青い地球を抱く神秘の女神。その身に地球を宿した少女。
ブルーが何処からか船に連れて来た、幼く愛らしい顔立ちのフィシス。
彼女はたちまち、シャングリラの皆の心を捉えた。誰もが魅せられ、触れたがった少女。
小さな白い手、それを取るだけで流れ込んで来る地球の映像。青い水の星、宇宙に浮かんだ一粒の真珠。フィシスの母の記憶だという、美しい地球。
その上、占いの名手でもあった。盲いた瞳を感じさせずに繰ってゆくカード、未来を告げるタロットカード。誰も彼女のようには出来ない、予知の力など持ってはいない。
青い地球と、未来を読み取る力と。
ブルーが「女神」と呼び始めずとも、フィシスは女神と呼ばれただろう。彼女は特別なのだから。神に祝福された存在、彼女自身が神そのものにも見えるのだから。
ブルーがフィシスに「ぼくの女神」と呼び掛ける姿を、何人の仲間が目にしたことか。
ミュウの長であり、比類なきサイオンを持つブルー。そのソルジャーが「ぼくの女神」と愛し、慈しみ、それは大切に扱うフィシス。
けれども、ブルーは皆がフィシスの手に触れることを、けして咎めはしなかった。
女神は誰にも等しく女神であるべきだから、と。
フィシスが抱いている地球は神の恵み、誰もが恵みを受けられてこそ、と。
皆が女神と認めるフィシスに、ブルーが与えた新しい衣装。
シャングリラに来た時に纏っていた白、それとは違ったデザインと色の。
他の子供たちが着ている制服とも、まるで違った。淡いピンクの丈の長いドレス、ふうわりと腕を包み込む袖。蝶の羽にも似た形の袖、フィシスの動きに合わせて揺れる。
それから、細く金色に輝く鎖で頸に下げられた、ミュウの証の赤い石。誰の服にも付いている石。
「どうして服に付いていないの?」と首を傾げて尋ねたフィシスに、ブルーは優しく、こう答えた。
いつか素敵な大人になったら、この石を使って君に似合う首飾りを作ってあげる、と。
その日が来るまではペンダントでいいと、こうして下げておくのがいいよ、と。
大きくなったら、面差しも変わるものだから。
幼い間に決めてしまうより、時を待ったら、より素晴らしく映える飾りが作れるだろうと。
ブルーが大切に慈しむ少女。それは愛らしい、ミュウの生き神。
フィシスをシャングリラに迎え入れて間もなく、船の仲間たちは、そう遠くない未来を思い描き始めた。誰からともなく、ごくごく自然に生まれて膨らんだ未来への希望。
彼女が美しい大人の女性に成長したなら、素敵なことが起こるだろうと。きっと起こるに違いないから、もっと早く時が流れないものかと。
それは閉ざされたシャングリラに住むミュウたちにとっては、別世界から来た夢のよう。船の外にはあるだろう世界、フィシスが運んだ新しい風。本でしか見たことが無かったもの。
まるでお伽話の世界の出来事、一日も早くこの目で見たいと誰もが夢見る。
夢は煌めき輝きを増して、自分もそれに携わりたいと願う者たちが一人、また一人と増えてゆく。
そうして最初に夢を形にと、この手で紡ごうと思い立ったのはシャングリラの女性たちだった。
今から紡いでも、けして早すぎはしないだろうと。
充分な時がまだあるのだから、細かく細かく紡げるだろうと。
女神を迎えたシャングリラ。
雲の海の中で時は静かに、けれど確かに流れていって。
穏やかな日々の中、頸から下げた赤い石をキラキラと揺らして、幼いフィシスはブルーと戯れ、無邪気に駆ける。開かぬ瞳を苦にもしないで、はしゃいで、靴も脱いでしまって。
まだまだ小さく、ほんの子供な女神を捕えたブルーの腕。
男性にしては華奢なブルーでも、ヒョイと持ち上げてしまえる羽根のように軽いフィシスの身体。
「捕まえた、フィシス」
