(…パパ…。ママ…)
自分はなんと馬鹿だったのだろう、とシロエがきつく噛み締めた唇。
失くしてしまった父と母。…それから自分が育った家。
全部、故郷に置いて来てしまった。
雲海の星、アルテメシアのエネルゲイアに。
持って来られた物はたった一つだけ、両親に貰ったお気に入りの本。
(ピーターパン…)
ポタリと机に零れ落ちた涙。
ピーターパンの本が涙でぼやける、滲んでしまったその表紙の絵。
空を飛んでゆくピーターパンも、ティンカーベルも、続く子供たちも。
輪郭だけしか見て取れないから、慌てて拳で涙を拭った。
…この本までが消えてしまいそうで。
両親や故郷の記憶と同じに、ぼやけて見えなくなりそうで。
(ぼくの本…)
ギュッと抱き締め、その感触を確かめたら、また溢れ出して零れた涙。
ピーターパンの本はあるのに、何処にもありはしない家。
両親の家に帰れはしなくて、もう道順さえ分からない。
たとえアルテメシアに飛べても、エネルゲイアまで飛んでゆけても。
(…ぼくの家は何処…?)
気付けば、それさえも自分は覚えていなかった。
故郷はアルテメシア、としか。
アルテメシアにあったエネルゲイア、と其処までしか。
どうしてこうなったんだろう、と悔やんでも悔やみ切れない、あの日。
十四歳の誕生日を迎えて、両親に「行って来ます」と告げた日。
成人検査が無事に済んだら、振り分けられる教育ステーション。
父は何度も言ってくれていた、「メンバーズも夢じゃないかもな」と。
エリートだけが行けるステーション、其処に入ってメンバーズに。
そうなれば行けるらしい地球。
ネバーランドよりも素敵な場所だと、父が教えてくれた星。
(…パパだって行けなかった星…)
優れた研究者であり、技術者でもあった大好きな父。
その父でさえも行けなかった地球、いつかその星を見たいと思った。
メンバーズになって、素晴らしい地球へ。
其処へ行ったと父に言おうと、母にも聞いて貰おうと。
そうするためには、エリートが集まる教育ステーションに入らなければならないけれど。
(ぼくの成績なら、きっと行けるって…)
父も言ったし、学校でも期待されていた。
技術系のエキスパートを育成するためのエネルゲイアから、メンバーズが出るかもしれないと。
いい成績を収めて欲しいと、エリート候補生からメンバーズへ、と。
エリートが集う教育ステーションは、メンバーズになるための第一歩。
だから、楽しみでもあった。
目覚めの日を迎えて、其処へ行くのが。
「やっと選ばれた」と胸を張って、旅立ちを迎えるのが。
両親との別れは辛いけれども、ほんの少しの間だけ。
教育ステーションを卒業したなら、また戻れると思っていたから。
夢と希望に胸を膨らませて、家を出た、あの日。
ほんの少しの不安を抱えて。
「荷物を持って行っては駄目だ」と教えられて来た、成人検査。
目覚めの日と呼ばれる十四歳の誕生日の日に、何処かで受けると聞かされた検査。
その日は荷物を持って行けない。
けれども、離れたくなかった大切な本。
両親に貰ったピーターパン。
この本だけは、と鞄に詰め込み、「さよなら」と両親に手を振った。
また帰って来る日まで、四年ほどのお別れ。
戻って来る時もピーターパンの本を持っていられたらいいと、鞄を提げて。
検査の係に「駄目です」と取り上げられたら困る、と小さな不安を胸に抱いて。
でも、そうなったら、その時のこと。
本は係に預けよう。「パパとママの家に届けて下さい」と頼んでおこう。
メンバーズになって家に戻った時、またこの本に出会えるように。
(パパとママなら…)
きっと大切に残しておいてくれるから。
自分が過ごした部屋の本棚、其処に戻してくれるだろうから。
(…ピーターパンの本は、持って来られたけれど…)
教育ステーションまで持って来られたけれども、失くしてしまった沢山のもの。
両親も家も、故郷の記憶も。
「捨てなさい」と、「忘れなさい」と、忌まわしい機械に取り上げられて。
