(……また……)
呼ばれたんだ、とシロエは溜息をついた。
何度も此処で眠ったけれども、未だにまるで慣れないベッド。
「どうしましたか?」
「…なんでもありません」
大丈夫です、とプイと顔を背けて、ベッドから下りた。
こんな所に長居などしたくないのだから。
マザー・イライザの顔も姿も、おぞましいとしか思えない。
いくら故郷の母の姿でも、所詮は機械が作る幻影。
これに親しみを覚える者たち、彼らの心が分からない。
「ママにそっくり!」とか、「恋人の姿に似ているんだ」とか、誰もが喜ぶ。
この部屋にコールされた時には、しょげていたって。
「また失点だ」と嘆いていたって、マザー・イライザに会えば笑顔が戻る。
部屋のベッドに横たわる内に、機械が「治療」を施すから。
心に溜まった悩みや怒りを、解いて「平穏」へと導くから。
(……ぼくだって……)
きっと何かで苛立ち、心が乱れたのだろう。
だから呼ばれて「治療」を受けて、たった今、それが終わった所。
もう心には「悩み」など無いし、激しい怒りも残ってはいない。
けれども、それが問題だった。
(……マザー・イライザ……)
またしても機械に弄ばれた、と憎しみの炎が噴き上げる。
機械に心を弄られるなどは、御免なのに。
何処も触って欲しくないのに、マザー・イライザは「それ」を施す。
こうしてコールで呼び出してみては、「眠りなさい」と深く眠らせて。
機械の力で意識を分離し、勝手にあちこち覗いた末に。
「母の姿」にクルリと背を向け、ただ乱暴に歩き始めた。
大理石の像が立つ部屋を突っ切り、扉へと。
扉の向こうの、広い通路へと。
(…もう、こんな時間…)
夜になってる、と腕の時計を覗き込む。
今日の「治療」は、相当に長い時間がかかっていたのだろう。
コールを受けた原因自体は、全く思い出せないけれど。
(……いつものことさ……)
成績不良で呼ばれるわけじゃないんだから、と唇を噛む。
多くの生徒が呼ばれる理由は、成績不良や「講義についてゆけない」こと。
要は「勉強に身が入らない」のを、マザー・イライザが咎めるだけ。
けれど「成績優秀」なのに「呼ばれる」自分の場合は違う。
コールに繋がるのは「素行不良」で、システムにとっては「望ましくない」何か。
SD体制そのものについての、批判だとか。
成人検査を憎み続けて、今も許していないこととか。
(……今日も、その辺だろうけど……)
直接の原因が何だったのかは、どう頑張っても手がかりすらも掴めない。
これが機械のやり方だから。
コールされる度、「大切な何か」を奪われ、消されてゆくのだから。
今日も同じだ、と足音も荒く戻った部屋。
マザー・イライザが何を奪ったか、どんな記憶を消し去ったのか。
そちらの方も気になるけれども、もっと怖いのが「副作用」。
機械がそれを意図しているのか、「副作用」かは不明だけれど。
(……また何か……)
残っていた記憶を消されただろう、という確信。
故郷から抱えて持って来た記憶、辛うじて残っている断片。
コールの度に、欠片が一つ消えてゆく。
酷い時には、二つも三つも無くなったりする。
機械が与える「心の平穏」、それと引き換えに失う記憶。
その「からくり」に気付いた時から、余計に機械を許せなくなった。
E-1077で生きる間は、「コール」に対する拒否権は無い。
無視して部屋にこもっていたなら、職員が引き摺り出しに来る。
まだ、そこまではやっていないのだけれど。
それほど酷く反抗したなら、きっと「ただでは済まない」から。
「治療」が終わって目覚めた時には、一切が消えているかもしれない。
呼ばれた理由も、故郷の記憶も、何もかもが。
反抗心の欠片も失くして、「従順なシロエ」になるかもしれない。
コールの前まで馬鹿にしていた、「マザー牧場の羊」になって。
他の候補生たちと全く同じに、マザー・システムに従順になって。
(……ぼくが突然、そうなったって……)
誰も疑問を抱くことなど無いのだろう。
記憶処理など当たり前だし、不審に思う者などは無い。
そして「自分」も何の疑問も抱くことなく、周囲に溶け込み、それっきり。
両親も故郷も全て忘れて、いつか行けるだろう地球を夢見て。
メンバーズに選ばれる時を目指して、勉強と訓練に打ち込み続けて。
(…そんな人生、御免だよ)
ぼくは絶対に忘れない、とマザー・イライザへの怒りは消えない。
機械が何を消したにしたって、この屈辱を忘れはしない。
「消されたのだ」と自覚があったら、憎しみも恨みも募るだけ。
たとえ機械が何を消そうと、「機械に対する怒り」が心に残っていたら。
(……でも……)
今日も「大事な何か」を消されて、曖昧になっているだろう記憶。
両親の顔が更におぼろになったか、故郷の家が霞んでいるか。
奪われた記憶は、どう足掻いたって、けして戻っては来ないけれども…。
(…ぼくは何もかも、忘れたりしない…)
欠片しか残っていなくたって、と開けた引き出し。
其処には「故郷」が入っている。
懐かしい両親も、その中にいる。
(……ピーターパン……)
たった一つだけ、故郷から持って来られたもの。
子供のころから大事にしていた、両親に貰ったピーターパンの本。
それを開けば、今でも故郷へと飛べる。
両親の顔がぼやけていたって、家の住所を忘れていたって。
「あの家で、本を読んでいたシロエ」が「育って、此処にいる」のだから。
今も「シロエ」は「シロエ」なのだし、ピーターパンの本も変わらない。
機械が何を消してゆこうと、本がある限り、大丈夫。
手にしてページを繰っていったら、両親の声が蘇るから。
故郷の家で座った床やら、寝転がったソファも思い出すから。
コールされたら、ピーターパンの本を読む。
それが習慣になったけれども、何故だか、今日は見当たらない。
(あれ…?)
引き出しに入れていなかったっけ、と慌てて周囲を見回してみる。
広い机の端から端まで。
部屋の書棚も目で追っていって、それから側に出掛けて捜した。
「ピーターパン」の背表紙を。
幼い頃から馴染んだ本だし、タイトルが無くても「見ただけで」分かる。
それなのに、本が見付からない。
部屋中の、何処を捜しても。
「こんな所には、入れやしない」と思う場所まで探ってみても。
(……何故……?)
