(…機械仕掛けの冷たい操り人形…)
シロエは自分にそう言ったけれど。
「人の気持ちが分からない」と、「分からないから怖くて逃げているだけなんだ」と。
まさかシロエが言った通りに、この肌の下が冷たい機械で出来ているなど…。
(有り得ないんだ)
そんなことは、とキースは呟く。自分の部屋で、心の中で。
シロエの言葉に掻き乱された心、カッとなった怒り。
思わずシロエを殴った一発、繰り出した拳は確かに自分のものだったから。
ただ…。
(あの切れ味…)
中途半端な一撃だったのに、ナイフのように思えた切れ味。
それが恐ろしいような気がする、自分はいったい何者なのかと。
(…機械でも怒るんだ、と…)
皮肉っぽく聞こえたシロエの声。
あの時は自分に手を上げさせたシロエの意志の強さに、思わず飲まれていたけれど。
こうして部屋で思い返せば、忍び寄って来る自分への恐れ。それから恐怖。
何故なら、機械も怒るのだから。
そのことを自分は知っているから。
ステーションの皆が恐れるコール。マザー・イライザからの呼び出し。
恐れられる理由は、コールされたら叱られるから。
成績不良や、素行などで。
(叱るのも、怒りも…)
何処か似ている、考えれば分かる。
シロエと初めて出会った時には、自分もシロエを叱ったから。
下級生たちの争い事を収めるために、その場にいた者を纏めて叱った。
(もしも、彼らが逆らっていたら…)
今日のように手を上げることはなくても、怒鳴っただろう。
怒鳴ったならば、それは怒りへの第一歩。
(マザー・イライザも…)
同じように怒るのかもしれない。
コールされた者が、まるで反省しなければ。
繰り返しコールをすることになれば、声を荒らげて、きつい表情で。
(…ぼくが見たことが無いだけで…)
そういうマザー・イライザに出会った者も、少なくないのかもしれない。
皆がコールを恐れるからには、叱ることから、怒りへと進むことだってあるに違いない。
つまり、機械も怒るということ。
シロエが言っていたように。面白そうに、嘲りの笑みで。
機械も人と同じに怒る。怒ることは出来る。
ならば自分も、機械仕掛けで…。
(…今、こうやって考えているのも…)
人間が持つ頭脳ではなくて、人工知能の仕業だろうか?
マザー・イライザさながらに機械、良く出来たアンドロイドが自分の正体だろうか…?
(…それは有り得ない…)
有り得ないと思う、握った手首を流れてゆく血。
心臓から送り出された血液、それが打つ脈。
規則正しく脈打つ心臓、アンドロイドにそこまで凝った仕掛けをするわけがない。
(…気のせいだ…)
こんな風に乱れてしまう感情、それも機械には無いだろうから。
怒ったとしても、機械だったら即座に修正するだろうから。
次の段階に向けて計算し直し、きっと元通りに直すのだろうプログラム。
そうでなくては意味を成さない機械。
マザー・イライザが怒ったままでは、このステーションは立ちゆかない。
だから自分が同じ機械なら、シロエに乱された感情だって…。
(…とうに修正されている筈…)
そして落ち着いた自分がいる筈。
自分が恐れるナイフのようだった切れ味の拳、あれは訓練の賜物だろう。
中途半端に放った一撃、それが優れていただけのこと。
(何もかも、気のせい…)
機械仕掛けの心だったら、乱れたままなど有り得ないから。
ようやく緩んだ、自分への恐怖。
人であるなら、それでいい。
過去の記憶を持っていなくても、「機械の申し子」と嘲られても。
二度とシロエの手には乗るまい、どんな攻撃を仕掛けられても。
乱れ、落ち着かなかった感情。
そんなものは二度と御免だから。
負の感情を抱いて生きてゆくのは、愚の骨頂というものだから。
自分で答えを出した後には一晩眠って、すっきりしたつもりだったのだけれど。
講義のためにと出掛けて行ったら、不意に耳へと飛び込んだ声。
「おいっ!」
「サム?」
声に釣られて向けた顔。其処にサムがいて、サムだけではなくて。
「元気でチューかぁ? …って」