今日の鬼ごっこはこれでおしまい、とブルーはフィシスを高く抱き上げ、それからストンと床に下ろした。フィシスには此処が相応しいから、とブルーが選んだ天体の間。そこの床へと、磨き上げられた大理石の床へ。
フィシスの弾んだ息が落ち着くのを待って、ブルーは穏やかな声音で問うた。小さな女神の前に屈んで、その顔を覗き込みながら。
「覚えているかい? ぼくが君を初めて捕まえた日から、明日で一年になるんだよ」
君を捕まえて、みんなに君を紹介して。…あの日からもう、一年も経ってしまったなんてね。
「…そうだったわ。この船に来てから一年なのね…」
とても早かったわ、ブルーに会ったのは昨日みたいな気がしているのに。
…だけど、私は此処に来るまでのことを覚えてないから、長かったのかもしれないけれど…。
だって、私には比べるものが何も無いんだもの。
私の時間は一年前に始まったばかりで、その前は思い出せないんだもの…。
「大丈夫。…これから比べていけばいい。最初の一年、次の一年。この船で過ごした時の長さを」
ぼくと一緒に長い時間を生きてくれるね、ぼくのフィシス。…ぼくの大切な、可愛らしい女神。
どうか、ぼくにも女神の恵みを…、とブルーが取った小さな白い手。その甲に恭しく落とされた口付け、本物の女神にするかのように。
フィシスは頬をほんのりと染めて、それは愛らしく頷いた。
「もちろんよ。ブルーと一緒に生きるのでしょ? このシャングリラで、ブルーと、ずっと」
私はそのためにいるんだもの、と迷いもせずに返したフィシスを、ブルーは胸に抱き込んだ。こみ上げてくる愛しさと共に、幼いフィシスへの想いと共に。
一年が満ちた、次の日のこと。
いつものようにブルーを迎えて、お茶の時間を過ごしていたフィシス。まだ自分では淹れられないから、アルフレートが用意した紅茶を前にして。
其処へ客の来訪をアルフレートが告げに来た。「お通ししてもよろしいでしょうか」と。
「お客様? …エラ様かしら、それともブラウ様?」
「いえ、それが…。フィシス様はさほど御存知ない方々かと」
アルフレートが伝えた三人分の女性の名前。
シャングリラで暮らす仲間たちの名は、ブルーから繰り返し聞かされているから、フィシスにも覚えはあるのだけれど。その顔までは思い浮かばない、流石に数が多すぎるから。
「…私に何の御用かしら…?」
何処でお会いした方だったかしら、と不思議がるフィシスにブルーが微笑む。
「会ってあげれば直ぐに分かるよ。…アルフレート、通してあげたまえ」
「はい、ソルジャー」
忠実な従者が案内して来た三人の女性は、些か緊張した面持ちで。
暫く流れた沈黙の後に、真ん中の一人が思い切ったように口を開くと、差し出した包み。
「フィシス様、これを受け取って下さいますか? シャングリラの女性たちから、フィシス様への贈り物です」
此処へいらしてから一年が経った記念にどうぞ、と手渡そうとする女性たちだけれど、フィシスにとっては思わぬ出来事。どうすれば、と途惑っていたら、ブルーが出した助け舟。
「遠慮しないで受け取るといいよ。シャングリラのみんなも喜ぶからね」
「…そうなの? 私、贈り物を貰えるようなことは一つもしていないのに…」
いつもブルーと遊んでばかりよ、と困りながらも、フィシスは包みを受け取った。
幼く小さなフィシスの手にも重さを感じさせない包み。まるで箱だけであるかのように。
何なのだろう、と思うよりも前に、さっきの女性がおずおずとフィシスを見詰めて言った。
「…あの…。開けてみて頂けますか? フィシス様のお気に召すといいのですけれど…」
お願いします、と願う彼女と、フィシスを見守るブルーの笑み。それは優しく、フィシスを促す。せっかくの贈り物なのだから、と。
「ほら、フィシス。開けてごらん」
みんなを待たせちゃいけないよ。もう、それは君の物なんだから。
