(……結婚ねえ……)
このステーションにもあるだなんてね、とシロエは机に頬杖をつく。
授業は終わって、とうに夜更けになっている。
もっとも、このEー1077には、人工の夜しか無いのだけれど。
とはいえ夜は落ち着く時間で、他の候補生たちを気にしないで済む。
自分の個室に引っ込んでいれば、誰も思考を邪魔しに来ない。
(…邪魔っけで、うんと目障りだった、キースの衛星…)
忌々しいライバル、キース・アニアン。
彼の周りをいつも回っていた二つの衛星、その片方が、今日、消えていった。
「結婚」という、信じられない選択をして。
エリートを育てる最高学府の、Eー1077を捨ててしまって。
(…一般人の道へ行くなんて…)
どう考えても「有り得ない」けれど、スウェナは「それ」を選んで去った。
エリート候補生には相応しくない、冴えない職の男と共に。
Eー1077を離れたら最後、もうメンバーズ・エリートにはなれないのに。
(いなくなったことは、嬉しいんだけどね…)
とても目障りだったから、と「スウェナが消えた」ことは喜ばしい。
もう一つの衛星、サム・ヒューストンが残ってはいても、衛星が二つあるよりは…。
(一つの方が、遥かにマシさ)
苛立たされる回数が半分になる、と精神衛生上の利点を挙げる。
スウェナ・ダールトンが「消えた」からには、キースを庇う者だって減る。
面と向かって「シロエ」を詰っていたのが彼女で、まさにキースの衛星そのもの。
その点はサムも同じだけれども、スウェナと二人で「かかって来る」ことは二度と出来ない。
二人を一度に相手にするより、一人の方が楽に決まっている。
どんな言いがかりをつけられようとも、サムだけならば、適当に…。
(あしらえばいいし、無視をしたって…)
もう片方の「衛星」が騒ぐことも無いから、いいだろう。
此処での暮らしは、これで幾らか「改善される」に違いない。
目障りなものが一つ消えたら、その分、神経が逆立つことも減るだろうから。
手放しで喜び、祝福したいほどの「スウェナの結婚」。
エリートらしからぬ彼女の選択、それが招いた有難い「結果」。
その筈なのに、何故か心に引っ掛かる。
此処では「考えられない」ことが起こって、彼女が「消えた」せいなのだろうか。
(…結婚なんか…)
エリート候補生が進む先には、けして無い筈の生き方と言える。
誰もが目指す「メンバーズ・エリート」、それは「独身」が条件になる。
結婚という道を選んだ時点で失格となって、メンバーズの職を辞すしか無い。
(そんな馬鹿な奴がいたなんて…)
一度も聞いたことが無いから、「そうした」者はいないのだろう。
「メンバーズを目指す」と決めたからには、余計なことは「考えない」のが正しい道。
結婚したくなるような要素や切っ掛け、それらの全てに背を向けて生きる。
「彼氏」や「彼女」なんかを作りはしないで、ただ勉強に打ち込んで。
(それが出来ないような奴では…)
到底、メンバーズになれはしないし、落ちこぼれるだけ。
そういう輩も「多い」けれども、このステーションに「いる」間は…。
(誰かと親しく付き合っている、というだけで…)
結婚を選んで、Eー1077を離れたりはしない。
なんと言っても「最高学府」で、卒業すれば「それなりの」評価が得られる。
卒業後の道が何であろうと、他のステーション出身の者よりも良い職に就ける筈。
(そうなった後も、まだ付き合いが続いていたら…)
彼らは「結婚する」のだろうか。
良い職業を失うことなく、そのままで。
追加で「一般人のためのコース」を履修し、養父母となる道へ進んで。
何処かの星で「子供」を育てて、一緒に仲良く年を重ねて。
(…ぼくのパパとママも…)
もしかしたら、それに似ていたのかも、とハタと気付いた。
父が卒業したステーションの名は、聞いたことなど無いけれど…。
(研究所では、うんと偉かったんだし…)
一種の「エリート」には違いないから、一般人向けのコース出身ではないかもしれない。
メンバーズと違って「独身が条件」ではなかっただけで、エリートかも、と。
「優秀な技術者」を養成するためにある、教育ステーション。
父はそういう場所で学んで、その間に「母と出会った」可能性はある。
(四年間も勉強するんだものね…)
様々な人間と出会うのだろうし、知り合う機会は幾らでもあったことだろう。
授業もあれば、学生向けのカフェテリアもあるし、公園などの休憩場所も沢山。
そういった場所で「偶然」出会って、気が合ったから、互いの連絡先を知らせて…。
(また会って、いろんな話とかをして…)
別れる時に「次」の約束、何日か経てば「また会って」話す。
(…そうやって何度も会って、話して…)
ステーションを卒業する頃になったら、二人で決めていたのだろうか。
「卒業したら、結婚しよう」と。
二人一緒に、一般人向けのステーションへ行って、「一から勉強し直そう」と。
(そうじゃない、って言い切れる…?)
むしろ、そっちの可能性の方が高いんじゃあ…、と思えてくる。
父は、あまりにも「優秀」だった。
Eー1077に来てから調べてみても、「セキ博士」の名は見付けられる。
その分野での権威の一人で、所属している研究機関のトップでもある。
(…一般人向けのコースなんかで…)
それほどの高い技術や知識を、習得出来るとは「とても思えない」。
現に、今ではおぼろになった記憶の中でも、エネルゲイアという場所は…。
(技術者を育てるための育英都市で…)
友人たちの父親の職も、技術者が飛び抜けて多かった。
他の職業だと、ごくありふれた会社員とか、様々な施設で働く者とか。
(…ぼくのパパみたいに、凄い人って…)
いなかったよね、と思い返して、「やっぱり、そうかも」と顎に手を当てる。
「パパはエリートだったのかも」と、「ママとは、たまたま出会っただけで」と。
母が「父と同じステーション」にいたのだったら、父の優秀さも頷ける。
本来なら「一般コースには行かない」技術系のエリート、母も「その卵たち」の中の一人。
父と出会って恋をしたから、「今日消えた、スウェナ」がそうしたように…。
(…技術系のエリートになって、研究者の道を進む代わりに…)
父に合わせて選んだ道が「母親になる」道で、それしか選べなかったのかも、と。
(…育英都市で暮らす、養父母の場合は…)
女性の方は、職業に就くことは無い。
家で「子供を育てる」のが役目で、職に就いてはいられない。
(…ぼくのママも、母親をやらなきゃいけないから…)
父と出会ったステーションで「学んだ」知識や技術を捨てて、母親をやっていたろうか。
ブラウニーを作ってくれていた手は、他の技術を「本当は」持っていたのだろうか。
(…そうだった、って考えた方が…)
あるいは「自然」なのかもしれない。
一般人向けのコースで学び直したのなら、元々の技術は「忘れなさい」と教えられるだろう。
「それ」は子育てには不要なのだし、忘れて封印するのが一番。
代わりに料理や家事を学んで、そちらのエキスパートになるべき。
最初から一般人向けのコースで育った女性に、引けを取ることが無いように。
将来、子供を育てる時には、「最高の母親」になれるよう。
(…ママはそうやって、ぼくのママになって…)
父も「一般人向けのコース」の知識を、元の知識や技術の上に、重ねて乗せて…。
(ぼくのパパをやっていたのかな…?)
そうだとしたら、優秀なのも分かるんだよね、と頷かざるを得ない。
「そっちの方が有り得るんだよ」と、「最初から、一般人向けのコースよりかは」と。
(…でも、パパもママも…)
そんなそぶりは、ただの一度も「見せてはいない」。
成人検査で記憶を奪われてはいても、そのくらいのことは「覚えている」。
父も母も「理想の両親」だったし、今でも忘れられない存在。
温かくて優しかった二人も、涙が出るほど懐かしい家も、どちらも確かに「本物だった」。
元々は「違うステーションで育った二人」だったとは、まるで全く思えはしない。
また、そうでなければ「一般人向けのコース」で学んだ意味は無いだろう。
育てている子に「何処か変だよ」と、違和感を持たれる養父母では。
「ぼくのパパとママって、何か違うよ」と、友人の両親たちと比較されてしまうようでは。
(……ぼくのパパとママだって、ひょっとしたら……)
スウェナと良く似た道を選んで学んで、「シロエ」の親になっただろうか。
母には「他の技術と知識があった」のに、それらを捨てて「家事」を選んで。
そうなのかも、と考える内に、ふと浮かんで来た「可能性」。
両親も歩んで来た道ならば、スウェナが選んで去って行った道へ…。
(…ぼくだって、絶対、進まないとは…)
言えないのかも、と視線をピーターパンの本へと移す。
本の表紙に描かれている、夜空を駆ける子供たち。
いつか「子供が子供でいられる世界」を取り戻そうと、懸命に努力しているけれど…。
(運命の相手ってヤツに、出会っちゃったら…)
今の気持ちや固い決意は、太陽に晒された氷のように、儚く溶けてしまうのだろうか。
それこそ、ほんの一瞬の内に。
「この人と、ずっと話していたいな」と思う相手に、何処かで出会ってしまったら。
(…Eー1077では、出会わなくても…)
メンバーズに選ばれて進んだ先で、出会わないとは言い切れない。
任務で出掛けた星で出会うとか、所属先の基地に勤務している女性と知り合うだとか。
(そうなった時は、この本のことも忘れてしまって、夢中になって…)
相手の女性と何度も何度も会って話して、やがて結婚を選ぶのかもしれない。
メンバーズを辞した「最初の人間」になってしまって、一般人向けのコースに行って。
相手の女性と二人で一から学び直して、何処かの星で養父母になって。
(…ピーターパンの本は、とっくに失くして…)
手元に無いかもしれないけれども、今度は「自分で」買って、育てている子に贈るとか。
(そして、その子が気に入ってくれたら…)
故郷の父がそう言ったように、「パパも子供の頃に読んだ」と、自分も笑顔で話すだろうか。
「この本はね…」と、成人検査に持って出掛けたことなどを。
SD体制のシステムに染まって馴染んで、「パパは悪い子だったかもな」と苦笑して。
(……うーん……)
それもいいかな、という気もする。
恐らく、今夜だけだろうけれど。
「スウェナの結婚」に毒気を抜かれて、「シロエ」らしさが減ってしまって、そう思うだけ。
きっと明日には、元の通りの「シロエ」が笑っていることだろう。
「キースの衛星が一つ消えたよ」と、「有難いよね」と…。
消えた衛星・了
※「シロエだって、恋をしたなら変わるんじゃあ?」と思った所から生まれたお話。
キースを育てるために選ばれた時点で、そうなるわけがないんですけど、可能性について。
このステーションにもあるだなんてね、とシロエは机に頬杖をつく。
授業は終わって、とうに夜更けになっている。
もっとも、このEー1077には、人工の夜しか無いのだけれど。
とはいえ夜は落ち着く時間で、他の候補生たちを気にしないで済む。
自分の個室に引っ込んでいれば、誰も思考を邪魔しに来ない。
(…邪魔っけで、うんと目障りだった、キースの衛星…)
忌々しいライバル、キース・アニアン。
彼の周りをいつも回っていた二つの衛星、その片方が、今日、消えていった。
「結婚」という、信じられない選択をして。
エリートを育てる最高学府の、Eー1077を捨ててしまって。
(…一般人の道へ行くなんて…)
どう考えても「有り得ない」けれど、スウェナは「それ」を選んで去った。
エリート候補生には相応しくない、冴えない職の男と共に。