どうして見付からないんだろう、と増してゆく焦り。
E-1077に泥棒などはいないし、第一、個室に他の生徒は立ち入れない。
そういう規則で、もしも踏み込む者がいたなら…。
(候補生じゃなくて、職員だとか…)
教官やら、保安部隊の者やら、そういった「大人」だけになる。
彼らが部屋に入ったのなら、そして「ピーターパンの本」が無いなら…。
(……処分された……?)
まさか、と冷えてゆく背中。
マザー・イライザが命じただろうか、「あの本を処分しなさい」と。
「ピーターパンの本」を持ったシロエは、何処までも反抗的だから。
何度コールを受けても懲りずに、システム批判を繰り返すから。
そうして噛み付き続ける「シロエ」が、何を頼りにしているのか。
心の拠り所は何になるのか、マザー・イライザなら「知っている」。
コールの後で部屋に戻れば、広げるピーターパンの本。
「まだ大丈夫」と、「覚えている」と、心だけを遠い故郷へ飛ばせて。
子供時代の消された記憶にしがみついては、「忘れやしない」と誓い続けて。
マザー・イライザは、当然、気付いているから、「ピーターパンの本」を消しただろうか。
二度と「シロエ」が手に取れないよう、盗み出させて、処分させて。
「……嫌だ……!!」
返して、と叫んだ自分の悲鳴で目が覚めた。
じっとりと肌に寝汗が滲んで、薄暗がりの中で瞬きをする。
(……夢……?)
夢だったのか、と周りを探ってみた手に、伝わって来た「本」の感触。
そういえば、寝る前に読んだのだった。
遠い故郷に思いを馳せて、「ピーターパン」を。
夢の中で故郷へ飛んでゆけたら…、と枕元にそっと本を置いて寝た。
(…ぼくの本…!)
まだ此処にある、と大切な本を抱き締める。
この本を失くしてたまるものかと、「マザー・イライザにも奪わせない」と。
(……もし、本当に処分されたら……)
憎い機械を許しはしないし、生涯かけて憎み続ける。
地球の頂点に立つ日を待たずに、クーデターさえ起こすかもしれない。
「今が勝機だ」と思ったら。
勝算があると踏んだ時には、海賊どもを味方に引き入れてでも。
(…ぼくは、絶対に許さない…)
これ以上、ぼくから奪わせはしない、と本を抱き締めて心に誓う。
マザー・イライザが何をしようと、「シロエ」は「けして、従わない」と。
大切な本を奪い去られても、けして機械に屈しはしない。
こんな夢さえ見てしまうほどに、「過去」を大事にしているから。
機械が何を消してゆこうと、「シロエ」そのものは「消せはしない」と思えるから…。
何を消されても・了
※ピーターパンの本をシロエが持っているのも不思議ですけど、持っていられるのも不思議。
何処かで処分されそうなのに、と思った所から出来たお話。シロエが見た悪夢。
(……サム……)
やはり今日も、私は「赤のおじちゃん」だったか…、とキースは深い溜息をつく。
国家騎士団総司令のための個室で、夜が更けた後に。
昼間は、サムの見舞いに出掛けた。
マツカやセルジュもついて来たけれど、「此処まででいい」と人払いをして。
サムの前では、「ただのキース」でいたい、と今も思っているから。
けれど、分かってくれないサム。
「赤のおじちゃん!」と懐いてくれても、「キースの友達」にはなってくれない。
正確に言うなら、「戻ってくれない」。
遠い昔に、サムの方から「友達」だと言ってくれたのに。
「友達とは、大切なものなのか?」と問うた自分に、「当然だろう!」と返したのに。
E-1077で過ごした頃には、サムが最初の「友達」だった。
そのサムの幼馴染だった縁から、スウェナ・ダールトンという友人も出来た。
きっと「シロエ」とも、機械が間に挟まらなければ、いい友になれていたのだろう。
シロエが「Mのキャリア」であろうと、そんなことなど、どうでもいい。
現に今では、「ミュウのマツカ」を側近にしているのだから。
口では何と言っていたって、「人類もミュウも、人間なのだ」と思うから。
(……今の私を構成している、この考え方は……)
恐らく、サムから貰ったもの。
マザー・イライザに「その気」が無くても、サムに教えて貰った「友情」。
「ヒトとしての心」も、サムから学んだ。
友達というのは、どうあるべきか。
真の友なら、友に対して見返りなど求めないことも。
そうやって共に、四年の間をサムと過ごした。
E-1077を卒業する時に、道が分かれてしまったけれど。
サムはメンバーズに選抜されずに、「ただのパイロット」の道に進んで。
メンバーズを乗せる宇宙船さえ、操縦できない「ただのパイロット」。
それきり、交わらなかった「道」。
サムとは出会う機会も無いまま、十二年もの時が流れた。
けれども「サム」を忘れなかったし、「いつか会える」と思ってもいた。
どんなに宇宙が広かろうとも、バッタリと。
任務で出掛けた先の星だの、宇宙に散らばる中継用のステーションだので。
(……また会えるのだ、と思っていたから……)
多忙な任務に忙殺されて、サムとの連絡は途絶えたまま。
「便りが無いのは元気な証拠」と、遥か昔の人間たちが言った通りに思い込んで。
実際、サムは「元気」ではいた。
ジルベスター星系での事故に遭うまで、病気一つせずに宇宙を飛んで。
チーフパイロットには、まだ手が届かなくても、副操縦士としては「一人前」に。
(……そのサムを、ミュウどもが壊してしまった……)
具体的には、何があったか分からない。
船の記録は消されていた上、ジョミー・マーキス・シンにも「尋ねてはいない」。
あまりにも腹立たしかったから。
「幼馴染だった、サム」を壊した輩に、尋ねたいとは思わなかった。
何を思って「そうした」のかは。
「サムだと知らずに」やったにしたって、サムは「キースの友達」だから。
その昔には「ジョミーの友」でも、今では違う。
サムが持っていた「最後の友達」、それを名乗れるのは「キース・アニアン」ただ一人だけ。
E-1077を後にしたサムは、「いつも一緒」の「友達」は持たなかったから。
宇宙を飛び回るパイロットの身では、友が出来ても、「ただの友達」。
出会えば一緒に食事をしたり、酒を飲んだり、そういった程度。
