「…一つだけ教えて頂きたいことがあります」
キースの足元、紫に輝く巨大な瞳。グランド・マザーの。「なんだ」と応えた、その瞳。瞬きもせずに。だからキースは、そのまま続けた。
「SD体制の管理出産において、何故、ミュウ因子を取り除かなかったのです」
それがキースの積年の疑問。ミュウ因子を取り除きさえすれば、ミュウは生まれない筈だから。
「今になって何故、知りたい」
「今だから、です」
スウッと細められた紫の瞳。無視されるかと思ったけれど。
「…いいだろう」
そしてグランド・マザーが語り始めた真実。それは…。
「マザー・システムに、ミュウ因子を排除するプログラムは存在しない」
其処までは予想していた通り。生まれ続けるミュウの数を見れば、簡単に予測出来ること。
(やはりな…)
SD体制が始まる前から、ミュウ因子が特定されていたことも。
なんら驚くに値しない、と聴き続けたキース。やはり人類はミュウに敗れるか、と。
彼らは進化の必然だから。いずれ人類を駆逐してゆく新人種。全てにおいて優れたミュウ。特殊能力を持っていることも、とてつもない長寿であることも。
けれど…。
「お前は何か勘違いをしているようだ。…ミュウ因子について」
人間の身では無理もないが、と紫の瞳が湛えた光。
ミュウ因子はとうに、この宇宙に偏在しているものであると。
「馬鹿な…! 私は彼らを流入させぬようにと、厳重なサイオン検査などを…!」
「それが勘違いだと言っているのだ」
サイオンだけだと思っていたのか、とグランド・マザーは重々しく一つ瞬きをした。それはお前の勘違いだと、ミュウが持つ力はサイオンだけではないと。
「では、他に何が…!」
「彼らを見たのに分からないのか?」
特にあいつだ、と嘲るような声。タイプ・ブルー・オリジンと呼ばれたソルジャー・ブルー。
あれに会ったのに分からないかと、お前でも無理かと。
ソルジャー・ブルー。…ジルベスター星系で対峙した伝説のミュウ。
三百年以上も生きて来た彼に、メギドを沈められてしまった。その屈辱は今も忘れてはいない。あの忌々しいミュウにこの上、何があるのか、と訝しんだら。
「…若かっただろう? 奴は」
今のお前よりも、よほど若い姿だった筈だが、と尋ねられて思わず手をやった顔。
あれから随分、時が流れた。年相応に刻まれた皺が、目元に、それに口元に。特に目立つのが、顎の下の皺。私も老けた、と思わざるを得ない。
けれども、それが何だと言うのか。
「奴は化け物です。あの姿のままで生きていたなど、まさに化け物の証拠」
「そうだ。…ミュウは老けてゆくのが遅い。それもまた、ミュウの特徴の一つ。だが…」
気付かないか、と紫の瞳がまた瞬いた。
お前の周りの人間はどうだと、彼らもお前と同じように老けているのか、と。
(私の周り…?)
マツカは最後まで老けなかった。ソレイドで出会った時と変わりないまま、懸命に自分に仕え続けて、先日、死んだ。ミュウだったのだから当然のこと。老けなくても。しかし…。
(…待てよ?)
ジルベスター以来の自分の部下たち。スタージョン中尉や、パスカルなど。彼らも少しも老けていなくて、マツカと同じに若々しいまま。だからマツカも全く変だと思われなかった。
(だが、彼らは…)
自分よりも若いし、老けるような年でもないのだろう、と考えた所で思い浮かんだ年上の男。
(グレイブ…!)
旗艦ゼウスの艦長を務める男は、ステーションでの先輩だった。彼の副官、パイパー少尉も自分よりかは年上の筈。その二人だって、ジルベスターで会った時から…。
(…老けていないぞ…!)
グレイブの顎の皺なら、若干深くなったかもしれない。とはいえ、よくよく見ないと気付かない程度。それも激務が続いて疲れ気味の日だけで、普段なら…。
(前と全く変わらない顔…)
年月が顔に刻まれていない、と今頃になって思い至った。副官の方は女性なのだし、美容整形の手術を受けたということだって、と顎に手を当ててみたけれど。
(女性といえば…)
自由アルテメシア放送を始めたスウェナ・ダールトン。彼女もジルベスターの頃から変わらないままで、美容整形などはしていない筈。そんなタイプとも思えないから。
まさか、とゴクリと飲み込んだ唾。…ミュウであるマツカを誰も変だと思わなかったほど、不思議に老けない周りの者たち。自分一人だけが目元に皺で、最近は顎にもクッキリ出ている皺。
(…老けたのは、私だけなのか?)
