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「うーん…。この先、どうしたもんだかねえ…」
 困るじゃないか、とブラウ航海長が漏らした溜息。シャングリラから「勝手に家に帰ってしまった」ジョミーのお蔭で、とんでもない事態が起こった後で。
 ユニバーサルの保安部隊に捕まったジョミーは、そのサイオンを爆発させて逃れたけれども、割を食ったのがシャングリラ。それにミュウたちの長、ソルジャー・ブルー。
 衛星軌道上まで駆け上ったジョミーを連れ戻すために、ブルーは単身飛び出して行って、半殺しと言っていい状態。シャングリラの方も、敵の注意を引き付けるために囮になったものだから…。
「うむ。あちこち修理が必要だ。ワープドライブだけでも、何日かかるか…」
 ワープドライブは、今は必要ないが…、とハーレイが眉間の皺を深くする。宇宙に出てゆく予定が無いなら、ワープドライブの出番は無い。けれど、それがある機関部は…。
「ワープドライブは後でいいんじゃ! 機関部だけで、何発被弾したと思っておる!?」
 修理の目途も立っておらんわ、とゼルはカンカンに怒っていた。ただでも人員不足な機関部、修理に回す人手が足りない。ド素人ではメカの修理は出来ない。
「…本当に困った事態ですが…。乗り越えるしかないでしょう」
 エラがマジレス、ヒルマンも「ああ」と頷いた。
「本格的な戦闘などは、今日まで一度も無かったからね。仕方あるまい」
 それに、この先は戦いの日々もありそうだから…、というのがヒルマンの言い分。
 ジョミーが「なんとか、連れて戻った」ソルジャー・ブルーは、彼を後継者に指名した。彼を次代のソルジャーとして、地球を目指せと。
 人類の聖地の地球に行くなら、戦いを避けて通れはしない。今日の戦いで音を上げていては、地球に行くなどは夢のまた夢。
 今はどんなに困っていようと、これは「乗り越えるべき試練」だという。とにかく船の修理を急がせ、元通りの日々を取り戻すのが急務だとも。
 シャングリラはバンカー爆弾の猛攻を浴びて、あちこちが壊れまくっている。強化ガラスの窓が木っ端微塵に割れている箇所も、報告が山と来ているほどに。
「…あたしが言うのは、そういう話じゃないんだよ」
 船の被害とは別の話さ、とブラウは会議室で腕組みをした。長老の四人とキャプテンが集った、今後についての会議の席で。
 問題は「船」ではなくて「ジョミー」で、そっちの方が難題だ、と。


「…ジョミーじゃと? 確かに頼りない若造じゃが…」
 ワシらが何とかするしかあるまい、とゼルは苦い顔。
 船に甚大な被害を与えて、ソルジャー・ブルーを半殺しにした「クソガキ」だろうと、次のソルジャーには違いない。ソルジャー候補の自覚を持つよう、しごきまくるしか道は無い、と。
「それなんだけどね…。彼をどう呼べばいいんだい?」
「はあ?」
 ジョミーに決まっておるじゃろうが、とゼルが答えて、他の面子も同意見。ジョミーは所詮は「ジョミー」なのだし、その呼び方でいいじゃないか、と考えは一致。
 けれど、ブラウは「それじゃマズイよ」と反論した。
「あたしたちは別にいいんだよ。元々、ジョミーと呼んでたんだし、長老だからね」
 キャプテンも、ソルジャーも、それでいいさ、とブラウは続ける。ジョミーよりも上の立場だったら、今まで通りに「ジョミー」でオッケー。
 そうは言っても、ソルジャー候補になったジョミーを、他のミュウたちはどう呼ぶのか、と。
 ソルジャー候補になる前だったら、誰もが「ジョミー」で済ませていた。そもそも、ジョミーは「ミュウではない」とまで言われていたから、軽蔑をこめて「ジョミー」な扱い。
 ところが、今後は、そうはいかない。
 現人神のような「ソルジャー・ブルー」の後継者候補、それを捕まえて「ジョミー」と呼んでいたのでは、船の秩序が乱れてしまう。目上の者への敬意が見られないだけに。
「……そういえば、そうかもしれませんね……」
 ただのジョミーでは、皆に示しがつきません、とエラも遅まきながら気付いた「呼び名」。このまま「ジョミー」と呼ばせておいたら、ソルジャーになった時はどうするのか。
「ふうむ…。ある日いきなり、ソルジャー・ジョミーではマズイだろうな」
 それまでとのギャップが大きすぎるぞ、とキャプテンも首を捻ることになった。出世するのが分かっているなら、前段階は必要だろう。ただの「ヒラ」から「トップ」に躍り出られても、皆が途惑うのは目に見えている。
「なるほど…。彼の呼び名が必要だとはね…」
 確かに困った問題だ、とヒルマンが髭を引っ張った。「ソルジャー候補」は呼び名ではないし、ただの肩書き。第一、皆が「ソルジャー候補」と呼ぼうものなら、それはそれで…。
「馬鹿にしているっぽい響きだろ? 新米め、っていう感じでさ…」
 だから困ってしまうんだよ、とブラウの悩みは深かった。たかが「ジョミー」の呼び方だけれど、それがなかなか難しそうだ、と。


 いつかソルジャーになるジョミー。それは確実、此処でけじめをつけておきたい。
 けれど、「ソルジャー候補」と呼んだら、馬鹿にしているようにも聞こえる。「新米」だとか、「免許取りたて」といった感じで、「お前は、まだまだ未熟者だ」という響き。
「…いい呼び方があればいいんだけどねえ…」
 ついでにジョミーも、自覚を持ってくれそうなのが…、とブラウはブツブツ、他の面々も船の修理の件は放置で考え込んだ。「ジョミーを、なんと呼ぶべきだろう?」と。
 なにしろ、それは急務だから。
 船の修理は「手が足りない」だけで、マニュアルなどは揃っている。長老やキャプテンが不在であっても、「どれを優先したらいいか」は、現場で判断可能なもの。
 「ワープドライブは後回しでいい」とか、「割れた窓ガラスの修理をするなら、居住区を優先すべきだろう」とか。
 しかし「ジョミー」にマニュアルは「無い」。
 ソルジャー候補など「いたこともない」し、誰も呼び方を知るわけがない。想定外の話だけれども、もう今日中に決めないことには、明日から困ることになる。
 「ソルジャー候補」のジョミーに向かって、若い者たちが、これまで通りに「ジョミー」と呼び捨てにしたのでは。…それが定着してしまったなら、もう遅い。
「…ソルジャー候補は、偉い立場ではあるのでしょうが…。でも…」
 ジョミーの場合は、中身が伴っていませんから、とエラがぼやいた。
 船に来た時から、ソルジャー・ブルーが語った通りに「凄いミュウ」だったら、皆の視線も違っただろう。「人類そのもの」と言われる代わりに、敬意をこめて見られた筈。
 ところがどっこい、ジョミーは「真逆」を行っていた。船では自分勝手に振舞い、キムと喧嘩までもしていた始末。挙句の果てに船を飛び出し、「ミュウだ」と判明したものの…。
「…ソルジャー・ブルーを半殺しにして、船に戻って来られてものう…」
 誰も尊敬などはせんわ、とゼルも思い切り渋い顔。「力だけあっても、駄目なんじゃ」と。曰く、火事場の馬鹿力。それだけを見ても、誰も評価はしないもの。
「…ジョミーの呼び名か…。明日から早速、使わなければならないのだが…」
 いったい何と呼べばいいのだ、とキャプテンも思い付かない「それ」。未来のソルジャーをどう呼ぶべきかは、本当にマニュアルが無いだけに。


(((ジョミーのことを、どう呼べば…)))
 誰もが額に手を当ててみたり、頭をコツンと叩いてみたり。そうすればアイデアが湧いて来るかも、と微かな期待をかけるようにして。
 けれども、全く「出て来ない」呼び名。何一つ案さえ出て来ないままに、無駄に時間が流れるばかり。合間に、ゼルが機関部に修理の指示を飛ばしていたり、キャプテンがブリッジと通信したりと、「思考が中断する」ことはあっても、結果は出ずに。
(((……きっと、ソルジャー・ブルーにも……)))
 お考えなどは何も無かったに違いない、と確信してゆく長老たち。それにキャプテン。
 生前、いやいや、今の「半殺し」になるより前から、ソルジャー・ブルーは「この日が来る」のを充分、承知。「ジョミー」を自分の後継者として据える日が、いつか来ることを。
(((それを承知でおられたからには…)))
 考えが「其処」に及んでいたなら、きっとマニュアルがあっただろう。「ソルジャー候補」を「どう呼ぶべき」か、船の仲間たちに「どう呼ばせる」か。
 なのに、誰一人、知らない「それ」。無かったマニュアル。
 こうなった以上は、懸命に知恵を絞るしかない。「ソルジャー候補」に相応しい呼び名、それはどういうものなのか。何と呼んだら、ソルジャー候補らしくなるのか。
(((…ソルジャー、せめてマニュアルを…!!!)))
 ご存命の間に、いや、お元気な間に作っておいて欲しかった…、と長老たちとキャプテンが揃って嘆き始めた所へ、前触れもなく飛んで来た思念。
『ジョミー様だ』
「「「ジョミー様!?」」」
 なんだそれは、と誰もが目が点。顔を見合わせ、「ジョミー様…?」とキョロキョロ見回す。今の思念は何処から来たかと、いったい誰が「ジョミー様」なのか、と怪訝そうに。
 そうしたら…。
『マニュアルが欲しい、と悩んでいたと思ったが…?』
 確かに、其処は、ぼくのミスだ…、と思念の主は謙虚に謝った。「少しばかり、ぼくが甘かったようだ」と、「ジョミーを舐めていた」という自分の甘さについて。
「「「ソルジャー・ブルー!!?」」」
 あなたですか、とビックリ仰天の長老たち。それにキャプテン。
 青の間まで「悩み」が届いたことはともかくとして、「ジョミー様」とは何事だろう、と。


