(ぼくの故郷…)
エネルゲイア、とシロエが手繰った自分の記憶。
一日の講義を終えた後の部屋で、「大丈夫」と、「まだ覚えている」と。
成人検査を受けた時から、おぼろに霞んでいる故郷。
それが怖くて、こうして辿る。
「まだ大丈夫」と、「忘れていない」と。
大好きだった故郷は、ちゃんと心の中にあるから。
どんなに霞んでしまっていたって、消えたわけではないのだから。
(パパとママがいて、ぼくの家があって…)
たったそれだけ、その程度しか確かなことが無かったとしても。
家が在った場所を示す住所を、まるで書くことが出来なくても。
(でも、覚えてる…)
あそこがぼくの故郷だった、と思い出す「エネルゲイア」という名前。
アルテメシアという星の上に、エネルゲイアは在ったのだと。
自分は其処で暮らしていたと、毎日が幸せだったのだと。
けれど、全てを奪われた。
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブに、あの憎らしい成人検査に。
ピーターパンの本だけを残して、何もかもを。
両親も家も、エネルゲイアという場所も。
気付けば消されていた記憶。
あんなに「嫌だ」と抵抗したのに、機械が消してしまった記憶。
大人になるには、必要無いと。
両親も家も、故郷も要りはしないのだと。
(…だけど、忘れてやるもんか…)
こうして残っている分は。
今も自分の中に残った、大切な故郷の記憶の欠片。
顔さえ思い出せない両親、住所が分からなくなった家。
それでも記憶は残っているから、好きだったことは忘れないから。
穴だらけだろうが、欠けていようが、自分は自分。
こういう記憶を持っている者、それが自分でセキ・レイ・シロエ。
エネルゲイアの家で育って、ネバーランドを夢見た子供。
両親がくれたピーターパンの本が宝物、今でも持っているほどに。
成人検査を終えた後にも、此処まで持って来たほどに。
(ぼくは決して忘れやしない…)
機械が何をしたのかも。
記憶を消されてしまってもなお、自分を構成しているものも。
両親が、故郷が好きだった自分。
故郷の家も、風も光も。
エネルゲイアの映像を見ても、何処か現実味が無いけれど。
自分が確かに其処に居たこと、その実感が湧かないけれど。
あそこが大好きだったのに。
あの故郷から、故郷の空から、ネバーランドへ飛ぼうと何度も夢を見たのに。
(ぼくの好きな所が、一杯あって…)
パパやママと一緒に行ったっけ、と思った所で途切れた記憶。
いきなりプツリと切られたように。
せっせと辿った道しるべの糸、その糸が消えてしまったように。
(…これは、何…?)
どうして、と手繰ろうとした続き。
両親と一緒に何度も出掛けた、大好きだった思い出の場所。
お気に入りの場所は、と手繰った糸には先が無かった。
鋭い刃物でブツリと切られて、あるいはハサミでチョキンと切られて。
糸の先には、もう無かった道。
お気に入りの場所は何処だったのかが、まるで記憶に無かったから。
ただ「好き」としか、「好きだった」としか。
其処がいったい何処にあるのか、それが分からないなら、まだいいけれど…。
嘘だ、と見詰めた記憶の穴。
心にぽっかり開いた空洞、何も覚えていない自分。
両親と何処へ行ったのか。
胸を高鳴らせて出掛けた先には何があったか、何を見たのか。
(……そんな……)
そんな馬鹿な、と背中に流れた冷たい汗。
いくら霞んでしまったとはいえ、故郷の記憶はある筈なのに。
お気に入りの場所が何処にあったか、それはハッキリしなくても…。
(好きだったものは覚えている筈…)
そう思うのに、糸はプツンと切れたまま。
両親と何をしていたのか。
どうして其処が気に入っていたか、何をするための場所だったのか。
多分、子供が喜びそうな場所なのに。
とても気に入って、何度も出掛けていた筈なのに。
(あれは何処…?)
幼い頃から何度も行った。
両親の手をキュッと握って、大はしゃぎして。
自分一人では、上手く帽子も被れなかったほどの頃から。
母が被せて、父が直してくれたりしていた頭の帽子。
(…帽子なんだし…)
日よけの帽子で、それならば外。
屋外の何処か、気に入りの場所はそういう所。
(…海とか、山とか…?)