激務の日々だし、そういうことも…、と思いたいけれど、グレイブ・マードック大佐の場合は、疲れた時だけ目立つ顎の皺。いつもはさほど分かりはしないし、まるで皺が無い時だって。
副官のミシェル・パイパー少尉は今も美女だし、同い年のスウェナもやはり衰えない容貌。
自分だけが老けているのだろうか、と無意識の内に両手で顔を触っていたら。
「気付いたか? 老けたのはお前だけなのだと」
やっと分かったか、と紫の瞳が見上げてくる。足の下から。
「…グランド・マザー…?」
これはどういうことなのです、と自分の顔を指差した。「何故、私だけが」と。
「まだ分からないか? …ミュウ因子についての話だろうが」
彼らは老けない。タイプ・ブルー・オリジンが若い姿のままだったようにな。
それもミュウ因子の働きの内だ、と紫の瞳がギョロリと動いた。
サイオンだけがミュウの要素ではないと。老けないのもまた、ミュウの要素だと。
そして語られた、恐るべき事実。
SD体制が始まって以来、絶えず行われて来た管理出産のための交配システム。ミュウの因子はサイオン以外の形でも出たと、広範囲に広がっているのだと。
一番分かりやすい例が「老けにくい」こと。
長寿ではなくても、老けにくい人間は宇宙に広く存在する。今では殆どがそうだと言ってもいいほど、人類といえども長く若さを保ってゆくもの。…一定の年齢に達した後は。
「お前の周りの者が老けないのも、そのせいだ」
誰も老けてはいないだろうが。ミュウ因子の優れた側面の一つだ、これは。
しかし、お前は彼らとは違う。我々が無から作り上げた以上、ミュウの因子は排除せねばな。
人類を導く者は、純血種の人類でなくてはならない。ゆえに、その因子は合成されなかった。
だから、お前だけが老けてゆくのだ。…周りの者たちは老けなくてもな。
「…そんなことが…」
あるわけがない、と言いたいけれども、実際、老けない周りの者たち。マツカが浮かずに済んだくらいに、「老けない」という噂が立たなかったほどに。
それでは、これから先も自分一人が老いてゆくのか。周りの者たちよりも早く皺だらけの老人になって、髪もすっかり白くなるのか…。
「何か問題でもあるか? キース・アニアン」
名誉だろうが、とグランド・マザーの瞳が瞬く。純血種の人類はもはや少ないと、エリートともなれば皆無なのだと。その純血種として生まれたことを誇るがいいと、ミュウの処分は任せると。
(……私だけが……)
ミュウ因子を持っていなかったのか、とフラリと崩れそうになった足元。
サイオン検査の義務付けまでをも決めていたのに、ミュウの因子は排除不可能。そればかりか、とうに宇宙に散らばり、大抵の者が持っているらしいミュウ因子。サイオンの有無とは無関係に。
(やはり、我々はミュウに敗れるのか…)
それよりも前に、宇宙はとっくにミュウのものだったのか、と打ちのめされた気分。
ミュウ殲滅のために結集している一大艦隊、その乗員の殆どがミュウの因子を持った者。直属の部下も、旗艦ゼウスの艦長と彼の副官も。
ミュウ因子は排除不可能どころか、とっくに入り込んでいた。社会のありとあらゆる所に。
純血種ゆえに老けるのが早い自分を除けば、大部分の者たちが持つミュウ因子。
(なんということだ…)
戦わずして既に負けていたのか、と呻くしかない。ミュウ因子は優れた面を持つから、老化さえ防ぐものらしい。自分はこんなに老けたのに。…激務のせいだと思っていたのに。
(私は優れているどころか…)
時代遅れの古い人種か、と受けた衝撃はあまりに大きい。ミュウを焼き払って、この戦争に勝利したとしても、自分だけが老けてゆくらしい。時代遅れの存在だから。老けない因子を組み込まれないで生まれて来たから。
グランド・マザーは「行け」と命じたけれど。「お前は答えを得たのだろう?」と紫の瞳が見ていたけれども、その部屋から通路へ踏み出した途端によろめいた。
「閣下…!」
控えていたセルジュの腕を振り払う。彼もまた老けない一人だから。
「リーヴスラシルの発動まで、私の部屋には誰も近付けるな…!」
「はっ…。かしこまりました!」
忠実な部下の返事さえもが不快に聞こえる。此処にもミュウがと、ミュウの因子を持った人間が人類の顔をして立っているのかと。
壁に手をつき、よろめきながら戻った部屋。椅子に背を預けて、大きな溜息をついて。
「…コーヒーを頼む、マツカ」
そう言ってから、「いない」と気付いた。マツカは死んだ、と。見遣った先に、見たと思ったマツカの面影。聞こえたように思えた声。
「キース。…人間とミュウは、本当に相容れないのでしょうか?」
ハッと息を飲み、自分自身に言い聞かせる。人間は愚かな生き物だと。ミュウの因子が何であろうと、人類の中に深く食い込み、進化の過程を今も歩んでいるのだとしても…。
(…人の心を読む化け物どもは、決して存在すべきではない…)
私は人の理性が生み出した、最後の砦。現SD体制を守り抜かねばならない。
そのためには、ミュウの主張は断じて受け入れられないのだ。…マツカ。
奴らが老けないというのだったら、と固めた決意。
周りの者たちが若いままでも、グレイブが、セルジュたちが若さを保ったままでも。
(私だけでも、人類らしく老いてゆくしかないではないか…!)
これは私怨かもしれないがな、と顎に刻まれた皺を確かめ、伸ばした腕。机の方へと。
手をかざして呼び出したモニターの画面、若い姿の部下の名を呼ぶ。
「セルジュ!」
「はっ! 何か?」
「ミュウに交渉を受諾と連絡しろ。会見場所は地球」
今度こそミュウどもを滅ぼしてやる、と見据えたセルジュの顔。
「ミュウと交渉を持たれるのですか?」
「グレイブにオペレーション・リーヴスラシルの発動を伝えろ」
焼き払ってやろう、と決めた老けないミュウたち。化け物の存在を許すわけにはいかない。
(…私だけが一人で老いてゆくなど…!)
老いさらばえた姿を晒して生きてゆくしかないのも、彼らが出て来たせいだから。サイオンという突出しすぎた能力、それを彼らが使うせいだから。
(老けないだけにしておいてくれれば…)
いずれ平和にミュウの時代になっただろうに、と思うけれども、これが現実。
彼らがサイオンを持っているせいで、こうして自分が作り出された。周りの者たちは殆ど老けない世界で、一人醜く老いる者として。時代遅れの存在として。
(この目元の皺も、顎の皺が妙に目立ち始めたのも…)
奴らのせいだ、と拳を握るしかない。自分は老けない因子を持たずに生まれたから。そのように作り出されたのだから、これからも老ける。きっと醜く、たった一人で。
(化け物どもめ…!)
許し難い、とキースの感情がどす黒く渦を巻いてゆく。
ジルベスターから戻った頃には、アイドルスター並みの人気を誇った自分だったのに。画面に姿が映っただけでも黄色い悲鳴が上がっていたのに、今やすっかり老け顔だから。
部下たちもグレイブも、ジルベスターの頃から変わらないのに、自分一人が老けたから。
そしてこれからも老けてゆくから、そんな醜い運命を自分に寄越してくれたミュウどもは…。
(一人残らず、焼き払ってやる…!)
これが私の復讐なのだ、とキースが唇に浮かべた笑み。
自分一人が老けてゆく世界は、キツすぎるから。それでも耐えてゆくしかないから、ミュウたちに弁償して貰おう。
彼らの命で、この老け顔を。これからも増えてゆくだろう皺を、迫りくる老いを…。
老けない人類・了
※いや、本当にキース以外は老けてないよな、と気が付いたのが気の毒すぎるオチの始まり。
そりゃあ、キースがよろめきながら出て来るわけだよ、と。自分だけ老けていくなんて…。
「停船しろ。…シロエ…!」
どうか、と祈るような気持ちで口にしたけれど。
止まってくれ、と叫び出したいけれど。
(マザー・イライザ…)
撃ちなさい、と冷たく告げて来た声。
それに逆らえない自分が悔しい、どうして逆らえないのかと。
何故、とキースは唇を噛む。
もしも自分に、シロエの強さがあったなら。
マザー・イライザに、システムに逆らい続けた、彼の強さがあったなら、と。
けれど出来ない、どういうわけだか。
けして弱くはない筈なのに。
気弱でも、腰抜けでもない筈なのに。
「停船しろ」と願うより他に道の無い自分。
シロエの船がこのまま飛んでゆくなら、本当に撃つしかないのだから。
左手の親指で合わせた照準、シロエの船はロックオンされているのだから。
どうして自分がそれをするのか、そうするより他に術が無いのか。
自分でもまるで分からないけれど、メンバーズはそうあるべきなのだろうか。
マザー・イライザが「撃て」と言うなら、そのように。
自分の心が「否」と叫んでも、撃つのが自分の道なのだろうか。
(シロエ…!)
