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(もしかしたら、パパ…?)
 そうだったのかな、とシロエが見詰める手の中。
 小さなコンパス、磁石を使った初期型のもの。
 このステーションに来てから間もない頃に、自分で作って持っているそれ。
(作り方を教えてくれた人…)
 今は全く思い出せない、その人の顔。
 男性だったか、女性だったのか、それさえも。
 何処で教わったか、それも分からないまま。
 学校だったか、家だったのかも分からないから、まるで無い手掛かり。
 けれども、これを手に取った時に、スイと頭を掠めた思い。
 父だったかも、と。
(…エネルゲイアは…)
 技術関係のエキスパートを育てることを目標としていた、育英都市。
 記憶はどんどん薄れてゆくけれど、そのくらいの情報は今も得られるから。
(…技術関係のエキスパートなら…)
 きっと苦もなく作れるのだろう、コンパスくらい。
 これよりももっと凝ったものでも、高度なものでも。
 だから父でも不思議ではない、作り方を教えてくれた誰かは。
 逆に言うなら、他の誰でも、おかしくないということだけれど。
 学校の教師でも、近所に住んでいた誰かでも。
 あるいは年上の友達でも。

 父だったなら、と思いたい。
 ピーターパンの本をくれた両親、今も大好きな父と母。
 顔さえ思い出せなくなっても、好きだったことは忘れないから。
 今も覚えているのだから。
(きっとパパが教えてくれたんだ…)
 そう信じたなら、少し心が軽くなる。
 コンパスの中には、父の思い出。
 自分が忘れてしまっていたって、この手は父を覚えていたから。
 こうして作る、とコンパスのことを覚えたままでいてくれたから。
(……パパ……)
 パパだったよね、と尋ねてみたって、返らない答え。
 コンパスは何も話しはしないし、エネルゲイアは遠いから。
 父のいる家に、声が届きはしないから。
 何処に在ったかも分からない家。
 高層ビルとしか覚えていなくて、町の景色も思い出せない。
 映像を見ても湧かない実感、何もかもが全部、偽物に見える。
 機械だったら、映像くらいは簡単に処理してしまえるから。
 偽の情報を混ぜていたって、誰も気付きはしないから。
(…機械の言うことは嘘ばかりだ…)
 記憶を奪った成人検査も、あんな中身だとは自分は思いもしなかった。
 誰もそうだと教えはしないし、一度も習いはしなかったから。
 大人になるための節目の一つで、十四歳の誕生日。
 目覚めの日と呼ばれる日がそうなのだと、旅立ちの日だと教わっただけ。
 荷物を持っては行けないとだけ。

 何もかもが嘘で塗り固められた、機械が支配している世界。
 本当のことなど探せはしなくて、きっと一つも見付けられない。
 自分の記憶が曖昧なように、世界そのものが曖昧だから。
 真実はきっと、機械が隠しているだろうから。
(ぼくの家だって、捜せない…)
 住所を覚えていないから。
 家へ帰るための道順さえも、思い出すことが出来ないから。
 覚えていたなら、このコンパスが役に立つのに。
 エネルゲイアの町に立ったら、「こっち」と歩いてゆけるのに。
 家が在った場所も分からなければ、両親の顔も思い出せない自分。
 まるで迷子のロストボーイで、何もかも全部、機械のせい。
 真実は伏せて、嘘ばかりの。
 いいように嘘を教える機械の。
(…パパの名前だって…)
 此処にデータはあるけれど、と呼び出した画面。
 ステーションに着いて以来の自分の記録で、生年月日と両親の名前。
 それを眺めてもピンと来ないし、赤の他人を見ているよう。
 顔写真すらついていないから、ただの文字でしかないのだから。
(…コンパス、パパならいいんだけど…)
 パパに教わったなら嬉しいけれど、と見詰める名前。
 父だと言われればそうも思うし、違うと言われても「そうか」と思う。
 そのくらい曖昧になっているのが、今の自分の両親の記憶。
 誰かの記録と入れ替わっていても、丸ごと信じてしまいそうなほどに。
 これが父かと、母の名前かと、しみじみと眺めていそうなほどに。

(……パパ……)
 本当に思い出せないよ、と画面を見ていて気付いたこと。
 コンパスの記憶は無いのだけれども、父の仕事は…。
(…凄く大事な研究だった…?)
 そんな気がしてたまらない。
 エネルゲイアでも屈指の技術者、そうでなければ研究者。
 父が誇らしかったから。
 いつか自分も父のように、と憧れたように思うから。
(だとしたら…)
 嘘で固められた世界だけれども、真実を掴めるかもしれない。
 父が優秀な技術者だったら、研究者だったというのなら。
(きっと何処かに、パパのデータが…)
 あるに違いない、と閃いた。
 いくら機械が隠し続けても、嘘をついても、消せない真実。
 優秀な人間の名前や功績、それはデータが残るから。
 SD体制の時代の分も、その前の分も。
 子供相手なら隠せたとしても、大人社会への入口に立ったら、データは開示される筈。
 それは役立つ情報だから。
 誰がどういう研究をしたか、どういう成果を上げたのか。
(…パパの名前も…)
 ある筈なんだ、とデータベースに打ち込んだ名前。
 きっと故郷に繋がるから。
 パスワードなどをくぐり抜けたら、懐かしい家にも辿り着けるから。