ヒョコッと自分に頭を下げた、サムが持っているぬいぐるみ。
「聞くだけ野暮か」と、ぬいぐるみを投げ上げてオモチャにするサム。
「宇宙の珍獣シリーズ、ナキネズミ。癒し系グッズのレア物だぜ?」とも紹介された。
サムは心配してくれたらしい、自分のことを。
昨日の事件で落ち込んでいないか、大丈夫かと。
サムらしいな、と思った励まし。
それを嬉しく思う心も、機械は持っていないだろう。…きっと。
(機械だったら、計算して、直ぐに適した答えを…)
サムに返すのだろうから。
なんと答えればいいのだろう、と見ていただけの自分と違って。
ホッとした所へ、響いたコール。
マザー・イライザからの呼び出し。
立ち上がり、教室を出ようとしたのを「キース!」と後ろから呼び止めたサム。
用があるのかと振り返ってみたら、「グッドラック!」と投げて寄越したぬいぐるみ。
癒し系グッズのレア物がポンと飛んで来たから、受け取った。
これもまた、サムの励ましだから。
「元気出せよ」と。
イライザのコールは怒りではなくて、叱られたというわけでもなくて。
むしろ褒められ、途惑ったほど。
ナキネズミのぬいぐるみを持っていたことも、何も言われはしなかった。
「そういう物は持たずに来なさい」とも、「あなたらしくもないですね」とも。
コールで少し疲れたけれども、きっとサムが食堂辺りで待っているから。
(…行ってこないと…)
とはいえ、ナキネズミのぬいぐるみ。
これを持ったまま歩き回るのも変な話だ、とサムに返すのは後でと決めた。
そうしておいて良かったと思う。
食堂で他の生徒が「お前のマザーは誰に似ているんだ?」などと、絡んで来たから。
あんなロクでもない連中にかかれば、サムの心遣いのナキネズミだって…。
きっと値打ちが下がるから。
からかいの種にされてしまって。
サムと二人で食堂を出た後、「今朝のアレ…」と詫びたナキネズミ。
部屋に置いて来たから、明日、返すと。
そうしたら…。
「やるよ、お前に。…元気でチューか、って言ったぜ、俺」
それにさ、グッドラックって渡しちまったし…。お前のだよ、アレは。
もうお前のだ、とサムは笑っているのだけれど。
「いや、しかし…。レア物だろう?」
貰うわけには、と断った。
お返しになりそうな物も無いから、と繰り返す自分は困った顔に見えたのだろうか。
「そういうことなら…」と、ニッと親指を立てたサム。
「だったら、こういうことにしようぜ。貸しってことで」
「貸し…?」
「そう、貸し! いつか俺がさ、元気を失くすようなことがあったら…」
アレ、その時に返してくれよ。「元気でチューか?」って。
でもよ、俺はいつでも元気だからさ…。
そんな日、来ねえと思うけどな?
(…元気でチューか、か…)
確かにそんな日は来そうにないな、と部屋で眺めたぬいぐるみ。
きっとサムには返せないまま、卒業することになるのだろう。
(このぬいぐるみをシロエが見ても…)
それでも彼は言うのだろうか?
「機械仕掛けの冷たい操り人形」だと。
ぬいぐるみを持って、「元気でチューか?」と自分がやってみせたとしても。
(…それもプログラムで出来るんですよ、と笑いそうだが…)
きっと自分は機械ではない、今は心が温かいから。
サムに貰ったぬいぐるみ。
此処を卒業してゆく時には、きっと荷物に入れるから。
機械だったら、きっと余計な物は持たずに行くだろうから。
(お前と一緒に卒業らしいな?)
相棒が出来てしまったようだ、とチョンとぬいぐるみをつついてみる。
サムにはきっと、返せないまま。
「元気でチューか?」とサムを励ます日などは、きっと来ないから。
けれど来たなら、頑張ってみよう。
プログラム通りにやるのではなくて、人間らしく。
精一杯の励ましをこめて、サムに向かって「元気でチューか?」と…。
友の励まし・了
※キースがやってた「元気でチューか?」を思い浮かべたら、こういう話になったオチ。
あの芸をサムに披露するまで、ぬいぐるみを律儀に持ってたんだよ、と。
(…記憶が無い…?)
