「セキ・レイ・シロエ。…どうしましたか?」
また脳波が乱れているようですね、と浮かんだマザー・イライザの影。
シロエが座っている机の向こう、見慣れてしまったその姿。
明かりを落として、考え事をしていた最中。
ピーターパンの本を開いて、失くした記憶が戻って来ないか、そういう戦い。
これは違うと、これも違うと、偽の記憶を選り分けながら。
成人検査で機械が無理やり押し込んだそれを、一つ、二つと。
なのに、無常に響いた音。
マザー・イライザからのコンタクト。
嫌でもログインするしかなかった、此処ではそういう決まりだから。
一言も言葉を交わしはしないで、放っておくことは不可能だから。
(…マザー・イライザ…)
呼んだつもりは無かったのに。
出て来て欲しくなど無かったのに。
(ぼくは、お前を呼んでなんか…!)
けして呼んではいないというのに、なんという機械なのだろう。
何処までしつこく付き纏うのか、このステーションのコンピューターは。
「…シロエ?」
どうしたのですか、と優しい声音のマザー・イライザ。
猫撫で声にしか聞こえないけれど。
聞くだけで苛立つ声だけれども。
その上、見たくない姿。
どうしてこういうシステムなのか、マザー・イライザというものは。
この忌々しい、呪わしい機械は。
やっとのことで切った通信、「レポートの続きがありますから」と。
まるで嘘ではなかったレポート、ただし勉強とは無関係。
一心不乱に取り組む相手は、マザー・イライザに乱された心。
乱されたけども、好機とも言えた今の通信。
レポートの下書きをするための用紙、それを机の上に広げた。
罫線は無視して、鉛筆で線を描いてゆく。
文字を綴ってゆくのではなくて、設計図というわけでもなくて。
(…こんな感じで…)
美術の授業などは無いのだけれども、シロエが始めたことはデッサン。
機械いじりを得意とするから、この手の作業も苦手ではない。
大まかな線をグイグイと描いて、「こんなものかな」と大きく頷く。
(…忘れない内に…)
今日は確かにこう見えたから、と次は細部を埋めてゆく作業。
それがレポート、既に脳波は乱れてもいないことだろう。
なにしろ、集中しているのだから。
チャンスは自分で掴むというのが、エリート候補生の鉄則なのだから。
懸命に描いて、描き続けて。
(出来た…!)
描き上がったものを誰に見せても、「これ、誰だよ?」と訊かれるだろう。
そうでなければ、「シロエのママなの?」と。
(…マザー・イライザ…)
あの憎らしいコンピューターの、たった一つの利点はこれ。
身近な女性の姿を映して現れること、それだけは評価してもいい。
(物凄く腹は立つんだけれどね…)
エネルゲイアに今もいるだろう、優しかった母。
その母の姿を真似ないで欲しい、機械のくせに。
一滴の血さえも流れてはいない、ただの巨大なコンピューターのくせに。
けれど、マザー・イライザはそういう機械。
そういうシステム、誰もがそれを喜ぶらしい。
親しみを覚える姿だから。
母や、想いを寄せる女性の姿で前に現れてくれるから。
大切な母を真似る機械は、壊してやりたいくらいだけれど。
それを逆手に取ることも覚えた、こういう風に。
マザー・イライザの姿を見た日は、母を真似ていた機械を描く。
机にレポート用紙を広げて、今日の姿はこうだった、と。