Eー1077を離れたら最後、もうメンバーズ・エリートにはなれないのに。
(いなくなったことは、嬉しいんだけどね…)
とても目障りだったから、と「スウェナが消えた」ことは喜ばしい。
もう一つの衛星、サム・ヒューストンが残ってはいても、衛星が二つあるよりは…。
(一つの方が、遥かにマシさ)
苛立たされる回数が半分になる、と精神衛生上の利点を挙げる。
スウェナ・ダールトンが「消えた」からには、キースを庇う者だって減る。
面と向かって「シロエ」を詰っていたのが彼女で、まさにキースの衛星そのもの。
その点はサムも同じだけれども、スウェナと二人で「かかって来る」ことは二度と出来ない。
二人を一度に相手にするより、一人の方が楽に決まっている。
どんな言いがかりをつけられようとも、サムだけならば、適当に…。
(あしらえばいいし、無視をしたって…)
もう片方の「衛星」が騒ぐことも無いから、いいだろう。
此処での暮らしは、これで幾らか「改善される」に違いない。
目障りなものが一つ消えたら、その分、神経が逆立つことも減るだろうから。
手放しで喜び、祝福したいほどの「スウェナの結婚」。
エリートらしからぬ彼女の選択、それが招いた有難い「結果」。
その筈なのに、何故か心に引っ掛かる。
此処では「考えられない」ことが起こって、彼女が「消えた」せいなのだろうか。
(…結婚なんか…)
エリート候補生が進む先には、けして無い筈の生き方と言える。
誰もが目指す「メンバーズ・エリート」、それは「独身」が条件になる。
結婚という道を選んだ時点で失格となって、メンバーズの職を辞すしか無い。
(そんな馬鹿な奴がいたなんて…)
一度も聞いたことが無いから、「そうした」者はいないのだろう。
「メンバーズを目指す」と決めたからには、余計なことは「考えない」のが正しい道。
結婚したくなるような要素や切っ掛け、それらの全てに背を向けて生きる。
「彼氏」や「彼女」なんかを作りはしないで、ただ勉強に打ち込んで。
(それが出来ないような奴では…)
到底、メンバーズになれはしないし、落ちこぼれるだけ。
そういう輩も「多い」けれども、このステーションに「いる」間は…。
(誰かと親しく付き合っている、というだけで…)
結婚を選んで、Eー1077を離れたりはしない。
なんと言っても「最高学府」で、卒業すれば「それなりの」評価が得られる。
卒業後の道が何であろうと、他のステーション出身の者よりも良い職に就ける筈。
(そうなった後も、まだ付き合いが続いていたら…)
彼らは「結婚する」のだろうか。
良い職業を失うことなく、そのままで。
追加で「一般人のためのコース」を履修し、養父母となる道へ進んで。
何処かの星で「子供」を育てて、一緒に仲良く年を重ねて。
(…ぼくのパパとママも…)
もしかしたら、それに似ていたのかも、とハタと気付いた。
父が卒業したステーションの名は、聞いたことなど無いけれど…。
(研究所では、うんと偉かったんだし…)
一種の「エリート」には違いないから、一般人向けのコース出身ではないかもしれない。
メンバーズと違って「独身が条件」ではなかっただけで、エリートかも、と。
「優秀な技術者」を養成するためにある、教育ステーション。
父はそういう場所で学んで、その間に「母と出会った」可能性はある。
(四年間も勉強するんだものね…)
様々な人間と出会うのだろうし、知り合う機会は幾らでもあったことだろう。
授業もあれば、学生向けのカフェテリアもあるし、公園などの休憩場所も沢山。
そういった場所で「偶然」出会って、気が合ったから、互いの連絡先を知らせて…。
(また会って、いろんな話とかをして…)
別れる時に「次」の約束、何日か経てば「また会って」話す。
(…そうやって何度も会って、話して…)
ステーションを卒業する頃になったら、二人で決めていたのだろうか。
「卒業したら、結婚しよう」と。
二人一緒に、一般人向けのステーションへ行って、「一から勉強し直そう」と。
(そうじゃない、って言い切れる…?)
むしろ、そっちの可能性の方が高いんじゃあ…、と思えてくる。
父は、あまりにも「優秀」だった。
Eー1077に来てから調べてみても、「セキ博士」の名は見付けられる。
その分野での権威の一人で、所属している研究機関のトップでもある。
(…一般人向けのコースなんかで…)
それほどの高い技術や知識を、習得出来るとは「とても思えない」。
現に、今ではおぼろになった記憶の中でも、エネルゲイアという場所は…。
(技術者を育てるための育英都市で…)
友人たちの父親の職も、技術者が飛び抜けて多かった。
他の職業だと、ごくありふれた会社員とか、様々な施設で働く者とか。
(…ぼくのパパみたいに、凄い人って…)
いなかったよね、と思い返して、「やっぱり、そうかも」と顎に手を当てる。
「パパはエリートだったのかも」と、「ママとは、たまたま出会っただけで」と。
母が「父と同じステーション」にいたのだったら、父の優秀さも頷ける。
本来なら「一般コースには行かない」技術系のエリート、母も「その卵たち」の中の一人。
父と出会って恋をしたから、「今日消えた、スウェナ」がそうしたように…。
(…技術系のエリートになって、研究者の道を進む代わりに…)
父に合わせて選んだ道が「母親になる」道で、それしか選べなかったのかも、と。
(…育英都市で暮らす、養父母の場合は…)
女性の方は、職業に就くことは無い。
家で「子供を育てる」のが役目で、職に就いてはいられない。
(…ぼくのママも、母親をやらなきゃいけないから…)
父と出会ったステーションで「学んだ」知識や技術を捨てて、母親をやっていたろうか。
ブラウニーを作ってくれていた手は、他の技術を「本当は」持っていたのだろうか。
(…そうだった、って考えた方が…)
あるいは「自然」なのかもしれない。
一般人向けのコースで学び直したのなら、元々の技術は「忘れなさい」と教えられるだろう。
「それ」は子育てには不要なのだし、忘れて封印するのが一番。
代わりに料理や家事を学んで、そちらのエキスパートになるべき。
最初から一般人向けのコースで育った女性に、引けを取ることが無いように。
将来、子供を育てる時には、「最高の母親」になれるよう。
(…ママはそうやって、ぼくのママになって…)
父も「一般人向けのコース」の知識を、元の知識や技術の上に、重ねて乗せて…。
(ぼくのパパをやっていたのかな…?)
そうだとしたら、優秀なのも分かるんだよね、と頷かざるを得ない。
「そっちの方が有り得るんだよ」と、「最初から、一般人向けのコースよりかは」と。
(…でも、パパもママも…)
そんなそぶりは、ただの一度も「見せてはいない」。
成人検査で記憶を奪われてはいても、そのくらいのことは「覚えている」。
父も母も「理想の両親」だったし、今でも忘れられない存在。
温かくて優しかった二人も、涙が出るほど懐かしい家も、どちらも確かに「本物だった」。
元々は「違うステーションで育った二人」だったとは、まるで全く思えはしない。
また、そうでなければ「一般人向けのコース」で学んだ意味は無いだろう。
育てている子に「何処か変だよ」と、違和感を持たれる養父母では。
「ぼくのパパとママって、何か違うよ」と、友人の両親たちと比較されてしまうようでは。
(……ぼくのパパとママだって、ひょっとしたら……)
スウェナと良く似た道を選んで学んで、「シロエ」の親になっただろうか。
母には「他の技術と知識があった」のに、それらを捨てて「家事」を選んで。
そうなのかも、と考える内に、ふと浮かんで来た「可能性」。
両親も歩んで来た道ならば、スウェナが選んで去って行った道へ…。
(…ぼくだって、絶対、進まないとは…)
言えないのかも、と視線をピーターパンの本へと移す。
本の表紙に描かれている、夜空を駆ける子供たち。
いつか「子供が子供でいられる世界」を取り戻そうと、懸命に努力しているけれど…。
(運命の相手ってヤツに、出会っちゃったら…)
今の気持ちや固い決意は、太陽に晒された氷のように、儚く溶けてしまうのだろうか。
それこそ、ほんの一瞬の内に。
「この人と、ずっと話していたいな」と思う相手に、何処かで出会ってしまったら。
(…Eー1077では、出会わなくても…)
メンバーズに選ばれて進んだ先で、出会わないとは言い切れない。
任務で出掛けた星で出会うとか、所属先の基地に勤務している女性と知り合うだとか。
(そうなった時は、この本のことも忘れてしまって、夢中になって…)
相手の女性と何度も何度も会って話して、やがて結婚を選ぶのかもしれない。
メンバーズを辞した「最初の人間」になってしまって、一般人向けのコースに行って。
相手の女性と二人で一から学び直して、何処かの星で養父母になって。
(…ピーターパンの本は、とっくに失くして…)
手元に無いかもしれないけれども、今度は「自分で」買って、育てている子に贈るとか。
(そして、その子が気に入ってくれたら…)
故郷の父がそう言ったように、「パパも子供の頃に読んだ」と、自分も笑顔で話すだろうか。
「この本はね…」と、成人検査に持って出掛けたことなどを。
SD体制のシステムに染まって馴染んで、「パパは悪い子だったかもな」と苦笑して。
(……うーん……)
それもいいかな、という気もする。
恐らく、今夜だけだろうけれど。
「スウェナの結婚」に毒気を抜かれて、「シロエ」らしさが減ってしまって、そう思うだけ。
きっと明日には、元の通りの「シロエ」が笑っていることだろう。
「キースの衛星が一つ消えたよ」と、「有難いよね」と…。
消えた衛星・了
※「シロエだって、恋をしたなら変わるんじゃあ?」と思った所から生まれたお話。
キースを育てるために選ばれた時点で、そうなるわけがないんですけど、可能性について。
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(…何故、マツカが…)
マツカが何故、とキースの思考は、普段の冷静さを欠いていた。
さっき目にした、国家騎士団の制服よりも鮮やかだった赤。
マツカの身体から、いや、「左半分しか無い」マツカから溢れて、流れ出ていた血液。
そう、「血」と呼ぶには、あまりにも生々しく、「血液」という言葉が相応しい。
マツカが失くした右半身に入っていた血が、そのまま床に広がったよう。
袋に入った輸血用の血液、それを叩き付けて破ったかのように、あったのは赤い液体だけ。
其処にあった筈のマツカの「右半身」は、何処にも影も形も無かった。
木端微塵に砕け散ったか、あるいは蒸発してしまったのか。
(…マツカ、どうして…)
何故、こうなってしまったのだ、と頭の中が一向に纏まって来ない。
マツカの「死体」を目にした直後は、まだ幾らかは「キースらしさ」があったのに。
感情など無い機械の申し子、冷徹無比な破壊兵器の異名通りに振舞えたのに。
(……後始末を、と……)
言い捨てて「あの部屋」を後にするまでは、いつもの「キース」だったと思う。
「アニアン閣下なら、こうするだろう」と、誰もが考えている通りの「キース」。
なのに、この様はどうだろう。
マツカが流した赤い液体、彼の「命」を構成していた「赤」が未だに渦巻いている。
頭に、心に、それに目の前に、あの赤い色が焼き付いたまま。
(…私らしくもない…)
本当に、自分らしくもない、と叱咤してみても、禍々しい赤は消えてくれない。
マツカの身体という器を失い、行き場を失くして流れ出た血が。
もう血管の中を巡っていなくて、ただの「血液」と化していた「もの」が。
(…あの死に様のせいなのか…?)