それをシロエが耳にしたのは、ほんの偶然。
休み時間に故郷のデータを眺めていた時、聞こえて来たキースの噂話。
成人検査よりも前の記憶が無いという。
「機械の申し子」と呼ばれる彼には。
一瞬、よぎった憤り。
自分はこうして、懸命に記憶を繋ぎ止めようともがいているのに。
成人検査で消された上に、遠ざかり薄れてゆく記憶。
まるで自分が…。
(…最初からいなかったみたいに…)
故郷には、エネルゲイアには。
教育ステーションから全てが始まったかのように、一つ、また一つと記憶が消えて。
ピーターパンの本が無ければ、とうに壊れていたかもしれない。
自分の心は、耐えきれなくて。
両親に買って貰ったお気に入りの本、「これだけは」と大切に持って来た本。
あれがあるから、「確かに故郷にいた」と思える。
ピーターパンの本と一緒にエネルゲイアに、両親の側に。
(…他のみんなは馴染んでいくのに…)
どうしても馴染めない、異質な自分。
手から零れる砂粒のように消えてゆく記憶、それが欲しくて。
どんなに勉強に打ち込んでみても、好成績を叩き出しても、少しも満足出来ない自分。
(知識なんかは要らないから…)
失くした記憶を返して欲しい。
それと引き換えに最下位になって、エリートの道から放り出されても。
一般人向けのステーションへと、放校処分になったとしても。
けれど、叶いはしない夢。
逃げ場所は無くて、成績だけが上がり続けて。
代わりに失くしてゆく記憶。
昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな具合に、一つ、二つと。
それが辛くて、ただ悲しくて。
いっそ全てを忘れられたらと、苛立つことさえあるくらい。
それを望んではいないのに。…本当は忘れたくなどないのに。
(…なのに、あいつは…)
キースは持っていないという。
自分が必死に縋り付く過去を、戻りたいともがき続ける過去を。
なんと憎らしい奴だろう。
この苦しさを、悔しさを全く感じないキース。
記憶が無いなら、戻りたくなることはないから。
帰りたいとも、まるで思わずに済むのだから。
元から好きではなかったけれども、一層増したキースへの敵意。
自分とは逆の人間だから。
過去にしがみ付き、皆から外れてゆくだろう自分。
それとは全く逆なのがキース、何の苦労もしていないキース。
過去の記憶を持たないのならば、此処での道に何の疑問も無いだろうから。
(……あんな奴……)
幸福なキース、戻りたい過去を持たない人間。
あまりに憎くて、腹が立つから。
彼にも自分と同じ苦痛を味わわせたいと思う、出来ることなら。
過去を持たないなら、突き付けてやって。
キースが失くした大切な記憶、その欠片で心を抉ってやって。
(あいつだって、きっと…)
失くしたのだと気が付いたならば、衝撃を受けることだろう。
どうして自分は忘れたのかと、何も覚えていないのかと。
故郷のことやら、両親のこと。
お気に入りだった本だって。
(…忘れたんだ、って思い知ったら…)
自分の比ではないだろうと思う、キースが覚える喪失感は。
彼は何一つ持たないのだから。
「これを見ろ」と喉元に突き付けてやる、小さな記憶の欠片さえをも。
けれど、突き付けたそれは心を深く抉って、赤い血が噴き出すことだろう。
他の欠片は何処へ行ったかと、いったい何を失くしたのかと。
キースの心は千々に乱れて、その場で砕け散るかもしれない。
いつも自分が恐れている破滅、それに飲まれて。
自分が自分でなくなってゆく恐怖、それに心を食らい尽くされて。
憎らしいキース。
過去の記憶を持っていないらしい、幸福なキース。
彼が壊れてしまったならば、きっと爽快な気分だろう。
やはり自分は正しかったと、過去の記憶はとても大切なものなのだと。
持たない者の方が変だと、自分は間違っていないのだと。
(…此処の奴らも、マザー・イライザも…)
自分の記憶を奪ったテラズ・ナンバー・ファイブも、狂っている。
このシステムも、成人検査も、何もかもが。
それなのに、誰も指摘しないから。
気付きもしないで、記憶を持たないキースを皆が褒めるのだから。
(…ぼくがあいつを壊してやる…)
記憶の欠片を突き付けてやって。
鋭いそれで心を抉って、喉笛も一気に切り裂いてやって。
そう、悲鳴さえも上げられないように。
奈落の底へと叩き落とそう、キースが失くしたものの大きさを思い知らせて。