どうしようもないと分かっているから、願ってしまう。
止まってくれと、そうすればシロエの船を連行するだけだから、と。
けれども、速度を上げてゆく船。
前をゆく船は止まらないから、また左手で操作したレバー。
レーザー砲へとエネルギーを回す、此処まで来たら、後は撃つだけ。
シロエの船が止まらなければ。
真っ直ぐに飛んでゆくだけならば。
カチリ、と左手の親指が押し込んだボタン。
遥か彼方で弾けた閃光。
星雲のように光が弧を描いてゆく、シロエの船があった辺りに。
(…シロエ…)
もういないのだ、と心に生まれた空洞。
たった今、彼はいなくなった、と。
ついさっきまでは、自分の先を飛んでいたのに。
シロエの船が見えていたのに、もうレーダーにも映らない機影。
漆黒の宇宙で船を失くせば、潰えてしまう人間の命。
まして船ごと撃たれたのなら。
あの閃光の中にいたなら、シロエは消えてしまっただろう。
一瞬の内に、光に溶けて。
船の残骸は残ったとしても、シロエの痕跡は残りはしない。
レーザーの光に焼き尽くされて。
瞬時に蒸発してしまって。
もうこれ以上は見ていたくない、とステーションに船を向けようとしたら。
「確認なさい」とマザー・イライザからの通信。
本当にシロエの船を撃ったか、反逆者はこの世から消え失せたのか。
それを確認して戻るようにと、現場を飛んでくるようにと。
(……マザー・イライザ……)
あまりにも惨い、と思った命令。
確認せずとも、シロエは消えていったのに。
レーダーを見れば分かることなのに、どうして行かねばならないのか。
他の者でも出来そうな任務、もっと時間が経ってからでも。
Mの精神波攻撃の余波が、ステーションから消えた後にでも。
そう思うけれど、また逆らえない。
シロエのように「否」と言えない、臆病者ではない筈なのに。
強い精神を持っていなければ、メンバーズになれはしないのに。
(…ぼくは、どうして…)
こうなるのだろう、と機首を逆さに向けるしかない。
マザー・イライザが命じたから。
行くようにと命じられたのだから。
そうして船を進めた先。
光がすっかり消えた空間、ポツリ、ポツリと漂い始めた欠片たち。
さっきまでシロエを乗せていた船、それが砕けた後の残骸。
ぶつからないよう、間を縫って飛んでゆく内に、増えてゆくそれ。
(……この辺りなのか……)
多分、爆発の中心は。
シロエが宇宙に散った辺りは、彼の命が消えたろう場所は。
髪の一筋も、血の一滴も、残さないままに消え去ったシロエ。
船の残骸だけを残して、彼だけが高く飛び去ったように。
自由の翼を強く羽ばたかせ、彼方へと消えて行ったかのように。
(…本当に飛んで行ったなら…)
シロエが大切に持っていた本、ピーターパンというタイトルの本。
あの本に書かれた子供たちのように、宇宙を飛んで何処かへ去ったのなら、と。
そう思うけれど、それは有り得ないこと。
シロエは空を飛べはしなくて、宇宙などは飛んでゆけなくて。
今、自分の船が飛んでいる辺り、この辺りで消えて行ったのだろう。
マザー・イライザに逆らい続けて、システムに抗い続けた末に。
行き場を失くして消えて行った命、何の欠片も残しはせずに。
いなくなった、と溢れ出した涙。
追われていた所を匿ったほどに、話してみたいと思ったシロエ。
強すぎる意志を持っていたシロエ、違う出会いをしていたのなら…。
(……シロエ……)
友達になれていただろうか、と彼の死を心から悼んだけれど。
もっと時間をかけていたなら、友だったろうか、と涙したけれど。
(……ぼくが殺した……)
殺したんだ、とゾクリと冷えた左手の親指。
この親指が彼を殺した。
レーザー砲の発射ボタンを押し込んで。
シロエの船を撃って殺した、友達だったかもしれない彼を。
それに、何より…。
(……訓練じゃない……)
何度も繰り返し練習して来た、手順通りにやったのだけれど。
その先に人がいたことはなくて、いつも、いつだって遠隔操作の無人機ばかり。
自分は初めて人を殺した、それも何度も言葉を交わしていた人間を。
友になれたかもしれなかった人を、部屋に匿ったほどのシロエを。
(…マザー・イライザ…)
これだったのかと、やっと分かった命令の意味。
見届けて来いと言われた理由は、人を殺した自分を確認させるため。
メンバーズたる者、どうあるべきか。
どのように歩み続けるべきかを、その目で確かめてくるようにと。
(…ぼくが初めて殺した人間…)
それが友かもしれなかったなど、なんという皮肉なのだろう。
こうして涙が止まらないほど、その死を痛ましく思う人間。
生きて戻って欲しかったシロエ、彼をこの手で、自分が殺した。
「撃ちなさい」という命に従わなければ、シロエは何処かへ飛び去ったろうに。
あの船のエネルギーが尽きる場所まで、船の酸素が切れる時まで。
(…放っておいても、どうせシロエは…)
死ぬだろうことは、マザー・イライザも承知だった筈。
けれど自分に彼を追わせて、「撃ちなさい」と命じ、今はこうして…。
(…血にまみれた手を、見て来るがいいと…)
血の一滴さえも、シロエは残さず消えたけれども。
自分の手はもう、人を殺して血に染まった手。
友になれたかもしれなかったシロエ、彼を最初に殺してしまった。
人を殺すなら戦場だろうと、ずっと先だと思っていたのに。
いつか自分が殺す相手は、悪なのだろうと思ったのに。
(……そんなに甘くはないということか……)
メンバーズならば、友であっても撃てと、殺せというのだろうか。