人のいいサムは、大勢の「友」に好かれていても。
彼が属していた基地などには、多くの「知人」や「友達」がいても。
サムの方でも、きっと「キース」を同じに思ってくれていたろう。
「一番の友達」と言えば「キース」で、「何処かで会えれば、いいんだがな」と。
思いやり深い人柄だけに、自ら訪ねて来なかっただけで。
(…サムと違って、私は目立っていたのだから…)
メンバーズになった「キース」のニュースは、サムの耳にも入ったと思う。
何処の星でどういう武勲を立てたか、どんな異名で呼ばれているか。
(……冷徹無比な破壊兵器に、「友達」が会いに現れたなら……)
マイナスの評価になりかねない、とサムならば、きっと考える。
「俺は会わない方がいいよな」と、「キースの評価」だけを思って。
偶然、再会するならともかく、「会いに行ってはいけない」と。
サムの方から来てくれていたら、心から歓迎したのだろうに。
周りが何と考えようとも、食事に誘って、泊まるホテルも用意したろう。
「せっかくだから、ゆっくりして行ってくれ」と。
「今夜は、夜通し語り合おう」と、酒を片手に昔語りをしたりもして。
サムが「シロエ」を忘れていたって、語り合える話題はいくらでもある。
メンバーズの任務は明かせなくても、愚痴だって聞いて貰えただろう。
なにしろ、相手は「サム」なのだから。
「…任務のことは、俺には分からねえけど…」と苦笑しつつも、相槌を打って。
出世のことしか考えない上司や、足の引っ張り合いばかりの世界のことも。
(……そういう話が、サムと出来ていたら……)
どれほど豊かな人生だったか、恵まれた日々を送れたことか。
残念なことに、「それ」に自分が気付いた時には、「サム」は何処にもいなかった。
ジルベスターでの事故で、心が壊れてしまって。
すっかり子供に返ってしまって、「キース」を忘れ去ってしまって。
今のサムにとっては、「キース」は親切な「赤のおじちゃん」。
友達だなどと思いはしないし、「ずっと年上の大人」なだけ。
「大人ばかりの病院」で暮らす、「可哀相な子供」と遊んでくれる「優しい人」。
もっとも「サム」には、両親がいるらしいけれども。
いつ訪ねても、「父さんが…」「ママが」と、両親の話を聞かされるから。
(……サムが、元通りになってくれたら……)
どんなに頼りになることだろう。
ジョミー・マーキス・シンのことなど、抜きにして。
「ミュウの長との、ツテが欲しい」と思いはしない。
そんなツテなど頼らなくても、ミュウどもの始末は自分でつける。
モビー・ディックごと焼き払うにしても、何処かの星ごと砕くにしても。
(…任務のことで、頼るつもりは無いのだが…)
友達としての「サム」がいたなら、「マツカ」のことを明かしただろう。
「実はな…」と、「マツカの正体」を。
人類の形勢が不利になっても、「マツカ」は最後まで残ろうとする。
そうなった時にどうすればいいか、サムなら一緒に考えてくれた。
「俺の船で、何処かに逃がしてやるか?」とも、言っただろう。
民間船なら、ミュウが陥落させた星へも、飛んでゆくことがあるのだから。
「ついでにだったら、乗せてやれるぜ」と、「乗せるための手段」も講じてくれて。
なんと言っても「サム」だから。
「みんな、友達!」と笑んだサムなら、「マツカ」とも、きっと「友達」になれた。
マツカも「サム」の言うことだったら、多分、聞き入れたのだろう。
ミュウとの最終決戦を前に、「何処かに逃げろ」と命じても。
「キース」の命令には従わなくても、「サム」がマツカに勧めたら。
「そうした方が、キースも安心なんだ」と、横から言葉を添えてくれたら。
(……私も、サムが操縦してゆく船ならば……)
安心してマツカを任せられたし、心残りは無かっただろう。
決戦の場に一人残った「キース」に、もう「友達」はいなくても。
サムもマツカも「安全な場所」へと飛び去って行って、一人きりでの戦いでも。
(…サムたちが、無事でいるのなら…)
たとえ負け戦だと分かっていたって、心は自然と凪いでいた筈。
「私は、やるべきことは、やった」と。
人類の指導者として作られた責務を、「最後まで果たし抜くのみだ」と。
そう、「作られた生命」なことも、「サム」ならば聞いてくれたのだろう。
逃げ場を持たない運命のことも、歩まされるしかない人生のことも。
(…お前の記憶が無かった理由は、それなのかよ、と…)
ただそれだけで、「サム」は済ませてくれたろう。
「機械が無から作ったキース」を、少しも気味悪がったりはせずに。
「俺たちとは違う人間なんだ」と、偏見の目を向けることなく。
(……お前も災難だったよな、とでも言ったのだろうな……)
「友達だった」サムならば。
今でもサムが、「友達」のままでいてくれたなら。
(……私は、友を失った……)
サムは今でも「友」だけれども、一方的に「友達」なだけ。
「キース」にとっては「友」のサムでも、サムにとってのキースは「赤のおじちゃん」。
友情の絆は繋がっていても、本当の意味での友情ではない。
サムの目に映る「キース」の姿は、「赤のおじちゃん」でしかないのだから。
おまけにサムは子供に戻って、「キース」を覚えていないから。
(……サムが、思い出してさえくれたなら……)
この先の道も、心強く歩んでゆけるのだろう。
ただ一人きりの戦場だろうと、サムもマツカも「逃げた」後でも。
けれど、その日は「来てくれない」から、溜息が零れてゆくばかり。
もう戻らない友を思って。
何度見舞いに訪ねて行っても、「語り合えない」友が「今でも、友だったなら」と…。
友と話せたら・了
※サムが「壊れていなかった」ならば、キースとの友情はどうなったかな、と考えただけ。
きっと友達のままなんだろうし、色々なことが変わっていたかも、と。そういうお話。
(……ピーターパン……)
思い出せないよ、とシロエの瞳から零れる涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで本を広げて。
故郷から持って来た本はあるのに、忘れてしまった故郷のこと。
この本をくれた両親の顔も、すっかりおぼろになってしまった。
