルジュも、それにパスカルたちも。
(一度も話題にならなかったから…)
不思議に思いもしなかった。
彼らがキースに会った時には、もうその耳にあったのだろうと。
何かの功績を記念するものか、あるいはキースの決意なのか。
どちらかと言えば、決意だろうと考えたけれど。
ついに答えは得られないまま、突然に掴んでしまった真実。
友と一緒に在り続けたキース。
その血をピアスに変えて身につけ、今までも、そしてこれから先も。
サムの魂が肉体を離れ、遥か彼方へと飛び去っても。
飛んで行った友の魂を追って、心が一瞬、飛翔したほどに。
固く閉ざされ続けた心の深みに、自分が一瞬、触れられたほどに。
(…あなたはやっぱり、思った通りの人だった…)
誰よりも優しい心の持ち主、けれども、それを見せられぬ人。
そのように訓練されて来たからか、生来、どうしようもなく不器用なのか。
両方だろうという気がする。
訓練の成果も大きいけれども、多分、不器用な人なのだと。
心を許せる友を失い、一人で走り続けたからだと。
サムが壊れてしまわなければ、キースも変わっていたかもしれない。
冷たく非情な顔はあっても、何処かで優しい笑みを見せる人に。
いつでもサムに向けていたような、穏やかな色の瞳の人に。
アイスブルーの瞳の色は同じ色でも、凍てついた色と、雪解けの水を湛えた色と。
それを併せ持つ人だっただろう、サムが壊れずに心の友で在り続けたなら。
キースという人を読み誤らずについて来られた、自分は幸せだったのだろう。
心を読むことは叶わないまでも、ミュウの力が働いたろう。
本当のキースはどんな人かを、どういう心の持ち主なのかを、自分は分かっていたのだから。
(…分かっていたつもりだったけれども、それ以上の人…)
キースの心を捉えた、ただ一人の友。
子供の心に戻った後にも、死んだ後にも、キースを捉えて離さないサム。
あれほどの友情を捧げられたサム、彼が羨ましいけれど。
友だったのだから、敵わないのも仕方ない。
最初から部下の一人に過ぎない自分と違って、サムはキースと並んで生きた。
同じ時間を共に過ごして、きっと多くの思い出だって。
だからサムには敵わないと思う、過去も、この今も、これから先も。
自分はきっと敵わないだろう、キースの友だったサムには、一生。
(キース…。ぼくがいなくなっても、あなたは悲しんでくれますか…?)
サムを思ってキースが心で流した涙。
その内のほんの一粒でもいい、一粒にも満たないような欠片でも、水の分子の一つでもいい。
キースが悲しんでくれたならば、と思うけれども、恐らく叶いはしないだろうから。
とてもサムには敵わないから、せめて、と心を掠めた思い。
(…一度だけでいい…)
一度でいいから、いつか自分がいなくなったら。
自分が死んだことすら意識しないまま、一言、自分にこう言って欲しい。
「コーヒーを頼む、マツカ」。
其処に自分がいるかのように。
そして「いない」と驚いて欲しい、それだけできっと…。
(…ぼくは、嬉しくて…)
きっと涙を流すのだろう。
死んで魂だけになっても、瞳から涙が流れるのなら。
今日のキースの心のように、涙が溢れて伝うのならば。
最後までサムには敵わないけれど、きっと敵いはしないけれども。
「コーヒーを頼む」と言って貰えれば、それだけで満たされるのだろう。
キースの心に、自分も住んでいたのだと。
サムに敵いはしないけれども、片隅には住んでいられたのだと…。
いつか叶うなら・了
※いきなり核心に突っ込んで行ってどうするよ、と自分に突っ込みを入れたかったチョイス。
「書きたいものを書く」のはいいけど、アンタ、マツカは初書きだろうが…!
