(パパ、ママ…)
どうして忘れてしまったんだろう、とシロエがギリッと噛んだ唇。
ピーターパンの本を抱えて、ベッドの上で。
この本だけしか残らなかった、と強く抱き締める宝物。
子供時代の持ち物の中で、残ったものは一つだけ。
両親がくれた大切な本。
幼かった自分に夢を与えてくれた本。
いつかはネバーランドに行こうと、広い広い空を飛んでゆこうと。
ピーターパンと一緒に旅に出るのだと、子供のための国にゆくのだと。
(…もっと素敵な所にだって…)
行けると父が教えてくれた。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、「シロエだったら行けそうだぞ」と。
頭がいい子は、いつの日か行けるらしい地球。
そう聞かされて、素直に夢見た。
地球に行けるなら、ネバーランドにも必ず行けるだろうから。
きちんと準備を整えておけば、いつでも旅に出られるから。
ピーターパンが迎えに来たなら、高い空へと舞い上がって。
ぐんぐんと飛んで、エネルゲイアを後にして。
きっと行けると夢見た国。
ネバーランドにも、もっと素敵な地球にだって。
(…ぼくは行けると思ってたのに…)
成人検査を好成績で通過したなら。
頭がいいと認められたら、其処への切符が手に入るのだと。
けれども、高すぎた代償。
地球への切符を貰える場所には、どうやら辿り着けたのだけれど。
皆の憧れの最高学府、E-1077。
此処で四年を過ごした後に、選出されるメンバーズ。
それになれたら、開けるらしい地球へ行く道。
ただ、このE-1077に来るためには…。
(……成人検査……)
あんなものだとは思わなかった、と後悔したって、もう遅すぎる。
何もかも奪い取られたから。
機械がすっかり消してしまって、何一つ残らなかったから。
ピーターパンの本だけしか。
両親の記憶も、懐かしい家も、何もかも失くしてしまったから。
こんな目に遭うくらいだったら、地球には行けないままで良かった。
ネバーランドがあれば良かった。
両親と暮らす家の窓から、いつか行けるかもしれない国。
其処を夢見て暮らしてゆければ、それだけでもう充分だった。
メンバーズにはなれなくても。
地球への道が開かなくても、両親と一緒にいられたならば。
エネルゲイアを離れずに済んで、何も失わなかったなら。
(……どうして、成人検査なんか……)
あんなシステムが存在するのか、考えるほどに苛立つばかり。
憎しみが増してゆくばかり。
他の候補生たちは、まるで気にしていないのに。
やっと大人の仲間入りだと、むしろ喜んでいるようなのに。
(あれも、機械が…)
そういう風に仕向けるのだろうか、記憶を消してゆくついでに?
子供時代の記憶を消し去り、代わりに叩き込むのだろうか。
このシステムに馴染むべきだと、それが正しい生き方だと。
社会の仕組みに従うがいいと、そうすれば地球へ行けるのだから、と。
もしもそうなら、自分にとっては余計なお世話。
地球など要らない、両親と、故郷と引き換えならば。
何もかも捨てねば行けない場所なら、行けないままでいいのだから。
どうして選べないのだろう。
地球へ行きたいか、地球へは行かずに生きる道がいいか。
大人になる道を歩き始めるか、子供の世界を離れずにいるか。
(それさえ、自分で選べるんなら…)
きっと此処には来ていない。
今も故郷を離れてはいない、両親の家で暮らしている筈。
メンバーズになるより、地球へ行くより、両親の側にいたかったから。
故郷の家の窓の向こうに、いつも夢見たネバーランド。
それだけがあれば、きっと満たされていた。
こんな空虚な心を抱えて、ベッドに座っているよりも。
穴だらけになってしまった記憶を、取り戻そうとして苦しむよりも。
(……ピーターパンが来てくれなくたって……)
ネバーランドは、けして消え失せない。
夢まで消えてしまいはしない。
本を開けば、夢の国は其処にあるのだから。
ピーターパンの本の向こうに、いつも、いつだって見えているから。
自分の記憶が曖昧になった、今さえも。
両親の顔さえ忘れ果てても、ネバーランドは消えずに今も在るのだから。
(成人検査を考えたヤツは…)
いったいどうして、こんなシステムを作ろうなどと考えたのか。
誰も拒否など出来ない検査を、記憶を消してしまう仕組みを。
子供時代の全てを否定し、握り潰してしまうなら…。
(……最初から、そんな過去なんか……)
与えないでいて欲しかった。
両親も故郷も無かったのなら、何も失くしはしないのだから。
最初からステーションで育っていたなら、両親も家も無かったならば。
(そういう風に育てられたら、そっちが普通なんだから…)
アンドロイドに育てられても、何の個性も無い暮らしでも。
右だと言われれば右を眺めて、左だと聞けば左を見る。
個性の欠片も育たないように教育されたら、成人検査がどんなものでも気にしない。
過去を失くしても、それに価値など無いのだから。
自分を育てたアンドロイドが、その後は何処へ行こうとも。
ステーションでの暮らしがガラリと変わってしまったとしても、それだけのこと。
「今日からは、こう生きてゆくのだ」と思うだけ。
過去を失くして悲しむ代わりに、消えた記憶を嘆く代わりに。
新しい生活パターンに馴染んで、それに相応しく暮らしてゆくだけ。
懐かしむ過去など、何も持ってはいないから。
両親も家も、最初から無かったのだから。
そうだったならば、どんなにいいか。
どれほどに楽で、幸福だったか。
失くす過去など持たなかったら、最初から過去が無かったら。
そういう風に育てられたら、両親も故郷も無かったら。
(…ネバーランドも無いけれど…)
其処を夢見る自分もいないし、不都合なことは何も無い。
こうして苦しむシロエはいなくて、優等生のシロエが一人。
今日は普通に昨日の続きで、明日は今日から続いてゆくだけ。
成人検査で途切れたことさえ、きっと知らないままの人生。
何も失くしはしなかったから。
成人検査の前と後とで、何も変わりはしないのだから。
(どうせ機械が決めるんなら…)
何もかも機械がやればいい。
養父母が子供を育てる代わりに、アンドロイドが育てればいい。
夢も希望も何も与えずに、教育だけを施して。
故郷の光も風も無い場所、無個性な教育ステーションに住ませて。
そうすればいいと、何故そうしないと、ただ悔しくて唇を噛む。
どうして両親を与えたのかと、自分に故郷を持たせたのかと。
全部失くしてしまうのに。
どうせ持ってはいられないのに、与えられた甘い砂糖菓子。
まるで童話のお菓子の家で、食べたばかりに苦しむ自分。
両親も故郷も知らなかったら、苦しみさえもしないのに。
成人検査を受けた所で、何も失くしはしないのに。
(いったい、どうして…)
後で必ず取り上げるくせに、幸せな過去を寄越すのか。
幸福に満ちた子供時代を、温かな家を、優しい両親に守られる日々を。
ずっと持たせてくれないのならば、与えなければ良さそうなのに。
その方がこちらも楽でいいのに、何故、与えてから取り上げるのか。
(…理不尽すぎるし、非効率的…)
