「なあ、キース。…ホントに何も覚えてねえのかよ?」
ある日、突然サムに問われた。
食事の途中で、まるで何かのついでのように。
「…何の話だ?」
自分は何かしただろうか、とキースは途惑ったのだけれども。
「悪ィ、言い方、マズかったよな」と頭を掻いたサム。
「前に言ってた話だよ。…成人検査よりも前のことは何も覚えていない、って」
言ったろ、お前?
本当に何も覚えてねえのか、少しくらいは覚えてるのか、気になってさ…。
ほら、普通は…って、お前、友達も覚えていねえんだっけ…。
「それは重要なものなのか」って、俺に訊いてたくらいだもんな。
でもさ…。
ちょっとくらいは、と問い掛けるサムは、心配してくれている顔で。
懐かしい記憶が何か無いのかと、次々と挙げてくれる例。
「キースだったら、やっぱり、学校かなあ…」
教室とかさ、先生とか。
覚えてねえかな、そんな感じで。
…俺だと叱られちまったこととか、勉強よりかはスポーツだけどよ。
お前だったら教室の前のボードとか…。お前が取ってたノートだとか。
それに教科書、と挙げて貰っても、どの例もピンと来ないものばかり。
(…教室に先生…)
どういうものかは分かるけれども、頭に浮かぶのは今の教育ステーション。
教科書もそうで、ノートも同じ。教室の前のボードにしても。
(…叱られたことも、スポーツも…)
何一つ思い出せない自分。
何処で教育を受けていたのか、どんなスポーツをしていたのかも。
(スポーツ…)
教育ステーションに来るよりも前にやるスポーツなら、何があっただろうか?
サッカーにテニス、それに水泳、と知識を反芻している内に。
そうだ、と思い付いたこと。
学校で習うスポーツなどとは、何の関係も無いのだけれど。
(……水……)
水泳という言葉で浮かんだ記憶。
あれを記憶と呼べるのかどうか、自分でもあまり自信が持てない。
けれど、ゴボリと湧き上がる気泡。
確かに自分はそれを頭に思い浮かべたし、あれはステーションに着いた日のこと。
目の前のサムと出会うよりも前に、ホールで見ていたガイダンス。
映像の中に現れた胎児、その先触れの水のイメージ。
(…水から生まれた、と思ったんだ…)
胎児も、地球の全ての命も。
あの映像の水に惹かれて、心を掴まれた気がした一瞬。
ほんの欠片に過ぎないけれども、きっと記憶の内なのだろう。
此処に来るよりも前に自分が見たもの。
もしかしたら、胎児であった頃に。
人工子宮の中にいた頃、まだ開いてもいなかったかもしれない目で。
(サムは笑うかもしれないが…)
話してみようか、あの水のことを。
きっと唯一の記憶だから。
ステーションに来るよりも前の、故郷にいた頃の自分が見たもの。
あまりに不確かで、夢だと一蹴されそうな記憶。
けれども確かに見たと思うから…。
「…一つだけ、無いこともないんだが…」
多分、笑うと思うんだが、と前置きをしたら「笑わねえよ」と唇を尖らせたサム。
「俺が笑うと思うのかよ? 訊いたの、俺だぜ?」
お前がハッキリ覚えてないなら、力になろうと思ってさ…。
俺の記憶も、成人検査を受けてから後は、曖昧になっちまっているんだけどな。
でもよ、お前よりマシだから。…こんなのだ、って手掛かりがあれば分かるかも、って。
どんな記憶か、言ってみてくれよ。
形でもいいし、色でもいいし。
そう言ってくれるサムは、本当に真剣だったから。
「手掛かりにもならないと思うんだが…」と切り出してみた。
「…水なんだ。ただ、水としか…」
「水?」
なんだよ、それ?
こう、一面の水なのかよ、と乗り出したサム。それなら海だ、と。
でなければ湖、そういったもの。故郷で見ていた景色なのでは、と。
「…違うと思う。…そうだとしても…」
見ていたと言うより、その中にいた。…水の中を泡が昇っていたから。
そういうイメージしか残っていない、とサムに明かした水の記憶。
ガイダンスで見て以来、気に入っていると。
だから自分の部屋の壁にも、水槽のイメージを投影したと。
そうしたら…。
「すげえや、キース! やっぱり、お前は並みじゃねえよな!」
俺なんかとは出来が違うぜ、とサムが指差した自分の頭。
「…凄いって…。サムの方がずっと凄いと思うが…」
色々なことを覚えているし、と記憶のことを褒めたのに。
「俺? …あんなの、誰でも覚えてるんだよ、友達だとか、学校とかは」
当たり前のことで、普通のことで…。
だけど、お前は最初のことをしっかり覚えていたってな!
