「忘れるな、キース・アニアン! フロア001…!」
自分の目で真実を確かめろ、と叫んで終わったシロエの言葉。
キースの止める声も聞かずに、保安部隊の者たちが意識を奪ったから。
「スーパーエリートが逃亡補助か」
そう言った男をギッと睨み付けた。お前たちは何も知らないくせに、と。
けれど、自分も押さえられているから動けない。
この両腕さえ自由に出来たら、保安部隊など敵ではないだろうに。
「連れて行け」とシロエの連行を命じた男。
ヘルメットで顔が半分隠れているから、表情さえも分からない。
「後でマザー・イライザからコールがあるだろう。…キース・アニアン」
そう言い捨てて、男たちは部屋から出て行ったけれど。
意識を失くしたシロエを引き摺って行ったけれども。
(…シロエの本…!)
ハッと気付いた、ベッドの上に残された本。
ピーターパンというタイトルのそれを、シロエが胸に抱くのを見た。
両腕でギュッと、まるで大切な宝物のように。
あの時のシロエの、ホッとした顔。
幼い子供のようだった顔は、一度も見たことがなかったもので。
それが本当のシロエだと知った、あの一瞬に。
この部屋で意識を取り戻した時に、自分の存在にシロエが気付くよりも前に。
自分と視線が合った途端に、本当のシロエは消え去ったけれど。
いつものシロエが戻ったけれども、消えたシロエの方が本物。
本を抱き締めたシロエの方が。
この本を何よりも大切に思い、今も持っているシロエの方が。
(シロエ…!)
慌てて掴んだ、シロエの本。
此処に置いてはおけないから。
シロエが何処かで目を覚ました時、この本はきっと必要だから。
今の自分は、もう知っている。
どうしてシロエが本を抱き締めたか、幼い子供のように見えたか。
本をシロエに返さなければ。
彼に返してやらなければ。
男たちを追い掛け、飛び出した部屋。
何事なのかと、振り返った彼らに表情は無い。
今もヘルメットを脱いでいないから、顔が半分見えないから。
「これを…!」
本を差し出したら、「なんだ」と返った不快そうな声。
用は済んだと言わんばかりに、立ち去ろうとしている男たち。
けれども負けてはいられないから、「シロエのです」と本を突き出した。
「一緒に運んでやって下さい」と、「そのくらいはしてもいいでしょう」と。
移動用のベッドに寝かされたシロエ。
最初から意識を奪うつもりで、ベッドまで用意していた彼ら。
(逮捕するだけでは足りないと…?)
自分の足で歩くことさえ許さないのか、と覚えた怒り。
ギリッと奥歯を噛み締めたけれど、直ぐに考えを改めた。
これは恐らく、偽装工作。
シロエを連行してゆく途中で、出会うかもしれない候補生たち。
逮捕劇を彼らに悟られないよう、病人の搬送を装ってゆく。
そんな所だ、と理解したから、もう一度、本を突き付けた。
「これも一緒に」と、「シロエの本です」と。
それでも彼らは動かないから、シロエに被せられた上掛け。
その上にそっと本を乗せてやった。
これで駄目なら…。
男たちと喧嘩するまでだ、と固めた覚悟。
どうしてもシロエに、本を持たせてやりたいから。
何処で目覚めるかは知らないけれども、本が無ければシロエが悲しむ。
彼の大切な本だから。
シロエが本を抱き締める前から、自分はそれに気付いていたから。
(子供の時から持っていたんだ…!)
