(パパ、ママ…。待っていてね)
ぼくは必ず帰るからね、とシロエが語り掛ける本。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで、ベッドに腰掛けて。
(…こんな風に飛んでは行けないけれど…)
いつか必ず帰るんだから、とピーターパンの本の表紙を見詰める。
其処に描かれた、夜空を駆けてゆくピーターパンと、子供たちの姿。
彼らのように空を飛んでは行けないけれども、必ず故郷に帰ってやる、と。
軽やかに夜空を駆ける代わりに、宇宙船に乗って。
叶うことなら、メンバーズ・エリートの任務の途中で、立ち寄れたなら、と。
(その頃だと、まだ、ぼくの記憶は…)
取り戻せてはいないものだから、両親の面影は、ぼやけて、あちこち欠けたまま。
それでも家には帰れるだろう、と今夜は前向きに考えてみる。
(メンバーズ・エリートになったなら…)
かなりの量の国家機密を、自分の権限で引き出せる筈。
そうなれば「セキ・レイ・シロエ」の出生記録も…。
(今よりも、ずっと詳しいのを…)
見られるだろうし、育った家を特定することも可能だろう。
両親が住んでいる家が分かれば、訪ねてゆける。
「パパ、ママ、ただいま!」と、任務の途中に時間を取って。
運が良ければ、休暇も取れるのかもしれない。
アルテメシアの近くで無事に任務を終えたら、任地に戻るまでの間に。
(…そしたら、ぼくの家を訪ねて…)
扉を開けてくれた母に、笑顔で「ただいま!」と言える。
母の顔をこの目で見た瞬間に、記憶の中のぼやけた顔は「本物」に変わることだろう。
それまでに経った月日の分だけ、母は齢を重ねていても。
「シロエなのか?」と出て来た父も、同じように老けてしまっていても。
(……パパとママの顔も、直ぐに思い出せるよ)
こんな顔だった、と曖昧な記憶が確かなものに置き換わって。
自分が育った懐かしい家も、一瞬の内に「本物」になって。
早く「その日」が来るといいな、と思うけれども、こればかりは運に任せるしかない。
それに機械も「シロエの執着」を知っているから、アルテメシアの近くには…。
(…絶対、行かせてくれないかもね…)
有り得る話だ、と顔を顰める。
ウッカリ行かせて里心がついたら、更に反抗しかねないから。
(……そこまで馬鹿じゃないんだけどな、ぼくは)
パパとママに会えたら、大人しく任務に戻るんだから、と思い描く未来。
機械に隙を与えはしないし、ちゃんと任務はこなしてゆく。
いつの日か、国家主席の座に昇り詰めて、機械に「止まれ」と言うまでは。
奪われた記憶を全て取り戻して、システムを破壊するまでは。
(それまでは、機械の理想通りに…)
トップエリートの道を走ってやるさ、と決意は、とうに固めている。
両親の所に、行きたい気持ちはあるけれど。
もしもチャンスに出くわしたならば、それが任務の途中であっても、寄り道をして。
両親の顔はぼやけたままでも、会えば「本物」に変わるから。
「シロエ!」と迎えてくれるだろう声、それも「本物」なのだから。
(…ほんのちょっぴり…)
寄り道くらいは許して欲しい、と夢を見るのは自由だろう。
機械がそれを許すかどうかは、本当に運次第でも。
「反抗的なセキ・レイ・シロエ」に、そういう機会は、来ないとしても。
(…でも、いつか…)
必ず、帰ってやるんだから、と思う気持ちは、出世しようとも変わらない。
どんなに地位が上がってゆこうと、宝物だって変わらない。
(……パパとママに貰った、この本……)
ステーションまで持って来られた、ただ一つだけの宝物。
ピーターパンの本を抱えて、トップエリートの道を進んでゆく。
この本さえあれば、いつでも故郷に飛べるから。
心だけは懐かしい故郷に帰って、両親を思い出せるから。
たとえぼやけた記憶だろうと、今夜のように。
「パパ、ママ」と心で二人に呼び掛け、両親が其処にいるかのように。
(……帰りたいよ……)
今すぐにだって帰りたい、と思う故郷の両親の家。
エネルゲイアは、今の時間だと、何時くらいになるのだろうか。
両親はもう眠っているのか、それとも起きている時間なのか。
(…調べれば、直ぐに分かるんだけれど…)
あえて調べはしていない。
それをしたなら、辛くなるから。
両親の時間に「自分がいない」ことを知らされ、苦しくなるだけ。
自分が育った懐かしい家に、シロエは「帰れない」のだから。
「ただいま!」と扉を開けるのは無理で、両親も迎えてくれないから。
(…パパとママが、何をしてたって…)
二人の側に「シロエ」はいない。
母が料理を作っていたって、父が読書をしていたって。
そんな光景は見たくないから、日頃から考えないようにしている。
エネルゲイアでは今は昼なのか、それとも夜なのか、一度も調べようともせずに。
(パパとママだって、ぼくのことなんか知らないし…)
今はいったい何をしているか、想像もつかないことだろう。
E-1077に行ったことさえ、あるいは知らないかもしれない。
機械が、それを知らさなかったら。
成人検査を優秀な成績でパスした事実を、教えなかったら。
(……もしかして、御褒美、あるのかな?)