 心を躍らせて打ち込んだ名前、此処で機械は嘘をつけない。
 父の名前は父の名前で、他の誰かでは有り得ないから。
 其処まで細かい細工はしないし、自分の名前は今も昔もセキ・レイ・シロエ。
(パパだって、セキ…)
 ミスター・セキ、と呼ばれていた筈。
 父の名前はきっとある筈、ミスター・セキでも、フルネームでも。
 「エネルゲイア」と区切って入れた。「アタラクシア」も。
 データベースに名前があるなら、これだけ絞れば、と。
 ドキドキしながら出したコマンド、「この条件で探すように」と。
 一瞬、明滅した画面。
 そして出て来た、ミスター・セキの名。
 父のフルネームも一緒にあるから、間違いなく父。
(パパだ…!)
 ぼくのパパだ、と詳しいデータを表示させようとしたのだけれど。
 いきなり住所は出ないとしたって、所属の部署や顔写真なら、と指示したけれど。
(…エラー…?)
 嘘だ、と受けた衝撃。
 ブロックされている父の情報、それは確かにある筈なのに。
 データベースに存在するなら、開示されている筈なのに。
(…ぼくには引き出せないデータ…?)
 自分がセキ・レイ・シロエだから。
 養父の情報を引き出そうとして、アクセスしたと判断されて。
 機械だったら、そのくらいのことはやりかねない。
 この端末からマザー・イライザが来るのだから。
 「どうしたのですか?」と呼ぶのだから。
 きっとそうだ、と机に激しく叩き付けた拳。
 せっかく此処まで辿り着いたのに、自分は先へと進めないのかと。
 パスワードさえもくぐれないのかと、「セキ・レイ・シロエ」だから駄目なのかと。

 またも機械にしてやられたから、目の前で父を隠されたから。
 他の者なら引き出せるだろう、父の情報は開かないから。
(これも機械のやり方なんだ…)
 許すもんか、と零れる涙。
 此処まで自分で辿り着いたのに、やっと見付けた手掛かりなのに。
(何もかも、いつか思い出してやる…)
 機械が此処までやるのだったら、自分が地球のトップに立って。
 国家主席の地位に昇り詰めて、憎い機械を必ず止める。
 「ぼくの記憶を全部返せ」と命令して。
 記憶を全て取り戻したなら、「止まってしまえ」と機械に命じて。
 その日が来たなら、懐かしい父を取り戻す。
 優しかった母も、大好きだった家も。
(……パパ……)
 ぼくは必ず帰るからね、と「ミスター・セキ」としか表示されない画面を閉じた。
 父の名前しか表示されない、自分を拒否する憎い画面を。

 そして眠ったシロエは知らない、エラーメッセージの本当の理由。
 父の所属は、国家機密のMを扱う研究所。
 サイオニック研究所は存在自体が極秘なのだと、国家機密だとシロエは知らない。
 国家機密のエラーメッセージ、それをシロエは知らないから。
 まだ学んではいなかったから。
 知っていたなら、シロエは機械に従ったろうか?
 父のデータを見られる日までは、逆らいながらもエリートの道を進んだろうか?
 それは今でも分からないまま。
 シロエは空へと飛び立ったから。
 いつまでも、何処までも、自由に飛び続けられる広い空へと…。

 

        隠された父・了

※シロエのお父さんのデータは捜せるんじゃないの、と一瞬、思った管理人ですけど。
 所属している部署が悪かったっけ、と気付いたことから出来たお話。Mじゃ国家機密…。
 シロエが持っているコンパスは捏造、「後は真っ直ぐ」に出て来ます。





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(あ…)
 今日も、とマツカが零した溜息。
 また今日もだ、と。
 キースが去って行った後。
 下げに出掛けたコーヒーのカップ、底に少しだけ残ったコーヒー。
 本当にほんの少しだけ。
 多分、一口で飲める程度の。
(…今度は何が…)
 あったんだろう、と心の中だけで一人呟く。
 キースの心を占めるのは何か、何が心を覆うのかと。
 こういう風に残ったコーヒー、たまにキースが飲み残す時。
 きっとキースは、何かに捕まってしまっている筈。
 それの中身は分からないけれど。
 苛立ちなのか、頭を悩ませるような何かか。
 それとも悲しみ、あるいは後悔。
(…ぼくには何も分からないけれど…)
 キースの心は読めないけれども、カップの底に残ったコーヒー。
 今夜のように残っている日は、そうだから。
 此処にキースの心は無いから、何処かへと飛んでいる筈だから。


 初めてそれを目にした時には、自分が失敗したと思った。
 キースの口には合わないコーヒー、不味いコーヒーを淹れたのだと。
(てっきりそうだと…)
 考えたから、自分を叱った。
 「次は、気を付けて淹れなければ」と。
 そうして心を砕いているのに、キースのカップに残るコーヒー。
 ほんの一口か二口分だけ、すっかり冷めてしまったものが。
 これでは駄目だ、と懸命に覚えたコーヒーの淹れ方。
 「美味いコーヒーを飲ませる店だ」と耳にしたなら、休暇の時に出掛けて行った。
 国家騎士団にいるコーヒー好きにも、それとなく淹れ方を聞いたりした。
(キースが美味しそうに飲んだ時だって…)
 どう淹れたのかを書き留めておいた。
 キースは顔に出さないけれども、美味しそうに飲めば分かるから。
 後姿を見ているだけでも、なんとなく分かるものだから。
 それが自分がミュウだからなのか、そうでないかは分からない。
 けれど、理由はどうでもいいこと。
 キースが「美味い」と思うコーヒー、それを淹れられたら嬉しいから。
 「役に立てた」と、心がほどけてゆくのだから。


 そうやって覚えていったコーヒー。
 キースの好む豆や淹れ方、そういったものを一つずつ。
 なのに、キースはコーヒーを残す。
 いつも通りに淹れた筈なのに、けして不味くはない筈なのに。
 だから「変だ」と思った自分。
 キースがコーヒーを残す理由は、味のせいではないかもしれない、と。
 ならば、理由は何なのだろう?
 コーヒーを運んだ自分の態度が気に入らないとか、気に障ったとか。
 その可能性だって考えた。
 自分が淹れたコーヒーなのだし、原因はきっと自分だろうと。
(ぼくのせいなら…)
 少しもキースの役に立たない。
 憩いのひと時の筈のコーヒー、それを「不味い」と思わせたなら。
 「今日のコーヒーは美味くなかった」と、キースがカップに残すなら。
 もっと、もっと気を配らねば。
 コーヒーの味にも、「どうぞ」とキースに差し出す時にも。
 指の先まで、神経をピンと張り詰めて。
 声を出す時も、柔らかな声になるように。
 キースが不快に思わない声、それから態度。
 視線はもちろん、コーヒーを置いて去ってゆく時の背中にだって。
 どれも気を付けて、キースの機嫌を損ねないように。
 コーヒーを飲んで、心からホッと出来る時間を置いてゆけるように。


