「え…? コーヒーがお好きなんですか?」
その時、自覚は無かったけれども、きっと輝いていたのだろう。
キースと共に向かった宙港、其処で出会った老人に向けたマツカの瞳は。
「少し外す」と出て行ったキースは、まだ戻らない。
何か急用でも出来たというのか、あるいは誰かに呼び出されたか。
一人ポツンと待っていた自分は、所在なげに見えていたのだろうか。
それとも心細そうだったか、声を掛けて来てくれた老人が一人。
国家騎士団の退役軍人、今は悠々自適の日々を送っているという。
あちこちの星へ、ふらりと旅して。
「君もコーヒーが好きなのかね?」
そう問われたから、頷いた。
この老人は、どうやら無類のコーヒー好きのようだから。
誰かにそれを話したいような、そんな気配がしてくるから。
彼の心を読まずとも。
「コーヒー」と口にする時の瞳、それに表情。
きっとコーヒーをこよなく愛して、あれこれと飲んで来ただろうから。
コーヒーと言えば、直ぐに頭に浮かぶのがキース。
何度聞いただろう、「コーヒーを頼む」という彼の言葉を。
その度に用意するのだけれども、感想を聞いたことなどは無い。
「美味い」とも、「これは不味い」とも。
淹れ直して来いとも、「これでいい」とも。
けれども、分かるものだから。
コーヒーを好んで飲んでいることも、それを傾ける時が好きだとも分かるから。
いつしか心を砕くようになった、「もっと美味しいコーヒーを」と。
それを飲む時のキースの表情、ほんの少しだけ和らぐ空気。
心を澄ましていたならば分かる、どの一杯が美味しかったのか。
キースが好む味はどれかと、好む熱さはどのくらいかと。
気付けば、すっかりコーヒーの虜。
自分はさほど好きでもないのに、より美味しくと重ねた努力。
キースが美味しく飲めるようにと、この一杯が役に立つのなら、と。
彼がその背に負っているもの、その荷を下ろすほんの一瞬。
直ぐにキースは背負い直すけれど、憩いのための僅かな時間。
それを作るのがコーヒーならばと、これで休んで貰えるなら、と。
だから、老人の話に輝いた瞳。
耳寄りな話が聞けるのではと、この老人はコーヒーが自慢のようだから。
「コーヒーはね…。美味しく淹れるにはネルドリップが一番だね、うん」
知っているかい、と訊かれて「はい」と答えたら。
「どのくらいの量を淹れるのかね」という問いが返った。
何人分を用意するのかと、一度に淹れるのはどのくらいかと。
「えっと…。ぼくが淹れるのは一人分ですから…」
そんなに沢山は淹れませんけど、とキースが出掛けた方へと自然に向いた目。
冷めたコーヒーなどは美味しくないから、いつもキースが飲む分だけ。
「なるほどねえ…。それも悪くはないのだけどね」
美味しく淹れるには、十人分は淹れないとね、と笑った老人。
贅沢だけれど、それに限ると。
「十人分…ですか?」
「そうだよ。さっきの彼が君の上官だね」
キース・アニアン上級大佐。知っているよ。
もちろん、彼を知らないようでは、今どき話にならないんだが…。
一人分を淹れていると言うなら、彼のために淹れているんだろう?
覚えておくといいよ、十人分だ。
余ったコーヒーは、他の部下にでもくれてやるといい。
大佐からだ、と勿体をつけて淹れてやったら、冷めたヤツでも喜ぶだろうさ。
そして老人は教えてくれた。
十人分を淹れるだけでは、まだ足りないと。
秘訣は、ネルドリップに使う生地。
十人分だから生地もたっぷり必要だけれど、一度目に淹れたコーヒーは捨てる。
生地の匂いがしみているから、勿体ないなどと思わずに。
勿体ないと思うのだったら、それこそ部下に飲ませるといい、と。
「それからね…。その生地を直ぐに使っては駄目だ」
お湯で煮るんだよ、二十分ほど。
ぐらぐらと煮立てて、お湯がすっかりコーヒーの色になるくらいまで。
生地にしみていた分のコーヒーだからね、それほど濃くはならないんだが…。
コーヒーの色だな、と思う筈だよ。やってみたなら。
その生地をしっかり絞って、乾かす。
これで出来上がりだ、ネルドリップのための用意はね。
そういう生地を準備したなら、今度こそ本当に十人分のコーヒーだ。
惜しみなく淹れて、最高の一杯を彼に運んで行くといい。
きっと美味しい筈だから。
…とはいえ、相手が彼ではねえ…。
多分、感想は聞けないだろうと思うがね。
試してみたまえ、と教えて貰ったコーヒー。
老人の名前を尋ねたけれども、「名乗るほどでもないよ」と微笑んだ彼。
「キース・アニアンに、私のコーヒーを飲んで貰えるだけでも嬉しいね」と。
光栄だよと、コーヒー党の軍人冥利に尽きるねと。
そうして、彼は「それじゃ」と悠然と歩き去って行った。
自分の乗る便が出るようだから、と。
入れ替わるように戻って来たキース。
「待たせた」とも何も言わないけれども、もう慣れている。
こういう時には、どうすればいいか。
「まだ、少し時間があるようです。…コーヒーを取って来ましょうか」
「そうだな、頼む」
ただ、それだけしか言われないけれど。
こんな宙港で出て来るコーヒー、そんなものでも、キースは何も言わないけれど。
(…美味しいコーヒーの方がいいですよね?)