それとも「マツカ」が「キース」よりも先に、「逝ってしまった」ことが衝撃だったか。
どちらなのか、それさえも判断出来ない。
見えるのは、赤い色だけで。
その「赤」を流した「マツカ」の骸が、赤を引き立てているだけで。
Eー1077に在った「水槽」、其処を出てから、今日までの長い歳月。
幾多の戦場を経験して来て、修羅場を何度もくぐり抜けて来た。
「マツカ」との間にも、色々とあった。
(…しかし、今日までの人生で…)
此処まで冷静さを失ったことは、ただの一度も無かった気がする。
「シロエ」をこの手で葬った時には、涙が止まらなかったけれども…。
(…だが、これほどには…)
混乱してはいなかった、と自分でも不思議で堪らない。
自分が「年を取った」せいなのか、「マツカ」の存在が「大き過ぎた」か。
(多分、マツカと…)
共に過ごした年月が長過ぎたせいだろうな、と纏まらない頭で結論を出す。
「きっと、そうだ」と、「ただ、それだけのことなのだ」と。
(しっかりしろ、キース…)
呆然としている暇などは無い、と自分自身を叱り付ける。
「マツカが死んでしまった」原因、それは「暗殺者が潜り込んで来た」こと。
オレンジ色の髪と瞳の青年、あのミュウが「キース」の暗殺を企てなかったら…。
(私が命を落としかけることも、マツカが命を失うことも…)
無かったのだし、部下に命じて、警備体制を見直すべきだろう。
今のキースは「国家主席」で、代わりになれる人材は無い。
もしも「キース」が死んでしまえば、人類も地球も、指導者を失うことになる。
そんなことなど「あってはならない」。
けして「起きてはならない」事態なのだし、繰り返さぬよう、対処しなければ。
(それを命じて、皆を指揮して…)
ミュウの艦隊と対峙してゆくためにも、「冷静さ」を取り戻さなければならない。
いつまでも「赤」だけを見てはいないで。
マツカが流した赤い血の色も、半身だけになってしまった骸も、頭から放り出して。
(……そうだな……)
私はそうすべきなのだ、と「先刻までとは違った自室」に、部下の一人を呼び付けた。
直属の者は「マツカ」の始末に忙しいから、「誰でもいい」と。
呼ばれて現れた下級士官に、「コーヒーを」と命令する。
淹れて「この部屋」に持って来るよう、如何にも「キースらしい」口調で。
下級士官の顔を見たからか、「いつものキース」を演じたからか。
少し「冷静さ」が戻った気がして、息を大きく一つ吐き出す。
「コーヒーを飲めば、落ち着くだろう」と。
さっきの部下が持って来たなら、その一杯をゆっくりと飲んで、持ち場に戻る。
何食わぬ顔で、「国家主席」として。
もう「後始末」が済んでいるようなら、直属の部下を全て揃えて…。
(警備体制の見直しと、今回の失態を招いた原因の究明と…)
他にもさせるべきことがある筈だ、と指で机をトントンと叩く。
今は、まだ「赤」が渦巻いているから、「それが消えたら考えよう」と。
熱いコーヒーを口にしたなら、きっと思考も纏まってくれる。
(私は、いつもコーヒーだしな)
ずっと昔からそうだった、と候補生時代にまで遡っていたら、下級士官がやって来た。
「閣下、コーヒーをお持ちしました」
緊張している彼に向かって「ああ、其処に置け」と告げ、「下がっていい」と下がらせる。
彼が扉の向こうに消えてから、コーヒーのカップを手に取った。
いつも、そうしているように。
何も考えたりはしないで、自然に、流れるような動きで。
(…ああ…)
ホッとするな、とコーヒーの香りを楽しみ、カップに口をつけたけれども…。
(……この味は……)
違う、と舌が、心が叫んだ。
「欲しかったのは、これではない」と。
確かに「コーヒー」なのだけれども、明らかに違う。
カップの中身は「ただのコーヒー」、何度も、あちこちで「飲んで来た」もの。
会議の席やら、出張先やら、他の者たちと同席している時に。
(…そうした時には…)
コーヒーを淹れて持って来るのは、其処で働いている者たち。
さっきの下級士官と同じで、「コーヒーを淹れるように」と命じられただけ。
彼ら、彼女らの役目の一つには違いなくても、それだけのこと。
ただ「コーヒーを淹れる」というだけ、それ以上の意味を持ってはいない。
要は淹れればいいだけのことで、「コーヒー」が出来れば、運んで、終わり。
(…私が飲んで来たコーヒーには…)
そうか、二種類あったのだな、と今更のように気付かされた。
「様々な所で出て来る」ものと、「マツカが淹れて、持って来る」もの。
前者は、まさに「今、此処にある」味のコーヒー。
取り立てて「こう」という特徴も無くて、特に「美味しい」とも思わない。
けれど、マツカが淹れて来るものは違った。
絶妙なタイミングで差し出されるからか、コーヒーを淹れるのが上手かったのか。
(…コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎、と…)
直属の部下たちが「マツカ」を揶揄して詰っていたから、いい腕を持っていたのだろうか。
「後始末を」と命じられた彼らも、マツカが淹れたコーヒーの味を知っているだろう。
同じ部下同士で、しかも「マツカ」は彼らよりも格が下になる。
マツカを見下していた連中なのだし、休憩時間に「淹れて来い」と何度も言ったろう。
「お前は、それしか出来ないからな」と、「早くしろよ」と。
(…そうした挙句に、マツカのコーヒーは美味い、と知って…)
やっかみや妬みも混じった渾名を、「マツカ」に付けたに違いない。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と。
コーヒーを淹れる腕がいいというだけで、側近に取り立てられているなんて、と。
(…そういうわけではなかったのだが…)
だが、本当に美味かったんだ、とカップの中身をじっと見詰める。
「この味ではない」と、「これでは癒されない」と。
マツカが淹れてくれたものとは、まるで違った味わいの「それ」。
コーヒーには違いないのだけれども、飲みたかったコーヒーは「これ」とは違う。
こんな時こそ、飲みたいのに。
波立ち、渦巻き続ける感情、欠いてしまった「冷静さ」。
千々に乱れてしまったままの心を落ち着け、いつもの「キース」に戻るためには…。
(…あの味でないと、駄目なのだがな…)
そう思っても、もう、あの味は「味わえない」。
淹れてくれる「マツカ」は、もはや何処にもいないから。
「コーヒーを」と頼みたくても、死んでしまった「マツカ」に頼むことは出来ない。
どれほど「あの味」を求めようとも、「あのコーヒー」は二度と戻って来ない。
(…マツカを失くして、あの赤が頭から消えなくて…)
それを消し去り、早く癒されるための手段も、どうやら「キース」は失くしたらしい。
ジルベスター・セブン以来の側近だった「マツカ」と一緒に、失くしてしまった。
失くしたばかりか、これから先は…。
(コーヒーを口にする度に…)
違和感を覚え、マツカの面影が胸を過るのだろうか。
「二度と飲むことは出来ない」コーヒー、幻となってしまった味が懐かしくて。
あれこそが「本物のコーヒーだった」と、「まるで違う味」のコーヒーに顔を顰めながら。
(私の人生の残りというのが、どれだけあるかは分からないが…)
不味いコーヒーを飲まされ続けて、この生涯を終えるのか、と溜息が零れ落ちてゆく。
これから先は、もう「コーヒー」では、心が癒えはしないから。
激務に疲れ果てた時でも、「寛ぎの一杯」は出て来ないから。
「マツカ」と一緒に失ったものは、「安らぎ」というものだったろう。
こうなってしまって初めて気付いて、喪失感に苛まれる。
「何故、早く気付かなかったのか」と。
キースの「人生」の中で「マツカ」が占める部分は、なんと大きいものだったか、と…。
失ったもの・了
※「マツカが淹れるコーヒーは美味しい」というのが、アニテラの設定ですけれど。
だったら、マツカがいなくなった後のキースは、美味しいコーヒーは無しかも、というお話。
マツカが何故、とキースの思考は、普段の冷静さを欠いていた。
さっき目にした、国家騎士団の制服よりも鮮やかだった赤。
マツカの身体から、いや、「左半分しか無い」マツカから溢れて、流れ出ていた血液。
そう、「血」と呼ぶには、あまりにも生々しく、「血液」という言葉が相応しい。
マツカが失くした右半身に入っていた血が、そのまま床に広がったよう。
袋に入った輸血用の血液、それを叩き付けて破ったかのように、あったのは赤い液体だけ。
其処にあった筈のマツカの「右半身」は、何処にも影も形も無かった。
木端微塵に砕け散ったか、あるいは蒸発してしまったのか。
(…マツカ、どうして…)
何故、こうなってしまったのだ、と頭の中が一向に纏まって来ない。
マツカの「死体」を目にした直後は、まだ幾らかは「キースらしさ」があったのに。
感情など無い機械の申し子、冷徹無比な破壊兵器の異名通りに振舞えたのに。
(……後始末を、と……)
言い捨てて「あの部屋」を後にするまでは、いつもの「キース」だったと思う。
「アニアン閣下なら、こうするだろう」と、誰もが考えている通りの「キース」。
なのに、この様はどうだろう。
マツカが流した赤い液体、彼の「命」を構成していた「赤」が未だに渦巻いている。
頭に、心に、それに目の前に、あの赤い色が焼き付いたまま。
(…私らしくもない…)
本当に、自分らしくもない、と叱咤してみても、禍々しい赤は消えてくれない。
マツカの身体という器を失い、行き場を失くして流れ出た血が。
もう血管の中を巡っていなくて、ただの「血液」と化していた「もの」が。
(…あの死に様のせいなのか…?)