「赤のおじちゃん!」
キースの耳に届いた友の呼び声。
手を振り、こちらへと駆けてくるサム。
「おじちゃん」と、それは嬉しそうな笑顔で、はしゃいだ声で。
サムが「おじちゃん」と呼ぶようになってから、どのくらいの時が経っただろう。
国家騎士団の赤い制服、そのせいで「赤のおじちゃん」と。
本当は同い年なのに。
本当だったら、サムも同じに年を重ねていた筈なのに。
子供に戻ってしまったサム。
身体は大きく育っているのに、その心だけが。
成人検査で置いて来た筈の遠い記憶を取り戻して。
「赤のおじちゃん」になった自分に聞かせてくれる思い出話。
サムにとっては昨日の出来事、もしかしたら今日のことかもしれない。
遠い昔に別れた養父母、彼らと過ごした日々のこと。
それを楽しげに話してくれたり、時にはションボリ肩を落としたり。
もちろん、本当に今日あったことも、サムは話をするのだけれど。
友だったサムはもういない。
サムという名の大きな子供が此処にいるだけ。
(お前は「サムのおじちゃん」なのに…)
「サムのおじちゃん」は可笑しいだろうか、「サムおじちゃん」と呼ぶべきだろうか。
それともサムのお気に入りのパズル、それをもじって「パズルのおじちゃん」。
自分が「赤のおじちゃん」だったら、サムも「おじちゃん」の筈なのに。
今の自分を「おじちゃん」と呼ぶ子供だったら、サムも「おじちゃん」と呼ぶのだろうに。
けれども、そうは呼ばれないサム。
「おじちゃん」になれなかったサム。
サムは子供に戻ったから。
幼い子供が「おじちゃん」と呼んでも、「それ、誰?」と訊くのが似合いの年に。
身体は大人で「おじちゃん」なのに、心は子供。
それがかつての友人の姿、親友と呼ぶのが多分相応しかったろう。
サムの他には友と呼べる者は誰もいなかったから。
スウェナは途中でいなくなったし、シロエは自分が手に掛けた。
もっともシロエを友と呼んだら、彼は怒るのだろうけれども。
(…それでもお前は…)
サムと同じに自分に近しい場所にいた。
何の関心も持たなかったなら、あれほど近付いてはいまい。
憎しみであろうが、嫌悪であろうが、ライバル意識の塊だろうが。
スウェナは教育ステーションを去り、シロエは死んだ。
友はサムしか残らなかった。
(いつか会えると思っていたのに…)
メンバーズエリートには選ばれなかったサムだけれども、いつかは、と。
きっと何処かで会えるのだろうと、昔語りも出来るだろうと。
エリート同士では弾まない話、つまらないだけの上官たち。
そういう輩のいない所で、何処かの星の宙航ででも、と。
互いの船が出港するまでの、ほんの五分の語らいでも。
すれ違いざまに声を掛け合って、「また今度」と言えるだけでも良かった。
きっとそれだけで心が和んだことだろう。
肩の力が抜けていたろう、サムと話が出来たなら。
けれど、叶わなかった夢。
ついに再会出来ずに終わった、自分の友人だったサム。
サムの心を時々掠めてゆくらしいキース、それは自分とは違っていたから。
「赤のおじちゃん」と、サムの心に残ったキースは、けして重なりはしないから。
それでもサムに会いに来るのは、諦め切れないからだろう。
もしかしたらと、今日こそはサムに会えるかと。
かつての自分の友だったサムに、「キース!」と自分を呼んでくれるサムに。
「またね、おじちゃん!」
バイバイ、と大きく手を振っているサムに、自分も小さく手を振るけれど。
大人相手には決して振らぬ手、それをサムには振るのだけれど。
(…今日も私は「おじちゃん」のままか…)
今の自分はサムにとっては「赤のおじちゃん」。
いつか昇進して制服が白く変わった時には、「白のおじちゃん」になるのだろうか。
「キース」と親しげに呼ばれる代わりに、「白のおじちゃん」。
それでも自分は、サムを訪ねてゆくのだろう。
「赤のおじちゃん」でも、「白のおじちゃん」でも、サムは今でも友だから。
サムにはキースだと分からなくても、自分は同じにキースだから。
(…お前だけしかいなくなったな…)
私の友は、と軍人ならば振ることのない利き手をサムにだけは振る。
サムには友でいて欲しいから。
たった一人になった友人、一番古い自分の友。
親友だったろうサムにだけは今も、友達でいて欲しいから。
サムが自分を「キース」と呼んではくれなくても。