機械が統治してゆくのならば、機械のような人間でいい。
個性などは無くていい筈なのに、と考えていて気付いたこと。
もしかしたら、これが狙いだろうかと。
機械の意図は此処にあるかと、そのための養父母と故郷だろうかと。
(……夢が無ければ……)
誰も夢など抱かない。
自分も、きっとそうなった筈。
ネバーランドを夢見もしないし、地球へ行こうとも思わない。
ただ淡々と生きてゆくだけ、昨日の続きの今日という日を。
明日も同じに今日の続きで、其処からは何も生まれては来ない。
言われた通りに生きてゆくだけで、工夫もしないし、自分で考えることだって。
けれど、それでは機械が困る。
優秀な人間が出ては来ないし、これから先も進歩はしない。
進歩が無いなら、いずれは退化してゆくだけ。
誰も工夫を凝らさないなら、考えようともしないのなら。
(…退化されたら、機械の世話をする人間も…)
いつしか消えてしまうのだろう。
膨大な数の精密機械を相手に、メンテナンスをする人材。
そうなれば機械は壊れてしまって、誰も修理をしてくれはしない。
(……機械の世話をするためだけに……)
人間は生かされているのだろう。
奪い去られる夢の生活、子供時代を与えられて。
誰もが大きな夢を描いて、考える力や工夫することを覚えるように。
そうやって培った力を生かして、機械に仕えてゆくように。
何の疑いも抱くことなく、成人検査で押さえつけられて。
いいように飼いならされてしまって、機械の言いなりになる人生。
きっとそうだ、と気付いた成人検査の理由。
機械が人間を使いこなして、意のままにするために行うもの。
個性は充分に与えてやったと、夢を持つことも覚えただろうと、消し去る記憶。
子供時代はもう不要だと、これからは機械のために生きろと。
(…機械にはパパも、ママだって…)
いるわけがないし、故郷も無い。
だから機械には分からない苦痛、過去を失うということの意味。
機械にとっては、過去はデータに過ぎないから。
別のデータで補えるのなら、何も問題無いのだから。
(……何もかも、全部……)
機械が与えて奪い去った。
大好きだった両親も家も、故郷にあった風も光も。
ピーターパンの本だけが残って、他は何一つ残らなかった。
最初から機械が仕組んだ人生、それを生きるしかないのだろうか?
此処まで生きてしまったからには、このまま行くしかないのだろうか…?
(…そんなの、嫌だ…)
たとえ取り残されることになっても、出来るなら此処に留まりたい。
機械の手から逃れて生きたい、そうすれば破滅するのだとしても。
他の者たちと同じようにはなれないから。
世界が機械のためにあっても、そんな機械に従える心は持たないから…。
機械の思惑・了
※成人検査は何のためにあるのか、シロエが考えなかった筈はないよな、と。
シロエが出しそうな結論がコレで、実際の所はどうなんだか…。アニテラだと真面目に謎。
(調子こいて言ったのはいいんだけどさ…)
マジでヤバイし、とジョミーがついた大きな溜息。
デッカイことを言いすぎたかなと、こうなるとは思っていなかったから、と。
赤い星ナスカ、人類が捨てた植民惑星。元はジルベスター・セブン。
其処に入植したまでは良かった、問題はその先だった。定住しようと決めたその時、切っ掛けになった今後の方針。「命を作ってゆく」ということ。
元はカリナが言い出したことで、早い話が自然出産で子孫を増やすのだけれど…。
(…教授も賛成してくれたから…)
ブリッジで大々的に宣言、そうして今に至ったわけで。
ところが自分が落ちたのがドツボ、ふとしたことが原因で。
ナスカに降りると決まったその日に、目出度く誕生したカップル。カリナとユウイ。
それに触発されたらしくて、通路で出会ったニナに言われた。「私、本気よ?」と。
いったい何の話なのか、と訊き返したら…。
(…ぼくの子供が欲しいって…)
そう言って走り去ったのがニナで、元気一杯だった後姿。まるで子供だった頃のように。
(小さな子供だったのに…)
シャングリラで初めて出会った時は。
それが大きくなったものだと、一人前の口を利くよねと、微笑ましく見送ったのだけれども…。
後で自分の部屋に帰って思い出してみたら、大胆すぎたニナのモーション。
よりにもよって欲しいのが「子供」、つまりは結婚希望な上に…。
(…ぼくの子供を産むわけで…)
凄すぎるけれど、ちょっとイイかも、と考えた。
命を作ろうと決めたからには、ソルジャー自ら最先端を突っ走るのも、と。
なかなかに悪くない考え。自然出産は非効率的だし、カップルは多い方がいい。
(下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、で…)
幸い、ニナは乗り気なのだし、参加しようかと思ったジョミー。ぼくにも出来る、と。
そうと決まれば、もう早速に…。
(明日にでもニナにプロポーズして…)
話を先に進めなくちゃね、とウキウキしながら眠ったその夜。ベッドに入って暫くしたら…。
(………え?)
何処だ、と見回した見知らぬ場所。シャングリラの中ではないらしい。それにアタラクシアでもなくて、何故だか狭いスペースにいて…。
(えーっと…?)
右側を見たら、牛が一頭。その向こうにも仕切りがあって、また牛といった具合の光景。
何事なのか、と左側を見ると、そちらにも牛で、牛の向こうに続いてゆく牛。
(……どうして牛が?)
変だ、と自分の目の前を見たら、ドカンと置かれた飼葉桶。水を満たした器もあって、どうやら自分は牛らしい。其処は牛舎で、しっかりキッチリ繋がれていて…。
暫くしたら入って来たのが飼育係といった雰囲気のオッサン、そして呼ばれた自分のID。まだ人類の世界にいた頃のヤツで、そいつが牛の識別番号。もう間違いなく牛だった自分。
かてて加えて、オッサンが言ってくれたこと。
「明日には出荷するからな」
「出荷!?」
それって何だよ、と叫んだ所で目が覚めた。ビッショリと汗をかいていたわけで、目覚めるのが少し遅かったなら…。
(…食肉加工場だったわけ?)
そうなる運命だったわけね、と悟った夢の自分の末路。あの牛舎から引っ張り出されて、多分、トラックに乗せられて。
(……あの夢は……)
夢だったけれど、夢じゃないんだ、と激しく脈を打つ心臓。あれは警告というヤツだ、と。
目覚めた途端に分かったから。ああいう夢を見てしまった理由も、何故、牛なのかも。
(……人間の道から外れちゃったら……)
次の人生は牛になるんだ、とガタガタと震え始めた身体。人間だったら、自然出産しないから。それをするのは動物だけだし、相応しい道を歩むがいい、と。
うっかりニナと結婚したなら、子供を作ってしまったら。
今の人生を終えた後には、牛になる未来が待っているらしい。それも食肉加工場行きの。
(…エラ女史が正しかったんだ…)
自然出産は倫理に反する、と唱えた彼女。倫理に外れたことだからこそ、次の人生は牛になって食肉加工場送り。神様がそう決めているから、食らった強烈すぎる警告。
(でも、カリナは…)
ユウイと結婚して幸せそうだし、警告を受けていないのだろうか?