(…ママの姿は、もう少し…)
どうだったろうか、直したいのに思い出せない母の顔。
マザー・イライザを描き留めた絵から、母の肖像画を描きたいのに。
これが母だと、ぼくのママだと、心が叫び出すような絵を。
会心の作の母の絵を描き、大切に飾っておきたいのに。
(…何処が似ていないのか、分からないよ…)
ママ、とポタリと零れた涙。
皆の前では「母さん」と呼ぶのが、いつしか普通になっていた母。
けれども、心で呼ぶ時は「ママ」。
本当に会いたい母は今でも、ママと呼ぶのが相応しいから。
どんな時でも、温かくて優しかった母。
柔らかい手をしていた母。
いつか必ず描き上げてみせる、母の姿を写した絵を。
これが母だと、ぼくのママだと、誰もに見せたくなるような絵を。
きっといつかはそれを描きたい、懐かしい母がどんなだったか、いつまでも覚えていたいから。
きっと描くんだ、と心に誓う。
忌まわしいマザー・イライザを元に、今も会いたくてたまらない母を…。
母の似姿・了
※マザー・イライザは、シロエにはこう見えるんだよな、と考えたまではいいんですけど。
思い切りマザコンになっていたオチ、どちら様にもゴメンナサイです…。
「バースデープレゼントだ。やるよ」
お前、凄く欲しがってただろ。俺の名前、入ってるけど…。
そう言ってサムが渡してくれたプレゼント。
ドリームワールドの百周年記念パス。
「俺たち、ずっと友達だぜ」と、「大人になって、また会えるといいな」と。
(ずっと友達…)
それが本当ならいいんだけど、とジョミーがついた大きな溜息。
帰り着いた家で、自分の部屋で。
明日の今頃には、もういない部屋。二度と戻って来られない部屋。
「成人検査でいい結果が出ることを祈っているわ」と、スウェナが贈ってくれたキス。
「グッドラック」と。
そしてサムからは、ずっと欲しかったドリームワールドの百周年記念パス。
(…二人とも、きっと正しい筈で…)
何も間違ってはいないと思う。
明日は目覚めの日で、十四歳の誕生日。
その日になったら、大人の世界へ向けて旅立つと教えられた日。
いつも通った学校の教室、一人、二人と減っていった生徒。
持ち主が消えてしまった机。
誰もおかしいと思いはしなくて、それが普通だと思っていて。
(…自分の番が来るのを、待ってる奴だって…)
珍しくないし、サムもスウェナも、多分、待ち侘びているのだろう。
彼らの机が空になる日を、目覚めの日が彼らに訪れるのを。
(グッドラックって言われても…)
どう幸運を祈ると言うのか、明日になったら戻れないのに。
今日まで両親と暮らして来た家、自分のものだと信じていた部屋。
どちらにも、もう戻れはしない。
考えるほどに寂しいばかりで、不幸だとしか思えない明日と、明日行われる成人検査と。
(…今朝はこんなじゃなかったのに…)
ここまで酷くはなかったと思う、父の言葉が嬉しかったから。
早めに帰るよ、と笑顔で仕事に出掛けた父。
「目覚めの日の前祝いだ」と、「みんなでパーティーでもしよう」と。
あの時は本当に嬉しかったから、「やった!」と叫んでしまったけれど。
心が躍っていたのだけれども、そのパーティー。
(…お別れパーティー…)
そうなるのだった、考えてみれば。
両親と一緒の最後のパーティー、次にパーティーがあるとしたなら…。
(…何処になるわけ?)
