「セキ・レイ・シロエ。…お捨てなさい」
過去を忘れておしまいなさい、と追ってくる声。
懸命に走って逃げているのに、遠ざかってはくれない声。
「ママ、パパ…!」
助けて、と幼いシロエは走り続ける。
けれど勝てない、子供の足では。
「助けてーっ!」
嫌だ、と悲鳴を上げる間もなく巻き込まれた渦。
一つ、二つと消えてゆく記憶、大切なものが消されてゆく。
いくら暴れても泣き叫んでも、浮かび上がった記憶は次から次へと。
指の間から零れ落ちる砂、手から溢れて流れ落ちる水。
そんな風に端から奪われる記憶、それを捕まえたと思うよりも前に。
「ママ…!」
誰を呼んだら助かるのだろう、その名を自分は知っていたのに。
それさえも思い出せない自分は、こうして捕まり、失くしたくない過去を、大事な記憶を…。
声にならない絶叫の内に、いつしか成長していた身体。
幼い自分は消えてしまって、着ているエリート候補生の服。
(……ぼくは……)
こんなものになどなりたくなかった、幼い姿のままで良かった。
地球へ行けなくてもかまわないから。
ネバーランドより素敵だという、青い星など要らないから。
その星を夢見たままで良かった、子供は行けない場所が地球なら。
両親や、家や、育った町と引き換えなければ、手に入らないような夢の星なら。
どうして気付かなかったのだろうか、馬鹿な自分は。
あの日、素直に家を出たのか、ピーターパンの本だけを詰めた鞄を提げて。
「さよなら」と別れを告げた両親、二度と会えないとは思わなかった。
いつか地球へと旅立つ時には、また会えるのだと信じていた。
立派な大人になったなら。
「ただいま」と育った家に帰って、自分の姿を見て貰える日が訪れたなら。
なのに、自分は失くしてしまった。
大切なものを、両親も家も、育った町で築いたものを。
これが自分だと思う全てを、今の自分を作り上げたものを。
こんな育った自分は要らない。
エリート候補生の服も要らない。
何一つ欲しいと思わないから、消した記憶を返して欲しい。
だから「返せ」と叫んでいるのに、「嫌だ」ともがき続けているのに。
「お捨てなさい」と前へと回り込んだ機械。
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
「嫌だーっ!」
放せ、と振り回した腕に何かが触れた。
左の腕から注ぎ込まれた、優しくて穏やかで心地良いもの。
(……何……?)
それが何かは分からないけれど、誰かが自分に力をくれた。
戦うには少し足りないけれども、逃れようとする自分に導きを。
(…誰……?)
誰だったろうか、自分を助ける力を持っていた人は。
その名を思い出せない人は。
(……ぼくは……)
まだ忘れてはいない筈だと思いたいのに、呼べない名前。
割れそうに痛み続ける頭を撫でるかのように、額にヒヤリと冷たい優しさ。
(ママ…?)
きっとママだ、と湧き上がった希望。
大丈夫。…まだ母のことは覚えているから。
顔は忘れてしまったけれども、柔らかかった手は忘れないから。
(…パパだったんだ…)
額を冷やしてくれている手が、母ならば。
それならば、さっき導く力を腕に注いでくれた人。
あれは懐かしい父なのだろう。
幼い自分を高く抱き上げ、くるくると回ってくれていた父。
きっと父が来て、腕に力を注いでくれた。
母がいて、それに父もいてくれて…。
(…ママ…。パパ……)
いつしか消えていた頭痛。
いなくなっていた、テラズ・ナンバー・ファイブ。
もう大丈夫、母と父が助けに来てくれたから。
怖い機械を追い払ってくれて、力も、優しい手もくれたから。
(…ママ、パパ…。ぼく、もう大丈夫だよ…)
大丈夫、とスウッと眠りに落ちてゆく意識。
母も父もいてくれるのだから。
身体はすっかり楽になったし、額には母の柔らかい手もあるのだから…。
そうして眠って、眠り続けて。
ぽかりと瞳を開けた時には、其処は見知らぬ部屋だった。
(ママ、パパ…!?)
何処、と慌てて飛び起きたベッド。
明かりが落とされた暗い部屋。
両親を探し求める瞳に、映ったピーターパンの本。
(ぼくの本…!)
