「セキ・レイ・シロエ。…どうしましたか?」
また脳波が乱れているようですね、と浮かんだマザー・イライザの影。
シロエが座っている机の向こう、見慣れてしまったその姿。
明かりを落として、考え事をしていた最中。
ピーターパンの本を開いて、失くした記憶が戻って来ないか、そういう戦い。
これは違うと、これも違うと、偽の記憶を選り分けながら。
成人検査で機械が無理やり押し込んだそれを、一つ、二つと。
なのに、無常に響いた音。
マザー・イライザからのコンタクト。
嫌でもログインするしかなかった、此処ではそういう決まりだから。
一言も言葉を交わしはしないで、放っておくことは不可能だから。
(…マザー・イライザ…)
呼んだつもりは無かったのに。
出て来て欲しくなど無かったのに。
(ぼくは、お前を呼んでなんか…!)
けして呼んではいないというのに、なんという機械なのだろう。
何処までしつこく付き纏うのか、このステーションのコンピューターは。
「…シロエ?」
どうしたのですか、と優しい声音のマザー・イライザ。
猫撫で声にしか聞こえないけれど。
聞くだけで苛立つ声だけれども。
その上、見たくない姿。
どうしてこういうシステムなのか、マザー・イライザというものは。
この忌々しい、呪わしい機械は。
やっとのことで切った通信、「レポートの続きがありますから」と。
まるで嘘ではなかったレポート、ただし勉強とは無関係。
一心不乱に取り組む相手は、マザー・イライザに乱された心。
乱されたけども、好機とも言えた今の通信。
レポートの下書きをするための用紙、それを机の上に広げた。
罫線は無視して、鉛筆で線を描いてゆく。
文字を綴ってゆくのではなくて、設計図というわけでもなくて。
(…こんな感じで…)
美術の授業などは無いのだけれども、シロエが始めたことはデッサン。
機械いじりを得意とするから、この手の作業も苦手ではない。
大まかな線をグイグイと描いて、「こんなものかな」と大きく頷く。
(…忘れない内に…)
今日は確かにこう見えたから、と次は細部を埋めてゆく作業。
それがレポート、既に脳波は乱れてもいないことだろう。
なにしろ、集中しているのだから。
チャンスは自分で掴むというのが、エリート候補生の鉄則なのだから。
懸命に描いて、描き続けて。
(出来た…!)
描き上がったものを誰に見せても、「これ、誰だよ?」と訊かれるだろう。
そうでなければ、「シロエのママなの?」と。
(…マザー・イライザ…)
あの憎らしいコンピューターの、たった一つの利点はこれ。
身近な女性の姿を映して現れること、それだけは評価してもいい。
(物凄く腹は立つんだけれどね…)
エネルゲイアに今もいるだろう、優しかった母。
その母の姿を真似ないで欲しい、機械のくせに。
一滴の血さえも流れてはいない、ただの巨大なコンピューターのくせに。
けれど、マザー・イライザはそういう機械。
そういうシステム、誰もがそれを喜ぶらしい。
親しみを覚える姿だから。
母や、想いを寄せる女性の姿で前に現れてくれるから。
大切な母を真似る機械は、壊してやりたいくらいだけれど。
それを逆手に取ることも覚えた、こういう風に。
マザー・イライザの姿を見た日は、母を真似ていた機械を描く。
机にレポート用紙を広げて、今日の姿はこうだった、と。
(…ママの姿は、もう少し…)
どうだったろうか、直したいのに思い出せない母の顔。
マザー・イライザを描き留めた絵から、母の肖像画を描きたいのに。
これが母だと、ぼくのママだと、心が叫び出すような絵を。
会心の作の母の絵を描き、大切に飾っておきたいのに。
(…何処が似ていないのか、分からないよ…)
ママ、とポタリと零れた涙。
皆の前では「母さん」と呼ぶのが、いつしか普通になっていた母。
けれども、心で呼ぶ時は「ママ」。
本当に会いたい母は今でも、ママと呼ぶのが相応しいから。
どんな時でも、温かくて優しかった母。
柔らかい手をしていた母。
いつか必ず描き上げてみせる、母の姿を写した絵を。
これが母だと、ぼくのママだと、誰もに見せたくなるような絵を。
きっといつかはそれを描きたい、懐かしい母がどんなだったか、いつまでも覚えていたいから。
きっと描くんだ、と心に誓う。
忌まわしいマザー・イライザを元に、今も会いたくてたまらない母を…。
母の似姿・了
※マザー・イライザは、シロエにはこう見えるんだよな、と考えたまではいいんですけど。
思い切りマザコンになっていたオチ、どちら様にもゴメンナサイです…。