それとも「マツカ」が「キース」よりも先に、「逝ってしまった」ことが衝撃だったか。
どちらなのか、それさえも判断出来ない。
見えるのは、赤い色だけで。
その「赤」を流した「マツカ」の骸が、赤を引き立てているだけで。
Eー1077に在った「水槽」、其処を出てから、今日までの長い歳月。
幾多の戦場を経験して来て、修羅場を何度もくぐり抜けて来た。
「マツカ」との間にも、色々とあった。
(…しかし、今日までの人生で…)
此処まで冷静さを失ったことは、ただの一度も無かった気がする。
「シロエ」をこの手で葬った時には、涙が止まらなかったけれども…。
(…だが、これほどには…)
混乱してはいなかった、と自分でも不思議で堪らない。
自分が「年を取った」せいなのか、「マツカ」の存在が「大き過ぎた」か。
(多分、マツカと…)
共に過ごした年月が長過ぎたせいだろうな、と纏まらない頭で結論を出す。
「きっと、そうだ」と、「ただ、それだけのことなのだ」と。
(しっかりしろ、キース…)
呆然としている暇などは無い、と自分自身を叱り付ける。
「マツカが死んでしまった」原因、それは「暗殺者が潜り込んで来た」こと。
オレンジ色の髪と瞳の青年、あのミュウが「キース」の暗殺を企てなかったら…。
(私が命を落としかけることも、マツカが命を失うことも…)
無かったのだし、部下に命じて、警備体制を見直すべきだろう。
今のキースは「国家主席」で、代わりになれる人材は無い。
もしも「キース」が死んでしまえば、人類も地球も、指導者を失うことになる。
そんなことなど「あってはならない」。
けして「起きてはならない」事態なのだし、繰り返さぬよう、対処しなければ。
(それを命じて、皆を指揮して…)
ミュウの艦隊と対峙してゆくためにも、「冷静さ」を取り戻さなければならない。
いつまでも「赤」だけを見てはいないで。
マツカが流した赤い血の色も、半身だけになってしまった骸も、頭から放り出して。
(……そうだな……)
私はそうすべきなのだ、と「先刻までとは違った自室」に、部下の一人を呼び付けた。
直属の者は「マツカ」の始末に忙しいから、「誰でもいい」と。
呼ばれて現れた下級士官に、「コーヒーを」と命令する。
淹れて「この部屋」に持って来るよう、如何にも「キースらしい」口調で。
下級士官の顔を見たからか、「いつものキース」を演じたからか。
少し「冷静さ」が戻った気がして、息を大きく一つ吐き出す。
「コーヒーを飲めば、落ち着くだろう」と。
さっきの部下が持って来たなら、その一杯をゆっくりと飲んで、持ち場に戻る。
何食わぬ顔で、「国家主席」として。
もう「後始末」が済んでいるようなら、直属の部下を全て揃えて…。
(警備体制の見直しと、今回の失態を招いた原因の究明と…)
他にもさせるべきことがある筈だ、と指で机をトントンと叩く。
今は、まだ「赤」が渦巻いているから、「それが消えたら考えよう」と。
熱いコーヒーを口にしたなら、きっと思考も纏まってくれる。
(私は、いつもコーヒーだしな)
ずっと昔からそうだった、と候補生時代にまで遡っていたら、下級士官がやって来た。
「閣下、コーヒーをお持ちしました」
緊張している彼に向かって「ああ、其処に置け」と告げ、「下がっていい」と下がらせる。
彼が扉の向こうに消えてから、コーヒーのカップを手に取った。
いつも、そうしているように。
何も考えたりはしないで、自然に、流れるような動きで。
(…ああ…)
ホッとするな、とコーヒーの香りを楽しみ、カップに口をつけたけれども…。
(……この味は……)
違う、と舌が、心が叫んだ。
「欲しかったのは、これではない」と。
確かに「コーヒー」なのだけれども、明らかに違う。
カップの中身は「ただのコーヒー」、何度も、あちこちで「飲んで来た」もの。
会議の席やら、出張先やら、他の者たちと同席している時に。
(…そうした時には…)
コーヒーを淹れて持って来るのは、其処で働いている者たち。
さっきの下級士官と同じで、「コーヒーを淹れるように」と命じられただけ。
彼ら、彼女らの役目の一つには違いなくても、それだけのこと。
ただ「コーヒーを淹れる」というだけ、それ以上の意味を持ってはいない。
要は淹れればいいだけのことで、「コーヒー」が出来れば、運んで、終わり。
(…私が飲んで来たコーヒーには…)
そうか、二種類あったのだな、と今更のように気付かされた。
「様々な所で出て来る」ものと、「マツカが淹れて、持って来る」もの。
前者は、まさに「今、此処にある」味のコーヒー。
取り立てて「こう」という特徴も無くて、特に「美味しい」とも思わない。
けれど、マツカが淹れて来るものは違った。
絶妙なタイミングで差し出されるからか、コーヒーを淹れるのが上手かったのか。
(…コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎、と…)
直属の部下たちが「マツカ」を揶揄して詰っていたから、いい腕を持っていたのだろうか。
「後始末を」と命じられた彼らも、マツカが淹れたコーヒーの味を知っているだろう。
同じ部下同士で、しかも「マツカ」は彼らよりも格が下になる。
マツカを見下していた連中なのだし、休憩時間に「淹れて来い」と何度も言ったろう。
「お前は、それしか出来ないからな」と、「早くしろよ」と。
(…そうした挙句に、マツカのコーヒーは美味い、と知って…)
やっかみや妬みも混じった渾名を、「マツカ」に付けたに違いない。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と。
コーヒーを淹れる腕がいいというだけで、側近に取り立てられているなんて、と。
(…そういうわけではなかったのだが…)
だが、本当に美味かったんだ、とカップの中身をじっと見詰める。
「この味ではない」と、「これでは癒されない」と。
マツカが淹れてくれたものとは、まるで違った味わいの「それ」。
コーヒーには違いないのだけれども、飲みたかったコーヒーは「これ」とは違う。
こんな時こそ、飲みたいのに。
波立ち、渦巻き続ける感情、欠いてしまった「冷静さ」。
千々に乱れてしまったままの心を落ち着け、いつもの「キース」に戻るためには…。
(…あの味でないと、駄目なのだがな…)
そう思っても、もう、あの味は「味わえない」。
淹れてくれる「マツカ」は、もはや何処にもいないから。
「コーヒーを」と頼みたくても、死んでしまった「マツカ」に頼むことは出来ない。
どれほど「あの味」を求めようとも、「あのコーヒー」は二度と戻って来ない。
(…マツカを失くして、あの赤が頭から消えなくて…)
それを消し去り、早く癒されるための手段も、どうやら「キース」は失くしたらしい。
ジルベスター・セブン以来の側近だった「マツカ」と一緒に、失くしてしまった。
失くしたばかりか、これから先は…。
(コーヒーを口にする度に…)
違和感を覚え、マツカの面影が胸を過るのだろうか。
「二度と飲むことは出来ない」コーヒー、幻となってしまった味が懐かしくて。
あれこそが「本物のコーヒーだった」と、「まるで違う味」のコーヒーに顔を顰めながら。
(私の人生の残りというのが、どれだけあるかは分からないが…)
不味いコーヒーを飲まされ続けて、この生涯を終えるのか、と溜息が零れ落ちてゆく。
これから先は、もう「コーヒー」では、心が癒えはしないから。
激務に疲れ果てた時でも、「寛ぎの一杯」は出て来ないから。
「マツカ」と一緒に失ったものは、「安らぎ」というものだったろう。
こうなってしまって初めて気付いて、喪失感に苛まれる。
「何故、早く気付かなかったのか」と。
キースの「人生」の中で「マツカ」が占める部分は、なんと大きいものだったか、と…。
失ったもの・了
※「マツカが淹れるコーヒーは美味しい」というのが、アニテラの設定ですけれど。
だったら、マツカがいなくなった後のキースは、美味しいコーヒーは無しかも、というお話。
(……ああ……)
もう持たないな、とブルーはベッドの上で思った。
追われるようにアルテメシアを後にしてから、今日で何日経っただろうか。
とうに寿命を迎えた身体は、ジョミーの強い願いのお蔭で、奇跡的に永らえて来た。
けれど日に日に、眠っている時間が長くなりつつある。
その傾向は以前からあったけれども、宇宙に出てから顕著になった。
限界の時が近付いていて、ついに「その日」を迎えた気がする。
(…なのに、何故だか…)
死ぬという感じが全くしない。
この状態で起きていられなくなれば、普通は死んでしまうのだろうに。
(眠れば、死んでしまうから…)
いつも懸命に意識を保って、気を失うまで耐え続けていた。
もっとも、今のことではなくて、遥か昔に、実験体だった頃のこと。
「眠っては駄目だ」と歯を食い縛って、限界まで起きて、また目覚めた。
そうやって目を覚ました後には、次の実験という地獄が待っていたのだけれど。
(…それでも生きて、生き延びるんだ、と…)
自分自身を励まし続けた遠い昔が、まざまざと脳裏に蘇って来る。
けれども、今は「違う」と身体が訴えていた。
今の眠気は「それとは違う」と、眠っても死にはしないのだ、と。
(ならば、何故…?)
どうして眠りそうなのだろう、とブルーは心の奥底を探る。
其処に沈んだ青いサイオン、そのサイオンは「尽きてはいない」。
充分あるとは言えないものの、まだ人類と一戦交えられる程度の力は残っていた。
もう一度「ジョミーを追い掛け、連れ戻したとしても」、余力は幾らかあるだろう。
(…それなのに、ぼくは…)
どうして眠ってしまうのか、と自身に問うて、ハタと気付いた。
「これは予知だ」と。
予知の力は、フィシスに与えてしまったけれども、欠片が残っていたらしい。
それが「眠れ」と、意識に働きかけて来る。
「今は眠って、その時を待て」と。
いつか「ブルー」が必要とされる時まで、眠って「力を残しておけ」と。
そういうことか、と納得したら、「眠ってもいい」と思えて来た。
ジョミーの今後が気に掛かっていて、今日まで気力を振り絞って起きて来たのだけれど…。
(…ぼくの力が、いつか必要になるのなら…)
その局面が訪れるまでは、ジョミーに任せていいだろう。
仲間たちを乗せた箱舟、このシャングリラも、ミュウという種族の未来のことも。
ジョミーなら上手くやれるだろうし、そうでなければ「この先」は無い。
ブルー亡き後、ジョミーが一人で立てないようでは、ミュウが生き残ることは出来ない。
(…ジョミー…。君なら、出来る)
ぼくが眠ってしまっても、きっと立派にやってゆける、と思うからこそ、言うべきではない。
今度眠ったら、「時が来るまで」起きないだろう、ということを彼に告げてはならない。
いつも通りに「ぼくは眠るよ」と、微笑んで「それで終わり」にすべき。
次に目覚める時が来たなら、もうジョミーとは…。
(言葉も交わせず、会うこともなくて…)
それきりになるかもしれないけれども、そうなったとしても後悔は無い。
眠って、次に起きた時には、戦いが待っているだろうから。
ミュウの未来を、このシャングリラを守り抜くために、戦い、そして散ってゆく。
残されたサイオンを全て使って、やって来た敵と刺し違えてでも滅ぼして。
(……それでいい……)
時が来るまで、ぼくは眠ろう、と自分自身に言い聞かせる。
ジョミーには何も言わずにおこうと、そうすることが最善なのだ、と。
その夜、ブルーは、青の間を訪ねて来たジョミーから一日の報告を受けて、幾つか助言をした。
普段と変わらない時を過ごして、「ぼくは眠るよ。また明日」とジョミーを送り出した後…。
(…ジョミー。ぼくが起きなくなってしまっても、君は自分で道を見付けて…)
仲間たちを導き、歩いてゆくんだ、と若きソルジャーに未来を託す。
言葉にも思念にもしなかったけれど、心の中で強く思って、ジョミーの未来に幸多かれ、と。
(……ぼくは眠るよ、長く、長く……)
どのくらい長い眠りになるのか、それは自分でも分からない。
時期が読めるほどの予知能力は残っていなくて、いつ目覚めるのか分かりもしない。
ただ、僅かに残された予知の力に、祈るように暗示をかけてゆく。
「その時が来たら、ぼくを必ず起こすんだ」と。
「ぼくが死ぬべき時に起こせ」と、「そのためにだけ、ぼくは眠る」と。
(……そう、これで……)
これでいいんだ、とブルーの意識は眠りの底へ落ちてゆく。
時が来るまで目覚めない眠り、死が待つだけの「目覚めの時」まで眠り続ける深い闇へと。
そうして、どれほどの時が流れて、何があったのか、ブルーは知らない。
けれどサイオンは「命じられた通りに」、ブルーを起こした。
(…私を目覚めさせる者。…お前は、誰だ)
誰だ、とブルーは眠りの淵から浮かび上がって、自分を起こした「誰か」の姿を探し始める。
サイオンは完全に目覚めてはおらず、その正体は掴めないけれど、強大な「敵」。
(……ぼくが戦い、倒すべき相手……)
それが来たか、と戦士としての自覚が身体を動かしてゆく。
起き上がることも辛いけれども、「戦わねば」と。
この命を捨てるべき時がやって来たから、サイオンはブルーに知らせて、「起こした」。
ならば「相手」が何であろうと…。
(…戦って、そして倒さなければ…)
仲間たちの、ミュウの未来のために、とベッドから降りて歩き始める。
よろめき、肩で息をしながら。
ブルーを起こした「誰か」がいる場所、其処を目指して。
そう、なんとしてでも戦わなければ。
(…そのためにだけ、ぼくは眠って、眠り続けて…)
今日まで眠っていたのだから、とブルーは「敵」を探し出すために長い通路を歩いてゆく。
自らの死へと向かう旅路を、ただ一人きりで、踏み締めるように。
(待っているがいい、ぼくを起こした者よ)
ぼくは必ず、お前を倒す。
命を捨てて倒しにゆくから、覚悟して待っているがいい。
けして、お前を逃がしはしない。
そのためだけに「待ち続けた」ぼくから、お前が逃れることは出来ない。
お前は何も知らないだろうが、「ぼくの目覚めには、必然がある」。
ぼくを眠りから起こした者には、死と滅びだけが待っているのだから…。
必然の目覚め・了
※ブルー追悼、「まだ書くのか」と言われそうですけど、今年はアニテラのBlu-ray が出た年。
ついでに仏教の場合、ブルー様の十七回忌になるのが今年であります。
書かないわけにはいかないだろう、と16年目も書きました。
とは言うものの、「思い付いたネタ」を書きたかったのも否定はしません、本当です。
16年目にして閃いたんです、「ぼくの目覚めには、必然がある」という台詞の意味が…。
何年、アニテラを追い続けるんだか、自分でも真面目に謎です、はい~。
もう持たないな、とブルーはベッドの上で思った。
追われるようにアルテメシアを後にしてから、今日で何日経っただろうか。
とうに寿命を迎えた身体は、ジョミーの強い願いのお蔭で、奇跡的に永らえて来た。
けれど日に日に、眠っている時間が長くなりつつある。
その傾向は以前からあったけれども、宇宙に出てから顕著になった。
限界の時が近付いていて、ついに「その日」を迎えた気がする。
(…なのに、何故だか…)
死ぬという感じが全くしない。
この状態で起きていられなくなれば、普通は死んでしまうのだろうに。
(眠れば、死んでしまうから…)
いつも懸命に意識を保って、気を失うまで耐え続けていた。
もっとも、今のことではなくて、遥か昔に、実験体だった頃のこと。
「眠っては駄目だ」と歯を食い縛って、限界まで起きて、また目覚めた。
そうやって目を覚ました後には、次の実験という地獄が待っていたのだけれど。
(…それでも生きて、生き延びるんだ、と…)
自分自身を励まし続けた遠い昔が、まざまざと脳裏に蘇って来る。
けれども、今は「違う」と身体が訴えていた。
今の眠気は「それとは違う」と、眠っても死にはしないのだ、と。
(ならば、何故…?)