急いでそれをギュッと抱き締めた、大切な宝物だから。
両親に貰った大切な本で、別れることなど出来はしないから。
(…良かった…)
あった、と瞳を閉じて、微笑んで。
本の感触を確かめた後で、開いた瞳。
両親は何処へ行ったのだろう、と。
けれど…。
暗い部屋の中、母かと思った人影。
父は身体が大きかったから、その細い影はきっと母だ、と。
(…ママ…)
そう思ったのに、母は其処にはいてくれなくて。
信じられない思いで見詰めた、まるで思いもよらない人間を。
(…キース……!)
額から消えてしまった母の手。
優しい母の手ではなかった、額に貼られた冷却シート。
忌々しいそれを不快感のままに毟り取る。
よくもと、よくも騙してくれたと。
見ればテーブルに、シートの袋と注射器が入った医療キット。
それでは腕から貰った力も…。
(…パパじゃなかった…)
愕然とするしかなかった事実。
最初から母も父もいなくて、助けに来てくれたと思った力と、柔らかな手は…。
「…お前が……」
そんな、とキースを睨んだ。
余計なことをと、お前が懐かしい母と父のふりをしたのかと。
「何故だ、何故…!」
それでは本を抱き締めた姿、あれもキースは見ていたのだろう。
腹立たしさを叩き付けた言葉に、「何をした?」と返して来たキース。
「追われているのだろう?」と。
「…知ってて助けた?」
それも余計だ、と振り払いたくなる母と父とを侮辱したキース。
たかが注射と冷却シートで踏み躙ってくれた、母と父との優しい思い出。
だから皮肉な笑みを浮かべた、「…いいんですか?」と。
「マザー・イライザに叱られますよ」
消えろ、と怒りをぶつけているのに、立ち上がり、ベッドに近付いたキース。
「何故、マザーに逆らう。何故、そこまでする」と。
何処までも憎く、腹立たしい男。
機械の申し子、キース・アニアン。
その正体はもう、知っているけれど。
マザー・イライザが創った人形。
それが自分を救うだなんて、と噴き上げてくる八つ当たりじみた感情と怒り。
おまけに見られた、ピーターパンの本を抱き締めるのを。
大切な本と自分の絆までをも、目の前のキースが盗み見てくれた。
人間ですらもないくせに。
機械が作った人形のくせに。
ぶつけられずにいられない怒り、やり場がないから憎まれ口を叩く。
「…あなたらしい殺風景な部屋ですね。息が詰まりそうだ」
さあ、怒ってみろ。この前みたいに殴ってみろ。
なのに、挑発に乗らないキース。
「マザーに逆らうということは、地球に逆らうということだ」と。
そんな正論、聞きたくもない。
「…ぼくの服は?」
これ、あなたのでしょう。あなたの匂いがする。…嫌だ。
キースが着せたのだろうシャツ。
機械の申し子のためのシャツなど、おぞましいだけ。腹立たしいだけ。
さあ、怒れ、キース。
正義面して母と父とのふりをしたキース、お前は要らない。
ぼくの前から消えるがいい。
消えてしまえ、と引っ張ったシャツ。
(……ママ、パパ……)
ごめん、と心で詫びた優しい人たち。
ママやパパとキースを間違えるなんて、馬鹿だったよ、と。
(…ママとパパなら…)
助けて貰ったら嬉しいけれども、機械は憎いだけだから。
機械が作った人形のキース、それに助けられたらしい自分が、ただ不甲斐ないだけだから。
もうキースにはけして見せない、自分の中身は。
心を固く覆い隠して、ボロボロにされた身体を怒りと皮肉で厚く鎧って。
怒るがいい、キース。
お前の秘密は掴んだから。…お前は機械の申し子だから。
母も父も、成人検査も知らないキース。
お前などに心は見せないから。
ピーターパンの本に書かれた、夢の国への道順は決して教えないから。
誰だったろうか、自分を本当に救える人は。
ネバーランドへと飛び立つ翼を背にくれる人は、いつか救いに来てくれる人は。
そのことも、けして話はしない。
母と父とのふりをしたキース、こんな男に二度と心は見せないのだから…。
夢が覚めたら・了
※「目が覚めた時は可愛かったのに…」と放映当時は思ったシロエ。豹変したな、と。
可愛さ転じて皮肉大王。どう転がったらそうなるんじゃい、と考えていたらこうなったオチ。