それとも勇気溢れる女性で、将来は牛でもいいのだろうか?
(…ユウイもメチャメチャ度胸あるよね…)
子供を作ったら牛なんだけど、とガクガクブルブル、自分にはとても出来そうにない。
今はともかく、次の人生、いや牛生は破滅だなんて、食肉加工場が待っているなんて。そうなることが分かっているのに、結婚して子供を作るだなんて。
(……ぼくが言い出したことだけど……)
絶対に参加出来そうにない、と震え上がった自然出産。牛になって飼葉だけならともかく、食肉加工場だから。…ハンバーグとかは好きだけれども、自分がミンチは最悪だから。
ブルブル震えて震えまくって、「勇者だ」と思ってしまったカリナ。それにユウイも。
惚れてくれたニナには悪いけれども、チキンな自分には選べない道。
(…ニナだって、牛は平気なんだ…)
それに食肉加工場も、と頭から被ってしまった上掛け。ニナたちは強い子供だけれども、自分は臆病でチキンなんだ、と。
そうして震え続ける間に、ハタと気付いたさっきの警告。牛になるぞ、と食らった夢。
(…あれって、ホントに…?)
神様の警告だったのだろうか、神様は其処まで面倒見のいい存在だろうか?
そうだとしたなら、もう少しばかり恵まれていそうなのがミュウ。…神がこんなに身近なら。
人間の道に外れる前から、「こうなるんだぞ」と警告をくれる距離にいたなら。
(…ミュウが人類に追われる立場は変わらなくても…)
人類に処分されるよりも前に、シャングリラに知らせてくれそうなもの。殺されそうなミュウの子供が現れるぞ、と夢か何かで。
ミュウの自分にさえ、「自然出産をしたら、次の人生は牛だ」と警告するのなら。
人類に追われる立場のミュウにも、キッチリ教えてくれるのならば。
これはアヤシイ、と思った夢。神様がくれた怖すぎる警告。
(…あれって、機械が仕掛けたんじゃあ…?)
完全な管理出産のシステム、それに逆らわないように。
普段は全く意識しなくても、考えた途端に、あの夢が発動するように。
(そうだとしたら、カリナやユウイが平気なのも…)
分かる気がする、きっとそうだと解けて来た謎。カリナもユウイも、幼い時から船にいるから。
成人検査を受けていないから、機械が仕掛け損なったままのプログラム。…意識の底に。
(だから、自然出産を考えたって…)
牛になる夢など見るわけがなくて、次の人生の心配はゼロ。
心配な部分があるとしたなら、自然出産そのものだけ。人間がそれをしなくなってから、とても長い時が流れたから。…今の時代は、誰も経験していないから。
(…その部分だけが、勇者っていうことなんだ…)
カリナやユウイや、ニナたちは。
命は作れるとヒントをくれた、あの子供たちは。でも…。
(…ぼくだと、機械に刷り込まれてて…)
もはや手遅れ、どう頑張っても牛になる夢しか見ないのだろう。
ついでに「牛になるぞ」と食らった警告、あれは一度で沢山な感じ。恐ろしすぎて未だに身体が震えるわけだし、その原因が機械のせいだと分かっても…。
(あのプログラムを消去出来ない限りは…)
チキンなジョミーは治らない。
自分が自然出産に関わると考えただけで、もうガタガタと震え出す身体。牛になってしまうと、次の人生は確実に食肉加工場だと。
(…ブルーだったら消せるのかな…?)
このプログラムを、と思ったけれども、出来るのならやっているだろう。とうの昔に。
アルテメシアの上空から落下して行ったブルー、力は尽きていたけれど…。
(…あれから後も、起きてたんだし…)
成人検査絡みの有害な記憶は、取り除いてくれた筈だった。機械が無理やり押し込んだものは、ミュウとして生きるのに不向きなものは。
それでも何かが残ったのなら、ブルーにも手出しは不可能なレベルの暗示なわけで…。
駄目だ、と今日も膝を抱えてベッドの上に蹲るだけ。
ナスカではカリナが妊娠中で、他にも自然出産希望のカップルたちが現れつつある時なのに。
こういう時こそ、ソルジャーの自分も名乗りを上げるべきなのに。
(……結婚だって、もう怖くって……)
今のノリだと、結婚したなら、子供を作ってなんぼだから。
シャングリラにいる者も、ナスカに入植した仲間たちも、そういう流れで生きているから。
(…ニナでなくても、誰と結婚しちゃっても…)
きっと子供を作らされるオチで、間違いなく夜な夜なうなされる。牛になる夢に、食肉加工場に送られる牛になっている夢に。
(あの夢、何処まであるんだろう…)
もしかしたなら、トラックに乗って、食肉加工場に着いてしまうとか。
「こっちへ来い!」と引っ張ってゆかれて、肉にされる所までセットものだとか。
(…有り得るよね…)
あまりの恐怖に止まる心臓、其処まで計算しかねない機械。
管理出産のシステムを守るためなら、心臓が止まるほどの強力な暗示を仕込むことだって。
(…もしも、ソルジャーのぼくが死んじゃったら…)
みんな困るし、それを防ぐためということで許して欲しい、とガクガクブルブル。
本当はチキンで、「次の人生は牛になる」という運命が怖くて耐えられないだけの臆病者。
食肉加工場に行く人生が嫌で、それを避けたいチキンな自分。
機械の仕業だと分かっていたって、どうにも克服出来ないから。
「あれは夢だ」と自分に発破をかけてみたって、心臓が縮み上がるから。
けれど、みんなに言えはしないし、夢の話もカリナたちは知らないわけだから…。
(……絶対、言えない……)
実はチキンで、とても怖いから自然出産に関わりたくはないなんて。
次の人生は牛という暗示、機械が仕込んだプログラムに勝てないヘタレだなんて。
だから、その辺は黙っておいて…。
(…ストイックな、ぼく…)
ソルジャーたるもの、恋や結婚に浮かれていては駄目なのだ、とキリッとするのがいいだろう。
何も知らない仲間から見れば、きっとカッコ良く見えるから。
「流石はソルジャー」と、「恋よりも仕事な人なんだ」と。
演出するのは孤高のソルジャー。
そういうキャラで押し通すんだ、と思うけれども、根っこはチキン。
牛になる夢が怖いばかりに、自分で言い出した自然出産の流れに乗れないチキンだから…。
「あなたは英雄だ、カリナ!」
みんなが妊娠や出産を恐れる中で…、と身重のカリナを見舞った時の言葉は本物だった。
実は自分が「恐れまくり」の最たるもので、考えただけでガクブルだから。
自然出産に関わったら最後、次の人生は牛になった上に、食肉加工場行きにされるのだから。
もうブルブルと震える身体に、竦んで動いてくれない足。
そんな怖すぎる自然出産、それに挑んで妊娠したのが英雄のカリナなのだから…。
孤高のチキン・了
※ニナがモーションをかけていたのに、結婚しないで終わったジョミー。
成長した意味が全く無いな、と考えたら出て来たネタがコレ。案外、正解だったりして…?