だってそうだろ、誰だって最初は水の中だし。
…俺は忘れてしまったけどな、と残念そうなサム。
その頃の記憶が俺にもあったら、もっと成績良かったかもな、と。
「…あれが最初の記憶だと…? 笑わないのか…?」
勘違いだとか、思い違いだとか。
そう言われても、仕方ないんだと思っていたが…。
何処かで潜った時の記憶とか、そんな記憶の名残だろう、と…。
きっと笑われるか、思い違いだと諭されるか。
そんな所だと思っていたのに、サムは感動を覚えたようで。
しきりに「凄い」と繰り返しながら、自分のことのように喜んでくれた。
「それしか覚えていねえにしても…。良かったじゃねえか、一つあったぜ、お前の記憶」
ゼロってわけじゃねえんだよ。
…でもさ、他の奴らには言わねえ方がいいかもな。
なんか夢でも見たんじゃねえか、って真面目に取り合ってくれそうもねえし。
生まれる前の記憶なんてさ。…俺は凄いと思うけどな。
「…やはり言わない方がいいのか?」
「多分な。…忘れちまった、って方がマトモに聞こえるんじゃねえの?」
お前だけに、とポンと肩を叩いてくれたサム。
「頭のいいお前が生まれる前の記憶だなんて言ったら、きっと狂ったと思われるぜ?」と。
「そういうものか…?」
「それが俺だったら、笑い事で済むんだけどな」
他の記憶も山ほどあるから、夢でも見たな、って片付くからよ。
だけど、お前はやめとけよな。…「正気なのか」って顔をされそうだから。
そう忠告を貰ったけれど。
サムは笑いはしなかった。あの記憶を。
水の中にいたような気がする、たった一つの記憶のことを。
(…あれが、このステーションに来る前の…)
記憶なのだと、サムも認めてくれたから。
頼りないだけの水の記憶も、それなりに意味はあるのだろう。
自分は水から生まれたのだし、人は水から生まれるから。
あの記憶しか持たない自分も、ちゃんと生まれて来た証拠。
皆と変わらず水の中にいて、其処から生まれ出た証。
(…ぼくも、何処かで…)
水の中から生まれて来た。
そう考えると、安らぐ気持ち。あの水の記憶。
機械の申し子と呼ばれるけれども、やはり同じに人なのだから。
両親も故郷も何も覚えていないけれども、生まれる前の記憶なら持っているのだから…。
一つだけの記憶・了
※キースが持っている水のイメージ、考えようによっては「記憶」だよなあ、と。
これをシロエが知っていたなら、フロア001で高笑いは必至。
「キース先輩に助けられたな、シロエ」
そういう嫌味を言われたけれど。
シロエの耳には届いていないのと同じ。
意識はキースに向いていたから、歩み去る後姿を見ていたから。
(…キース・アニアン…)
あれがそうか、と睨んだ瞳。
視線で射殺したいかのように。
教育ステーション始まって以来の秀才、マザー・イライザの申し子のキース。
噂は前から聞いていたから。
嫌でも耳に入って来たから、何度となく。
(…キース…)
あんな奴か、と部屋に帰って思い返す顔。
何故、調べてもいなかったろうか、キースの顔を。
今日の諍いを止められるまで。
(あれにしたって…)
どうでも良かった、班のリーダーが誰であろうと。
「いつも勝手なことをしやがって」と怒ったリーダー。
採点がどうのと言っていたけれど、それは自分が言いたいこと。
「足を引っ張って欲しくないね」と。
実際、言ってやったのだけれど。
あんな連中と組まされていたら、ろくな成績にならないから。
(あいつらのせいで、ぼくが出せない点の分まで…)
余計な努力が必要になる。
高い評価を得たいなら。優秀な成績を収めたいなら。
このステーションでトップに立つこと、それが目標。
けれども、それはほんの手始め。
(…いつか地球まで…)
行ってやること、そして自分が地球のトップにまで昇り詰めること。
そう決めて、自分で思い定めて、今では思い詰めているほど。
それよりも他に道は無いから。
他に方法は無さそうだから。
(…このステーションも、マザー・イライザも…)
マザー・システムも、全てが憎い。
このシステムは、世界は歪んで狂ったもの。
機械が人間を支配するなど、どう考えてもおかしいから。
命さえ持っていない機械が、それが世界を我が物顔で支配するなどは。
(……ぼくの本……)
これしか持って来られなかった、と抱き締め、眺める大切な本。
両親がくれたピーターパンの本。
子供が子供でいられる世界が、ネバーランドが描かれた本。
其処へ行けると信じていた。
ネバーランドよりも素敵な地球へと、行ける方法があると言うなら。
きっとネバーランドにも行けるのだろうと、いつか行けると。
(…でも、ぼくは…)