「……何かしら?」
開かない瞳は包みを透して中を見ることも出来るのだけれど、それはいけないことだから。包んでくれた女性たちの気持ちを無にしてしまうと知っているから、そっと解いたリボン。くるんである紙も丁寧に剥がし、箱を開けてみて驚いた。
幾重にも折り重なって畳まれた、真っ白な薄い、薄い生地。重さが無いのは糸だったから。生地の向こうが透けて見えるレース、それはさながら糸の宝石。
繊細に編まれ、織り上げられた細工。蜘蛛の糸のように細い糸を編み、可憐な花の模様と枝葉を幾つも幾つも浮かび上がらせた…。
どれほどの手間がかかったのだろうか、これだけの糸を編み上げるには。
模様を織り込み、これほどに美しく、幅も長さもありそうなレースを作り上げるには。
幼いフィシスには想像もつかない、その作業。糸を編んで生地に仕上げる仕事。どうして自分がそれを貰えるのか、理由も分からず、糸の細工を手にしていたら。
「この船の女性たちが力を合わせて作りました。レースを編むのは初めてでしたが、ライブラリーで資料を集めて、道具を揃えて、模様を決めて」
何人もが何度も交替しながら編み上げました、と語った女性たちの顔に浮かんだ誇らしさ。一大事業をやり遂げたのだ、と満足そうな彼女たち。
そして、彼女たちはこう付け加えた。
「フィシス様はまだ幼くていらっしゃいますから、今からドレスを御用意することは出来ません。ですから、皆でベールにしようと…」
いつかソルジャーと御結婚なさる時にお使い下さい、このベールを。
「……結婚? 私が、ブルーと…?」
そうだったの? と盲いた瞳で見上げたフィシスに、ブルーの笑みが向けられた。
「らしいね、フィシス。…ぼくと結婚してくれるかい?」
君が大きくなったなら。この真っ白なベールを被るのに、相応しい女性になったなら。
「…そ、それは…。……喜んで……」
だって私はブルーのものよ、と頬を真っ赤に染めたフィシスに、ブルーは、それは嬉しそうに。
「ありがとう、フィシス。…ぼくの女神」
ぼくも楽しみに待っているから、と染まった頬に贈られた口付け。これは約束、と。
他ならぬソルジャーの求婚とあって、女性たちから上がった歓声。彼女たちはベールに織り込まれた模様の意味を説明してから、天体の間を辞して帰って行った。
糸で織られた花の模様はギンバイカ。美と愛の女神に捧げられた花、愛と不死と純潔の象徴の花。
遠い昔から結婚式の花飾りや花嫁のブーケに使われた花だと、幸せな結婚を願って編んだ、と。
フィシスがブルーの花嫁になる日をシャングリラ中の者が夢見て、待ち望んだ。婚礼の良き日が訪れるのを。
一年近くも交替で絶えず作業を続けて、糸の宝石を編み上げた女性たちも。フィシスの愛らしさと地球に魅了された男性たちも、フィシスとさほど年の変わらない子供たちも。
ミュウの長として皆を導き続けて来たソルジャーと、地球をその身に抱いた女神の結婚式。
それはシャングリラ始まって以来の慶事なのだし、盛大な祝いの日となるだろう。
紫のマントを着けたブルーがフィシスのベールをそっと持ち上げ、誓いの口付けを贈るだろう日。
お伽話の王子と姫君さながらの婚礼、どんな画家にも描けないくらいに美しいカップルが誕生する日。きっと宇宙の何処を探しても、この二人よりも気高いカップルは誰にも見付け出せない。
ブルーは皆の誇りだったし、フィシスは女神。
今は幼くとも、その面差しには美の蕾が既に宿っていたから。育つにつれて花開くことは、誰の目にも容易に見て取れたから。
ソルジャーの伴侶となるのに相応しい女神、似合いのフィシス。いつかブルーと釣り合う背丈に、年頃に成長したならば。
フィシスが花嫁のベールを被る日、婚礼のためのドレスを纏ってブルーの許へと歩んでゆく日。