(……シロエ……)
暗澹たる思いでキースが戻ったステーション。
シロエの船を撃墜した後、E-1077に降り立ったけれど。
Mの精神攻撃の余波がまだ残る其処に、シロエを知る者はもういない。
少なくとも、候補生の中には。
セキ・レイ・シロエという名は消されたから。
最初は「居る」ことを消されてしまって、今はもう、その存在ごと。
宇宙の何処にも、いなくなったシロエ。
自分がこの手で撃ち落としたから、彼が乗った船を。
武装してさえいなかった船を、ただ逃げてゆくだけの練習艇を。
マザー・イライザの命令のままに、レーザー砲でロックオンして…。
(……撃ったんだ……)
そしてシロエは消えてしまった。
髪の一筋さえ残すことなく、光に溶けて。
レーザー砲の閃光の中で、一瞬の内に蒸発して。
何も残っていなかったことを、この目で確認して来たから。
シロエの船が在った場所には、残骸が散らばるだけだったから。
自分はこうして戻ったけれども、シロエは二度と戻りはしない。
皮肉に満ちた彼の言葉も、この耳にけして届きはしない。
(…ピーターパンの本を抱えた時の…)
あどけない子供のようだった顔も、もう見ることは叶わない。
魂ごと宇宙(そら)へと飛び立った者は、別の世界の住人だから。
いつか自分が其処へ逝くまで、行き方さえも分からないから。
(……シロエは自由に……)
なれたのだろうか、彼の望み通りに?
機械の言いなりになって生きる人生、意味などは無いとシロエは言った。
それならば彼は、自分の望みを叶えたろうか。
生きる意味の無い生を終わらせ、果ても見えぬ空へ飛び去ったから。
漆黒の宇宙の向こうにはきっと、まだ見ぬ空があるのだろう。
テラフォーミングされた星の空やら、母なる地球を取り巻く空や。
昼には光で青く染まって、夜は宇宙の色になる空。
そういった空より、もっと自由で果ての無い空。
シロエは其処へと行ったのだろう、生ある者には持ち得ない翼、それを広げて。
きっと誰よりも自由に羽ばたき、何処までも飛んでゆける世界へ。
…そんな気がする、彼は勝ったと。
真の自由を勝ち取ったのだと、誰も彼を追えはしないのだと。
そう思うけれど、シロエの勝ちだと感じるけれど。
これは自分の逃げなのだろうか、シロエを殺してしまったから。
連れ帰る代わりに船ごと撃って、この世から消してしまったから。
(…シロエが自由になれたのなら…)
それがシロエの意志だったならば、悔やむことなど何一つ無い。
シロエは自分を利用しただけ、撃たせて空へと飛び去っただけ。
そう思ったなら、楽になれるから。
レーザー砲を撃った罪の手、その手を真っ赤に染めた血潮も流れ去るから。
だからそちらへ向かうのだろうか、自分の思いは?
あれはシロエが選んだ道だと、自分はそれを助けたのだと。
何も罪など犯していないと、悔やまなくてもいいのだと。
(……卑怯者め……)
認めたくないのか、己の罪を。
罪だと心に刻み付けつつ、まだ逃げようと足掻くのか。
自分は何もやっていないと、ただ従っただけに過ぎないと。
シロエの意志に、マザー・イライザの命令に。
全てはそうしたことの結果で、シロエも、マザー・イライザも勝った。
シロエはマザー・イライザに。
自らを捨てて、自由な道へ。
マザー・イライザも勝ちを収めた、シロエという反逆者を消して。
…自分は彼らに使われただけで、いいように使い捨てられただけ。
一人きりで消えない罪を抱えて、この左手を血染めにされて。
その通りだと認められたら、思い込むことが出来たなら。
どれほど楽になれるのだろうか、せめてシロエのせいに出来たら。
彼を自由に飛ばせてやったと、鳥籠から出してやったのだと。
(鳥籠から出してやった途端に…)
鋭い爪に捕えられても、鷹にその身を引き裂かれても。
それでも鳥は本望だろうか、自由に焦がれた籠の中の鳥は。
一瞬だけ自由に羽ばたいた空を、永遠に駆けてゆくのだろうか。
引き千切られた羽根が血まみれになって、空の鳥籠の側に散らばり、鳥は消えても。
籠の中で空を夢見て歌った、その声が絶えてしまっても。
(……シロエ、お前は……)
本当にそれで良かったのか、と尋ねても返らない答え。
きっと永遠に分からないから、たとえシロエの勝ちだとしても…。
(…ぼくがシロエを殺したことは…)
存在さえも消し去り、葬ったことは、もう間違いなく罪なのだろう。
シロエの口から「違いますよ」と聞けないのなら。
彼が自分で此処に出て来て、心を解いてくれないのなら。
(……誰もシロエを知らなくても……)
このステーションに存在したこと、それさえ忘れてしまっていても。
自分がシロエを忘れないこと、きっとそれだけが出来る贖罪。
なんとも皮肉な話だけれども、自分だけが彼を覚えているから。
セキ・レイ・シロエを殺した自分が、彼の存在を消してしまった人間が。
(…一生、シロエを忘れないこと…)
たとえシロエが自分を利用したのだとしても。
果ての無い空へと飛んでゆくために、この肩を蹴って去ったとしても。
飛び去ったシロエを忘れないこと、自分の罪を背負ってゆくこと。
友に成り得た可能性さえ、シロエは秘めていたのだから。
一つピースが違っていたなら、きっと良き友だったのだろう。
サムやスウェナと一緒に笑って、四人でテーブルを囲みもして。
スウェナが去って行った後には、三人で。
卒業の時も、此処を出てゆく船の中から、窓に向かって手を振ったろう。
シロエの姿は遠すぎてどれか分からなくても、其処にいるだろう窓に向かって。
「先に行くから、また会おう」と。
いつか地球でと、その日を待っているからと。
本当にきっと、ほんの僅かなすれ違い。
それがシロエと自分とを分けて、隔ててしまって、置いてゆかれた。
シロエは自由な空へ飛び去り、自分に残されたものは罪の手。
友だったかもしれないシロエを、彼を乗せた船をこの手で撃った。
永遠に消えはしない烙印、左手に刻まれた罪の刻印。
誰の目にも、それは見えなくても。
セキ・レイ・シロエを知っている者、それさえ誰もいなくなっても。
(……忘れない……)
彼を生涯、忘れはしない、と誓った左手。
見る度にそれを思い出そうと、この手の罪をと睨んだ左手。
レーザー砲の照準を合わせ、発射ボタンを押したことを自分は知っているから。
他に知る者が誰もいなくても、自分の心は誤魔化せないから。
(…シロエが自由になったのだとしても…)
そう思うことを、けして自分に許しはしない。
自分が正しいことをしたと思うなど、それは逃げでしかないのだから。
シロエの口から「今まで知らなかったんですか?」と聞かない限りは、逃げでしかない。