マザー・イライザにコールされる度、一つ、また一つと欠けてゆく記憶。
ただでも消されてしまったのに。
「目覚めの日」を迎えた、誕生日の日に。
十四歳になった途端に、あの忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブに捕まって。
「捨てなさい」と命じた機械の声。
子供時代の記憶を捨てろと、それは「必要無いもの」だからと。
(…ぼくは「嫌だ」と言ったのに…)
そんな言葉は、機械に届きはしなかった。
抵抗する術さえ持っていなくて、無理矢理に奪い去られた全て。
気が付いた時は、もう「故郷」にはいなかった。
暗い宇宙を飛んでゆく船に、乗せられていて。
膝の上にあったピーターパンの本だけを除いて、何もかも全部失って。
(……この本は此処にあるけれど……)
それ以外に何も持ってはいない。
子供時代に好きだった物も、懐かしい故郷の風や光も。
大好きだった両親でさえも、会えないどころか「顔を忘れた」。
どんなに思い出そうとしたって、あちこちが欠けてしまっていて。
目鼻立ちさえ定かではなくて、瞳の色さえ分からなくて。
(……ピーターパンの本は、変わらないのにね……)
記憶にあるのと、何処も違っていない本。
表紙も挿絵も記憶そのまま、そっくり同じなピーターパンやティンカーベル。
何処も欠け落ちたりはしないで。
おぼろにぼやけてしまいはしないで、鮮明なままで。
だから余計に苦しくなる。
辛くて、たまらなくもなる。
「この本は、此処にあるのに」と。
ピーターパンの本が残っているなら、もっと他にも欲しかったのに、と。
(…この本も、とても大切だけど…)
故郷のことを覚えていたなら、どれほど嬉しかっただろう。
大好きな両親の記憶が残っていたなら、どんなにか心強かったろう。
こうして本が残っているより、その方が余程、良かったと思う。
ピーターパンの本は失くしても。
目覚めの日に「家から持って出掛けて」、それきり二度と見付からなくても。
(……目覚めの日には、荷物は持って行けない決まりで……)
学校でもそう教えられたし、両親も「その日の朝」になってから注意した。
「荷物を持って行っては駄目だ」と、温厚だった父も、優しかった母も。
けれど、従わなかった自分。
「邪魔になるなら、検査の間は何処かに置くよ」と。
成人検査とは何かも知らずに、健康チェックのようなものだと勘違いして。
(荷物は検査の邪魔になるから、持って行くな、って…)
きっとそういう意味なのだ、と考えたから「宝物の本」を持って出掛けた。
目覚めの日を迎えて旅立つ子供は、家には帰って来られない。
次に両親に会える時には、四年以上経っているだろう。
教育ステーションで学ぶ期間は、四年間。
少なくとも「それ」を終えない間は、故郷に帰ることは出来ない。
だから「思い出」が欲しかった。
両親と一緒に行けないのならば、大切にして来た「ピーターパンの本」がいい。
父が「パパも昔、読んだな」と笑顔になった本。
母に何度も「シロエは本当に、その本ばかり読んでいるのね」と笑われた本が。
そう思ったから、鞄に詰めて家を出た。
「この本と一緒に行けばいいや」と、未来への夢を心に抱いて。
ネバーランドよりも素敵な地球に行こうと、いい成績で成人検査を通過しようと。
なのに、失くしてしまった「全て」。
ピーターパンの本だけを残して、他はすっかり消し去られた。
まるで「最初から無かった」ように。
両親も故郷も、何もかもが儚い夢だったように。
(……本だけは残ってくれたけど……)
他を覚えていないのだったら、この本も「辛い思い出」になる。
幸せだった頃の微かな記憶は、ピーターパンとセットだから。
「ネバーランドに行こう」と夢を見たことも、その夢が「地球」に繋がったのも。
(……パパが話してくれたんだよ……)
地球は素敵な場所なのだ、と。
「シロエなら行けるかもしれないぞ」と、「地球」という言葉を教えてくれて。
憧れの「地球」には近付いたけれど、代わりに失くしてしまったもの。
最高学府のE-1077には入学できても、「子供時代」は戻って来ない。
四年が経って卒業したって、メンバーズの道が待っているだけ。
故郷は思い出せないままで。
両親の顔すら忘れ去ったままで、「次の段階」へと進むだけ。
機械は記憶を、「けして返してくれない」から。
いつか機械に「ぼくに返せ」と命じる時まで、記憶は戻ってくれないから。
メンバーズに選ばれ、任務で故郷の星に行っても、家には帰れないのだろう。
「何処にあったか」、住所も忘れてしまったから。
残っている高層ビルの記憶も、外観などが曖昧だから。
(…ピーターパンの本にも、家の住所は…)
何処を探しても書かれてはいない。
ネバーランドへの行き方だったら、消えずに本の中にあるのに。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」と、記憶の中にも。
そんな記憶より、「家の住所」が欲しかったのに。
ピーターパンの本だけを持っているより、両親や故郷を忘れないままでいたかったのに。
(……この本があるから……)
自分は「シロエ」でいられるけれども、それは苦しいことでもある。
過去を手放さずに生きてゆくことは、此処では「良し」とされないから。
成長とは「過去を捨て去ること」で、SD体制の時代のシステムの要。
「過去にしがみつく」ような者は異端で、周りから脱落してゆくだけ。
誰も「過去」など求めないから。
苦しみもがいて縋り付かずに、未来へと歩むだけだから。
(…ぼくは間違えちゃったんだろうか…?)
あの日の朝に、「ピーターパンの本」だけを持って出掛けたことで。
禁止されていた筈の「荷物」を、一つだけ持っていたことで。
(もしも、この本が無かったら…)
記憶はすっかり書き換えられて、別の「シロエ」がいたのだろうか。
E-1077という場所に馴染んで、メンバーズの道を目指す「シロエ」が。
両親も故郷も忘れてしまって、過去に執着したりはしないエリートが。
(…そうなっていたら、楽だった…?)