それが自分の道なのだろうか、自分は逆らえなかったから。
シロエの船を撃ってしまったから。
忘れまい、と心に刻んだ己の罪。
人を殺したと、友になれたかもしれない者を、と。
きっと自分は罪人だから。
いつか、裁かれるだろうから。
システムがけして正義ではないと、思いながらも逆らえないこと。
それこそが自分の最大の罪。
(…ぼくは、シロエを…)
殺したんだ、と噛んだ唇。
自分で殺して、なのに涙を流し続けて、きっとこれからも逆らえない。
何故か、そういう人間だから。
臆病者でも、腰抜けでもないのに、逆らうことが出来ないから。
だから、いつの日か裁かれるだろう。
今の自分は、人殺しだから。
シロエの血で染まった左手の親指、それが罪人の証だから…。
罪人の証・了
※考えてみたら、「冷徹無比な破壊兵器」のキースが、最初に手にかけた人間はシロエ。
撃墜した後、涙したキース。本来のキースは、冷徹無比より、そっちの方だと思ってます。
「ブルー! 聞いて下さい、ブルー!」
またヒルマンやエラたちが無茶な注文を…、とジョミーが走り込んで行った青の間。ソルジャー候補として長老たちにシゴキをされる毎日、安らぎの場所は其処しか無かった。
ついでに言うなら、ブルーはソルジャー。
このシャングリラで一番偉いのだから、長老たちにも睨みが利いた。此処でグチグチと愚痴り倒せば、場合によってはブルーの助け船。「それは酷すぎるんじゃないのかい?」と。
体育会系もかくやと言わんばかりのシゴキに遭ったら、ブルーにチクれば何とかなる。そういう風に学習したから、ジョミーが駆け込む先は青の間。
アルテメシアを脱出した後も、何度駆け込んだか分からない。今日も今日とて、サイオン訓練のメニューがキツ過ぎたから泣きに来た。ブルーに助けて貰おうと。
けれど…。
「…ブルー?」
どうしたんです、と覗き込んだベッドの住人は答えなかった。目を閉じたままで。
(…無視された?)
たまにそういうこともあるから、後で出直すことにした。ちょっと駆け込むのが早すぎたかと、思わないでもなかったから。
(ブルー、厳しい時もあるしね…)
もっと我慢が出来ないのか、と叱る代わりに無視という日も多かった。今日もそれだ、と判断したから、戻った訓練用の部屋。「すみませんでした」と頭を下げて、長老たちのシゴキを受けた。さっきトンズラこいた分まで、みっちりと。夕食の時間まで、ギッチリと。
これだけシゴキを受けて来たからいいだろう、と夕食の後で青の間に愚痴りに行ったら。
(あれ…?)
ブルーの枕元に手つかずの夕食、とっくに冷めた料理のトレイ。
(寝てるのかな?)
明日にしようかとも思ったけれども、今日のシゴキが泣けたから。ブルーが一言、長老たちに言ってくれなければ、シゴキに拍車がかかるから。
(…夕食も食べて貰わないと…)
栄養不足になるもんね、と心に掲げた大義名分。よし、とブルーを起こしにかかった。「夕食が冷めてしまってますよ」と、「食べないと身体に悪いですから」と。
なのに、一向に起きないブルー。何かがおかしい、と無礼を承知で揺さぶったけれど、返らない返事。思念の揺れさえ起こらないような…。
(えーっと…?)
こういう時には、と心を覗こうとして気が付いた。ブルーの心を読めるレベルなら、とっくの昔に長老たちのシゴキなんかは卒業の筈。悲しいかな、そんな力は未だに持ってはいない。
だから大慌てで飛び出して行って、引っ掴んだのがナキネズミ。これの力を借りれば読めるし、ガン無視なのか、寝ているだけなのかを調べようと。
そうしたら…。
「なんだって!?」
そんな馬鹿な、と引っくり返ったジョミーの声。
ナキネズミはとうにお役御免で、青の間にはドクター・ノルディが来ていた。何故かと言うに、ジョミーが自分で呼んだから。ナキネズミが「ブルー、変。何も感じない」と言ったから。
体調不良で深く眠ってしまったのでは、とノルディを呼びに走ったけれども、その結果は…。
「ですから、昏睡状態だと…。いえ、それよりも深い眠りかもしれません」
ソルジャーの眠りは深すぎます、とノルディは診断してくれた。これは当分目覚めはしないと、下手をしたなら数ヶ月は、と。
「……数ヶ月……」
それは困る、と愕然としたジョミー。もしもブルーが目覚めなかったら…。
(毎日がシゴキ…)
長老たちにシゴキ倒された末に、自分は過労死するかもしれない。そうでなければ、いびられた末に心の病になるだとか。
(…どっちにしたって、ミュウの危機だよ…)
ブルーは昏睡状態で不在も同然、其処で自分が過労死したら。生きていたって、心の病で部屋に引きこもりになったなら。
エライことになった、と泣きそうなキモチのジョミーを他所に、本当に目覚めないブルー。次の日に泣き付きに走り込んでも、その次の日に駆け込んでも。
(ゼルたちのシゴキは前より酷くなったし…)
何かと言えば「ソルジャーがあの状態なんじゃ。頑張らんかい!」と怒鳴られる日々。このままブルーが目覚めなかったら、もう確実に過労死のフラグ。
なんとかブルーが目覚めないか、と泣きの涙で考えていたら、浮かんだ名案。まだアタラクシアで両親と一緒に暮らしていた頃、お伽話で読んだことがある。
(確か、オーロラ姫だっけ?)
魔女の呪いで眠り続けるお姫様。王子のキスで目覚めた筈だし、白雪姫だって似たようなもの。毒リンゴを食べて死んでいたのが、王子のキスで生き返るから…。
(うん、これだってば!)