きっと、と思うものだから。
この旅が済んで戻った時には、あのコーヒーを淹れてみようか。
さっきの老人に教わったコーヒー、ネルドリップで十人分だというものを。
それだけ淹れるのがコツだというのを。
(…セルジュやパスカルが困るでしょうけど…)
大佐からのコーヒーですから、冷めていたっていいですよね、とクスリと笑う。
キースが背負っている重荷。
それは誰にも背負えないから、代われる者などいはしないから。
せめて荷を下ろす間のほんのひと時、それを作れるコーヒーを淹れてみたいと思う。
感想などは聞けなくても。
「美味いな」と言って貰えなくても。
きっとキースが纏う空気で、ほんの微かな息だけで分かるだろうから。
「美味い」と思って貰えたのなら、もうそれだけで充分だから。
ネルドリップで十人分、と頭の中でコツを繰り返す。
秘訣は生地を煮ることだったと、二十分ほど煮て乾かして…、と。
最初のコーヒーは捨てるのだったと、勿体ないなら部下に飲ませろと言っていたな、と。
(…すみません、セルジュ…)
皆さんで手伝って下さいね、と思い浮かべるキースの部下たち。
美味しいコーヒーを淹れるためですからと、それにキースからのコーヒーですよ、と…。
習ったコーヒー・了
※マツカが退役軍人の老人に習ったコーヒー。実は管理人が習ったんです、つい先日。
この話じゃないけど、名前も聞けなかったご老人に。…ネタにしちゃってスミマセン…。
(…どうして、こういうことになるんだ…)
来る日も来る日も掃除ばかりで、とキースがついた大きな溜息。この無駄に広くてデカイ家は、と掃除するけれど、どうにもならない。
床を掃いたり、モップをかけたり。灰まみれになって暖炉の掃除もするのに、一向に終わらない仕事。なにしろ、綺麗に掃除をしたと思ったら…。
「おっと、すまない。手が滑った」
この床を拭いてくれたまえ、と銀色の髪に赤い瞳の偉そうなヤツが零した紅茶。どう見てもわざとやったというタイミングで、やらかしてくれた義理の兄貴のブルーときたら。
(何が、年寄りと女子供は丁重に扱え、だ…!)
義理の兄だから、年上ではある。それは当然だと思うけれども、年寄りというのが嘘くさい。おまけに女子供でもないし、丁重に扱う義理などは多分、ない筈なのに。
(…逆らったら後が無いからな…)
亡くなった母のイライザの代わりにやって来た継母、名はフィシスという。面影が母に似ているからと父が連れて来て、居座った女。デカイ息子を二人も連れて。
そのフィシスがまたキッツイ女で、父がポックリ亡くなった後はやりたい放題。贅沢三昧に暮らしているのに、自分の連れ子ばかりを可愛がっていて…。
「キース、こっちも掃除してよね!」
こんな床、ママが見たら怒るよ、と指差している義理の兄貴のジョミー。明るい金髪に緑の瞳のジョミーは人が好さそうなのに、生憎と外面だけだった。彼の兄貴のブルーと同じく。
(…全部、貴様がやったんだろうが…!)
歩きながらポップコーンを食べるな、と怒鳴りたいけれど、やってしまったら後が無い。継母のフィシスに聞かれたら最後…。
(晩飯は抜きで、今夜のベッドも無しなんだ…)
暖炉の灰にもぐって寝るしかないし、と嘆くしかない自分の境遇。なんだって父はこんな後妻を迎えたのかと、酷い兄貴を二人も増やしてくれたのかと。
まったく惨いと、きっと一生、灰にまみれて掃除の日々だ、と。
顔も思い出せない父を恨んでも仕方ないから、せっせと掃除。来る日も来る日も掃除ばかりで、義理の兄たちとキッツイ母とに苛められまくって過ごしていたら…。
(舞踏会だと?)
遥か遠くに見えるお城で、舞踏会が開かれるらしい。キッツイ母親はもちろんお出掛け、義理の兄貴も出掛けるという。自分も是非、と考えたのに。
「あらあら、キース。…あなたはブーツを持っていないじゃありませんか」
そんな靴でお城に行くのはちょっと、と継母のフィシスに笑われた。ブーツも履かずに舞踏会なんて、笑い物になるだけですよ、と。
「そうだろうねえ…。ジョミー、ブーツは大切だよね?」
「うん、ブルー。お城に出掛けて行くんだったら、ブーツが要るよ」
マントはともかく、ブーツくらいは…、と嘲笑う兄たち、彼らの足には立派なブーツ。銀の縁取りのブーツがブルーで、金の縁取りのブーツがジョミー。
そう、お城の舞踏会に行くとなったら、欠かせないのが正装なのに…。
(…ブーツどころか…)
まだ候補生の制服なんだ、と零れた溜息。モノトーンに近い配色の制服、なにしろ候補生だから。世で言う所のヒヨコなるもの、社交界デビューを果たしてはいない。
ゆえにブーツは履いていなくて、ごくごく普通の靴というヤツ。出世していけば、いつかブーツを履けるのに。二人の兄貴も履いていないような、ニーハイだって。
(…しかし、出世は…)
あの兄貴どもと、キッツイ母とがいる限り無理、と肩を落とした。一生掃除で終わるのだろうと、舞踏会なぞは夢のまた夢、と。
そうこうする内、やって来たのが舞踏会の日。継母と義理の兄貴二人は馬車でお出掛け、ポツンと家に取り残された。しっかり掃除をしておくように、と。
(…どうせ、こうなる運命なんだが…)
あの継母と義理の兄どもがやって来た時から見えていたが、と泣き泣き掃除をしていたら…。
「よう、キース! お前、舞踏会、行かねえのかよ?」
じきに始まるぜ、と現れた陽気な男。いったい何処から、とポカンとするしかないのだけれど。
「すまん、自己紹介、まだだったよな? 俺はサム。…サム・ヒューストン」
ちょっと魔法が使えるもんで、と笑顔のサムは、同じ候補生にしか見えないのに…。
「本当ですよ? サム先輩に任せておけば安心ですって!」
ぼくはシロエと言うんです、とサムよりも小さいのが現れた。セキ・レイ・シロエと名乗ったチビは、サムの手伝いをしているそうで。
「…お前が馬車を曳いてくれると?」
「嫌ですねえ…。ぼくは馬車なんか曳きませんってば、御者ですってば」
馬車を曳くのはネズミですから、と答えたシロエ。まずは馬車を曳かせるネズミを捕ること、それから馬車にするカボチャ。両方用意して下さい、と。
「…ネズミにカボチャか…」
よく分からないが、と思いながらも台所に出掛けて捕まえたネズミ。それとカボチャを抱えて行ったら、サムが「よし、いくぜ!」と取り出した杖を一振り。
アッと言う間に出来上がった馬車、シロエが手綱を握っている。サムがもう一度杖を振ったら、候補生の制服が一瞬の内に…。
(…ニーハイブーツ…!)