 ソルジャー候補な「ジョミー」の呼び名で悩んでいた所へ、「ジョミー様」。どういう意味か、まるで全く分からない。それを寄越したブルーの意図が。
 けれどブルーは、「ジョミー様だ」と繰り返した。
『ソルジャー候補をどう呼ぶべきかは、この際、横に置いておく。だが、ジョミー様だ』
「ジョミー様と呼べと仰るか!?」
 あやつの何処が「ジョミー様」じゃ、とゼルが即座に噛み付いた。「様」づけで呼ぶほど偉くもないし、「ジョミー様」という器でもない、と。
「まったくだよ。どの辺がジョミー様なんだい? この船で「様」がつく人間なんて…」
 フィシスくらいしかいないじゃないか、とのブラウの指摘。長老の四人を除いた面子で「様」づけなのは、フィシスの他にはいない、との説は間違っていない。
『分かっている。ぼくも色々考えた末に、ジョミー様がいいと思ったんだが…』
「少しばかり気が早すぎます! ジョミーは覚醒したばかりです!」
 様づけで呼べば増長します、とハーレイが異を唱えたけれども、ブルーの思念は「逆だ」と答えた。ジョミーが目覚めたばかりだからこそ、「様づけ」の意味があるのだと。
『考えてもみたまえ。…船中の者が、ジョミー様と呼ぶようになれば、どうなる?』
「あやつが調子に乗るだけじゃ! 今、ハーレイが言った通りじゃ!」
 偉そうな面をするだけじゃわい、とゼルが反対、エラもヒルマンも二の足を踏んだ。ただでも生意気なのがジョミーで、そんな子供に「様」をつけるというのはどうも…、という考えで。
「ソルジャー、私は賛成しかねます。船の者たちも、ますますジョミーを嫌いそうです」
 今以上に…、というエラの言葉に、「だからこそだ」と返った思念。
『ジョミーを歓迎している者は皆無だ。その状態で、ジョミー様などと呼ばれたら…』
 ぼくがジョミーなら、いたたまれない気持ちになるだろう、とブルーは語った。
 船の者たちが「ジョミー嫌い」な心を丸出し、それでも「ジョミー様」と呼んだら。…頼れる者はジョミーの他にはいないのだから、と渋々、「ジョミー様」だったら。
『ぼくが、そういう立場に立たされたなら…。針の筵から逃げるためにも努力するだろう』
 立ち居振る舞いは仕方ないとしても、せめてサイオンの訓練くらいは…、とブルーの読みは鋭かった。「少しも尊敬されていない」のに、「ジョミー様」と口先だけの船。最悪すぎる船の居心地、それを少しでもマシにするべく、「ジョミー様」になろうとするだろう、と。
「そうかもねえ…。馬鹿にしながらジョミー様だと、やってられない感じだね」
 あたしなら半日で降参だよ、とブラウが納得、他の面子も賛同した。
 明日からソルジャー候補を呼ぶには、「ジョミー様」。いつか「ソルジャー」として立派に立つまで、そう呼ぶことにしておこう、と。


 かくして次の日、ジョミーは目を剥くことになる。船中の何処へ出掛けて行っても、其処で出会った者たちが揃って、「ジョミー様」と呼んだものだから。
 それこそ前に喧嘩をしたキム、そんな下っ端のヒラまでが。
 兄貴分だと頼りにしていた、リオまでが「ジョミー様」だから。
「あ、あのさあ…。リオ、その呼び方は何とかならない?」
『ジョミー様、何を仰るんです。…ジョミー様はジョミー様ですよ』
 次のソルジャーになられる御方ですから…、と馬鹿丁寧な思念を返したリオ。「こうお呼びするのが一番ですよ」と、「立派なソルジャーになって下さいね」と笑顔を向けて。
(ちょ、ちょっと…!!!)
 ぼくは、そんなに偉くないから…、と泣けど叫べど、消えてくれない「ジョミー様」。
 「ジョミー様」にされたジョミーが、死に物狂いで頑張ったことは言うまでもない。このとんでもない「ジョミー様」呼び、それから無事に逃げ出すためには、ソルジャーになる他に道は無いから。
 ブルーたちに「これなら」と認めて貰って、ソルジャーの称号を継がない限りは…。
(…ぼくはそういう器じゃないのに、ジョミー様…)
 それは嫌だ、とジョミーは今日も頑張り続ける。
 一日も早く「ソルジャー」を継いで、「ジョミー様」を脱却するために。
 なんとも「むずがゆい」ジョミー様の名、皆が小馬鹿にしながら呼ぶ名を、「ソルジャー」に変えて貰えるように…。

 

            呼び名が問題・了

※いや、ソルジャー候補だった間のジョミーを、一般のミュウは、どう呼んだんだろう、と。
 ただのジョミーじゃ失礼なのに、「ソルジャー候補」とも呼べないし…、と思っただけ。









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(……ぼくの誕生日……)
 この日にアルテメシアを離れたんだ、とシロエが眺める日付。
 E-1077の個室で、夜更けに一人きりで。
 誰にでもある、パーソナルデータ。
 それを表示させては、確認してゆく様々なこと。
 今では顔さえおぼろになった、両親の名前や誕生日など。
 「今夜は思い出せるだろうか」と、記憶の欠片を其処に求めて。
 機械が消してしまった過去。
 「捨てなさい」と機械が冷たく命じて、奪い去って行った子供時代の記憶。
 こうしてデータを見詰めてみても、どれも実感が伴わない。
 其処に画像は入っていなくて、両親の面差しも分からないから。
(…十四歳になった子供は…)
 その日に成人検査を受ける。
 「目覚めの日」と呼ばれる、大人社会への旅立ちの時。
 故郷のエネルゲイアで暮らした頃には、その日を心待ちにしていた。
 十四歳の誕生日を迎えなければ、「ネバーランドよりも素敵な地球」には行けない。
 父が「シロエなら、行けるかもしれないな」と、教えてくれた人類の聖地。
 其処に行くには、まずは成人検査から。
 立派な成績で通過したなら、エリートだけが行く教育ステーションへの道が開ける。
 そう、このE-1077のようなステーション。
(ステーションでも、いい成績を取り続けたら…)
 いつか地球にも行けるだろう、と努力を重ねた。
 学校のテストは常にトップで、その座を守り続けられるように。
 エネルゲイアは「技術関係のエキスパート」の育英都市だし、他の学問も自ら学んで。
(技術者になるなら、学校の勉強だけでいいけど…)
 エリートになるには、それでは足りない。
 幅広い知識を身に付けなければ、エリート候補生にはなれない。
 懸命に学んで、学び続けて、待ち続けた日。
 大人社会への旅立ちだという、「目覚めの日」。
 十四歳の誕生日が早く来ないかと、「そうすれば地球に、一歩近付く」と。


 今から思えば、愚かだった自分。
 「目覚めの日」が何かを知りもしないで、憧れて待っていたなんて。
 「早く誕生日が来ればいいのに」と、指折り数えていたなんて。
 目覚めの日を迎えてしまった子供は、過去の記憶を失くすのに。
 機械が無理やり、全てを奪ってしまうのに。
(……馬鹿だったよ……)
 自分から罠に飛び込むなんて、と後悔しても、もう遅い。
 「目覚めの日」も、故郷のエネルゲイアも、遥か彼方に消え去った後。
 失くしてしまった記憶ごと。
 あちこち穴が開いたみたいに、抜け落ちてしまった「過去」と一緒に。
(…誰も教えてくれなかったから…)
 「目覚めの日」と呼ばれるモノの正体。
 その日が来たなら何が起こるか、「セキ・レイ・シロエ」はどうなるのか。
(ぼくは、何一つ知らなくて…)
 ただ未来への希望に溢れて、「その日」の朝も家を出た。
 「行ってきます」と、両親に手を振って。
 宝物のピーターパンの本だけを持って、「未来」に向かって、颯爽と。
 そうして「歩き出した」自分が、どうなったのか。
 何処で機械に捕まったのか、それさえ今では思い出せない。
 「嫌だ!」と叫んで、逆らったことは覚えていても。
 子供時代の記憶を手放すまいと、無駄な足掻きをしていた記憶は消えなくても。
(…あれは何処だったんだろう?)
 テラズ・ナンバー・ファイブと呼ばれる、成人検査を行う機械。
 あの化け物と何処で出会ったか、まるで全く覚えてはいない。
 出会った後には、どうなったかも。
 抗い続けた記憶の後には、ぽっかりと穴が開いているから。
(…此処に来る宇宙船の中まで…)
 飛んでしまっている記憶。
 ただ呆然と暗い宇宙を見ているだけの、「此処への旅」の所まで。