それすらも分からないのが今。
きっと誰にも答えられない、次のパーティーの場所などは。
サムには「性格に問題ありすぎ」と笑われてしまった、メンバーズ。
それを目指してエリートコースに進んで行くなら、次のパーティーはそういう所。
両親のような一般人になるのだったら、そうしたコースの何処かでパーティー。
他にもコースはあると聞いたし、もう本当に分からない。
明日の今頃、自分が何処にいるのかは。
次のパーティーに出るとしたなら、その場所が何処になるのかは。
(…こんなので、ずっと友達だなんて…)
サムの顔には「約束だぜ」と書いてあったのだけれど。
本当にそうだと信じているから、プレゼントを渡してくれたのだけれど。
(…これだって…)
あの時は嬉しかったけれども、今、眺めたら不安でしかない。
ブレスレットの形をしている、ずっと欲しかった記念パス。
サムの名前が入ったそれ。
(…これだと、腕に嵌められるから…)
成人検査の時も着けて行けるし、そのまま持って旅立って行ける。大人の世界へ。
もう間違いなく、そこまできちんと考えてくれてのプレゼント。
目覚めの日には、荷物を持っては出られないから。
そういう決まりになっているから。
(…他のものは全部…)
駄目なんだった、と見回した部屋に、幾つも思い出。
家族写真のフォトフレームやら、本やら、壁に飾ったポスター。
アルバムだって持って行けない、この部屋に置いて出掛けるしかない。
(また見たいって気分になっても…)
家に戻って見られはしないし、全てに別れを告げるしかなくて。
そんな状況に追い込まれる日に、どうして「グッドラック」なのか。
前祝いに「お別れパーティー」なのか。
(大人になっても、ずっと友達…)
サムの言葉が本当だったら、両親もずっと両親だろうと思うのに。
どうやらそれは違うらしくて、明日でお別れらしいから。
なんとも不安で、寂しくて。
考えるほどに怖くなるから、明日など要らない気持ちさえする。
朝は「やった!」と叫んでしまった、パーティーさえも。
お別れパーティーになるくらいならば、パーティーなどは無くていいから。
普段通りの食事でいいから…。
(時間、止まってくれないかな…)
明日の誕生日は来ないままで。
いつまでも今日を繰り返せたらいい、平凡な日でかまわないから。
パーティーも、あんなに欲しいと思った百周年記念パスも要らないから。
(明日の誕生日…)
消えてなくなれ、と呪文を唱えたい気分。
それで誕生日が消えるなら。明日という日が来なくなるなら。
明日なんか、消えてしまえばいい。
誕生日なんか、来なくてもいい。
(大人になっても、ずっとパパとママの子供でいられないなら…)
そんな日なんか、消えてなくなってしまえばいい。
ずっと今日だけを繰り返せばいい、時間が止まってしまえばいい。
パーティーなんか、要らないから。
御馳走も、ドリームワールドの百周年記念パスも、何も欲しいと思わないから…。
要らない誕生日・了
※「成人検査の日に荷物は駄目」が基本設定になっちまった、と自分に溜息。
ジョミーとシロエは対らしいんですよね、アニテラが作られるよりもずっと前から…!
「スウェナが決めたことだ。仕方ない」
その言葉の何処が悪かったのか。
「あなたには分かってなんか貰えないわよね」
スウェナは言うなり去ってしまって、サムも肩まで震わせて怒った。
「他に言い方あるだろう」と。
「仕方がないって…。仕方がないって、何なんだよ!」と。
(スウェナの気持ち…?)
お前には分かんねえのかよ、と言い捨てて走り去ったサム。
まるで分からない、自分の何処が悪かったのか。
何処がいけなかったというのか、自分の、キース・アニアンの…?
どうして、と一人ポツンと残されたテーブル。
いつも三人でやってきた、というサムの言葉は分かるけれども。
こうして一人で残されてみたら、三人と一人が違うことくらいは分かるけれども。
(…何を分かれと…?)
本当にまるで分からない、と一人考え込むしかなかった。
スウェナの気持ちとは、何のことだろう?
他の言い方とは何のことだろう、自分は何を間違えたのか。
いったい何が悪かったのか…。
「ふられましたね、キース先輩。…聞こえてましたよ」
そこ、空いてますか、と現れたシロエ。
どういう風の吹き回しなのか、手にしたトレイに二つのカップ。
「キース先輩はコーヒーですよね?」と目の前に一つ、コトリと置かれた。
さっきまでスウェナが座っていた場所、其処には別のカップが一つ。
そしてストンと腰掛けたシロエ、「これ、ぼくのお気に入りなんです」と。
(…シナモンミルク…?)
そういう好みだったのか、とシロエのカップを眺めていたら。
「あなたには分からないんでしょうね、この意味だって」
謎かけのようにシロエが口にした言葉。
またも耳にした「分からない」という響きの声。
自分は何を分かっていないと、サムは、スウェナは言ったのだろうか。
シロエも同じに言うのだろうか、「分からないんでしょうね」と。
今日の自分はどうかしている、思考が上手くいかないらしい。
昨夜、眠りが浅かったろうか?