嘘だろう、と眺め回した国家騎士団の制服。これなら立派に舞踏会に…。
「行けるってもんだろ、楽しんでこいよ!」
ただし、俺の魔法は十二時までな、と手を振るサムに見送られて出発した。いざ、お城へと。
カボチャの馬車で辿り着いたら、誰よりも立派だったニーハイブーツ。
たちまち、主催の女王陛下に気に入られた。グランド・マザーと呼ばれる大物、周りの王国の王たちもひれ伏すと噂の女傑。
「よく来てくれた。こういう人材が必要なのだよ、私が国を治めてゆくには」
これからは私の右腕になって欲しいものだね、と陛下はいたくお喜びで。
(…やったぞ、私もついに出世を…!)
チラと見れば歯軋りしている義理の兄貴たち、アテが外れて怒りMAXといった継母。
魔法使いのお蔭で開けた出世街道、思わぬ幸運が転がり込んだ。陛下と何度も杯を交わして、国の未来を語り合ったけれど。
(…なんだって?)
頭の中に、直接響いたシロエの声。「魔法の時間が切れますよ!」と。
時計を見れば十二時になる前、このままではヤバイことになる。魔法が切れたらブーツも履けない候補生の身で、つまみ出されることは確実で…。
「陛下、失礼いたします!」
ダッと駆け出したら、またまたシロエの声が聞こえた。「靴を片方、落として下さい」と。
「靴!?」
「ええ、靴です。お約束ですから、靴を片方…!」
それを落として帰らないと未来が無いんですよ、と言われたけれど。
(…か、片方と言われても…!)
走りながら脱げるようなモノではないのがニーハイブーツ。早く脱げろと焦るけれども、普通の靴のようにはいかない。そうこうする間に迫る十二時、とうとうブーツを履いたままで…。
「戻りましたか、急ぎますよ…!」
サム先輩の魔法が切れますからね、と馬車を走らせるシロエ、お城にブーツを残し損ねた。ニーハイブーツは履いたままだし、そのまま魔法は切れてしまって…。
「キース、しっかり掃除するのよ?」
ブルーもジョミーもお城にお勤めなのですからね、と拍車がかかった継母の苛め。女王陛下のお気に入りだった、ニーハイブーツの男は見付からなかったから。
代わりに取り立てられてしまったのが義理の兄たち、出世街道を突き進んでいて。
(…ニーハイブーツ…)
あの時、あれが脱げていたなら、と思うけれども、過ぎてしまったことは仕方ない。魔法使いも呆れてしまって二度と来ないし、部下だったらしいシロエも来ないし…。
(人生、終わった…)
此処で一生、掃除の日々だ、と嘆いていたら、声が聞こえた。
「何か、お手伝いしましょうか?」
(…魔法使い…!)
その二というヤツが来てくれたのか、とガバッと暖炉の灰の中から飛び起きたら…。
「どうしたんですか、キース?」
驚かせてしまったでしょうか、と目を真ん丸にしているマツカ。国家騎士団の制服の部下。
(…ゆ、夢か……!)
夢だったのか、と見下ろした足元、ちゃんとニーハイブーツがあった。お城で落とし損なったことを嘆き続けていたブーツが。
(…いったい、今のは…)
何だったんだ、と思うけれども、ビッシリと額にかいている汗。
(とんだシンデレラもあったものだ…)
あのミュウの長にしてやられたか、とコツンと自分の額を叩いた。ヤツの仕業かと、メギドを沈めたついでにお見舞いされたのか、と。
(……まさかな……)
時限式のサイオニック・ドリームの類だろうか、と寒くなった背筋。やたらとリアルな悪夢だったし、ブルーとジョミーが義理の兄貴で、ミュウの女が継母だったし…。
(…こんな調子で次があったら…)
どんな目に遭わされることだろうか、と情けない気持ち。ブーツを持たないシンデレラの次は、白雪姫が来るだとか。眠り続けるオーロラ姫とか、気付けば人魚姫だとか。
(あの野郎…!)
よくも、と拳を握り締めるけれど、どうにも取れない夢の確認。
ミュウの元長にしてやられたのか、自分が勝手に見た夢なのかが。
(…マツカに見せたら、分かるんだろうが…)
それもなんだか情けないから、弱みは見せたくないものだから。
(……頼むから、来るなよ……)
お伽話シリーズは勘弁してくれ、と呻くキースは、夢が相当に嫌だったらしい。ニーハイブーツを脱ぎ損なって出世街道を転げ落ちるのも、ブルーとジョミーに苛められるのも。
(…あれがサイオニック・ドリームならば…)
残りは何発あるのだろうか、とキースを怯えさせる悪夢は、自己責任というヤツだった。ミュウの長は何もしてはいないし、時限式も何もないのだけれど。
(…人魚姫よりかは、白雪姫の方が…)
いくらかマシだ、などと考えているから、自己責任で次が絶対無いとは言い切れない。夢は意のままにならないからこそ、夢だから。
とんでもないことが起こってしまって、ガバッと起きるのが悪夢だから…。
シンデレラのブーツ・了
※馬鹿ネタも此処に極まったよな、という感がある気がしますけど…。シンデレラのブーツ。
思い付いたネタは書くのがポリシー、だってホントに、偉い人ほどブーツなんだもの…!
「付き合っている人間を見れば、その人間の程度が分かる」
あんな人と行動を共にしていたようじゃ、あなたも大したことないのかも…。
ぼくの敵じゃあ……なかったかな?