 それなのに、やはり残るコーヒー。
 たまにだったり、何日もそれが続いたり。
 いったい何がいけなかったかと、何度も悩んだ。
 「昨日のぼくは…」と思い返して、今日の自分と重ねてみたりと。
 けれど解けない、分からない理由。
 キースが飲まずに残すコーヒー、カップの底にほんの少しだけ。
 もしかしたら、と気付いた日は…。
(…サムの病院…)
 いつものように、キースについて出掛けた病院。
 自分は病室に行かないけれども、外で帰りを待っていた時。
 出て来たキースの顔に感じた、微かな曇り。
 普段だったら、此処へ来た後、キースの心は晴れているのに。
 心をわざわざ覗かなくても、凪いでいるのが分かる病院。
 サムに会ったら、キースの心は晴れるのだと。
 ステーション時代からの友人、サムは今でも、たった一人のキースの大切な友なのだ、と。
(…でも、あの時は…)
 晴れる代わりに曇った心。
 キースは何一つ、自分に話しはしなかったけれど…。
(きっと、サムの具合が…)
 良くなかったに違いない、と直ぐに分かった。
 風邪でも引いて熱があったか、薬で眠らされていただとか。
 酷く興奮していたのならば、そういう治療もあるだろうから。
(その夜、キースは…)
 コーヒーをカップに残していった。
 ほんの少しだけ、まるで飲むのを忘れたかのように。


 次の日も、同じに残ったコーヒー。
 サムの病院から連絡が入って取り次いだ日まで、コーヒーはカップに残り続けた。
 連絡があった日、下げに行ったら綺麗に飲んであったコーヒー。
 それでようやく「そうか」と気付いた。
 心に重い何かがある時、キースはコーヒーを残すのだと。
 最後まで飲むことを忘れているのか、残っていることに気付きもしないで立ってゆくのか。
(…どっちなのかは分からないけれど…)
 コーヒーを飲んでも、キースが心から安らげない日。
 そういう時にはコーヒーが残る。
 どんなに美味しく淹れてみたって、心を配って差し出したって。
 一度気付けば、ピタリと嵌まり始めたピース。
 「まただ」と、「今日も何かあった」と。
 そう思ってキースを見ていたならば、纏う空気が違うのが分かる。
 心の中身は分からなくても、「今日のキースは、いつもと違う」と。
 コーヒーを残すほどだから。
 心が何処かに行ってしまって、一口か二口、置いてゆくから。


 今日もそうだ、と溜息をついてカップを下げる。
 いったい何がキースの心を占めるのだろうと、あの人に何があったろう、と。
(…任務のことは、ぼくには何も…)
 分からないから、何も出来ない。
 キースの心を軽くするための手伝いは無理で、何の役にも立てない自分。
(…サムの具合が悪い時だって…)
 やっぱり自分は役に立てない。
 「大丈夫ですよ」と気休めなどは言えないから。
 「元気を出して下さい」とも。
 自分はキースの友達ではなくて、部下の一人で、部下の中でも…。
(ぼくが一番、役に立たない…)
 「コーヒーを淹れることしか能が無い、ヘタレ野郎だ」と言われるほどに。
 面と向かって言わない者でも、そう思っていることだろう。
 だからキースに何も言えない、掛けられる言葉を自分は持たない。
 こうして心配することだけ。
 「明日はコーヒーが残らないように」と願うしかない、たったそれだけ。
 自分は何も出来ないから。
 キースに言葉も掛けられないから。


(ぼくに出来ることは…)
 ただコーヒーを淹れることだけ。
 「コーヒーを頼む」と言われたら。
 キースがそれを望んだならば。
 精一杯に、心をこめて。
 キースの心が此処に無いなら、せめて舌だけでも安らぎを覚えて欲しいから…。
(…美味しく淹れて、丁度いい熱さで…)
 明日もキースにコーヒーを。
 そのコーヒーが、カップの底に少しだけ残らないといい。
 明日は綺麗に飲んで貰えて、空のカップを下げられたらいい。
 キースの心が軽くなったら、コーヒーが残りはしないから。
 それを祈るしか出来ないのだから、明日は空になったカップを下げたい。
 少しでも早く、キースの心が晴れればいい。
 自分は何も手伝えないから。
 ほんの小さな気の利いた言葉、それさえも言えはしないから。
 だから、心から祈ることだけ。
 明日はカップが空になるように、キースの心を覆う何かが消えるようにと…。

 

        底に少しだけ・了

※「コーヒーを淹れることしか能の無い、ヘタレ野郎」と、セルジュが言うほどのマツカ。
 それだけではない筈なんですけど…。コーヒーに気を配っているのは確かだよね、と。