「気付かなかったなんて、機械の申し子も大したことはないんですね」と。
「キース先輩も、その程度でしたか」と、あの笑い声がしない限りは。
そういう声が聞こえたならば、と思う自分がいる内は。
消えない罪の意識と後悔、明かせる相手もいないのが自分。
誰もシロエを知らないのだから、語っても意味を成さないこと。
(…サムに言っても…)
返る言葉はもう分かっている、サムの姿を見なくても。
きっと、あの時より酷い。
幼馴染だと聞いたミュウの少年、ジョミー・マーキス・シンのこと。
あんなに動揺したというのに、サムは覚えていなかった。
かつて語った幼馴染を、鮮明だった筈の姿を。
あれよりもずっと、空しい結果が自分を待っているのだろう。
「シロエを殺してしまったんだ」と打ち明けたなら。
サムはキョトンと目を見開いてから、「それ、誰だよ?」と尋ねるのだろう。
そんな名前は知らないと。
「きっと夢だぜ」と、「そういや、前にも変だったよな?」と。
訓練飛行の日を間違えていなかったか、と。
しっかりしろよと、あの笑顔で。
(……どうせ、そうなる……)
そうなるのだと分かっているから、今はサムにも会いたくはない。
夕食の時間も皆とずらした方がいい。
シロエはいないと思い知るから、またしても罪を負わされるから。
本当だったら食堂に一人、生徒は多い筈なのだから。
シロエが今もいたならば。
皆が名前を、姿を覚えていた頃ならば。
後にしよう、と思った食事。
サムにも会うまいと考えかけた夕食の時間。
けれども、心を不意に掠めていった声。
(…シナモンミルク…)
何度も食堂で耳にしていた、シロエがそれを頼むのを。
彼の好物だったのだろうか、意識し始めたら不思議なほどに聞いていたから…。
(……逃げないのならば……)
シロエを殺した己の罪を、一生、背負ってゆくのなら。
誰も分かってくれない苦しみ、それを生涯、負ってゆくなら…。
(…あれを頼むか…)
きっとサムなら、「何だよ、それ?」と驚いてトレイを見るだろうけれど。
「お前、コーヒーじゃなかったのかよ?」と、「どうしたんだよ?」と訊くだろうけれど。
(…ちょっと興味があっただけだ、と言えたなら…)
自分の罪をきちんと罪だと受け止められるし、シロエのことも忘れないだろう。
これを好んだ人を殺したと、友だったかもしれない者を、と。
一度も飲んだことのない味、それと一緒に。
どういう味かは分からないけれど、食堂であれを頼んでみよう。
かつてシロエがそうしたように。
何度も耳にしていたように。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」、それがシロエに捧げる挽歌。
自分はシロエを忘れないから。
これから食堂で初めて口にする味、それと一緒に心に刻む。
セキ・レイ・シロエ、自分が殺した少年の名を。
友に成り得た筈の少年、彼の姿を、死の瞬間まで自由に焦がれた鳥の名前を…。
飛び去った鳥に・了
※シロエの存在、誰もが忘れていましたからね…。キース以外は、もう全員が。
鳥籠から逃げた鳥の名前は「セキレイ」、そういうイメージ。日本語な上に野鳥ですけど。
アルフレートが用意してくれたティーセット。彼の退室を待って白磁のカップに紅茶を注ぐ。シュガーポットの蓋を開け、銀のティースプーンで砂糖を掬ってサラサラと…。最初に一杯、そして。
「…フィシス?」
手を止めたフィシスにブルーが「どうしたんだい?」と微笑みかける。
「いえ…。なんでもありませんわ」
ふふ、と微かに笑って更にティースプーン半分の砂糖を紅茶に加えると、それをブルーに。自分のカップに砂糖を入れるフィシスをブルーの赤い瞳が見詰めた。
「…本当に? それにしては楽しそうだね、フィシス」
「昔のことを…。少し」
私が此処に来た頃のことを、とフィシスはクスッと小さく笑った。
紫のマントの王子様。
シャングリラに来る前の記憶はブルーが消してしまったために無かったけれども、ブルーはフィシスの王子様だった。
何処とも知れない恐ろしくも悲しい世界から救い出してくれた王子様。
フィシスがシャングリラでの生活に馴染んでいるか、何か不自由はしていないかと一日に何度も訪ねて来てくれる優しい人。
自分よりも遙かに背が高く、軽々と抱き上げてくれるけれども、ミュウたちの中では年若い部類に入るであろうスラリとした立ち姿の美しい人。
その王子様が外見通りの年齢ではなく、王子様ならぬ王様だったと気付くまでにはかなりかかった。そのくらいにブルーはフィシスの所に入り浸っていたし、それを止める者も無かったから。
今にして思えば王様だったからこそ、そんな自由があったのだけれど。
「ハーレイ。ソルジャーはまた、あのお嬢ちゃんの所かい?」
「…そのようだ。地球を見に行くと仰っていた」
ハーレイがブラウの問いに答える。彼らの居る場所はブリッジではなく、専用の休憩室だった。
「フィシスの地球は鮮やかだ。ソルジャーが夢中になっておられるのも無理はない」
「どうだかねえ…。地球はオマケで、お嬢ちゃんの御機嫌を取りたいだけだと思うけどねえ?」
いつ行ったって二人で仲良くお茶を飲んだり遊んだりだよ、とブラウが言えば、ゼルが重々しく同意した。
「その通りじゃ。ぼくの女神だとか言っておるがの、何処から見ても惚れ込んだとしか思えんわい」
「地球にだろう? ソルジャーの憧れの星を抱く女神だ」
あのような神秘の力は並みの者には持ち得ない、と至極真面目に返すハーレイにゼルが苦笑する。
「相変わらずの堅物じゃのう。それじゃから未だに恋人の一人も出来んのじゃ」
「まったくだよ。…分からないかねえ、ブルーが恋をしてるってことも」
ちょいと次元が違うけどね、とブラウが軽く片目を瞑る。
「色恋沙汰ってヤツとブルーは無縁さ、そういう世界に住んでるヤツだ。それでも見付けちまったんだよ、運命の相手というヤツを」
「…あのフィシスが?」
そうなのか、と驚くハーレイの姿にブラウとゼルが大きな溜息を吐き出した。
「ホントに気付いていなかったのかい…。まあ、お嬢ちゃんが育った所で進展することは無いんだけどね。おままごとの夫婦ごっこがせいぜいさ」
「うむ。…幸か不幸か、ブルーには欠落しておるからのう。その手の感情というものが」
あったらあったで大変じゃったろうが、というゼルの言葉は決して大袈裟なものではなかった。
ブルーはミュウを束ね導くソルジャーであり、ただ一人だけの戦える者。