それだろうか、と思うけれども、記憶には穴が開いたまま。
何も返ってこない反応、「それだ」とも、「それじゃない」とさえ。
消された記憶を、自分は持っていないから。
機械にすっかり奪い去られて、手掛かりさえも掴めないから。
(…海でも山でもないのなら…)
公園だとか、と自分に向かって尋ねるけれど。
他に子供が好きそうな場所は、と次から次へと挙げてゆくけれど。
幾つ挙げても、「これだ」と思えない答え。
他には、もう思い付かないのに。
ピーターパンの本を広げて、端から拾っていったって。
これだろうか、と指で言葉を指したって。
(…好きだった場所を…)
ぼくは忘れた、と足元が崩れ落ちるよう。
大好きな両親と何度も出掛けた、お気に入りの場所が出て来ない。
いったい何を好んでいたのか、好きだった場所は何処だったのか。
それの答えが何と出るかで、きっと何通りもある組み合わせ。
海が大好きな子供だったら、泳ぎがとても好きだったとか。
山が好きなら、木登りが得意だったとか。
(…遊園地に出掛けて行ったって…)
好きだった遊具で変わるのだろう。
セキ・レイ・シロエの子供時代というものは。
今の自分が出来た切っ掛け、自分を構成しているものは。
(……酷い……)
酷い、と失くしてしまった言葉。
自分では「自分」を掴んでいるつもりだったのに。
記憶がおぼろになっていたって、セキ・レイ・シロエは自分だと。
此処にいるのだと、これがセキ・レイ・シロエだと。
それなのに欠けている記憶。
大切なものが、とても大切だった筈の部分が。
今のシロエを築き上げたもの、幹とも言うべき自分の根幹。
大好きで興味を示していた場所、其処で自分がやっていたこと。
それを丸ごと忘れてしまって、何も残っていないだなんて。
幼い頃から好きだった場所も、その場所でしか出来ないことも。
(…ぼくは、いったい…)
誰なんだろう、と揺らぐ足元。
今の自分を築いた記憶は、何も残っていなかったから。
プツリと途切れた糸の先には、何もくっついてはいなかったから。
ぼくは誰なの、と問い掛けてみても分からない。
どうやって今のセキ・レイ・シロエが出来たのか。
スポーツが好きな子供だったか、スポーツより読書が好きだったのか。
そんな単純なことさえも。
もしや、と記憶の糸を辿ったら、それも途切れて消えていたから。
機械が消してしまったから。
(パパ、ママ…)
教えて、と奈落の縁に立って震える。
ぼくはどうやって育って来たのと、何処へ連れてってくれていたの、と。
それの答えで、シロエが誰かが変わるから。
お気に入りの場所に全てがあるのに、何も覚えていないから。
(……お願い、ママ、パパ……)
ぼくに教えて、と零れ落ちる涙。
自分が誰だか分からないよと、本物のシロエは何処にいるの、と…。
ぼくは誰なの・了
※シロエの記憶の欠けっぷりからして、多分、こういう記憶も消えてるんだろう、と。
どういう風に育って来たかは、大切だと思うんですけどね…。ごめんよ、シロエ。
(…このタイミングで処分命令か…)
E-1077をか、と立ち上がったキース。
たった今、グランド・マザーから受けた極秘の命令。
「教育ステーション、E-1077を処分して来い」と。
とうの昔に、廃校になっているけれど。
スウェナもそれを知っていたけれど。
(…偶然なのか?)
この間、これを受け取ったばかり…、と本を手に取り、腰掛けた椅子。
さっき通信を受けたのとは別の、私的なスペース。
膝の上、傷んだピーターパンの本。シロエの持ち物だった本。
見返しの下にシロエが隠していたメッセージ。
それを自分は見たのだけれども…。
(…肝心の部分は見られず、か…)
劣化したのか、本と同じにレーザー砲を浴びて破損したのか。
シロエのサイオンは本を守ったけれども、あちこちが黒く焦げているから。
破れてしまった箇所も幾つか。
自分の命を守る代わりに、シロエが守った大切な本。
あのメッセージを守るためではなかっただろう。
ただひたすらに、本を守っただけだったろう。
遠い昔に、両腕で本を抱くのを見たから。
まるで幼い子供のような表情で。
あの時に知った、この本はシロエの宝物だと。
幼い時から持っていたもの、ステーションまで持って来た本。
だからこそ、シロエは本を守った。
ミュウの力で、本の周りにシールドを張って。
自分ごと守れば助かったものを、本のことだけを大切に考え続けて。
そうやって逝ってしまったシロエ。
彼が命を懸けて撮影した、フロア001の映像。
その核心は画像も音声も乱れてしまって、掴めないまま。
E-1077に出向けば、あのフロアへも行けるのだろう。
シロエが「忘れるな!」と叫んだ場所へ。
卒業の日までに、どう頑張っても辿り着けずに終わった場所へ。
(…やっとシロエとの約束を果たせる…)
十二年もの時が流れたけれども、遺言になったシロエの言葉に従える。
「自分の目で確かめろ」とシロエは言っていたから。
フロア001、其処にあるもの、それが何かは分からないけれど。
グランド・マザーからも聞いてはいないけれども。
(まるで神の手でも働いたような…)
そんな気がするタイミング。
シロエの本を手にした途端に、この命令が来たのだから。
E-1077のことなど、今日まで聞きはしなかったのに。
廃校になったということでさえも、軍の噂で耳にしていただけなのに。
(…呼んだのか?)
お前が私を呼んだのか、と心でシロエに語り掛けた。
来いと言うのかと、今、この時に、と。
ピーターパンの本を開いて、見詰めたシロエが残したサイン。
「セキ・レイ・シロエ」と書いてある名前、その下にチップが隠されていた。
けれど、シロエはチップを守ったわけではない。
違うと確信している自分。
シロエが守ったものは本だと、この本だった、と。
機械の言いなりになって生きる人生に、意味などは無いと言い切ったシロエ。
きっと命は要らなかったろう、彼が忌み嫌う機械に服従してまでは。
たとえシロエがミュウでなくとも、あの道を選んで散ったのだろう。
この本だけを持って、宇宙へと逃げて。
宝物の本を抱えて飛び去っただろう、宇宙の彼方に広がる空へ。
(…なのに、本だけが…)
こうして此処に残ってしまった。
シロエの宝物なのに。
本当だったら、シロエと共に在る筈なのに。
無意識の内にシロエが守って、宝物をシールドしていたから。
どういう結果になるのかも知らず、ミュウの力すらも知らないままで。
それに気付いて、思ったこと。
E-1077を処分するなら、そのために自分が出向くなら。
(…これをシロエに返してやろう)
もしもシロエが自分を呼んだと言うのなら。
来いと招いていると言うなら、彼が望んでいることは、きっと…。
(口では、フロア001だと言おうとも…)
本当の思いは、この本のこと。
宝物の本を返して欲しいと、それが出来るなら届けてくれと。
彼の魂が何処にいるかは分からないけれど、今もE-1077の辺りにいるのなら…。
(シロエに返してやらないとな…)
自分が持ったままでいるより、これの本当の持ち主に。
己の命を守る代わりに、本を守ったほどのシロエに。
きっと今でも、本を探しているだろうから。
ピーターパンの本は何処へ行ったかと、誰が奪って行ったのかと。
あの本が宝物だったのに、とシロエはきっと探している。
魂になって、今も宇宙にいるならば。
