(もしかしたら、パパ…?)
そうだったのかな、とシロエが見詰める手の中。
小さなコンパス、磁石を使った初期型のもの。
このステーションに来てから間もない頃に、自分で作って持っているそれ。
(作り方を教えてくれた人…)
今は全く思い出せない、その人の顔。
男性だったか、女性だったのか、それさえも。
何処で教わったか、それも分からないまま。
学校だったか、家だったのかも分からないから、まるで無い手掛かり。
けれども、これを手に取った時に、スイと頭を掠めた思い。
父だったかも、と。
(…エネルゲイアは…)
技術関係のエキスパートを育てることを目標としていた、育英都市。
記憶はどんどん薄れてゆくけれど、そのくらいの情報は今も得られるから。
(…技術関係のエキスパートなら…)
きっと苦もなく作れるのだろう、コンパスくらい。
これよりももっと凝ったものでも、高度なものでも。
だから父でも不思議ではない、作り方を教えてくれた誰かは。
逆に言うなら、他の誰でも、おかしくないということだけれど。
学校の教師でも、近所に住んでいた誰かでも。
あるいは年上の友達でも。
父だったなら、と思いたい。
ピーターパンの本をくれた両親、今も大好きな父と母。
顔さえ思い出せなくなっても、好きだったことは忘れないから。
今も覚えているのだから。
(きっとパパが教えてくれたんだ…)
そう信じたなら、少し心が軽くなる。
コンパスの中には、父の思い出。
自分が忘れてしまっていたって、この手は父を覚えていたから。
こうして作る、とコンパスのことを覚えたままでいてくれたから。
(……パパ……)
パパだったよね、と尋ねてみたって、返らない答え。
コンパスは何も話しはしないし、エネルゲイアは遠いから。
父のいる家に、声が届きはしないから。
何処に在ったかも分からない家。
高層ビルとしか覚えていなくて、町の景色も思い出せない。
映像を見ても湧かない実感、何もかもが全部、偽物に見える。
機械だったら、映像くらいは簡単に処理してしまえるから。
偽の情報を混ぜていたって、誰も気付きはしないから。
(…機械の言うことは嘘ばかりだ…)
記憶を奪った成人検査も、あんな中身だとは自分は思いもしなかった。
誰もそうだと教えはしないし、一度も習いはしなかったから。
大人になるための節目の一つで、十四歳の誕生日。
目覚めの日と呼ばれる日がそうなのだと、旅立ちの日だと教わっただけ。
荷物を持っては行けないとだけ。
何もかもが嘘で塗り固められた、機械が支配している世界。
本当のことなど探せはしなくて、きっと一つも見付けられない。
自分の記憶が曖昧なように、世界そのものが曖昧だから。
真実はきっと、機械が隠しているだろうから。
(ぼくの家だって、捜せない…)
住所を覚えていないから。
家へ帰るための道順さえも、思い出すことが出来ないから。
覚えていたなら、このコンパスが役に立つのに。
エネルゲイアの町に立ったら、「こっち」と歩いてゆけるのに。
家が在った場所も分からなければ、両親の顔も思い出せない自分。
まるで迷子のロストボーイで、何もかも全部、機械のせい。
真実は伏せて、嘘ばかりの。
いいように嘘を教える機械の。
(…パパの名前だって…)
此処にデータはあるけれど、と呼び出した画面。
ステーションに着いて以来の自分の記録で、生年月日と両親の名前。
それを眺めてもピンと来ないし、赤の他人を見ているよう。
顔写真すらついていないから、ただの文字でしかないのだから。
(…コンパス、パパならいいんだけど…)
パパに教わったなら嬉しいけれど、と見詰める名前。
父だと言われればそうも思うし、違うと言われても「そうか」と思う。
そのくらい曖昧になっているのが、今の自分の両親の記憶。
誰かの記録と入れ替わっていても、丸ごと信じてしまいそうなほどに。
これが父かと、母の名前かと、しみじみと眺めていそうなほどに。
(……パパ……)
本当に思い出せないよ、と画面を見ていて気付いたこと。
コンパスの記憶は無いのだけれども、父の仕事は…。
(…凄く大事な研究だった…?)