(キースの記憶…)
何でもいいから手掛かりを一つ、と立ち上げた画面。
自分の部屋で明かりを落として、呼び出したキースのパーソナルデータ。
(ナンバー、076223、キース・アニアン…)
出身地、トロイナス。
父、フル。母、ヘルマ。…生年月日、SD567年12月27日。
そして…、と辿るキースの情報。
どの船でいつ此処に着いたか、誰が一緒に乗っていたのか。
(…見ていろよ、キース…)
最初は欠片でなくてもいい。
ただの断片、それだけでいい。
繋ぎ合わせて、抉る刃を作り上げるから。
キースが失くした記憶の欠片を、キースの心を抉る刃を。
記憶を持たない幸福なキース、彼の澄ました顔を壊してやりたいから。
自分が味わった以上の苦しみ、それを与えてやりたいから。
記憶を失くしてゆくことの辛さ、悲しさ、それに悔しさ。
(キース・アニアン…)
喪失感に飲まれ、壊れるがいい。
お前がそうして澄ましている間に、なんとしても調べ上げるから。
失くしただろう過去の記憶を、きっと見付けて突き付けるから。
思い知るがいい、何を失くしたか。
記憶の欠片を突き付けてやって、お前を地獄に叩き落とすから…。
抉りたい心・了
※キースを陥れるつもりで、破滅への道を歩き出してしまったのがシロエ。
踏み出した瞬間はこんな感じだったのかも、と。勝つ気満々、やらなきゃいいのに…。
(E-1077…)
それが此処か、とキースは頷く。
長い通路を歩きながら。
(…マザー・イライザ…)
そう名乗った女性。
ただし、人ではなかったけれど。
教育ステーション、E-1077を統べるコンピューター。
けれど、何故だか気味が悪いとは思わなかった。
「そういうものか」と思っただけ。
だから言われるままに歩き始めた、この通路を。
新入生のためのガイダンスが行われると、教えられたホールに向かって。
此処が何処なのか、それは分かっているけれど。
宇宙港に到着して直ぐ、自分は倒れたらしいけれども。
何も不思議に思いはしないし、不安に思う気持ちも無い。
ガイダンスがあるホールへ、其処へ行かねばと、前へと進むだけのこと。
他には特に思いなどは無くて。
ホールに入って、ざわめく新入生たちを目にした時にも…。
(…あの場所がいいか)
そう思っただけ。
単に空いていて、見やすそうだと考えたから。
それだけのことで、特に無い理由。
そして始まったガイダンス。
何の感慨もなく見ていたけれども、不意に懐かしく感じたもの。
暗い水の中、湧き上がった気泡。
それに心を掴まれた気がする、何故か、一瞬。
(水…?)
何故、と思う間もなく、その向こうから現れた胎児。
後は子供たちの育成に関する説明に変わり、懐かしむ声がホールに上がった。
「赤ちゃん…!」と。
「お父さん、お母さん…」と、「パパ」と。
意味は分かるけれど、何の興味も湧かない言葉。
けれど、新入生たちは…。
(…こちらの方が懐かしいのか…?)
不思議だと思う、その感覚。
ガイダンスでは「血縁関係の無い家族」と、はっきり言っているのに。
(水ならば分かるが…)
地球は水の星らしいから。
人類が最初に生まれた星は、水に覆われていたらしいから。
だから自分も、それに反応したのだろう。
退治の映像が浮かぶよりも前、暗い水の中からゴボリと上がった泡の形に。
それが水だと気付いたから。
(…不思議だな…)
ホールに集まった新入生たち、彼らには本質というものが見えないのだろうか?
血縁関係の無い家族などより、水の方がずっと近しいのに。
地球も胎児も、水に覆われているものなのに。
「全ての者が等しく地球の子なのだ」と、ガイダンスの声も言っているのに。
なんとも分からない、他の者たちの奇妙な思考。
水よりも、血縁関係の無い家族。
それに惹かれるらしい者たち。
とはいえ、ガイダンスは上手い具合に出来ていると思う。
水よりも家族がいいらしい者たち、彼らの心を捉えたから。
「なるほど…。こうして地球への慕情を抱かせ、自分の果たすべき役割を…」
認識させるわけか、と納得した中身。
自分にはピンと来なかったけれど。
何処か違和感を覚えるけれど。
(…水の方が、ずっと…)
地球にも人にも近しいと思う、そのせいだろうか。
まるで感銘を受けなかったのは。
手を取り合う仲間、それを探そうとも思わないのは。
もっとも、わざわざ探さなくても…。
(サム・ヒューストンと言っていたな?)