騙されたんだ、と今も悔しくてたまらない。
地球へ行くための切符は手に入れたけれど、あまりにも大きすぎた代償。
このステーションに来られた代わりに、かけがえのないものを失った。
両親も、家も、育った故郷も。
思い出も、記憶も、懐かしい過去も。
何もかも機械が消してしまった、自分の中から。
何の役にも立ってくれない、頼りない欠片だけを残して。
いっそ、それすらも無かったならば、と何度思ったことだろう。
全てを忘れてしまっていたなら、どんなに楽に生きられたかと。
(でも、ぼくは…)
忘れたくなかったし、忘れられなかった。
陽炎のように儚くゆらめく、今は幻かとさえ思いそうな過去を。
其処に自分が生きていたことを、両親と共に暮らしたことを。
こうして懸命に繋ぎ止める日々、失くしてしまいそうなそれ。
ともすれば手放したくなるほどの苦しみと辛さ、消えてくれていたらと思うほどの記憶。
けれど、自分は忘れはしない。
こうして此処まで持って来た本、それが「特別」な証だから。
きっと自分は、他の者とは違うのだから。
どう違うのかと、どう特別かと、ピーターパンの本を抱き締めては考え続けて。
(…子供が子供でいられる世界…)
それを自分が作ろうと決めた。
機械に騙され、陥れられる憐れな子供たち。
そんな子供が生まれない世界、子供が幸せに生きてゆける世界。
本当に本物のネバーランドを作ってやろうと、そのために地球のトップに立とうと。
もう長いこと、空席だという国家主席。
それになったなら、システムを変える力だってきっと手に入る。機械を止めてしまえる力。
だから自分がトップに立つ。
まずは教育ステーションから。
最高の成績で此処を後にし、メンバーズへの道を歩んでゆく。
そう決めた時から、成績が全て。
友達は要らない、仲間だって。
自分よりも劣る人間たちと一緒にいたって、何の得にもならないから。
高みへと駆ける邪魔になるだけ、そうに決まっているのだから。
ステーションのトップに、そしてメンバーズに。
いずれは国家主席の地位に就こうと、がむしゃらに上げてゆく成績。
勉強することは苦ではなかった、それが一番の早道だから。
一日でも早く国家主席になること、このシステムを変えてやること。
そうすれば全て、後からついてくるのだから。
「ぼくの記憶を返せ」と機械に命令したなら、機械はそれを返すしかない。
国家主席の地位に就いたら、それが自分の最初の命令。
次は機械を止めること。
歪んだ世界を支配する機械、全てを歪める根源の悪を。
そして、自分のような可哀相な子供が二度と出来ない世界を作る。
本当に本物のネバーランドを、子供が子供でいられる世界を。
順調に上がり続ける成績、これでいいのだと思ったけれど。
もっと上をと、更に上をと目指す間に、何度も耳に入った名前。
(…キース・アニアン…)
教育ステーション始まって以来の秀才、マザー・イライザの申し子という呼び名。
彼を抜かねば、自分は地球のトップになれない。
国家主席の地位を目指すなら、キース・アニアンよりも上の成績を。
「ステーション始まって以来の秀才」は自分の方でなくてはならない、キースではなくて。
ネバーランドを作りたければ、このシステムを変えたければ。
(…あいつがキース…)
取り澄ました顔の上級生。
視線で敵を射殺せるならば、あの場で射殺したかったキース。
トップに立つのは自分だから。
マザー・イライザの、機械の申し子などとは違って、機械を嫌う自分がトップに立つのだから。
そうなった時の…。
(あいつの顔が楽しみ、かな…)
一日でも早く、それを見てみたい。
きっとそんなに遠い日ではない、彼の成績を抜いたなら。
彼が「負けた」と跪いたなら、彼を踏み台にして高みへと飛ぼう。
このステーションから、メンバーズの道へ。その先の国家主席の地位へ。
(……ネバーランド……)
ぼくが作る、とピーターパンの本を抱き締める。
いつか必ず、きっと、この手で。
システムを変えて、機械を止めて。
子供が子供でいられる世界を、自分の望みも叶う世界を。
懐かしい過去を、失くした記憶を、両親を、家をこの手に取り戻せる世界。
それを自分は作らなければ、それが自分の使命だから。
きっと自分は「特別」だから。
キース・アニアンなどよりも、ずっと。
あの取り澄ましただけの上級生より、きっと選ばれた存在だから。
(…今日まで顔も知らなかったし…)
調べようとさえ思わなかったのも、キースなど、きっと敵ではないから。
自分よりも劣る者のことなど、気にしなくていいということだろう。
それでも今はキースの方が一応は、上。
(…今の間だけね?)