そのくらいのことしか思い付かない、頭が働かない理由としては。
「ふうん…? あなたらしくもないですね」
だんまりなんて、と唇を笑みの形に歪めたシロエ。
「やっぱり、あなたは分かっていない」と。
「…何が分かっていないと言うんだ?」
何故だか、自然と口にしていた。
下級生のシロエに分かるわけがない、とは何故か少しも思わなかった。
「そうですね…。例えば、ぼくのカップの中身」
「シナモンミルクがどうかしたのか?」
「ほらね、分かっていないんですよ。…お気に入りだと言いましたよね、ぼくは?」
お気に入りの意味も分かっていない、とシロエは笑った。
さも可笑しそうに。
(お気に入りだと…?)
そのくらいは分かる、「お気に入り」の意味は。
気に入っていると、好物なのだと分からないほどに、馬鹿でも無知でもないのだから。
「いや、分かるが…。好きなのだろう、それが?」
その飲み物が、と至極真面目に答えたのだけれど。
シロエはますます笑うだけだった、面白い見世物を見たかのように。
「機械の申し子でも分からないことがあるんですね」と、前に聞いた言葉を繰り返して。
「いえ、機械の申し子だからこそ、分からないのかな…。これも前にも言いましたっけ」
他に適切な言い回しが無いものですから、と皮肉に満ちたシロエの声音。
「これでも頭はいいんですけど、言葉の数にも限りがあって」と。
「…キース先輩、あなたは分かっていないんですよ。簡単なことが」
お気に入りだとか、好きだとか。
そういう言葉に詰まった感情、あなたはそれを読み取れない。
読み解く力を持っていないと言えばいいかな、ぼくには出来るんですけどね…?
分かりませんか、とシナモンミルクを口に運ぶシロエ。
「これね、ただのシナモンミルクじゃないんです。…マヌカが多めなんですよ」
「…マヌカ・ハニーが好きなのか」
なるほど、と理解したのだけれども、シロエはクッと喉を鳴らした。
「流石ですね、知識はありますか…。でも、そこまでしか分からないでしょう?」
あなたに出来るのは其処までですよ、とシロエが傾けているカップ。
(…何が分からないと…?)
自分は正しく理解し、答えたと思う。
シロエが蜂蜜を好むらしいことを、それもマヌカの蜂蜜らしい、と。
なのにシロエは、「あなたには分からない」と挑戦的な瞳を向けてくる。
シナモンミルクが入ったカップを傾けながら。
本当に何が分かっていないのだろうか、考えるほどに解けないパズル。
踏み込んでしまった思考の迷宮、「分からない」という言葉が分からない。
いったい自分はどうしたのだろう、何にでも答えはあるものなのに。
どんな時でも正しく思考し、正しい答えを弾き出すのに。
それじゃ、とシロエが立ち上がる時に、ニッと笑って投げ掛けた言葉。
「キース先輩、あなたには欠けているんですよ」
誰にでもある筈の感情が…、ね。
やっぱり機械の申し子だからかな、あなたの心は機械仕掛けになってるのかな…?
(…欠けているだと…?)
何が、と見詰めた自分の両手。
完璧な筈の自分に何が欠けているのか、感情だってあるというのに。
こうして途惑い、シロエが残した言葉に波立つ心は、確かに自分のものなのに。
いったい何が欠けているのか、そう言われても分からない。
(…まただ…)
また「分からない」という言葉に出会った、あの迷宮に閉じ込められた。
謎かけのような言葉のパズルに、自分には解けないパズルの檻に。
(…欠けているから分からない…?)