テラズ・ナンバー・ファイブに消されて、おぼろげでしかなくなった記憶。
両親の顔も、育った家も。…いつも歩いた街並みさえも。
(…もう帰れない…)
今の自分は帰ってゆけない、アルテメシア行きの船に乗れても。
ピーターパンやティンカーベルが、一緒に宇宙を飛んでくれても。
育った家が分からないから、帰り道を忘れてしまったから。
今のままでは、辿り着けない。
…いつか機械に、「記憶を返せ」と命令できる日が来るまでは。
正真正銘のエリートになって、システムを変えられる地位に就くまでは。
メンバーズに選ばれ、地球にまで行って、国家主席に。
それよりも他に道などは無くて、それを自分は進むより無い。
失くした記憶を取り戻すには。
…両親の所へ帰るには。
何年かかるか、分からない道。
教育ステーションだけで四年で、その先は自分の腕次第。
何処まで短縮出来るのだろうか、想像もつかない遠い道のりを。
長い年月、空席のままの国家主席になるまでの道を。
(…でも、パパとママは…)
きっと待っていてくれることだろう。
養父母としては、年配だった筈だから。
自分の後に次の子供を育てるとは、とても思えないから。
(ぼくは、いつまでも、パパとママの子…)
それだけが救い。
両親の顔はぼやけてハッキリしないけれども、それは記憶を消されたから。
成人検査で機械が奪ってしまったから。
(パパとママには、成人検査なんて…)
もう無いのだから、自分の顔もきっと覚えていてくれるだろう。
この瞬間にも、思い出してくれているかもしれない。
もしかしたら、自分の写真が沢山貼られたアルバムを開いて、見ていることだって…。
(パパとママなら…)
きっとあるよ、と思いを馳せる。
だから、あの家へ帰ってゆこうと。
いつか記憶を取り戻したら。…国家主席に昇り詰めたら。
「ただいま」と、「ぼくは帰って来たよ」と。
その頃にはきっと、両親にとっても自慢の息子。
「うちのシロエが国家主席になってくれた」と、「大切に育てた甲斐があった」と。
アルテメシアへ、故郷へ帰る船に乗ること、それだけが夢。
メンバーズも、それに国家主席も、そのためだけの足掛かり。
機械が支配する世界を変えて、失くした記憶を取り戻すための。
両親の顔と育った家とをまた思い出して、其処へ帰って行く日のための。
(…必ず、思い出すんだから…)
ピーターパンの本を持って行こうと決めて家を出て、此処まで持って来られた自分。
誰も持ってはいない持ち物、それを確かに持っている自分。
(頑張れば、夢は叶うんだから…)
成人検査では機械にしてやられたけれど、こうして本は持って来た。
「持ち物は駄目だ」という規則があるのに、それをくぐり抜けて。
自分の意志が機械に勝った証拠で、今も手元にあるピーターパンの本。
(…二度と、機械には騙されない…!)
甘い言葉に騙されないよう、陥れられてしまわないよう、気を付けなければ。
マザー・イライザの魔手をすり抜け、メンバーズへの道を歩まなければ。
その先だって、機械に惑わされないように意志を強く持って。
国家主席に昇り詰めるまで、世界のシステムを変えるまで。
(…待ってて、パパ、ママ…)
ぼくは必ず家に帰るから、と抱き締めるピーターパンの本。
家に帰ったら、この本を真っ先に見せなければ、と両腕でギュッと。
「パパとママに貰ったピーターパンだよ」と、「これのお蔭で強くなれたよ」と、いつの日か。
本は古びているだろうけれど、その日が来るのが待ち遠しい。
「まだ大切に持っていたのか」と父が驚いてくれる日が。
「シロエの大好きな本だったわねえ…」と母が笑顔になってくれる日が。
その日までずっと、ピーターパンの本と一緒にゆこう。
メンバーズの道へも、遠い地球へも。
国家主席の執務室へも、このピーターパンの本と一緒に…。
帰りたい家・了
※教育ステーションを卒業したら家に帰れる、と思っていたシロエ。普通はそうじゃないかと。
まさか「記憶を消される」なんて、子供は思わないですよね~。大人も気付いてないけどな!