 そんな具合に奪われた過去。
 希望に溢れて旅立つ筈が、逆様になってしまった日。
(……十四歳になる誕生日なんて……)
 いっそ来なければ良かったのに、と思いさえもする。
 きっと一生、「あの日」を忘れないだろう。
 機械に与えられた屈辱、過去の記憶を奪われた日を。
 そうなる前は、「誕生日」という日が好きだったのに。
 目覚めの日は憧れの「待ち遠しい日」で、それよりも前の誕生日は…。
(…目覚めの日に、少し近付ける日で…)
 あと何回、と数えて待った。
 何度「誕生日」を迎えたならば、「目覚めの日」が来てくれるだろうかと。
 早くその日が来ればいいのにと、未来への夢を抱き続けて。
(…それに誕生日は、パパとママがお祝いしてくれて…)
 ケーキや御馳走、それに誕生日のプレゼント。
 子供心にも嬉しかったし、毎年、心が躍ったもの。
 「パパとママは、何をくれるかな?」と、誕生日プレゼントのことを思って。
 どんな御馳走が食べられるのかと、「今年のケーキは、どんなのかな?」などと。
(……とても素敵な日だったのに……)
 最高の記念日だったというのに、それを「忌まわしい日」に変えられた。
 過去を奪ってしまう機械に、憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブに。
(…ぼくの人生で、最高の日を…)
 最悪な日に変えてしまうだなんて、と噛んだ唇。
 「あの日」を境に、何もかも失くしてしまったから。
 両親も故郷も、子供時代の思い出なども。
(……全部、失くして……)
 こんな所に連れて来られた、と尽きない悔い。
 こうなるのだと分かっていたなら、心待ちになどしなかったのに。
 「十四歳になる誕生日」を。
 誰もが瞳を輝かせて待つ、「目覚めの日」の名を持っている日を。


(……誕生日に、全部失くすだなんて……)
 あんまりすぎる、と今でも涙が零れる。
 そうなる前には、一年で一番、楽しみにしていた日だったのに。
 あと何日で誕生日が来るのか、毎年、毎年、待っていたのに。
(寝る前にも、カレンダーを眺めて…)
 誕生日までの残りの日数、それを数えていた自分。
 「もうすぐだよ」とか、「まだ一週間以上あるよね」とかいった調子で、御機嫌で。
(…本当に、楽しみだったのに…)
 クリスマスよりも、ニューイヤーよりも、ずっと眩しく輝いていた日。
 世界の全てが「自分のために」あるようで。
 目にするものが、どれも「シロエの誕生日」を祝ってくれているようで。
(…風も光も、誕生日のは特別だったんだよ…)
 いつもよりも、ずっと輝いてたよ、と懐かしんでいて、気が付いた。
 その「輝いていた」風や光を、「覚えていない」ということに。
 眩いほどに思えた「それら」に、実感さえも無いことに。
(……ぼくの誕生日は……)
 どういう季節だったっけ、と考えてみても、「知識」しか無い。
 エネルゲイアがあった「故郷の星」では、何の季節に当たるのか。
 雲海の星のアルテメシアは、その季節には、どんな風や光をエネルゲイアに運ぶのか。
(……嘘だ……)
 そんな…、と信じられない思い。
 人生で一番輝いていた日を、「残さず忘れてしまった」なんて。
 その日の故郷の風も光も、知識だけしか無いなんて。
(…目覚めの日だって、覚えていない…)
 家を出た後、どういう光に照らされて歩いて行ったのか。
 吹き抜けてゆく風が、何を運んでくれたのか。
(……風にも匂いがある筈なのに……)
 花の香りや、木々の葉の匂い。
 他にも色々な「季節の匂い」を、風は運んで来るものなのに。
 冬枯れの景色が広がる時さえ、肌を切るような冷たさを帯びて吹き付けるのに。


 けれど、「知識」しか無くなった「風」。
 頭上から照らす太陽の光も、「誕生日のもの」を覚えてはいない。
 「暑い夏には、眩しい」としか。
 「冬には日差しも弱くなる」とか、そういう理屈くらいしか。
(……ぼくの誕生日は、ちゃんとデータに残ってるのに……)
 自分でも日付を覚えているのに、消えてしまった「誕生日」。
 一年で一番眩しく感じた、「最高の日」の風は、どうだったのか。
 「最高の日」を祝ってくれた太陽、それはどういう光だったか。
(……日付しか覚えていないんじゃ……)
 無いのと変わらないじゃないか、と悔しくて頬を伝い落ちる涙。
 人生の節目が「誕生日」なのに、だから「目覚めの日」と重なったのに。
(…パパ、ママ、教えて……)
 どんな日だったの、と顔さえおぼろな両親に向かって、心の中で問いかける。
 「ぼくの誕生日は、どんな日だった?」と、「ぼくに教えて」と。
 記憶の中を探っていっても、もう季節さえも分からないから。
 「この日付ならば、こんな季節だ」と、「知識」が残っているだけだから…。

 

          忘れた誕生日・了

※アニテラで誕生日が分かっているのは、キースだけ。シロエが調べてましたしね。
 そのシロエにも「誕生日」はあった筈なのに、と考えていた所から出来たお話。









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(……過去か……)
 それに子供時代か、とキースが浮かべた自嘲の笑み。
 「私は、持ってはいなかったのだ」と、今更ながらに、ノアの自室で。
 グランド・マザー直々の任務で、E-1077を処分してから暫く経つ。
 遥か昔に、シロエが「見て来た」フロア001に入った日から。
 彼が「ゆりかご」だと言っていた場所、其処で目にしたサンプルたち。
 「キース」は「生まれたモノ」ではなかった。
 機械に「作り出されたモノ」。
 文字通りに「無から」生まれた生命、三十億もの塩基対を合成されて。
 「ヒト」なら誰もが持つDNA、その名の鎖を紡ぎ出されて。
 マザー・イライザが「作った」人形、「ヒト」であっても「ヒト」でないモノ。
 皮膚の下には、ちゃんと赤い血が流れていても。
 こうして思考している頭脳は、機械ではなくて脳味噌でも。
(…水槽にいた頃の、私の記憶は…)
 強化ガラスの水槽の中の「キース」を眺める、研究者たちだけ。
 あの頃に「キース」の名があったのか、ただの記号で呼ばれていたかは知らない。
 マザー・イライザが「それ」を語る前に、全てを破壊して来たから。
 フロア001のコントロールユニットはもちろん、E-1077の心臓部も。
(名前だったか、記号だったか、そんなことはどうでもいいのだがな…)
 過去を持たないことは確かだ、と零れる溜息。
 とうに夜更けで、側近のマツカも部屋にはいない。
 彼が淹れて行ったコーヒーも冷めて、一人、考え事をするだけ。
 昼間の出来事、それが頭をもたげたから。
 普段だったら気に留めないのに、今夜は何故か引っ掛かる。
 見舞いに出掛けたサムの病院、其処でいつもの笑顔だったサム。
 「赤のおじちゃん!」と嬉しそうに笑んで、「今日の報告」をしてくれて。
 何を食べたか、どれが一番美味しかったか。
 苦手な料理も食べたけれども、「ママのオムレツは美味しいよ!」と。


 「今日のサム」は、父に叱られたらしい。
 勉強しろ、と怖い顔をされて。
 母が作ってくれたオムレツ、それの他にも「これも食べろ」と強いられたりして。
(…今のサムは、私を覚えていないが…)
 「友達だったキース」を忘れて、「赤のおじちゃん」としか呼んではくれない。
 心だけが子供に戻ってしまったサムの世界に、「候補生時代」は残っていないから。
 E-1077も「キース」も、子供時代のサムとは無縁のものだから。
(そうやって、全て忘れてしまっていても…)
 サムは幸せに生きている。
 ノアには「いない」筈の両親、優しくも、また厳しくもあった養父母たちと。
 彼の心を覗いたならば、きっと、「ジョミー・マーキス・シン」もいることだろう。
 「ミュウの長になった」幼馴染ではなくて、「一緒に遊ぶ友達」として。
 かつて「キース」がそうだったように、サムが心を許す者として。
(…心だけなら、赤のおじちゃんの私にも…)
 許してくれてはいるのだろう。
 そうでなければ、サムは懐きはしないから。
 「自分だけの世界」に生きているサム、けれども彼の笑顔は消えない。
 幸せに満ちた子供時代に、心だけが戻っているものだから。
 彼の側には、養父母たちがいるのだから。
(…サムは、いつでも幸せそうで…)
 たまにションボリしている時には、「パパがうるさいんだ」と悲しげな顔。
 勉強せずに遊んでいたから、サッカーボールを取り上げられたとか、そういう思い出。
 子供時代のサムが経験したこと、それがそのまま蘇って。
(…そうやって、しょげている時があっても…)
 じきに元気を取り戻す。
 「赤のおじちゃん」に、あれこれ報告するために。
 病院で食べた筈の料理を、母が作った料理のつもりで披露して。
 オムレツなどは食べていない筈の日も、「ママのオムレツ、美味しかったよ!」と。
 苦手な野菜なども食べたと、「サムは偉いな」と褒めて貰いたくて。