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(ソルジャー・ジョミー…)
 どうも据わりが今一つ、とハーレイがついた大きな溜息。
 アルテメシアを後にしてから、これが頭痛の種だった。ソルジャー・ブルーは日に日に弱って、世代交代の日が近そうで。
(お亡くなりになるとは思わないが…)
 近い将来、陣頭指揮は執れなくなってしまうだろう。青の間から一歩も出られない上に、思念も細くなっているから。
 そうなれば跡を継ぐのはジョミーで、ソルジャー候補からソルジャーになる。その時、彼をどう呼ぶのかが大いに問題、慣例で行けば「ソルジャー・ジョミー」。
 慣例も何も、初代はソルジャー・ブルーなのだし、二代目だけれど。
 大袈裟に騒ぎ立てなくても良さそうだけれど、「ソルジャー・ジョミー」は据わりが悪い。
 前々からゼルたちも指摘していた、その件について。
(呼びにくいわい、と言われても…)
 ジョミーの名前はジョミー・マーキス・シン、ファーストネームは「ジョミー」でしかない。
 それを「ソルジャー」の後につけたら、どう転がっても「ソルジャー・ジョミー」。
 どんなに据わりが悪かろうとも、これより他に道は無いわけで…。
(……弱ったな……)
 いっそ改名して貰おうか、とまで思うくらいに悩ましい問題、「ソルジャー・ジョミー」。
 ジョミーの名前がジョーだったなら、悩まないのに。
 「ソルジャー・ジョー」と呼べるのだったら、何処からも苦情は来ないのに。


 なんとも困った、と悩みまくっても、どうにもならないジョミーの名前。
 刻一刻と近付く世代交代、その時が来た時、どうしたものか。
 悩み続けていたら、「ハーレイ」とゼルに呼び止められた。ブリッジから部屋へと帰る途中で、「ジョミーの件じゃが」と。
 とうとう来たな、と振り返ったら、エラもブラウも、ヒルマンもいた。
(…敵全逃亡は不可能か…)
 仕方ない、と溜息交じりに皆を引き連れ、帰った部屋。場の雰囲気を和らげようと出した秘蔵の合成ラムは、「結構」とゼルに跳ね付けられた。
「分かっておろう。…ジョミーの名前をどうするんじゃ」
「ソルジャー・ジョミーって呼べってかい?」
 あたしは勘弁願いたいね、とブラウもまるで遠慮が無い。エラもヒルマンも頷いているし、案を出すしかないだろう。
「…改名して貰うのが一番かと…」
「ほほう…。それはいいかもしれないね」
 うん、とヒルマンの顔が綻んだ。ジョミーだったらジョーだろうかと、他にも何か、と。
「ジョーじゃな、それが据わりが良さそうじゃ」
 それに「ミ」を抜くだけで済むし、とゼルも乗り気な「ソルジャー・ジョー」。
 やはり改名しかないのだな、と思ったものの、ジョミーになんと切り出したものか。


(無理やりソルジャーに仕立て上げた上に、名前まで…)
 変えろと言っていいのだろうか、と眉間に皺を寄せていたら…。
『その件で、ぼくも話がある』
 いきなり飛んで来た思念。
「ソルジャー・ブルー?」
「ソルジャー?!」
 今のを全部聞かれていたか、と慌てふためき、それでも急いで取った礼。
 思念波の主は「続きは後で」と、青の間に来るよう指定した。思念を飛ばすのは疲れるからと、会って話すなら問題無いが、と。
「…ソルジャーがお呼びじゃ。行くしかないのう…」
「ソルジャー・ジョミーにしておくように、と仰るのでしょうか?」
 エラが不安そうな顔をしているけれども、恐らく、そういうことだろう。次期ソルジャーに改名させるとは何事か、と叱られた上に、「ソルジャー・ジョミー」で確定な呼び名。
 ソルジャー・ブルーが出て来た以上は、他に考えられないから。
(…喜ばしくはあるのだが…)
 ジョミーのためにはソルジャー・ジョミー、と思うけれども、呼びにくい。船の者たちも苦労をするだろうな、と溜息は深くなるばかり。
 それでも長老の四人と一緒に青の間に向かい、「遅くなりました」と入ったら…。


「ハーレイ。…君の名前は何だった?」
 ベッドに横たわったままのブルーに向けられた視線。「君の名前は?」と。
「は、はい? …ハーレイですが」
「違うだろう? 君はウィリアムの筈だ。ウィリアム・ハーレイ」
 それがどうしてハーレイなんだい、と見上げてくる瞳。何故そうなった、と。
「…キャプテン・ウィリアムは呼びにくい、と…」
 そう答えながら、「何処かでこういう話を聞いた」と気が付いた。ジョミーのことだ、と。他の四人も気付いたようで、「そういえば…」と上がった声。
「ゼルが言ったんじゃなかったかねえ、あの時もさ」
「わしだけではないぞ、エラもヒルマンもじゃ!」
 お前だ、いやいや、あんただ、お前だ、と揉め始めたけれど、確かに昔、起こった事件。
 キャプテン・ウィリアムは据わりが悪い、とキャプテン・ハーレイになったのだった。
(…私もすっかり忘れ果てていたが…)
 似たような話が前もあったか、と遠い昔を振り返っていたら、「分かったかい?」とブルーが皆を見回した。
「…ジョミーも、あの時と同じでいい。ソルジャー・シンでいいだろう」
「ソルジャー・シンですか?」
 訊き返したら、「そうだ」とブルーは頷いた。これで文句は無いだろう、と。


「そうじゃな、ソルジャー・シンならマシじゃ」
 それにジョミーも納得するじゃろ、とゼルが引っ張った髭。「ハーレイの例があったわい」と。
「ええ、前例はありますね。…ソルジャーではなくて、キャプテンですが」
 よろしいでしょう、とエラも賛成。ヒルマンもブラウも文句は無くて、ソルジャー・シンという呼び名が決まった。
 いつかジョミーが跡を継いだら、ソルジャー・シン。それでいこうと、前例もある、と。
 なにより、ソルジャー・ブルーの指示。
 誰からも苦情は出ないだろうし、ジョミーも素直に従う筈。改名させるわけではないし、ファーストネームか、ファミリーネームかの違いだけだから。
(これで私も肩の荷が…)
 下りた、とホッとしていたら、「もう一つある」と聞こえた声。ベッドの方から。
「…ソルジャー?」
 今度は何を、と思った途端に、「遺言だ」という物騒な台詞。
 まさか寿命が尽きるのか、と誰もが愕然、神妙な顔でベッドの周りに立ったのに…。