E-1077の辺りの漆黒の宇宙、其処を飛んでは、「ぼくの本は?」と。
自分ならこれを返してやれる、と思った本。
遠い日にシロエが逮捕された時、同じように本を返してやった。
意識を失くしたシロエを連れてゆこうとしていた、保安部隊の男たちの前に突き付けて。
シロエが横たえられていたベッド、その上にそっと置いてやって。
(あの時のように、返さないと…)
この本はシロエの宝物だから。
保安部隊に連れ去られた後も、皆の記憶から消された後にも、シロエは本と共にいた。
大切に抱えて、宇宙まで。
レーザー砲の光に焼かれた時にも、この本だけを守り抜いて。
だから返してやらねばならない、本の持ち主だったシロエに。
遠い日と同じに、自分の手で。
これがシロエの宝物だと知っているから、それを自分が手にしたからには。
ならば、自分が、今、すべきことは…。
グランド・マザーからの通信を受けた、さっきの部屋。
其処に戻ってアクセスしたデータ、今ならば開示される筈。
パルテノンの管轄下に置かれ、政府関係者ですら立ち入りを制限されている場所。
E-1077のデータに、恐らくはその殆どに。
(フロア001は無理なのだろうが…)
試してみて、やはり弾かれた。
国家機密を示すエラーに、そういうエラーメッセージに。
けれども、自分が探しているのは、それではない。
そう簡単に謎が解けるとも思ってはいない。
(…だが、シロエの名は…)
出るのだろう、と打ち込んでいったシロエの名前。
「セキ・レイ・シロエ」と、それから彼が在籍していた時期と。
案の定、其処にいたシロエ。
候補生たちが皆、忘れ果てていた、セキ・レイ・シロエの名前は在った。
E-1077を運営していた者たちからすれば、それは必須のデータだから。
シロエの存在を消し去った後も、データは保存されるから。
名前の下には、欲しかったデータ。
あそこでシロエが暮らしていた部屋、その所在地と状態と。
(…やはり封鎖か…)
E-1077が廃校になる前からずっと、閉ざされたままだという情報。
候補生は誰も立ち入らない部屋、使われることがなかった部屋。
シロエはMのキャリアだったから。
ミュウ因子を持った人間を指す、ミュウに詳しくない者たちが使う言い回し。
此処でもそれが使われていた。
ミュウとは何かを知らない者たち、E-1077の上層部。
彼らはMの感染を恐れ、シロエの部屋を封印した。
誰も近付かないように。
同じような扉が並んでいたって、誤って入らないように。
E-1077の居住区の一角、時が止まったままだろう部屋。
シロエの私物はもう無いけれども、彼が暮らしていた頃のままに。
新しい住人が入らないまま、シロエと一緒に凍った刻(とき)。
予想通りか、と頭に叩き込んだ地図。
シロエの部屋へ行くには何処を通るか、どの通路からが近いのか。
扉を開くためのパスワードは何か、どうすれば中に入れるのか。
(…フロア001よりは…)
きっと簡単に行けるだろうさ、と唇に浮かべた自嘲の笑み。
卒業の日までに何度試みても、其処へは行けなかったから。
シロエが自分に遺した遺言、それを果たせはしなかったから。
(あのステーションを処分するだけなら…)
必要のない人工重力、それに照明。
どちらも復活させねばなるまい、シロエに本を返すなら。
かつてシロエが向かっていただろう机、その上に本を置いてやるなら。
頼りなく宙に浮いたままだと、返したことにならないから。
シロエの机の上に置いてこそ、「返したぞ」と言ってやれるのだから。
(…ステーションの処分と、フロア001だけならな…)
重力も照明も必要無いが、と鼻先で笑う。
マザー・イライザが何を言おうが、任務を遂行するだけだから。
フロア001の内部を確かめ、後はステーションの中枢を破壊してやるだけ。
それで終わりで、無重力だろうが、暗がりだろうが、自分にとっては容易いこと。
(しかし、シロエに本を返すなら…)
やはり机に置いてやらねば、シロエがそれを受け取れるように。
あの日と同じに、本を抱き締めて持ってゆけるように。
「お前の本だ」と見せてやるには、照明も要る。
非常灯だけでも点けてやらねば、シロエの部屋にも本が見える灯りが灯るよう。
(……本を隠して持って行くには……)
宇宙服の中がいいだろう、とも考える。
マツカしか連れてゆかないけれども、本の存在は隠しておきたいから。
これはシロエの大切な本で、直接、返しに出掛ける本。
任務とはまるで無関係だから、自分の心の声に従うだけなのだから…。
返したい本・了
※E-1077を処分しに行った時のキース、あの本を持っているんですよね…。
シロエに返しに行ったんだろう、という捏造。シロエの部屋だという証拠、掴めず。
(パパ、ママ…)
どうして忘れてしまったんだろう、とシロエがギリッと噛んだ唇。
ピーターパンの本を抱えて、ベッドの上で。
この本だけしか残らなかった、と強く抱き締める宝物。
子供時代の持ち物の中で、残ったものは一つだけ。
両親がくれた大切な本。
幼かった自分に夢を与えてくれた本。
いつかはネバーランドに行こうと、広い広い空を飛んでゆこうと。
ピーターパンと一緒に旅に出るのだと、子供のための国にゆくのだと。
(…もっと素敵な所にだって…)
行けると父が教えてくれた。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、「シロエだったら行けそうだぞ」と。
頭がいい子は、いつの日か行けるらしい地球。
そう聞かされて、素直に夢見た。
地球に行けるなら、ネバーランドにも必ず行けるだろうから。
きちんと準備を整えておけば、いつでも旅に出られるから。
ピーターパンが迎えに来たなら、高い空へと舞い上がって。
ぐんぐんと飛んで、エネルゲイアを後にして。
きっと行けると夢見た国。
ネバーランドにも、もっと素敵な地球にだって。
(…ぼくは行けると思ってたのに…)
成人検査を好成績で通過したなら。
頭がいいと認められたら、其処への切符が手に入るのだと。
けれども、高すぎた代償。
地球への切符を貰える場所には、どうやら辿り着けたのだけれど。
皆の憧れの最高学府、E-1077。
此処で四年を過ごした後に、選出されるメンバーズ。
それになれたら、開けるらしい地球へ行く道。
ただ、このE-1077に来るためには…。
(……成人検査……)
あんなものだとは思わなかった、と後悔したって、もう遅すぎる。
何もかも奪い取られたから。
機械がすっかり消してしまって、何一つ残らなかったから。
ピーターパンの本だけしか。
両親の記憶も、懐かしい家も、何もかも失くしてしまったから。
こんな目に遭うくらいだったら、地球には行けないままで良かった。
ネバーランドがあれば良かった。
両親と暮らす家の窓から、いつか行けるかもしれない国。
其処を夢見て暮らしてゆければ、それだけでもう充分だった。
メンバーズにはなれなくても。
地球への道が開かなくても、両親と一緒にいられたならば。
エネルゲイアを離れずに済んで、何も失わなかったなら。
(……どうして、成人検査なんか……)
あんなシステムが存在するのか、考えるほどに苛立つばかり。
憎しみが増してゆくばかり。
他の候補生たちは、まるで気にしていないのに。
やっと大人の仲間入りだと、むしろ喜んでいるようなのに。
(あれも、機械が…)
そういう風に仕向けるのだろうか、記憶を消してゆくついでに?