そんな気がしてたまらない。
エネルゲイアでも屈指の技術者、そうでなければ研究者。
父が誇らしかったから。
いつか自分も父のように、と憧れたように思うから。
(だとしたら…)
嘘で固められた世界だけれども、真実を掴めるかもしれない。
父が優秀な技術者だったら、研究者だったというのなら。
(きっと何処かに、パパのデータが…)
あるに違いない、と閃いた。
いくら機械が隠し続けても、嘘をついても、消せない真実。
優秀な人間の名前や功績、それはデータが残るから。
SD体制の時代の分も、その前の分も。
子供相手なら隠せたとしても、大人社会への入口に立ったら、データは開示される筈。
それは役立つ情報だから。
誰がどういう研究をしたか、どういう成果を上げたのか。
(…パパの名前も…)
ある筈なんだ、とデータベースに打ち込んだ名前。
きっと故郷に繋がるから。
パスワードなどをくぐり抜けたら、懐かしい家にも辿り着けるから。
心を躍らせて打ち込んだ名前、此処で機械は嘘をつけない。
父の名前は父の名前で、他の誰かでは有り得ないから。
其処まで細かい細工はしないし、自分の名前は今も昔もセキ・レイ・シロエ。
(パパだって、セキ…)
ミスター・セキ、と呼ばれていた筈。
父の名前はきっとある筈、ミスター・セキでも、フルネームでも。
「エネルゲイア」と区切って入れた。「アタラクシア」も。
データベースに名前があるなら、これだけ絞れば、と。
ドキドキしながら出したコマンド、「この条件で探すように」と。
一瞬、明滅した画面。
そして出て来た、ミスター・セキの名。
父のフルネームも一緒にあるから、間違いなく父。
(パパだ…!)
ぼくのパパだ、と詳しいデータを表示させようとしたのだけれど。
いきなり住所は出ないとしたって、所属の部署や顔写真なら、と指示したけれど。
(…エラー…?)
嘘だ、と受けた衝撃。
ブロックされている父の情報、それは確かにある筈なのに。
データベースに存在するなら、開示されている筈なのに。
(…ぼくには引き出せないデータ…?)
自分がセキ・レイ・シロエだから。
養父の情報を引き出そうとして、アクセスしたと判断されて。
機械だったら、そのくらいのことはやりかねない。
この端末からマザー・イライザが来るのだから。
「どうしたのですか?」と呼ぶのだから。
きっとそうだ、と机に激しく叩き付けた拳。
せっかく此処まで辿り着いたのに、自分は先へと進めないのかと。
パスワードさえもくぐれないのかと、「セキ・レイ・シロエ」だから駄目なのかと。
またも機械にしてやられたから、目の前で父を隠されたから。
他の者なら引き出せるだろう、父の情報は開かないから。
(これも機械のやり方なんだ…)
許すもんか、と零れる涙。
此処まで自分で辿り着いたのに、やっと見付けた手掛かりなのに。
(何もかも、いつか思い出してやる…)
機械が此処までやるのだったら、自分が地球のトップに立って。
国家主席の地位に昇り詰めて、憎い機械を必ず止める。
「ぼくの記憶を全部返せ」と命令して。
記憶を全て取り戻したなら、「止まってしまえ」と機械に命じて。
その日が来たなら、懐かしい父を取り戻す。
優しかった母も、大好きだった家も。
(……パパ……)
ぼくは必ず帰るからね、と「ミスター・セキ」としか表示されない画面を閉じた。
父の名前しか表示されない、自分を拒否する憎い画面を。
そして眠ったシロエは知らない、エラーメッセージの本当の理由。
父の所属は、国家機密のMを扱う研究所。
サイオニック研究所は存在自体が極秘なのだと、国家機密だとシロエは知らない。
国家機密のエラーメッセージ、それをシロエは知らないから。
まだ学んではいなかったから。
知っていたなら、シロエは機械に従ったろうか?
父のデータを見られる日までは、逆らいながらもエリートの道を進んだろうか?
それは今でも分からないまま。
シロエは空へと飛び立ったから。
いつまでも、何処までも、自由に飛び続けられる広い空へと…。
隠された父・了
※シロエのお父さんのデータは捜せるんじゃないの、と一瞬、思った管理人ですけど。
所属している部署が悪かったっけ、と気付いたことから出来たお話。Mじゃ国家機密…。
シロエが持っているコンパスは捏造、「後は真っ直ぐ」に出て来ます。
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