シロエの言葉がぐるぐると回る、自分の部屋に帰った後も。
ベッドに横になった後にも、絡んだままで縺れたパズル。
「分からない」という言葉の迷宮、どうすればこれが解けるのか。
(…いったい何が…)
欠けているのか、そのせいで分からないのだろうか。
明日になったら解けるのだろうか、一晩眠って、思考がクリアになったなら…。
「…前日の記憶消去、四十パーセントまで完了」
この作業だけは何度やっても嫌なもんだな、と愚痴を零し合う職員たち。
モニターに映し出された人影の中に、眠るキースと、シロエの姿と。
指示を下したマザー・イライザ、機械の思考はいつも正しい。
(…今日のは少し早すぎました。忘れなさい、キース…)
次の機会があるでしょうから、とマザー・イライザは優しく微笑む。
「あなたの心は、私が正しく導きましょう」と。
シロエと話したことは全て忘れておしまいなさいと、シロエの記憶も消しましたから、と…。
早すぎた語らい・了
※やっちまった感が半端ないな、と思ってしまう記憶処理ネタ。本当にあったかもですが。
「マヌカの呪文」を読んで下さった方には、シロエの嫌味が美味しいかも…?
(ぼくの本…)
ちゃんと此処まで持って来られた、とシロエがギュッと抱き締めた本。
ステーション、E-1077。
選ばれた一部のエリートだけが来られる場所だと説明された。
此処へ来る途中の船の中で。
ステーションに着いたら、エリート候補生に相応しく行動するように、と。
(…そんなの、ぼくには関係ない…)
エリートだろうが、一般人向けのステーションだろうが。
一緒の船で着いた者たち、彼らは喜んでいたけれど。
素晴らしい場所に来ることが出来たと、憧れの地球が近くなったと。
宇宙港で船を降りた彼らは、何も持ってはいなかった。
成人検査の規則通りに、荷物は一つも持たずに家を出たのだろう。
(…何もかも置いて来たヤツばかり…)
荷物も、それに大切な物も。
かけがえのない記憶、養父母と過ごした日々の思い出。
それを素直に手放してしまい、機械の言うなりになった者たち。
…自分も偉そうなことは言えないけれど。
かなりの記憶を消されてしまって、曖昧になってしまったけれど。
(でも、ぼくの本は…)
こうして今も手の中にある。
幼い時から何度も何度も、繰り返し読んだピーターパンの本。
これだけは置いて来られなかった。
規則なのだと言われても。
両親に困った顔をされても。
成人検査があんなものだとは知らなかったけれど、自分は賢明だったと思う。
宝物の本を鞄に詰め込み、大切に持って家を出たこと。
お蔭で記憶を失くさずに済んだ、ピーターパンの本に詰まった記憶は。
顔がぼやけてしまった両親、けれど今でも覚えている。
この本をソファで読んでいた時、「もっといい所へ行けるよ」と教えてくれた父。
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と。
父は自分を抱き上げてくれた、両腕で高く差し上げてくれた。
ピーターパンの本を持った幼い自分を、「ただいま、シロエ」と、高く、高く。
キッチンにいた母とも何度も話した、この大切な本を読みながら。
幾つも、幾つも、思い出の欠片。
幼かった自分が幸せな日々を、温かな日々を過ごしていた。
ピーターパンの本と一緒に、大好きだった父と母も一緒に、遠くなってしまった懐かしい家で。
失くさなかった、と両腕で強く胸に抱き締める、宝物の本を。
自分の記憶を繋ぎ止めてくれた、あの家の思い出が詰まった本を。
もう離さないと、離れないと。
二度とこの本を離しはすまいと、何処までも、いつまでも一緒だからと。
(…誰にも渡さないんだから…)
触らせだってしないんだから、とキッと睨んだ側に来た大人。
部屋はこちらだと案内しに来た、教育ステーションの職員の一人。
絶対に渡してたまるものかと。
もう絶対に騙されはしないと、成人検査の二の舞になってはならないと。
そうして案内された部屋。
一人に一つずつ、あてがわれた個室。
まるで馴染みの無い部屋だけれど、今日からは此処で暮らすしかない。
この部屋で生きてゆくしかない。
(…だけど、この本は持って来たから…)
大切な宝物の本。
思い出が幾つも詰まっている本。
この本を部屋に置いておいたら、もう一度築き直せるだろう。
何度も何度も読んでいたなら、記憶の欠片もいつか組み立て直せるだろう。
ネバーランドへ行こうと夢見た自分を、今も忘れていないから。
本をしっかりと抱え直したら、あの思い出が蘇るから。
何処かぼやけてしまっていても。
頼りなく、儚く消えそうなほどに、細く危うく揺らめいていても。
(此処がぼくの部屋…)