自分に声を掛けて来た者。
丁度いいから、と手を差し出した。
「キース・アニアンだ」と。
「あ、ああ…!」
握り返して来たサム・ヒューストン。
ステーションでの第一歩は、上手く踏み出せたのだろう。
感じ方は皆と違うけれども、上々の出来。
惹かれるものが水か、家族か、それだけの違い。
…多分、きっと。
ガイダンスの後で、サムと別れて向かった部屋。
宇宙港で倒れた自分は、まだ自分の部屋を一度も見てはいなかったけれど。
(…これを好きなように変えられるのか…)
ベッドの隣に設けられた壁。
スイッチ一つで、どのようにでも。
用意されているものが気に入らないなら、他のデータを探してもいい。
(壁のままでも、かまわないんだが…)
元は壁だし、と順に切り替えていった映像。
それが水槽に変わった瞬間、引き込まれた。
シルエットの魚が何匹か泳ぐ、ただそれだけのものだけれども。
(……水か……)
何故か惹かれる、あの時のように。
ガイダンスで目にした、胎児よりも惹かれた水のように。
これに決めた、と選んだ映像。
懐かしく感じる水槽と魚。
きっと魂の記憶なのだろう、人は水から生まれたから。
水の星、地球が人間を創り出したから。
(…家族は少しもピンと来ないが…)
水は好きだ、と幻のそれに手を伸ばしてみる。
何処かでこうしていたように思う、そんな筈など無いのだけれど。
けれど懐かしい、水というものが。
家族などより、この水の方が。
(…いいものだな…)
まるで吸い込まれるような気がする心地良さ。
胎児の頃の記憶なのかと思うくらいに、水に惹かれている自分。
ステーションで暮らす間は、ずっとこの水と過ごしてゆこうか。
水槽と魚、それが一番安らぐから。
何故か惹かれて、その中でずっと生きていたのだと、そんな気持ちまで抱かせるから…。
水の記憶・了
※シロエが「殺風景な部屋ですね」と評したキースの部屋。「へ?」と首を傾げていた自分。
水槽ってトコがキースらしいと思ったんですけど…。シロエ、気付かなかったんですか?
(二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで…)
ずうっと真っ直ぐ。
真っ直ぐ、とシロエは心で繰り返すけれど。
(…まただ……)
また行けやしない、と睨んだコンパス。
円を描くための道具ではなくて、方位磁針の。
それも初期型、磁石を使っただけのもの。
教育ステーションに連れて来られて間もない頃に自分で作った。
これが必要だと思ったから。
コンパスが無いと、見失ってしまいそうだったから。
真っ直ぐに歩いてゆきたいのに。
ネバーランドに続いている道、それを自分は探しているのに。
いつも真っ直ぐ行けはしなくて、気付けば他所へと向いている針。
今日こそは、と決めて歩き出しても。
どんなに真っ直ぐ行こうとしても。
(…パパ、ママ……)
真っ直ぐに歩けないんだよ、と叫び出したくなるけれど。
涙が零れて落ちそうだけれど、それをしたなら…。
(……また呼ばれる……)
ステーションの中を歩く時には、けして外してはならない装置。
手首に嵌まった、マザー・イライザと繋がるそれ。
何処かで見ているマザー・イライザ、不安定な者を呼び出すために。
ツーッと鳴ったら、イライザのコール。
拒むことなど出来はしなくて、入るしかないイライザの居場所。
大抵の者は恐れるけれども、それは自身の評価でのこと。
コールを受ければ評価が下がると噂されるから、皆が怖がる。
けれど、自分が其処を嫌うのは…。
皆とは違う、と噛んだ唇。
今日も呼び出されてしまったから。
母の姿を真似る機械に、忌まわしいマザー・イライザに。
大理石のホールに見える空間、中央の女神を思わせる像。
初めて其処へ呼ばれた時には、マザー・イライザがそれだと思った。
なのに現れた、懐かしい母に似ている誰か。
マザー・イライザと名乗ったそれ。
(…あの時から、ずっと…)
変わらない姿のマザー・イライザ。
母を真似ては、自分の心を覗き見る機械。
「お眠りなさい」と導かれる眠り、それに抗うことは出来ない。