ブルーもきっと、と考えた。
誰が王子か分からないけれど、募集したなら見付かるだろう。ブルーにかかった眠りの呪いか、昏睡状態の呪いだか。それを打ち破れる運命の誰か。
(とりあえず…)
ぼくだったら話は早いんだけど、と早速、出掛けて行った青の間。
自分のキスで目覚めてくれたら、誰にも御礼は言わなくていい。それにブルーも感謝の言葉をくれるだろうし、今まで以上に庇ってくれるに違いない。長老たちの鬼のシゴキから。
(…ぼくが王子でありますように…)
神様お願い、とキスをしたのに、ブルーは動きもしなかった。念のためにと引っ掴んで来ていたナキネズミだって、ブルーの思念を読み取るどころか…。
『ジョミー、キスした! ブルーにキスした!』
男同士でキスするのは変、と騒ぎ始めたから、一発お見舞いしたゲンコツ。
「いいんだ、今は非常事態だから!」
『ヒジョウジタイ?』
「そうなんだ! ブルーを起こすには、運命の誰かが必要なんだ!」
キスをしたら目覚めさせられる誰かが、と睨み付けたら、ナキネズミは「フィシス?」と言ってくれたから、それだとピンと閃いた。フィシスはブルーの女神らしいし、きっといけると。
そう思ったのに…。
フィシスを「お願いします」と拝み倒して、ブルーに贈って貰ったキス。これまた空振り、全く目覚めないブルー。女神だったら、起きてくれそうなものなのに。
「…フィシスでも駄目って…」
どうしたら、と涙目になったら、フィシスも本当に困り顔で。
「私も占ってはみたのですけど…。いずれ、お目覚めになるとしか…」
誰かがブルーを起こす筈です、と答えたフィシス。それが誰かは分かりませんが、と。
そんなわけだから、ジョミーは慌ててチラシを作った。ブルーを目覚めさせられる人材を募集中だと、「我こそは」と思う仲間たちよ、青の間に来たれ、と。
もちろん青の間にはデカいポスター、「運命の人を募集中」の文字。こういった時には、大いに煽って煽りまくらないと、と「君こそブルーの王子様だ!」とも書き込んだ。
もっとも、文句は煽りだけのことで、事情は船の誰もが承知。
たとえブルーが目覚めたとしても、せいぜい、ジョミーから御礼の言葉、と。ブルーの王子様になれるわけなどはなくて、恩人といった所なのだと。
それでも、船の仲間たちにすれば、ソルジャー・ブルーは大切だから。
眠ったままでは自分たちだって困るわけだから、王子は次々とやって来た。長老たちも来たし、船を指揮するキャプテンだって。
ブリッジクルーも、機関部の輩も、養育部門の女性たちだって、我こそはと。
船中の者たちが挑みまくって、ついには子供たちまで呼ばれたけれども、目覚めないブルー。
(…もう駄目かも…)
ぼくは過労死しそうです、とジョミーは半殺しの日々を送り続けて、気付けばシゴキは終わっていた。納得のレベルに到達したから、もういいだろうと。
そうなった途端に、舞い上がったのが失敗だった。調子をこいて人類に送ったメッセージ。
上手く運ぶと考えたのに、見事に裏目に出てしまったから、シャングリラは人類軍に追われまくる日々で、針の筵の毎日で。
(…こんな時にブルーが起きてくれたら…)
王子様さえいてくれたら、と青の間に今も貼りっ放しの例のポスターが恨めしい。
「運命の人を募集中」だとか、「君こそブルーの王子様だ!」とか。
そうこうする内に過ぎた年月、いつの間にやら、船はナスカに着いていた。人類の世界では別の名前があったけれども、とにかくナスカ。
安住の地が見付かった、と若者たちは大喜びで、長老たちも文句を言いつつ、まあ、落ち着いてきてはいるようで。
トォニィという自然出産児なども生まれて、築き始めた次期ソルジャーとしてのポジション。
まだまだブルーには及ばないけれど、その内、なんとかなるだろう。
(…この調子なら…)
なんとかなるさ、と思うジョミーは、もはやすっかり忘れ果てていた。ブルーを目覚めさせられる人材を募集したことも、そのためのポスターが今も青の間にあることも。
「君こそブルーの王子様だ!」と青の間の壁に貼られっ放しで、其処で色褪せつつあることも。
ブルーが眠りっ放しのままでも、もうヒッキーではない自分。
立派に自信がついて来たから、ものの見事に忘れ去ったままで時は流れて…。
(…私を目覚めさせる者。お前は誰だ)
ブルーの目覚めは、やがて唐突にやって来た。事故調査のために来たメンバーズ・エリート、捕虜にされていたキース・アニアン。
彼を殺そうとしたトォニィがしくじり、それを感知したカリナが起こしたサイオン・バースト、大混乱に陥った船。その騒動で目覚めたブルーが目にしたものは…。
(…運命の人を募集中…?)
青の間にデカデカと貼られたポスター、どうやら自分を目覚めさせた者は…。
(ぼくの王子様になるというのか…!?)
よりにもよってアレがそうか、とブルーが把握していたキース。地球の男、と。
ポスターにはジョミーの思念がしっかり残っていたから、このままではマズイ。地球の男を始末しないと、自分を待っている運命は…。
(…あの男の嫁…)
そんな結末は御免蒙る、とフラフラの身体で歩き出したブルー。あいつを倒す、と。
地球の男を倒さない限り、それはドえらいハッピーエンドになってしまう、と。
かくして格納庫を目指したブルーが、果敢にキースに立ち向かったことは言うまでもない。
派手に勘違いをしていたとはいえ、未来がかかっていたのだから。
地球の男を、キース・アニアンを倒さなければ、嫁に行かされてしまうのだから。
ミュウの未来がどうこう以前に、このまま行ったら、遠い昔の政略結婚とやらも真っ青。
物騒な地球の男と自分がウェディングベルで、ハッピーエンドだかバッドエンドだか、泣くに泣けない結末が待っているのだから…。
眠れる船の美女・了
※シャルル・ペロー生誕388周年、と某グーグルに出ていたロゴを眺めた管理人。
「ふうん…」とお出掛け、家に帰ったら、こういう話が出来てしまったオチ。本当です。
(捕虜にしたのはいいんだが…)
何処に閉じ込めればいいんだろう、とジョミーは頭を抱えていた。シャングリラに戻る小型艇の中で、さっきから。
ナスカにやって来たメンバーズの男、キース・アニアン。階級は少佐。
そのくらいしか読み取れなかった、心の遮蔽が強すぎる男。身体能力もかなりのものだし、気を失っている今はよくても…。
(意識を取り戻したら、危険な男だ)
仲間たちに危険が及ばないよう、監禁せねばと思うけれども、問題は船の構造だった。ミュウの箱舟とも言えるシャングリラ。捕虜を監禁出来るような場所は…。
(無い筈だよな?)