子供時代の記憶を消し去り、代わりに叩き込むのだろうか。
このシステムに馴染むべきだと、それが正しい生き方だと。
社会の仕組みに従うがいいと、そうすれば地球へ行けるのだから、と。
もしもそうなら、自分にとっては余計なお世話。
地球など要らない、両親と、故郷と引き換えならば。
何もかも捨てねば行けない場所なら、行けないままでいいのだから。
どうして選べないのだろう。
地球へ行きたいか、地球へは行かずに生きる道がいいか。
大人になる道を歩き始めるか、子供の世界を離れずにいるか。
(それさえ、自分で選べるんなら…)
きっと此処には来ていない。
今も故郷を離れてはいない、両親の家で暮らしている筈。
メンバーズになるより、地球へ行くより、両親の側にいたかったから。
故郷の家の窓の向こうに、いつも夢見たネバーランド。
それだけがあれば、きっと満たされていた。
こんな空虚な心を抱えて、ベッドに座っているよりも。
穴だらけになってしまった記憶を、取り戻そうとして苦しむよりも。
(……ピーターパンが来てくれなくたって……)
ネバーランドは、けして消え失せない。
夢まで消えてしまいはしない。
本を開けば、夢の国は其処にあるのだから。
ピーターパンの本の向こうに、いつも、いつだって見えているから。
自分の記憶が曖昧になった、今さえも。
両親の顔さえ忘れ果てても、ネバーランドは消えずに今も在るのだから。
(成人検査を考えたヤツは…)
いったいどうして、こんなシステムを作ろうなどと考えたのか。
誰も拒否など出来ない検査を、記憶を消してしまう仕組みを。
子供時代の全てを否定し、握り潰してしまうなら…。
(……最初から、そんな過去なんか……)
与えないでいて欲しかった。
両親も故郷も無かったのなら、何も失くしはしないのだから。
最初からステーションで育っていたなら、両親も家も無かったならば。
(そういう風に育てられたら、そっちが普通なんだから…)
アンドロイドに育てられても、何の個性も無い暮らしでも。
右だと言われれば右を眺めて、左だと聞けば左を見る。
個性の欠片も育たないように教育されたら、成人検査がどんなものでも気にしない。
過去を失くしても、それに価値など無いのだから。
自分を育てたアンドロイドが、その後は何処へ行こうとも。
ステーションでの暮らしがガラリと変わってしまったとしても、それだけのこと。
「今日からは、こう生きてゆくのだ」と思うだけ。
過去を失くして悲しむ代わりに、消えた記憶を嘆く代わりに。
新しい生活パターンに馴染んで、それに相応しく暮らしてゆくだけ。
懐かしむ過去など、何も持ってはいないから。
両親も家も、最初から無かったのだから。
そうだったならば、どんなにいいか。
どれほどに楽で、幸福だったか。
失くす過去など持たなかったら、最初から過去が無かったら。
そういう風に育てられたら、両親も故郷も無かったら。
(…ネバーランドも無いけれど…)
其処を夢見る自分もいないし、不都合なことは何も無い。
こうして苦しむシロエはいなくて、優等生のシロエが一人。
今日は普通に昨日の続きで、明日は今日から続いてゆくだけ。
成人検査で途切れたことさえ、きっと知らないままの人生。
何も失くしはしなかったから。
成人検査の前と後とで、何も変わりはしないのだから。
(どうせ機械が決めるんなら…)
何もかも機械がやればいい。
養父母が子供を育てる代わりに、アンドロイドが育てればいい。
夢も希望も何も与えずに、教育だけを施して。
故郷の光も風も無い場所、無個性な教育ステーションに住ませて。
そうすればいいと、何故そうしないと、ただ悔しくて唇を噛む。
どうして両親を与えたのかと、自分に故郷を持たせたのかと。
全部失くしてしまうのに。
どうせ持ってはいられないのに、与えられた甘い砂糖菓子。
まるで童話のお菓子の家で、食べたばかりに苦しむ自分。
両親も故郷も知らなかったら、苦しみさえもしないのに。
成人検査を受けた所で、何も失くしはしないのに。
(いったい、どうして…)
後で必ず取り上げるくせに、幸せな過去を寄越すのか。
幸福に満ちた子供時代を、温かな家を、優しい両親に守られる日々を。
ずっと持たせてくれないのならば、与えなければ良さそうなのに。
その方がこちらも楽でいいのに、何故、与えてから取り上げるのか。
(…理不尽すぎるし、非効率的…)
機械が統治してゆくのならば、機械のような人間でいい。
個性などは無くていい筈なのに、と考えていて気付いたこと。
もしかしたら、これが狙いだろうかと。
機械の意図は此処にあるかと、そのための養父母と故郷だろうかと。
(……夢が無ければ……)
誰も夢など抱かない。
自分も、きっとそうなった筈。
ネバーランドを夢見もしないし、地球へ行こうとも思わない。
ただ淡々と生きてゆくだけ、昨日の続きの今日という日を。
明日も同じに今日の続きで、其処からは何も生まれては来ない。
言われた通りに生きてゆくだけで、工夫もしないし、自分で考えることだって。
