…それがいつだったか、自分でも思い出せないけれど。
いつ気付いたのか、それも覚えていないけれども。
(…テラズ・ナンバー・ファイブ…)
あいつのせいだ、とシロエが強く噛んだ唇。
大人の社会へ旅立つための第一歩だとか、新しい人生への扉だとか。
学校では色々と甘い言葉を教わったけれど、あの忌まわしい成人検査。
「忘れなさい」と、「お捨てなさい」と、記憶を消してしまった機械。
それがテラズ・ナンバー・ファイブ。
今でも夢に出て来る悪魔。
(ぼくの家は何処にあったんだろう…?)
何度この問いを繰り返したろう、自分に向かって。
自分自身の記憶が収まっている筈の場所に、何度問い掛けたことだろう。
けれども、思い出せない答え。
かつて自分が住んでいた場所。
今では顔もおぼろな両親、それに自分の三人家族だった家。
…何処かには在った筈なのに。
今も何処かにある筈なのに。
雲海の星アルテメシアへ、エネルゲイアへ帰ったならば。
「ただいま」と家の扉を開けたら、其処に両親がいる筈なのに。
家を移るとは思えないから。
多分、今でも同じ所で両親は暮らしているだろうから。
なのに、その場所が分からない。
何度、自分に尋ねてみても。
成人検査で奪われ、曖昧になった記憶を掻き回してみても、出て来ない答え。
自分は何処に住んでいたのか、あの家は何処にあったのか。
(…アルテメシアの、エネルゲイア…)
それは間違いないけれど。
教育ステーションのデータベースに登録された、情報そのままなのだけれども。
(…その先が分からないよ、ママ…)
パパ、と机にポタリと零れ落ちた雫。一粒の涙。
どうしても思い出せない場所。
ぼんやりと記憶に残っているのは、高層ビルだったことくらい。
その形すらも定かではなくて、何度調べても分からない。
エネルゲイアの町の映像、それを端からチェックしてみても。
もっとも、自分が育った家。
高層ビルの中だった家の在り処は、映像でさえも嘘をつかれていそうだけれど。
成人検査がどういうものかを、甘い言葉で偽ったように。
それと同じに、エネルゲイアの映像も処理してあるかもしれない。
(…ぼくみたいな奴が…)
自分の育った家を探しても、決して見付けられないように。
本当は無かったビルを加えるとか、逆に消去しておくだとか。
町の道路さえも、今の自分が映像で知るものと、かつて見たものとは別かもしれない。
(…記憶を消されたからだけじゃなくて…)
偽の情報が仕込んであるなら、いくら映像を眺めた所で、何の実感も湧かないだろう。
知っていた町とは違うのだから。
そんな偽物の映像の町で、自分は育たなかったのだから。
そういった嘘を、平然とつきかねない機械。
偽ったとさえ思いはしなくて、「これが正しいやり方だから」と。
「二度と戻れない過去は要らない」と、「探す必要など何処にも無い」と。
…だから、未だに見付からない家。
見付け出すことが叶わない家。
其処に両親が住んでいるのに。
自分はずっと其処で育って、離れたくなどなかったのに。
(…成人検査で離れたって…)
いつか帰れると信じていた。
テラズ・ナンバー・ファイブに捕まるまでは。
記憶を消されて、このステーションに向かう宇宙船に乗せられるまでは。
成人検査は通過儀礼で、誰でも通る道だから。
いつか立派な大人になったら、「ただいま」と家に帰れるのだと。
けれど、帰れなくなった家。
…今の自分には帰る術も無い、何処にあるのかも分からない家。
アルテメシアという星の上に、それは在ったということしか。
町の名前はエネルゲイアと、たったそれだけになってしまった。
誰でも見られる、教育ステーションのデータベースの情報が全て。
(エネルゲイアの、何処だったの、ママ…?)
パパ、と尋ねても返らない答え。
両親は此処にいないから。
遠く離れたアルテメシアの、エネルゲイアの何処かで暮らしているのだから。
「高層ビル」としか無い手掛かり。
どんな外観のビルだったのかも、周りには何があったのかも。
何処にあるのか分からないから、今の自分は住所が書けない。
文字を覚えて直ぐの頃には、得意になって書いていたのに。
同い年の子たちはまだ書けないのに、自分は住所も書けるんだから、と。
(アタラクシアの、エネルゲイア…)
其処までは書ける、今の自分でも。
けれど書けない、それよりも先にあった筈の文字。
両親が暮らしている場所を示す、大切な手掛かりだったのに。
もう欠片さえも覚えていなくて、エネルゲイアに関する情報を片っ端から引き出してみても…。
(…何もかもピンと来ないよ、パパ…)
ママ、と握り締めた手製のコンパス。
磁石を使った方位磁針で、此処に来て直ぐに作ったけれど。
とてもレトロなものだけれども、その針の向きも思い出せない。
これをどう使って幼い自分が歩いていたのか、どちらに家があったのか。
北へ向かうのか、南だったのか、東か、それとも西なのかさえも。
(パパ、ママ…)
教えて、と顔さえハッキリとしない両親を思い浮かべるけれど。
もしかしたら、手が、指が覚えていはしないかと、ペンを握ってみるのだけれど。
(…やっぱり、書けない…)
アタラクシアのエネルゲイア。
分かり切った情報の、その先の文字。
これでは手紙も出せやしない、と零れ落ちる涙。
ピーターパンの本が書かれた時代は、住所を書けば届いた手紙。
自分はそれも書けはしないと、両親に手紙も出せないのだと。
(……ぼくの家……)
何処だったろう、と今日も紙に書いては、止まってしまう手。
「エネルゲイア」までで。
今夜こそは、と挑んでみたって、「今朝は書いてやる」と寝起きの頭で書いてみたって。
アタラクシアのエネルゲイアの、その先の文字が出て来はしない。
それに気付いて涙した日は、いつだったのか。
もうそれさえも思い出せないけれども、ただ悲しくて悔しくなる。
幼かった自分はスラスラと紙に書いていたのに。
両親も「凄い」と褒めてくれたのに、今ではそれが書けない自分。
(…手紙だって…)
書いても届けて貰えないだろう、ティンカーベルがいたとしたって。
ピーターパンの本に出て来る妖精、彼女に「パパたちに手紙を届けて欲しい」と言ったって。
いくら妖精が空を飛べても、住所が分からないのでは。
…両親が今でも住んでいる家、其処の住所を書けないのでは。
(パパやママに手紙…)
書いても届けられない手紙。
帰ろうにも何処か分からない家。
零れ落ちる涙は、もう止まらない。
ぼくは迷子になってしまったと、これではロストボーイのようだ、と。
ピーターパンの本に出て来る迷子がロストボーイで、自分の家には帰れない子供。
ぼくはそれだと、家を忘れてしまったからと。
同じ迷子でもロストボーイは幸せなのにと、あの子供たちはネバーランドにいるのだからと。
(…パパ、ママ…)
ぼくの家は何処にあったんだろう、と何度訊いても返らない答え。
書けなくなってしまった住所は、まるで無いのと同じだから。
自分は帰る家を失くした、孤独なロストボーイだから。
ぱたり、ぱたりと零れ落ちる涙。
家に帰してと、家への道を思い出せてと。
ぼくにもう一度あれを書かせてと、エネルゲイアのその先の字を、と…。
書けない住所・了
※成人検査って、家の住所も消してそうだな、と考えていたらこういう話に…。
シロエが持っているコンパスは、管理人の捏造。『後は真っ直ぐ』に出て来ますv