「そうだわ、これ…。約束の」
スウェナに手渡された大きな封筒。「じゃあね、サム」と立ち去る前に。
(…これが…)
シロエからのメッセージなのか、と見詰めたキース。
スウェナが前に言った通りなら、自分宛だというメッセージ。
(…この重さなら…)
それに大きさ、中身は多分、予想通りのものだろう。
シロエが大切に持っていた本。子供時代からのシロエの友。
(ピーターパン…)
これが、と腰を下ろしたベンチ。
さっきまでスウェナも座っていたベンチ、今はサムとの二人きり。
(…あの本だ…)
中身はそうだ、と開いて出そうとしたけれど。
其処で止まってしまった手。
「ピーターパン」と書かれたタイトル、それが現れた所あたりで。
…何故なら、本は焦げていたから。右上の方が、黒く無残に。
それに端の方が破れてもいた、シロエが大切に持っていたのに。
シロエだったら、こんな風に本を損ねるようには、扱ったりはしないのに。
(……シロエ……!)
本当に私宛なのか、と見開いた瞳。
きっと何かの間違いだろうと、この本は自分宛ではないと。
本全体を取り出してみたら、確信に変わっていた思い。
(…シロエ……)
そんなにも大切だったのか、と。
この本を持っていたかったのかと、失いたくない本だったかと。
あちこちが焦げて、破れたりして、無残な姿になっている本。
遠い日のシロエの宝物。
(…この本だとは思っていたが…)
シロエが何かを残したのなら、キーワードが「ピーターパン」ならば。
けれども、焦げて破れている本。
かつて見た本は、ただ古びていただけだったのに。
シロエと共に在った年数、それを示していただけなのに。
(…あれより、幾らか…)
過ぎた歳月、十二年分だけを経た本が来ると信じていた。
目にするものは、それだと思った。
廃校になったE-1077、その中の何処かに眠っていたのが見付かったのだと。
今は政府の関係者すらも、簡単に入れはしない場所でも。
(…だが、これは…)
この本は其処に在ったのではない。
E-1077で見付かったのなら、何処も焦げてはいないだろうから。
十二年分の歳月だけを映した本の筈だから。
なのに、本には焼け焦げた跡。
シロエが見たなら、きっと悲しむことだろう。
「ぼくの本…」と。
どうして焦げてしまったのかと、破れているのは誰のせいかと。
きっと瞳から涙を零して、ギュッと両腕で抱き締めて。
…遠い昔に、そうしたように。
追われるシロエを匿った時に、目覚めて直ぐにしていたように。
「ぼくの本…!」と胸に抱き締めたシロエ。
自分の視線に気付くまでの間、それは幼い子供の顔で。
シロエがやった、と直ぐに分かった。
この本が何処からやって来たかも、どうして焦げてしまったのかも。
(……ピーターパン……)
逃げるシロエの船を追う時、通信回線の向こうで聞こえた声。
ポツリポツリとシロエが語り続けた、ピーターパンの本に書いてあること。
(…あれはシロエの記憶ではなくて…)
記憶していた本の文章、それを語っているのだと思った。
あの船を追っていた時は。
後には考え直したりもした、「あれは音読だっただろうか?」と。
ピーターパンの本と一緒に、シロエは宇宙(そら)へ逃げたのかと。
本を絶え間なく読み続けながら、宇宙を飛んで行っただろうかと。
(…私宛のメッセージだと聞いて…)
あの本だろう、と考えた時に、あっさりと捨ててしまった仮説。
「シロエは本と一緒だった」という仮説。
ピーターパンの本があるなら、シロエが読んでいた筈がないから。
シロエと一緒に在った本なら、残っている筈が無いのだから。
(……撃ったんだ……)
この手で、シロエが乗っていた船を。
左手で合わせたレーザー砲の照準、発射ボタンを親指で押した。
そしてシロエは宇宙から消えた、レーザーの光に焼き尽くされて。
もう本当に一瞬の内に、溶けて蒸発しただろうシロエ。
「何か光った」と思う間もなく、跡形もなく。
髪の一筋も、血の一滴も、何一つ残さないままで。
(…シロエの姿が残らないのに…)
もっと弱くて燃えやすい本、紙の本が残るわけがない。
本があるなら、シロエはそれを持って逃げたりはしなかった。
E-1077に置いて去ったと考えたのに…。
(……シロエ、お前は……)
こんなにも大切だったのか、と見詰めたピーターパンの本。
自分の身よりも本を守ったかと、命よりも大切な本だったのか、と。
レーザー砲に焼かれながらも、この程度で済んだ本の損傷。
それがシロエの意志だったから。
「ぼくの本…!」と、あの日、抱き締めたように、きっとシロエが抱き締めたから。
この本だけは、と。
大切な本で、守りたい宝物だから、と。
(…どうして自分を守らなかった…!)