「真に受けないでくれたまえ。…まだ死なない」
 だが、遺言だと思って聞いて欲しい、と赤い瞳がゆっくり瞬いた。
 「地球は遠い」と始まった言葉。ジョミーの代で辿り着けるとは限らない、と。
 次のソルジャーが呼びにくい名前だったなら。…どうしようもないケースだったら、と。
「…どうしようもないケースとは?」
 どのような、とハーレイが問い返したら、「一つ挙げよう」とクスッと笑ったブルー。
「アルフレートがいるだろう。彼がソルジャーだったなら…?」
「「「アルフレート!?」」」
 それは難しい、と誰もが思った。ソルジャー・ジョミーどころではない名前。アルフレートが次のソルジャーなら、「ソルジャー・アルフレート」にしかならない。
「…無理じゃ、わしには呼べんわい!」
 舌を噛みそうじゃ、とゼルが騒ぐのも分かる。ソルジャー・アルフレートは無理すぎ。
「分かったかい? だから遺言だと言ったんだ」
 そういう場合は、改名も仕方ないだろう。…呼ぼうとしても呼べない名前では。
 けれど、そこまで難しくないなら、愛称という手を使うといい。
 たとえば、ソルジャー・ゼルだとしよう。
 ソルジャー・ゼリーになったとしたって、改名よりかはマシだろうね。…愛称だから。


 ぼくの遺言だ、とソルジャー・ブルーが語った言葉は、正式な文書となって残った。
 ジョミーがソルジャー・シンになった後にも、しっかりと。
 「へえ…。こういう決まりになったんだ?」と、ジョミーも興味津々で見ていた文書。
 ソルジャー・シンで済んで良かったと、でも愛称なら許容範囲かも、などと。
 そういう文書がキッチリ残ったものだから…。
 ジョミーの跡を継いだソルジャー、トォニィの代で文書は生きた。
 ソルジャー・トォニィは少し呼びにくかったし、ファミリーネームの方もイマイチ。こういう時こそ、あの文書だと。
 偉大なるミュウの初代ソルジャー、ソルジャー・ブルーの御遺言だ、と。
「ソルジャー・トニー! スタージョン中尉から通信です!」
「分かった。…繋いでくれ」
「ご無沙汰しております、ソルジャー・トニー」
 こんな具合で、ソルジャー・トニーになってしまったソルジャー・トォニィ。
 初代のソルジャーが残した遺言、それは正式なものだったから。呼びにくい名前のソルジャーが来たら、改名、あるいは愛称で行けと、文書が残っていたものだから。
 ソルジャー・シンの次の代にはソルジャー・トニー。
 トォニィではなくてソルジャー・トニーで、呼びやすいのが一番だから…。

 

        ソルジャーの名前・了

※ソルジャー・ジョミーではなくて、ソルジャー・シン。舞台裏はきっとこうだな、と。
 連載当時にあったんですよね、「ソルジャー・ジョミー」。第一部の終わりで。
 総集編が出る時、直されてしまった幻のキャプテン・ハーレイの台詞。いや、マジで。
 流石にリアルタイムじゃ読んでないです、古書店バンザイ。





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 ナキネズミ。
 どの辺がどうネズミなのか、と尋ねられた人が悩んでしまいそうな生き物。何処から見たってリスの親戚、フサフサの尻尾と首の周りの襟巻みたいな毛。
 ついでに思念波で喋れたりもする、ミュウが作った生き物だから。「宇宙の珍獣」という立派な触れ込み、それだってミュウの捏造だから。
 早い話が、ミュウの世界にしかいない生き物。
 ミュウたちを乗せたシャングリラにだけ、コッソリ生きているらしいモノ。


 此処に一匹、ちょいと有名なのがいた。
 ナキネズミは船に何匹もいるのだけれども、別格と言えるナキネズミ。
 何故なら、ミュウを束ねるソルジャー、ジョミーのペットだったから。ソルジャー・シンを船に迎えた時から、そういう立場になっていたから。
(でも、名無し…)
 長いこと名無しだったんだ、と一気に広がってしまった評判。ミュウはもちろん、ナキネズミたちの世界でも。
 ソルジャー・シンのペットで別格、けれども「名無し」だったそうだ、と不名誉すぎる評判が。
 ずっと「お前」と呼ばれていただけ、それを自分の名前と勘違いしていたのだと。
(…ぼく、お前…)
 そうだと信じ込んでいたのに、違うと思い知らされたあの日。
 ジョミーは慌てて「レイン」と名前をくれたけれども、赤っ恥な噂も広まった。レインという名を貰う前には名無しだったと、それで納得していた間抜け、と。


 ミュウたちに笑われるだけならいい。まだマシな方で、我慢は出来る。
 けれども、同じナキネズミ。その連中が注ぐ視線が痛くて、いたたまれないのが現実なるもの。
 今更「レイン」と名乗ってみたって、後付けだから。
 「元は名無しだ」と言われた時には、まるで反論出来ないから。
(ぼく、名無し…)
 名無しなことにも気付かなかった馬鹿だなんて、とナイーブな心が傷つく毎日。
 本当だったらソルジャー・シンのペットで、「キング・オブ・ナキネズミ」という立場なのに。
 他のナキネズミとは一味、いやいや百味も違うナキネズミなのに。
 そうは思っても、拭い去れない「名無し」だった事実。
 ミュウの世界では忘れられても、ナキネズミの世界ではキッチリ記憶されたまま。
 「いくらソルジャー・シンのペットでも、名無しでは」と。
 「レインという名は後付けなんだ」と、「十二年ほど名無しだった」と。