今だけだよ、とクックッと笑う。
自分は特別な人間だから。
このシステムを変えるためにだけ、自分は生まれて来たのだから。
成績を上げて、メンバーズになって、きっといつかは地球のトップに。
国家主席の地位に就いたら、真っ先に憎い機械を止める。
ネバーランドを創り出すために、本当に本物の、子供が子供でいられる世界のために。
きっと、と抱き締めるピーターパンの本。
その世界をぼくが作ってみせる、と…。
作りたい世界・了
※成績優秀なのに、システムに対して反抗的。そんなシロエが優秀な理由が何かある筈。
システムを変えたいなら国家主席になることだよね、と思っただけです、ゴメンナサイ…。
(…機械仕掛けの冷たい操り人形…)
シロエは自分にそう言ったけれど。
「人の気持ちが分からない」と、「分からないから怖くて逃げているだけなんだ」と。
まさかシロエが言った通りに、この肌の下が冷たい機械で出来ているなど…。
(有り得ないんだ)
そんなことは、とキースは呟く。自分の部屋で、心の中で。
シロエの言葉に掻き乱された心、カッとなった怒り。
思わずシロエを殴った一発、繰り出した拳は確かに自分のものだったから。
ただ…。
(あの切れ味…)
中途半端な一撃だったのに、ナイフのように思えた切れ味。
それが恐ろしいような気がする、自分はいったい何者なのかと。
(…機械でも怒るんだ、と…)
皮肉っぽく聞こえたシロエの声。
あの時は自分に手を上げさせたシロエの意志の強さに、思わず飲まれていたけれど。
こうして部屋で思い返せば、忍び寄って来る自分への恐れ。それから恐怖。
何故なら、機械も怒るのだから。
そのことを自分は知っているから。
ステーションの皆が恐れるコール。マザー・イライザからの呼び出し。
恐れられる理由は、コールされたら叱られるから。
成績不良や、素行などで。
(叱るのも、怒りも…)
何処か似ている、考えれば分かる。
シロエと初めて出会った時には、自分もシロエを叱ったから。
下級生たちの争い事を収めるために、その場にいた者を纏めて叱った。
(もしも、彼らが逆らっていたら…)
今日のように手を上げることはなくても、怒鳴っただろう。
怒鳴ったならば、それは怒りへの第一歩。
(マザー・イライザも…)
同じように怒るのかもしれない。
コールされた者が、まるで反省しなければ。
繰り返しコールをすることになれば、声を荒らげて、きつい表情で。
(…ぼくが見たことが無いだけで…)
そういうマザー・イライザに出会った者も、少なくないのかもしれない。
皆がコールを恐れるからには、叱ることから、怒りへと進むことだってあるに違いない。
つまり、機械も怒るということ。
シロエが言っていたように。面白そうに、嘲りの笑みで。
機械も人と同じに怒る。怒ることは出来る。
ならば自分も、機械仕掛けで…。
(…今、こうやって考えているのも…)
人間が持つ頭脳ではなくて、人工知能の仕業だろうか?