 いつもは「そうか」と笑顔で頷き、しょげていたなら慰めもする。
 ジルベスター星系から戻った頃にも、そのように時を過ごしていた。
 十二年間、会わないままでいた「友達」に会いに出掛けては。
 「昔のサム」は、もういなくても。
 「キースを覚えていないサム」しか、病院で待ってはいてくれなくても。
 E-1077を処分した後も、何度も訪ねた。
 「自分の正体」が何かを知っても、「ヒトではないのだ」と思い知らされても。
 それでも自分は「人間」なのだし、怪我をしたなら血も流れる。
 頭の中を巡る考え、それも「機械のプログラム」ではない。
 何度も自分にそう言い聞かせて、「私はヒトだ」と思って来た。
 たとえ作られたモノであろうと、見た目も中身も「ヒトと同じだ」と。
 けれども、「持っていない」過去。
 今の自分が、何かの事故で「サムと同じ」になってしまったら、いったい何が残るのか。
 強化ガラスで出来た水槽、その中で育って来たのなら。
 成人検査が「全部、奪った」とシロエが怒りを露わにしていた、子供時代が無いのなら。
(…ただ、ぼんやりと虚ろな瞳をしているだけで…)
 たまに頭を掠めてゆくのは、フロア001にいた研究者たちの姿だろうか。
 水槽の向こうで「何か記録をつけていた」者や、水槽を軽く叩いていた者。
 白衣を纏った「彼ら」だけしか、残ってくれはしないのだろうか。
 「失う過去」が無かったら。
 最初から「過去を持たずに育って」、そのまま社会に出て来たのなら。
(……てっきり、忘れてしまったものだと……)
 長い間、そう信じていた。
 シロエが「フロア001」に行くまでは。
 其処で「ゆりかご」を見付けたシロエに、「忘れるな!」と言われるまでは。
(…フロア001に行けば、全て分かると…)
 そう思わされた、その名を聞いた日。
 シロエが保安部隊に連行されて、E-1077から「消えてしまった日」。
 次の日にはもう、誰もシロエの名を覚えてはいなかったから。
 「そんな子、知りませんけれど」と、同期生までが答えたほどに。


 あの忌まわしい出来事のせいで、疑い始めた自分の生まれ。
 「もしかしたら、自分は機械なのでは」と、「ヒトではない」可能性さえも考えて。
(…ある意味、ヒトではなかったのだが…)
 それでも「キース」を調べてみれば、「ヒトだ」と誰もが思うだろう。
 DNAまで解析しても、「そういうDNAを持ったヒトだ」と判断するだけ。
 似たような遺伝子データの持ち主、それが一人もいなくても。
(…SD体制が始まって以来、一度も使われなかった卵子などを使って…)
 人工子宮で育てたならば、「誰も知らないDNAの持ち主」が生まれることも有り得る。
 今から六百年以上もの昔に、凍結されたままの卵子や精子を使って子供を作ったら。
(私のデータを解析しても、ヒトだと答えが出るのだろうが…)
 しかし私は「ヒト」ではない、と自分自身が知っている。
 サムのように「戻ってゆける過去」を持たない、「子供時代」を知らない者。
 シロエが最後まで焦がれ続けた「生まれ故郷」さえ、持ってはいない。
 いくら「キース」のパーソナルデータに、それらが「きちんと」記されていても。
 父の名はフルで、母はヘルマで、出身地は育英都市のトロイナスでも。
(…フルという名の父もいなければ、母のヘルマもいないのだ…)
 その上、トロイナスなど知らない。
 任務でさえも訪れたことがない場所、「キース」が存在しなかった場所。
(……もしも、忘れてしまったのなら……)
 何かが違っていただろうか、と今夜は思わずにいられない。
 「成人検査のショックで忘れる」ことなら、たまにあるのだと聞いている。
 養父母も故郷も存在するのに、「思い出せなくなってしまう」例。
 自分もそうだと信じていたから、平気な顔をしていられた。
 シロエが何と詰って来ようが、「思い出せない」ことに不安を覚える夜があろうが。
(…忘れたのなら、それは仕方のないことで…)
 どうしようもない、と割り切っただけに、余計に「シロエ」が不思議だった。
 何故、あれほどに「過ぎ去った過去」にこだわるのか。
 もう会えはしない養父母たちを懐かしんでは、帰れない故郷にしがみつくのか。
 「忘れてしまえば、此処での暮らしも楽だろうに」と思いもした。
 システムに逆らい続けはしないで、「そういうものだ」と納得したなら楽なのに、とまで。


 けれど、今なら「分かる」気がする。
 今では「子供時代」を生きているサム、彼は幸せそうだから。
 傍から見たならサムの心は壊れていようと、彼の笑顔は本物だから。
(ああいった風に、笑えるのならば…)
 成人検査が「消してしまう」過去は、きっとシロエが叫んだように、大切なもの。
 「ヒト」が生きてゆく上で欠かせないもの、「無くてはならないもの」なのだろう。
 成人検査で「奪われた」後も、「その人間」を根幹から構成し続けて。
 「何もかも失くしてしまったサム」にも、「その時代だけ」が残ったように。
(…その過去さえも、持たない私は…)
 いったい何者なのだろうか、と「水槽の記憶」にゾクリとする。
  それが「キースを構成する」なら、「ヒトとは言えない」だろうから。
 サムのように「全てを失くした」時には、「空っぽのキース」が残るのだろう。
 「ママのオムレツは美味しいよ!」と、「過去に生きる」ことは出来なくて。
 ただ、ぼんやりと宙を見詰めて、研究者たちの幻だけが、時折掠めてゆくだけのことで…。

 

           持っていない過去・了

※キースには「過去の記憶が無い」わけですけど、それはプラスなのかマイナスなのか。
 もしもサムのような目に遭った時は、何一つ残らないだけに。…有り得ない話ですけどね。









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 青い地球を抱く神秘の女神。その身に地球を宿した少女。
 ブルーが何処からか船に連れて来た、幼く愛らしい顔立ちのフィシス。
 彼女はたちまち、シャングリラの皆の心を捉えた。誰もが魅せられ、触れたがった少女。
 小さな白い手、それを取るだけで流れ込んで来る地球の映像。青い水の星、宇宙に浮かんだ一粒の真珠。フィシスの母の記憶だという、美しい地球。
 その上、占いの名手でもあった。盲いた瞳を感じさせずに繰ってゆくカード、未来を告げるタロットカード。誰も彼女のようには出来ない、予知の力など持ってはいない。
 青い地球と、未来を読み取る力と。
 ブルーが「女神」と呼び始めずとも、フィシスは女神と呼ばれただろう。彼女は特別なのだから。神に祝福された存在、彼女自身が神そのものにも見えるのだから。
 ブルーがフィシスに「ぼくの女神」と呼び掛ける姿を、何人の仲間が目にしたことか。
 ミュウの長であり、比類なきサイオンを持つブルー。そのソルジャーが「ぼくの女神」と愛し、慈しみ、それは大切に扱うフィシス。
 けれども、ブルーは皆がフィシスの手に触れることを、けして咎めはしなかった。
 女神は誰にも等しく女神であるべきだから、と。
 フィシスが抱いている地球は神の恵み、誰もが恵みを受けられてこそ、と。



 皆が女神と認めるフィシスに、ブルーが与えた新しい衣装。
 シャングリラに来た時に纏っていた白、それとは違ったデザインと色の。
 他の子供たちが着ている制服とも、まるで違った。淡いピンクの丈の長いドレス、ふうわりと腕を包み込む袖。蝶の羽にも似た形の袖、フィシスの動きに合わせて揺れる。
 それから、細く金色に輝く鎖で頸に下げられた、ミュウの証の赤い石。誰の服にも付いている石。
 「どうして服に付いていないの?」と首を傾げて尋ねたフィシスに、ブルーは優しく、こう答えた。
 いつか素敵な大人になったら、この石を使って君に似合う首飾りを作ってあげる、と。
 その日が来るまではペンダントでいいと、こうして下げておくのがいいよ、と。
 大きくなったら、面差しも変わるものだから。
 幼い間に決めてしまうより、時を待ったら、より素晴らしく映える飾りが作れるだろうと。



 ブルーが大切に慈しむ少女。それは愛らしい、ミュウの生き神。
 フィシスをシャングリラに迎え入れて間もなく、船の仲間たちは、そう遠くない未来を思い描き始めた。誰からともなく、ごくごく自然に生まれて膨らんだ未来への希望。
 彼女が美しい大人の女性に成長したなら、素敵なことが起こるだろうと。きっと起こるに違いないから、もっと早く時が流れないものかと。
 それは閉ざされたシャングリラに住むミュウたちにとっては、別世界から来た夢のよう。船の外にはあるだろう世界、フィシスが運んだ新しい風。本でしか見たことが無かったもの。
 まるでお伽話の世界の出来事、一日も早くこの目で見たいと誰もが夢見る。
 夢は煌めき輝きを増して、自分もそれに携わりたいと願う者たちが一人、また一人と増えてゆく。
 そうして最初に夢を形にと、この手で紡ごうと思い立ったのはシャングリラの女性たちだった。
 今から紡いでも、けして早すぎはしないだろうと。
 充分な時がまだあるのだから、細かく細かく紡げるだろうと。



 女神を迎えたシャングリラ。
 雲の海の中で時は静かに、けれど確かに流れていって。
 穏やかな日々の中、頸から下げた赤い石をキラキラと揺らして、幼いフィシスはブルーと戯れ、無邪気に駆ける。開かぬ瞳を苦にもしないで、はしゃいで、靴も脱いでしまって。
 まだまだ小さく、ほんの子供な女神を捕えたブルーの腕。
 男性にしては華奢なブルーでも、ヒョイと持ち上げてしまえる羽根のように軽いフィシスの身体。
「捕まえた、フィシス」
 今日の鬼ごっこはこれでおしまい、とブルーはフィシスを高く抱き上げ、それからストンと床に下ろした。フィシスには此処が相応しいから、とブルーが選んだ天体の間。そこの床へと、磨き上げられた大理石の床へ。