どうして眠りそうなのだろう、とブルーは心の奥底を探る。
其処に沈んだ青いサイオン、そのサイオンは「尽きてはいない」。
充分あるとは言えないものの、まだ人類と一戦交えられる程度の力は残っていた。
もう一度「ジョミーを追い掛け、連れ戻したとしても」、余力は幾らかあるだろう。
(…それなのに、ぼくは…)
どうして眠ってしまうのか、と自身に問うて、ハタと気付いた。
「これは予知だ」と。
予知の力は、フィシスに与えてしまったけれども、欠片が残っていたらしい。
それが「眠れ」と、意識に働きかけて来る。
「今は眠って、その時を待て」と。
いつか「ブルー」が必要とされる時まで、眠って「力を残しておけ」と。
そういうことか、と納得したら、「眠ってもいい」と思えて来た。
ジョミーの今後が気に掛かっていて、今日まで気力を振り絞って起きて来たのだけれど…。
(…ぼくの力が、いつか必要になるのなら…)
その局面が訪れるまでは、ジョミーに任せていいだろう。
仲間たちを乗せた箱舟、このシャングリラも、ミュウという種族の未来のことも。
ジョミーなら上手くやれるだろうし、そうでなければ「この先」は無い。
ブルー亡き後、ジョミーが一人で立てないようでは、ミュウが生き残ることは出来ない。
(…ジョミー…。君なら、出来る)
ぼくが眠ってしまっても、きっと立派にやってゆける、と思うからこそ、言うべきではない。
今度眠ったら、「時が来るまで」起きないだろう、ということを彼に告げてはならない。
いつも通りに「ぼくは眠るよ」と、微笑んで「それで終わり」にすべき。
次に目覚める時が来たなら、もうジョミーとは…。
(言葉も交わせず、会うこともなくて…)
それきりになるかもしれないけれども、そうなったとしても後悔は無い。
眠って、次に起きた時には、戦いが待っているだろうから。
ミュウの未来を、このシャングリラを守り抜くために、戦い、そして散ってゆく。
残されたサイオンを全て使って、やって来た敵と刺し違えてでも滅ぼして。
(……それでいい……)
時が来るまで、ぼくは眠ろう、と自分自身に言い聞かせる。
ジョミーには何も言わずにおこうと、そうすることが最善なのだ、と。
その夜、ブルーは、青の間を訪ねて来たジョミーから一日の報告を受けて、幾つか助言をした。
普段と変わらない時を過ごして、「ぼくは眠るよ。また明日」とジョミーを送り出した後…。
(…ジョミー。ぼくが起きなくなってしまっても、君は自分で道を見付けて…)
仲間たちを導き、歩いてゆくんだ、と若きソルジャーに未来を託す。
言葉にも思念にもしなかったけれど、心の中で強く思って、ジョミーの未来に幸多かれ、と。
(……ぼくは眠るよ、長く、長く……)
どのくらい長い眠りになるのか、それは自分でも分からない。
時期が読めるほどの予知能力は残っていなくて、いつ目覚めるのか分かりもしない。
ただ、僅かに残された予知の力に、祈るように暗示をかけてゆく。
「その時が来たら、ぼくを必ず起こすんだ」と。
「ぼくが死ぬべき時に起こせ」と、「そのためにだけ、ぼくは眠る」と。
(……そう、これで……)
これでいいんだ、とブルーの意識は眠りの底へ落ちてゆく。
時が来るまで目覚めない眠り、死が待つだけの「目覚めの時」まで眠り続ける深い闇へと。
そうして、どれほどの時が流れて、何があったのか、ブルーは知らない。
けれどサイオンは「命じられた通りに」、ブルーを起こした。
(…私を目覚めさせる者。…お前は、誰だ)
誰だ、とブルーは眠りの淵から浮かび上がって、自分を起こした「誰か」の姿を探し始める。
サイオンは完全に目覚めてはおらず、その正体は掴めないけれど、強大な「敵」。
(……ぼくが戦い、倒すべき相手……)
それが来たか、と戦士としての自覚が身体を動かしてゆく。
起き上がることも辛いけれども、「戦わねば」と。
この命を捨てるべき時がやって来たから、サイオンはブルーに知らせて、「起こした」。
ならば「相手」が何であろうと…。
(…戦って、そして倒さなければ…)
仲間たちの、ミュウの未来のために、とベッドから降りて歩き始める。
よろめき、肩で息をしながら。
ブルーを起こした「誰か」がいる場所、其処を目指して。
そう、なんとしてでも戦わなければ。
(…そのためにだけ、ぼくは眠って、眠り続けて…)
今日まで眠っていたのだから、とブルーは「敵」を探し出すために長い通路を歩いてゆく。
自らの死へと向かう旅路を、ただ一人きりで、踏み締めるように。
(待っているがいい、ぼくを起こした者よ)
ぼくは必ず、お前を倒す。
命を捨てて倒しにゆくから、覚悟して待っているがいい。
けして、お前を逃がしはしない。
そのためだけに「待ち続けた」ぼくから、お前が逃れることは出来ない。
お前は何も知らないだろうが、「ぼくの目覚めには、必然がある」。
ぼくを眠りから起こした者には、死と滅びだけが待っているのだから…。
必然の目覚め・了
※ブルー追悼、「まだ書くのか」と言われそうですけど、今年はアニテラのBlu-ray が出た年。
ついでに仏教の場合、ブルー様の十七回忌になるのが今年であります。
書かないわけにはいかないだろう、と16年目も書きました。
とは言うものの、「思い付いたネタ」を書きたかったのも否定はしません、本当です。
16年目にして閃いたんです、「ぼくの目覚めには、必然がある」という台詞の意味が…。
何年、アニテラを追い続けるんだか、自分でも真面目に謎です、はい~。
(…ぼくの本…)
ぼくだけの大切な宝物、とシロエはピーターパンの本を眺める。
Eー1077の夜の個室で、勉強を終えた後の時間を、何度こうして過ごしたろうか。
故郷の星から、たった一つだけ、持ち出すことが出来たのが、この本だった。
幼かった日に両親がくれた、一番のお気に入りの本。
(いい子にしてれば、ピーターパンが迎えに来てくれて…)
ネバーランドへ連れて行ってくれる、と信じて、ずっと待ち続けた。
そのための準備もしていたけれども、ある日、父から「地球」のことを聞いた。
ネバーランドよりも素敵な場所が、地球だという。
父は笑顔で、こう言った。
「シロエなら、行けるかもしれないな」と、期待と励ましを乗せた声音で。
(だから、行こう、って…)
地球を夢見ていたというのに、今の有様はどうだろう。
素敵な場所だと聞かされた「地球」は、どうやら、そうではなかったらしい。
(…本当に素敵な所だったら、其処へ行くために、あんな成人検査なんかは…)
きっと必要無いと思う、と今も悔しくて堪らない。
SD体制のシステムと機械に騙され、こんな牢獄へ連れて来られてしまった。
故郷のエネルゲイアは遠くて、両親の家にも帰れはしない。
その上、子供時代の記憶も消されて、何もかも、おぼろげになっている。
両親の顔さえ、あちこちが欠けて、瞳の色すら分からないほどに。
(…なんで、騙されちゃったんだろう…)
うかうかと成人検査なんかを受けたんだろう、と悔やんでも過去に戻れはしない。
消された記憶を取り戻すには、先へ進んでゆくしかない。
機械に命令される代わりに、命令出来る立場になれる時まで。
二百年も誰も選ばれていない、国家主席に昇り詰めるまで。
(…その時が来るまで、ぼくの友達は…)
この本だけだよ、とピーターパンの本の表紙を撫でた。
誰も信用出来ない世界で、心の拠り所になってくれるのは、この本だけ。
逆に言うなら、この本さえあれば、何処までも進んでゆけるだろう。
茨の道でも、地獄だとしか思えないほどに辛い道でも。
ピーターパンの本と一緒なら、どんな時でも頑張れる。
Eー1077に連れて来られてから、この本に何度も力を貰った。
ページをめくって、本を抱き締めて、「負けやしない」と自分を励まして。
「パパとママの所へ帰るんだから」と、「この本を持って、「ただいま」って」と。
(…この本を持って来られて良かった…)
ホントに良かった、と心の底から湧き上がって来る懐かしさ。
記憶がおぼろになってしまっても、この本が「過去」と繋いでくれる。
両親と暮らした温かな家は、確かに存在したのだと。
本を贈ってくれた両親だって、けして幻ではなかったのだ、と。
(これが無かったら、今頃は…)
とうに挫けて、他の大勢の候補生たちと同じに、「羊」になっていたかもしれない。
SD体制とシステムに忠実な、マザー牧場の羊たち。
彼らのように「過去」を忘れて、両親も家も「ただの思い出」になっただろうか。
機械は「そうなるように」仕向けてくるし、そのように導く代物だから。
(繋ぎ止めてくれるモノが、何も無ければ…)
「シロエ」も機械に負けてしまって、「忘れた」可能性はある。
ただ「懐かしい」というだけだったら、記憶が薄れて消えてゆくのに抵抗は無い。
過去というのは「そうしたもの」だし、いつしか忘れて、時の彼方に流れ去るもの。
(子供時代の記憶だったら、ぼくも必死になるけれど…)
Eー1077に来てから起こったことなど、別に「どうでもかまわない」。
勉強の中身は忘れなくても、日々の会話や出来事なんかは、いちいち覚えていられない。
(忘れてしまって、思い出せないことなんて…)
数え切れないほどあると思うし、他の候補生たちにとっては、子供時代も「そう」だろう。
「思い出せなくても、困らないもの」で、「気にしないもの」。
だから「シロエ」も、ピーターパンの本が無ければ、彼らのようになりかねない。
二度と戻れない「過去」の欠片が、この手の中に無かったならば。
ピーターパンの本があって良かった、と「あの日」の自分に感謝する。
「成人検査の日は、何も持って行ってはいけない」という規則を破った、あの日の自分。
どうしても本を持って行きたくて、それだけを持って家を出た。
「検査の邪魔になると言うなら、その時は、置けばいいんだから」と考えて。
「そしたら、検査が終わった後に、係が返してくれると思う」と。
(…だけど、係なんかは何処にもいなくて…)
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブが「セキ・レイ・シロエ」を待ち受けていた。
子供時代の記憶を消去し、大人の社会へ送り出すために。
「忘れなさい」と心に強い圧力をかけて、記憶を捨てろと命じた機械。
抗い切れずに「過去」を奪われてしまったけれども、ピーターパンの本は残った。
Eー1077へと向かう宇宙船の中で、正気に戻った時に「持っている」ことに気付いた。
何もかも奪われ、失った中で、一つだけ残った宝物。
こうして今も「この部屋」に在って、この先も、ずっと離れない。
メンバーズ・エリートの一人に選ばれ、任務で宇宙を駆けてゆく時も。
戦場に赴くような時でも、この本だけは持ってゆく。
荷物の底か何処かに隠して、一人乗りの宇宙船の中でも、きっと、必ず。
(だって、選ばれたんだから…)
ぼくは選ばれた子供なんだから、と誇らしい気持ちに包まれる。
「過去を奪われた」ことを忘れない、特別な「選ばれた子供」が「シロエ」。
いつか機械に「止まれ」と命じて、SD体制を破壊するよう、使命を託されているのだ、と。
(だから、ぼくだけが…)
過去の欠片を持っているんだ、とピーターパンの本を見詰める。
こうして「大切な本を持って来られた」ことこそ、「選ばれた子供」だという証。
過去と今とを繋ぐ絆を失くさず、何があっても「過去を忘れない」ようになっている。
他の子供は、何も持ってはいないのに。
規則を守って「何も持たずに」家を出たから、他の者たちは「過去にこだわらない」。
繋ぎ止めてくれる「もの」が無いから、「まあ、いいや」と時の流れに任せて流されて。
