「なあ、キース。…ホントに何も覚えてねえのかよ?」
ある日、突然サムに問われた。
食事の途中で、まるで何かのついでのように。
「…何の話だ?」
自分は何かしただろうか、とキースは途惑ったのだけれども。
「悪ィ、言い方、マズかったよな」と頭を掻いたサム。
「前に言ってた話だよ。…成人検査よりも前のことは何も覚えていない、って」
言ったろ、お前?
本当に何も覚えてねえのか、少しくらいは覚えてるのか、気になってさ…。
ほら、普通は…って、お前、友達も覚えていねえんだっけ…。
「それは重要なものなのか」って、俺に訊いてたくらいだもんな。
でもさ…。
ちょっとくらいは、と問い掛けるサムは、心配してくれている顔で。
懐かしい記憶が何か無いのかと、次々と挙げてくれる例。
「キースだったら、やっぱり、学校かなあ…」
教室とかさ、先生とか。
覚えてねえかな、そんな感じで。
…俺だと叱られちまったこととか、勉強よりかはスポーツだけどよ。
お前だったら教室の前のボードとか…。お前が取ってたノートだとか。
それに教科書、と挙げて貰っても、どの例もピンと来ないものばかり。
(…教室に先生…)
どういうものかは分かるけれども、頭に浮かぶのは今の教育ステーション。
教科書もそうで、ノートも同じ。教室の前のボードにしても。
(…叱られたことも、スポーツも…)
何一つ思い出せない自分。
何処で教育を受けていたのか、どんなスポーツをしていたのかも。
(スポーツ…)
教育ステーションに来るよりも前にやるスポーツなら、何があっただろうか?
サッカーにテニス、それに水泳、と知識を反芻している内に。
そうだ、と思い付いたこと。
学校で習うスポーツなどとは、何の関係も無いのだけれど。
(……水……)
水泳という言葉で浮かんだ記憶。
あれを記憶と呼べるのかどうか、自分でもあまり自信が持てない。
けれど、ゴボリと湧き上がる気泡。
確かに自分はそれを頭に思い浮かべたし、あれはステーションに着いた日のこと。
目の前のサムと出会うよりも前に、ホールで見ていたガイダンス。
映像の中に現れた胎児、その先触れの水のイメージ。
(…水から生まれた、と思ったんだ…)
胎児も、地球の全ての命も。
あの映像の水に惹かれて、心を掴まれた気がした一瞬。
ほんの欠片に過ぎないけれども、きっと記憶の内なのだろう。
此処に来るよりも前に自分が見たもの。
もしかしたら、胎児であった頃に。
人工子宮の中にいた頃、まだ開いてもいなかったかもしれない目で。
(サムは笑うかもしれないが…)
話してみようか、あの水のことを。
きっと唯一の記憶だから。
ステーションに来るよりも前の、故郷にいた頃の自分が見たもの。
あまりに不確かで、夢だと一蹴されそうな記憶。
けれども確かに見たと思うから…。
「…一つだけ、無いこともないんだが…」
多分、笑うと思うんだが、と前置きをしたら「笑わねえよ」と唇を尖らせたサム。
「俺が笑うと思うのかよ? 訊いたの、俺だぜ?」
お前がハッキリ覚えてないなら、力になろうと思ってさ…。
俺の記憶も、成人検査を受けてから後は、曖昧になっちまっているんだけどな。
でもよ、お前よりマシだから。…こんなのだ、って手掛かりがあれば分かるかも、って。
どんな記憶か、言ってみてくれよ。
形でもいいし、色でもいいし。
そう言ってくれるサムは、本当に真剣だったから。
「手掛かりにもならないと思うんだが…」と切り出してみた。
「…水なんだ。ただ、水としか…」
「水?」
なんだよ、それ?
こう、一面の水なのかよ、と乗り出したサム。それなら海だ、と。
でなければ湖、そういったもの。故郷で見ていた景色なのでは、と。
「…違うと思う。…そうだとしても…」
見ていたと言うより、その中にいた。…水の中を泡が昇っていたから。
そういうイメージしか残っていない、とサムに明かした水の記憶。
ガイダンスで見て以来、気に入っていると。
だから自分の部屋の壁にも、水槽のイメージを投影したと。
そうしたら…。
「すげえや、キース! やっぱり、お前は並みじゃねえよな!」
俺なんかとは出来が違うぜ、とサムが指差した自分の頭。
「…凄いって…。サムの方がずっと凄いと思うが…」
色々なことを覚えているし、と記憶のことを褒めたのに。
「俺? …あんなの、誰でも覚えてるんだよ、友達だとか、学校とかは」
当たり前のことで、普通のことで…。
だけど、お前は最初のことをしっかり覚えていたってな!
だってそうだろ、誰だって最初は水の中だし。
…俺は忘れてしまったけどな、と残念そうなサム。
その頃の記憶が俺にもあったら、もっと成績良かったかもな、と。
「…あれが最初の記憶だと…? 笑わないのか…?」
勘違いだとか、思い違いだとか。
そう言われても、仕方ないんだと思っていたが…。
何処かで潜った時の記憶とか、そんな記憶の名残だろう、と…。
きっと笑われるか、思い違いだと諭されるか。
そんな所だと思っていたのに、サムは感動を覚えたようで。
しきりに「凄い」と繰り返しながら、自分のことのように喜んでくれた。
「それしか覚えていねえにしても…。良かったじゃねえか、一つあったぜ、お前の記憶」
ゼロってわけじゃねえんだよ。
…でもさ、他の奴らには言わねえ方がいいかもな。
なんか夢でも見たんじゃねえか、って真面目に取り合ってくれそうもねえし。
生まれる前の記憶なんてさ。…俺は凄いと思うけどな。
「…やはり言わない方がいいのか?」
「多分な。…忘れちまった、って方がマトモに聞こえるんじゃねえの?」
お前だけに、とポンと肩を叩いてくれたサム。
「頭のいいお前が生まれる前の記憶だなんて言ったら、きっと狂ったと思われるぜ?」と。
「そういうものか…?」
「それが俺だったら、笑い事で済むんだけどな」
他の記憶も山ほどあるから、夢でも見たな、って片付くからよ。
だけど、お前はやめとけよな。…「正気なのか」って顔をされそうだから。
そう忠告を貰ったけれど。
サムは笑いはしなかった。あの記憶を。
水の中にいたような気がする、たった一つの記憶のことを。
(…あれが、このステーションに来る前の…)
記憶なのだと、サムも認めてくれたから。
頼りないだけの水の記憶も、それなりに意味はあるのだろう。
自分は水から生まれたのだし、人は水から生まれるから。
あの記憶しか持たない自分も、ちゃんと生まれて来た証拠。
皆と変わらず水の中にいて、其処から生まれ出た証。
(…ぼくも、何処かで…)
水の中から生まれて来た。
そう考えると、安らぐ気持ち。あの水の記憶。
機械の申し子と呼ばれるけれども、やはり同じに人なのだから。
両親も故郷も何も覚えていないけれども、生まれる前の記憶なら持っているのだから…。
一つだけの記憶・了
※キースが持っている水のイメージ、考えようによっては「記憶」だよなあ、と。
これをシロエが知っていたなら、フロア001で高笑いは必至。