 フィシスの弾んだ息が落ち着くのを待って、ブルーは穏やかな声音で問うた。小さな女神の前に屈んで、その顔を覗き込みながら。
「覚えているかい? ぼくが君を初めて捕まえた日から、明日で一年になるんだよ」
 君を捕まえて、みんなに君を紹介して。…あの日からもう、一年も経ってしまったなんてね。
「…そうだったわ。この船に来てから一年なのね…」
 とても早かったわ、ブルーに会ったのは昨日みたいな気がしているのに。
 …だけど、私は此処に来るまでのことを覚えてないから、長かったのかもしれないけれど…。
 だって、私には比べるものが何も無いんだもの。
 私の時間は一年前に始まったばかりで、その前は思い出せないんだもの…。
「大丈夫。…これから比べていけばいい。最初の一年、次の一年。この船で過ごした時の長さを」
 ぼくと一緒に長い時間を生きてくれるね、ぼくのフィシス。…ぼくの大切な、可愛らしい女神。
 どうか、ぼくにも女神の恵みを…、とブルーが取った小さな白い手。その甲に恭しく落とされた口付け、本物の女神にするかのように。
 フィシスは頬をほんのりと染めて、それは愛らしく頷いた。
「もちろんよ。ブルーと一緒に生きるのでしょ? このシャングリラで、ブルーと、ずっと」
 私はそのためにいるんだもの、と迷いもせずに返したフィシスを、ブルーは胸に抱き込んだ。こみ上げてくる愛しさと共に、幼いフィシスへの想いと共に。


 一年が満ちた、次の日のこと。
 いつものようにブルーを迎えて、お茶の時間を過ごしていたフィシス。まだ自分では淹れられないから、アルフレートが用意した紅茶を前にして。
 其処へ客の来訪をアルフレートが告げに来た。「お通ししてもよろしいでしょうか」と。
「お客様? …エラ様かしら、それともブラウ様?」
「いえ、それが…。フィシス様はさほど御存知ない方々かと」
 アルフレートが伝えた三人分の女性の名前。
 シャングリラで暮らす仲間たちの名は、ブルーから繰り返し聞かされているから、フィシスにも覚えはあるのだけれど。その顔までは思い浮かばない、流石に数が多すぎるから。
「…私に何の御用かしら…?」
 何処でお会いした方だったかしら、と不思議がるフィシスにブルーが微笑む。
「会ってあげれば直ぐに分かるよ。…アルフレート、通してあげたまえ」
「はい、ソルジャー」
 忠実な従者が案内して来た三人の女性は、些か緊張した面持ちで。
 暫く流れた沈黙の後に、真ん中の一人が思い切ったように口を開くと、差し出した包み。
「フィシス様、これを受け取って下さいますか? シャングリラの女性たちから、フィシス様への贈り物です」
 此処へいらしてから一年が経った記念にどうぞ、と手渡そうとする女性たちだけれど、フィシスにとっては思わぬ出来事。どうすれば、と途惑っていたら、ブルーが出した助け舟。
「遠慮しないで受け取るといいよ。シャングリラのみんなも喜ぶからね」
「…そうなの? 私、贈り物を貰えるようなことは一つもしていないのに…」
 いつもブルーと遊んでばかりよ、と困りながらも、フィシスは包みを受け取った。



 幼く小さなフィシスの手にも重さを感じさせない包み。まるで箱だけであるかのように。
 何なのだろう、と思うよりも前に、さっきの女性がおずおずとフィシスを見詰めて言った。
「…あの…。開けてみて頂けますか? フィシス様のお気に召すといいのですけれど…」
 お願いします、と願う彼女と、フィシスを見守るブルーの笑み。それは優しく、フィシスを促す。せっかくの贈り物なのだから、と。
「ほら、フィシス。開けてごらん」
 みんなを待たせちゃいけないよ。もう、それは君の物なんだから。
「……何かしら?」
 開かない瞳は包みを透して中を見ることも出来るのだけれど、それはいけないことだから。包んでくれた女性たちの気持ちを無にしてしまうと知っているから、そっと解いたリボン。くるんである紙も丁寧に剥がし、箱を開けてみて驚いた。
 幾重にも折り重なって畳まれた、真っ白な薄い、薄い生地。重さが無いのは糸だったから。生地の向こうが透けて見えるレース、それはさながら糸の宝石。
 繊細に編まれ、織り上げられた細工。蜘蛛の糸のように細い糸を編み、可憐な花の模様と枝葉を幾つも幾つも浮かび上がらせた…。



 どれほどの手間がかかったのだろうか、これだけの糸を編み上げるには。
 模様を織り込み、これほどに美しく、幅も長さもありそうなレースを作り上げるには。
 幼いフィシスには想像もつかない、その作業。糸を編んで生地に仕上げる仕事。どうして自分がそれを貰えるのか、理由も分からず、糸の細工を手にしていたら。
「この船の女性たちが力を合わせて作りました。レースを編むのは初めてでしたが、ライブラリーで資料を集めて、道具を揃えて、模様を決めて」
 何人もが何度も交替しながら編み上げました、と語った女性たちの顔に浮かんだ誇らしさ。一大事業をやり遂げたのだ、と満足そうな彼女たち。
 そして、彼女たちはこう付け加えた。
「フィシス様はまだ幼くていらっしゃいますから、今からドレスを御用意することは出来ません。ですから、皆でベールにしようと…」
 いつかソルジャーと御結婚なさる時にお使い下さい、このベールを。
「……結婚? 私が、ブルーと…?」
 そうだったの? と盲いた瞳で見上げたフィシスに、ブルーの笑みが向けられた。
「らしいね、フィシス。…ぼくと結婚してくれるかい?」
 君が大きくなったなら。この真っ白なベールを被るのに、相応しい女性になったなら。
「…そ、それは…。……喜んで……」
 だって私はブルーのものよ、と頬を真っ赤に染めたフィシスに、ブルーは、それは嬉しそうに。
「ありがとう、フィシス。…ぼくの女神」
 ぼくも楽しみに待っているから、と染まった頬に贈られた口付け。これは約束、と。
 他ならぬソルジャーの求婚とあって、女性たちから上がった歓声。彼女たちはベールに織り込まれた模様の意味を説明してから、天体の間を辞して帰って行った。
 糸で織られた花の模様はギンバイカ。美と愛の女神に捧げられた花、愛と不死と純潔の象徴の花。
 遠い昔から結婚式の花飾りや花嫁のブーケに使われた花だと、幸せな結婚を願って編んだ、と。



 フィシスがブルーの花嫁になる日をシャングリラ中の者が夢見て、待ち望んだ。婚礼の良き日が訪れるのを。
 一年近くも交替で絶えず作業を続けて、糸の宝石を編み上げた女性たちも。フィシスの愛らしさと地球に魅了された男性たちも、フィシスとさほど年の変わらない子供たちも。
 ミュウの長として皆を導き続けて来たソルジャーと、地球をその身に抱いた女神の結婚式。
 それはシャングリラ始まって以来の慶事なのだし、盛大な祝いの日となるだろう。
 紫のマントを着けたブルーがフィシスのベールをそっと持ち上げ、誓いの口付けを贈るだろう日。
 お伽話の王子と姫君さながらの婚礼、どんな画家にも描けないくらいに美しいカップルが誕生する日。きっと宇宙の何処を探しても、この二人よりも気高いカップルは誰にも見付け出せない。
 ブルーは皆の誇りだったし、フィシスは女神。
 今は幼くとも、その面差しには美の蕾が既に宿っていたから。育つにつれて花開くことは、誰の目にも容易に見て取れたから。
 ソルジャーの伴侶となるのに相応しい女神、似合いのフィシス。いつかブルーと釣り合う背丈に、年頃に成長したならば。
 フィシスが花嫁のベールを被る日、婚礼のためのドレスを纏ってブルーの許へと歩んでゆく日。
 シャングリラには祝福の声が溢れて、祝いの花飾りが船を彩るだろう。
 他にも色々、出来る限りの祝賀の行事。ライブラリーの資料でしか誰も見たことなどない、遠く遥かな昔の地球の王族の婚礼、ロイヤル・ウェディングと呼ばれた婚礼。
 国を挙げての結婚式をシャングリラの中で再現しよう、と意気込む者も多かった。この船の中で出来ることは、と書き抜いているような者たちも。
 皆がその日を夢見た婚礼、ベールの用意はとうに整い、被るだけになっていたのだけれど…。



「…出番が無いままでしたわね…」
 せっかく頂きましたのに、とフィシスがホウとついた溜息。その白い手に糸の宝石。
 もう何回目になるのだろうか、ブルーと二人でこの記念日を迎えるのは。ミュウの箱舟に初めて来た日を、シャングリラに迎え入れられた日を。
 あの日から長い歳月が流れ、淡いピンク色だった幼い日のドレスはもう過去のもの。今のフィシスが身に纏う色は、ブルーのマントと対をなすような紫がかった桃色になった。デザインもそれに似合いのものに。気品溢れる女性らしいものに、その美を引き立たせるものに。
 頸に下げていたペンダントの石も、今は華やかな細工の首飾りの中。細い首筋に輝く金色、その中に赤い色の石。ブルーの瞳を思わせる石、この船の皆が付けている石。
 ブルーの隣に並んで立つには、対となるには相応しい女神に成長を遂げたフィシスだけれど。それは美しく育ったけれども、あの遠い日に交わされた約束は今も果たされないまま。
 フィシスの華奢な白い手の中、花嫁のベールはあるというのに。
 細い細い糸で編まれたレースは、糸の宝石は、花嫁を飾る日を待っているのに。