子供時代の記憶がおぼろになっても、「そんなものだ」と納得して。
けれど、「セキ・レイ・シロエ」は「違う」。
選ばれた子供の証を手にして、遥か未来を目指して進む。
メンバーズになって、いずれは国家主席の座に就き、SD体制を終わらせるために。
「子供が子供でいられる世界」を、もう一度、「ヒト」が手に出来るように。
(…ぼくを選んだのは、ピーターパンか、神様なのか…)
どちらなのかは知らないけれども、選ばれたことが誇りで励み。
辛い道のりでも、ピーターパンの本と一緒に乗り越えてゆく。
「この本を持って来られた」ことが「選ばれた証」なのだから。
ピーターパンの本さえあったら、いくらでも頑張ってゆける筈だし、何だって出来る。
必要とあらば、憎い機械に「服従している」ふりだって。
(今はまだ、そこまでしなくても済んでいるけれど…)
メンバーズになったら、そうはいかなくなるな、と分かってはいる。
堂々と反抗していられるのは、候補生の間だけなのだ、と。
(でも、機械くらい…)
ちゃんと騙して、上手くやるさ、と思ったはずみに、不意に掠めていった考え。
「本当に…?」と。
本当に上手く機械を騙して、国家主席の座までゆけるだろうか、と。
(…成人検査の時と違って、機械ってヤツのやり方は…)
もう読めてるし、と自信は充分あるのだけれども、恐ろしいことに気が付いた。
確かに自分は「選ばれた子供」で、「特別な存在」なのだと思う。
ピーターパンの本を「持って来られた」ことが証で、そんな者は他にいないけれども…。
(…ぼくを選んだのが、機械だったら…?)
神様でも、ピーターパンでもなくて…、と背筋がゾクリと冷たくなった。
考えたことさえ一度も無かった、「機械に選ばれた」可能性。
(……ゼロじゃないんだ……)
そっちなのかもしれないんだ、と身体が俄かに震え出す。
もしも「機械に選ばれた」のなら、「本を持って来られた」ことは当たり前。
これは機械がしている実験、「過去を忘れない」子供の成長ぶりを調べて、データを取る。
そうする理由は、例えば「成人検査の改革」。
この先も、従来通りでいいのか、改革するなら、どうすべきか、などと。
(……まさかね……)
まさか、そんな恐ろしい実験なんて、と自分を叱咤してみても、身体の震えは止まらない。
何故なら、それは「有り得る」から。
機械が最初から「そういうつもりで」いたのだったら、格好の獲物だったろう。
「そうするように」と仕向けなくても、自ら進んで「過去の欠片」を持ち込んだ子供。
(…丁度いい、って…)
わざと見逃し、ピーターパンの本と一緒に、Eー1077へ送り込んだのかもしれない。
今も密かに監視しながら、データを集めているのだったら…。
(…ぼくの心も、考え方も、全てお見通しで…)
何処まで持ち堪えることが出来るか、機械は実験を続けてゆく。
「セキ・レイ・シロエ」が「過去を手放す」か、「堪え切れずに壊れる」日まで。
ピーターパンの本を持たせたままで、「過去の欠片」をどうするのかを見定めながら。
(そうだとしたなら、ぼくの未来は…)
真っ暗でしかないんだれど、と足元が崩れ落ちてゆくよう。
過去を手放して「皆と同じに生きてゆく」か、「狂う」かの実験ならば、未来は無いも同然。
どちらに行っても、今の「シロエ」の望みとは…。
(違いすぎるし、どっちも嫌だよ…!)
そんな実験なんかは御免だ、と震え続ける身体を抱き締め、心の中で繰り返す。
「違うよ、ぼくは選ばれたんだ」と。
「ぼくを選んだのは、きっと神様かピーターパンで、機械なんかじゃないんだから」と…。
本がある理由・了
※キースを立派に育て上げるために「機械が選んだ」のが、シロエだったんですけど。
「機械に選ばれた」可能性について、シロエの側から考えてみたのが、このお話。
ぼくだけの大切な宝物、とシロエはピーターパンの本を眺める。
Eー1077の夜の個室で、勉強を終えた後の時間を、何度こうして過ごしたろうか。
故郷の星から、たった一つだけ、持ち出すことが出来たのが、この本だった。
幼かった日に両親がくれた、一番のお気に入りの本。
(いい子にしてれば、ピーターパンが迎えに来てくれて…)
ネバーランドへ連れて行ってくれる、と信じて、ずっと待ち続けた。
そのための準備もしていたけれども、ある日、父から「地球」のことを聞いた。
ネバーランドよりも素敵な場所が、地球だという。
父は笑顔で、こう言った。
「シロエなら、行けるかもしれないな」と、期待と励ましを乗せた声音で。
(だから、行こう、って…)
地球を夢見ていたというのに、今の有様はどうだろう。
素敵な場所だと聞かされた「地球」は、どうやら、そうではなかったらしい。
(…本当に素敵な所だったら、其処へ行くために、あんな成人検査なんかは…)
きっと必要無いと思う、と今も悔しくて堪らない。
SD体制のシステムと機械に騙され、こんな牢獄へ連れて来られてしまった。
故郷のエネルゲイアは遠くて、両親の家にも帰れはしない。
その上、子供時代の記憶も消されて、何もかも、おぼろげになっている。
両親の顔さえ、あちこちが欠けて、瞳の色すら分からないほどに。
(…なんで、騙されちゃったんだろう…)
うかうかと成人検査なんかを受けたんだろう、と悔やんでも過去に戻れはしない。
消された記憶を取り戻すには、先へ進んでゆくしかない。
機械に命令される代わりに、命令出来る立場になれる時まで。
二百年も誰も選ばれていない、国家主席に昇り詰めるまで。
(…その時が来るまで、ぼくの友達は…)
この本だけだよ、とピーターパンの本の表紙を撫でた。
誰も信用出来ない世界で、心の拠り所になってくれるのは、この本だけ。
逆に言うなら、この本さえあれば、何処までも進んでゆけるだろう。
茨の道でも、地獄だとしか思えないほどに辛い道でも。
ピーターパンの本と一緒なら、どんな時でも頑張れる。
Eー1077に連れて来られてから、この本に何度も力を貰った。
ページをめくって、本を抱き締めて、「負けやしない」と自分を励まして。
「パパとママの所へ帰るんだから」と、「この本を持って、「ただいま」って」と。
(…この本を持って来られて良かった…)
ホントに良かった、と心の底から湧き上がって来る懐かしさ。
記憶がおぼろになってしまっても、この本が「過去」と繋いでくれる。
両親と暮らした温かな家は、確かに存在したのだと。
本を贈ってくれた両親だって、けして幻ではなかったのだ、と。
(これが無かったら、今頃は…)
とうに挫けて、他の大勢の候補生たちと同じに、「羊」になっていたかもしれない。
SD体制とシステムに忠実な、マザー牧場の羊たち。
彼らのように「過去」を忘れて、両親も家も「ただの思い出」になっただろうか。
機械は「そうなるように」仕向けてくるし、そのように導く代物だから。
(繋ぎ止めてくれるモノが、何も無ければ…)
「シロエ」も機械に負けてしまって、「忘れた」可能性はある。
ただ「懐かしい」というだけだったら、記憶が薄れて消えてゆくのに抵抗は無い。
過去というのは「そうしたもの」だし、いつしか忘れて、時の彼方に流れ去るもの。
(子供時代の記憶だったら、ぼくも必死になるけれど…)
Eー1077に来てから起こったことなど、別に「どうでもかまわない」。
勉強の中身は忘れなくても、日々の会話や出来事なんかは、いちいち覚えていられない。
(忘れてしまって、思い出せないことなんて…)
数え切れないほどあると思うし、他の候補生たちにとっては、子供時代も「そう」だろう。
「思い出せなくても、困らないもの」で、「気にしないもの」。
だから「シロエ」も、ピーターパンの本が無ければ、彼らのようになりかねない。
二度と戻れない「過去」の欠片が、この手の中に無かったならば。
ピーターパンの本があって良かった、と「あの日」の自分に感謝する。
「成人検査の日は、何も持って行ってはいけない」という規則を破った、あの日の自分。
どうしても本を持って行きたくて、それだけを持って家を出た。
「検査の邪魔になると言うなら、その時は、置けばいいんだから」と考えて。
「そしたら、検査が終わった後に、係が返してくれると思う」と。
(…だけど、係なんかは何処にもいなくて…)
忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブが「セキ・レイ・シロエ」を待ち受けていた。
子供時代の記憶を消去し、大人の社会へ送り出すために。
「忘れなさい」と心に強い圧力をかけて、記憶を捨てろと命じた機械。
抗い切れずに「過去」を奪われてしまったけれども、ピーターパンの本は残った。
Eー1077へと向かう宇宙船の中で、正気に戻った時に「持っている」ことに気付いた。
何もかも奪われ、失った中で、一つだけ残った宝物。
こうして今も「この部屋」に在って、この先も、ずっと離れない。
メンバーズ・エリートの一人に選ばれ、任務で宇宙を駆けてゆく時も。
戦場に赴くような時でも、この本だけは持ってゆく。
荷物の底か何処かに隠して、一人乗りの宇宙船の中でも、きっと、必ず。
(だって、選ばれたんだから…)
ぼくは選ばれた子供なんだから、と誇らしい気持ちに包まれる。
「過去を奪われた」ことを忘れない、特別な「選ばれた子供」が「シロエ」。
いつか機械に「止まれ」と命じて、SD体制を破壊するよう、使命を託されているのだ、と。
(だから、ぼくだけが…)
過去の欠片を持っているんだ、とピーターパンの本を見詰める。
こうして「大切な本を持って来られた」ことこそ、「選ばれた子供」だという証。
過去と今とを繋ぐ絆を失くさず、何があっても「過去を忘れない」ようになっている。
他の子供は、何も持ってはいないのに。
規則を守って「何も持たずに」家を出たから、他の者たちは「過去にこだわらない」。
繋ぎ止めてくれる「もの」が無いから、「まあ、いいや」と時の流れに任せて流されて。
子供時代の記憶がおぼろになっても、「そんなものだ」と納得して。
けれど、「セキ・レイ・シロエ」は「違う」。
選ばれた子供の証を手にして、遥か未来を目指して進む。
メンバーズになって、いずれは国家主席の座に就き、SD体制を終わらせるために。
「子供が子供でいられる世界」を、もう一度、「ヒト」が手に出来るように。
(…ぼくを選んだのは、ピーターパンか、神様なのか…)
どちらなのかは知らないけれども、選ばれたことが誇りで励み。
辛い道のりでも、ピーターパンの本と一緒に乗り越えてゆく。
「この本を持って来られた」ことが「選ばれた証」なのだから。
ピーターパンの本さえあったら、いくらでも頑張ってゆける筈だし、何だって出来る。
必要とあらば、憎い機械に「服従している」ふりだって。
(今はまだ、そこまでしなくても済んでいるけれど…)
メンバーズになったら、そうはいかなくなるな、と分かってはいる。
堂々と反抗していられるのは、候補生の間だけなのだ、と。
(でも、機械くらい…)
ちゃんと騙して、上手くやるさ、と思ったはずみに、不意に掠めていった考え。
「本当に…?」と。
本当に上手く機械を騙して、国家主席の座までゆけるだろうか、と。
(…成人検査の時と違って、機械ってヤツのやり方は…)
もう読めてるし、と自信は充分あるのだけれども、恐ろしいことに気が付いた。
確かに自分は「選ばれた子供」で、「特別な存在」なのだと思う。
ピーターパンの本を「持って来られた」ことが証で、そんな者は他にいないけれども…。
(…ぼくを選んだのが、機械だったら…?)