けれど、それでは機械が困る。
優秀な人間が出ては来ないし、これから先も進歩はしない。
進歩が無いなら、いずれは退化してゆくだけ。
誰も工夫を凝らさないなら、考えようともしないのなら。
(…退化されたら、機械の世話をする人間も…)
いつしか消えてしまうのだろう。
膨大な数の精密機械を相手に、メンテナンスをする人材。
そうなれば機械は壊れてしまって、誰も修理をしてくれはしない。
(……機械の世話をするためだけに……)
人間は生かされているのだろう。
奪い去られる夢の生活、子供時代を与えられて。
誰もが大きな夢を描いて、考える力や工夫することを覚えるように。
そうやって培った力を生かして、機械に仕えてゆくように。
何の疑いも抱くことなく、成人検査で押さえつけられて。
いいように飼いならされてしまって、機械の言いなりになる人生。
きっとそうだ、と気付いた成人検査の理由。
機械が人間を使いこなして、意のままにするために行うもの。
個性は充分に与えてやったと、夢を持つことも覚えただろうと、消し去る記憶。
子供時代はもう不要だと、これからは機械のために生きろと。
(…機械にはパパも、ママだって…)
いるわけがないし、故郷も無い。
だから機械には分からない苦痛、過去を失うということの意味。
機械にとっては、過去はデータに過ぎないから。
別のデータで補えるのなら、何も問題無いのだから。
(……何もかも、全部……)
機械が与えて奪い去った。
大好きだった両親も家も、故郷にあった風も光も。
ピーターパンの本だけが残って、他は何一つ残らなかった。
最初から機械が仕組んだ人生、それを生きるしかないのだろうか?
此処まで生きてしまったからには、このまま行くしかないのだろうか…?
(…そんなの、嫌だ…)
たとえ取り残されることになっても、出来るなら此処に留まりたい。
機械の手から逃れて生きたい、そうすれば破滅するのだとしても。
他の者たちと同じようにはなれないから。
世界が機械のためにあっても、そんな機械に従える心は持たないから…。
機械の思惑・了
※成人検査は何のためにあるのか、シロエが考えなかった筈はないよな、と。
シロエが出しそうな結論がコレで、実際の所はどうなんだか…。アニテラだと真面目に謎。
(……シロエ……)
暗澹たる思いでキースが戻ったステーション。
シロエの船を撃墜した後、E-1077に降り立ったけれど。
Mの精神攻撃の余波がまだ残る其処に、シロエを知る者はもういない。
少なくとも、候補生の中には。
セキ・レイ・シロエという名は消されたから。
最初は「居る」ことを消されてしまって、今はもう、その存在ごと。
宇宙の何処にも、いなくなったシロエ。
自分がこの手で撃ち落としたから、彼が乗った船を。
武装してさえいなかった船を、ただ逃げてゆくだけの練習艇を。
マザー・イライザの命令のままに、レーザー砲でロックオンして…。
(……撃ったんだ……)
そしてシロエは消えてしまった。
髪の一筋さえ残すことなく、光に溶けて。
レーザー砲の閃光の中で、一瞬の内に蒸発して。
何も残っていなかったことを、この目で確認して来たから。
シロエの船が在った場所には、残骸が散らばるだけだったから。
自分はこうして戻ったけれども、シロエは二度と戻りはしない。
皮肉に満ちた彼の言葉も、この耳にけして届きはしない。
(…ピーターパンの本を抱えた時の…)
あどけない子供のようだった顔も、もう見ることは叶わない。
魂ごと宇宙(そら)へと飛び立った者は、別の世界の住人だから。
いつか自分が其処へ逝くまで、行き方さえも分からないから。
(……シロエは自由に……)
なれたのだろうか、彼の望み通りに?
機械の言いなりになって生きる人生、意味などは無いとシロエは言った。
それならば彼は、自分の望みを叶えたろうか。
生きる意味の無い生を終わらせ、果ても見えぬ空へ飛び去ったから。
漆黒の宇宙の向こうにはきっと、まだ見ぬ空があるのだろう。
テラフォーミングされた星の空やら、母なる地球を取り巻く空や。
昼には光で青く染まって、夜は宇宙の色になる空。
そういった空より、もっと自由で果ての無い空。
シロエは其処へと行ったのだろう、生ある者には持ち得ない翼、それを広げて。
きっと誰よりも自由に羽ばたき、何処までも飛んでゆける世界へ。
…そんな気がする、彼は勝ったと。
真の自由を勝ち取ったのだと、誰も彼を追えはしないのだと。
そう思うけれど、シロエの勝ちだと感じるけれど。
これは自分の逃げなのだろうか、シロエを殺してしまったから。
連れ帰る代わりに船ごと撃って、この世から消してしまったから。
(…シロエが自由になれたのなら…)
それがシロエの意志だったならば、悔やむことなど何一つ無い。
シロエは自分を利用しただけ、撃たせて空へと飛び去っただけ。
そう思ったなら、楽になれるから。
レーザー砲を撃った罪の手、その手を真っ赤に染めた血潮も流れ去るから。
だからそちらへ向かうのだろうか、自分の思いは?