シャングリラには祝福の声が溢れて、祝いの花飾りが船を彩るだろう。
他にも色々、出来る限りの祝賀の行事。ライブラリーの資料でしか誰も見たことなどない、遠く遥かな昔の地球の王族の婚礼、ロイヤル・ウェディングと呼ばれた婚礼。
国を挙げての結婚式をシャングリラの中で再現しよう、と意気込む者も多かった。この船の中で出来ることは、と書き抜いているような者たちも。
皆がその日を夢見た婚礼、ベールの用意はとうに整い、被るだけになっていたのだけれど…。
「…出番が無いままでしたわね…」
せっかく頂きましたのに、とフィシスがホウとついた溜息。その白い手に糸の宝石。
もう何回目になるのだろうか、ブルーと二人でこの記念日を迎えるのは。ミュウの箱舟に初めて来た日を、シャングリラに迎え入れられた日を。
あの日から長い歳月が流れ、淡いピンク色だった幼い日のドレスはもう過去のもの。今のフィシスが身に纏う色は、ブルーのマントと対をなすような紫がかった桃色になった。デザインもそれに似合いのものに。気品溢れる女性らしいものに、その美を引き立たせるものに。
頸に下げていたペンダントの石も、今は華やかな細工の首飾りの中。細い首筋に輝く金色、その中に赤い色の石。ブルーの瞳を思わせる石、この船の皆が付けている石。
ブルーの隣に並んで立つには、対となるには相応しい女神に成長を遂げたフィシスだけれど。それは美しく育ったけれども、あの遠い日に交わされた約束は今も果たされないまま。
フィシスの華奢な白い手の中、花嫁のベールはあるというのに。
細い細い糸で編まれたレースは、糸の宝石は、花嫁を飾る日を待っているのに。
ブルーはフィシスに惜しみなく口付けを贈るけれども、抱き締めることもよくあるけれど。
贈られるキスは頬に、額に、白い手の甲に。
それが全てで、数え切れないほどに贈られた口付け、その中に一つも無かった口付け。唇へのキスは未だに贈られないまま、恋人同士のキスは無いまま。
結婚式の日、カップルが交わす誓いのキスにも似た口付けは。唇を重ね合わせるキスは。
そうなった理由は、仲違いではなくて、自然のなりゆき。
結婚の約束を交わしたあの日は、二人とも気付いていなかっただけ。
お伽話の王子と姫君のように、その日だけを夢に描いていたから。互いに惹かれ合う対であるなら、いつか結婚するものなのだと、心の底から信じていたから。
だからブルーはフィシスに誓って、フィシスもそれに応えたけれど。その日が来るのを二人とも夢に見たのだけれど。
こうして釣り合う姿になって初めて、お互い、ようやく気が付いたこと。
ブルーには身体ごと、肉体ごと誰かの愛を求める感情が無くて、欲しいものは内側の魂だけ。魂を、心を宿しているから、その身の持ち主を愛するだけ。身体は魂の器だから。
フィシスの方でもそれは同じで、ただ心だけが欲しかったから。愛してやまない心を宿したブルーが側にいてくれれば良かったから。
それ以上を望みはしなかった。ブルーも、対となるべきフィシスも。
互いの心が常に通い合い、深く結ばれていればそれで充分。口付けなどを交わさなくても、手と手を絡めることが出来れば、充分に心は満たされたから。
互いが互いのためにいるのだと、心はいつでも繋がっていると、二人が共に抱いた想い。
結婚式などもう要らなかった、誓いのキスを交わすことさえ。
もう充分に幸せなのだし、互いの身体を重ねたいとは微塵も思いはしなかったから…。
遠い昔に、幼かったフィシスがシャングリラに迎え入れられた記念日。
いつかはその日に華燭の典をと、ソルジャーとミュウの女神の結婚式を、とシャングリラの皆が待っていたのに。ソルジャーの伴侶になって欲しいと誰もが望んでいたというのに、果たせなかった不甲斐ない女神。