目覚めた時には、一瞬、心が軽いのだけれど。
気が晴れたように思うのだけれど…。
いつだったろうか、心が軽いと思う理由に気付かされた日は。
心から何かが消えていった分、軽くなるのだと気が付いた日は。
(……今日だって……)
きっと何かを失くしてしまった、それが何かは分からないけれど。
何を失くしたか分かるのだったら、幾らか救いはあるのだけれど。
(…分からないよ、ママ…)
パパ、と見詰める小さなコンパス。
今日も真っ直ぐ行けはしなくて、ネバーランドがまた遠くなる。
真っ直ぐ歩いてゆきたいのに。
二つ目の角を右へ曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
たったそれだけで、ネバーランドに行けるのに。
朝まで真っ直ぐ歩きたいのに。
此処のせいだ、と悔しい思いで睨み付ける針。
南と北とを指す筈の磁石、それは役立たないかもしれない。
宇宙に浮かんだステーションだと、北も南も無いだろうから。
人工的に作り出されている磁場、磁石はそれを指すだろうから。
(それに、真っ直ぐ…)
行けやしない、と握ったコンパス。
たとえコンパスが正しいとしても、ステーションの中で真っ直ぐに行けば…。
(……元の所に……)
ぐるりと回って帰り着くだけ、ステーションは円を描いているから。
どんなに真っ直ぐ歩いたとしても、円を描いて戻るだけだから。
今日も行けずに、無駄に一周させられただけ。
朝まで真っ直ぐ歩く代わりに、元の場所へと戻っただけ。
ネバーランドに行けはしなくて、探し物さえ見付からなかった。
コールされたせいで失くしてしまった、きっと大切だったろう何か。
それが何かも思い出せない、けれど確かに何かを失くした。
コールで心が晴れた分だけ、軽くなったと感じた分だけ。
(ママ、パパ…)
教えて、と心で泣きながら歩く。
顔に出したら、コールサインが鳴り響くから。
マザー・イライザの部屋に呼ばれて、また大切な物を失くしてしまうから。
(…ママ、パパ…。教えて、ぼくに教えて…)
何を失くしたのか、奪われたのか。
機械が心から何を消したか、それが知りたくて歩くのに。
二つ目の角を右に曲がって、後は朝までずうっと真っ直ぐ。
そうやって歩き続けてゆくのに、ぐるりと回って元の所へ戻ってしまう。
ネバーランドには辿り着けなくて、失くしてしまった何かも見付け出せなくて。
真っ直ぐに歩いてゆけはしないと教えるコンパス。
また真っ直ぐから外れていった、と磁石の針が知らせてくれる。
悲しいけれども、微かに残った希望も示してくれるコンパス。
いつか真っ直ぐ歩けた時には、ネバーランドに行けるだろうと。
そんな奇跡が起こるなら。
円を描いて歩くしかない此処で、真っ直ぐに行ける時が来たなら。
(…二つ目の角を右に曲がって…)
後は朝までずうっと真っ直ぐ、とコンパスを握ってまた歩いてゆく。
そうすれば記憶が戻って来るかと、コールで失くした大切な物を取り戻せるかと。
(…パパ、ママ……)
教えて、と心に零れ落ちる涙。
今日のぼくは何を失くしたろうかと、どうすればそれは戻って来るかと。
(後は朝まで…)
ずうっと真っ直ぐ、と見詰め続けるコンパスの針。
ステーションに来て直ぐ、これが要るからと作ったコンパス。
誰が自分に教えてくれたか、それさえも今は思い出せない。このコンパスの作り方。
(…ママ、パパ…)
何を失くしたか、ぼくに教えて。
マザー・イライザが何をぼくから奪って行ったか、ぼくに教えて。
後は朝まで、真っ直ぐ歩いてゆきたいのに。
歩けないよ、と泣き濡れる心。
コンパスの針を見ながら、真っ直ぐ。
それが出来ないと、どう歩いても円を描いて戻ってしまうと。
(……後は朝まで……)
ずうっと真っ直ぐ、と歩き続ける、コンパスを持って。
その作り方を幼かった日に教えた父さえ、それさえも思い出せないままで…。
後は真っ直ぐ・了
※シロエは機械いじりが得意だったよな、と思った所までは、多分間違っていなかった筈。
お父さんは機械のプロだったよな、とも考えたのに…。なんか色々とスミマセン。