フッ、と皮肉に笑ったシロエ。
その顔が、声が頭から消えてくれない。…何故、と自分に問い掛けても。
(分からない…。スウェナの気持ちも、サムの気持ちも)
ちゃんと分かっているつもりなのに、とキースが噛んだ自分の唇。
いっそシロエの言葉通りに、切り捨てられたら楽なのだろうに。
スウェナは「あんな人」だったから、結婚して去って行ったのだと。
エリートコースを自ら外れるような人間、ただ挫折しただけなのだと。
(だが、スウェナは…)
挫折するような心の弱い人間ではない、それだけは確か。
芯が強くて意志も強くて、勝ち気で、それに男勝りで。
高く評価をしていたからこそ、友だと思っていたスウェナ。
なのに、彼女に投げ付けられた言葉。
「あなたには、分かってなんか貰えないわよね」と。
サムもスウェナと同じに怒った、「スウェナの気持ち、お前には分かんねえのかよ!」と。
肩を震わせて憤っていたサム。
「この間は言い過ぎた」と今日、謝ってくれたけれども。
スウェナを乗せてステーションを離れてゆく船、それを二人で見送った時に。
同郷だったスウェナが、思い出そのものだったかのように語ったサム。
微かに残った故郷の記憶が、スウェナと一緒に消えてゆくような気がすると。
(…記憶は、やはり大切なのか…)
自分は持たない、故郷や幼馴染の記憶。
何かが欠けているような気持ちが、胸をチクリと刺した瞬間。
…飛び込んで来たのがシロエの言葉。
「結婚なんて所詮、ただの逃げ」と、「挫折でしょ」と。
まるでスウェナを侮辱するように。
あからさまな挑発、それに乗りかけたサムを制したら、ぶつけられた嘲笑。
「ぼくの敵じゃあ、なかったかな?」と。
シロエが自分を敵視しようが、それまでは無視していられたけれど。
あまりに悪すぎた、あのタイミング。
自分の心が揺れていた時に、余裕の笑みを浮かべたシロエ。
「あんな人」とスウェナを評価して。
スウェナと直接話したことさえ無いのだろうに、見下し、馬鹿にし切った声で。
(…あいつには分かるとでも言うのか?)
自分には分からない、スウェナの気持ちが。
スウェナが「結婚する」と打ち明けるよりも前に、「あなたの彼女は?」と訊いて来たシロエ。
「機械の申し子だから分からないのかな」とも言われた、同じ時に。
ならばシロエには分かるのだろうか、スウェナの、それにサムの気持ちが。
「あんな人」とスウェナを嘲笑うくせに、心は分かると言うのだろうか。
だとしたら、シロエの方が上。
人の心を知るというのも、エリートには必須の能力だから。
相手の気持ちを推し量ることも出来ないようでは、部下など持てはしないのだから。
(…ただの部下なら持てるだろうが…)
優秀な者はついては来ない、と何の講義で聞いたのだったか。
エリートたる者、部下の心を掴めなければ、けして昇進出来はしないと。
自分を補佐する有能な部下を使いこなすのも、メンバーズの出世の条件なのだと。
ならば自分はエリート失格、スウェナの気持ちも、サムの気持ちも分からないから。
シロエには分かるらしいのに。
…遥かに年下の候補生でも、ちゃんと分かっているらしいのに。
その日から乱れ始めた心。
夜には早速、マザー・イライザが部屋に現れた。
「何か悩み事でもあるのですか?」と。
コールよりかはマシだけれども、その前段階とも言える出現。
自分の脳波はそんなに乱れていたのだろうか、と愕然とさせられたイライザの姿。
(…落ち着かないと…)
でないと本当にエリート失格、自分の心も上手くコントロール出来ないようでは。
シロエが言った通りの結末、「ぼくの敵じゃあ、なかったかな?」と。
本当に全てシロエに抜かれる、ステーションでの成績や評価。
先に卒業してゆく自分は、その時点でのトップだったということになってしまうだけ。
シロエが卒業するよりも前に、教官たちは挙って彼を称え始めることだろう。
「ステーション始まって以来の秀才」と、「マザー・イライザの申し子のようだ」と。
そしてシロエは勝ち誇るだろう、いくらシステムを嫌っていても。
反抗的だと言われていようが、要注意人物とされていようが、優秀ならば許されるから。
現に自分も、システムの全てを信頼してはいないから。
(…シロエに抜かれる…)
もしも自分が、乱れた心のままならば。
スウェナの、サムの気持ちが分からず、シロエに劣るようならば。
これではシロエの思う壺だ、と自分でも分かっているのだけれど。
どうにも抑えられない苦しさ、解けないままで抱えた難問。
スウェナは、サムは、何を思って、どう考えて自分を詰ったのか。
何をどうやったら、自分はそれを読み解けるのか。
分からないから、駆け巡る疑問。それに引き摺られて乱れる心。
抑え切れない自分の感情、けして表には出さないけれど。
(…どうして、シロエにも分かるような事が…)
自分には全く分からないのか、自分には何が足りないのか。
知識か、それとも自分は持たない過去の記憶が鍵なのか。
記憶だったら手も足も出ない、自分は持っていないのだから。
過去に戻って取り戻そうにも、タイムマシンと呼ばれる機械はまだ無いのだから。
(タイムマシンか…)
何処で知ったか、お伽話のような機械の名前を。
本で読んだか、サムに聞いたか、小耳に挟んだ言葉を自分で調べたか。
それがあったら乗って行きたい、自分が忘れた過去を探しに。
落としてしまった大切な鍵を、解けない疑問を解くための小さな鍵を拾いに。
タイムマシンがあったなら、と思ったはずみに浮かんだ気晴らし。
何か本でも読めばいい。
まだ読んだことのない本を何か、勉強ではなくて娯楽用の本。
そんな本など、自分から読みはしないから。読みたいと思うことも無いから。
(適当に…)
ステーションで人気の作品でも、と部屋からアクセスしたライブラリー。
一番人気の一冊がいいと、それでも読めば気分が変わると。
タイトルさえも確認しないで、表示された文字を追い始めて。
非現実の世界に入り込んでいたら、主人公の少女がこう言った。
「可哀相な人。…自分の尺度でしか物事を測れないのね」と。
その瞬間に引き戻されてしまった現実。
図らずも、現実にはいない少女に言い当てられた、自分の現状。
(…自分の尺度でしか…)
それが真実なのだろう。
自分の尺度で測っているから、スウェナの、サムの心が見えない。
シロエでさえも、自分の尺度と違う尺度で測れるのに。
器用にやってのけているのに、それが出来ない劣った自分。
マザー・イライザは何も言っては来ないけれども、薄々気付いているかもしれない。
自分よりもシロエの方が上だと、言動はともかく能力では、と。
(どうすれば…)
測れるというのか、別の物差しで。自分の尺度以外のもので。
それが分かれば苦労はしない。
非現実の世界の少女さえもが、サラリとそれを言ったのに。
驚いたはずみに消してしまって、本のタイトルも分からないけれど。
疑問は解けずに、抱え込んだまま。
違う物差しは見付からないまま、気晴らしの本もウッカリ読めない。
迂闊に読んだら、別の言葉で心を抉られそうだから。
たまたま選んだ一冊でさえも、主人公の少女に憐れまれたから。
(分からないままでシロエに負けるのか…?)