「赤のおじちゃん」でも、「白のおじちゃん」と呼び名が変わるのだろう日が訪れても…。
赤のおじちゃん・了
※「次はキースを書くんだろうな」と漠然と思っていたのは確か。気付けば「おじちゃん」。
おかしい、どうして「おじちゃん」キースを書いたんだ、自分…。
(この本は持って行かないと…)
ぼくの大事な宝物だから、とシロエが手にした大切な本。
幼い頃からずっと一緒の『ピーターパン』。
文字が読めるようになった頃には、もう持っていた。
両親に貰った、夢の国へと旅立つための翼を背中にくれる本。
ネバーランドへ、それから父が「ネバーランドよりもいい所だよ」と語った地球へ。
この本と何度旅をしたろう、ネバーランドへ。
ピーターパンが待っている国へ。
ネバーランドよりも素敵だという青い地球へも、この本と飛んだ。
それを置いてはとても行けない、本物の地球へ行くのだから。
明日になったら、目覚めの日が来たら、自分は地球へと向かうのだから。
鞄に詰めた大切な本。宝物のピーターパンの本。
(成人検査の日には、荷物は駄目だと教わったけど…)
持って行くなとは言われなかった。
誰からもそうは聞いていないし、「荷物は駄目だ」と習っただけ。
多分、検査の時には荷物が邪魔になるからだろう。
それならば置いておけばいい。
成人検査を受ける間は、床か何処かへ。
検査がすっかり終わってしまったら、もう一度手に持てばいい。
これは大切な本なのだから。
今日まで一緒に旅をして来た、自分の相棒なのだから。
「シロエ、目覚めの日には荷物は駄目よ?」
知ってるでしょう、と次の日の朝、母から注意されたのだけれど。
「駄目だよ、家に置いて行きなさい」
規則だからね、と父も言ったのだけれど。
「でも、持って行くなとは誰も言っていないよ?」
学校の先生だって言わなかった、と大切な鞄を抱え込んだ。
鞄の中身はたった一つだけ、ピーターパンの本が入っているだけ。
両親は困ったような顔をしたけれど、「大丈夫だよ」と押し切った。
検査の間は邪魔にならないよう、ちゃんと気を付けて行ってくるから、と。
中身は本が一冊だけだし、教育ステーションに着くまでの間に読むんだから、と。
そうやって持ち出した、大切な本。
父と母には「さようなら」と別れを告げたけれども、この本は何処までも自分と一緒。
この本をくれた父と母もきっと、心は一緒に来てくれるだろう。
ネバーランドよりも素敵な地球へと旅立つのだから。
教育ステーションを卒業したなら、青い星が待っているのだから。
いつまでも、何処までも、この本と一緒。
両親も、それにピーターパンも。
翼を広げて何処までも飛ぼう、ネバーランドへ、青い地球へと。
大切な本だけを詰めた鞄を提げて、出掛けて。
(……何処……?)
ぼんやりと戻って来た意識。
周りに大勢、人がいる気配と微かに聞こえるエンジンの音。
ふと見れば強化ガラスの窓に映っている顔、それは自分の顔だけれども。
(宇宙…?)
窓の向こうは真っ暗な宇宙、ポツリポツリと浮かんでいる星。
いつの間に宇宙船などに乗ったのだろうか、宙港には行っていないのに。
家を出て、二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そういう風に歩いて行った。
ネバーランドへの行き方通りに、そう、あの本に…。
(ピーターパン…!?)
ネバーランドへの行き方を教えてくれた本。
こうやって行けば辿り着けると教えてくれた宝物。
あの本を何処へやっただろうか、大切に持って家を出たのに。
(置き忘れた…?)
パパ、ママ、と叫ぼうとして気付いた記憶の空白。
ぽっかりと開いてしまっている穴、霞んでしまった両親の顔。
住んでいた家も、周りの景色も。
(忘れなさい、って…)
誰かが自分にそう言った。冷たい響きの機械の声で。
それでは自分は忘れたのだろうか、本だけではなくて色々なことを。
両親の顔も、暮らしていた家も、当たり前だった景色でさえも。
(ピーターパンの本も…)
記憶と一緒に置き忘れたろうか、今となっては思い出すことすら出来ない場所へ。
ネバーランドへの行き方が書かれた大切な宝物だったのに。
全部失くした、と俯いた膝の上に見付けたピーターパンの本。
(……ピーターパン……!)