きっとそうだ、と分かっているから辛くなる。
「そんな道」など、鳥肌が立つほどおぞましくても。
「全てを忘れてしまったシロエ」に、なりたいと思いはしなくても。
そうなれる道は「あった」のだから。
本を持たずに家を出たなら、きっと「忘れていた」だろうから。
(…この本を持って出てたって…)
機械の力が強かったならば、全てを忘れ去っただろう。
抗い、「嫌だ」と抵抗したって、テラズ・ナンバー・ファイブに負けて。
ピーターパンの本は残っていたって、「それが何か」は分からなくて。
(…ステーションに行く、宇宙船の中で…)
消えていた意識が戻って来たなら、自分は首を傾げたろうか。
膝の上にある本を眺めて、「この本は、何?」と。
『ピーターパン』と書かれたタイトルを読んで、パラパラめくってみたのだろうか。
その本が何の役に立つのか、意味はあるのかと考えながら。
そういうことになっていたなら、「ピーターパンの本」は、どうなったろう。
「シロエ」の記憶に、本が残っていなかったなら。
何度も触って確かめてみても、どうして本を持っているのか、全く覚えていなかったら。
(…きっと、みんなに訊いて回って…)
教官や職員たちにも尋ねて、その果てに得る答えは「こう」。
「ピーターパンの本」は、ただの『ピーターパン』というタイトルの「本」なのだ、と。
E-1077で使う教科書でもなく、参考書でもない「子供向けの本」。
(…そうなんだ、って分かったら…)
全てを忘れてしまった「シロエ」は、「ピーターパンの本」を捨ててしまっただろう。
「こんな本なんか持っていたって、何の役にも立たないよ」と。
それが自分の「宝物」だったとも知らないで。
「これだけは持って出掛けないと」と、規則を破って持ち出したことも思い出さずに。
(……そんなこと……)
ピーターパンの本を捨てる「シロエ」は「ぼく」じゃない、と震える肩。
それは「シロエ」とは違うシロエで、まるで全く「別の人物」。
そうは思っても、楽な道ではあったろう。
今の自分がそうなったように、涙が零れる夜などは無くて。
いつか行けるだろう「地球」を励みに、講義や訓練に打ち込み続けて。
そうやって目指す「素敵な地球」が、「ネバーランドよりも素敵な場所」とは気付かずに。
誰が自分に「地球」を教えたのか、それさえも微塵も考えないで。
(……そうなってしまうのと、今のぼくと……)
どっちが良かったんだろう、と「ピーターパンの本」を見詰めて考える。
答えは、いつも一つだけれど。
「忘れるよりは、今の方がいい」と。
どれほど苦しく辛い道でも、過去をすっかり失くすよりは、と…。
本があるから・了
※ピーターパンの本が好きだった記憶は「残っている」のがシロエですけど。
大事に持って来た本はあっても、肝心の記憶が無かったら…。何の本かも謎ですよね。
(…………)
ああ、とキースは「彼ら」を眺めた。
今日も「その時間」がやって来たのだろう。
強化ガラスの壁の向こうに、研究者たちの姿が見える。
水槽を満たした大量の水と、透明なガラスの壁を通して。
白衣を纏った一人の男が、水槽を向こう側から叩く。
まるで何かの合図のように、拳で軽く、コツン、コツンと。
(…………)
こちらは「見ている」ことしか出来ない。
周りに満ちた人工羊水、それの中では話せはしない。
口を開けても声は出せなくて、羊水が喉に、更に奥へと入り込むだけ。
もっとも肺まで入った所で、咳き込んだりはしないけれども。
「羊水の中で生きている」だけに、肺で呼吸はしていないから。
我ながら奇妙な生き物だと思う。
どういう仕組みで生きているのか、羊水の中で何故、生きられるのか。
胎児の時代ならばともかく、本来ならば、とうに「生まれた」後の肉体。
人工子宮から外に出されて、自分の肺で呼吸をして。
臍の緒から栄養を得たりはしないで、口から栄養素を摂って。
(……その臍の緒も……)
私には無いな、と改めて思う。
あるのは自分の身体一つで、水槽の中に浮いているだけ。
何処にも管など繋がっておらず、衣服さえも身に着けてはいない。
「生まれ出る時」を先延ばしにされ、もう胎児ではないというのに、胎児そのもの。
これは「そういう実験」だから。
三十億もの塩基対を機械が合成した上、それを繋いでDNAという名の鎖を紡ぐ。
「自分」は「無から作られた」もので、「その日が来るまで」水槽で育つ。
外の世界とは、何の繋がりも持たないままで。
生きてゆくための栄養も、呼吸も、知識さえも機械に与えられて。
いつか「理想の指導者」となるよう、進められているプロジェクト。
「キース」が立派に完成するまで、極秘の内に。
日々は水槽の中で過ぎてゆくだけで、何の会話も感慨も無い。
ただ、ぼんやりと浮いているだけ、こうして外を眺めているだけ。
「…今日も、そういう時間なのか」と。
「キース」の成長具合を見るべく、研究者たちが訪れる時間。
何かの記録をつけている者や、水槽を見上げて話し合っている者たちもいる。
いつも水槽を叩く男は、このプロジェクトのリーダーだろうか。
決まったように二回、「コツン、コツン」と叩いてくる。
「キース」の反応を見るように。
何も答えは返らなくても、きっと「何かが分かる」のだろう。
表情さえも変わらなくても、水槽の中で動くわけではなくても。
何故なら「彼らが作った」から。
機械が作った生命とはいえ、育ててゆくには人の手も要る。
「この生命」を維持してゆくには、膨大な作業が必要な筈。
強化ガラスの水槽にしても、マザー・イライザに「作れはしない」。
作れたとしても、「作るために必要だった機械」は、全て人間が用意したもの。
注文通りの部品を揃えて、必要な機材の準備もして。
何より、欠かせない「材料」。
水槽用の強化ガラスも、中に満ちている人工羊水も、ステーションでは調達できない。
マザー・イライザは「注文しただけ」、それ以上のことは何も出来ない。
E-1077を支配してはいても、所詮は機械なのだから。
このステーションから動けはしなくて、手足のように使っているのも「機械の一部」。
だから「キース」を作り出すには、「人の手」もまた欠かせない。
DNAを紡ぐ以前の時点で、塩基対を合成するための素材集めに使われた「人」。
そうして「キース」の形が出来たら、今度は生命の維持を助ける。
マザー・イライザには、出来ない部分をサポートして。
人工羊水の浄化システムやら、様々なものをチェックして。
「研究者たち」も、やはり「キースを作った」者。
最高の国家機密に関わり、E-1077に留まり続けて。
幾つもの失敗作から学んで、「完成品」の「キース」を作り上げるために。
なんという「生まれ」なのだろう。
まだ「生まれてはいない」けれども、いずれ此処から「生まれる」命。
「キース・アニアン」が成長し切った暁には。
一日に一度、水槽を叩きに来る研究者が、「これでいい」と判断した時に。
マザー・イライザの注文通りに、「理想の子」が出来上がったなら。
外に出すべき時が来たなら、「キース」は水槽の外に出される。
自分の肺で呼吸を始めて。
栄養は口から「食べ物」で摂って、大人に成長してゆくように。
(……私は、そのように作られたから……)
そのようにしか生きてゆけないのだな、と分かってはいる。
研究者たちが話す声さえ、この耳で聞いたことは無い。
彼らの名前を知りもしないし、水槽を叩く意味も知らない。
(……明日になったら、また来るのだろう)
今日と全く同じことをしに。
水槽をコツン、コツンと叩いて、何かのデータを記録したりして。
いつまでそうした日が続くのか、それさえも「自分」は知らないのに。
こうした「生まれ」が不自然なことも、まるで知らずに浮いているのに。
(……まるで知らない……?)