あれはシロエが選んだ道だと、自分はそれを助けたのだと。
何も罪など犯していないと、悔やまなくてもいいのだと。
(……卑怯者め……)
認めたくないのか、己の罪を。
罪だと心に刻み付けつつ、まだ逃げようと足掻くのか。
自分は何もやっていないと、ただ従っただけに過ぎないと。
シロエの意志に、マザー・イライザの命令に。
全てはそうしたことの結果で、シロエも、マザー・イライザも勝った。
シロエはマザー・イライザに。
自らを捨てて、自由な道へ。
マザー・イライザも勝ちを収めた、シロエという反逆者を消して。
…自分は彼らに使われただけで、いいように使い捨てられただけ。
一人きりで消えない罪を抱えて、この左手を血染めにされて。
その通りだと認められたら、思い込むことが出来たなら。
どれほど楽になれるのだろうか、せめてシロエのせいに出来たら。
彼を自由に飛ばせてやったと、鳥籠から出してやったのだと。
(鳥籠から出してやった途端に…)
鋭い爪に捕えられても、鷹にその身を引き裂かれても。
それでも鳥は本望だろうか、自由に焦がれた籠の中の鳥は。
一瞬だけ自由に羽ばたいた空を、永遠に駆けてゆくのだろうか。
引き千切られた羽根が血まみれになって、空の鳥籠の側に散らばり、鳥は消えても。
籠の中で空を夢見て歌った、その声が絶えてしまっても。
(……シロエ、お前は……)
本当にそれで良かったのか、と尋ねても返らない答え。
きっと永遠に分からないから、たとえシロエの勝ちだとしても…。
(…ぼくがシロエを殺したことは…)
存在さえも消し去り、葬ったことは、もう間違いなく罪なのだろう。
シロエの口から「違いますよ」と聞けないのなら。
彼が自分で此処に出て来て、心を解いてくれないのなら。
(……誰もシロエを知らなくても……)
このステーションに存在したこと、それさえ忘れてしまっていても。
自分がシロエを忘れないこと、きっとそれだけが出来る贖罪。
なんとも皮肉な話だけれども、自分だけが彼を覚えているから。
セキ・レイ・シロエを殺した自分が、彼の存在を消してしまった人間が。
(…一生、シロエを忘れないこと…)
たとえシロエが自分を利用したのだとしても。
果ての無い空へと飛んでゆくために、この肩を蹴って去ったとしても。
飛び去ったシロエを忘れないこと、自分の罪を背負ってゆくこと。
友に成り得た可能性さえ、シロエは秘めていたのだから。
一つピースが違っていたなら、きっと良き友だったのだろう。
サムやスウェナと一緒に笑って、四人でテーブルを囲みもして。
スウェナが去って行った後には、三人で。
卒業の時も、此処を出てゆく船の中から、窓に向かって手を振ったろう。
シロエの姿は遠すぎてどれか分からなくても、其処にいるだろう窓に向かって。
「先に行くから、また会おう」と。
いつか地球でと、その日を待っているからと。
本当にきっと、ほんの僅かなすれ違い。
それがシロエと自分とを分けて、隔ててしまって、置いてゆかれた。
シロエは自由な空へ飛び去り、自分に残されたものは罪の手。
友だったかもしれないシロエを、彼を乗せた船をこの手で撃った。
永遠に消えはしない烙印、左手に刻まれた罪の刻印。
誰の目にも、それは見えなくても。
セキ・レイ・シロエを知っている者、それさえ誰もいなくなっても。
(……忘れない……)
彼を生涯、忘れはしない、と誓った左手。
見る度にそれを思い出そうと、この手の罪をと睨んだ左手。
レーザー砲の照準を合わせ、発射ボタンを押したことを自分は知っているから。
他に知る者が誰もいなくても、自分の心は誤魔化せないから。
(…シロエが自由になったのだとしても…)
そう思うことを、けして自分に許しはしない。
自分が正しいことをしたと思うなど、それは逃げでしかないのだから。
シロエの口から「今まで知らなかったんですか?」と聞かない限りは、逃げでしかない。
「気付かなかったなんて、機械の申し子も大したことはないんですね」と。
「キース先輩も、その程度でしたか」と、あの笑い声がしない限りは。
そういう声が聞こえたならば、と思う自分がいる内は。
消えない罪の意識と後悔、明かせる相手もいないのが自分。
誰もシロエを知らないのだから、語っても意味を成さないこと。
(…サムに言っても…)
返る言葉はもう分かっている、サムの姿を見なくても。
きっと、あの時より酷い。
幼馴染だと聞いたミュウの少年、ジョミー・マーキス・シンのこと。
あんなに動揺したというのに、サムは覚えていなかった。
かつて語った幼馴染を、鮮明だった筈の姿を。
あれよりもずっと、空しい結果が自分を待っているのだろう。
「シロエを殺してしまったんだ」と打ち明けたなら。
サムはキョトンと目を見開いてから、「それ、誰だよ?」と尋ねるのだろう。
そんな名前は知らないと。
「きっと夢だぜ」と、「そういや、前にも変だったよな?」と。
訓練飛行の日を間違えていなかったか、と。
しっかりしろよと、あの笑顔で。
(……どうせ、そうなる……)
そうなるのだと分かっているから、今はサムにも会いたくはない。
夕食の時間も皆とずらした方がいい。
シロエはいないと思い知るから、またしても罪を負わされるから。
本当だったら食堂に一人、生徒は多い筈なのだから。
シロエが今もいたならば。
皆が名前を、姿を覚えていた頃ならば。
後にしよう、と思った食事。
サムにも会うまいと考えかけた夕食の時間。
けれども、心を不意に掠めていった声。
(…シナモンミルク…)
何度も食堂で耳にしていた、シロエがそれを頼むのを。
彼の好物だったのだろうか、意識し始めたら不思議なほどに聞いていたから…。
(……逃げないのならば……)
シロエを殺した己の罪を、一生、背負ってゆくのなら。
誰も分かってくれない苦しみ、それを生涯、負ってゆくなら…。
