「それでね…」
ママ、と呼び掛けた所でパチリと覚めた、シロエの目。
見上げた天井、それはシロエの嫌いなもので。
(…ぼくの部屋……)
だけど、ぼくの好きだった部屋じゃない、とベッドの上から睨み付ける。
此処はE-1077で、懐かしい故郷とは違うから。
大好きな部屋があったエネルゲイアは、「戻れない場所」になってしまったから。
(今のママも、夢…)
直ぐ側で何かしていた母。
自分は何をしていたろうか、夢の中では?
皮肉なことに夢の中では、ぼやけてはいない母の顔。それに父だって。
とても鮮やかに見えているのに、夢が覚めたら覚えてはいない。
どんなに記憶の海を探っても、もう見えはしない両親の顔。
だから悔しい、こうして夢から覚めた時には。夢だったのだと知った時には。
(…もう一度…)
眠ったら思い出せるだろうか、夢の世界に飛べるだろうか?
母とさっきの話の続きが出来るだろうか、と考える。
今日の講義は休んでしまって、夢の続きを追い掛けようかと。
(…何だったっけ?)
午前中にある筈の講義は、と思い出そうとして気が付いた。「休みなんだ」と。
今日は日曜、E-1077にも休日はある。
休暇も無しに勉強ばかりを続けさせたら、生徒は疲れてしまうから。
肉体的にも精神的にも疲弊したなら、いい結果など出はしない。
そうならないよう、カレンダー通りに休みはある。
日曜日の今日は講義の無い日で、何をするのも個人の自由。
(だったら、寝てても…)
いいんだよね、と戻ろうとした夢の中。母がいた世界。
けれど…。
なまじ「休んでもいい日なんだ」と、気分が高揚したせいだろうか。
いくらベッドに入っていたって、一向に訪れない眠気。
入ってゆけない夢の中の世界、あれからかなり経ったのに。
(…もう無理だよね…)
眠くならないなら眠れやしない、と諦めて起きて、顔を洗って。
袖を通した、候補生の服とは違った服。休日ならば外に出てもいい服。
普段は部屋でしか着られないけれど、好きに選んで「自分の物」に出来た服。
(家にいた頃は、ママが選んでくれていたのに…)
母が選んでくれた服なら、こういう服になっただろうか?
「良く似合うわよ」と言ってくれたのか、「シロエにはこっちの方がいいわ」と言ったのか。
もうそれすらも分からないけれど、今の自分が選ぶなら、これ。
少なくとも制服よりはいいから、「自分の好みだ」と思えるから。
それを着たなら、次は朝食。
候補生の部屋にキッチンなどは無いものだから、休日でも行かねばならない食堂。
(シナモンミルク、マヌカ多めに…)
忘れないように今日も言わなくちゃ、と心の中で唱える呪文。
此処へ来てから思い出したこと、きっと誰かが好きだったもの。故郷の家で。
自分か、それとも父か、母なのか。
小さな切っ掛けで蘇った記憶、これを注文するのが幸せ。
「確かに誰かが好きだったんだ」と分かるから。故郷に繋がる記憶だから。
それを忘れずに頼まなくちゃね、と部屋から踏み出した通路。
食堂はこっち、と迷わず歩いて行ったのだけれど。
幾つかの扉の前を通って、曲がったりもしていたのだけれど。
(あれ…?)
気付けば近付いていた食堂。
じきに着くわけで、シナモンミルクを注文だけれど、その食堂。
「其処へ行こう」と考えただけで、他には何も思っていない。
右へ行こうとも、左だとも。…真っ直ぐだとも、此処をどう曲がるとも。
途中で目覚めた夢の世界と、故郷の記憶のシナモンミルク。
それに囚われて歩いていたのに、何処も見回してはいなかったのに。
もう立っているのが、食堂の入口に当たる場所。
(どうやって此処まで来たんだっけ…?)
思い出せない、道中のこと。
誰かとすれ違ったりしたのか、それとも誰もいなかったのか。
こっちへ行こうと考えていたか、「こっちは違う」と考えたのか、それさえも。
(ちょっと待ってよ…?)