違う、と聞こえた心の声。
自分は「全てを知っている」から、こういう考え方になる。
けれども、それを何処で聞いたか、誰が自分に教えたのか。
ただ「浮いているだけ」の生命体には、それは不要な知識だろうに。
水槽から出される前の「キース」に、教えても意味は無いのだろうに。
(…何故だ?)
どうして私は知っているのだ、と冷えてゆく背筋。
表情さえも変わっただろうか、研究者たちが騒ぎ始めた。
水槽の方を指差して。
色々な計器を確認しながら、まるでパニックに陥ったように。
彼らの唇から読めた言葉は、こうだった。
「失敗作だ」と、「直ちに処分しなければ」と。
(失敗作…!?)
それに処分とは、と思った途端に、ゴボリと立ち昇った泡。
水槽の中の照明が落ちて、暗闇の中で息が出来なくなった。
そう、「人間」が溺れるように。
水の中では、呼吸など出来る筈もないから。
(……私を処分しようというのか…!?)
何故、と苦しむ時は長くは続かなかった。
サンプルにしようとしたのだろうか、苦悶の表情を浮かべないよう、注入された何かの薬物。
ただ陶然となった所で、意識は薄れて消えてしまった。
「キース」の命は終わったから。
新しい「キース」を作り出すべく、別の生命が用意されるから。
(……馬鹿な……!!!)
私が「キース・アニアン」なのだ、と上げた悲鳴で目が覚めた。
国家騎士団総司令の部屋で、夜の夜中に。
夜明けにはまだ遠い時間に、いつもと同じベッドの上で。
(……夢だったのか……)
ならば分かる、と思う「あれこれ」。
水槽の中に浮いていてさえ、自分の生まれを知っていたこと。
「キース」という自我を持っていたことも。
(…私は全てを知っているからな…)
E-1077を処分した時、フロア001で見て来た「全て」。
自分は何処から「作り出された」のか、どういう生命体なのか。
それを作った目的も。
人類の理想の指導者たるべく、様々な準備がなされたことも。
ミュウの長との接触があった、サムやスウェナといった友人。
それにミュウ因子を持った少年、セキ・レイ・シロエ。
「水槽から外に出された後」にも、まだプロジェクトは続いていた。
研究者たちは「消された」けれども、マザー・イライザが引き継いで。
「これから先は、機械でも充分、導いてゆける」と、計算ずくで。
そうして「生まれた」キース・アニアン。
今は国家騎士団総司令だけれど、いつかは国家主席になる。
マザー・イライザよりも上の機械が、そう決めたから。
宇宙を支配するグランド・マザーが、そのためのレールを敷いているから。
(…何もかも、人類のためなのだがな…)
その「私」が処分される夢か、と今の悪夢を思い出す。
珍しく寝汗さえかいているから、下手な戦場よりも酷かった夢。
「自分」が処分されるなど。
「失敗作だ」と断言されて、サンプルにされてしまうなど。
(……なんという……)
とびきりの悪夢というヤツだ、と額を押さえて、ふと気が付いた。
本当に悪夢だったけれども、それが「現実」なら、どうだったかと。
「キース」が処分されていたなら、その後は…、と考えてみて。
(…私があそこで処分されたら、次の「キース」の育成に…)
十数年はかかるのだろうし、全ては変わっていただろう。
サムもスウェナも「キース」に出会わず、幸せに生きていっただろうか。
もしも「キース」に関わらなければ、サムの人生も別だった筈。
E-1077などには来ないで、別の教育ステーションに行って。
(…養父母向けのコースに行ったら、パイロットになりはしないのだから…)
ジルベスターでの事故に遭いはしないし、今も元気でいただろう。
スウェナも平凡な道を歩んで、シロエも「マツカ」がそうなったように…。
(…誰にもミュウだとバレはしないで、私に撃墜されもしないで…)
何処かの星で、エリートとして生きていたかもしれない。
メンバーズにせよ、技術職にせよ、抜きん出た才能があったのだから。
(……さっきの夢は……)
もしかしたら私の願望なのか、と「自分の心」に苦笑する。
もしも「キース」が生まれなかったら、この後悔は、きっと無かった。
失敗作として処分されていたなら、誰も巻き込みはしなかった。
そう、「キース」さえいなかったなら。
サンプルにされてしまっていたなら、サムもシロエも、きっと平和に生きられたのに、と…。
水槽の悪夢・了
※いや、キースには水槽時代の記憶が微かにあるわけで…。こういう夢も見たかもね、と。
もしも「処分される夢」を見たなら、その願望があったんだろう、というお話。
※pixiv 撤収後、初のUPになります。今後は、まったり。
「ったく…。ジョミーは、なんとかならないのかい?」
まるで駄目じゃないか、と呆れ果てた顔をしているブラウ。長老たちが集った席で、お手上げのポーズを取りながら。
今日の議題は、ソルジャー候補の「ジョミー」について。
船に来て直ぐには何かと騒ぎを起こしたジョミーも、今はソルジャー候補ではある。毎日のように訓練に励み、サイオンを鍛えているのだけれど…。
「全く成果が上がりませんね…。本当に、どうすればいいのでしょう」
エラも悩むのが、ジョミーの現状。ヒルマンもゼルも、ハーレイだって。
「…破壊力だけは、あるんじゃがのう…。如何せん、コントロールが出来ておらん」
「集中力に欠けているのだよ。しかし、こればかりは、教えてどうなるものでもないし…」
ジョミーが自覚しないことには…、とヒルマンも考え込んでいる。「教授」と異名を取るほどの彼でも、ジョミーの指導は難しかった。「集中力」は「教えられない」だけに。
「困ったものだ…。ゲームのようにはいかないな」
キャプテンの眉間に刻まれた皺が深くなる。これがゲームのキャラクターなら、戦闘などの数をこなせば、能力がアップしてゆくもの。集中力がモノを言うなら、それだって。