今年もその日が巡って来たのに、ベールの出番は来ないまま。花嫁を飾るベールの出番は。
結婚式など要らない二人だったのだ、と皆は分かってくれているけれど、今では誰も結婚式をと口にすることも無かったけれど。
それと知れる前に、皆が婚礼を夢見ていた日に貰ってしまった、心がこもった贈り物。
花嫁になる日に使って欲しいと、ドレスを作るにはまだ早いから、と。
気が遠くなるほどの時間と手間とをかけて、編み上げられた繊細な糸の宝石。シャングリラ中の女性たちが集い、交替で編んだというレース。
幸せな結婚を祈るギンバイカ、美と愛の女神に捧げられた花。それを織り込み、思いをこめて編まれたベールをどうしたらいいというのだろう。
いつまで待とうと、どれほどの時が流れ去ろうと、フィシスがベールを被る日は来ない。
結婚式の日が来ない以上は、花嫁のベールの出番も来ない。
このまま大切に仕舞い込まれて、たまにこうして手に取られるだけ。
年に一度だけ、記念日が巡ってくる度に。
結婚式はこの日にしようと、シャングリラの皆が夢を描いていた日。
遥かな昔にブルーと結婚の約束を交わしたあの日。
同じ日付が巡ってくる度、記念日の度に、溜息をつくしかないベール。
こうなると思っていなかった頃は、心が躍ったものなのに。
いつになったら被れるだろうと、ブルーの花嫁になれるだろうと。早く結婚式の日が来てくれないかと、何年待てばいいのだろうと。
結婚式の日を夢見た少女は、もういない。
それは叶わないと知った女神がいるだけ、花嫁になる日は来ない女神が。
皆の心がこもったベールを、糸の宝石を無駄にしてしまった、どうしようもなく不甲斐ない女神。
こんな筈ではなかったのに。この贈り物は晴れの日を迎える筈だったのに。
どうしてこうなってしまったろうか、と溜息を零して眺めるしかない糸の宝石。
細い細い糸を傷つけないよう、爪で引っかけてしまわないよう、そっと指先で撫でるだけ。
今年もこの日が巡って来た、とレースに触れていたフィシスの白い手の上、そっと優しく重ねられた手。いつもはめているソルジャーの手袋、それを外したブルーの右手。
ハッと驚いて顔を上げれば、ブルーの左手にも手袋は無くて。
「……出番ならいつか、あると思うよ」
耳に届いたブルーの言葉。それが意味する所は一つ。
花嫁のベールの出番があるのは結婚式だけ、婚礼の日だけ。ブルーはそれを望むのだろうか、いつか出番があると言うなら。
その日は来ないと思っていたのに、結婚など自分は望まないのに。
思わぬ言葉に固くなった身体、息をすることを忘れた唇。初めてブルーを怖いと思った、この人は何を望むのかと。いったい自分をどうしたいのかと、心だけでは足りないのかと。
けれど、ブルーは「そうじゃない」と穏やかな笑みを浮かべた。そうじゃないよ、と。
「君とぼくとで使うんじゃない。…まだ分からないけれど、遠い未来に」
きっと出番はあるだろうから、とブルーも糸の宝石を撫でる。手袋をはめていない手で。
「…ブルー…?」
何を、と不安がフィシスの心を掠めてゆく。遠い未来という言葉。
ブルーの命は長くはない。遠い未来までゆけるほどには。
まだ当分は大丈夫だろうと、生きていられるとブルー自身が口にしているし、タロットカードもそうだと告げてはいるけれど…。
けれど、その日は遠くはない。何十年も残ってはいないだろう寿命、いつか尽きるだろう命。
分かりもしない遠い未来を生きてその目で見られるほどには、ブルーの時間は残されていない。
そんな未来を口にされても、恐ろしくて身体が竦み上がるだけ。
愛おしい人が、対になる人が、ブルーがいないだろう未来。
自分は生きてゆけるのだろうか、ブルーがいなくなった世界で。
たった一人で置いてゆかれて、それでも生きてゆけるのだろうか…。