マザー・イライザさながらに機械、良く出来たアンドロイドが自分の正体だろうか…?
(…それは有り得ない…)
有り得ないと思う、握った手首を流れてゆく血。
心臓から送り出された血液、それが打つ脈。
規則正しく脈打つ心臓、アンドロイドにそこまで凝った仕掛けをするわけがない。
(…気のせいだ…)
こんな風に乱れてしまう感情、それも機械には無いだろうから。
怒ったとしても、機械だったら即座に修正するだろうから。
次の段階に向けて計算し直し、きっと元通りに直すのだろうプログラム。
そうでなくては意味を成さない機械。
マザー・イライザが怒ったままでは、このステーションは立ちゆかない。
だから自分が同じ機械なら、シロエに乱された感情だって…。
(…とうに修正されている筈…)
そして落ち着いた自分がいる筈。
自分が恐れるナイフのようだった切れ味の拳、あれは訓練の賜物だろう。
中途半端に放った一撃、それが優れていただけのこと。
(何もかも、気のせい…)
機械仕掛けの心だったら、乱れたままなど有り得ないから。
ようやく緩んだ、自分への恐怖。
人であるなら、それでいい。
過去の記憶を持っていなくても、「機械の申し子」と嘲られても。
二度とシロエの手には乗るまい、どんな攻撃を仕掛けられても。
乱れ、落ち着かなかった感情。
そんなものは二度と御免だから。
負の感情を抱いて生きてゆくのは、愚の骨頂というものだから。
自分で答えを出した後には一晩眠って、すっきりしたつもりだったのだけれど。
講義のためにと出掛けて行ったら、不意に耳へと飛び込んだ声。
「おいっ!」
「サム?」
声に釣られて向けた顔。其処にサムがいて、サムだけではなくて。
「元気でチューかぁ? …って」
ヒョコッと自分に頭を下げた、サムが持っているぬいぐるみ。
「聞くだけ野暮か」と、ぬいぐるみを投げ上げてオモチャにするサム。
「宇宙の珍獣シリーズ、ナキネズミ。癒し系グッズのレア物だぜ?」とも紹介された。
サムは心配してくれたらしい、自分のことを。
昨日の事件で落ち込んでいないか、大丈夫かと。
サムらしいな、と思った励まし。
それを嬉しく思う心も、機械は持っていないだろう。…きっと。
(機械だったら、計算して、直ぐに適した答えを…)
サムに返すのだろうから。
なんと答えればいいのだろう、と見ていただけの自分と違って。
ホッとした所へ、響いたコール。
マザー・イライザからの呼び出し。
立ち上がり、教室を出ようとしたのを「キース!」と後ろから呼び止めたサム。
用があるのかと振り返ってみたら、「グッドラック!」と投げて寄越したぬいぐるみ。
癒し系グッズのレア物がポンと飛んで来たから、受け取った。
これもまた、サムの励ましだから。
「元気出せよ」と。
イライザのコールは怒りではなくて、叱られたというわけでもなくて。
むしろ褒められ、途惑ったほど。
ナキネズミのぬいぐるみを持っていたことも、何も言われはしなかった。
「そういう物は持たずに来なさい」とも、「あなたらしくもないですね」とも。
コールで少し疲れたけれども、きっとサムが食堂辺りで待っているから。
(…行ってこないと…)
とはいえ、ナキネズミのぬいぐるみ。
これを持ったまま歩き回るのも変な話だ、とサムに返すのは後でと決めた。
そうしておいて良かったと思う。
食堂で他の生徒が「お前のマザーは誰に似ているんだ?」などと、絡んで来たから。
あんなロクでもない連中にかかれば、サムの心遣いのナキネズミだって…。
きっと値打ちが下がるから。
からかいの種にされてしまって。
サムと二人で食堂を出た後、「今朝のアレ…」と詫びたナキネズミ。
部屋に置いて来たから、明日、返すと。
そうしたら…。
「やるよ、お前に。…元気でチューか、って言ったぜ、俺」
それにさ、グッドラックって渡しちまったし…。お前のだよ、アレは。
もうお前のだ、とサムは笑っているのだけれど。
「いや、しかし…。レア物だろう?」
貰うわけには、と断った。
お返しになりそうな物も無いから、と繰り返す自分は困った顔に見えたのだろうか。
「そういうことなら…」と、ニッと親指を立てたサム。
「だったら、こういうことにしようぜ。貸しってことで」
「貸し…?」
「そう、貸し! いつか俺がさ、元気を失くすようなことがあったら…」
アレ、その時に返してくれよ。「元気でチューか?」って。
でもよ、俺はいつでも元気だからさ…。
そんな日、来ねえと思うけどな?