それに加えて人並み外れた美しい容姿を持っているとなれば周りのミュウたちが放っておかない。しかしブルーは女性にも、ましてや男性にも一切の興味を示さず、誰もを等しく愛し続けた。かけがえのない仲間、同じシャングリラに住む家族として。
そんなブルーが幼く小さな少女に恋をし、女神と呼んで慈しんでいる。
それは喜ぶべきことであったが、アルタミラからの長い長い時を共に過ごしてきた者たちからすれば、些か寂しい気持ちが芽生えてくるのも仕方なく無理のないことで…。
「来る日も来る日も、フィシス、フィシス、フィシス。…あたしたちの所に顔を見せても、口を開けば惚気話だ。ちょいと苛めたくならないかい?」
年甲斐もなく恋に夢中になってるブルーを、とブラウがオッドアイの瞳を煌めかせた。
「あの年の差を考えてごらんよ、ロリコンだなんてレベルじゃないよ? そういう恋じゃないと分かっていてもさ、あてられっ放しの長老としちゃあ一矢報いたくなるってもんだよ」
「何をするんじゃ? そう簡単にブルーはやられはせんぞ」
わしは命が惜しいんじゃが、と逃げ腰になるゼルの耳にブラウはコソコソと耳打ちをする。聞き終えたゼルは「いけそうじゃの」と髭を引っ張った。
「ハーレイ、早速作戦会議じゃ。ヒルマンとエラの協力が必要じゃでな」
「な、何をする気だ、ブラウ、ゼル! ソルジャーに万一のことがあっては…」
「なーにがソルジャーじゃ、恋にかけては若造じゃ! しかし年寄りには違いないでな」
その方面から攻めるまでじゃ、と勢いづいたゼルと発案者のブラウの二人がかりの攻撃の前にハーレイは白旗を揚げる羽目になった。ややあって呼び出しを受けたヒルマンとエラが休憩室に現れ、計画が練り上げられてゆく。
ハーレイもいつしか乗り気になってしまっていたのは、やはりブルーが長老と呼ばれる自分たちよりもフィシスを選んで行ってしまったからだろう。
ブルーが自分の心と感情に素直になったことは喜ばしくても、寂しさは生まれるものなのだ…。
その翌朝。
ブルーが訪ねて来るよりも早い時間に、フィシスはヒルマンとエラの訪問を受けた。
「…いいかね、フィシス。これは大切なことなのだよ」
よく聞いて理解してくれないと、とヒルマンが真摯な瞳を向ける。
「ブルーが見た目どおりの年でないことは知っているね?」
「……??? はい…」
それで? と首を傾げるフィシスにエラが応じた。
「私たちミュウは、ソルジャーの御健康に気を配らねばなりません。ソルジャーは毎日、この部屋においでになるようですが…。その度に紅茶をお出していますね?」
「はい。…アルフレートが用意してくれます」
「……やっぱり……」
私たちが心配したとおりでした、とエラは額に手をやった。
「ソルジャーは紅茶がお好きですから、アルフレートの選択は間違っていません。けれど…」
「砂糖の量が問題なのじゃよ」
紅茶一杯にスプーンに一杯半じゃろう、とヒルマンが続け、フィシスが「はい」と答える。
「…それがいけない。年寄りが甘いものを摂取し過ぎると病気になるのだ。ソルジャーにしても、そこは変わらない。ブルーの健康を考えるのなら、砂糖はスプーン半分にしなさい」
「…えっ…」
でも、とフィシスは口ごもった。
ブルーの好みの砂糖の量は紅茶一杯にスプーン一杯半。なのにスプーンに半分だなんて、それでは甘さが足りなさすぎる。
「いいですか、フィシス。ソルジャーの御健康が第一なのです」
どうしても一杯半を入れたいのなら、紅茶は三度の御訪問につき一度だけにしておくことです、とエラが厳しい口調で告げた。
「ですが、ソルジャーにお茶を出さないというのも失礼なこと。…お砂糖はスプーン半分にしておきなさい」
「そうだよ、フィシス。…これはブルーの健康のためなのだからね」
ブルーに長生きして欲しかったら今日から言い付けを守りなさい、とヒルマンに肩に両手を置かれて、フィシスはコクリと頷いた。
全てはブルーの健康のため。紅茶一杯にスプーン半分の砂糖、砂糖はスプーンに半分だけ…。
そんなこととも知らないブルーは、いつものようにフィシスの許を訪ねた。小さな手を握って青い地球を眺め、堪能した後に休憩を兼ねて一杯の紅茶。
まだティーポットを上手く扱えないフィシスの代わりにアルフレートが二人分の紅茶を恭しく注ぐと、一礼して退出していった。
ここから先はフィシスの役目。シュガーポットを開け、添えられたスプーンで砂糖を掬って…。
「どうぞ、ブルー」
幼い手つきで差し出されたカップに、ブルーは赤い瞳を見開いた。
「…フィシス? 砂糖が足りないようなんだけど…」
「……あの……。お砂糖の摂りすぎは良くないって……」
だからスプーンに半分なの、とフィシスは盲いた瞳でブルーを見上げて懸命な口調で訴えた。
「…ブルーはお年寄りだから……。甘いものを食べ過ぎたら病気になるから、いつまでも元気でいて欲しかったら半分にしなくちゃいけないの!」
美味しくないかもしれないけれど我慢して、という健気な主張に、ブルーは「分かったよ」と降参の印に軽く両手を上げ、渡された紅茶を口に含んだ。
甘みの足りない、香りだけは高いその味わいに違和感を覚えつつ、それをフィシスには悟られないよう柔らかく笑む。
「美味しいよ、フィシス。…健康にいい紅茶というのも嬉しいものだね、ありがとう」
「本当? 本当に美味しくなかったりしない?」
甘くないのに、と心配そうなフィシスに「大丈夫」とブルーは重ねて微笑んだ。
「君と一緒に飲めるだけでも何倍も美味しいものなんだよ。それにぼくの身体のことを考えてくれた紅茶となったら不味いなんてことがある筈もない」
本当に美味しくて素晴らしいよ、とフィシスの不安を消してやりながら、ブルーは彼女の心にそっと思念を滑り込ませる。スプーンに半分だの、年寄りだのと吹き込んだのは誰だろう? ブラウか、はたまたゼルあたりか。…いずれにしても、やってくれたものだ……。
幼くて純真なフィシスは長老たちの悪戯を真に受け、それから長いことブルーの紅茶に入れる砂糖を減らし続けた。ブルーの苦情を聞かされた長老たちは笑うばかりで訂正をしに行ってはくれず、ブルー自身も真剣な表情で砂糖を入れるフィシスにはどうも真実を告げにくい。
「…フィシス。今日はもう少しだけ、砂糖をおまけしてくれないかな?」
長老たちには内緒で半分だけ、と懇願すれば「いけません!」と即座に答えが返る。
「半分も入れたらスプーンに一杯分になってしまうわ。それじゃ多いの」
多すぎるの、とフィシスは一所懸命だ。
「ブルーの身体に悪いのよ? だから絶対、半分だけなの!」
美味しくないならお紅茶の量を三分の一に減らすとか…、とブルーの好みと健康のバランスを取るべく小さな頭を悩ませるフィシスの姿も、また可愛い。