「…心配しないで。ぼくのフィシス」
まだまだ先のことなのだから、とブルーは首を左右に振った。ずっと先だよ、と。
そう簡単に死にはしないし、まだまだ君と生きてゆくから、と。
「でも、ブルー…」
「ぼくの寿命は長くはない。遠い未来まで行けはしないと分かるけれども、まだ死なないよ」
まだまだ君の側にいたいからね、と微笑んだブルー。まだ死ねない、と。
「そうは思っても、いつかは時が来るだろうから…。このベールの出番が来そうな時には、ぼくはこの世にいないだろう。でもね、フィシス…」
ぼくの思いは生き続ける。それを忘れないで、ぼくの女神。
君の中にも、これから先の若い世代にも、ぼくの思いはずっと継がれてゆくだろうから。
このベールにこめられた思いのように、とブルーの指先が糸の宝石の上を辿った。
細い細い糸を編んで織られたギンバイカの花。幸せな結婚を祈る模様を。
ギンバイカが幾つも咲いているねと、これを被る花嫁はきっと幸せになれるのだろうと。
「ぼくたちはこれを使わなかったけれど…。結婚式を挙げはしなかったけれど…」
次のソルジャーは、誰か素敵な人と恋をして結婚するかもしれないだろう?
それとも、そのまた次のソルジャーが結婚式を挙げるのかな?
そういう時には、このベールが役に立つんだよ。長く受け継がれて来たベールとしてね。
君のベールの出番が来るんだ、きっといつかは。
「…次のソルジャー…。それに、その次のソルジャーだなんて…。その頃には今よりもずっと古いベールになっていますわ、そんな古いものを使うのですか?」
新しい方がいいでしょうに、とフィシスは首を傾げてしまった。
結婚式は華やかで晴れやかなもの。何もかも新しくするのが似合いだろうに、花嫁を飾るためのベールに古いベールを使うだなんて、と。
「ライブラリーで調べたんだよ、ベールのことを。…花嫁のベールはどういうものかを」
この贈り物を、君はずいぶん気にしているから…。無駄にしてしまったと自分を責めているから、他に何か使い道が無いだろうかと思ってね。
ベールのままで置いておく代わりに、結婚式が済んだら他の何かに仕立てるだとか。
そうしたら、見付かったんだよ、フィシス。
ベールはベールのままでいいんだ、このままの形で残しておけば。それが正しい使い方だよ。
遠い遠い昔、ずっと昔に、人間が地球で暮らしていた頃。
ヨーロッパと呼ばれた場所があってね、其処では結婚式のベールは受け継いでゆくものだった。親から子供へ、子供から孫へ。
前の花嫁と同じベールを被ったんだよ、遠い昔の花嫁たちは。
糸で編まれたものだったから、何百年もは流石に使えなかっただろうけれど、とブルーは語る。
それでもベールが傷まない限り、大切に継がれていったのだろうと。
「ぼくたちの世界ではピンと来ないけれど、母親から子供へ、そのまた子供へ…。そうやって継いでゆくのがベールで、古いベールには祈りがこもっていたんだよ」
母親や、もっと前の人やら、幸せな結婚をした花嫁たち。その人たちのように幸せに、と。
今の世界は血の繋がった家族はいないし、次のソルジャーでかまわないだろう。君のベールを被る花嫁を迎える人は。…そのまた次のソルジャーでもね。
それにね、古い物を使うことにも意味があったよ、結婚式では。
同じヨーロッパにあった言葉で、サムシング・フォーというのがね。
「…サムシング……フォー?」
「そのままの意味なら、何かを四つ。…花嫁が幸せになるための言い伝えだよ」
おまじないと言った方がいいのかな?
結婚式には、新しい物を一つ、古い物を一つ。借りた物を一つと、青い物を一つ。そういう何かを着けた花嫁は幸せになれるらしいよ、それがサムシング・フォーなんだ。
受け継がれてきたベールを被れば、古い物を一つ、身に着けたことになるだろう?