いつか追い抜かれてしまうのだろうか、ステーションでの成績を。
メンバーズになったシロエが自分を使うのだろうか、より重要なポストに就いて。
(そんな馬鹿な…!)
有り得ない、と思うけれども、日毎に大きくなってゆく焦り。
明らかに落ち着きを失った自分、幸い、誰も気付かないけれど。
今の所はまだ表れていない影響、けれどもいずれ出始めるだろう。
このまま心が乱れ続けたら、落ち着かない日々が続いたら。
(…心理的ストレス…)
それだ、と自分で下した診断。
ならば解消すればいい。
あの日は本を選んだばかりに、失敗して酷くなっただけ。
もっと自信を持てそうなもので、気晴らしが出来ることといったら…。
(何があるんだ…?)
気晴らしなどに馴染みが無いから、調べてみたら「ゲーム」という文字。
(レクリエーション・ルームか…!)
あそこへ行けば、と思い出した場所。
確かエレクトリック・アーチェリーのゲームがあった筈。
明日にでも行こう、ゲームではなくて訓練でやって、好成績を出したことがあるから。
的を射抜いたら、爽快な気分になれるから。
(あのゲームがいい…)
それにしよう、と決めた気晴らし。
きっと心が晴れるだろう。
幾つもの的を射抜いていったら、ゲームに夢中になったなら。
(考えても分からないことも…)
解けるかもしれない、無心に的を射抜いていたなら、思わぬヒントが降って来て。
皆が興じるゲームをしたなら、違う物差しが見えて来て。
そうなればいいと、自信を取り戻して強くあろうと、部屋で構えを取ってみる。
こう引き絞って、こう放って、と。
的に向かって飛んでゆく矢を、わだかまる疑問を打ち砕く一矢を思い描きながら…。
解けない疑問・了
※なんだってキースがゲームなんかをやっていたんだ、と考えていたらこうなったオチ。
ストレス解消、なのにシロエがノコノコと…。そりゃあ勝負を始めるよね、と。
(メリー・クリスマス…?)
今更、クリスマスも何も…、と首を捻ったアルビノの人物、実はかなりの有名人。
名前はソルジャー・ブルーという。今も「ソルジャー」とつくかどうかは、謎だけれども。
どうして今頃クリスマスカードが、と彼が悩むのも無理はなかった。とっくの昔に死んでいる上、心当たりがゼロの差出人。何故、彼から、と。
(サンタクロース…)
名前くらいは知っているものの、死後の世界にいそうにはない。きっと何かの間違いだろう、とカードをポイと投げたゴミ箱。間違いにしても、返す先など分からないから。
とりあえず、ゴミ箱はあるらしい。死後の世界にも。
ブルーがカードを捨てていた頃、同じく頭を抱える男が約一名。国家主席まで務めた人間、こちらも相当、名高い人物。
(メリー・クリスマスと言われても…)
死んでからかなり経つのだが、とクリスマスカードを眺めるキース。差出人はサンタクロースで、冗談だとしか思えない。
(地球が滅びてから、何年経つと思っているんだ…!)
サンタクロースも地球と一緒に滅びた筈だ、と唸るキースは全く知らない。死後の世界に時間なんぞは無いことを。縦、横、斜めと交わりまくりで、カオスになっていることを。
ついでに言うなら、キースが「滅びた」と言い切った地球。それはコッソリ蘇っていた、青い姿に。昔の話は忘れましたと言わんばかりに、それは美しく。
(…誰がこういう悪ふざけを…)
知らん、とキースもカードを捨てた。死後の世界でも、健在らしいゴミ箱へ。
二人の人物がクリスマスカードをポイ捨てした頃、やはり同じに悩める少年。僅か十四歳で夭折したシロエ、破格の若さ。
(…メリー・クリスマスって…)
ピーターパンなら良かったんだけど、とぼやくシロエは若い分だけ夢が大きい。サンタクロースよりもピーターパンの方が良かった、と思う彼にも届いたクリスマスカード。
(どうして、サンタクロースから…?)
ぼくは北国よりネバーランドが好みで、とガン見してみても、差出人はサンタクロース。
(サンタクロースの国って、思い切り寒くて、雪だらけで…)
殆ど北極だったんじゃあ…、と彼もポイ捨てしたカード。死後の世界でも、ゴミ箱はアリ。
これで三人が捨てたけれども、侮るなかれ。クリスマスカードを捨てた人間は、他にも山ほど。そして北極に近い北国、其処でサンタクロースがバンザイしていた。万歳三唱、空に向かって。
「これでプレゼントを届けられる!」と。
なにしろ、本当に困った事態だったから。
(せめてクリスマスには、とお願いされても、難しくてねえ…)
サンタクロースが音を上げたものは、同人誌。薄い本という隠語で呼ばれるブツで、それが欲しいと願う人間がいるわけで。
(本当に本物の子供だったら、神様も力を貸して下さるのに…)
身体は大人で、中身が子供の場合はちょっと、とサンタクロースはブツブツと。
夢はたっぷりあるようだけれど、その子供たち。8年も前に放映終了のアニメ、それを未だに追っているのは、永遠の子供な証拠だけれど。
(欲しがるものが半端に大人で…)
R指定のBL本などと言われても…、と禿げた頭が更にツルリと禿げそうなくらい、悩みまくっていた、この季節。
ハタと閃いた凄い名案、餅は餅屋と言うのだから。
(本家本元に丸投げすれば…)
完璧というものじゃないかね、と大きな身体を揺すって笑った。自分が配るのは嫌だけれども、部下を任命すればいい。臨時雇いのサンタクロースを、そのためにだけ。
かくして、クリスマスカードを山ほど、ホホイのホイ、と配りまくったサンタクロース。
その正体は、なんと召喚状だった。貰った人間がポイと捨てれば、サンタの国への入口が開く。ポンと開いたら、問答無用。アッと言う間に吸い込まれる仕組み、北の国へと御案内。
だから…。