 酷い評判は消えないままで、今も「名無し」と呼ばれる毎日。
 ミュウたちは「レイン」と呼んでくれても、同じナキネズミが呼ぶ時は「名無し」。もしくは、もっと強烈な「お前」、そういう名前。
 シャングリラの中を歩いていたなら、「名無しが来た」と囁く思念波。「お前が来たぞ」と。
 あちこちでキュウキュウと鳴いている仲間、それが交わしている思念。
 「名無しが通る」と、「あれが「お前」だ」と。
 ナスカで生まれた自然出産児、トォニィたちにも可愛がられる自分なのに。
 きっと最高のナキネズミなのに、「名無し」で「お前」。
 もうグサグサと刺さりまくりで、よっぽどのことをしないと消えてくれない評価。
 「凄いナキネズミだ」と認められる何か、それを自分がやってのけないと。
 仲間たちからの尊敬の眼差し、そういったものを勝ち取らないと。
 でも、どうしたら…、と悩んでいたら。


 ある日、シャングリラに来た人類の男。
 キース・アニアンというメンバーズ・エリート、それが問題になっているらしい。
(…ジョミーの敵…)
 だったら、自分にとっても敵。
 そいつと互角に渡り合えたら、ナキネズミ仲間も認めるだろう。「あいつは凄い」と。
 「名無し」で「お前」な日々にお別れ、きっと「キング・オブ・ナキネズミ」。
 ちょっと出掛けて、キースなるものを見てみよう、と思い立ったが吉日だから。
(…キース・アニアン…)
 あれがキース、と捕虜を閉じ込めたガラス張りのドームに近付いた。
 まずはドームを開けることから、そして中へと入ってみる。
(…拘束されてないけど…)
 その方がきっと好都合、と思うレインは何も考えてはいなかった。
 どうやってキースと渡り合うのか、互角に何をするのかさえも。
 なにしろ、元が動物だから。思念波で話すことは出来ても、人間とは別の生き物だから。


 単純なオツムが叩き出した考え、それは「キースに会う」ことだけ。
 だから小さな足でカタカタ、ドームを開けて中へ入った。自分が通れる隙間の分だけ。
「なんだ、こいつは!?」
 何処から湧いた、と睨み付けているキースだけれども、渡り合うことが大切だから。
 「キュウ!」と鳴いて近付いて行ったら、意外なことに…。
「ほほう…? ナキネズミか?」
 これが本物のナキネズミなのか、とニュッとキースの手が伸びて来た。頭を、首周りのフサフサの毛を撫で回し始めたのがキース。
(…元気でチューか?)
 そういう心の声が聞こえて、嬉しそうな顔。
 昔、サムという友達とやっていたらしい。ナキネズミのぬいぐるみを持って。キュッと握って、それをペコリとさせたりしながら、「元気でチューか?」と。
 他にも色々、沢山のこと。キースの心の声が聞こえる、「懐かしいな」とか、「一つ違ったら、シロエもマツカも、この船に乗っていたかもな」などと。
(…シロエにマツカ?)
 誰だろうか、と考えなくても分かった答え。シロエはキースが殺してしまった友達のミュウで、マツカは出会ったばかりのミュウだ、と。


(シロエで、マツカで…)
 元気でチューか、と毛皮を撫でてくれているキース。
 ジョミーの敵だと聞いたけれども、けっこう友達多めな男。サムは人類らしいけれども、シロエとマツカはミュウなのだから…。
『元気でチューか?』
 とりあえず、そう挨拶してみた。ナキネズミお得意の思念波で。そうしたら…。
「何故、それを…!?」
 私の心を読んだのか、と愕然とされても、こっちが困る。キースの心は筒抜けだったし、向こうが勝手に「元気でチューか?」とやったのだから。「懐かしいな」と笑みまで浮かべて。
 シロエとマツカなミュウの友達、それだってキースが自分で披露したのだから。
『えっと、友達…。シロエとマツカ』
 どっちもミュウ、と送った思念。キースはと言えば顔面蒼白、「読める筈がない」と大慌てだけれど、そういう心の動きまで分かる。パニックなんだ、と。
 だから重ねてこう訊いた。「キースの心、読める筈がない?」と。
 全部見えるのに、それは変だと。丸見えなのに、読めるも何も、と。
「そんな馬鹿な…。私の心理防壁は…」
 眠っていたって完璧な筈で、とパニックなキース、そういう訓練を受けているらしい。けれども読めるものは読めるし、今も変わらず筒抜けなわけで…。


 変な男だ、と見詰めていたら、いきなり尻尾を掴まれた。「そうか、分かったぞ」と。
「貴様、ミュウとは違うからな…。ナキネズミだからな?」
 同じ思念波でも仕組みが違うというわけか、と睨み付けて来るアイスブルーの瞳。
 どうしてくれようと、私の心を読んだからにはタダではおかん、と。
 普通だったら、此処でビビって逃げるけれども、ナキネズミだけにズレている思考。人間の枠に囚われないから、それは真面目に訊き返した。「捕虜なのに?」と。
『キース、出られない。ジョミーの敵』
「貴様、ジョミーに喋るつもりか!」
 それこそタダでは済まさんぞ、とキースはギリリと歯軋りをして。
 「舐めるなよ?」と尻尾を鷲掴んだままで、「丸刈りにするぞ」と言い放った。
 捕虜だけれども、身づくろいのためのシェーバーくらいは持っていると。あれを使えば貴様の毛皮を一気に毛刈りで、綺麗サッパリ丸刈りなのだ、と。
(毛刈り…!?)
 それに丸刈り、と覚えた恐怖。
 ナキネズミにとって、毛皮は命だったから。フサフサの尻尾も首周りの毛も、フサフサと生えていてこそだから。