全く馴染みが無い部屋だけれど、また最初から作り直そう。
ピーターパンの本を繰り返し読んで、記憶の欠片を組み立ててゆこう。
気の遠くなるような作業だけれども、自分は皆と違うのだから。
機械が書き換えてしまった偽の記憶を、素直に信じはしないのだから。
(…負けてたまるもんか…)
二度と負けない、機械などには。
此処まで自分を乗せて着た船、あれで一緒に来た者のように機械の言いなりなどにはならない。
いつか必ず、何もかもきっと取り戻す。
父の記憶も母の記憶も、自分が育った家の記憶も。
此処まで持って来た大切な本が、きっと助けてくれるから。
宝物の本に詰まった思い出、それが自分の戦う力になるだろうから。
ぼくは負けない、と大切な本を部屋にあった勉強机に置いた。
多分、勉強机なのだと思える机。
記憶の彼方に微かに残った、自分のものとは違ったけれど。
両親と暮らした家で使った机とは違っていたけれど。
(今日からは、此処で暮らすんだから…)
そしていつかは、この本と一緒に全て取り戻して帰ってゆこう。
父と母とが住んでいる家へ、自分が育ったエネルゲイアへ。
その日まで、本を失くさないように。
誰かに盗られてしまわないように。
(…名前、書かなきゃ…)
ぼくの本だ、と初めて本に書き込んだ名前。
セキ・レイ・シロエと、ぼくのものだと、机に置かれていたペンで。
この本と一緒に、いつまでも、何処までも戦ってゆこう。
いつか記憶を取り戻す日まで。
懐かしい家に帰れる日まで。
ちゃんと名前を書いておいたから、もう大丈夫。
誰かに盗られてしまうことはなくて、自分一人だけの宝物。
セキ・レイ・シロエと、ペンできちんと書いたから。
きっといつかは、本を抱えて帰ってゆこう。
山ほどの思い出と記憶を抱えて、全部取り戻して帰ってゆこう。
大好きだった家へ。
父と母とが住んでいる家へ、ネバーランドへ、地球へ行こうと何度も夢を描いた家へ…。
名前を書いた本・了
※ピーターパンの本に書いてあったシロエの名前。文字がやたらと綺麗だったな、と。
子供の字にしては綺麗すぎです、それとも書道をやってましたか?
「あと、シナモンミルクも。マヌカ多めにね」
教育ステーションの朝の食堂、そう注文をしたシロエ。
トレイの上に置いてゆかれるトーストやサラダ。それに…。
最後にコトリとカップが一つ。シナモンの入ったホットミルク。
(…今日も言えた…)
覚えていた、と手に持ったトレイ。
空いた席はと、人の少ないスペースに向かう。
誰にも邪魔をされたくないから、朝食はいつも一人きりで。
声を掛けられても、無視するだけ。
(キースなら話は別だけれどね)
他の連中はお断りだ、と座った席。望み通りに一人のテーブル。
朝食のメニューは色々だけれど、その日の気分で変えるのだけれど。
まるで何かの呪文のように口にするのが、シナモンミルク。
「マヌカ多めに」と付け加えるのも忘れずに。
初めてこれを頼んだ時には、心が震えた。
「覚えていた」と。
やっと一つだけ取り戻せたと、二度と忘れてはならないと。
多分、自分が好きだったものの一つだから。
そうでなければ母のお勧め、もしくは父のお気に入り。
いずれにしたって、あの家にあった飲み物の一つ。
目覚めの日までの十四年間を過ごした、両親の家に。
雲海の星、アルテメシアの、エネルゲイアで暮らした家に。
今ではまるでピンと来ない星、ぼやけてしまったアルテメシアにエネルゲイア。
それと同じにぼやけた両親、どうしても思い出せない顔。
あの日を境に過去を失くした、宝物だったピーターパンの本を除いて。
持っては行けない筈の荷物を用意してまで、本だけは持って来られたけれど。
ステーションまで持ち込めたけれど、他の記憶は霞んでしまった。
(全部、消された…)
機械に都合のいいように。「忘れなさい」という冷たい声で。
落として失くしてしまった過去。
両親の顔や、暮らした家や。
取り戻したくて、何度も本のページをめくった、ピーターパンの。
何処かに欠片が落ちていないかと、手掛かりになりはしないかと。
そうやって懸命にもがいていた中、ある朝、空から降って来た欠片。
ステーションに空は無いけれど。
見上げても、宇宙があるだけだけれど。
けれども、それは本当に空から降って来たとしか思えなかった。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」。
朝の食堂、自分の前でそう注文をした候補生。
雷に打たれたような気がした、その瞬間に。
何かが身体を貫いていった、「自分はこれを何処かで聞いた」と。
シナモンミルクの方はともかく、「マヌカ多めに」とは何だろう?