ところがどっこい、「ジョミー」はゲームのキャラではない。集中力アップの戦闘は無いし、戦闘抜きでスキルアップなアイテムだって、存在しない。
ゆえに「どうにもならない」のが今、ジョミーのパワーは破壊力だけ。
ミュウの能力に覚醒した時、ユニバーサルの建物を半壊させた、あの力。それしか無い上、コントロールする能力さえ無い。トレーニングルームで「暴れる」だけのソルジャー候補。
「…こう、集中力がググンと上がるアイテムがじゃな…」
この船にあればいいんじゃが、とゼルまでが現実逃避を始めた。「滅多に出ないレアもの」だろうが、それがあるならゲットする、などと、ゲームよろしく言い出して。
「ちょいとお待ちよ、集中力のためにガチャをするのかい、アンタ」
やめておきな、とブラウが止めた。「課金は、お勧め出来ないよ」と、顔を顰めて。
実はシャングリラにも、その手のゲームは存在していた。なにしろ娯楽の少ない船だし、ゲームの類は欠かせない。射幸心を煽るガチャにしたって、キッチリある。
「…分かっておるわい。ワシはガチャには向いてはおらん」
システムを弄ってやらん限りは、ゴミしか引き当てられんでな…、とゼルは経験済みだった。船で人気が高かったゲーム、それのガチャで「すっかり」すってしまって。
「なんだって!? システムに細工をしたのか、ゼル!?」
それはキャプテンとして許し難い、とハーレイが睨んで、暫くの間、バトルになった。やたらとメカに強いのがゼル、ゲームのシステムに細工したなら、セコすぎるから。
「じゃから、一度しかやっておらんわい! ガチャに細工なぞ!」
「一回だろうが、百回だろうが、やったことには変わらんだろうが!」
もうギャーギャーと派手に喧嘩で、ブラウやエラは「我、関せず」と茶を啜っていた。ヒルマンも喧嘩を横目で見ながら、「小休止か…」と苦笑い。
議題はジョミーの話からズレて、ガチャの確率がどうのこうのと、激しく低レベルな争い。ゼルに文句をつけたハーレイ、彼も直接システムを弄りはしなかったけれど…。
「同じ穴のムジナと言うんじゃ、それは! 当たりの確率を上げさせたなどは!」
「やかましい! あれはキャプテン権限だったし、正当なのだ!」
船の仲間の士気を上げるのもキャプテンの役目、というのがハーレイの言い分。ガチャでレアものが当たる確率、それを期間限定でアップさせるのも仕事の内だ、と。
シャングリラの中では数少ない娯楽、たかがゲームでも侮れない。期間限定でガチャの「当たり」が増えるのだったら、士気が高まる。
「サッサと今日の仕事を終わらせて、ガチャをしないと」といった具合に。ゲームをプレイできる時間を確保しないと、ガチャをすることが出来ないから。
現に劇的に高まるのが士気、機関部だろうと、農場だろうと。
そのために「ガチャの当たりの確率を上げろ」と指示していたのが、キャプテン・ハーレイ。仕事には違いなさそうだけれど、ゼルにしてみれば…。
「そう言うお前も、たまにゲームをしておるじゃろうが! そこが問題じゃ!」
ガチャに有利な期間だけではあるまいな…、というツッコミ。普段は「ゲームをやっていない」のに、有利な時だけ参戦するなら、「自分のために」ガチャを弄っているも同然、と。
「…うっ…。しかし、同じゲームをするのだったら、やはり有利に進めたいもので…」
「お前の仕事が暇な時を狙って、確率アップの期間を組むんじゃろうが!」
このクズめが、とゼルが食って掛かって、ハーレイの方も負けてはいない。「私は、全財産をすってしまうほど愚かではない」と、「ガチャで全部すった」ゼルを詰って。
「すってしまって懲りた輩に、文句を言われる筋合いはない!」
「なんじゃと、公私混同のデカブツめが!」
やる気か、とゼルがファイティングポーズを取った所へ、不意に思念が飛び込んで来た。
『ガチャがいいだろう』と、青の間から。
「「「ガチャ?」」」
それはいったい…、と止まったバトルと、茶を啜るのをやめたブラウたち。
青の間から思念を飛ばす者など、このシャングリラには一人しかいない。青の間の主で、ミュウたちの長の「ソルジャー・ブルー」の他には、誰一人として。
思念を寄越したソルジャー・ブルーは、「ガチャだ」と思念で繰り返した。
『ゼルは全財産をガチャですったし、ハーレイは当たりの確率を上げさせたのだろう?』
「そ、そうじゃが…。そうなんじゃが…」
「はい、ソルジャー。ですが、私のは仕事の範囲のことでして…」
公私混同はしておりません、と言い訳しつつも、ハーレイの顔色は悪かったりする。本当の所は「ちょっとくらいは」、入っていたのが私情だから。「この期間なら私も暇だ」と、当たる確率アップの期間を決めたりして。
『…ガチャはシャングリラの士気を上げるし、立派なアイテムだと思うんだが…?』
ジョミーの集中力をアップさせるのにも使えそうだ、とソルジャー・ブルーは、のたまった。
曰く、ジョミーに必要なものは「集中力」と同時に「やる気」。
ジョミーが「やるぞ」と思いさえすれば、集中力は後から「ついてくる」もの。よって、今後の訓練については、ガチャの要素を導入すべし、と。
「ガチャですか…?」
ジョミーはゲームをしていませんが、と答えたハーレイ。
まだ駆け出しの「ソルジャー候補」は、サイオンの特訓に、ミュウの歴史やその他の座学と、まるで暇など無い状態。
だからゲームなど出来るわけがないし、ゲーム機も貸与されてはいない。そんなジョミーが、何処でガチャを…、とハーレイも、他の長老たちも、まるで全く掴めない意味。
ゲーム機も無いのに、ガチャは出来ない。それにゲームをする時間も無い、と。
『…だからこそだ。ジョミーにゲーム機を与えたまえ』
遊びすぎで廃人にならない程度の、ゆるいゲームを開発して…、とブルーは言った。一日のプレイ時間が十五分もあったらオッケーなゲーム、それを急いで開発させろ、と。
「「「…十五分?」」」
『そうだ、十五分だ。ジョミーの暇は今、そのくらいが限度だろうから』