本来、許される筈のないもの。
成人検査を受ける時には、持って行けないと聞いている私物。
それをシロエは持っていた。
故郷で宝物にしていたろう本、一目でそうだと分かる本を。
此処へ来てから、手に入れたわけではない本を。
ライブラリーの蔵書かどうかを確認したから、もう間違いない。
シロエが故郷から持って来た本。
「もう大好きだったことしか覚えていない」と叫んだ故郷と、両親の思い出。
それが詰まった、宝物の本。
もしもこのまま本を失くしたら、シロエの心はきっと壊れる。
本はシロエの心の砦。
それと同時に、魂の器。
逮捕された者が行かされる場所は謎だけれども、彼の心まで壊したくない。
たった一つの心の砦を、魂の器を、奪われて失くして壊れるなどは。
此処まで大切に持って来た本、それを失くして悲しみの内に壊れるなどは。
それはあまりに酷だから。
心だけでも、シロエに残してやりたいから。
どう出るのか、と身構えたけれど、何も言わなかった男たち。
「それは駄目だ」とも、「余計なことをするな」とも。
呆気ないくらいに、本はシロエの胸の傍らへと戻って行った。
そしてシロエは運ばれて行った、本と一緒に。
彼の大切な思い出と共に。
男たちが彼を連れてゆく先は、想像さえも出来ないけれど。
(…あの本だけでも…)
返してやれて良かった、と戻った一人になった部屋。
マザー・イライザからのコールはまだ無い。
部屋に現れる映像すらも、未だ姿を見せようとしない。
(全て承知ということなのか…)
自分がシロエを匿ったことも、彼と話していたことも。
シロエが最後に叫んだフロア001、其処に行ったら何があるのかも。
(…フロア001…)
人形なのだ、と言われた自分。
成人検査を受けていないとも、マザー・イライザが作ったとも。
きっとシロエは何かを見た。
何かを知って、それで追われた。
そんな最中にも、手放さないで持っていた本。
これを離したら終わりだとでも言うように。
本の正体に気付いた今では、本当に終わりだったのだと分かる。
シロエにとっては、あの本だけが砦だから。
心の鎧で、魂の隠れ場所だから。
(ピーターパン…)
シロエが意識を取り戻す前に、何の本かを調べてみた。
ライブラリーの蔵書ではないと分かった時に。
幼い時から持っていたのだと、故郷の思い出が詰まった本だと気付いた時に。
(永遠の少年…)
大人にならない、永遠の子供。
SD体制の時代においては、有り得ない世界がネバーランド。
シロエは其処に焦がれ続けて、あの本を持って来たのだろう。
いつか行こうと、行ける日が来ると。
(なのに、記憶を…)
奪われたのだと叫んだシロエ。
機械がそれを奪い去ったと。
両親も故郷も、大切だったものの全てを。
(…覚えていない、ぼくとは違う…)
シロエも言った、「あなたは違う」と。
成人検査を知らないからだと、「幸福なキース」と。
それが本当かどうかはともかく、シロエが大切に持って来た本。
ピーターパンの本の中身を、シロエと語ってみたかった。
彼があれほど成人検査を憎んでいるなら、なおのこと。
(過去や、思い出…)
自分には無い、そういったもの。
それがあったら、この世界はどう見えるのか。
不条理だとも思えるシステム、それがシロエにはどう見えるのかを。
今となっては遅いだろうか、と溜息が一つ零れたけれど。
シロエが無事に戻るようなら、もう一度彼と話してみたい。
彼の瞳に、この世界はどう映るのか。
ピーターパンの本に書かれたネバーランドは、魅力溢れる場所なのか。
SD体制の思想とは相容れなくても、それが理想の世界なら。
人が持つべき夢の世界なら、今のシステムは誤りだから。
正してゆくべきものだろうから、それをシロエに訊きたいと思う。
「マザー・システムをどう思う?」と。
だから、彼には戻って欲しい。
逮捕されても、然るべき処分を受けたなら。
多少記憶を処理されていても、「シロエ」のままで戻れるのなら。
(…あの本が役に立つといい…)
シロエが自分を保つために、と心から思う。
どうか壊れてくれるなと。
自分に何を言ってもいいから、あのままのシロエで戻って欲しい。
「お人形さんだ」と嘲笑われても、甘んじてそれを受けるから。
もう一度シロエと語り合えるなら、何と言われてもかまわないから…。
返すべき本・了
※シロエが連行されて行く時に、ベッドの上にあったピーターパンの本。
あれを渡したのはキースなんですよね、いいヤツなんだと思いますです。本当にね。
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