(…元気でチューか、か…)
確かにそんな日は来そうにないな、と部屋で眺めたぬいぐるみ。
きっとサムには返せないまま、卒業することになるのだろう。
(このぬいぐるみをシロエが見ても…)
それでも彼は言うのだろうか?
「機械仕掛けの冷たい操り人形」だと。
ぬいぐるみを持って、「元気でチューか?」と自分がやってみせたとしても。
(…それもプログラムで出来るんですよ、と笑いそうだが…)
きっと自分は機械ではない、今は心が温かいから。
サムに貰ったぬいぐるみ。
此処を卒業してゆく時には、きっと荷物に入れるから。
機械だったら、きっと余計な物は持たずに行くだろうから。
(お前と一緒に卒業らしいな?)
相棒が出来てしまったようだ、とチョンとぬいぐるみをつついてみる。
サムにはきっと、返せないまま。
「元気でチューか?」とサムを励ます日などは、きっと来ないから。
けれど来たなら、頑張ってみよう。
プログラム通りにやるのではなくて、人間らしく。
精一杯の励ましをこめて、サムに向かって「元気でチューか?」と…。
友の励まし・了
※キースがやってた「元気でチューか?」を思い浮かべたら、こういう話になったオチ。
あの芸をサムに披露するまで、ぬいぐるみを律儀に持ってたんだよ、と。
(…記憶が無い…?)
それをシロエが耳にしたのは、ほんの偶然。
休み時間に故郷のデータを眺めていた時、聞こえて来たキースの噂話。
成人検査よりも前の記憶が無いという。
「機械の申し子」と呼ばれる彼には。
一瞬、よぎった憤り。
自分はこうして、懸命に記憶を繋ぎ止めようともがいているのに。
成人検査で消された上に、遠ざかり薄れてゆく記憶。
まるで自分が…。
(…最初からいなかったみたいに…)
故郷には、エネルゲイアには。
教育ステーションから全てが始まったかのように、一つ、また一つと記憶が消えて。
ピーターパンの本が無ければ、とうに壊れていたかもしれない。
自分の心は、耐えきれなくて。
両親に買って貰ったお気に入りの本、「これだけは」と大切に持って来た本。
あれがあるから、「確かに故郷にいた」と思える。
ピーターパンの本と一緒にエネルゲイアに、両親の側に。
(…他のみんなは馴染んでいくのに…)
どうしても馴染めない、異質な自分。
手から零れる砂粒のように消えてゆく記憶、それが欲しくて。
どんなに勉強に打ち込んでみても、好成績を叩き出しても、少しも満足出来ない自分。
(知識なんかは要らないから…)
失くした記憶を返して欲しい。
それと引き換えに最下位になって、エリートの道から放り出されても。
一般人向けのステーションへと、放校処分になったとしても。
けれど、叶いはしない夢。
逃げ場所は無くて、成績だけが上がり続けて。
代わりに失くしてゆく記憶。
昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな具合に、一つ、二つと。
それが辛くて、ただ悲しくて。
いっそ全てを忘れられたらと、苛立つことさえあるくらい。
それを望んではいないのに。…本当は忘れたくなどないのに。
(…なのに、あいつは…)
キースは持っていないという。
自分が必死に縋り付く過去を、戻りたいともがき続ける過去を。
なんと憎らしい奴だろう。
この苦しさを、悔しさを全く感じないキース。
記憶が無いなら、戻りたくなることはないから。
帰りたいとも、まるで思わずに済むのだから。
元から好きではなかったけれども、一層増したキースへの敵意。
自分とは逆の人間だから。
過去にしがみ付き、皆から外れてゆくだろう自分。
それとは全く逆なのがキース、何の苦労もしていないキース。
過去の記憶を持たないのならば、此処での道に何の疑問も無いだろうから。
(……あんな奴……)
幸福なキース、戻りたい過去を持たない人間。
あまりに憎くて、腹が立つから。
彼にも自分と同じ苦痛を味わわせたいと思う、出来ることなら。
過去を持たないなら、突き付けてやって。
キースが失くした大切な記憶、その欠片で心を抉ってやって。
(あいつだって、きっと…)
失くしたのだと気が付いたならば、衝撃を受けることだろう。