育てていた子が優秀だったら、特別に何か貰えるだとか。
あるいは長い休暇を貰えて、旅行の費用もユニバーサルが出すだとか。
(…そうなのかも…)
養父母は職業なんだから、とエネルゲイアを思い浮かべる。
雲海の星、アルテメシアに在った育英都市の一つが、エネルゲイア。
アタラクシアという育英都市も、同じ星の上に存在する。
どちらも、養父母が子供を育てて、社会へ送り出すための星。
もちろん親にも職業があって、養父母自体が「職業」とは意識されないけれど。
母親は家で家事をするから、専門職とも言えるけれども。
そうだったっけ、と思い返した「養父母」のこと。
自分にとっては大切な父と、大切な母。
けれど、彼らの目からしたなら、どうだったろう。
「セキ・レイ・シロエ」という子供は。
両親の年齢からして、一人目だったとは思えない子の存在は。
(……パパは、地球のこと……)
ネバーランドよりも素敵な所だ、と幼かった自分に教えてくれた。
「シロエだったら、地球に行けるかもしれないな」と。
だから地球にも行ってみたくて、懸命に勉強したのだけれど…。
(…もしかして、あれは…)
「シロエ」という子を、奮い立たせるためだったろうか。
地球に行けるようなエリートになろう、と頑張って勉強するように。
優秀な成績で成人検査をパスして、E-1077のような最高学府に行かせるために。
(ぼくが、E-1077に行けば…)
両親の養父母としての評価が上がって、大きな恩恵に与れるのかもしれない。
父の職業とは無関係な所で、社会に貢献した夫婦として。
(だとしたら……)
両親にとって「シロエ」という子は、単なるペットのようなもの。
注いでくれた愛情にしても、ペットへのそれと…。
(…人間の子供な分だけ、深いとしたって…)
実の所は、それほど変わらなかっただろうか。
ペットを育てて、品評会で賞を取る話は珍しくない。
毛並みなどの見た目や、よく躾けられているのかどうかで、評価は変わる。
そういった場所で賞を取るために、育てる方も努力する。
せっせと世話して、愛を注いで、躾もして。
(……それと、おんなじ?)
もしかしたら、同じだったのだろうか、養父母という職業も。
優秀な子供を育て上げるために、世話して、愛を注いだろうか。
「セキ・レイ・シロエ」の両親も。
今も会いたくてたまらない父も、それから母も。
(…もしも、そうなら…)
両親の方では、とうに忘れているかもしれない。
「シロエ」という子が、家にいたことを。
どんな風に「ただいま!」と帰って来たのか、家では何をしていたのかも。
(……機械が記憶を消さなくっても……)
まるで意識していないというなら、それは「忘れた」のと同じこと。
両親が「シロエ」を思い出しもせずに、日々を過ごしているのなら。
「シロエは、どうしているのだろう?」と、考えさえもしないのならば。
(……そんなの、嫌だ……)
酷すぎるよ、と思うけれども、そうでないとは言い切れない。
「養父母」は、あくまで「職業」だから。
機械が選んで与えた仕事で、そのための養成コースもある。
そう、E-1077が、メンバーズ・エリートを育てるためにあるように。
選ばれる者は少数とはいえ、教育内容は「そのためのもの」。
それと同じに、養父母になる者を育てる教育ステーションだって、存在している。
両親も其処で教育を受けて、「セキ・レイ・シロエ」の養父母になった。
「シロエ」の前にも、きっと子供を育てたのだろう。
その子の話は、ただの一度も、誰からも聞いてはいないけれども。
(家には、その子の写真も無くて…)
いた気配さえも無かったのだし、「シロエ」の場合も同じだろうか。
「優秀な子を育て上げた」御褒美に、両親が何か貰ったとしても。
それを二人で喜びはしても、「シロエ」は、どうでもいいのだろうか。
成人検査で手許を離れて、とうに巣立って行った子は。
「もう戻らない」のが基本の子供のことなど、もう思い出すことさえも無くて。
(…嫌だよ、そんなの…!)
それなら、ぼくはどうすればいいの、と足元が崩れ落ちてゆくよう。
いつか両親の家に帰っても、ただ、驚かれるだけなんて。
「シロエ!」と手放しで喜ぶ代わりに、「帰って来たのか?」と言われるなんて。
そう考えると、恐ろしいから、ピーターパンの本を抱き締める。
「違うと言って」と。
いくら養父母が職業だとしても、「パパもママも、ぼくを忘れないよね?」と…。
家に帰っても・了
※シロエが会いたくて堪らない両親。いつか必ず故郷に帰ろう、と思っているのですけれど…。
両親の方も、そうだとは限らないのです。養父母の立場は、機械が与えた職業だから。