(…前に、丸刈り…)
 そういう仲間がいたことがあった。何かのはずみで罹った皮膚病、それの治療で見事に丸刈り。
 いわゆる獣医にあたる人物、それがバリカンでバリバリと刈った。バリバリ、ウイーンと。
(毛皮、刈られたら…)
 尻尾も身体も貧相になって、おまけに、つるり、ぬるりと見えるものだから…。
(名前、丸禿げ…)
 毛刈りをされてしまった仲間は、元の名では二度と呼ばれなかった。「丸禿げ」だとか、「ぬるり」に「つるり」で、世を儚んで…。
(…ずっと、引きこもり…)
 もう恥ずかしくて生きてゆけない、とヒッキーになって、愛する彼女にも捨てられた筈。丸刈りになった段階で。毛皮を刈られてしまった時点で。
(……名無しで、お前……)
 それが自分の評価だけれども、丸刈りはその上を行く。
 ナキネズミとしての人生、丸刈りにされたら終わったも同じ。ソルジャー・シンのペットでも。
 毛皮が無ければ、もう間違いなく、未来の「み」の字も無いものだから…。


『しゃ、喋らない…!』
 死んでも言わない、とキースに伝えて、うるうる泣いた。
 丸刈りにされたら人生終わりで、後が残っていないから、と。「キング・オブ・ナキネズミ」になれはしなくて、もう引きこもるしかないんだから、と。
「そうか、利害は一致したな」
 貴様が黙っているのだったら、私も丸刈りはやめてやろう、と尊大なキース。
 立場はまるっと逆転した。
 「心を読んだことは、決して誰にも喋りはしない」と誓わされた上で放り出された。喋ったら毛皮は無いと思えと、私が此処から出られた時には丸刈りにする、と。
(キース、怖すぎ…)
 名無しでお前な人生どころか、丸刈りにされておしまいだから、と後をも見ずに逃げたオチ。
 仲間たちに自慢をしに行けもせずに、もちろんジョミーに喋れもせずに。
(喋ったら、丸刈り…)
 人生おしまい、と怯えまくりのナキネズミ。
 なにしろ、毛皮が命だから。丸刈りにされたら、「名無し」よりも酷いことになるから。


 そんなこんなで、ナキネズミは喋りはしなかった。
 キースの所に出掛けたことも、心の中身を読みまくったことも。
 「元気でチューか?」とやった男がキースで、ミュウの友達のシロエとマツカがいたことも。
 ちょっと冷静に考えたならば、「喋った方がお得なのだ」と分かるのに。
 いくらキースが丸刈りの危機を突き付けていても、所詮は捕虜だと気付くのに。
(…丸刈り、怖い…)
 あれは危険、としか思わないのがナキネズミ。
 どう転がっても、動物だから。人間とは思考回路が違って、考え方もズレているから。
 こうして勝負はついてしまった、天はキースに味方した。
 彼がシェーバーを持っていたから。
 「髭くらいは自分で剃れ」とばかりに、ちゃんと突っ込んであったから。
 歴史なんぞは、つまらないことで変わるもの。
 たかがシェーバーくらいでも。
 もしもキースが持っていなかったら、きっと何もかもコロッと変わって、違う未来があった筈。
 けれど、シェーバーはバリバリと刈った、ミュウと人類にあった別の未来を。
 もっと早くに和解できる未来、それをすっかり、綺麗サッパリ…。

 

        ナキネズミの価値観・了

※ナキネズミ相手ならキースも油断するかも、とチラと思ったのがネタの始まり。
 気付けば毛刈りになっていたオチ、「動物のお医者さん」、好きだったなあ。毛刈り万歳。





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「忘れるな、キース・アニアン! フロア001…!」
 自分の目で真実を確かめろ、と叫んで終わったシロエの言葉。
 キースの止める声も聞かずに、保安部隊の者たちが意識を奪ったから。
「スーパーエリートが逃亡補助か」
 そう言った男をギッと睨み付けた。お前たちは何も知らないくせに、と。
 けれど、自分も押さえられているから動けない。
 この両腕さえ自由に出来たら、保安部隊など敵ではないだろうに。
 「連れて行け」とシロエの連行を命じた男。
 ヘルメットで顔が半分隠れているから、表情さえも分からない。
「後でマザー・イライザからコールがあるだろう。…キース・アニアン」
 そう言い捨てて、男たちは部屋から出て行ったけれど。
 意識を失くしたシロエを引き摺って行ったけれども。


(…シロエの本…!)
 ハッと気付いた、ベッドの上に残された本。
 ピーターパンというタイトルのそれを、シロエが胸に抱くのを見た。
 両腕でギュッと、まるで大切な宝物のように。
 あの時のシロエの、ホッとした顔。
 幼い子供のようだった顔は、一度も見たことがなかったもので。
 それが本当のシロエだと知った、あの一瞬に。
 この部屋で意識を取り戻した時に、自分の存在にシロエが気付くよりも前に。
 自分と視線が合った途端に、本当のシロエは消え去ったけれど。
 いつものシロエが戻ったけれども、消えたシロエの方が本物。
 本を抱き締めたシロエの方が。
 この本を何よりも大切に思い、今も持っているシロエの方が。
(シロエ…!)
 慌てて掴んだ、シロエの本。
 此処に置いてはおけないから。
 シロエが何処かで目を覚ました時、この本はきっと必要だから。
 今の自分は、もう知っている。
 どうしてシロエが本を抱き締めたか、幼い子供のように見えたか。
 本をシロエに返さなければ。
 彼に返してやらなければ。