あの船で誰かを閉じ込めると言ったら、ヒルマンがたまにしているお仕置き。悪戯が過ぎた子供たちを押し込む小部屋くらいで、その正体は備品倉庫で。
(外から鍵がかかるというだけ…)
なんとも心許ない牢獄。メンバーズ相手に役に立つとも思えない。
これは困った、と悩む間に、小型艇はシャングリラに滑り込んで行って…。
「なんだって!?」
ジョミーが耳を疑った言葉。格納庫で帰りを待ち受けていた長老たち。彼らが言うには…。
「じゃから、お誂え向きの部屋があるんじゃ。こやつを閉じ込めるにはピッタリじゃわい」
一度も使ったことは無かったんじゃが、とゼルが繰り返した「座敷牢」。
「座敷牢…?」
なんだそれは、と訊き返したら、「そのままの意味じゃ」という返事。座敷牢、すなわち座敷な牢獄。監禁用の部屋だと言うから驚いた。
何故、シャングリラに監禁用の部屋が必要なのか。ミュウの箱舟、名前通りの楽園なのでは、と心底仰天したのだけれども、「使っていないと言っただろう」とヒルマンがフウとついた溜息。
「今まで出番が無かったのだよ、問題を起こした仲間は一人もいなかったから」
「ええ、そうです。幸いなことに、誰もが健康でしたから…」
身体はともかく心の方は、と引き継いだエラ。
説明によると、ミュウは精神の生き物とも言える。その精神の力がサイオン。
もしも常軌を逸したならば、サイオンで船を壊しかねない。そういう状態に陥った仲間を収容するべく、座敷牢を作っておいたという。シャングリラを改造した時に。
「色々と便利に出来てるんだよ、座敷牢だから」
其処だけで全部間に合うようにね、とブラウも押した太鼓判。バストイレ完備、その上、心理探査用の設備まであるのが座敷牢。精神状態をチェックするのも欠かせないから。
一気に解決した難問。捕虜を閉じ込めるのに格好の場所が座敷牢。
(丁度良かった…)
いいものがあった、とジョミーは感謝したのだけれど。早速キースを其処に突っ込み、心理探査を始めたけれども、無かった収穫。
キースの心理防壁は堅固で、どうしても破れなかったから。下手に進めたら精神崩壊、欲しい情報を頂く前に廃人になってしまうから。
「…此処までにしよう」
仕方ない、と日を改めることに決めた尋問。何か良策が見付かるまでは、座敷牢に入れておけば充分、と。
長老たちの話によると、破壊力では定評のあるタイプ・イエローでも壊せないらしい座敷牢。
メンバーズといえども人類なのだし、サイオンは持っていないから…。
(いくら暴れても、座敷牢は絶対に壊せない)
其処で暮らしているがいい、と放置プレイを決め込んだ。座敷牢だけに、中に入らずとも外から出来る囚人の世話。食事も、それに入浴だって。
かくして決まったキースの処遇。当分は放置、世話は座敷牢のマニュアル通り。
(初使用だが…)
熟練の仲間もいないけれども、マニュアルがあれば初心者でも世話が出来るだろう。手の空いている警備の者でも使って、「これだ」とマニュアルを渡しておけば。
だから、ジョミーは目を通しさえもしなかった。座敷牢用のマニュアルには。
マニュアルを受け取った警備員の方も、相手は人類の捕虜だとあって…。
(…マニュアル通りにやればいいよな?)
それで全く問題無し、とパラリパラリとめくったページ。
精神に異常を来たした仲間だったら、色々と気を遣うけれども、所詮、相手は捕虜だから。
ミュウの敵の人類、おまけに物騒なメンバーズ。
(何も遠慮は要らないさ)
人類には散々、酷い目に遭わされて来たのだから、と考えたキースの世話係たち。マニュアル通りの世話で充分、それでも上等すぎるくらい、と。
そうとも知らない、捕虜になったキース。失っていた意識が戻って来たら…。
(何処だ、此処は!?)
見たこともないガラス張りの部屋。ドームのようになった構造。自分は椅子に座らされていて、手足を拘束されていた。そう、その椅子にガッチリと。
(…ミュウどもの仕業か…)
上等だ、と思ったけれども、ピンチはピンチ。どうやら自分は、モビー・ディックの中に囚われているらしい。逃げ出そうにも、右も左も分からない船に。
(第一、此処から出る方法が…)
あるのだろうか、と見回す間に、何故だか俄かに催して来た。いわゆる生理的欲求なるもの、そう言えば最後にトイレに行ったのは…。
(…ジルベスター・セブンに降下する前…)
着陸用の船に乗り込む直前、母船で用を足したのが最後。あれから水分さえも摂っていないし、今まで持ち堪えただけで…。
(…どうしろと?)
この部屋にトイレは見当たらないが、と流石のキースも悟った自分の危機。行きたいというのに無いトイレ。其処まで案内してくれそうな、人影さえも見えはしなくて。
(……これはマズイぞ……)
なんともマズイ、と焦っていたら、いきなりガコンと抜けた椅子の底。座面の一部が。
(待て、この椅子はトイレなのか!?)
そうだったのか、と慌てる間に、椅子から出て来たロボットアーム。それが拘束された手足の代わりに、器用に下ろしてくれたファスナー。
何も頼んでいないのに。周りはガラス張りだというのに、遠慮なく。そして…。
やられた、と呆然とするしか無かった。手足を拘束されたままでトイレ、屈辱だとしか言えない状況。なのに忌々しい椅子の方には、ウォシュレットが完備されていた。更に温風、それも適温。こういう温度だったら快適だ、と平時だったら希望するかもしれない温度。
なにしろ、ミュウの船だから。
座敷牢に入るのは精神に異常を来たした仲間、と想定していたものだから。
例の椅子に座った人間の様子を見ながら、上手い具合に世話をするように出来ていた。トイレが済んだらウォシュレットの出番で、次は温風。快適に用を足せるようにと。
すっかり終われば、ロボットアームがファスナーを上げて元に戻して、それで終了。座面の穴も閉じてしまって、椅子は元通りになったけれども…。
(…これから毎回、こうなるのか!?)
私の尊厳はどうなるのだ、と叫びたくても身分は捕虜。人類同士なら、捕虜の待遇について色々と細かく決まっているのに、相手はミュウ。人類の規則は通用しない。
(…こんな屈辱的なトイレは…)
人類の世界には存在しない、と怒鳴りたい気分。少なくとも普通の所には、と。
捕虜をこういう風に扱うのがミュウのやり方か、とキースの心に生まれた憎しみ。サムの仇もさることながら、私への待遇も最悪すぎる、と。
ガラス張りの部屋で、拘束されたままで行く全自動トイレ。
もうそれだけでもキースにとっては屈辱なのに、上には上があったというのが座敷牢。食事の方はまだマシだったけれど、ロボットアームが口に突っ込むだけだけれども。
(今度は何だ!?)