ぼくは何にも考えてない、と振り返ってみた、今、来た方向。
それをどういう風に辿れば部屋に着くのか、それならば分かる。
いとも簡単に思い出せるし、つまりは部屋から食堂までの道順は…。
(ぼくが覚えていると言っても…)
多分、無意識、あまりにも何度も通ったから。
余所見していても迷わないくらいに、考え事に夢中でも辿り着くほどに。
(…此処に来てから、まだそんなには…)
経っていないのがE-1077という場所。
成人検査の後に船に乗せられ、ピーターパンの本だけを持って離れた故郷。
覚えているのは、その船の中で「我に返った」ことと、「過去の記憶を消されていた」こと。
テラズ・ナンバー・ファイブが消してしまった、子供時代の記憶をすっかり。
両親の顔も、故郷も、家も。
家があった場所も、幼い頃には得意になって何度も書いた住所も。
(…全部、機械に消されたけれど…)
もしかしたら、と思ったこと。
今、こうやって食堂まで歩いて来た自分。
何処を通ったか、誰に会ったのかも、まるで気付きもしない間に。
その上、夢の世界の中では鮮やかに見える両親の顔。
だったら、家もそうかもしれない。
家から何度も出掛けた場所へは、今の食堂までの道と同じに行けるとか。
慎重に記憶を辿ってゆけば。…こっちの方だ、と進んでゆけば。
思いがけなく得られたヒント。
家の住所が分からないなら、その逆の手を使えばいい。
(ぼくの部屋は覚えているんだから…)
今も記憶に残っているのが、エネルゲイアの家で暮らした子供部屋。
機械も其処までは消さないらしくて、部屋のことなら覚えている。
その部屋にあった、アルバムの中身は怪しくても。
多分、飾っていただろう写真、其処に両親の顔は無くても。
(…でも、あの部屋はぼくの部屋…)
あそこから逆に進んでみようか、家の外へと。
まずは自分の部屋を後にして、リビングなどを通り抜けて。
いつも父が「ただいま、シロエ」と入って来ていた、あの扉から外に出て。
(通路に出たら、エレベーターで…)
住んでいたのは高層ビルだし、間違いなくあったエレベーター。
それに乗り込んで下に降りたら、ビルの一階に着くだろう。
其処がどういうフロアなのかは分からないけれど、外へ出たなら…。
(何処かへ歩いて行ける筈だよ)
場所さえ覚えていない学校、その門の前に立てるとか。
休日には何度も出掛けたりした、公園に辿り着くだとか。
(学校とか、公園だったなら…)
多分、上手に調べさえすれば、何処に在るのか分かる筈。
機械が偽のデータを混ぜても、注意深く探していったなら。
「こういう道の先に在った」と、「こう曲がって…」と辿って行ったなら。
きっと身体が覚えている筈、自分の記憶の中には無くても。
何も考えずに「あの部屋」を出たら、子供部屋を後にして歩き出したら。
最初はリビングなどを進んで、「ただいま、シロエ」と父が帰って来た扉。
あの扉から通路に出たら、エレベーターに乗ったなら。
何処に着くかは分からなくても、何処だっていい。
エネルゲイアの何処かに着けたら、それが手掛かりになるのなら。
やっと見付けた、と弾んだ胸。
ワクワクしながら食堂で頼んだシナモンミルク。
これから起こる素敵な出来事、それを思いながら、いつものように。
「シナモンミルクも、マヌカ多めにね」と弾ける笑顔で。
食事はきちんと食べなくちゃ、と一人きりで座る食堂のテーブル。
友達なんかは欲しくも無いし、誰かと食べる趣味も無いから。
(栄養はきちんと摂らなくちゃ…)
うんと頭を使うんだしね、と黙々と食べて、食事の合間にシナモンミルク。
これを好んだのは父か、母なのか、それとも幼い自分だったか。
(パパ、ママ、もうすぐ…)
ぼくたちの家を見付けるからね、と嬉しくてたまらない休日。
なんて素晴らしい日なんだろうと、もうすぐ家が分かるんだから、と。
食堂からの帰りの通路も、そのことだけで胸が一杯。
何処を歩いたのか、どう歩いたかも気付かない内に着いていた部屋。
(ほらね、やっぱり…)
あの部屋からだって、今のと同じように何処かへ、と転がったベッド。服を着たままで。
そうして、そっと閉ざした瞼。
(うん、ぼくの部屋…)
こうだったよ、と思い浮かべた懐かしい故郷の子供部屋。
部屋の扉を開けて進んで、気付けばリビングに立っていて。
(あそこの扉から、パパが「ただいま」って…)
よし、と扉を開けたのだけれど。
通路に出たらエレベーターに、と勇んで外に踏み出したけれど。
(……嘘……)
扉の向こうはただの空間、通路と思えば通路のようで、道路と思えば道路のような。
おぼろに霞んで、あるわけがないエレベーター。
機械はきちんと計算していた、「扉を開けて外に出てゆく」子供がいるということを。
こうして住所を探り出そうと試みる子がいることを。
だから行けない扉の向こう。
…これからもきっと、夢でしか。
夢の中でしか出られない扉、夢でしか出会えない両親。
(…テラズ・ナンバー・ファイブ…)
許せない、と激しく噴き上げる怒り、けして機械を許せはしない。
自分の故郷を奪ったから。
両親も家も、何もかも全て、機械に消されて何も残っていないのだから…。
部屋を出たなら・了
※意識しないで歩いていたって、いつの間にか辿り着けた食堂。それなら、と思い付いたのに。
機械に消されて、残っていなかった家の外の通路。住所は分からないままなのです。