あった、と抱き締めた宝物。
この本は一緒に来てくれたんだ、と。
(荷物は駄目って言われたけれど…)
この本を持って出掛けて良かった、きっと何処までも行けるのだろう。
駄目だと言われた荷物を自分は持っているから。
失くさずに持って来られたから。
(二つ目の角を右へ曲がって…)
後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そうすればいつかネバーランドへ、地球へ一緒に行けるのだろう。
ピーターパンの本と一緒に、きっと何処までも。
両親の記憶も、きっと戻って来るのだろう。
二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そうやって本を持って来られたから、宝物を持って来られたから。
いつかみんなで行けるのだろう。
両親と、それに宝物の本と一緒に、きっと地球まで。
二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
ピーターパンの本が教えてくれた通りに進んでゆけば。
きっといつかはネバーランドへ、もっと素敵な青い地球まで…。
大切な本・了
※シロエが持っていたピーターパンの本。持ち込みオッケーだったんかい! と思った遠い日。
なんで今頃、自分がシロエを書いているのか、あの本以上に不思議です…。
「あの馬鹿に会ったら伝えてくれ。お前はよくやったよ、とな」
…あの馬鹿が生きていたらだが、と続く言葉は飲み込んだ。
これ以上、言うことは無いだろう。
グレイブ、お前もよくやったよ。自分を褒めるのも可笑しなことだが。
誰一人いなくなったブリッジ、もうすぐ此処も砕けて無くなる。
メギドと共に木端微塵に。
あるいは、燃え尽きないまま落ちてゆくのか。
こうしてメギドに突き刺さったままで。
(…そうか、死に場所まであいつと同じか)
フッと唇に浮かんだ笑み。
この死に場所を選んだ時には、そこまでは考えていなかった。
計算ずくではなかった死に場所、突っ込んだ場所がメギドだっただけ。
自分の命を捨てる場所にと、相応しい最期を遂げられると。
ミュウの長の死に様を知った時から思っていた。
いつか自分も彼のように、と。
この戦いが始まるよりも前、命を捨ててメギドを沈めたソルジャー・ブルー。
敵ながら天晴れな最期だったと、あのように死んでゆきたいものだと。
彼がソルジャー、「戦士」と名乗っていたのだったら、軍人の自分は尚のこと、と。
人類のために自分の命を捧げてこそだと、そういう戦いで散れたらいいと。
(…少しばかり相手が違ったようだが…)
人類ばかりか、ミュウのためにもなるらしい最期。
けれども後悔してはいないし、これでいいのだと誇らしい気持ちに包まれてもいる。
地球を砕こうとしていたメギドは自分と共に滅びるから。
自分は地球を、人類の未来を、ミュウの未来を守ったろうから。
英雄になろうと思ってはいない、軍人らしく在りたかっただけ。
ミュウの長でさえも、あれほどの覚悟を見せたのだから。
自分の命など要りはしないと、捨ててメギドを沈めたのだから。
(…私もお前に負けはしないさ)
ソルジャー・ブルー。
お前と同じに死ねるというのも、神の采配なのだろう。
メギドを死に場所に与えて下さった神に感謝せねばな、これで私もお前と並べる。
軍人らしく、誇り高くだ。
私は最期まで軍人だった、と今は亡きミュウの長へと思いを馳せたのだけれど。
伝説と謳われたタイプ・ブルー・オリジン、彼に負けない死を遂げられると思ったけれど。
「…グレイブ」
「ミシェル。…退艦しなかったのか」
まさか、と息を飲むしかなかった、其処にミシェルが立っていたから。
自分の右腕であったと同時に、ただ一人だけ愛した女性。
誰もいないと思っていた船、なのに残っていたミシェル。たった一人で。
「あなたのいない世界で一人生きろと?」
「…馬鹿な女だ、お前は」
口では皮肉にそう言ったけれど、馬鹿だとも愚かとも思ってはいない。
ミシェルはそういう女性だったな、と今更、思い知らされただけで。
「あなたに似ちゃったのよ」と微笑む姿に、苦笑するしかなかっただけで。
「…グレイブ」
「…ミシェル…」
すまんな、ミュウの長、ソルジャー・ブルー。
どうやら私は女連れのようだ、お前に負けてしまったよ。
お前は一人で沈めたのにな、同じメギドを。
だが、私にはこれが似合いかもしれん。
…軍人のくせに、ずっと私は女連れだった。
そうだ、後悔はしていない。
マードック大佐は女と一緒に死んでいったと言われようとも、悔しくはないさ。
そうだろう、ミシェル?