(…あれを頼むか…)
きっとサムなら、「何だよ、それ?」と驚いてトレイを見るだろうけれど。
「お前、コーヒーじゃなかったのかよ?」と、「どうしたんだよ?」と訊くだろうけれど。
(…ちょっと興味があっただけだ、と言えたなら…)
自分の罪をきちんと罪だと受け止められるし、シロエのことも忘れないだろう。
これを好んだ人を殺したと、友だったかもしれない者を、と。
一度も飲んだことのない味、それと一緒に。
どういう味かは分からないけれど、食堂であれを頼んでみよう。
かつてシロエがそうしたように。
何度も耳にしていたように。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」、それがシロエに捧げる挽歌。
自分はシロエを忘れないから。
これから食堂で初めて口にする味、それと一緒に心に刻む。
セキ・レイ・シロエ、自分が殺した少年の名を。
友に成り得た筈の少年、彼の姿を、死の瞬間まで自由に焦がれた鳥の名前を…。
飛び去った鳥に・了
※シロエの存在、誰もが忘れていましたからね…。キース以外は、もう全員が。
鳥籠から逃げた鳥の名前は「セキレイ」、そういうイメージ。日本語な上に野鳥ですけど。
(…ぼくって、嫌な奴だ…)
本当に嫌な奴だよね、とシロエが抱えた自分の膝。
E-1077の中の個室で、自分の部屋で。
灯りを控えめに落とした部屋。
其処のベッドで、まだ制服は着込んだままで。
着替えようかとも思ったけれども、此処での私服は与えられたもの。
自分の好みで選べるとはいえ、マザー・イライザが職員に託して寄越すもの。
制服とあまり変わりはしない。
どちらも機械が関わって来るし、此処に来る前とは全く違う。
これが故郷なら、母が選んでくれたのに。
「こんなのはどう?」と買って来てくれて、「似合うわね」と言ってくれたのに。
今は顔すら霞んでしまった、はっきりとは思い出せない母。
けれども、母が買ってくれた服、それは確かで間違いないこと。
此処では機械が寄越すのに。
制服も私服も、全て機械が人に命じて、部屋まで届けさせるのに。
だから大して変わらない。
制服だろうが、私服だろうが。
(……機械なんか……)
どれも嫌いだ、と憎くてたまらない機械。
マザー・イライザも嫌いだけれども、記憶を消してしまった機械。
「捨てなさい」と命じたテラズ・ナンバー・ファイブも、絶対に許しなどしない。
成人検査がどんなものかも、まるで知らなかった目覚めの日。
あの日を境に世界は変わって、子供時代も故郷も消えた。
大好きだった両親が暮らす、エネルゲイアに在った家。
其処から引き離されてしまって、何も残りはしなかった。
子供時代の記憶を奪われ、こんな所に放り込まれて。
エリート育成のためのステーション、E-1077に連れて来られて。
SD体制の要になる者、エリートたちを育てる最高学府。
それが此処だと聞かされたけれど、教えられても来たのだけれど。
(……来たくなかった……)
両親や故郷と引き換えにするだけの価値は、自分には見付けられないから。
同級生たちは「来られて良かった」と口にするけれど、故郷の方がいいと思うから。
機械に消されて、ぼんやりとなった記憶の中でも懐かしい故郷。
顔さえ思い出せなくなっても、会いたい気持ちが募る両親。
あのまま故郷で暮らしたかった。
エリートなどにはなれなくても。…地球に行く道が閉ざされても。
(…ネバーランドだけで良かったのに…)
幼い頃から夢に見た国、子供が子供でいられる世界。
辿り着くことは叶わなくても、ずっと夢見ていたかった。
…こんな現実が来るのなら。
機械に記憶を消された上に、監視される世界に来るくらいなら。
(…一生、辿り着けないままでも…)
ピーターパンと一緒に空を飛ぶ夢、それを持ち続けていたかった。
いつかはネバーランドへと。
ピーターパンが迎えに来たなら、高い空へと舞い上がるのだと。
(…二つ目の角を右に曲がって…)
後は朝までずっと真っ直ぐ。
そうすれば行けるのがネバーランドで、行き方だけが残った手元。
ピーターパンの本だけは持って来られたから。
今も膝の上に乗っているから、膝を抱えれば抱き込めるから。
「此処にあるよ」と、大切な本を。
両親に貰った宝物の本を、此処まで一緒に来てくれた本を。
たった一冊の、古ぼけた本。
それしか残ってくれはしなくて、それを頼りに思い出す故郷。
この本を家で読んだ筈だと、両親だっていたのだと。
何もかも全部本当のことで、けして幻ではなかったのだと。
…二度と戻れはしない過去でも。
今の自分には戻れない場所で、手を伸ばすだけ無駄だとしても。
(…それを平気で手放すだなんて…)
どうして故郷を、家を手放せたのだろう。
「此処に来られて良かった」と言う者たちは。
自分と同じに此処へ来た者、エリートを目指す同級生は。
信じられない思いだけれども、上級生たちを見れば分かること。
「そちらの方が普通なのだ」と。
誰も過去にはこだわりが無くて、見ている先は未来だけ。
地球に行こうと、出来るものならメンバーズ・エリートに選ばれたいと。
輝かしい道を掴み取ろうと、きっといつかは手に入れようと。
…過去も故郷も、何もかも捨てて。
自分を育ててくれた養父母、その記憶さえも捨ててしまって。
(みんな機械の言いなりになって…)
監視されていても、命令されても、誰も不思議に思いはしない。
相手はコンピューターなのに。
人間ではなくて、ただの機械の塊なのに。
(…機械は答えを弾き出すだけ…)
プログラム通りに計算するだけ、その通りに思考してゆくだけ。
人間のように生きていないし、感情などもあるわけがない。
なのに、誰もが懐いてゆく。
まるで本物の、生きた母親がいるかのように。
自分を育てた親の代わりに、マザー・イライザが現れたように。