神様でも、ピーターパンでもなくて…、と背筋がゾクリと冷たくなった。
考えたことさえ一度も無かった、「機械に選ばれた」可能性。
(……ゼロじゃないんだ……)
そっちなのかもしれないんだ、と身体が俄かに震え出す。
もしも「機械に選ばれた」のなら、「本を持って来られた」ことは当たり前。
これは機械がしている実験、「過去を忘れない」子供の成長ぶりを調べて、データを取る。
そうする理由は、例えば「成人検査の改革」。
この先も、従来通りでいいのか、改革するなら、どうすべきか、などと。
(……まさかね……)
まさか、そんな恐ろしい実験なんて、と自分を叱咤してみても、身体の震えは止まらない。
何故なら、それは「有り得る」から。
機械が最初から「そういうつもりで」いたのだったら、格好の獲物だったろう。
「そうするように」と仕向けなくても、自ら進んで「過去の欠片」を持ち込んだ子供。
(…丁度いい、って…)
わざと見逃し、ピーターパンの本と一緒に、Eー1077へ送り込んだのかもしれない。
今も密かに監視しながら、データを集めているのだったら…。
(…ぼくの心も、考え方も、全てお見通しで…)
何処まで持ち堪えることが出来るか、機械は実験を続けてゆく。
「セキ・レイ・シロエ」が「過去を手放す」か、「堪え切れずに壊れる」日まで。
ピーターパンの本を持たせたままで、「過去の欠片」をどうするのかを見定めながら。
(そうだとしたなら、ぼくの未来は…)
真っ暗でしかないんだれど、と足元が崩れ落ちてゆくよう。
過去を手放して「皆と同じに生きてゆく」か、「狂う」かの実験ならば、未来は無いも同然。
どちらに行っても、今の「シロエ」の望みとは…。
(違いすぎるし、どっちも嫌だよ…!)
そんな実験なんかは御免だ、と震え続ける身体を抱き締め、心の中で繰り返す。
「違うよ、ぼくは選ばれたんだ」と。
「ぼくを選んだのは、きっと神様かピーターパンで、機械なんかじゃないんだから」と…。
本がある理由・了
※キースを立派に育て上げるために「機械が選んだ」のが、シロエだったんですけど。
「機械に選ばれた」可能性について、シロエの側から考えてみたのが、このお話。
(シロエ…。お前は、今、幸せか?)
死んで自由になれたのだから、とキースは心で呼び掛けてみる。
国家騎士団総司令に与えられた個室で、マツカが淹れていったコーヒーを手に。
とうに夜更けになっているから、部下たちもマツカも、此処にはいない。
昔の友を思い出すには、丁度いい時間と言えるだろうか。
(もっとも、私とシロエとは…)
友とは言えなかったのだがな、と思うけれども、シロエは友に成り得たと思う。
あれだけの頭脳の持ち主だったし、出会いが違えば、きっと良き友になったろう。
最初はライバル同士であっても、いつの間にやら、色々と語らうようになって。
「キース」の生まれが何であろうと、「シロエ」なら受け入れてくれた気がする。
(…私の秘密を自ら暴いて、人形だと挑発してくる代わりに…)
同情さえもしてくれたのでは、と何度思ったことだろう。
「シロエならば」と、「シロエが此処にいてくれたら」と。
(…今の私にも、友は確かにいるのだが…)
彼の心は此処には無い、と頭に浮かぶのはサムのこと。
サムは確かに昔からの友で、今も友だと思ってはいても、それは一方的なものに過ぎない。
サムが見ている「キース」の姿は、「赤のおじちゃん」。
子供に戻ったサムとは別の、大人の世界に住んでいる者で、サムはキースに懐いているだけ。
(…父親も母親も、サムを迎えに来てくれないから…)
サムは親切にしてくれる「キース」を受け入れ、「赤のおじちゃん」と笑顔を見せる。
見舞いに行く度、サムが語るのは、いる筈もない両親との間にあった出来事。
「パパが勉強しろってうるさいんだ」だとか、「ママのオムレツは美味しいよ」とか。
(…サムの話を聞かされる内に…)
ようやく、かつての「シロエ」の気持ちが分かって来た。
シロエは何を失ったのか、何を求めてシステムに抗い続けたのか。
(…サムが語ってくれる、両親と過ごした時間のことなど…)
キース自身は、何も知らない。
マザー・イライザに無から作られ、水槽の中で育てられたから。
養父母を持たずに成長して来て、成人検査も受けてはいない生命だから。
シロエが成人検査で機械に奪われ、取り戻せないままに終わった記憶。
それを求めて、彼は宇宙に飛び立って行った。
ピーターパンの本だけを抱えて、武装していない練習艇に乗り込んで。
(…それを撃墜したのが、私で…)
シロエの命に終止符を打ってしまったけれども、彼は幸せになれただろうか。
機械の支配から自由になって、失くした記憶を取り戻して。
生身のままでは帰ることなど叶いはしない、懐かしい故郷へ、家へ帰って。
(…きっと、そうだな…)
彼ならそうだ、と考えることで、救われているのは「自分」だろう。
「シロエは自由になれたのだから」と、「死んで自由を手に入れたのだ」と信じることで。
(…私は今でも、ずっと後悔し続けていて…)
あの時、シロエを「殺した」罪を忘れた日などは一度も無い。
撃墜して直ぐ、Eー1077に戻る時から、もう後悔は始まっていた。
「本当に、他に取るべき道は無かったのか」と、「シロエを行かせてやれば良かった」と。
シロエが練習艇で目指した先は、座標さえも分からなかった「地球」。
当時、メンバーズに選ばれたばかりの「キース」も、地球の座標は知らなかったのだから…。
(シロエの船を見逃していても、どうせ地球には…)
辿り着けなどしなかったのだし、燃料切れで「旅」は終わっていたろう。
燃料が尽きれば、船の酸素も、宇宙の寒さなどから守る設備も、全て無くなる。
シロエは宇宙の藻屑となって、永遠に漂い続けるだけ。
その魂は身体を抜け出し、地球へ、故郷へと飛んでゆくかもしれないけれど。
(…そうしていたなら、私は後悔することもなく…)
シロエも宇宙で死んではいなくて、今でも生きていたかもしれない。
人類ではなく、敵に回って、ミュウどもの船に乗り込んで。
彼の優秀な頭脳をフルに使って、彼らのブレーンとなり、指揮を執って。
(シロエの船を撃墜した時…)
ミュウたちの母船、モビー・ディックが「近くにいた」ことを、後になって知った。
シロエをあのまま行かせていたなら、ミュウたちが助けた可能性が高い。
仲間の危機には敏感なのだし、きっと「シロエ」を見付けただろう。
燃料が尽きる寸前の船で、漂流している意識不明の「仲間」を。
シロエが彼らに呼び掛けなくとも、「何処かに仲間がいる」と気付いて。
(あの時、モビー・ディックが近くに来ていたことを…)
知った時の衝撃を忘れはしない。
「どうしてシロエを行かせなかった」と、足元が崩れるような気がした。
直後から後悔し始めるのなら、逃がしておけば良かったのに。
何年も後悔し続けた後に、「シロエが助かる道はあった」と知るのだったら…。
(…シロエを行かせるべきだったのだ…)
マザー・イライザに叱責されても、失点になっても、本当に逃がしてやれば良かった。
どうせ「キース」は出世の道を歩んでゆくから、大したことにはなってはいない。
結果として「シロエ」が敵に回っても、そうなった時は、その時のこと。
(好敵手が出来て良かった、とでも思っておくさ)
ただのミュウども相手よりもな、とコーヒーのカップを指でカチンと弾く。
ソルジャー・ブルーは手強かったけれど、彼は戦闘のプロではなかった。
銃を向けられたら何も出来ない、躱すことさえ出来ない「素人」。
ジョミー・マーキス・シンにしたって、同じだったと言えるだろう。
けれど「シロエ」がいたならば、違う。
途中で脱落したといえども、Eー1077で教育を受けた、メンバーズの卵なのだから。
もしもミュウ因子を持っていなくて、普通のエリート候補生なら、彼もメンバーズだった筈。
めきめきと頭角を現していって、「キース」を脅かすほどの力をつけて。
(そんなシロエが、ミュウの陣営に入ったならば…)
間違いなく最高の軍師で指揮官、更に前線にも出て来ただろう。
ミュウは何故だか、指導者自ら、前線に出る傾向があるようだから。
(私から見れば、無謀だとしか思えないのだが…)
彼らには彼らの「やり方」があって、「シロエ」もそれを踏襲する。
ミュウの船ではけして出来ない、エリートを養成するステーションでの「育ち」を活かして。
メンバーズにもなれていただろう実力、並みのミュウでは持ち得ない戦闘能力を。
(…タイプ・ブルーなどではなくも、「シロエ」は脅威でしかないのだが…)
そういう「敵」を「生み出した」ことを、後悔などはしないと思う。
シロエが人類に挑んで来るなら、こちらも受けて立つまでのこと。
「出来るものなら、やってみろ」と、きっと不敵な笑みを浮かべて。
「そう簡単に負けはしない」と、「絶対に、地球になど行かせるものか」と。
なのに、そうなりはしなかった。
シロエの命は宇宙に散って、「キース」は今も後悔だけを背負っている。
事あるごとに、「どうしてシロエを逃がさなかった」と、あの日に取った道を悔やんで。
別の道を選べば良かったのにと、今に至るまで、自問自答を繰り返して。
(…こんな思いをするくらいなら…)
良心など要らなかったのに、と悔いを抱えて生きる自分を自嘲する。
シロエのことを悔やみ続けて、後悔するのは「良心」の仕業というものだから。
「良心」を持っていなかったならば、こうして悔やみ続けてはいない。
自分は務めを果たしただけで、「シロエ」は処分するべきミュウで、ただの異分子。
そう、やったことは「正しいこと」。
SD体制の世界においては、誰もキースを責めたりはしない。
むしろ「シロエ」を処分したことを称え、キースの手柄だと手放しで褒める。
「まだ若いのに、よくぞやった」と、他の者が皆、倒れていた時の出撃だけに、余計に。
(…実際、私を、誰一人として…)
責めはしなかったし、マザー・イライザも、教官たちも「満足だった」。
「キース」の素晴らしい成長ぶりと、メンバーズに相応しい決断力を見られたのだから。
(…しかし私は、生涯、悔やみ続けるだけで…)
誰にも心を明かせはしなくて、深い悲しみが募ってゆくだけ。
「キース」を無から作ったのなら、「良心」などは持たないように作って欲しかった。
淡々と任務をこなし続ける、機械人形のような人間に。