女心の分からない男と詰られるよりかは、これでいい。
二人で沈めるメギドも良かろう。
ミュウの長には負けてしまったが、同じメギドを沈めて死んでゆけるという人生は最高だ。
…グレイブ、お前はよくやったよ。
最期まで女連れでもな…。
メギドに死す・了
※初めてブルー以外でアニテラ書いたら、なんでグレイブになったんだか…。
いや、後悔はしていないけど!
チョダブラムとはシェルパ語で『女神の首飾り』という意味である。
神々が住むと伝わるヒマラヤの高峰の多くは今もシェルパ語の名で呼ばれている。
夏でも消えぬ雪を頂き、蒼天に聳える白き神の座。
これは神たちの物語………。
++++++++++++++++++++++++
「行ってらっしゃい」
それが別れの言葉だった。
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
すぐに戻るよ、とあの人は言った。微笑んで私を抱き締めてくれた。頷き返して、シャトルに乗り込んでゆく背を、紫のマントを見送った。
盲いたこの目は開かないけれど、心の瞳で見る事は出来る。だから信じて送り出せた。
あの人は約束を違えない。
すぐに、ナスカに残っている仲間たちを説得したら必ずすぐに戻って来る。
そうしたら二人で地球を見ましょう。
今や忌まわしい星となってしまった私が名付けた赤い星……ナスカの代わりに、私の地球を。
托された補聴器が不安を掻き立てたけれど、フィシスはブルーを信じていられた。
遠い昔にユニバーサルから自分を救い出してくれたミュウの長。
あの日から「ぼくの女神」と優しく暖かい声音で呼ばれ、ただ大切に愛しまれてきた。
シャングリラに住むミュウたちは皆、揃いの制服を身に着けるのに、自分だけは柔らかく上質な布で仕立てた優美な衣装を与えられた。
ブルーのマントの色にほんの少し赤味を加えたような、桃色とも藤色ともつかぬ色合い。
仲間たちのために立ち働くにはおよそ不向きな長い引き裾と袖を持ったそれに、フィシスは戸惑ったものだけれども。
「君は女神だ。ぼくの、ミュウたちの大切な女神。それだけが君の役目なんだよ。それに…」
その服は君にとても似合う、と柔らかな笑みを浮かべたブルーに逆らう気持ちは起こらなかった。ブルーがそれを望むのならば、そのように。
他のミュウたちのように何らかの役割を担うでもなく、日々、テーブルの上のカードをめくって時を費やし、カードが指し示すさして変わり映えのしない未来に溜息をつくだけの生であっても…。
ブルーはフィシスが持って生まれた地球の映像をこよなく愛した。
それがゆえに自分を救ったのかと時折錯覚を覚えるほどに、ブルーは青い地球を求めた。
「地球を抱く女神」、「ぼくの女神」と。
タロットカードを繰り、ブルーが望む時に手と手を絡めて青い地球を見せる。それがフィシスの唯一の役目。
いつしか占いは神格化され、託宣と呼ばれて誰もが伺いを立てるようになっていった。
そして、ブルーと釣り合いの取れる外見で止めてしまった自分の時がどれほど長いかを物語る背丈よりも長く伸びた髪。床に届いてなお余りある金色の髪もまた、特別である証であった。
こんな髪ではいざという時に役に立てない、と訴えた時は踝まで届きそうであったのだけれど、ブルーは首をゆっくりと左右に振った。
「いけないよ、フィシス。…髪には力が宿ると言うから」
どうかそのままに、と穏やかに諭され、結い上げることすら叶わないまま金色の糸は伸びてゆく。前髪だけは切る事を許されていたが、それはブルーに出会った時から切り揃えられていたからだろう。
何もかもが「特別」なミュウたちの女神。
しかし、その前にフィシスはブルーだけの……ブルーだけが親しく触れる事が出来る、ブルーのための女神だったのだ。
ソルジャーと呼ばれ、仲間たちを救い導くミュウの長、ブルー。
皆に慕われ、シャングリラをその手で守り続ける、生ける神にも等しい存在。
攻撃的なサイオンを持つタイプ・ブルーはブルーしかおらず、戦える者もまた彼一人のみ。
それがどれほどの孤独を彼に齎すか、思い至る者は誰もいなかった。