でもって、其処にガチャを組み込め、というのがブルーの指図。ジョミーが全財産をブチ込みそうな、レアなアイテムを、ガンガンぶっ込んで。
『ジョミーが燃えそうなゲームを頼む。ついでに、ガチャの当たりの確率は下げろ』
全財産がパアになっても、まるで当たりが引けないほどに…、とブルーの笑いを含んだ思念。その状態でも、ジョミーは「ガチャをやりたい」だろうし、其処が狙いだ、と。
「は、はあ…。ですが、それとジョミーの集中力の関係は…?」
解せませんが、とハーレイが訊くと、ブルーはクスクス笑い始めた。
『まずは、ジョミーはゲームをやりたい。…プレイ時間を確保しないと駄目だからね』
「…そうじゃろうな。ハーレイも自分の都合に合わせて、ガチャが有利な期間をじゃな…」
キャプテン権限で決めておったほどじゃし、とゼルが頷く。「プレイ時間が無かった場合は、ガチャをやる以前の問題じゃ」と。
『そうだろう? ゲームの時間を長く取りたければ、訓練を早めに終えるしかない』
好成績を上げた場合は、時間短縮になるのだから、とのブルーの指摘。サイオンの訓練で点数が低いと「やり直しだ!」と怒鳴られるけれど、高得点なら「一回で終わる」時もある。
「…ゲームのためにと、得点がアップするのですか?」
確かにあるかもしれませんが…、とエラが頷き、ブラウもヒルマンも否定しなかった。サッサと終えて「ゲームをしたい」と思う気持ちが、ジョミーの「やる気」をググンとアップで、その結果として、集中力もアップかも…、と。
『その通りだ。…座学の方にしても同じで、ノルマをこなせば終わるのだから…』
居眠ったり愚痴を零しているような暇があったら、その時間をゲームに回すだろう、とブルーの読みは深かった。プレイ時間の捻出のために、ジョミーは努力する筈だ、と。
「で、では…。ガチャの確率を下げるというのは、どういう意味が…?」
全財産がパアになったら引けませんが…、というハーレイの問いに、ブルーは「常識で考えたまえ」と返して来た。
『全財産をすったジョミーが、それでもガチャを引きたいのなら…。誰に縋れる?』
この船でジョミーに「金」を貸しそうな面子は誰だ、とのブルーの質問。全財産をすった後には、借金一筋なのだけれども。
「借金ですか…。我々くらいしかいないでしょうが…」
懐に余裕がありそうなのも、ジョミーが無心できそうなのも…、とハーレイが顎に手を当てる。長老の四人とキャプテンの他には、借金を頼めそうにもないのがジョミー。
なんと言っても、船に来てから、まだ日が浅い。若いミュウからは総スカンのまま、古参の者たちも相手にしてはくれない。「ソルジャーを半殺しの目に遭わせた」ジョミーなんかは。
『君たち五人と、ぼくくらいしかいないだろう。…ならば、どうなる…?』
そういう面子に借金するなら、悪い成績では頼めはしない、とブルーは笑った。全財産をすった後には、ガチャをやるために「成績アップ」で、集中力を上げるしかない、と。
「…仰る通りかもしれません。では、急いでゲームを開発させます」
『頼んだよ、ハーレイ。…ジョミーの育成は早いほどいい』
使えるものなら、ガチャでもいい、とブルーの思念は「ガチャ」をプッシュで、ソルジャー直々の命令とあって、凄い速さで「ジョミー好みの」ゲームが船で開発されて…。
「えっ、ゲーム機!? ホントにいいの!?」
これで遊んでかまわないわけ、と感激のジョミーに、ハーレイが重々しく告げた。
「ソルジャー・ブルーの御命令だ。君にも娯楽は必要だろう。そして、これがだ…」
近日、リリース予定のゲームで、君も気に入ると思うのだが…、とハーレイが勧めた「ジョミーを夢中にさせるための」ゲーム。只今、事前登録受け付け中で、登録すればガチャが一回分のアイテムが入手できるとあって…。
「ありがとう、キャプテン! 早速、これから始めてみるよ!」
面白そうなゲームだから、と説明に見入るジョミーは「知らない」。それがジョミーを「陥れる」ために開発されたゲームだなんて。
プレイ時間の捻出のために頑張りまくって、ガチャを引くための借金目当てに、好成績を上げてゆくよう、計算されているなんて。
かくして数日後に、ゲームは船でリリースされた。船の仲間も夢中だけれども、ターゲットになったジョミーにとっては、ストライク直球ド真ん中で「燃える」素敵なゲームなだけに…。
「おおっ、満点じゃ! 今日の訓練は上がっていいぞ」
「分かってる! 講義までの間に、ちょっとだけ…」
今はガチャが当たる確率、高い筈だよ、と引きまくるジョミーは、直ぐに借金まみれになった。ゼルにヒルマン、ブラウにエラにと借金しまくり、ついには青の間に走って行って…。
「ブルー! ソルジャー・ブルー!!」
次の訓練では、満点を三連発で出しますから…、と土下座で申し込む借金。「ガチャのお金を貸して下さい」と、カエルみたいに平伏して。
「…いいだろう。もしも、満点を五連発で出せた場合は、貸すのではなくて…」
ガチャを十回分の資金をプレゼントだ、とブルーに言われて、ジョミーは歓声を上げて走り去って行った。「頑張ります!」と、熱意溢れる表情で。
(…満点を五連発で出したら、ガチャ十回分、プレゼントだよ…!)
頑張るぞ、と駆けてゆくジョミーは、まだ知らない。
立派な「ソルジャー候補」になるよう、ゲームとガチャに「釣られて」踊らされていることを。ガチャの確率から何から何まで、計算ずくだということを。
けれども船では結果が全てで、ジョミーも「楽しんでいる」のだからいい。
ゲームで遊んで、ガチャに燃えたら、集中力がアップだから。立派なソルジャー候補への道、それを真っ直ぐ走ってゆくのがジョミーだから…。
楽しみなガチャ・了
※ナスカの子たちがゲーム機で遊んでいたっけな、と。アニテラ放映時には無かったガチャ。
今ではすっかり「常識」なわけで、ジョミーに課金させてみました。ブルー、策士だ…。