分からないままに注文してみた、自分の番が来た時に。
さっきの候補生と同じ口調で、さも慣れた風に。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
口に出した途端、震えた身体。
全身の細胞が「これだ」と叫んだ、「自分はこれを知っていた」と。
シナモンミルクにはマヌカ多めに、これはそういうものだったのだ、と。
マヌカが何かは謎だけれども、自分は確かに知っていた筈。
逸る心を懸命に抑え、見ていた先。
係の女性が手に取った瓶で、蜂蜜だったと思い出した。マヌカは蜂蜜の名前だった、と。
もう間違いなく記憶の欠片で、かつて自分が持っていたもの。
嬉しさのあまり叫び出したくなるのを堪えて、やっと席まで運んだトレイ。
蜂蜜入りのホットミルクを、胸を高鳴らせて飲んでみた。
もっと記憶が戻らないかと、何か覚えていはしないかと。
(結局、あれっきりだけど…)
マヌカ多めのシナモンミルクは、少し癖のある優しい味で。
懐かしい味に思えたけれども、舌に記憶は戻らなかった。
機械に消されてしまった記憶は、そう簡単にはきっと戻って来ないのだろう。
幼い自分が飲んでいたのか、それとも父の気に入りだったか。
母がマヌカを「多めがいいのよ」と入れてくれたか、それすらも今は思い出せない。
ただ、あの家にあったというだけ、誰かがそれを好んでいただけ。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」と。
その通りの言葉で言っていたのか、何処か違ったかは分からないけれど。
確かにあった、と思い出したから、忘れないように呪文を唱える。
朝の食事を頼む時には、「好物なんです」という顔をして。
「シナモンミルクも。マヌカ多めにね」と、きちんと自分らしい言い回しで。
今日も忘れてはいなかった。
魔法の呪文を、あの日、空から降って来てくれた、大切な記憶の欠片のことを。
ちゃんと頼めた、いつものように。
シナモンミルクを、マヌカ多めのホットミルクを。
(…キース、あなたには分かるわけがない)
この注文の意味も、どうして自分がこだわるのかも。
呪文を唱えるように頼む意味さえ、きっとキースには分からない。
だから、機会があったなら。
(キースだったら、一緒に食べてもいいんだけどね?)
過去の記憶を持っていないらしい機械の申し子、キースとならば。
彼が持たない過去というものを、自分は一つ取り戻したから。
そう、彼にならば自慢してみたい。
けして口には出さないけれども、優越感に浸ってみたい。
自分は思い出したから。機械に消された記憶の欠片を、今もこうして持っているから。
(シナモンミルク、マヌカ多めに…)
それを好んだのが誰だったのかは、未だに思い出せないけれど。
自分だったか、母なのか、父か、それすらも今は謎なのだけれど…。
マヌカの呪文・了
※「シナモンミルク、マヌカ多め」を耳にしてから8年経ったら、こうなったオチ。
あの時は「通だな」と思っていたのに、どう間違えたら「魔法の呪文」に…?