 ブルーはフィシスに惜しみなく口付けを贈るけれども、抱き締めることもよくあるけれど。
 贈られるキスは頬に、額に、白い手の甲に。
 それが全てで、数え切れないほどに贈られた口付け、その中に一つも無かった口付け。唇へのキスは未だに贈られないまま、恋人同士のキスは無いまま。
 結婚式の日、カップルが交わす誓いのキスにも似た口付けは。唇を重ね合わせるキスは。
 そうなった理由は、仲違いではなくて、自然のなりゆき。
 結婚の約束を交わしたあの日は、二人とも気付いていなかっただけ。
 お伽話の王子と姫君のように、その日だけを夢に描いていたから。互いに惹かれ合う対であるなら、いつか結婚するものなのだと、心の底から信じていたから。
 だからブルーはフィシスに誓って、フィシスもそれに応えたけれど。その日が来るのを二人とも夢に見たのだけれど。
 こうして釣り合う姿になって初めて、お互い、ようやく気が付いたこと。
 ブルーには身体ごと、肉体ごと誰かの愛を求める感情が無くて、欲しいものは内側の魂だけ。魂を、心を宿しているから、その身の持ち主を愛するだけ。身体は魂の器だから。
 フィシスの方でもそれは同じで、ただ心だけが欲しかったから。愛してやまない心を宿したブルーが側にいてくれれば良かったから。
 それ以上を望みはしなかった。ブルーも、対となるべきフィシスも。
 互いの心が常に通い合い、深く結ばれていればそれで充分。口付けなどを交わさなくても、手と手を絡めることが出来れば、充分に心は満たされたから。
 互いが互いのためにいるのだと、心はいつでも繋がっていると、二人が共に抱いた想い。
 結婚式などもう要らなかった、誓いのキスを交わすことさえ。
 もう充分に幸せなのだし、互いの身体を重ねたいとは微塵も思いはしなかったから…。



 遠い昔に、幼かったフィシスがシャングリラに迎え入れられた記念日。
 いつかはその日に華燭の典をと、ソルジャーとミュウの女神の結婚式を、とシャングリラの皆が待っていたのに。ソルジャーの伴侶になって欲しいと誰もが望んでいたというのに、果たせなかった不甲斐ない女神。
 今年もその日が巡って来たのに、ベールの出番は来ないまま。花嫁を飾るベールの出番は。
 結婚式など要らない二人だったのだ、と皆は分かってくれているけれど、今では誰も結婚式をと口にすることも無かったけれど。
 それと知れる前に、皆が婚礼を夢見ていた日に貰ってしまった、心がこもった贈り物。
 花嫁になる日に使って欲しいと、ドレスを作るにはまだ早いから、と。
 気が遠くなるほどの時間と手間とをかけて、編み上げられた繊細な糸の宝石。シャングリラ中の女性たちが集い、交替で編んだというレース。
 幸せな結婚を祈るギンバイカ、美と愛の女神に捧げられた花。それを織り込み、思いをこめて編まれたベールをどうしたらいいというのだろう。
 いつまで待とうと、どれほどの時が流れ去ろうと、フィシスがベールを被る日は来ない。
 結婚式の日が来ない以上は、花嫁のベールの出番も来ない。
 このまま大切に仕舞い込まれて、たまにこうして手に取られるだけ。
 年に一度だけ、記念日が巡ってくる度に。
 結婚式はこの日にしようと、シャングリラの皆が夢を描いていた日。
 遥かな昔にブルーと結婚の約束を交わしたあの日。
 同じ日付が巡ってくる度、記念日の度に、溜息をつくしかないベール。
 こうなると思っていなかった頃は、心が躍ったものなのに。
 いつになったら被れるだろうと、ブルーの花嫁になれるだろうと。早く結婚式の日が来てくれないかと、何年待てばいいのだろうと。



 結婚式の日を夢見た少女は、もういない。
 それは叶わないと知った女神がいるだけ、花嫁になる日は来ない女神が。
 皆の心がこもったベールを、糸の宝石を無駄にしてしまった、どうしようもなく不甲斐ない女神。
 こんな筈ではなかったのに。この贈り物は晴れの日を迎える筈だったのに。
 どうしてこうなってしまったろうか、と溜息を零して眺めるしかない糸の宝石。
 細い細い糸を傷つけないよう、爪で引っかけてしまわないよう、そっと指先で撫でるだけ。
 今年もこの日が巡って来た、とレースに触れていたフィシスの白い手の上、そっと優しく重ねられた手。いつもはめているソルジャーの手袋、それを外したブルーの右手。
 ハッと驚いて顔を上げれば、ブルーの左手にも手袋は無くて。



「……出番ならいつか、あると思うよ」
 耳に届いたブルーの言葉。それが意味する所は一つ。
 花嫁のベールの出番があるのは結婚式だけ、婚礼の日だけ。ブルーはそれを望むのだろうか、いつか出番があると言うなら。
 その日は来ないと思っていたのに、結婚など自分は望まないのに。
 思わぬ言葉に固くなった身体、息をすることを忘れた唇。初めてブルーを怖いと思った、この人は何を望むのかと。いったい自分をどうしたいのかと、心だけでは足りないのかと。
 けれど、ブルーは「そうじゃない」と穏やかな笑みを浮かべた。そうじゃないよ、と。
「君とぼくとで使うんじゃない。…まだ分からないけれど、遠い未来に」
 きっと出番はあるだろうから、とブルーも糸の宝石を撫でる。手袋をはめていない手で。
「…ブルー…?」
 何を、と不安がフィシスの心を掠めてゆく。遠い未来という言葉。
 ブルーの命は長くはない。遠い未来までゆけるほどには。
 まだ当分は大丈夫だろうと、生きていられるとブルー自身が口にしているし、タロットカードもそうだと告げてはいるけれど…。
 けれど、その日は遠くはない。何十年も残ってはいないだろう寿命、いつか尽きるだろう命。
 分かりもしない遠い未来を生きてその目で見られるほどには、ブルーの時間は残されていない。
 そんな未来を口にされても、恐ろしくて身体が竦み上がるだけ。
 愛おしい人が、対になる人が、ブルーがいないだろう未来。
 自分は生きてゆけるのだろうか、ブルーがいなくなった世界で。
 たった一人で置いてゆかれて、それでも生きてゆけるのだろうか…。



「…心配しないで。ぼくのフィシス」
 まだまだ先のことなのだから、とブルーは首を左右に振った。ずっと先だよ、と。
 そう簡単に死にはしないし、まだまだ君と生きてゆくから、と。
「でも、ブルー…」
「ぼくの寿命は長くはない。遠い未来まで行けはしないと分かるけれども、まだ死なないよ」
 まだまだ君の側にいたいからね、と微笑んだブルー。まだ死ねない、と。
「そうは思っても、いつかは時が来るだろうから…。このベールの出番が来そうな時には、ぼくはこの世にいないだろう。でもね、フィシス…」
 ぼくの思いは生き続ける。それを忘れないで、ぼくの女神。
 君の中にも、これから先の若い世代にも、ぼくの思いはずっと継がれてゆくだろうから。
 このベールにこめられた思いのように、とブルーの指先が糸の宝石の上を辿った。
 細い細い糸を編んで織られたギンバイカの花。幸せな結婚を祈る模様を。
 ギンバイカが幾つも咲いているねと、これを被る花嫁はきっと幸せになれるのだろうと。



「ぼくたちはこれを使わなかったけれど…。結婚式を挙げはしなかったけれど…」
 次のソルジャーは、誰か素敵な人と恋をして結婚するかもしれないだろう?
 それとも、そのまた次のソルジャーが結婚式を挙げるのかな?
 そういう時には、このベールが役に立つんだよ。長く受け継がれて来たベールとしてね。
 君のベールの出番が来るんだ、きっといつかは。
「…次のソルジャー…。それに、その次のソルジャーだなんて…。その頃には今よりもずっと古いベールになっていますわ、そんな古いものを使うのですか?」
 新しい方がいいでしょうに、とフィシスは首を傾げてしまった。
 結婚式は華やかで晴れやかなもの。何もかも新しくするのが似合いだろうに、花嫁を飾るためのベールに古いベールを使うだなんて、と。
「ライブラリーで調べたんだよ、ベールのことを。…花嫁のベールはどういうものかを」
 この贈り物を、君はずいぶん気にしているから…。無駄にしてしまったと自分を責めているから、他に何か使い道が無いだろうかと思ってね。
 ベールのままで置いておく代わりに、結婚式が済んだら他の何かに仕立てるだとか。
 そうしたら、見付かったんだよ、フィシス。
 ベールはベールのままでいいんだ、このままの形で残しておけば。それが正しい使い方だよ。
 遠い遠い昔、ずっと昔に、人間が地球で暮らしていた頃。
 ヨーロッパと呼ばれた場所があってね、其処では結婚式のベールは受け継いでゆくものだった。親から子供へ、子供から孫へ。
 前の花嫁と同じベールを被ったんだよ、遠い昔の花嫁たちは。