「メリー・クリスマス!!!」
おいでませ、サンタワールドへ! と満面の笑みのサンタクロースに、ハグで歓迎されてしまった面々。8年ほど前に「地球へ…」というアニメにハマった人なら、「マジで!?」と目を剥く、それはゴージャスで、豪華なメンバー。
ソルジャー・ブルーに、ジョミー・マーキス・シン。キース・アニアンもいれば、シロエに、マツカにトォニィなどなど。登場人物は全員揃っていそうな勢い、北の国へと呼ばれた面々。
全員をハグしたサンタクロースは、真っ赤な衣装で、ご機嫌で。
「ようこそ、サンタクロースの国へ! 君たちを今日から、サンタクロースに任命しよう!」
メリー・クリスマス! と、一瞬にして、全員に着せられた真っ赤な衣装。頭の上には真っ赤な帽子で、これぞサンタのコスチュームで。
「おい、オッサン! 何の真似だよ!」
オレンジ色の髪と瞳の、血気盛んなトォニィが掴みかかろうとしたら。
「ホッホッホッ…。君たちは臨時雇いのサンタクロースで、ちゃんとトナカイの橇もあるから」
一人に一台用意したから、頑張ってプレゼントを配ってくれたまえ、とボワンと出て来た真っ白な袋。いわゆるサンタの袋が山ほど、中身は入れてあるようで。
「これを君たちが持ってくれれば、中身がプレゼントになるのだよ。萌えのパワーで」
「「「萌え?」」」
何のことだ、と驚く面々、サンタクロースの方はシラッと。
「薄い本が山ほど入っていてねえ…。貰う人間のニーズに合わせて、萌えも色々…」
配りに出掛けてみれば分かるよ、とニッコニコ。
袋を開けて自由に読んでみるも良し、見ないで配って歩くのも良し。クリスマスまでは、まだ充分に日にちがあるから、ご自由にどうぞ、と。
「これの中身が、本なんだって言われても…」
薄い本って何なんだろう、とサンタ姿のジョミーが悩む、パチパチと燃える暖炉の前。
「クリスマスまで好きに使っていいよ」と、サンタクロースが案内してくれた、とても居心地のいい館。部屋数は充分、こんな大きな広間まで。
「さあねえ…。三百年以上も生きたぼくの知識にも、入っていないね。…薄い本というのは」
萌えだって、とブルーが頭を振っている横で、キースが仏頂面で。
「無駄に長生きしたわけか。伝説のタイプ・ブルー・オリジンは」
「そういう君こそ、マザー・イライザの最高傑作…だったと思ったけどねえ?」
君の知識も大概だねえ、とやっているのを、横目で眺めるシロエやサム。
「…サム先輩。どうなんです、これ?」
「開けて読んだら、分かるんじゃねえかと思うけどなあ…」
でも…、と腰が引けているサム。自分の袋をチラ見しながら。
開けて読むのは自由だけれども、開けたら最後。…何故だか誰もが、そう思う袋。
なんだか不幸になりそうだから、と悩めるサンタクロースの集団。
自分たちが配る、本の中身は気になるけれど。本当にとても気になるけれども、そこで袋をバッと開いて、読んでみようという勇者。それが一人もいない集団、つまりはチキン。
「…どけーい、ヒヨッコども! …と、私も言いたい所なのだが…」
メギドに突っ込む勇気はあっても、この袋を開ける勇気はちょっと、とコケた鶏。チキンの中でも期待の鶏、マードック大佐も逃げる有様。そんな袋だから、もう誰一人として開けられなくて。
「そういえば…。どうして、女の人がいないんでしょう?」
不思議ですね、と見回すマツカ。どういうわけだか、女性が一人もいなかった。ただの一人も。
「それが余計に不安な所じゃ。きっと、ロクでもない中身なんじゃ!」
開けて読んだら、目が潰れるのに違いない、と大袈裟に震えるミュウの長老。彼の名はゼル。およそBLとは無縁っぽいのに、ゼルの本まであるらしい。萌えは色々、ニーズも色々。
必要な面子は漏れなく揃える、それがサンタクロースの戦略で…。
ありとあらゆる、萌えなキャラたち。受けだの攻めだの、総受けだのと、それは色々。薄い本が欲しい人の数だけ、萌えの数だけ、BL本が詰まった袋。カップリング乱舞、そういう感じ。
サンタの衣装を着込んだ面子は、一人残らず、自分を描いたBL本を背負って配る運命だった。サンタクロースに託された袋、それへと注ぎ込まれた萌えを。
「食料に困らないのは有難いが…」とキャプテンらしい台詞を吐くハーレイも、こんな時にも気配りのリオも、サンタに袋を任されている。薄い本がドッサリ入ったヤツを。
とはいえ、衣食住には困らないのがサンタワールド。
ちょっと気の早い、クリスマス料理が食べ放題。ホットワインも飲み放題だし、外は大雪でも、館の中には温かい暖炉。
袋の中身を気にしないのなら、至極快適。サンタワールドは、そういう所。
サンタクロースは気前が良かった、けしてケチりはしなかった。臨時雇いのサンタクロースでも、トナカイなんぞは初対面だという面子でも。
そう、トナカイ。たまに窓の向こうを通ってゆくから、面通しだけは済んでいるものの。
「トナカイの橇か…。そんな乗り物は未経験だが」
メンバーズの訓練メニューにも無かった、とキースが愚痴れば、「落ちても別に死なないし」とジョミーがマジレス、そういう暮らし。
かつての敵は今日の友達、サムが言わずとも「みんな友達」、ワイワイやっているけれど。
サンタクロースの服を纏って、クリスマスを待つ日々だけれども。
「あの袋…」
何が入っているんでしょうか、と口にしかけたマツカに、「シーッ!」と「黙れ」の嵐。覗きたいなら止めはしないが、中身は決して口にするなと。嫌な予感がするから、と。
「そ、そうですね…。サンタクロースは、とにかく配ればいいんですしね」
どうせ臨時雇いのサンタクロースなんですから、とマツカは疑問をブン投げた。窓の向こうの雪の中へと、エイッと、消えろと。