どうして自分は忘れたのかと、何も覚えていないのかと。
故郷のことやら、両親のこと。
お気に入りだった本だって。
(…忘れたんだ、って思い知ったら…)
自分の比ではないだろうと思う、キースが覚える喪失感は。
彼は何一つ持たないのだから。
「これを見ろ」と喉元に突き付けてやる、小さな記憶の欠片さえをも。
けれど、突き付けたそれは心を深く抉って、赤い血が噴き出すことだろう。
他の欠片は何処へ行ったかと、いったい何を失くしたのかと。
キースの心は千々に乱れて、その場で砕け散るかもしれない。
いつも自分が恐れている破滅、それに飲まれて。
自分が自分でなくなってゆく恐怖、それに心を食らい尽くされて。
憎らしいキース。
過去の記憶を持っていないらしい、幸福なキース。
彼が壊れてしまったならば、きっと爽快な気分だろう。
やはり自分は正しかったと、過去の記憶はとても大切なものなのだと。
持たない者の方が変だと、自分は間違っていないのだと。
(…此処の奴らも、マザー・イライザも…)
自分の記憶を奪ったテラズ・ナンバー・ファイブも、狂っている。
このシステムも、成人検査も、何もかもが。
それなのに、誰も指摘しないから。
気付きもしないで、記憶を持たないキースを皆が褒めるのだから。
(…ぼくがあいつを壊してやる…)
記憶の欠片を突き付けてやって。
鋭いそれで心を抉って、喉笛も一気に切り裂いてやって。
そう、悲鳴さえも上げられないように。
奈落の底へと叩き落とそう、キースが失くしたものの大きさを思い知らせて。
(キースの記憶…)
何でもいいから手掛かりを一つ、と立ち上げた画面。
自分の部屋で明かりを落として、呼び出したキースのパーソナルデータ。
(ナンバー、076223、キース・アニアン…)
出身地、トロイナス。
父、フル。母、ヘルマ。…生年月日、SD567年12月27日。
そして…、と辿るキースの情報。
どの船でいつ此処に着いたか、誰が一緒に乗っていたのか。
(…見ていろよ、キース…)
最初は欠片でなくてもいい。
ただの断片、それだけでいい。
繋ぎ合わせて、抉る刃を作り上げるから。
キースが失くした記憶の欠片を、キースの心を抉る刃を。
記憶を持たない幸福なキース、彼の澄ました顔を壊してやりたいから。
自分が味わった以上の苦しみ、それを与えてやりたいから。
記憶を失くしてゆくことの辛さ、悲しさ、それに悔しさ。
(キース・アニアン…)
喪失感に飲まれ、壊れるがいい。
お前がそうして澄ましている間に、なんとしても調べ上げるから。
失くしただろう過去の記憶を、きっと見付けて突き付けるから。
思い知るがいい、何を失くしたか。
記憶の欠片を突き付けてやって、お前を地獄に叩き落とすから…。
抉りたい心・了
※キースを陥れるつもりで、破滅への道を歩き出してしまったのがシロエ。
踏み出した瞬間はこんな感じだったのかも、と。勝つ気満々、やらなきゃいいのに…。
(E-1077…)
それが此処か、とキースは頷く。
長い通路を歩きながら。
(…マザー・イライザ…)
そう名乗った女性。
ただし、人ではなかったけれど。
教育ステーション、E-1077を統べるコンピューター。
けれど、何故だか気味が悪いとは思わなかった。
「そういうものか」と思っただけ。
だから言われるままに歩き始めた、この通路を。
新入生のためのガイダンスが行われると、教えられたホールに向かって。
此処が何処なのか、それは分かっているけれど。
宇宙港に到着して直ぐ、自分は倒れたらしいけれども。
何も不思議に思いはしないし、不安に思う気持ちも無い。
ガイダンスがあるホールへ、其処へ行かねばと、前へと進むだけのこと。
他には特に思いなどは無くて。
ホールに入って、ざわめく新入生たちを目にした時にも…。
(…あの場所がいいか)
そう思っただけ。
単に空いていて、見やすそうだと考えたから。
それだけのことで、特に無い理由。
そして始まったガイダンス。
何の感慨もなく見ていたけれども、不意に懐かしく感じたもの。
暗い水の中、湧き上がった気泡。
それに心を掴まれた気がする、何故か、一瞬。
(水…?)