ガコーン! と椅子の前後左右に出て来た柱。それをまじまじと見ている間に、枠だけになってしまった椅子。座面ばかりか抜けた背面、辛うじて身体を支えられる程度。
(いったい何が起こるというのだ…!)
サッパリ分からん、と思っていたら、再び出て来たロボットアーム。それは甲斐甲斐しくブーツを抜き取り、お次は服を脱がせにかかった。手足を拘束しているパーツと連動しながら、まるっと裸に剥いてしまって、下着も綺麗に剥ぎ取ったからたまらない。
(なんだ、これは…!)
どうするつもりだ、と色を失ったキースの四方で、柱からバーン! と出て来たブラシ。恐らくブラシだろう代物、それがウィンウィンと回転し始め、ビシューッ! と吹き付けられた液体。
毒かと一瞬身構えたけれど、どう考えてもボディーソープとしか思えない香り。
(ま、まさか…)
私を洗おうとしているのか、という読みは間違っていなかった。ウィンウィンと回転しながら接近する柱、洗車よろしく丸洗いされた。
挙句にロボットアームに開けさせられた口、シャカシャカシャカと歯磨きまで。
全部終わったら乾燥用の温風が吹き付け、ようやく服を着せて貰えると考えたのに。
(……この状態で待機しろと!?)
脱がされた服は、床から出て来た洗濯機らしき代物の中で回っていた。多分、乾燥させている途中、そうでなければ脱水中と言った所か。
(…あれが終わるまで…)
代わりの服も貰えないのか、と見詰めるしか無かった洗濯機。メンバーズの制服も下着も纏めてガンガン洗っているから、もう素っ裸でいるしかなくて。
(せめてタオルの一枚でも…!)
頼む、と切実に願ったけれども、そのシステムは無いらしい。ただ、何らかの着衣を希望という思考が漏れていたのか、ロボットアームがやって来て…。
(ブーツだけ履かせて貰っても…!)
ますます間抜けなだけなのだが、と鉄の精神さえ崩壊しそうなミュウの連中に入れられた檻。
とりあえず椅子は元の姿に戻ったけれども、今も変わらず素っ裸だから。タオルの一枚でも前の部分に掛けてくれたら、という気持ちなのに、ブーツだけが足に戻って来たから。
(…この檻はいったい、何なのだ…!)
ミュウどもは私に何をする気だ、とズタズタにされたキースの尊厳。全自動トイレも大概だけれど、丸洗いの方も酷かったから。
せめてタオルをと願った途端に、ブーツを履かされてしまったから。
裸ブーツなど、一度も聞いたことがない。海賊どものリンチにしたって…。
(これよりはマシな扱いの筈だ…!)
拷問だったら、どんなものでも耐えられる。そういう風に訓練されたけれども、想定外すぎる全自動トイレに丸洗い。かてて加えて裸ブーツで、もう唇を噛むより無かった。
人類とミュウは違いすぎると、殲滅すべき生き物だと。
そんなこんなで、キースの憎悪は増す一方。来る日も来る日もこの扱いだし、たまに拘束が解ける時間はあっても、じきに拘束されるから。メンテナンスの間だけしか自由になれない、そういう仕様の牢だったから。
(…あのミュウの女…)
たった一度だけ、メンテナンス中に来合わせた女。マザー・イライザかと見間違えた女、それが漏らした船の構造。此処から自由になれるようなら、脱出用のルートは頭の中。どう行くべきかは分かっているから、一刻も早く逃げるに限る。
(ミュウと我々とは、決定的に違いすぎるのだ…!)
捕虜の扱いを見れば分かる、とギリギリギリと噛み締めた奥歯。よくもと、これが捕虜に対する扱いなのかと。
そしてジョミーは、今も知らないままだった。座敷牢がどういうシステムなのか、マニュアル通りに捕虜を扱ったらどうなるか。
マニュアル通りに実行している係の定時報告は、「順調です」の一言だったから。
捕虜は一向に何も吐こうとしないものだから、どうやって心を読めばいいのか悩み続けるミュウたちの長。
そうする間も、キースが憎しみを募らせているとは夢にも思わないままで。
全自動トイレと丸洗いの日々で、ガラス張りの部屋でブチ切れていることも知らないで…。
座敷牢の男・了
※キースが捕虜になっていた間、ガラス張りの部屋でお風呂だろうか、と考えただけ。
監視付きでお風呂はキツイよね、と思っていたのに、何故こうなった。ごめん、キース…。
(ブラウニー…!)
今日はツイてる、とシロエの顔に浮かんだ笑み。
ステーションの食堂、ティータイムの趣味は無いのだけれど。
暇がある日は欠かさないチェック、どういう菓子が出されているか。
メニューにブラウニーがあればラッキー、これだけは食べていかなければ。
「ブラウニーと…。シナモンミルクも、マヌカ多めにね」
注文したら、渡されたトレイ。
それを手にして向かったテーブル、邪魔をされない隅っこがいい。
丁度いい具合に壁際に空席、今日は本当にツイている。
ストンと座って、早速頬張るブラウニー。
チョコレート味の小ぶりなケーキを、手づかみで。
これはそういう菓子だから。そうやって食べるケーキだから。
(ママのブラウニー…)
とっても美味しかったんだよ、と顔が綻ぶ。
此処のブラウニーはママのと同じ味だと、ママのケーキ、と。
成人検査で消されてしまった沢山の記憶。
ぼやけて霞んでしまった両親、けれどブラウニーの記憶は残った。
母が得意なケーキだったと、いつも出来るのが楽しみだったと。
そのブラウニーがメニューにあるのを発見した時、どれほど嬉しかっただろう。
どんなに心が弾んだだろうか、初めて注文してみた時は。
(ママの方がきっと上手なんだよ、って…)
そう思いつつも、心の何処かで願っていたのが母の味。
ブラウニーが得意だった母は自慢だけれども、あれと同じ味のが食べられたら、と。
料理上手な人がいたなら、同じ味かもしれないと。
(あんまり期待はしてなかったけど…)
マザー・イライザが支配しているステーション。
そんな所に母のような人がいるわけがないし、どうせ美味しくないのだろう。
やたらパサパサしているだとか、チョコレートの味が濃すぎるだとか。
そうだとばかり思っていたのに、食べてみたら同じだった味。
奇跡のように此処で出会えてしまった、懐かしい母のブラウニー。
あれ以来、ずっとチェックを欠かさない。
ブラウニーをメニューに見付けた時には、それを頼んで至福の時。
誰にも邪魔をされない席で。
手づかみで食べる小ぶりなケーキを、頬を緩めて。
今日も美味しい、と大満足だったブラウニー。
顔さえおぼろになった両親、けれども舌は忘れなかった。
母のブラウニーはこの味だったと、ステーションでも出会えた、と。
少し汚れてしまった手を拭き、空になったトレイを返しに行ったのだけれど。
途中で擦れ違った生徒のトレイに、ブラウニー。
さっきまで自分が食べていたケーキ。
そのせいだろうか、耳が捉えたその生徒の声。
並んで歩く友人に向けて言った言葉で、なんということもない言葉。
「美味いんだよな、ここのブラウニー。母さんのと同じ味なんだ」
えっ、と見開いてしまった瞳。
呆然と見送った、トレイを持った生徒。
彼の母もブラウニーが得意だったというのは、まだ分かるけれど。
(……同じ味……)
まさか、と信じられない気持ち。
どうして母のと同じ味のを、彼の母親が作るのだろう?