もうサックリと捨てたマツカが、担当しているサンタの袋。中を覗けば後悔は必至、ギッチリ詰まったマツカ受けの本。ひっそりとマツカ攻めなどもあった、相手はドMなキースだとかで。
他の面子の袋も同じで、凄すぎるラインナップだけれど。どんなニッチなカップリングも見事にカバーで、R指定のレベルも色々なのだけど…。
誰も袋を開けてみようとしなかった。体当たりが売りのマードック大佐も、命なんぞはメギドに捨てた、なミュウの元長も。
見るな触るな、口にするなとサンタの袋を避けまくる内に、ついに来た出番。サンタクロースが走るクリスマス・イブで、ボスな上司がやって来て。
「では、君たち。メリー・クリスマス!」
頑張って配って回りたまえ、と激励されたプレゼントの山。薄い本とやらが詰まった袋。
配り終わったら、君たちにもクリスマスプレゼント! とサンタクロースが約束したのは、夢のハッピーエンドというヤツ。
トナカイの橇が、運んで行ってくれる地球。青い地球での新しい人生、それが御褒美。
「そうだったのか…。地球に行けるのか」
頑張らないと、とブルーが担いで橇に乗り込む袋。それの中身は強烈だった。ブルー総受けからブルー攻めまで、ギッシリ詰まっている袋。本人は何も知らないけれども、エロすぎる中身。
「ふん、ようやっと行けるようになったか。有難いと思うんだな、ソルジャー・ブルー」
私も仕事を頑張らねば、とキースも乗り込むトナカイの橇。これまた凄い中身の袋を背負って、颯爽と。「アドスが一番、サンタクロースが様になるのが…」癪だな、などと言いながら。
元老アドスまでがサンタの衣装で、トナカイの橇でスタンバイ。彼が背負った袋の中にも、凄い本が溢れているらしい。アドスの相手はキースはもちろん、ブルーだったり、ジョミーだったり。
「何なんだろうね、この面子…」
まあ、楽しくはあったんだけどさ、とジョミーが別れを惜しむサム。それにシロエも。それぞれトナカイの橇に乗り込み、後は出発を待つばかり。誰もが凄い中身の袋を背負って、本人は中身を知らないままで。
「「「メリー・クリスマス!!」」」
サンタクロースのボスの合図で、一斉に飛び立つトナカイの橇。地球で会おう、を合言葉に。
シャンシャンと賑やかに鈴を鳴らして、サンタクロースな面々を乗せて。サンタワールドの雪景色を後に、クリスマス・イブの空に向かって。
そんなわけだから、「地球へ…」でBL萌えな人の枕元には、クリスマスの朝にプレゼント。
目覚めた時には、きっと一冊、薄い本。御贔屓のキャラが夜の間に、そっと届けてくれるから。
ただし、彼らは初めて開ける袋だから。初めて目にする本だから。
「見ては駄目だ」と思っていたのに、枕元で読むかもしれないけれど。どういう本が欲しかったのかと、ちょっと開いてビックリ仰天、腰を抜かすかもしれないけれど。
そうなった時は捕獲のチャンス。サンタクロースの服を纏った、御贔屓のキャラをゲットかも。萌えが詰まった薄い本もセットで、ウハウハと。
御贔屓のキャラの腰が抜けるような、それは強烈なBL本。そこまでのブツを妄想できたら、腰を抜かしたサンタクロースが手に入るという凄い幸運。試すだけの価値は、きっとある。
今からクリスマスまでに妄想、受けでも攻めでも、思いのままに。萌えの限りに。
妄想しまくって、御贔屓キャラに腰を抜かさせて、ゲットするのは自由だけれど。捕獲したならアレもコレもと、考えるのもいいけれど。
きっと彼らが捕まったならば、助けに来るのがサンタクロース。大ボスと呼ぶか、ラスボスと呼ぶか、彼らの上司がやって来る。約束が「青い地球」だから。彼らは地球にゆくのだから。
サンタクロースに勝てはしないから、妄想の方はほどほどに。
一度捕まえた御贔屓キャラに、「ああいう人か」と呆れられたくなかったら。
逃げられた上に赤っ恥というオチが嫌なら、彼らが腰を抜かさないよう控えめに。あるいは、腰を抜かした彼らは放置で、黙って本だけ貰っておこう。そっと薄目で拝んでおいて。
いい子の所に、プレゼントはきっと届くから。御贔屓キャラが一冊届けてくれるから。
クリスマス・イブの夜の間に、それはピッタリの一冊を。
どんなにニッチなカップリングでも、受けでも攻めでも、思いのままの薄い一冊を。
臨時雇いのサンタクロースが、素敵な仕事をしてくれるから。
シャンシャンと賑やかに鈴を鳴らして、トナカイの橇で来てくれるから…。
聖夜に一冊 ~薄い本を貴女に~ ・了
※どうしようもなく馬鹿だ自分、と思ってしまった酷いお話。BLなんか書けないのに。
サンタクロースと同じくお手上げ、本の中身はご自由にどうぞv
(…パパ…。ママ…)
自分はなんと馬鹿だったのだろう、とシロエがきつく噛み締めた唇。
失くしてしまった父と母。…それから自分が育った家。
全部、故郷に置いて来てしまった。
雲海の星、アルテメシアのエネルゲイアに。
持って来られた物はたった一つだけ、両親に貰ったお気に入りの本。
(ピーターパン…)
ポタリと机に零れ落ちた涙。
ピーターパンの本が涙でぼやける、滲んでしまったその表紙の絵。
空を飛んでゆくピーターパンも、ティンカーベルも、続く子供たちも。
輪郭だけしか見て取れないから、慌てて拳で涙を拭った。
…この本までが消えてしまいそうで。
両親や故郷の記憶と同じに、ぼやけて見えなくなりそうで。
(ぼくの本…)
ギュッと抱き締め、その感触を確かめたら、また溢れ出して零れた涙。
ピーターパンの本はあるのに、何処にもありはしない家。
両親の家に帰れはしなくて、もう道順さえ分からない。
たとえアルテメシアに飛べても、エネルゲイアまで飛んでゆけても。
(…ぼくの家は何処…?)