(…だが、そのように私を作ったならば…)
人類の指導者になることは出来ない、欠陥品になると分かっている。
良心を持たない冷酷な指導者がどうなったのかは、過去の歴史で立証済み。
「そんなモノ」をマザー・イライザが作りはしないし、グランド・マザーも認めはしない。
だからどれほど苦しかろうとも、悔やみ続ける心を隠して、これからも生きてゆくしかない。
いつの日か、「それ」が膨らんだ末に、違う道を歩み始めようとも。
今は全く悔やんではいない、ジルベスター・セブンのことやら、ソルジャー・ブルーを…。
(この手で撃ったことを悔やんで、ミュウどもの方に…)
思いを寄せる時が来るのかもな、と感じるけれども、抗うことは出来ないだろう。
良心を持った存在として、「キース・アニアン」は作られたから。
その「良心」が今の「キース」を食い破ろうとも、後悔は微塵も無いだろうから…。
悔やみ続ける心・了
※シロエに機械人形と言われたキースですけど、良心を持たないように作れば欠陥品。
そのように作ってくれていれば、とキースが望んでも、叶わないこと。辛いですけどね…。
死んで自由になれたのだから、とキースは心で呼び掛けてみる。
国家騎士団総司令に与えられた個室で、マツカが淹れていったコーヒーを手に。
とうに夜更けになっているから、部下たちもマツカも、此処にはいない。
昔の友を思い出すには、丁度いい時間と言えるだろうか。
(もっとも、私とシロエとは…)
友とは言えなかったのだがな、と思うけれども、シロエは友に成り得たと思う。
あれだけの頭脳の持ち主だったし、出会いが違えば、きっと良き友になったろう。
最初はライバル同士であっても、いつの間にやら、色々と語らうようになって。
「キース」の生まれが何であろうと、「シロエ」なら受け入れてくれた気がする。
(…私の秘密を自ら暴いて、人形だと挑発してくる代わりに…)
同情さえもしてくれたのでは、と何度思ったことだろう。
「シロエならば」と、「シロエが此処にいてくれたら」と。
(…今の私にも、友は確かにいるのだが…)
彼の心は此処には無い、と頭に浮かぶのはサムのこと。
サムは確かに昔からの友で、今も友だと思ってはいても、それは一方的なものに過ぎない。
サムが見ている「キース」の姿は、「赤のおじちゃん」。
子供に戻ったサムとは別の、大人の世界に住んでいる者で、サムはキースに懐いているだけ。
(…父親も母親も、サムを迎えに来てくれないから…)
サムは親切にしてくれる「キース」を受け入れ、「赤のおじちゃん」と笑顔を見せる。
見舞いに行く度、サムが語るのは、いる筈もない両親との間にあった出来事。
「パパが勉強しろってうるさいんだ」だとか、「ママのオムレツは美味しいよ」とか。
(…サムの話を聞かされる内に…)
ようやく、かつての「シロエ」の気持ちが分かって来た。
シロエは何を失ったのか、何を求めてシステムに抗い続けたのか。
(…サムが語ってくれる、両親と過ごした時間のことなど…)
キース自身は、何も知らない。
マザー・イライザに無から作られ、水槽の中で育てられたから。
養父母を持たずに成長して来て、成人検査も受けてはいない生命だから。
シロエが成人検査で機械に奪われ、取り戻せないままに終わった記憶。
それを求めて、彼は宇宙に飛び立って行った。
ピーターパンの本だけを抱えて、武装していない練習艇に乗り込んで。
(…それを撃墜したのが、私で…)
シロエの命に終止符を打ってしまったけれども、彼は幸せになれただろうか。
機械の支配から自由になって、失くした記憶を取り戻して。
生身のままでは帰ることなど叶いはしない、懐かしい故郷へ、家へ帰って。
(…きっと、そうだな…)
彼ならそうだ、と考えることで、救われているのは「自分」だろう。
「シロエは自由になれたのだから」と、「死んで自由を手に入れたのだ」と信じることで。
(…私は今でも、ずっと後悔し続けていて…)
あの時、シロエを「殺した」罪を忘れた日などは一度も無い。
撃墜して直ぐ、Eー1077に戻る時から、もう後悔は始まっていた。
「本当に、他に取るべき道は無かったのか」と、「シロエを行かせてやれば良かった」と。
シロエが練習艇で目指した先は、座標さえも分からなかった「地球」。
当時、メンバーズに選ばれたばかりの「キース」も、地球の座標は知らなかったのだから…。
(シロエの船を見逃していても、どうせ地球には…)
辿り着けなどしなかったのだし、燃料切れで「旅」は終わっていたろう。
燃料が尽きれば、船の酸素も、宇宙の寒さなどから守る設備も、全て無くなる。
シロエは宇宙の藻屑となって、永遠に漂い続けるだけ。
その魂は身体を抜け出し、地球へ、故郷へと飛んでゆくかもしれないけれど。
(…そうしていたなら、私は後悔することもなく…)
シロエも宇宙で死んではいなくて、今でも生きていたかもしれない。
人類ではなく、敵に回って、ミュウどもの船に乗り込んで。
彼の優秀な頭脳をフルに使って、彼らのブレーンとなり、指揮を執って。
(シロエの船を撃墜した時…)
ミュウたちの母船、モビー・ディックが「近くにいた」ことを、後になって知った。
シロエをあのまま行かせていたなら、ミュウたちが助けた可能性が高い。
仲間の危機には敏感なのだし、きっと「シロエ」を見付けただろう。
燃料が尽きる寸前の船で、漂流している意識不明の「仲間」を。
シロエが彼らに呼び掛けなくとも、「何処かに仲間がいる」と気付いて。
(あの時、モビー・ディックが近くに来ていたことを…)
知った時の衝撃を忘れはしない。
「どうしてシロエを行かせなかった」と、足元が崩れるような気がした。
直後から後悔し始めるのなら、逃がしておけば良かったのに。
何年も後悔し続けた後に、「シロエが助かる道はあった」と知るのだったら…。
(…シロエを行かせるべきだったのだ…)
マザー・イライザに叱責されても、失点になっても、本当に逃がしてやれば良かった。
どうせ「キース」は出世の道を歩んでゆくから、大したことにはなってはいない。
結果として「シロエ」が敵に回っても、そうなった時は、その時のこと。
(好敵手が出来て良かった、とでも思っておくさ)
ただのミュウども相手よりもな、とコーヒーのカップを指でカチンと弾く。
ソルジャー・ブルーは手強かったけれど、彼は戦闘のプロではなかった。
銃を向けられたら何も出来ない、躱すことさえ出来ない「素人」。
ジョミー・マーキス・シンにしたって、同じだったと言えるだろう。
けれど「シロエ」がいたならば、違う。
途中で脱落したといえども、Eー1077で教育を受けた、メンバーズの卵なのだから。
もしもミュウ因子を持っていなくて、普通のエリート候補生なら、彼もメンバーズだった筈。
めきめきと頭角を現していって、「キース」を脅かすほどの力をつけて。
(そんなシロエが、ミュウの陣営に入ったならば…)
間違いなく最高の軍師で指揮官、更に前線にも出て来ただろう。
ミュウは何故だか、指導者自ら、前線に出る傾向があるようだから。
(私から見れば、無謀だとしか思えないのだが…)
彼らには彼らの「やり方」があって、「シロエ」もそれを踏襲する。
ミュウの船ではけして出来ない、エリートを養成するステーションでの「育ち」を活かして。
メンバーズにもなれていただろう実力、並みのミュウでは持ち得ない戦闘能力を。
(…タイプ・ブルーなどではなくも、「シロエ」は脅威でしかないのだが…)
そういう「敵」を「生み出した」ことを、後悔などはしないと思う。
シロエが人類に挑んで来るなら、こちらも受けて立つまでのこと。
「出来るものなら、やってみろ」と、きっと不敵な笑みを浮かべて。
「そう簡単に負けはしない」と、「絶対に、地球になど行かせるものか」と。
なのに、そうなりはしなかった。
シロエの命は宇宙に散って、「キース」は今も後悔だけを背負っている。
事あるごとに、「どうしてシロエを逃がさなかった」と、あの日に取った道を悔やんで。
別の道を選べば良かったのにと、今に至るまで、自問自答を繰り返して。
(…こんな思いをするくらいなら…)
良心など要らなかったのに、と悔いを抱えて生きる自分を自嘲する。
シロエのことを悔やみ続けて、後悔するのは「良心」の仕業というものだから。
「良心」を持っていなかったならば、こうして悔やみ続けてはいない。
自分は務めを果たしただけで、「シロエ」は処分するべきミュウで、ただの異分子。
そう、やったことは「正しいこと」。
SD体制の世界においては、誰もキースを責めたりはしない。
むしろ「シロエ」を処分したことを称え、キースの手柄だと手放しで褒める。
「まだ若いのに、よくぞやった」と、他の者が皆、倒れていた時の出撃だけに、余計に。
(…実際、私を、誰一人として…)
責めはしなかったし、マザー・イライザも、教官たちも「満足だった」。
「キース」の素晴らしい成長ぶりと、メンバーズに相応しい決断力を見られたのだから。
(…しかし私は、生涯、悔やみ続けるだけで…)
誰にも心を明かせはしなくて、深い悲しみが募ってゆくだけ。
「キース」を無から作ったのなら、「良心」などは持たないように作って欲しかった。
淡々と任務をこなし続ける、機械人形のような人間に。
(…だが、そのように私を作ったならば…)
人類の指導者になることは出来ない、欠陥品になると分かっている。
良心を持たない冷酷な指導者がどうなったのかは、過去の歴史で立証済み。
「そんなモノ」をマザー・イライザが作りはしないし、グランド・マザーも認めはしない。
だからどれほど苦しかろうとも、悔やみ続ける心を隠して、これからも生きてゆくしかない。
いつの日か、「それ」が膨らんだ末に、違う道を歩み始めようとも。
今は全く悔やんではいない、ジルベスター・セブンのことやら、ソルジャー・ブルーを…。
(この手で撃ったことを悔やんで、ミュウどもの方に…)
思いを寄せる時が来るのかもな、と感じるけれども、抗うことは出来ないだろう。
良心を持った存在として、「キース・アニアン」は作られたから。
その「良心」が今の「キース」を食い破ろうとも、後悔は微塵も無いだろうから…。
悔やみ続ける心・了
※シロエに機械人形と言われたキースですけど、良心を持たないように作れば欠陥品。
そのように作ってくれていれば、とキースが望んでも、叶わないこと。辛いですけどね…。