お前は馬鹿だ、と涙が溢れそうになるのを堪える。
此処で自分は泣けはしないし、膝の上にはサムが頭を乗せているから。
感情の乱れを外には出せない、もうじき部下もやって来るから。
(…シロエ……)
そう、じきに現れるだろうマツカ。
ペセトラ基地で出会ったマツカも、シロエと同じにMだから分かる。
彼に命じたサイオン・シールド、それで自分は生き延びたから。
ミュウの追手から逃れたから。
(…やったことが無い、と叫んだマツカにも出来たんだ…)
Mが、ミュウが使うサイオン・シールド。
爆発から身を守れるもの。
実験で何度も目にしていたそれを、自分自身が体験した。
「凄いものだ」と、「やはり化け物」と。
シロエも、きっと同じにやった。
レーザー砲を撃った瞬間、本を守ろうと。
大切なピーターパンの本をと、シロエが展開したろうシールド。
…自分を守れば良かったのに。
ピーターパンの本を抱えて、自分ごと守れば助かったろうに。
(…マザー・イライザ…)
今だから分かる、あの日、イライザが命じたこと。
シロエの船を撃ち落とした場所、其処へと船を向けさせたこと。
(…シロエが爆発から逃れていないか……)
それを確かめさせたのだ、と。
イライザは知っていたのだから。
シロエはMだと、ミュウならば生き残ることもある、と。
上手くシールドを展開したなら、船が微塵に砕けた後も。
レーザー砲で焼かれた後にも、シロエは宇宙に浮いているかもしれないと。
(…どうして、本だけを守ったんだ…!)
お前は馬鹿で、大馬鹿者だ、と叫びたいけれど、これが結果で、残ったのは本。
シロエが上手くやっていたなら、きっと生き延びただろうに。
もしも宇宙に浮いていたなら、あの時、発見していたとしても…。
(…マザー・イライザには、何も見なかったと…)
戻って報告していたろう。
どうせシロエは死ぬのだから。
漆黒の宇宙に浮いていたって、何処からも助けは来ないのだから。
けれど、自分は知っている。
今の自分は、その後のことを聞かされたから。
「鯨」が目撃されたこと。
シロエの船を撃った場所から、そう離れてはいない所で。
「鯨」はMの、ミュウたちの母船。
それがいたなら、シロエを救いにやって来た筈。
彼らは気付くだろうから。
Mの仲間が宇宙にいると、生命の危機に瀕していると。
助かり損ねてしまったシロエ。
本を守って、自分は散って。
もう少しばかり、シロエが自分を大事にしたなら、大切に思っていたのなら。
(…本だけではなくて…)
シロエも助かっただろうに。
Mの母船に、鯨に救われ、彼らと共に去っただろうに。
(…命よりも大事だったのか…)
機械の言いなりになって生きる人生、そんな命に何の意味が、と言っていたシロエ。
彼の心の支えだった本、きっと命よりも大切に思っていたのだろう本。
(…それが残ってしまったか…)
シロエの代わりに、此処に、こうして。
レーザー砲の光を浴びても、焦げて破れたりしただけで。
(…これほどに…)
強い力を生むのか、Mの思いは。ミュウの心というものは。
ならば恐らく、人類はいつか敗れるのだろう。
今は狩られるだけのミュウでも、いずれは牙を剥くだろうから。
その兆候は既に、出ているから。
「大佐。…先ほど、ペセトラ基地の部隊が全滅したとの報告がありました」
キルギス軍管区から増援を送るそうです、と現れた部下。
靴音でもう分かっていたけれど、スタージョン中尉。その隣にマツカ。
(……シロエ……)
マツカにシロエを重ねていた。
かつて殺すしか道が無かったシロエの代わりに、Mのマツカを生かそうと。
どうしてシロエも生き残る方へと行かなかったか、本を守って逝ったのか。
「…無駄なことを」
「は?」
何が無駄だと、という風な顔の部下だけれども。
ピーターパンの本を何気ない顔で仕舞って、見上げたサムの病院の上に広がる青空。
「戻るぞ」とベンチから立ち上がりつつも、その空の向こうに見えた気がした。
Mの母船が舞い降りる日が。
シロエを乗せていたかもしれない、鯨が空から降りて来る日が。
いつか人類は、Mに敗れるだろうから。
命よりも大切だった本を守って、Mのシロエは空へと飛んで行ったのだから…。
此処に在る本・了
※ピーターパンの本が焼けずに残った理由は、コレだろうな、と前から思っているわけで…。
同じネタをシロエ側から書いているのが「宝物の本」というヤツ、短いですけどね。