ブルーはミュウたちを導き護るけれども、ブルーを導く手はこの世には無い。
孤高の戦士が自らの標に、心の支えにと焦がれた星が母なる地球。
その地球の鮮やかな映像を身の内に抱くフィシスに惹かれ、女神と呼んで慈しんだのは自然な流れであると同時に必然だった。
ブルーが神ならば、彼が敬い慈しむ者も、また神となる。
そうしてフィシスは女神になった。
シャングリラを守る銀の男神と、金の髪を持つ神秘の占い師、麗しき女神。
二人は生まれ落ちた時からの対であったかのように、互いに互いを求め続けた。
男女の仲などというものではない。
結ばれているものは互いの心で、その肉体はただの器にすぎない。
手を絡め、抱き合うことはあっても、それよりも先には進まなかった。
恋人でもなく、伴侶でもなく、文字や言葉ではとても表せない絆。
それが在ったから、フィシスは信じた。
ブルーは必ず戻って来ると。
「ブルー…。生きて戻って…。信じています」
ナスカに向かった筈のブルーが戦いの場へと赴いたことに気付いたフィシスは祈り続けた。
ブルーに托された補聴器を握り、ただひたすらに自らの半身が無事に戻ることを。
……それなのにブルーは戻らなかった。
フィシスを残して、ミュウたちを残して逝ってしまった。
一人でも多くのミュウを救うために、ミュウの未来を切り拓くためにその身を贄としてしまった。
二度と還らぬ人の形見がフィシスの手の中に残されたけれど。
愛した人の思い出として、秘めてしまっても良かったのだけれど。
「…ソルジャー・シン。これはきっと……ブルーがあなたに遺したものです」
ブルーがいなくなってしまった青の間にソルジャー・シンを呼び、フィシスはそれを手渡した。
いつもあの人と共に在った補聴器。
あの人が最後に渡してくれた大切な形見。
出来るならば持っていたかったけれど、ブルーはそれを望まない。
ミュウたちのために戦い、散ったブルーが見ていたものはミュウたちの未来。そこへと皆を導くためにはソルジャー・シンが、彼を導くにはブルーの三世紀に渡る記憶が必要とされるであろうから。
……ブルー、あなたが望むのならば。
わたくしもそれに従いましょう。
あなたの記憶は欲しかったけれど、全てはあなたの心のままに……。
ブルーの補聴器を引き継いだソルジャー・シンは人類との戦いを決意する。地球のシステムを末端から一つずつ破壊するべくアルテメシアへと進路を定めたシャングリラ。
フィシスの占いに頼ることなく、ソルジャー・シンがそう決めた。
これから先のミュウの未来に自分は必要ではないかもしれない。
占いしか出来ず、幻に過ぎない地球を抱くだけの女神など誰も顧みなくなる日が来るかもしれない。
それも仕方のないことなのだ、とフィシスは思う。
誰よりも自分を求めてくれた銀色の神は、翼を広げて永遠の彼方へと飛び去って行った。
いつか彼を追ってこの世から旅立つ時が来るまで、対となる者は居はしない。
二人で一人とまで想い慕った神が居ないなら、女神も要らない。
そう、いつの日にかブルーの許へと……その傍らに逝く日だけを思い、生きてゆくしかないのだろう。
この胸が鼓動を止めてはくれず、この息が絶えてくれぬのならば…。
残されたフィシスを慰めてくれるブルーの記憶はソルジャー・シンに渡してしまった。
最後に抱き締められた温もりと、耳に残る声だけを頼りに長い時を一人、生きられはしない。
けれど……。
私にはまだ望みがあるから、とフィシスは自分の部屋へ向かった。
天体の間の奥深く設えられた、他のミュウたちとは比べ物にならぬ広すぎる居室。
この部屋を与えられた時もまた、フィシスは「私にはあまりにも過ぎたものです」と言ったのだけれど。ブルーは否を言わせなかった。
「この部屋はぼくも使うから。…二人なら広すぎはしないだろう?」と。
その言葉どおり、ブルーは幾度も訪ねて来たし、時にはフィシスの膝を枕にうたた寝することもあったほど。
青の間はブルーの私室とはいえ、シャングリラの守りの要でもあった。戦士が、ソルジャーが死守する最後の砦。寝台に横たわって休む時でさえ、ブルーはそれを意識せずにはいられない。
そんなブルーが心から安らげる場所としてフィシスが暮らす部屋を選んだ。