君のベールは二重の意味で、いい贈り物になるんだよ。
幸せを願って受け継がれてゆくベールな上に、サムシング・フォーの古い物を一つ。花嫁が幸せになれますように、と祈るおまじないが二重になっているんだから。
だから、このベールは大切に残しておくのがいいよ、とブルーの指がなぞるギンバイカの模様。
いつか使える時が来るまで、これを被る花嫁が現れるまで。
「…ぼくはこの目で見られないけれど、君が被せてあげるといい。その幸せな花嫁にね」
そして、ぼくからの言葉を伝えて欲しい。
次のソルジャー……。なんという名前か分からないけれど、その人といつまでも幸せに、と。
ソルジャー・ブルーがそう言っていたと、伝えるようにと言われたから、と。
そうしてくれれば、このベールはきちんと継がれるんだよ、次の世代へ。…ぼくの思いも。
このベールは無駄になりはしないから、君は心配しなくてもいい。
いつか素敵な贈り物になるのに決まっているから、大切に取っておきさえすれば。
「ええ、ブルー…。私のために調べて下さったのですね、このベールのこと…」
そんな風に使える物だったなんて、夢にも思いませんでした。
すっかり無駄になってしまったと、これを見る度に申し訳なく思うばかりで…。
けれど、心が軽くなりましたわ、いつか役立つ日が来るのなら。
このまま仕舞っておくのではなくて、被せてあげられる人が現れるのなら…。
良かった、とフィシスがついた安堵の吐息。
遠い日に贈られた糸の宝石、繊細な糸を編んだベールは次の世代に受け継がれるのだ、と。
ブルーの隣で被る筈だった、花嫁のベール。被らないままになってしまったベール。
その使い方を、それは素晴らしい使い道を調べて来てくれたブルー。いつも自分を気遣ってくれる、温かく心優しいブルー。
結婚式は挙げないままだったけれど、花嫁になりはしなかったけれど。
花嫁になるより、伴侶になるより、ずっとブルーに近い所で長い年月を過ごして来た。
そう思うから、手袋をしていないブルーの手を取り、そっと握った。
この人の側にずっといたいと、いつまでも共に生きてゆきたいと。
「ブルー…。あなたが仰るのなら、このベールは大切に取っておきますわ、これからも」
あなたの思いを、あなたと過ごした幸せな日々を、遠い未来の花嫁たちに届けましょう。ベールを被せてあげる時には、あなたからの言葉を必ず添えて。
でも、ブルー…。今はまだ、あなたの言葉は誰にも伝えはしませんわよ?
伝える相手がいないのですから、とフィシスは胸を過った不安を消そうとブルーの手を強く握り締めた。華奢なその手で、離すまいとして。
いつかは逝ってしまうだろう人、自分を置いてゆくのだろう人。
その日はまだまだ来ないのだからと、今は二人でいるのだからと。
「あまり意地悪を仰らないで。…まだ見えもしない未来のことなど」
伝えてくれだなんて、そんな日はまだ来ませんわ。ずっと遠くで、まだまだ先で…。
なのに今からそう仰られると、考えただけで恐ろしくなってしまいます。
あなたがいらっしゃらないだなんて、私が一人で残されるなんて…。
それを思うと、あなたと一緒に逝ってしまいたくなりますもの。この世界に私一人だなんて…。
「いけないよ、フィシス。ぼくと一緒に来てはいけない、君はミュウの女神なのだから」
それに…。君が語ってくれなかったら、ぼくはすっかり忘れ去られてしまいそうだ。年寄りのことなど、若者はすぐに忘れるものだよ、彼らには未来があるのだから。
生きてくれると約束して、とブルーはフィシスの白い手を強く握り返した。君は生きて、と。
「ぼくの思いを、ぼくが生きた証を伝えて欲しい。…遠い未来に、この花嫁のベールと一緒に」
…シャングリラの皆はソルジャーとしてのぼくしか、きっと覚えていないだろうから…。そうでないぼくを。ぼくの思いを。君を愛して、君と共に生きたぼくの記憶を…。