そんなにありふれたケーキだったろうか、母の得意のブラウニーは?
(誰でも作れて…)
同じ味になるとでも言うのだろうか、あの思い出のブラウニーは?
(ぼくだけの思い出の味なんだ、って…)
思っていたのに、違うかもしれないブラウニー。
それならばそれで、いいのだけれど。
ブラウニーが得意だった母親の子供は、誰でも「この味!」と思うのならば。
大切にしていたブラウニーの記憶。
自分だけだと思った偶然、ステーションで出会った母の味。
けれど、さっきの生徒もそうだと言ったから。
他にもきっといるに違いない、あのブラウニーが大好きな生徒。
(ぼく一人だけじゃなかったんだ…)
まるで特別な儀式のように味わっていたブラウニー。
もう一つの思い出、マヌカ多めのシナモンミルクとセットにして。
その思い出が揺らいだ気がして、ラッキーな気分も減ってしまった感じ。
他にも同じ儀式をしている生徒が何人もいるだなんて、と。
ガッカリしながら戻った部屋。
机の前に座って溜息を一つ、台無しになったラッキーデー。
せっかく母の思い出の味を食べたのに。
ブラウニーに出会えた日だったのに。
(本当に美味しかったんだけどな…)
ママのと同じ味のブラウニー、と頬杖をついて考えていたら、閃いたこと。
料理にも、お菓子作りにも…。
(レシピ…!)
それが同じなら、同じ味にもなるだろう。
さっきの生徒の母のレシピと、自分の母のが偶然にも同じだっただけ。
ついでに、ステーションのレシピも。
きっとそうだ、と救われた気分。
幸運にも同じレシピで作ったブラウニーに出会えた生徒が二人。
自分と、さっき見掛けた生徒。
(ステーションのは…)
レシピを調べられる筈、とアクセスしてみたデータベース。
其処で見付けた、ブラウニーのレシピ。
(ママもこうやって…)
作ったんだ、と懸命に記憶を掻き回すけれど。
後姿しか思い出せなくて、その手元までは分からない。
材料をどう混ぜていたのか、どうやって型に入れていたのか。
でも、これなんだ、と眺めたレシピ。
母の手元を思い浮かべながら、こんな感じ、と粉をふるって。
卵を溶いて、チョコレートを湯煎にして溶かして。
(ママが作っていたブラウニー…)
これを忘れずに覚えておきたい。
いっそ書き抜いて持っておこうか、ピーターパンの本に挟んで。
そしたら何処へ行くにも一緒で、いつか地球まで行った時にも同じ味のを食べられるだろう。
自分で作る機会はなくても、誰かに頼んで。
「この通りに作って」とレシピを渡して、母のと同じブラウニーを。
(それがいいよね…)
書いておくのが一番だから、とメモする紙を取り出したけれど。
はずみに指が滑ってしまって、どうスクロールしたのだか。
(……嘘……)
ズラリと並んだブラウニーのレシピ、それこそ画面を埋め尽くすほどに。
幾つも幾つも、得意とする人の数だけありそうなほどに。
ついでに其処に書かれていたこと。
ブラウニーの由来はハッキリしないと、アメリカ生まれだとも、イギリスだとも。
だからレシピも、「これだ」と決まったものなどは無いと。
(それじゃ、ステーションのブラウニーのレシピは…)
母のと偶然同じだったのか、それとも違うものなのか。
ゾクリと背筋に走った悪寒。
もしかしたら、違うのは自分の方かもしれない。
(マザー・イライザ…)
それに、記憶を消してしまった成人検査。
母の味だと思っていたのは、偽りの記憶だっただろうか。
ステーションに馴染みやすいようにと、機械がわざと作った仕掛け。
ブラウニーが得意な母の子供には、このステーションの味がそれだと思わせる。
さっきの生徒も、それに自分も、まんまと罠にかかっただけ。
本当は違う味のを食べていたのに、これがそうだと思い込まされて。
母の味だと勘違いをして、それは幸せな気分になって。
(……まさか、ママの味……)
違うのだろうか、あのブラウニーは母の味ではないのだろうか。
またしても自分は騙されたろうか、成人検査に引き摺り込まれた時と同じに…?
そんな、と涙が零れたけれど。
本物の母のブラウニーを食べられたら分かることなのだけれど、それは叶わないことだから。
いつか偉くなって、エネルゲイアに戻る日までは、どうすることも出来ないから。
(きっと、違うんだ…)
あれは本当にママのなんだ、と唇を噛んで言い聞かせる。
疑問を覚えた自分の心に、辛くても今は騙されておけ、と。
母の味だと考えておけと、ブラウニーが得意だった母がいたのだから、と。
もしも注文しなくなったら、それまで忘れそうだから。
母の美味しいブラウニーまで、それを作ってくれた母まで。
そうなれば機械の思う壺だから、今は我慢して騙されたふりを。
可能性はとても低いけれども、本当なのかもしれないから。
このステーションで食べるあのブラウニーは、母の味かもしれないから…。
ブラウニーの味・了
※シロエが夢に現れたジョミーに、「美味しいんだよ」と自慢したママのブラウニー。
幸せそうな顔で作る姿を見ていたっけね、と考えていたら…。ごめんね、シロエ。