フィシスの部屋はフィシス一人のものではなくて、ブルーの居場所でもあったのだ。
「……ブルー……」
喪ってしまった人の名を呼び、フィシスは二人で長い時間を過ごした部屋の奥へと向かう。
そこには見事な彫刻を施した化粧台が据えられ、鏡に自分の姿が映った。
ブルーのマントと見紛う色の衣装が今は限りなく悲しいけれども、それも慣れるしかないだろう。
そのためにも…、と伸ばした手が銀のブラシを掴んだ。
シャングリラに来てから朝晩、長い髪を毎日梳かし続けた、ブルーに貰ったヘアブラシ。繊細な銀細工のそれには希少な動物の毛が植え込まれている。
「君は大切な女神だから。…それに相応しいものをと思ったんだよ、ぼくのフィシス」
これは本物の猪の毛を使ったヘアブラシなのだ、とブルーは言った。
「髪を傷めない素材だそうだ。ずっと昔から高価なもので、今では殆ど手に入らない」
君のために手に入れてきたんだよ、と渡された時の手の温もりをフィシスは今でも覚えている。そんな高価なものを何処から、と訊いてもブルーは微笑んだだけで答えなかった。
「…ブルー……。あなたは此処にいますか…?」
フィシスは白い指先でヘアブラシを探り、盲いた瞳で覗き込んだ。
植えられた黒い毛に絡んだ金色の糸。いつもなら髪を梳かし終える度に捨てるのだけれど、この数日間、嫌な胸騒ぎに囚われていたために放ったままになっていた。
だから、もしかしたら、この中に……。
「………ブルー………」
フィシスの閉じた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。金色に輝く長い糸に混じって、ひっそりと控えめな光を放つ銀色の糸が幾筋か。
それは逝ってしまったブルーが遺したフィシスへの形見。
「行ってくるよ」と抱き締めてくれた時、頬に触れたブルーの銀糸そのままの銀色の髪。
「……ブルー……。居てくれたのですね……」
あなたは此処に、と銀の髪を絡ませたヘアブラシを胸に抱いてフィシスは床にくずおれる。とめどなく頬を伝う涙を拭おうともせず、亡き人の形見をかき抱きながらその名をいつまでも呼び続ける。
ほんの数本の髪であっても、ブルーの形見があるならば。
ブルー、あなたが此処に居てくれるのならば、私は生きてゆけるでしょう……。
フィシスの部屋を訪れたブルーが眠ってしまうことは度々で。
そんな時、目覚めたブルーの癖のある銀糸が好き勝手な方へとはねていることもよくあった。
「…すまない、フィシス。ぼくはどのくらい眠っていた?」
「ほんの少しの間ですわ。それよりも、ブルー…」
髪が、と答えるフィシスの声で鏡を眺めたブルーは困ったように笑ったものだ。
「この姿は皆には見せられないな…」
「本当ですわね」
あなたとは誰も気付かないかもしれませんわ、と冗談めかした口調で応じて、フィシスはブルーの髪を直した。ブルーが自分にとくれたブラシで、丁寧に気を付けて梳りながら。
そう、ついこの間もそうだった。
十五年ぶりに目覚めたブルーと一緒に天体の間からこの部屋に戻り、避けようのない不幸が訪れる予感に怯える自分に向かってブルーが何度も「大丈夫だよ」と…。
「ぼくがみんなを守るから」と…。
心を覆い尽くしそうな不安を拭い去るように幾度も繰り返してくれたブルーは「少しだけ眠る」とフィシスに告げると、その膝に頭を預けて眠りに落ちた。
少しと言いつつ一時間は眠っていただろう。はねてしまった髪をフィシスが梳かし、ブラシをそのまま化粧台に置いた。
その時にブラシに絡まった銀糸の密やかな光に、今もブルーの面影が宿る。
ブルーは形見を遺してくれた。独り残された女神の手許に、自らが生きた命の証を……。
愚かだった自分の過ちのせいで喪ってしまった大切な人。
二度と還らぬ人を想って涙し、泣いて泣き崩れて暮らしていてもブルーは永遠に戻っては来ない。
形見になった銀色の髪も、箱に仕舞って眺めるだけではいつ失くすかも分からない。
フィシスは忠実な従者を呼んだ。
「アルフレート」、と。
この船に迎えられた時から彼女に仕え、側に控えて竪琴を奏で続けて来た無口な男。