花嫁に被せてあげる時に。
ぼくの言葉を伝えてくれる時に、ぼくがどんなに幸せに生きていたのかを。
君と一緒に生きていた日々は、とても幸せなものだったと…。
このベールはそれを託すためには、きっと何よりも相応しいから、とブルーが撫でる糸の宝石。
幸せな結婚を祈るギンバイカの模様の、繊細なレースの花嫁のベール。
「そうですわね…。あなたと結婚式を挙げるために、と頂いたベールですものね」
結婚式を挙げるつもりでした、と必ず伝えておきますわ。
挙げる必要が無いと思ったから、式は挙げずにいましたけれど、と。
「すまない、フィシス。…結婚しようと約束したのに、破ってしまって」
ウェディングドレスを作らせることも、着せてあげることも出来ないままで…。
きっと君には似合うだろうに、とブルーが持ち上げた糸の宝石。手袋をはめてはいない両手で、そうっと広げてフィシスの頭へ。金色の髪が輝く上へとそれを被せた、そう、まるで花嫁のベールのように。
「…ブルー…?」
何を、とフィシスは途惑ったけれど、ブルーが「似合うよ」と浮かべた微笑み。
「結婚式は出来なかったけど…。一度も使っていないベールを次の世代に譲るというのも、変な話だと思わないかい?」
…綺麗だよ、フィシス。思った通りにとても素敵だ……。
それだけで君は花嫁に見える、とブルーが顔を綻ばせたフィシスの立ち姿。床まで届いた髪を覆ってまだ余りある糸の宝石。遠い日に編まれた花嫁のベール。
ブルーはフィシスをうっとりと眺め、やがて両腕で強く抱き寄せた。ギンバイカの模様を織り出した純白の花嫁のベールごと。使われることがついに無かった、糸の宝石ごと。
そうしてそのまま溶け合ったように、二人は長いこと動かなかった。
命の通った彫像のように、言葉を交わすことさえせずに。
ただ心だけを通い合わせて、互いの想いを通い合わせて、抱き合ったままで…。
ミュウの長と、地球をその身に抱く女神の心触れ合わせるだけの恋。
魂だけがあれば充分だった恋、身体は要らなかった恋。
お伽話の王子と姫君、それほどに似合いの対なのに。互いが互いのためにいるのに。
これ以上の愛は、恋は無いだろうに、結婚式すらも挙げなかった二人。
側にいられればそれだけでいいと、その上に何を望むのかと。
誰よりも深く愛し続けて、恋をし続けた二人の想いを、真実の愛を知るのは糸の宝石だけ。
たった一度だけフィシスを飾った、ブルーが被せた糸の宝石。
遠い未来まできっと受け継いでゆかれるのだろう、ギンバイカの模様の花嫁のベール。
それに秘められた二人の想いに気付く花嫁を迎える者は、次のソルジャーか、そのまた次か。
フィシスがベールを被せる花嫁、結婚式を挙げる花嫁。
その時にはもう、ブルーは遠くへ逝ってしまっているのだけれど。
フィシスを残してゆくのだけれども、その日まではまだ遠いのだから。
まだまだ二人の恋は続くから、遠い未来へと祝福を贈る。
遥かな未来に生きる花嫁に、その晴れの日に。
ソルジャー・ブルーと、彼のためにだけ生きるフィシスから思いをこめて。
……どうか、いつまでも幸せに。
幸いに満ちた道であるよう、幸せに生きてゆけるよう。
自分たちのためにと贈られたベールを受け継いでゆく、まだ見ぬミュウの花嫁たちよ。
彼女たちが愛する伴侶と生きる未来が幸多きものであるように。
フィシスが贈られた糸の宝石、それを次へと、またその次へと幸せに受け継いでゆけるよう。
自分たちが今、こうして幸せであるように。
ミュウの長と地球を抱く女神が、幸せに満ちているように……。
糸の宝石・了
※元々は「ブルフィシ好き」だったんです、というお話。ROM専だった時代のこと。
今じゃ立派にハレブルな人で、誰も分かってくれないと思う…。
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