 男たちを追い掛け、飛び出した部屋。
 何事なのかと、振り返った彼らに表情は無い。
 今もヘルメットを脱いでいないから、顔が半分見えないから。
「これを…!」
 本を差し出したら、「なんだ」と返った不快そうな声。
 用は済んだと言わんばかりに、立ち去ろうとしている男たち。
 けれども負けてはいられないから、「シロエのです」と本を突き出した。
 「一緒に運んでやって下さい」と、「そのくらいはしてもいいでしょう」と。
 移動用のベッドに寝かされたシロエ。
 最初から意識を奪うつもりで、ベッドまで用意していた彼ら。
(逮捕するだけでは足りないと…?)
 自分の足で歩くことさえ許さないのか、と覚えた怒り。
 ギリッと奥歯を噛み締めたけれど、直ぐに考えを改めた。
 これは恐らく、偽装工作。
 シロエを連行してゆく途中で、出会うかもしれない候補生たち。
 逮捕劇を彼らに悟られないよう、病人の搬送を装ってゆく。
 そんな所だ、と理解したから、もう一度、本を突き付けた。
 「これも一緒に」と、「シロエの本です」と。
 それでも彼らは動かないから、シロエに被せられた上掛け。
 その上にそっと本を乗せてやった。
 これで駄目なら…。


 男たちと喧嘩するまでだ、と固めた覚悟。
 どうしてもシロエに、本を持たせてやりたいから。
 何処で目覚めるかは知らないけれども、本が無ければシロエが悲しむ。
 彼の大切な本だから。
 シロエが本を抱き締める前から、自分はそれに気付いていたから。
(子供の時から持っていたんだ…!)
 本来、許される筈のないもの。
 成人検査を受ける時には、持って行けないと聞いている私物。
 それをシロエは持っていた。
 故郷で宝物にしていたろう本、一目でそうだと分かる本を。
 此処へ来てから、手に入れたわけではない本を。
 ライブラリーの蔵書かどうかを確認したから、もう間違いない。
 シロエが故郷から持って来た本。
 「もう大好きだったことしか覚えていない」と叫んだ故郷と、両親の思い出。
 それが詰まった、宝物の本。
 もしもこのまま本を失くしたら、シロエの心はきっと壊れる。
 本はシロエの心の砦。
 それと同時に、魂の器。
 逮捕された者が行かされる場所は謎だけれども、彼の心まで壊したくない。
 たった一つの心の砦を、魂の器を、奪われて失くして壊れるなどは。
 此処まで大切に持って来た本、それを失くして悲しみの内に壊れるなどは。
 それはあまりに酷だから。
 心だけでも、シロエに残してやりたいから。


 どう出るのか、と身構えたけれど、何も言わなかった男たち。
 「それは駄目だ」とも、「余計なことをするな」とも。
 呆気ないくらいに、本はシロエの胸の傍らへと戻って行った。
 そしてシロエは運ばれて行った、本と一緒に。
 彼の大切な思い出と共に。
 男たちが彼を連れてゆく先は、想像さえも出来ないけれど。
(…あの本だけでも…)
 返してやれて良かった、と戻った一人になった部屋。
 マザー・イライザからのコールはまだ無い。
 部屋に現れる映像すらも、未だ姿を見せようとしない。
(全て承知ということなのか…)
 自分がシロエを匿ったことも、彼と話していたことも。
 シロエが最後に叫んだフロア001、其処に行ったら何があるのかも。
(…フロア001…)
 人形なのだ、と言われた自分。
 成人検査を受けていないとも、マザー・イライザが作ったとも。
 きっとシロエは何かを見た。
 何かを知って、それで追われた。
 そんな最中にも、手放さないで持っていた本。
 これを離したら終わりだとでも言うように。
 本の正体に気付いた今では、本当に終わりだったのだと分かる。
 シロエにとっては、あの本だけが砦だから。
 心の鎧で、魂の隠れ場所だから。


(ピーターパン…)
 シロエが意識を取り戻す前に、何の本かを調べてみた。
 ライブラリーの蔵書ではないと分かった時に。
 幼い時から持っていたのだと、故郷の思い出が詰まった本だと気付いた時に。
(永遠の少年…)
 大人にならない、永遠の子供。
 SD体制の時代においては、有り得ない世界がネバーランド。
 シロエは其処に焦がれ続けて、あの本を持って来たのだろう。
 いつか行こうと、行ける日が来ると。
(なのに、記憶を…)
 奪われたのだと叫んだシロエ。
 機械がそれを奪い去ったと。
 両親も故郷も、大切だったものの全てを。
(…覚えていない、ぼくとは違う…)
 シロエも言った、「あなたは違う」と。
 成人検査を知らないからだと、「幸福なキース」と。
 それが本当かどうかはともかく、シロエが大切に持って来た本。
 ピーターパンの本の中身を、シロエと語ってみたかった。
 彼があれほど成人検査を憎んでいるなら、なおのこと。
(過去や、思い出…)
 自分には無い、そういったもの。
 それがあったら、この世界はどう見えるのか。
 不条理だとも思えるシステム、それがシロエにはどう見えるのかを。


 今となっては遅いだろうか、と溜息が一つ零れたけれど。
 シロエが無事に戻るようなら、もう一度彼と話してみたい。
 彼の瞳に、この世界はどう映るのか。
 ピーターパンの本に書かれたネバーランドは、魅力溢れる場所なのか。
 SD体制の思想とは相容れなくても、それが理想の世界なら。
 人が持つべき夢の世界なら、今のシステムは誤りだから。
 正してゆくべきものだろうから、それをシロエに訊きたいと思う。
 「マザー・システムをどう思う?」と。
 だから、彼には戻って欲しい。
 逮捕されても、然るべき処分を受けたなら。
 多少記憶を処理されていても、「シロエ」のままで戻れるのなら。
(…あの本が役に立つといい…)
 シロエが自分を保つために、と心から思う。
 どうか壊れてくれるなと。
 自分に何を言ってもいいから、あのままのシロエで戻って欲しい。
 「お人形さんだ」と嘲笑われても、甘んじてそれを受けるから。
 もう一度シロエと語り合えるなら、何と言われてもかまわないから…。

 

        返すべき本・了

※シロエが連行されて行く時に、ベッドの上にあったピーターパンの本。
 あれを渡したのはキースなんですよね、いいヤツなんだと思いますです。本当にね。





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