そうなってゆく者を何人も見たし、こうする間にも増えてゆく。
一人、また一人と増えてゆくのが「マザー牧場の羊」たち。
いつから彼らをそう呼んでいたか、呼び始めたかは忘れたけれど。
それは些細なことだけれども、自分は混ざれない羊たちの群れ。
マザー・イライザが、機械が与える牧草などは食べられないから。
とても口には合わないから。
口に合うどころか、自分にとっては毒草と言ってもいいくらい。
一度食べたら、きっと全身が麻痺してしまう。
心も身体も損ねてしまって、きっと自分はいなくなる。
他の者たちと全く同じに、マザー牧場の羊になって。
両親も故郷も捨ててしまって、マザー・イライザの望み通りの羊。
なまじ成績がいいものだから、それは素晴らしいメンバーズ。
そんな存在、自分でも気付かない内に。
ピーターパンの本も、両親のことも、故郷もいつしか忘れ果てて。
(……そんなの、嫌だ……)
絶対になってたまるものか、と噛んだ唇。
同級生たちのようになりはしないと、何としてでも踏み止まろうと。
たとえ誰もに背を向けられても、孤立してゆくだけであっても。
…とうに、そうなり始めているから。
彼らと同じに歩けはしなくて、行く先々で衝突だから。
(…みんなと同じに考えるなんて…)
出来はしないし、やりたくもない。
皆が等しく仲間だろうが、そうだと教えられようが。
手を取り合えと、全ての者たちが「地球の子」なのだと、背を押されようが。
(…ぼくには、とても出来っこない…)
皆と同じに生き始めたなら、破滅するしかないのだから。
機械が与える毒の牧草、それを食べたら、自分は消えてしまうのだから。
嫌だ、と抱え込んだ膝。…丸めた背中。
「ぼくは同じになれやしない」と。
どんなに孤独で独りぼっちでも、自分を失くしたくはない。
マザー牧場の羊は御免で、選ぶのは皆と逆の生き方。
機械が「右へ」と命じるのならば、左へと。
「手を取り合いなさい」と促すのならば、手を振り払う方向へ。
そうしていないと、流されるから。
自分でも全く気付かない間に、毒の牧草を食べてしまうから。
(…それが機械のやり口なんだ…)
成人検査で思い知らされた、機械の手口。
何も知らなかった自分を捕えて、消してしまった記憶と故郷。…かけがえのない両親さえも。
たった一冊の本を残して、消えてしまった本当のこと。
エネルゲイアで生きていた子供、あそこで育ったセキ・レイ・シロエ。
だから機械は、これからもやる。
自分が隙を見せたなら。
マザー牧場の羊たちと一緒に、餌場に姿を現したなら。
言葉巧みに誘い出すのか、無理やりに口を開けさせるのか。
どちらにしたって、毒の牧草を食べさせられることだろう。
…全てを忘れ去らせるために。
とびきり上等のマザー牧場の羊、メンバーズ・エリートになれる羊を作り出すために。
(…一緒に行ったら、おしまいなんだ…)
羊になってしまった者と。
いつか羊になるだろう者や、半分羊になっている者。
そんな者たちと一緒にいたなら、きっと自分も羊にされる。
「丁度いい」と機械に捕まえられて。
機械の手下の羊飼いたち、彼らに餌を食べさせられて。
(絶対に嫌だ…)
ぼくは羊になんかならない、と抱える膝。
両親のことを忘れはしないし、育った家も、懐かしい故郷も忘れない。
ピーターパンの本を抱えて、このまま取り残されたって。
上等な羊になり損なって、マザー・イライザに嫌われたって。
(…羊になりたくなかったら…)
けして餌場に近付かないこと。
「一緒に行こう」と誘う者たち、餌場に行く仲間を作らないこと。
油断したなら終わりだから。
誘った仲間に悪気が無くても、結果が全てなのだから。
「いいよ」と一緒に出掛けたが最後、「シロエ」はいなくなるかもしれない。
両親が、故郷が、ピーターパンの本が大切だった、今のシロエは。
何もかも全部捨ててしまった、別のシロエになるかもしれない。
毒の牧草を食べたなら。
知らずにウッカリ食べてしまうとか、餌場で無理やり喉の奥へと突っ込まれて。
(そんなの、嫌だよ…)
自分がいなくなるなんて。
…別の自分になってしまって、両親も故郷も忘れるなんて。
その方が正しい道だとしたって、楽に歩いてゆくことの出来る道だって…。
(…ぼくは行かない…)
羊たちと一緒に行きたくないから、振り払うしかない仲間。
「みんな嫌いだ」という顔をして。
友達なんか要りはしないと、欲しいと思っていやしない、と。
羊と一緒にいたら終わりで、いつか餌場に行くだろうから。
自分でもそれと気付かないままで、毒の牧草を食べる日が来てしまうから。
分かっているから、振り払う。
同級生たちは悪くなくても。
マザー・イライザに、機械に騙されただけの、ただの善良な羊でも。
(…ぼくを餌場に誘うから…)
誘いそうだから、嫌いなふりをするしかない。
「いい奴なんだ」と分かっていても。
懐かしい故郷にいた頃だったら、友達になれたような者でも。
羊と一緒に過ごしていたなら、きっと訪れる破滅の時。
それを避けるには嫌うしかなくて、端から払いのけるしかない。
「嫌な奴だ」と思われても。
…「なんて奴だ」と嫌われても。
自分でも「嫌な奴だ」と思うけれども、そうしないと身を守れない。
毒の牧草から逃げられない。
(……パパ、ママ……)
ぼくはみんなに嫌われてるよ、と零れる涙。
きっとパパたちもビックリだよねと、「シロエはこんな子じゃない」と。
けれど他には道が無いから、今は鎧を身に纏うだけ。
羊たちに近付かないように。
一緒に餌場に出掛けないように、独りぼっちで立ち続けて…。
身を守る鎧・了
※子供時代は可愛かったシロエが、生意気なシロエになってしまった理由。
今でも中身は同じなのにね、というのを真面目に書いたら、こういう話になっちゃいました。