 糸で編まれたものだったから、何百年もは流石に使えなかっただろうけれど、とブルーは語る。
 それでもベールが傷まない限り、大切に継がれていったのだろうと。
「ぼくたちの世界ではピンと来ないけれど、母親から子供へ、そのまた子供へ…。そうやって継いでゆくのがベールで、古いベールには祈りがこもっていたんだよ」
 母親や、もっと前の人やら、幸せな結婚をした花嫁たち。その人たちのように幸せに、と。
 今の世界は血の繋がった家族はいないし、次のソルジャーでかまわないだろう。君のベールを被る花嫁を迎える人は。…そのまた次のソルジャーでもね。
 それにね、古い物を使うことにも意味があったよ、結婚式では。
 同じヨーロッパにあった言葉で、サムシング・フォーというのがね。
「…サムシング……フォー?」
「そのままの意味なら、何かを四つ。…花嫁が幸せになるための言い伝えだよ」
 おまじないと言った方がいいのかな?
 結婚式には、新しい物を一つ、古い物を一つ。借りた物を一つと、青い物を一つ。そういう何かを着けた花嫁は幸せになれるらしいよ、それがサムシング・フォーなんだ。
 受け継がれてきたベールを被れば、古い物を一つ、身に着けたことになるだろう?
 君のベールは二重の意味で、いい贈り物になるんだよ。
 幸せを願って受け継がれてゆくベールな上に、サムシング・フォーの古い物を一つ。花嫁が幸せになれますように、と祈るおまじないが二重になっているんだから。



 だから、このベールは大切に残しておくのがいいよ、とブルーの指がなぞるギンバイカの模様。
 いつか使える時が来るまで、これを被る花嫁が現れるまで。
「…ぼくはこの目で見られないけれど、君が被せてあげるといい。その幸せな花嫁にね」
 そして、ぼくからの言葉を伝えて欲しい。
 次のソルジャー……。なんという名前か分からないけれど、その人といつまでも幸せに、と。
 ソルジャー・ブルーがそう言っていたと、伝えるようにと言われたから、と。
 そうしてくれれば、このベールはきちんと継がれるんだよ、次の世代へ。…ぼくの思いも。
 このベールは無駄になりはしないから、君は心配しなくてもいい。
 いつか素敵な贈り物になるのに決まっているから、大切に取っておきさえすれば。
「ええ、ブルー…。私のために調べて下さったのですね、このベールのこと…」
 そんな風に使える物だったなんて、夢にも思いませんでした。
 すっかり無駄になってしまったと、これを見る度に申し訳なく思うばかりで…。
 けれど、心が軽くなりましたわ、いつか役立つ日が来るのなら。
 このまま仕舞っておくのではなくて、被せてあげられる人が現れるのなら…。



 良かった、とフィシスがついた安堵の吐息。
 遠い日に贈られた糸の宝石、繊細な糸を編んだベールは次の世代に受け継がれるのだ、と。
 ブルーの隣で被る筈だった、花嫁のベール。被らないままになってしまったベール。
 その使い方を、それは素晴らしい使い道を調べて来てくれたブルー。いつも自分を気遣ってくれる、温かく心優しいブルー。
 結婚式は挙げないままだったけれど、花嫁になりはしなかったけれど。
 花嫁になるより、伴侶になるより、ずっとブルーに近い所で長い年月を過ごして来た。
 そう思うから、手袋をしていないブルーの手を取り、そっと握った。
 この人の側にずっといたいと、いつまでも共に生きてゆきたいと。
「ブルー…。あなたが仰るのなら、このベールは大切に取っておきますわ、これからも」
 あなたの思いを、あなたと過ごした幸せな日々を、遠い未来の花嫁たちに届けましょう。ベールを被せてあげる時には、あなたからの言葉を必ず添えて。
 でも、ブルー…。今はまだ、あなたの言葉は誰にも伝えはしませんわよ?
 伝える相手がいないのですから、とフィシスは胸を過った不安を消そうとブルーの手を強く握り締めた。華奢なその手で、離すまいとして。
 いつかは逝ってしまうだろう人、自分を置いてゆくのだろう人。
 その日はまだまだ来ないのだからと、今は二人でいるのだからと。



「あまり意地悪を仰らないで。…まだ見えもしない未来のことなど」
 伝えてくれだなんて、そんな日はまだ来ませんわ。ずっと遠くで、まだまだ先で…。
 なのに今からそう仰られると、考えただけで恐ろしくなってしまいます。
 あなたがいらっしゃらないだなんて、私が一人で残されるなんて…。
 それを思うと、あなたと一緒に逝ってしまいたくなりますもの。この世界に私一人だなんて…。
「いけないよ、フィシス。ぼくと一緒に来てはいけない、君はミュウの女神なのだから」
 それに…。君が語ってくれなかったら、ぼくはすっかり忘れ去られてしまいそうだ。年寄りのことなど、若者はすぐに忘れるものだよ、彼らには未来があるのだから。
 生きてくれると約束して、とブルーはフィシスの白い手を強く握り返した。君は生きて、と。
「ぼくの思いを、ぼくが生きた証を伝えて欲しい。…遠い未来に、この花嫁のベールと一緒に」
 …シャングリラの皆はソルジャーとしてのぼくしか、きっと覚えていないだろうから…。そうでないぼくを。ぼくの思いを。君を愛して、君と共に生きたぼくの記憶を…。
 花嫁に被せてあげる時に。
 ぼくの言葉を伝えてくれる時に、ぼくがどんなに幸せに生きていたのかを。
 君と一緒に生きていた日々は、とても幸せなものだったと…。



 このベールはそれを託すためには、きっと何よりも相応しいから、とブルーが撫でる糸の宝石。
 幸せな結婚を祈るギンバイカの模様の、繊細なレースの花嫁のベール。
「そうですわね…。あなたと結婚式を挙げるために、と頂いたベールですものね」
 結婚式を挙げるつもりでした、と必ず伝えておきますわ。
 挙げる必要が無いと思ったから、式は挙げずにいましたけれど、と。
「すまない、フィシス。…結婚しようと約束したのに、破ってしまって」
 ウェディングドレスを作らせることも、着せてあげることも出来ないままで…。
 きっと君には似合うだろうに、とブルーが持ち上げた糸の宝石。手袋をはめてはいない両手で、そうっと広げてフィシスの頭へ。金色の髪が輝く上へとそれを被せた、そう、まるで花嫁のベールのように。
「…ブルー…?」
 何を、とフィシスは途惑ったけれど、ブルーが「似合うよ」と浮かべた微笑み。
「結婚式は出来なかったけど…。一度も使っていないベールを次の世代に譲るというのも、変な話だと思わないかい?」
 …綺麗だよ、フィシス。思った通りにとても素敵だ……。
 それだけで君は花嫁に見える、とブルーが顔を綻ばせたフィシスの立ち姿。床まで届いた髪を覆ってまだ余りある糸の宝石。遠い日に編まれた花嫁のベール。
 ブルーはフィシスをうっとりと眺め、やがて両腕で強く抱き寄せた。ギンバイカの模様を織り出した純白の花嫁のベールごと。使われることがついに無かった、糸の宝石ごと。
 そうしてそのまま溶け合ったように、二人は長いこと動かなかった。
 命の通った彫像のように、言葉を交わすことさえせずに。
 ただ心だけを通い合わせて、互いの想いを通い合わせて、抱き合ったままで…。



 ミュウの長と、地球をその身に抱く女神の心触れ合わせるだけの恋。
 魂だけがあれば充分だった恋、身体は要らなかった恋。
 お伽話の王子と姫君、それほどに似合いの対なのに。互いが互いのためにいるのに。
 これ以上の愛は、恋は無いだろうに、結婚式すらも挙げなかった二人。
 側にいられればそれだけでいいと、その上に何を望むのかと。
 誰よりも深く愛し続けて、恋をし続けた二人の想いを、真実の愛を知るのは糸の宝石だけ。
 たった一度だけフィシスを飾った、ブルーが被せた糸の宝石。
 遠い未来まできっと受け継いでゆかれるのだろう、ギンバイカの模様の花嫁のベール。
 それに秘められた二人の想いに気付く花嫁を迎える者は、次のソルジャーか、そのまた次か。



 フィシスがベールを被せる花嫁、結婚式を挙げる花嫁。
 その時にはもう、ブルーは遠くへ逝ってしまっているのだけれど。
 フィシスを残してゆくのだけれども、その日まではまだ遠いのだから。
 まだまだ二人の恋は続くから、遠い未来へと祝福を贈る。
 遥かな未来に生きる花嫁に、その晴れの日に。
 ソルジャー・ブルーと、彼のためにだけ生きるフィシスから思いをこめて。
 ……どうか、いつまでも幸せに。
 幸いに満ちた道であるよう、幸せに生きてゆけるよう。
 自分たちのためにと贈られたベールを受け継いでゆく、まだ見ぬミュウの花嫁たちよ。
 彼女たちが愛する伴侶と生きる未来が幸多きものであるように。
 フィシスが贈られた糸の宝石、それを次へと、またその次へと幸せに受け継いでゆけるよう。
 自分たちが今、こうして幸せであるように。
 ミュウの長と地球を抱く女神が、幸せに満ちているように……。