本当はスプーン半分どころか二杯入れても身体には全く問題無いのだが、こんな時間も悪くはないか、とブルーは甘さの足りなさすぎる紅茶を口に含んだ。
この埋め合わせは後で、休憩室で。長老たちの誰が居るかは分からないけれど、居合わせた誰かにうんとたっぷり文句を言って自分のために紅茶を淹れさせよう。
砂糖は勿論、スプーンにたっぷり一杯と半分。
捕まえたのがゼルかヒルマンだったら秘蔵のブランデーを出させて少し落として飲むのもいいな、などと考えながら味わう唇に自然と笑みが浮かぶ。
「ブルー、今日のは美味しいの?」
顔を輝かせるフィシスに「美味しいよ。フィシスがぼくを思ってくれる気持ちがたっぷり入っているから」と言えば、それは嬉しそうに笑みが弾けた。
可愛い、可愛い、ぼくの女神。
君が喜んでくれるのだったら、いつでも紅茶を飲みに来よう。
たとえ一生、甘さが足りない紅茶であっても、君さえいれば其処が最高のティールームだから…。
「…ブルー? お茶のお代わりは如何ですか?」
美しい女神へと成長を遂げたフィシスが白くしなやかな手をティーポットに伸ばす。
「ありがとう。頂くよ」
白磁のカップに注がれた紅茶は濃くなっていて、フィシスは熱いお湯を入れたポットを手に取り、ブルーの好みの濃さに薄めた。
長い年月を共に生きる内にそんな所までフィシスは把握し、幼かった頃には持てなかったティーポットをも優雅に扱えるようになっていて。
「お砂糖はいつもどおりですわね?」
「ああ。…でも、たまには昔の味もいいかな」
スプーン半分でお願いするよ、と懐かしそうな目をしたブルーにフィシスは鈴を転がすような声で笑った。
「まあ、やっぱり…! 酷いわ、読んでいらしたのですね、私の心を」
「そうじゃない。そうじゃないけれど、分かるものだよ」
どれだけの間、君と一緒にお茶を飲んできたと思っているんだい、とブルーも笑う。
フィシスの手がシュガーポットを開けた。
添えられたスプーンで砂糖を半分、きっちり計ってブルーのカップにサラサラと落とす。
「…どうぞ。お身体にいい紅茶ですわ」
「そうだったね。…甘い物の摂り過ぎは厳禁、健康で長生きをしなくてはね」
君と一緒に青い地球をこの目で見るためにも…、とブルーはカップを掲げてみせた。
「フィシス、青い地球を抱くぼくの女神。君の抱く地球に……。乾杯」
君も、と促されてフィシスも自分のカップを手にする。
白磁のカップがカチン、と微かな音を立てて触れ合い、持ち主の唇へと運ばれた。
地球は遠い。
まだ遠いけれど、いつか二人で青い地球を見ながら、こんな幸せなひと時を………きっと。
スプーンに一杯半・了
※ハレブル転生ネタを始めるよりも前に書いたブルフィシ。
何処にも出さずに仕舞っていたというのがね…。
「どう考えてもヤバイぞ、おい…」
そうだろうが、とゼルが見回した面子。ちょっと狭苦しい部屋の中で。
ゼルと言っても若き日のゼルで、他の面子も若かった。飲み友達のハーレイとヒルマン、揃って青年といった面差し。そういう三人。
場所はシャングリラの中の一室、ただし名ばかりのシャングリラ。後の立派な船と違って、まだ改造の兆しすらも無いといった有様。人類から奪った船に名前をつけただけ。
早い話が「名前負け」をしている船で、それぞれの部屋も狭かった。ベッドと机と椅子を一脚、もうそれだけでギュウギュウな感じ。
そのギュウギュウな部屋に詰まった三人、ゼルの部屋だから椅子に座っているのがゼル。残りの二人はベッドが椅子で、小さな机の上に酒瓶。
幸い、酒は本物だった。人類の船からブルーが奪った物資の一つで、言わば配給。大いに飲んで陽気にやるのが飲み友達の三人だけども、今日は少々、違った事情。
なにしろ「秘密会議」だから。…そういう名目、それを掲げて集まったから。
「まあ、飲め」とゼルが注いだ酒。グラスは各自が持ち寄ったもので、つまみもショボイ。要は夕食の残りもの。厨房の者に「何か無いか」と頼んで分けて貰っただけ。
そういうシケた宴席だけれど、議題の方は深刻だった。秘密会議の名に相応しく。
「…確かにヤバイな、間違いなく」
我々に危機が迫っている、とハーレイが眉間に寄せた皺。まだ若いのに、やりがちな癖。
その隣では、ヒルマンも頭を振っていた。「まったく、実にその通りだよ」と。
「…まさか、こんな日がやって来るとは…。今日まで愉快にやって来たのに」
「普通、思いもしないよな。…イケメン三人組と言ったら、俺たち三人だったんだから」
ずっとそうだと思っていたぜ、とゼルが一息に呷った酒。
シャングリラのイケメン三人組なら、俺とお前らだったのに、と。
「…単にイケメン四人組になるなら、それで問題ないんだが…」
面子が増えるのは喜ばしいし、と唸るハーレイ。「しかし、上手くはいかないようだ」と。
「其処なのだよ。…我々だったら、イケメン三人組なのだがね…」
イケメントリオでやって行けるのに、四人になってもカルテットは…、とヒルマンも濁している言葉。四人目の面子がマズすぎる、と。
そう、シャングリラのイケメン三人組。
ゼルにヒルマン、ハーレイの三人、長らくそれで通って来た。アルタミラから脱出した船、名前だけは立派なシャングリラ。
其処でイケてる顔の男は、この三人しかいなかったから。他の男たちは残念な顔で、女性たちは騒ぎもしなかったから。「なんだ、アレか」と眺める程度で。
けれど、イケメン三人組だと違った待遇。
食堂に行けばテーブルの下で肘をつつき合う女性、頬を染めている者だって。
「隣、いいか?」と訊こうものなら、「は、はいっ!」とパアッと顔を輝かせるのが女性たち。
頼まなくても、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。「お水、取って来ますね!」と届くコップに、食事の後のトレイの返却だって「返しておきます」と嬉しい言葉。
ちやほやとされて暮らして来たのに、これからだって我が世の春が続くものだと呑気に過ごして来たというのに…。
「…ダークホースってのは、まさしくアレのことだな」
此処じゃ競馬は無いんだが、とゼルの笑いは乾いていた。競馬も馬券も無いような船に、ダークホースがいたなんて、と。
「まさにソレだな、大外から走って来やがったからな」
そしてこのままでは抜かれるぞ、とハーレイも露わにしている危機感。ヒルマンも同じに嘆きは深くて、秘密会議の原因はソレ。
長い年月、このシャングリラに君臨して来たイケメン三人、この部屋に集っている面子。それを激しく追い上げて来る馬が一頭、もうとびきりの…。