何故、と思う間もなく、その向こうから現れた胎児。
後は子供たちの育成に関する説明に変わり、懐かしむ声がホールに上がった。
「赤ちゃん…!」と。
「お父さん、お母さん…」と、「パパ」と。
意味は分かるけれど、何の興味も湧かない言葉。
けれど、新入生たちは…。
(…こちらの方が懐かしいのか…?)
不思議だと思う、その感覚。
ガイダンスでは「血縁関係の無い家族」と、はっきり言っているのに。
(水ならば分かるが…)
地球は水の星らしいから。
人類が最初に生まれた星は、水に覆われていたらしいから。
だから自分も、それに反応したのだろう。
退治の映像が浮かぶよりも前、暗い水の中からゴボリと上がった泡の形に。
それが水だと気付いたから。
(…不思議だな…)
ホールに集まった新入生たち、彼らには本質というものが見えないのだろうか?
血縁関係の無い家族などより、水の方がずっと近しいのに。
地球も胎児も、水に覆われているものなのに。
「全ての者が等しく地球の子なのだ」と、ガイダンスの声も言っているのに。
なんとも分からない、他の者たちの奇妙な思考。
水よりも、血縁関係の無い家族。
それに惹かれるらしい者たち。
とはいえ、ガイダンスは上手い具合に出来ていると思う。
水よりも家族がいいらしい者たち、彼らの心を捉えたから。
「なるほど…。こうして地球への慕情を抱かせ、自分の果たすべき役割を…」
認識させるわけか、と納得した中身。
自分にはピンと来なかったけれど。
何処か違和感を覚えるけれど。
(…水の方が、ずっと…)
地球にも人にも近しいと思う、そのせいだろうか。
まるで感銘を受けなかったのは。
手を取り合う仲間、それを探そうとも思わないのは。
もっとも、わざわざ探さなくても…。
(サム・ヒューストンと言っていたな?)
自分に声を掛けて来た者。
丁度いいから、と手を差し出した。
「キース・アニアンだ」と。
「あ、ああ…!」
握り返して来たサム・ヒューストン。
ステーションでの第一歩は、上手く踏み出せたのだろう。
感じ方は皆と違うけれども、上々の出来。
惹かれるものが水か、家族か、それだけの違い。
…多分、きっと。
ガイダンスの後で、サムと別れて向かった部屋。
宇宙港で倒れた自分は、まだ自分の部屋を一度も見てはいなかったけれど。
(…これを好きなように変えられるのか…)
ベッドの隣に設けられた壁。
スイッチ一つで、どのようにでも。
用意されているものが気に入らないなら、他のデータを探してもいい。
(壁のままでも、かまわないんだが…)
元は壁だし、と順に切り替えていった映像。
それが水槽に変わった瞬間、引き込まれた。
シルエットの魚が何匹か泳ぐ、ただそれだけのものだけれども。
(……水か……)
何故か惹かれる、あの時のように。
ガイダンスで目にした、胎児よりも惹かれた水のように。
これに決めた、と選んだ映像。
懐かしく感じる水槽と魚。
きっと魂の記憶なのだろう、人は水から生まれたから。
水の星、地球が人間を創り出したから。
(…家族は少しもピンと来ないが…)
水は好きだ、と幻のそれに手を伸ばしてみる。
何処かでこうしていたように思う、そんな筈など無いのだけれど。
けれど懐かしい、水というものが。
家族などより、この水の方が。
(…いいものだな…)
まるで吸い込まれるような気がする心地良さ。
胎児の頃の記憶なのかと思うくらいに、水に惹かれている自分。
ステーションで暮らす間は、ずっとこの水と過ごしてゆこうか。
水槽と魚、それが一番安らぐから。
何故か惹かれて、その中でずっと生きていたのだと、そんな気持ちまで抱かせるから…。
水の記憶・了
※シロエが「殺風景な部屋ですね」と評したキースの部屋。「へ?」と首を傾げていた自分。
水槽ってトコがキースらしいと思ったんですけど…。シロエ、気付かなかったんですか?
