(……シロエ……)
もう誰も覚えていないのだな、とキースが零した深い溜息。
自分が殺してしまった少年。
「撃ちなさい」という、マザー・イライザの命令で。
忘れなければ、と思うけれども、でなければ前へ進めないけれど。
こんなことではエリート失格、罪の意識に囚われていては駄目なのだけれど…。
(…それが出来たら…)
苦労はしないな、と思ってしまう。
シロエが「あなたには無い」と嗤った、「人間らしい感情」というもの。
どうやら、それに捕まったから。
皮肉にもシロエが呼び覚ましたから、その感情を。
シロエが乗った船を撃ち落とした後、涙が溢れて止まらなかった。
初めて覚えた深い悲しみ、それに喪失感、何よりも犯した罪への嫌悪。
自分は人を殺したのだと、銃を向けても来ない相手を。
ただ逃げてゆくだけで武器も持たない、脅威ですらない下級生を。
しかもシロエは知り合いだった。
追われているのを承知で部屋に匿ったほどに、他人とは思えなかった人間。
一つピースが違っていたなら、友だったかもしれないのに。
だから余計に辛くなる。
いったい自分は何をしたのかと、どうしてシロエを殺したのかと。
(…せめてシロエを憎めたら…)
憎くて嫌いでたまらなかったら、きっと心も軽いだろうに。
罪悪感にも囚われないのに、どうしても嫌えないシロエ。
(あいつを殴ったことはあっても…)
感情を制御し切れなかった自分が悪い、と分かっている。
シロエが憎くて殴ったわけではなかったから。
あの時、シロエに向けられた言葉、それにカッとしただけなのだから。
(…あれと同じに…)
シロエに怒りを覚えられたら、少しは心が軽いのに。
もういないシロエ、彼を一発殴りたいほど、腹が立つことがあったなら。
けれどシロエは死んでしまって、それをしたのは自分だから。
シロエを殺してしまった悲しみや怒り、それが心に湧き上がるだけ。
「ぼくのせいだ」と、「ぼくが殺した」と。
シロエは何もしなかったのに。
自分に銃を向けはしなくて、殺そうとしてもいなかったのに。
E-1077から消えてしまった、シロエの存在。
もういないから、嫌えはしない。
憎むことだって出来はしなくて、思い出しては悔やむばかりで…。
(…せめてシロエが…)
此処に出て来て、憎まれ口の一つでも叩いてくれたなら、と眺めたベッド。
追われていたシロエを寝かせたベッドで、シロエは其処で…。
(保安部隊の連中に…)
意識を奪われ、逮捕されて消えた。自分の前から。
ステーションからもシロエの存在は消されて、誰も覚えていなかった。
シロエのことを。
それに驚き、走り回ったステーションの中。
次にシロエと出会った時には、彼の船が前を飛んでいた。
「停船しろ」と言っても止まらないまま、飛び去ったシロエ。
もう声さえも届かない場所へ、レーザー砲の光に溶けて。
一言でも声が返っていたなら、罪の意識は減っただろうに。
皮肉な口調で、笑いを含んだあの声で。
「機械の申し子」とでも、「マザー・イライザの人形」とでも。
けれどシロエは何も言わずに、暗い宇宙に消えていったから…。
駄目だ、と軽くならない心。
憎まれていたら、嫌われていたら、心はもっと楽なのに。
「あいつが悪い」と思えるのに。
シロエが何か言っていたなら…、と溜息がまた零れたけれど。
(…待てよ…?)
ふと思い出した、シロエの言葉。
この部屋でシロエが目を覚ました時、さも嫌そうに口にした言葉。
(…ぼくの服は、と…)
訊かれたのだった、すっかり忘れていたけれど。
その後に色々あったものだから、綺麗サッパリ、頭から消えていたけれど。
「ぼくの服は?」と尋ねたシロエ。
彼のシャツは汗や埃で汚れていたから、自分のを着せてやったのだった。
それをシロエは引っ張って言った、「これ、あなたのでしょう?」と。
(あなたの匂いがする、と…)
「嫌だ」と言われてしまったシャツ。
好意で着せてやったのに。
シロエが着ていたシャツよりも余程、綺麗で洗い立てだったのに。
(…匂いがする、と言われても…)
そんな筈は、とクンと嗅いでみた自分の袖。
臭うわけなどない筈だが、と。
そうは思っても、「嫌だ」とシロエに嫌われたシャツ。
もしかしたら自分は臭うのだろうか、まるで気付いていなかったけれど。
他人が嗅いだら不快になる匂い、それを放っているのだろうか…?