「…我々はただの競走馬なのだが、あちらはサラブレッドだからねえ…」
サイオン・タイプからして違うじゃないかね、とヒルマンがついた大きな溜息。サラブレッドに勝つのは無理だと、ただの馬では、と。
「…イケてる馬だと思ってたのにな…」
それなりにだが、とゼルが指差す自分の顔。他のヤツらは荷役用でも、俺たち三人は競走馬だと思っていたが、と。
「俺だってそう思ってたさ。だがなあ…」
競走馬ってだけじゃ、サラブレッドには勝てないぞ、とハーレイも溜息しか出ない。既に血統で負けているのがサラブレッドで、ただ足が速いだけの馬では抜かれて終わりなのだから。
アルタミラ脱出以来の年月、このシャングリラに君臨して来たイケメン三人。
彼らを追い上げるサラブレッドは、想定外の代物だった。名前はブルーで、名前の通りに唯一のタイプ・ブルーというヤツ。他の仲間とは比較にならない強力なサイオン、それを持つ者。
けれども、たったそれだけのことで、他に売りなど何も無かった。
大人ばかりが揃っていた船、なのにブルーはチビだったから。年齢だけは「マジか?」と誰もが思ったくらいに上だったけれど、姿は子供。成人検査を終えたばかりの。
おまけにガリ痩せ、みすぼらしいといった感じが漂っていたブルー。「馬子にも衣裳」といった言葉も、まるで当て嵌まりはしなかった。
「これを着てみな」とブラウが服を見立ててやっても、「これはどう?」とエラが色々と選んで着せても、カバー出来ないのが「みすぼらしさ」。
あれじゃ駄目だな、と鼻で嗤ったシャングリラのイケメン三人組。
どう転んでも脅威になりはしないと、我々は楽しくやろうじゃないか、と。
そして長年、この船で陽気に暮らして来たというのに…。
「化けやがって…」
あれは醜いアヒルの子かよ、とゼルがぼやいたサラブレッド。
いつの間にやらブルーはガリ痩せのチビを卒業、気付けばスラリと長い手足にしなやかな身体。遠い昔の童話さながら、白鳥に化ける日も近い。それは美しくて気高い鳥に。
ついこの間まで、みすぼらしくて醜いアヒルの子だったのに。
サラブレッドに育つなどとは、誰も思っていなかったのに。
「…化けるからこそ、醜いアヒルの子なのだがね…」
化ける前には醜いわけで、とヒルマンが呷っているグラス。我々の時代の終わりが来そうだと、大外から抜かれる日は目前に迫っていると。
「だからこその秘密会議だぞ?」
だが、どうする、と呻いたハーレイ。問題のサラブレッドを蹴落とそうにも、ただの競走馬では勝てないから。大外から抜かれると分かっていたって、もうスピードは出せないのだから。
「……それなんだがな……」
方法は無いこともないだろう、とゼルが声を潜め、他の二人に告げた言葉は…。
「「進化だって!?」」
なんだそれは、とハモッてしまったヒルマンとハーレイ。
今、大外から追い上げて来るのはサラブレッドで、最強のタイプ・ブルーというヤツ。その上、醜いアヒルの子という生まれの白鳥なのだし、どう転んでも無いのが勝ち目。
ただでも勝ち目が無いというのに、サラブレッドだの白鳥だのをぶっこ抜けるような進化の道。あると言うならお目にかかりたいし、もう絶対に無理っぽい。
だからハーレイも、それにヒルマンも、「正気なのか?」と繰り返したけれど。
「…俺は正気だ。いいか、ブルーが大外から追って来るんなら…」
俺たちも先へ逃げればいいんだ、とゼルはニヤリと笑みを浮かべた。
サラブレッドが抜き去れないよう、イケメンも進化すべきだと。ただのイケメンでは、負けしか残っていないから…。
「「ロマンスグレー!?」」
年を取るのか、と驚いたハーレイとヒルマンだけれど、一理ある。今日まで止めて来た、外見の年。それを先へと進めていったら、いい感じの男になるかもしれない。
ただのイケメンから、渋い感じのロマンスグレー。
ちょっと哀愁が漂ったりして、さながら往年のスターのよう。その線で行けば、サラブレッドが追い上げて来ても…。
「恐るるに足らんと俺は思うぞ?」
ブルーには足止めを食らわせればいい、とゼルの作戦に抜かりは無かった。ブルーは一人きりのタイプ・ブルーなのだし、「頂点の時で年を止めろ」と言えば素直に成長を止める筈だ、と。
「なるほどな…。船を守るには若さが要るというわけか」
策士だな、とハーレイが嘆息、ヒルマンも「その考えは使えるよ」と頷いた。
「そういうことなら、ブルーには強く言い聞かせるという方向でいこう」
私に任せておきたまえ、と説得に必要な資料などはヒルマンが揃えることに。ロマンスグレーな世界を目指して、サラブレッドが走り出さないように、と。
かくして秘密会議は終わって、イケメン三人組はロマンスグレーの道へと走って行った。
これからも船で目立っていたいし、皆にちやほやされたいから。
醜いアヒルの子だったブルーが白鳥に変身したって、別のベクトルなら勝機がありそうだから。
せっせと年を重ね始めて、まだまだいけると、まだこれからだと頑張ったけれど…。
「…すまん、俺はそろそろヤバイようだ」
最近、抜け毛が増えた気がして、と最初に脱落したのがハーレイ。禿げたらブルーに勝つよりも前に、呆気なく勝負がつくだろうから、と。
「なんだ、あいつは…。付き合いが悪いな」
スキンヘッドも出来んのか、と悪態をついたゼルも生え際がヤバかったけれど、夢はイケていた時代再び。ロマンスグレーな紳士を極めて、船でちやほやされることだし…。
「まったくだよ。…あれではただの中年だ」
オッサンというだけじゃないかね、と呆れ顔のヒルマン。私はハーレイを見損なったね、と。
あんなオッサンは放ってロマンスグレーを極めてゆこうと、我々の時代はこれからだと。
そうやって出来上がったのが後のゼルとヒルマン、シャングリラでは破格に老けていた二人。
けれども彼らは、内心、自信たっぷりだった。
オッサンと化したハーレイはともかく、自分たち二人は、貫禄だったらブルーに勝てるから。
どんなにブルーが頑張ってみても、「年寄りだから」と主張してみても、勝てない本物。
「年を重ねた男の魅力というものはだね…」だとか、「男の皺には渋さが滲み出るからのう…」だとか、理屈をつけては語りまくりな年寄りの持ち味。
それにブルーは勝てはしなくて、どう転がっても大外から抜けはしないから。
シャングリラの年寄り二人組には、イケてる老人の魅力が満載、輝きまくっているのだから…。
負けられない顔・了
※ミュウは若さを保てる筈なのに、無駄に年を取ってる人がいるよな、と思ったのが始まり。
ハレブルな聖痕シリーズでは「真っ当な理由」があるんですけど、こっちはネタでv