「セキ・レイ・シロエ。…お捨てなさい」
過去を忘れておしまいなさい、と追ってくる声。
懸命に走って逃げているのに、遠ざかってはくれない声。
「ママ、パパ…!」
助けて、と幼いシロエは走り続ける。
けれど勝てない、子供の足では。
「助けてーっ!」
嫌だ、と悲鳴を上げる間もなく巻き込まれた渦。
一つ、二つと消えてゆく記憶、大切なものが消されてゆく。
いくら暴れても泣き叫んでも、浮かび上がった記憶は次から次へと。
指の間から零れ落ちる砂、手から溢れて流れ落ちる水。
そんな風に端から奪われる記憶、それを捕まえたと思うよりも前に。
「ママ…!」
誰を呼んだら助かるのだろう、その名を自分は知っていたのに。
それさえも思い出せない自分は、こうして捕まり、失くしたくない過去を、大事な記憶を…。
声にならない絶叫の内に、いつしか成長していた身体。
幼い自分は消えてしまって、着ているエリート候補生の服。
(……ぼくは……)
こんなものになどなりたくなかった、幼い姿のままで良かった。
地球へ行けなくてもかまわないから。
ネバーランドより素敵だという、青い星など要らないから。
その星を夢見たままで良かった、子供は行けない場所が地球なら。
両親や、家や、育った町と引き換えなければ、手に入らないような夢の星なら。
どうして気付かなかったのだろうか、馬鹿な自分は。
あの日、素直に家を出たのか、ピーターパンの本だけを詰めた鞄を提げて。
「さよなら」と別れを告げた両親、二度と会えないとは思わなかった。
いつか地球へと旅立つ時には、また会えるのだと信じていた。
立派な大人になったなら。
「ただいま」と育った家に帰って、自分の姿を見て貰える日が訪れたなら。
なのに、自分は失くしてしまった。
大切なものを、両親も家も、育った町で築いたものを。
これが自分だと思う全てを、今の自分を作り上げたものを。
こんな育った自分は要らない。
エリート候補生の服も要らない。
何一つ欲しいと思わないから、消した記憶を返して欲しい。
だから「返せ」と叫んでいるのに、「嫌だ」ともがき続けているのに。
「お捨てなさい」と前へと回り込んだ機械。
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
「嫌だーっ!」
放せ、と振り回した腕に何かが触れた。
左の腕から注ぎ込まれた、優しくて穏やかで心地良いもの。
(……何……?)
それが何かは分からないけれど、誰かが自分に力をくれた。
戦うには少し足りないけれども、逃れようとする自分に導きを。
(…誰……?)
誰だったろうか、自分を助ける力を持っていた人は。
その名を思い出せない人は。
(……ぼくは……)
まだ忘れてはいない筈だと思いたいのに、呼べない名前。
割れそうに痛み続ける頭を撫でるかのように、額にヒヤリと冷たい優しさ。
(ママ…?)
きっとママだ、と湧き上がった希望。
大丈夫。…まだ母のことは覚えているから。
顔は忘れてしまったけれども、柔らかかった手は忘れないから。
(…パパだったんだ…)
額を冷やしてくれている手が、母ならば。
それならば、さっき導く力を腕に注いでくれた人。
あれは懐かしい父なのだろう。
幼い自分を高く抱き上げ、くるくると回ってくれていた父。
きっと父が来て、腕に力を注いでくれた。
母がいて、それに父もいてくれて…。
(…ママ…。パパ……)
いつしか消えていた頭痛。
いなくなっていた、テラズ・ナンバー・ファイブ。
もう大丈夫、母と父が助けに来てくれたから。
怖い機械を追い払ってくれて、力も、優しい手もくれたから。
(…ママ、パパ…。ぼく、もう大丈夫だよ…)
大丈夫、とスウッと眠りに落ちてゆく意識。
母も父もいてくれるのだから。
身体はすっかり楽になったし、額には母の柔らかい手もあるのだから…。
そうして眠って、眠り続けて。
ぽかりと瞳を開けた時には、其処は見知らぬ部屋だった。
(ママ、パパ…!?)
何処、と慌てて飛び起きたベッド。
明かりが落とされた暗い部屋。
両親を探し求める瞳に、映ったピーターパンの本。
(ぼくの本…!)