彼ならば誰よりも信用出来る。
「…これはブルーが遺した髪です。これを……」
この石の裏側に入れたいのです、とフィシスはブルーに贈られた首飾りを細い頸から外した。
全てのミュウが身に付けている赤い宝石。
フィシスの首飾りは誰のものよりも華やかであり、彼女が特別な存在であると知らしめるためには充分なもの。その中央に据えられた石をフィシスはアルフレートに示した。
「この裏に入れて貰えませんか? 私がいつもブルーと一緒に居られるように」
盲いた瞳から涙が落ちる。
従者は預けられた箱と首飾りを捧げるように持ち、静かに退室していった。
アルフレートはフィシスのために懸命に奔走したのだろう。首飾りがフィシスの頸から消えていた時間はたった半日。その日の夜には望み通りの細工を施され、フィシスの許へと戻って来た。
「……ブルー……。これであなたと共に居られます…」
首飾りを裏返し、フィシスは宝石の裏を指先で愛しげに撫でる。
赤い宝石の上に銀色の髪が綺麗な曲線を描いて載せられ、水晶の板で覆われていた。首飾りを外せばブルーの形見が目に入るように。付けた時にはフィシスの頸に優しく触れて添うように…。
化粧台の前に座って首飾りをそっと頸へと回す。
カチリ、と微かな金属音を立てて留め金が嵌まり、赤い石が頸に輝いた。
この石はブルーが遠い昔にくれたもの。そして今は、この石と共にブルーが居る。
命ある限り、ブルーが遺した形見と共に。
その中に今も宿り続けるブルーの魂の欠片と共に……。
「……行きましょう、ブルー」
フィシスは見えない瞳でシャングリラの上に広がる宇宙(そら)を仰いだ。
この果てしない星の海の彼方に青く輝く水の星が在る。
ブルーが焦がれ、行きたいと願った母なる地球。
自分はそこへ行かねばならぬ。
女神と呼んでくれたブルーの夢を、切なる願いを叶えるために。
この手で何が出来るわけでもないのだけれど…。
ただシャングリラに運命を委ねるしかない身だけれども、ブルー、私は地球へゆきます。
あなたが此処に居てくれるから、私はあなたと共にゆきます…。
この石は忌まわしいナスカの色。…けれど、ブルー、あなたの優しい瞳の色を映した赤。
そこから見守っていて下さい。
青い、何処までも青いあの地球の青を、あなたに見せられるその日まで。
その時が来ても、ブルー…
どうか、私から離れてゆかないで。
私があなたの許へと飛び立てる日まで、私の側から離れないで…。
ブルー、あなたが私の地球。
私の魂が還り着く場所。
いつか二人で地球を見ましょう。
そうしたら………ブルー、あなたは私を迎えに来てくれますか?
こんな小さな石ではなくて、あの日、別れたままの姿で…。
「すぐに戻るよ」
「行ってらっしゃい」
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
「……はい」
見えますか、ブルー………私の抱く地球が…?
本物の地球に辿り着くまでは、これで我慢していて下さいね…。
行きましょう、ブルー。
あなたが焦がれた青い水の星へ………。
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シャングリラの語源はチベット語で『シャンの山の峠』の意とされる。
シェルパ語はチベット語の方言の一つであり、高地民族シェルパ族が話す言語である。
なお、チョダブラムの名を持つ高峰は実在しない。
現在14座ある八千メートル峰の幻の15座目。
その峰が遠き未来に男神と女神が青き地球で住まう白き座、チョダブラムとなる。
神々の峰に、けして近付くことなかれ………。
チョダブラム ~女神の首飾り~ ・了
※チョダブラムってシェルパ語は嘘ついてないです、お勉強はしてないですけど。
ちょーっと山岳を齧っただけです、アマダブラムとチョオユーって山があります。
アマダブラムは「母の首飾り」、チョオユーは「トルコ石の女神」。
管理人的にはチョダブラムのモデルはアマダブラムです、双耳峰なんですよ。
筑波山みたいに頂が二つあるのが双耳峰。
アマダブラムを見てみたい方は、こちらをクリック→アマダブラム