         糸の宝石・了

※元々は「ブルフィシ好き」だったんです、というお話。ROM専だった時代のこと。
 今じゃ立派にハレブルな人で、誰も分かってくれないと思う…。







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(……パパ、ママ……)
 もう顔さえも、はっきり思い出せやしない、とシロエが噛んだ唇。
 一日の講義が終わった後で、E-1077の個室で。
 エリートを育てる最高学府と、名高い此処。
 目覚めの日を控えた子供たちの憧れ、其処に自分は来られたけれど…。
(…その代わりに…)
 何もかも忘れて、失くしてしまった。
 育ててくれた両親も家も、懐かしい故郷の風や光も。
 成人検査で奪われた記憶。
 「捨てなさい」と、過去の記憶を消し去った機械。
 子供時代は消えてしまって、残ったものはピーターパンの本だけだった。
 たった一つだけ、故郷と「自分」を繋いでくれる宝物。
 残念なことに、「いつ貰ったか」は、どうしても思い出せないけれど。
 両親が贈ってくれた日のことは、何も覚えていないけれども。
(…それと同じで…)
 宝物の本をくれた両親、その二人の顔も、おぼろなもの。
 「こんな風だった」と記憶はあっても、正確には思い出せなくて。
(…まるで焼け焦げた写真みたいに…)
 あちこちが欠けた「両親の顔」。
 「パパの姿は、こんなのだった」と、大きな身体を覚えてはいても。
 キッチンに立つ母の姿を思い出せても、その顔までは出て来ない。
 どれほどに努力してみても。
 なんとかヒントを掴み取ろうと、懸命に記憶の糸を手繰っても。
(……マザー・イライザは、ママに似ていて……)
 最初は「ママなの?」と思ったほどだし、参考になるのは「それ」くらい。
 憎らしい機械の化身とはいえ、貴重な「マザー・イライザ」の姿。
 「あれがママだ」と、描きとめる日もあるほどだから。
 さほど上手いとは言えない腕でも、似顔絵を描いてみたりするから。
 「忘れてしまった」母の姿を描きたくて。
 これが母だと思える似姿、それを自分で描けたなら、と。


 そうして忘れまいとするのに、日ごとに薄れてゆく記憶。
 このステーションに来て間もない頃より、「欠けた部分」は大きくなった。
 E-1077に着いて直ぐなら、両親の顔は「ただ、ぼやけていた」だけだったのに。
 全体に靄がかかったかのように、定かではなかったというだけのこと。
 それが今では、焼け焦げた写真を見るかのよう。
 「パパの顔は…」と思い浮かべても、欠けた部分が幾つもあって。
 大好きだった母の顔さえ、幾つもの穴が開いていて。
(…パパとママだと、どっちが、ぼくに似てたんだろう…?)
 何の気なしに思ったこと。
 SD体制が敷かれた時代は、両親の血など、子供は継いではいないけれども。
 人工子宮から生まれた子供を、機械が養子縁組するだけ。
 養父母の資質や、子供の資質を考慮して。
 「この子は、此処だ」と送り届けたり、養父母の注文を聞いたりもして。
(…次の子供は、女の子がいいとか…)
 最初は男の子を育てたいとか、そういった希望も通るらしい。
 機械が許可を出した場合は、注文通りの子供が届く。
 目の色も髪も、肌の色までも、養父母が「欲しい」と思った通りの子が。
(…養父母になる人が、希望したなら…)
 絵に描いたような「親子」も出来る。
 遠い昔は、「息子は母親の顔立ちを継いで、娘は父親に似る」とも言われた。
 その時代を再現したかのように、母親そっくりの「息子」とか。
 父親と面差しの似た「娘」だとか、そういう例もあるだろう。
 養父母に連れられた子が歩いていたなら、「まあ、そっくり!」と皆が褒めるとか。
 「お父さんの顔に似てるわね」だとか、「お母さんに、なんて似てるのかしら」だとか。
 機械が子供を「配る」時代に、血縁などは有り得ないのに。
 本当の意味での「母親似の息子」や、「父親似の娘」は、いはしないのに。
 けれど、「両親」が揃っているなら、やはり「どちらか」には似るのだろう。
 「母親に似た息子」ではなくて、「父親そっくりの息子」でも。
 「父の面差しに似た娘」はいなくて、「母親に顔立ちが似た娘」でも。


 自分の場合は、いったい、どちらだったのか。
 「セキ・レイ・シロエ」は、母親似だったか、はたまた父に似ていたのか。
(…パパは、身体が大きかったから…)
 小柄な自分は、母親の方に似ていたろうか。
 「男の子は、母親に似る」という昔の言葉通りに、母の面差しを持っていたろうか。
 母の血を継いだわけではなくても、傍から見たなら「似ていた」とか。
 輪郭が母親そっくりだとか、目鼻立ちが似ているだとか。
(…パパの鼻とは似ていないよね…)
 まるで焼け焦げた写真みたいに、あちこちが欠けた記憶でも分かる。
 父の鼻は「自分と似てはいない」と。
 それよりは母の方なのだろうと、「ママの鼻の方が、ぼくに似てる」と照らし合わせて。
(…輪郭は、パパが太ってなければ…)
 あるいは父に似たのだろうか。
 父が太ってしまう前なら、「シロエのような」輪郭を持っていたかもしれない。
 髪の色だって、あんな風に白くなる前だったならば、黒かったろうか。
 母の髪の色は「黒」ではない。
 「黒い色の髪」を持った子供を、両親が希望したのなら…。
(…若かった頃のパパは、黒髪…)
 その可能性は充分にある。
 優しかった父なら、「自分に似た子」が欲しいと注文しそうだから。
 母にしたって、父の意見に大いに賛成しそうだから。
(鼻の形はママに似ていて、髪の色がパパで…)
 輪郭は、どちらか、よく分からない。
 あの父が「若くて痩せていた頃」の写真なんかは、知らないから。
 もしも見たことがあるにしたって、記憶は機械に消されたから。
(…肌の色は、パパもママも、おんなじ…)
 自分と同じ肌の色だし、其処は「本物の親子」のよう。
 これで目鼻立ちが「そっくり」だったら、「シロエ」は実の子にだって見える。
 「母親に似た息子」でなくても、「父親に似た息子」でも。


(…ぼくは、どっちに似てたんだろう…)
 今では記憶も定かではない、故郷で暮らしていた頃は。
 両親と何処かへ出掛けた時には、他の人の目には、どう映ったろうか。
 「ただの養子だ」と見られただけか、「親に似ている」と思われたのか。
 父親にしても、母親にしても、まるで血縁があるかのように。
(…そうだったなら…)
 きっと「自分の姿」の中に、両親のヒントもあるのだろう。
 鏡に向かって眺めていたなら、「これがママだ」と思える部分が見付かるとか。
 「パパそっくりだ」と懐かしくなる何か、それが自分の顔にあるとか。
(…口元なんかは…)
 表情によって変わるものだし、分かりやすいのは瞳だろうか。
 とても優しく微笑む時も、驚きで丸く見開かれた時も、瞳そのものは変わらない。
 「目の大きさ」は変わって見えても、「瞳の色」は。
 持って生まれた「目の色」だけは、どう頑張っても変えられはしない。
 色のついたレンズを、上から被せない限り。
 青い瞳でも黒く見せるとか、そういったカラーコンタクトレンズ。
(…養父母コースに行くような人は…)
 子供の前では、そんなレンズを嵌めて暮らしはしないだろう。
 父親はもちろん、「化粧をする」母親の方にしたって。
(……ぼくの目の色は……)
 パパとママと、どっちに似ていたのかな、と考える。
 血こそ繋がっていないけれども、「母親譲り」の瞳だったか。
 それとも父にそっくりだったか、どうなのだろう、と。
(…ぼくの瞳は、菫色で…)
 どちらかと言えば、個性的な色の部類に入る。
 ありふれた瞳の色ではないから、両親の瞳が菫色なら…。
(それだけで、立派に親に似ていて…)
 きっと自慢の息子だったよ、と考えた所で気が付いた。
 父の瞳も、母の瞳も、「色さえ、分からない」ことに。
 機械が奪ってしまった記憶は、両親の目元を「完全に消している」ことに。


(……そんなことって……)
 酷い、と改めて受けた衝撃。
 瞳の色が分からないこともショックだけれども、その目元。
 「人の顔立ち」は、目元に特徴が出るものなのに。
 写真で身元がバレないように細工するなら、目元を「消しておく」ものなのに。
(…パパやママの目の色も、分からないのなら…)
 目元を思い出せないのならば、どう頑張っても、顔立ちは「思い出せない」のだろう。
 「こんな風かも」と思いはしたって、決め手に欠けて。
 輪郭や鼻や髪の色なら、赤の他人でも「似る」ものだから。
 「似たような顔だ」と思える顔なら、この世に幾つもあるのだから。
(……テラズ・ナンバー・ファイブ……)
 あいつは其処まで計算してた…、とギリッと噛み締める奥歯。
 両親の「目元」を、真っ先に消して。
 まるで焼け焦げた写真みたいな両親の記憶、二人とも「目元」が見えないから。
(…ぼくの目の色は、パパに似てたか、ママに似てたか…)
 どちらにも似ていなかったのか。
 分からないのも悔しいけれども、「目元が分からない」のが辛い。
 目元を隠した写真だったら、赤の他人でも、父や母のように「見える」だろうから。
 機械は其処まで計算した上で、「シロエの記憶」を奪ったから…。

 

         両親の面差し・了

※シロエが思い出すことが出来ない、両親の顔。そういえば目元が欠けていたっけ、と。
 「目元を隠す」のは身バレ防止の定番なだけに、ソレだったかな、というお話。









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