急いでそれをギュッと抱き締めた、大切な宝物だから。
両親に貰った大切な本で、別れることなど出来はしないから。
(…良かった…)
あった、と瞳を閉じて、微笑んで。
本の感触を確かめた後で、開いた瞳。
両親は何処へ行ったのだろう、と。
けれど…。
暗い部屋の中、母かと思った人影。
父は身体が大きかったから、その細い影はきっと母だ、と。
(…ママ…)
そう思ったのに、母は其処にはいてくれなくて。
信じられない思いで見詰めた、まるで思いもよらない人間を。
(…キース……!)
額から消えてしまった母の手。
優しい母の手ではなかった、額に貼られた冷却シート。
忌々しいそれを不快感のままに毟り取る。
よくもと、よくも騙してくれたと。
見ればテーブルに、シートの袋と注射器が入った医療キット。
それでは腕から貰った力も…。
(…パパじゃなかった…)
愕然とするしかなかった事実。
最初から母も父もいなくて、助けに来てくれたと思った力と、柔らかな手は…。
「…お前が……」
そんな、とキースを睨んだ。
余計なことをと、お前が懐かしい母と父のふりをしたのかと。
「何故だ、何故…!」
それでは本を抱き締めた姿、あれもキースは見ていたのだろう。
腹立たしさを叩き付けた言葉に、「何をした?」と返して来たキース。
「追われているのだろう?」と。
「…知ってて助けた?」
それも余計だ、と振り払いたくなる母と父とを侮辱したキース。
たかが注射と冷却シートで踏み躙ってくれた、母と父との優しい思い出。
だから皮肉な笑みを浮かべた、「…いいんですか?」と。
「マザー・イライザに叱られますよ」
消えろ、と怒りをぶつけているのに、立ち上がり、ベッドに近付いたキース。
「何故、マザーに逆らう。何故、そこまでする」と。
何処までも憎く、腹立たしい男。
機械の申し子、キース・アニアン。
その正体はもう、知っているけれど。
マザー・イライザが創った人形。
それが自分を救うだなんて、と噴き上げてくる八つ当たりじみた感情と怒り。
おまけに見られた、ピーターパンの本を抱き締めるのを。
大切な本と自分の絆までをも、目の前のキースが盗み見てくれた。
人間ですらもないくせに。
機械が作った人形のくせに。
ぶつけられずにいられない怒り、やり場がないから憎まれ口を叩く。
「…あなたらしい殺風景な部屋ですね。息が詰まりそうだ」
さあ、怒ってみろ。この前みたいに殴ってみろ。
なのに、挑発に乗らないキース。
「マザーに逆らうということは、地球に逆らうということだ」と。
そんな正論、聞きたくもない。
「…ぼくの服は?」
これ、あなたのでしょう。あなたの匂いがする。…嫌だ。
キースが着せたのだろうシャツ。
機械の申し子のためのシャツなど、おぞましいだけ。腹立たしいだけ。
さあ、怒れ、キース。
正義面して母と父とのふりをしたキース、お前は要らない。
ぼくの前から消えるがいい。
消えてしまえ、と引っ張ったシャツ。
(……ママ、パパ……)
ごめん、と心で詫びた優しい人たち。
ママやパパとキースを間違えるなんて、馬鹿だったよ、と。
(…ママとパパなら…)
助けて貰ったら嬉しいけれども、機械は憎いだけだから。
機械が作った人形のキース、それに助けられたらしい自分が、ただ不甲斐ないだけだから。
もうキースにはけして見せない、自分の中身は。
心を固く覆い隠して、ボロボロにされた身体を怒りと皮肉で厚く鎧って。
怒るがいい、キース。
お前の秘密は掴んだから。…お前は機械の申し子だから。
母も父も、成人検査も知らないキース。
お前などに心は見せないから。
ピーターパンの本に書かれた、夢の国への道順は決して教えないから。
誰だったろうか、自分を本当に救える人は。
ネバーランドへと飛び立つ翼を背にくれる人は、いつか救いに来てくれる人は。
そのことも、けして話はしない。
母と父とのふりをしたキース、こんな男に二度と心は見せないのだから…。
夢が覚めたら・了
※「目が覚めた時は可愛かったのに…」と放映当時は思ったシロエ。豹変したな、と。
可愛さ転じて皮肉大王。どう転がったらそうなるんじゃい、と考えていたらこうなったオチ。