気付けば、それさえも自分は覚えていなかった。
故郷はアルテメシア、としか。
アルテメシアにあったエネルゲイア、と其処までしか。
どうしてこうなったんだろう、と悔やんでも悔やみ切れない、あの日。
十四歳の誕生日を迎えて、両親に「行って来ます」と告げた日。
成人検査が無事に済んだら、振り分けられる教育ステーション。
父は何度も言ってくれていた、「メンバーズも夢じゃないかもな」と。
エリートだけが行けるステーション、其処に入ってメンバーズに。
そうなれば行けるらしい地球。
ネバーランドよりも素敵な場所だと、父が教えてくれた星。
(…パパだって行けなかった星…)
優れた研究者であり、技術者でもあった大好きな父。
その父でさえも行けなかった地球、いつかその星を見たいと思った。
メンバーズになって、素晴らしい地球へ。
其処へ行ったと父に言おうと、母にも聞いて貰おうと。
そうするためには、エリートが集まる教育ステーションに入らなければならないけれど。
(ぼくの成績なら、きっと行けるって…)
父も言ったし、学校でも期待されていた。
技術系のエキスパートを育成するためのエネルゲイアから、メンバーズが出るかもしれないと。
いい成績を収めて欲しいと、エリート候補生からメンバーズへ、と。
エリートが集う教育ステーションは、メンバーズになるための第一歩。
だから、楽しみでもあった。
目覚めの日を迎えて、其処へ行くのが。
「やっと選ばれた」と胸を張って、旅立ちを迎えるのが。
両親との別れは辛いけれども、ほんの少しの間だけ。
教育ステーションを卒業したなら、また戻れると思っていたから。
夢と希望に胸を膨らませて、家を出た、あの日。
ほんの少しの不安を抱えて。
「荷物を持って行っては駄目だ」と教えられて来た、成人検査。
目覚めの日と呼ばれる十四歳の誕生日の日に、何処かで受けると聞かされた検査。
その日は荷物を持って行けない。
けれども、離れたくなかった大切な本。
両親に貰ったピーターパン。
この本だけは、と鞄に詰め込み、「さよなら」と両親に手を振った。
また帰って来る日まで、四年ほどのお別れ。
戻って来る時もピーターパンの本を持っていられたらいいと、鞄を提げて。
検査の係に「駄目です」と取り上げられたら困る、と小さな不安を胸に抱いて。
でも、そうなったら、その時のこと。
本は係に預けよう。「パパとママの家に届けて下さい」と頼んでおこう。
メンバーズになって家に戻った時、またこの本に出会えるように。
(パパとママなら…)
きっと大切に残しておいてくれるから。
自分が過ごした部屋の本棚、其処に戻してくれるだろうから。
(…ピーターパンの本は、持って来られたけれど…)
教育ステーションまで持って来られたけれども、失くしてしまった沢山のもの。
両親も家も、故郷の記憶も。
「捨てなさい」と、「忘れなさい」と、忌まわしい機械に取り上げられて。
テラズ・ナンバー・ファイブに消されて、おぼろげでしかなくなった記憶。
両親の顔も、育った家も。…いつも歩いた街並みさえも。
(…もう帰れない…)
今の自分は帰ってゆけない、アルテメシア行きの船に乗れても。
ピーターパンやティンカーベルが、一緒に宇宙を飛んでくれても。
育った家が分からないから、帰り道を忘れてしまったから。
今のままでは、辿り着けない。
…いつか機械に、「記憶を返せ」と命令できる日が来るまでは。
正真正銘のエリートになって、システムを変えられる地位に就くまでは。
メンバーズに選ばれ、地球にまで行って、国家主席に。
それよりも他に道などは無くて、それを自分は進むより無い。
失くした記憶を取り戻すには。
…両親の所へ帰るには。
何年かかるか、分からない道。
教育ステーションだけで四年で、その先は自分の腕次第。
何処まで短縮出来るのだろうか、想像もつかない遠い道のりを。
長い年月、空席のままの国家主席になるまでの道を。
(…でも、パパとママは…)
きっと待っていてくれることだろう。
養父母としては、年配だった筈だから。
自分の後に次の子供を育てるとは、とても思えないから。
(ぼくは、いつまでも、パパとママの子…)
それだけが救い。
両親の顔はぼやけてハッキリしないけれども、それは記憶を消されたから。
成人検査で機械が奪ってしまったから。
(パパとママには、成人検査なんて…)
もう無いのだから、自分の顔もきっと覚えていてくれるだろう。
この瞬間にも、思い出してくれているかもしれない。
もしかしたら、自分の写真が沢山貼られたアルバムを開いて、見ていることだって…。
(パパとママなら…)
きっとあるよ、と思いを馳せる。
だから、あの家へ帰ってゆこうと。
いつか記憶を取り戻したら。…国家主席に昇り詰めたら。
「ただいま」と、「ぼくは帰って来たよ」と。
その頃にはきっと、両親にとっても自慢の息子。
「うちのシロエが国家主席になってくれた」と、「大切に育てた甲斐があった」と。
アルテメシアへ、故郷へ帰る船に乗ること、それだけが夢。
メンバーズも、それに国家主席も、そのためだけの足掛かり。
機械が支配する世界を変えて、失くした記憶を取り戻すための。
両親の顔と育った家とをまた思い出して、其処へ帰って行く日のための。
(…必ず、思い出すんだから…)
ピーターパンの本を持って行こうと決めて家を出て、此処まで持って来られた自分。
誰も持ってはいない持ち物、それを確かに持っている自分。
(頑張れば、夢は叶うんだから…)
成人検査では機械にしてやられたけれど、こうして本は持って来た。
「持ち物は駄目だ」という規則があるのに、それをくぐり抜けて。
自分の意志が機械に勝った証拠で、今も手元にあるピーターパンの本。
(…二度と、機械には騙されない…!)
甘い言葉に騙されないよう、陥れられてしまわないよう、気を付けなければ。
マザー・イライザの魔手をすり抜け、メンバーズへの道を歩まなければ。
その先だって、機械に惑わされないように意志を強く持って。
国家主席に昇り詰めるまで、世界のシステムを変えるまで。
(…待ってて、パパ、ママ…)
ぼくは必ず家に帰るから、と抱き締めるピーターパンの本。
家に帰ったら、この本を真っ先に見せなければ、と両腕でギュッと。
「パパとママに貰ったピーターパンだよ」と、「これのお蔭で強くなれたよ」と、いつの日か。
本は古びているだろうけれど、その日が来るのが待ち遠しい。
「まだ大切に持っていたのか」と父が驚いてくれる日が。
「シロエの大好きな本だったわねえ…」と母が笑顔になってくれる日が。
その日までずっと、ピーターパンの本と一緒にゆこう。
メンバーズの道へも、遠い地球へも。
国家主席の執務室へも、このピーターパンの本と一緒に…。
帰りたい家・了
※教育ステーションを卒業したら家に帰れる、と思っていたシロエ。普通はそうじゃないかと。
まさか「記憶を消される」なんて、子供は思わないですよね~。大人も気付いてないけどな!