(…まさかな…)
まさか、と俄かに覚えた不安。
自分では気付いていない悪臭、シロエは遠慮なく物を言うのが常だったから…。
(他の人間なら、言いにくいことも…)
ズバリと指摘したかもしれない、「あなたは臭い」と。
着替えさせるために触れただけのシャツ、それにまで臭いが移るくらいに、と。
(……シロエだったら……)
言うだろうな、と頭から冷水を浴びせられたよう。
自分の身体は臭うのだろうかと、他人を不快にさせるくらいに、と。
(…だからと言って…)
シロエを憎めはしないけれども、少しは逸れた思考の迷路。
引き摺り込まれた負の意識からは、違う方へと心が向いた。
もしもシロエが言っていた通り、嫌な臭いがするのなら。
自分が臭いというのだったら、それを消さねばならないから。
これから先へと進むためには、きっと必要なことだから。
(…メンバーズたるもの…)
他人よりも優れているべきなのだし、規範となるべき人間の一人。
不快感を与える悪臭つきでは、出世など出来はしないから。
けれども、誰に訊くべきだろう?
誰が正直に本当のことを、自分に教えてくれるのだろう?
(…サムだったら…)
言ってくれるかと思ったけれども、あまりにも付き合いが長いサム。
出会った頃なら、「ああ、その匂いだったら…」原因はコレだろ、と言いそうだけれど。
正直に話してくれそうだけれど、四年も一緒にいたものだから…。
(…慣れてしまって、平気になって…)
きっと分からないに違いない。
自分と同じにキョトンとしながら、「えっ、匂うか?」と返されるのがオチだろう。
サムでも分かりそうにないから、誰に訊いても多分、無駄。
自分の身体は何故臭いのか、シロエが「嫌だ」と言ったくらいに臭うのか。
(……臭いとしたら……)
原因は、と頼れるのはデータベースだけ。
人間の身体が臭うのは何故か、悪臭を放つのは何故なのか。
キーワードを打ち込み、調べてみたら…。
(……自覚が無いなら……)
ワキガ、と出て来た体臭の原因。
とても臭いのに、本人には自覚が無いという。
それだろうか、と受けた衝撃。
だからシロエは「嫌だ」とハッキリ言っただろうかと、シャツに臭いが移っていたかと。
ワキガだったら、臭いらしいから。
誰が嗅いでも悪臭だけれど、本人は気付かないらしいから。
(……これはマズイな……)
手術などで治せるらしいけれども、マザー・イライザから指示は出ていない。
「治しなさい」とも、「その臭いをなんとかしなさい」とも。
よく考えたら、マザー・イライザは人間ではなくて、機械だから。
ワキガだろうが、芳香だろうが、全部纏めて「匂い」なだけ。
臭いと気付いてくれるわけがなくて、「治せ」と言って来る筈もない。
マザー・イライザが言わない以上は、教官たちだって何も言うわけがない。
(……シロエだけか……)
本当のことを言ったのは、と気付いたワキガらしきもの。
治したくても、アドバイスは何も来ないのだから…。
(…自分で注意しなくては…)
臭くないよう、臭わないよう。
シロエが「嫌だ」と言ったお蔭で、卒業間近のギリギリの所で知ったのだから。
こうして逸れたキースの思考。
罪の意識はシロエへの深い感謝に変わって、翌日から励んだワキガ対策。
消臭スプレーは必須アイテム、他にも色々、気配りの日々。
臭くないよう気を付けねばと、シロエが教えてくれたのだから、と。
(…ワキガは自覚が無いものなのだし…)
とにかく自分で対策を、と始めた努力は終生、続いた。
パルテノン入りを果たす頃には、意識していた加齢臭。
きっとそっちも臭う筈だと、そろそろ自分もそういう歳だ、と。
日々の努力を怠らないまま、キースは最後までクソ真面目だった。
(…ワキガで、おまけに加齢臭だしな…)
国家主席たるもの、それでは駄目だ、と重ねた努力。
あの日、シロエが口にしたのは、皮肉だったとも知らないで。
本当はシャツは臭くなどはなくて、シロエならではの憎まれ口だったとも気付かないままで…。
気になる匂い・了
※「あなたの匂いがする。…嫌だ」。シロエがそう言っていたっけな、と思っただけ。
次の瞬間、頭に浮かんだファブリーズ。商品名つきでバンと来ちゃったら、ネタにするのみ。
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